10-14-とまり木の翡翠亭

 とまり木の翡翠亭に招かれた俺は、床でじゅうぶんです、とかたくなに着席を遠慮するオルハとミーナをどうにか木製のスツールに腰掛けさせ、テーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろした。


 以前、藤間くんのお見舞いに亜沙美たちとこの宿を訪れたことはあったが、食堂に通されたのは初めてだ。


 奥行きのある建物なのだろう、食堂は外観よりも広く感じる。


 木で出来た焦げ茶の壁からはぽつぽつと横倒しの木が伸びていて、この宿の煙突にあったものと同じように、やはり猫耳をあしらった飾りつけがされている。


 食堂の奥には赤いじゅうたんが敷かれた小上がり席まで設置されていて、その隣にある通路から、両手に皿を持った女将さんとココナが現れた。


「昼には早いけど、遠慮なく食べてよ。残りもので悪いけど」


 卓上に並べてくれた四枚の皿には、揚げものを挟んだ長いバゲットが載っていて、ひと口で食べやすいように4cmほどの等間隔に切りそろえられている。


 オルハはそれに視線をやったあと、まるで自分とは関係のないことだとでも言うように、また無表情に戻ってしまった。ミーナに至っては、俯いたまま皿を見ようともしない。


「ユーマ、命令してあげないと」


 隣に座ったココナが肘で脇腹を突いてくる。それに一礼し、俺を挟むように隣からスツールを持ってきて腰掛けた女将さんにも礼を告げ、


「オルハ、ミーナ、食べなさい」


 俺が慣れぬ命令を下すと、ふたりは顔を見合わせて、どうして、といった視線を送ってくる。


「私たちは、ご主人様が残されたものがありましたら頂戴します」


 オルハはそれだけ告げてから、まるでスイッチを切ったかのように目から光彩を消した。

 ミーナは慌てて顔を伏せる。そこで俺は、ミーナが顔を伏せている理由に気がついた。


 シャワーを浴びたあとのふたりは、黒ずんだ髪が空色と桃色に変わり、白い肌を取り戻した。


 買ってきたコモンシャツやコモンパンツ──いわゆる『防具』は装備した時点でそれぞれの体型に適応するようサイズが変更され、ふたりの身体にフィットしている。

 だからこそ、病的に窪んだふたりの腹部が痛々しいほどの空腹をもの語っている。ミーナが食べものを視界に入れようとしないのは、きっと、空腹を加速させるからなのだろう。


「少なくとも俺の前では遠慮はいらないよ。……じゃあ、もう一度命令するね。ふたりとも、お腹がいっぱいになるまで食べて」


 もう一度そう命じると、ようやくふたりはバゲットに手を伸ばしはじめた。

 おそるおそる口元へ運んだそれをゆっくりと咀嚼してゆく姿を見て、ようやくほっと一息ついた。


「おいしいでしゅ……おいしいでしゅ……」


 ミーナは目に涙を溜めながら、せきを切ったように両手でパンを掴み、口のなかへ詰めてゆく。

 オルハは目を細めながら背をさすり、ミーナをたしなめる。そんな光景を眺めていると、女将さんに肩を叩かれた。

 

「ココナ、この子たち見ててくれるかい? ユーマ、ちょっと」


 オルハたちから離れたテーブルの椅子を引かれ、促されるまま着席すると、隣に座った女将さんは俺に顔を近づけ、声を潜めてくる。


「ココナから聞いた。……ごめん。ウチのベッドを使え、って言いたいところだけど」


 ああ、やはり、と残念に思ったが、こればかりは仕方ない。女将さんに手を振って応える。


「……たぶん、どこに行っても奴隷をベッドに寝かせてくれるところなんてないよ。そもそも奴隷を買う人間なんて、家持ちくらいさ。それでも寝床は離れにある奴隷小屋だろうけれど。……あ、ごめん」


 女将さんの表情からは、なんとかしてあげたいけれど、どうしようもできないといった忸怩じくじたるものが滲み出ている。いまはそれがありがたかった。


 しかしそれと同時に、ふたりに寝床を用意することがどれだけ難しいかを痛感した。


 そもそも──


「ユーマはさ。奴隷を買って、どうするつもりだったんだい?」

「それ、は」


 そう。女将さんの疑問は、俺の疑問に相違なかった。


 女将さんは、話してごらんよ、と優しい顔を向けてくれる。

 それはまるで、父や母のようだった。


「放っておけなくて。あのふたりも、自分のことも」


 オルハとミーナに出会ってからのことを女将さんに話すと、彼女はうんうんと何度も頷きながら、静かに聞いてくれた。


 あの奴隷商から解放したかった。

 ラカシュという貴族に買われるなど考えたくもなかった。


 結局のところ、俺は奴隷が欲しかったわけでも、ふたりが欲しかったわけでもない。


 ココナにも言ったように、俺が俺であるために買ったんだ。


 刹那の感情に身を任せ、短絡的に、思慮なく、後先を考えずに買った。


 解放さえしてしまえば、あのふたりは自由に生きていけると思った。



 ……この先、俺があれこれしなくても。

 


