10-12-正義、悪をなして巨悪を討つ

「10シルバー」


 自分の声がやけに大きく聞こえたのは、人間に値段をつけるという禁忌を犯しているからか、それとも、自ら悪に踏み込んでゆく一歩がこの身には大きく感じたからなのか。


 俺が声をあげたことで、貴族の登場で勢いをなくした民衆はその場で固まったように呆然とこちらに視線を向けている。

 そんななか、細い目をした痩せぎすの男──奴隷商は慌てた様子で俺の耳に顔を近づけてきた。


「ちょ、ちょっと、困りますよお兄さん……!」


 値段のつりあげは彼にとって喜ばしいことのはずなのに、なにが困るというのか──冷や汗を垂らす彼にそれを訊くほど、俺は鈍感じゃなかった。


「貴様、わしが誰かわからんのか」


 言うまでもなく、原因はラカシュと呼ばれた、金をあしらった緑のマントに身を包む、この貴族だ。


「あいにくと、こちらに来てまだ日が浅いもので」

「ふん。異世界勇者か。ものの価値もわからんヤツめ」


 視線の高さ自体は俺のほうがずいぶん高かったが、ラカシュは低い位置から俺を見下すようにぶ厚い胸を張る。


「これからもこの街に居座るつもりなら、わしにたてつくとろくな目にあわんぞ」

「たてついたつもりはありません。それで、どうしますか? 俺は10シルバーとコールしましたが」


 ラカシュの顔が紅潮した。同時に、ボディガードだろうか、銀の装備に身を包んだふたりの男がラカシュの後ろから一歩踏み出して、俺を睨みつけてくる。


 彼らの暴力を軸とした存在も、ラカシュの権力を軸とした恫喝も、不思議と俺に微塵の恐怖も与えなかった。

 きっと、そんなものよりも、己の正義という軸がぶれていたことと、それを支えるために踏み出した悪への一歩のほうが、よほど俺の心胆を寒からしめた。


「貴様……」


 ラカシュは忌々しげに舌を鳴らし、俺と奴隷商人、そして檻の中で虚ろな目をしたふたりに視線を巡らせて、コールを迷っている様子だった。


 それは無論、金がないからということではないだろう。

 表情からは、相場を超える買いものはしたくない。しかし目の前の小僧に譲るのも癪だ、という、醜い矜恃のせめぎあいが見てとれる。


「10シルバー1カッパー」


 どうやら俺に譲りたくないという思いが勝利したらしいが、その割にはあまりにもせせこましい価格のつりあげだった。

 彼はそれを恥ずかしがることもなく、むしろ倹約こそ金持ちの秘訣だと誇るように、ふたたび胸を張ってみせる。

 俺はそのことにどうこう言うつもりはないが、誰かの人生を1カッパーぽっちで刻みながら胸を張るという、人道に反する浅はかさに苛立ちが募った。


「さ、さあ、10シルバー1カッパー! これ以上はおりませんね? ではこれにて……」


 奴隷商は俺を視界に収めないように背を向けたまま、早口にそうまくしたてるが、台車を囲む人混みからざわめきが起こり、彼はおそるおそるといった様子で俺を振り返った。


 彼の目に、手を挙げる俺の姿はどのように映っているのだろうか。



「20シルバー」

 

 