 これのどこが正義だ。

 それこそ自己満足じゃないか。


 免罪符を得るための自己主張。

 正しさを基にした自分勝手な酩酊めいてい

 己の欲だけを満たそうとするマス・ターベイション。


 結局のところ、俺は、自分の正義の証明と、内田くんとの夢の続きと、そして藤間くんへの劣等感の払拭をすべて一緒くたにして、二枚ぽっちの大銀貨で買っただけなのではないか。


 胸中にこびりついたヘドロのような懊悩を俺が吐露し終えるなり、女将さんはため息をひとつついて、真面目だねぇ、と微笑んだ。


「ユーマの言う正義ってさ。誰から見た正義? 誰のための正義?」

「え……」


 女将さんの言葉は突拍子もなく、俺の脳を揺さぶるのにじゅうぶんだった。

 誰から見た正義。誰のための正義。


 俺の正義とは、弱きを守り、悪をくじくこと。

 警察官であった祖父も、現職警察官の父も、モニターの向こう側にいるヒーローもそうだった。


「正義とはなにか、なんて、その人によって違うよ。そして、正義にはカタチがない。見えないものなんだから、似せてレプリカをつくろうとしても、どうしても自分の価値観とずれてしまう」


 俺の正義は、祖父や父、あるいは特撮ヒーローを似せたもの──そう言われている気がして、胸が痛んだ。


 祖父なら、父なら、ヒーローたちならどうしただろうか。

 その答えがまったくわからないから、俺はいまこうして悩んでいるのだろうか。


 もしかして、俺が怯えているのは──


「前例がないことをするって、怖いよね」


 笑みを崩さぬまま、じっと俺の目を見据える女将さんの視線とその言葉はまぎれもなく正鵠せいこくを射て、俺の胸を撃ち抜いた。


「奴隷を買う異世界勇者はいままでにもいたよ。でも、家を持たず宿ぐらしの勇者とは相性が悪いみたいで、結局捨てるか、その前に勇者自身がこの世界から消えちまうんだ」


 野良となった奴隷は食べることもできず、そのまま死んでしまうか、ふたたび奴隷商館へ帰ってゆく、と女将さんは続けた。


「ユーマは自分の正義とは食い違うから、ってこれから先もうじうじ悩み続ける? それとも、異世界勇者が奴隷を買って何が悪い、って開き直る?」


 俺の、正義。

 祖父や父、ヒーローからの借りものではない、俺の、正義。


 結局のところ俺は、人工的に舗装された小奇麗な道路を歩んできただけだった。

 もめごとが起こらない安全な道を指さして選び、調和を優先し、ヒーローの真似事をするための仮面をつけていただけだった。



「俺には、どちらも無理そうです」

「へぇ……?」


 なにかを期待するように、女将さんの口角がにっと上がった。


「この街を、変えたい。人間にこころを捨てさせる、この街を」


 著しい貧富の差や奴隷制度はこの街の日常として浸透している。

 どうやって変えるかなんて、想像もつかない。


 ──でも、この言葉は間違いなく、俺の胸に入ってきて、奥深くにどっしりと居座った。


 大きく出たね、と、女将さんは笑うでも茶化すでもなく頷いて、


「んじゃ、まずはあのふたりのこころを取り戻さなきゃね」


 俺に笑いかけて立ちあがる。

 続こうとする俺を手で制し、ちょっと待ってな、と食堂から早足で出ていった。


 扉近くのテーブルではオルハとミーナが巨大なバゲットを半分ほど平らげたところで、それでも食欲が落ちないふたりを、テーブルに両肘を乗せたココナがにこにこと眺めている。


 こうしてみると、三人姉妹のようだ。

 地味でありながら新しい衣服に身を包んだふたりを奴隷たらしめているものは、首に巻かれた忌まわしい漆黒の首輪だけ。


 あの首輪さえ外すことができればきっとふたりは人間として生きられるはずだ。


 まずは宿探しからだ。

 ココナも女将さんも奴隷を寝かせてくれる場所なんてない、と言っていたが、もしかしたらホビットたちならば泊めてくれるかもしれない。根気よく何軒でも訪ねてみよう。


 誓いを新たにしながら三人の様子を眺めていると、女将さんがポニーテールを揺らしながら戻ってきた。


「ユーマ。アーク、って知ってるかい?」


 ふたたび俺の隣に座った女将さんは、こぶし大ほどの透明なボールのようなものを持っていて、よく見ると球体のなかには島を模したようなミニチュアが浮いている。はじめて聞いた単語に俺は首を横に振った。