 ひぇぇ、という声が聞こえた。……どうやら、彼には俺が悪魔に見えるようだ。


「……キチガイだったか」


 ラカシュは唾を吐くようにそう言ってから、俺の懐を痛めることができた満足感からか、じっとりとした笑みを浮かべ、


「帰るぞ」


 護衛を引き連れてのっしのっしと去っていった。


 奴隷商と人だかりは俺よりも前に出て、ラカシュの背中が角を折れて見えなくなると、誰もがほっと息をついた。


 小銭袋を確認すると、残金は28シルバーほど。ラカシュがここで引き下がってくれてよかったと、安堵がため息となって漏れた。

 そんな俺に奴隷商がためらいがちに近づいてくる。


「あ、あのぅ……本当に20シルバーお支払いいただけるので?」


 20シルバー……大銀貨を二枚差し出すと、奴隷商は目を輝かせた。


「はい、たしかに。……それにしても、どうしてこんな大金をお出しになる気に?」


 俺は奴隷の相場を知らないし、知りたいとも思わない。

 人間に値段をつけるなんて、あってはならないことだから。


「意味が、あったからです」


 1カッパーで細かく刻まれてゆくふたりの立場と感情を考えると、せめて彼女たちが刻まれる回数を減らしてあげたかった。

 もしも金額が彼女たちのいのちを評価するものであるのなら、せめてそれが高額であることに救いを見出してほしかった。


「意味、ですか? ええ、ええ。ラカシュさまもそれでお諦めに」


 奴隷商はなにか勘違いをしているようだったが、正直、彼があそこで諦めてくれて助かった、という思いもあった。


『妹のほうはどこかに捨てても構わんのだろう?』


 彼の態度から、この言葉が冗談だとはとても思えなかったから。


 人だかりは俺に「やるじゃねえか兄ちゃん!」と声をかけて方々ほうぼうに散っていった。


 奴隷商が檻の鍵を開けて「出ろ」と短く声をかけると、ふたりはよろよろと台車に足をかけ、よたよたと石畳に降り立った。

 やはり裸足だった──俺が彼女たちの境遇をふたたび不憫に思ったとき、ふたりはむき出しの膝を地面につけ、深々と頭を下げた。


「お買いあげありがとうございます。精一杯尽くさせていただきます」


 背の高いほう──きっと姉だろう──がそう言うと、妹もたどたどしい口調で続いた。


「ふたりとも一通りの言語学習はさせてありますが、妹のほうはちょっと滑舌がよろしくありませんで……あの、お客様?」


 ふたりの前に片膝をつくと、奴隷商は戸惑った声で俺に駆け寄ってきた。


「もう大丈夫だよ」


 声をかけるとふたりは顔をあげ、虚ろな瞳に色を宿し、驚いたように視線を彷徨わせ、やがて顔を見合わせた。


「よく頑張ったね」


 ぽかんとするふたりの肩に手を置く。

 どういうことなのかわからない、といった顔をしたふたりだったが、妹の目にみるみると涙が溜まりはじめた。


「貴様、なにをやっとるかっ!」


 奴隷商の怒号が響き、妹の身体がびくんと跳ねた。

 いつの間に取り出したのか、奴隷商の手には鞭が握られている。


 妹が目を閉じて頭を下げた。

 姉が膝立ちのまま飛び出して、妹を庇う。



 ──鞭は、振るわれなかった。



「ひぃっ……!」



 奴隷商は俺の顔を見て、身をよじらせ一歩後ずさる。


「そういうのは、必要ないよ」


 自分の口から出た言葉は、驚くほど冷たかった。

 ふたりに向き直り、できるだけ優しく努めて声をかける。


「もう怖くないよ。きみたちももう、そうやって頭を下げなくてもいいんだ」


 戸惑うふたりを立ち上がらせる。

 近くで見ると、ふたりの身体にはいくつもの鞭の痕がこれまでの不遇を痛々しくもの語っていた。


「俺は祁答院悠真だよ。ふたりとも、名前は?」


 俺はなにか変なことでも訊いてしまったのだろうか、ふたりの目が大きく見開かれ、やがてふたたび陰鬱いんうつな影を落とす。

 姉が生気のない唇から、勇気を奮い立たせるようにして声をもらした。


「発言してもよろしいでしょうか」

「えっ」


 後ろにいた奴隷商を振り返ると、先ほど睨みつけてしまったからだろう、身体をぴくりと震わせてから、あなたに訊いているのですよ、と上にした手のひらを突き出してきた。


「喋るのに俺の許可はいらないよ。これからずっと」


 このふたりは俺が口を開くたび、いちいち驚いたような顔をする。

 これまでの人生がどんなものだったのかは俺にはわからないけれど、それだけでどんな扱いを受けていたのかは察することができた。


「私たちに名前はありません。……奴隷ですから。識別番号なら──」

「いや、大丈夫」


 遮るように言葉を被せたのは、その先を聞きたくなかったのか、これ以上ふたりに暗い表情をさせたくなかったのか。

 そうしておいて、俺は戸惑うふたりの顔を見比べて、数秒考えてから口を開いた。


「……そうだな。きみはオルハ。きみはミーナ。……どうだい?」


 俺がそう言っても、ふたりは深い二重ふたえを見せつけるようにするばかり。


「名前だよ。俺がそう呼びたいから、いまつけた。不服かい?」

「いえっ、ふ、不服など」


 いまのこのふたりは、俺がなにを言っても首を縦に振るだろう。


「じゃあ選んで。ふたりは名前で呼ばれるのと、番号で呼ばれるの、どっちがいい?」


 突拍子もない質問に、ふたりは目を泳がせる。


 質問の主が俺だったからだろう、救いを求めるような視線は奴隷商に向けられた。

 しかし奴隷商が応えたのはふたりにではなく、俺。


「お客様、奴隷に選択の権利を与えるなど……」


 さっきのことがあったからか、奴隷商の言葉は尻すぼみになって消えてゆく。


 きっとこの世界における奴隷とは、感情という感情を無理やり廃棄され、そうなるようしつけられた、究極の指示待ち人間なのだろう。


 だから、選べない。

 その権利がないから。

 選ぶという行為をしたことがないから。


 思いきり歯軋りしたい感情を抑える。


「じゃあ順番を変えようか。最初からこっちを先にするべきだったね」


 ふたりにそれだけ言って、奴隷商に向き直る。


「すみません、ふたりの首輪と鎖を外してあげてもらえますか」

「はぁぁぁぁぁぁぁ!?」


 跳びあがって驚きを表現する奴隷商。


「いまからお客様とリンクするところだったのですが、それですとリンクどころか、奴隷ではなくなってしまいます」

「それでいいんです」


 奴隷商は心から得心しない様子で俺の顔をまじまじと見つめ、なにか言いたそうに口もとを動かした。

 奴隷商が口ごもる言葉をふたりに聞かせないほうが良いと判断し、ふたりから十歩ほど離れた場所へ移動すると、奴隷商は気まずそうに俺についてきた。


「その、ですね。あ、あはは、さすがに私の勘違いだと思うんですけど……」

「なんですか」


 このとき、場所を移した俺の判断は間違いではなかったと、奴隷商の言葉で知ることになる。




「まさかお客様は、あの奴隷をモノではなく、人間だと勘違いしてないですかね……? あ、あはは、まさかさすがにそんなことはないですよね、失礼しました」

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