「アークってのは、空に浮かぶ個人用の小さな島さ。金持ちが別荘として使ってることが多いんだけど、ずっと昔、偶然手に入れてね」


 これはアークの所有者であることを示す証であり、いま自分が所有しているアークがどんな状態なのかを映すイメージスフィアみたいなもんさ、と様々な角度からミニチュアを見せてくれる。


 下部は円錐を逆さにしたような土。上部である丸い台地の半分を焦茶色の小屋が占め、残り半分を畑を思わせるむき出しの地面と、生い茂る草で分けあっている。


「見ての通り、こぢんまりとした小屋と畑くらいしかないけど、小屋の中には三人分の寝床がある」


 三人分の寝床という言葉に、思わず目を見開いた。それはいま、俺が一番欲していたものだったから。


「長年使ってないから荒れ放題でさ。面倒なことに、綺麗にするには実際アークに飛んで、草刈りとか整地とかしなきゃならないんだよ。……で、ここからが本題」


 女将さんはそう言って身を乗り出してくる。


「ユーマたちもこのアークに跳べるようにしてあげるからさ。ここ、綺麗にしておいてくれないかい? 期間はとくに設けない。ユーマかアタシ、どちらかが不要になるまででいいよ。管理報酬は一日50カッパー」


 ここまできて、俺はようやく女将さんの言わんとすることが理解できた。


「……管理している期間中は、小屋を使っても、いいですか」


 声が震えた。

 俺の反応を見て、女将さんは悪戯いたずらっぽく猫耳をひょこひょこ と揺らし、にかっと笑みを見せる。


「その場合、宿泊料で50カッパー頂戴するよ。ウチ、三人部屋は50カッパーなんだ」


 女将さんの言葉の優しさに、オルハとミーナを人間として見てくれていることに感極まってしまい、慌てて顔を伏せた。


 ありがとうございます、と礼を述べてしまえば、言葉と一緒に涙まで流れてしまいそうだったから、なにも言えなかった。



 思えば、ずっと、自分を殺してきた。


 ヒーローの背中を追い続け、夢を見て、こうするべき、こうあるべきと祁答院悠真じゃない祁答院悠真を続けてきた。


 困っている人を助け、悩んでいる人を慰め、与え続ける人間になりたいと、そうでなければいけないと自分の人生を杓子定規に決めつけた。


 そんな俺がはじめて自分の道を曲げ、悪路に足を踏み入れて、ただの祁答院悠真になったとき、自分はこんなにも弱かったのだと気がついた。


 人間は、救う側と救われる側に分かたれているわけではなく、きっと誰しもが支えあって生きているのだと頭では理解している。


 それでも救う側に回り続けようとした俺は、こうして手を差し伸べられてはじめて、自分も悩みを背負って生きてきたひとりの人間だったのだ、と肩の力を抜くことができた。

 

 俺がいまこうして涙をこらえているのは、いままで仮面をつけていた俺が泣くのはおかしいから。

 仮面から涙が流れるなんておかしいからという、最後の抵抗だったのかもしれない。


 俺はこれが雇用契約の形をした、女将さんの優しさだということを知っている。



 だから。



 ありがとうございます──

「お引き受けします。よろしくお願いします」



 ありったけの感謝を込め、しかしそれを承諾という形の言葉に変えて返した。


 そうして仮面を脱いだとき、純朴な疑問がうまれる。


「これは女将さんの正義、なのでしょうか」

「違うよ」


 ぴしゃりと言いきられ、戸惑いを覚えながら「ではなんでしょうか」と問い直す。



「ウチはとまり木。アタシがどうこうじゃなく、ユーマが飛び疲れて、翼を休めにきただけだよ」



 女将さんは背にした壁から伸びた、横倒しになった木を親指でさす。


「いい、名前ですね」

「だろ?」


 女将さんが自慢気にふんすと胸を張ると、思わず俺の口からも笑みが零れた。


「さ、アークの使いかたを説明するよ。……でもその前に、ユーマも食べな。腹減ってる、って顔してるよ」


 そう言われ、空腹に気がついた。

 テーブルに目をやると、穏やかに食事をするオルハと、バゲットがもうひと切れしかないからか、残念そうに口を引き結ぶミーナがいて、


「ミーにゃん、よかったらココにゃんのひと切れあげるにゃ♪」

「あ、あ、あ、あの、そんなわけにはいかないでしゅ……! で、で、でも、ほんとう、でしゅ……?」


 ココナがうれしそうに「にゃふふ」と笑いながらミーナの皿にみずからのバゲットをひと切れ移すと、ミーナは目を丸くして、やがてきらきらと輝かせた。


 彼女たちが腰掛けているスツールが、俺にはとまり木に見えた。

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