10EX-月下濫觴

10-07-浮船(うきふね)-たとえこの背に翼はなくとも-

 幼いころ両親に、地元の金沢市内にある薔薇園に連れていってもらったことがある。

 赤だけでなく、ピンク、白、黄色と色とりどりの鮮やかな薔薇が咲き誇っていた。

 薔薇の花言葉は花の色ごとに違って、本数によっても大きく異なることを知ったのもあの場所だったっけ。


 あのころはまだ、両親とも笑顔だった。きっと私も、薔薇に負けない笑顔を咲かせていたはずだった。


 いまはもう、両親の笑顔を思い出せない。

 母親に至っては、顔すら忘れてしまった。


 ……でも、もうすこしで思い出せそうなのだ。

 どんな顔だった?

 たしか父親はシャツに半袖の上着を羽織っていて、母親は上品そうな白のワンピースに紺のカーディガンを──


 よみがえるのは表面だけをなぞったようなうわべだけ。

 もうすこし、もうすこし──



「ぁ……」


 顔のぼやけた両親の姿と薔薇たちが灰色の天井にすり替わり、私はようやく夢を見ていたのだと気がついた。

 薔薇園の幻覚はきっと、この部屋に立ちこめるかぐわしいローズの香りによるものだったのだろう。


 仰向けに布団をかぶったまま、私はどうして横になっているのだろうと思いを馳せれば、脳裏から両親との思い出はたちまち霧散した。


 ……そうだ。コボルトと闘って、私は……負けたのだ。


 布団の中で身体をまさぐっても、腹部にも喉にも傷はおろか痛みひとつなく、ただただ強烈な恐怖の残滓ざんしのみがじくじくと疼き、私の意識を覚醒させてゆく。


 いままで、私にとっての敗北とは、世界に取り残された劣等種になってしまった、という、闘うことさえしなかったものへの罰のようなものだった。


 だから、諦めていた。

 私だから。私ごときが。私なんかが、と。


 卑屈になって、仄暗い感情にこの身を委ね、声をあげることさえしなかった。


「こわ……かった……」


 コボルトとの殺しあいを思い出し、涙が零れた。

 目を拭おうとして、壊れたはずの眼鏡をかけていることにはじめて気がついた。


 人は死を怖がる。

 それは死が現世とのつながりを断ち切って、人を無に変えてしまうから、だけではない。

 死に至るまでの苦しみ、そして痛みが怖いのだ。だからこそ”楽に死にたい”と願う人が多いのだ。

 なにより、何度も死を求めた私からしてみれば、怖いのは痛みと苦しみだけ。

 

 痛かった。

 怖かった。


 あのとき感じた灼熱のような激痛と、それなのに身体が冷えてゆく恐怖を忘れることなどできない。


 ──しかし同時に、私の胸に昂ぶりにも似た熱を運んできた。


 コボルトと私、ふたりだけの空間。

 それは世界に追いつけずに置き去りにされた私からしてみれば、このうえなく甘美なものだった。


 ──だって、あんなに私に夢中になってくれる人、いままでいなかったから。



 半身を起こすと同時、部屋の外からドタバタと足音が聞こえる。


「月乃さまっ!」


 勢いよく開いた扉から小柄な少女が飛びこんできた。


「イングローネさん」


 彼女は枕元まで駆け寄ってきて、しかし勢いはそこまでで止まり、言葉を選ぶようにもじもじと自らの指をさすっている。

 イングローネさんがいまここにいるということは、きっとあの場から無事に逃げ切れた、ということなのだろう。


「お加減はいかがだす……あ、いかがですか」

「はい、大丈夫です。イングローネさんはご無事だったのですね。よかった」


 正直なことを言えば、気怠けだるさのようなものが肩と胸にじんわりと残っていたが、イングローネさんが街まで逃げる時間を稼ぐ、という最低限の仕事ができたことを知り、私の顔には意図せず笑みが浮かんでいた。


「申しわけねえだ……。おらだけ、助かってしまって」


 対し、イングローネさんにはやりきれぬ思いがあるようで、可愛らしい顔の眉尻を下げている。


「謝らないでください。あのとき、イングローネさんが逃げてくださったおかげで、私は──」


 自分というものを見つめ直すことができたのです。──という言葉は、最後まで声にならなかった。こんなこと、誰にでも言うことではないと思ったからだ。


「で、でも……月乃さま、泣いてるだ……」


 はっとして手の甲で目尻を拭う。

 私はこれまで、悲しいことがあると、すぐ泣いていた。


 でも、いまの涙は、すこし違う。


「平気です。だってこれは、悔し涙なんですから」


 そう。

 胸に残る熱さが、恐怖から溢れた涙を悔し涙に変えた。

 自分をすべてさらけ出して、負けてしまったことに対する悔し涙。

 それはむしろ、いままでなにもしなかった私がはじめて自分をさらけ出せたことに対する嬉し涙でもあったのだ。


 ……強がりが混ざっていることは否定できないけれど。

 

「さすが勇者さまだぁ……」


 細々としたイングローネさんの呟きが私の耳にそっと入ってきた。

 なにが『さすが』なのだろう、と首を傾げたとき、ふたたび足音がして、開けっぱなしになっていた扉からベンテローネさんと秘密さんが顔を覗かせる。


「お目覚めかい? ……大変だったね」


 ベンテローネさんはイングローネさんの隣に早足でやってきて、私に笑いかけた。


「命を張って娘を守ってくれてありがとうね。……でも、こんなこと言うのはおこがましいかもしれないけど」


 私の肩に手を乗せて、困ったように首を傾げて言葉を続ける。


「月乃も秘密も、今日からアタシたちの娘になったんだと思ってる。だから……勇者さまにこんなこと言っちゃだめなんだろうけど、あんまり無茶しないでおくれよ」


 あたたかい言葉と手のひら。見上げると、あたたかい視線も私を待ってくれていた。


 母親。

 私にとって母親とは、私を産んでおいて、自分が思うとおり成長しなかったとき、持て余して捨てる──

 真っ白なキャンバスが、好みではない色彩で汚れると破り捨てる……そんな生きものだった。


 しかし、手のひらの大きさが、翡翠ひすいのような力強い瞳が、私の母親像を塗りつぶしてゆく。


「……気をつけます」


 戸惑いを隠せぬままどうにかそう答えると、ベンテローネさんは「いい子だね」と私の頭を優しく撫でてくれた。


 「うん」と頷いて手を引く彼女の陰から、小さな身体がひょいと顔を覗かせる。


「……月乃、ごめん。わたしの、せい」


 秘密さんはベンテローネさんの服の裾を両手で掴んだまま唇を噛み、しゅんと項垂うなだれている。

 いったい、なにに対する謝罪なのだろうか。

 もしも、コボルトと闘ったことに対する謝罪だったのならば、それはお門違いというものだ。


「わたしが、たたかうと決めたのに、すぐ死んでしまった。……つぎは、木を背にしてうつ。もう、まけない」


 秘密さんの言葉にほっとして、思わず笑みがこぼれた。

 謝罪が、闘うという選択をしたことではなく、先にリタイアしてしまったことに対してだったから。


「いいえ。秘密さんは一体のコボルトを倒してくれました。勝てなかったのは──私が弱かったからです」

「違うっ! 月乃さまは勇敢だっただ! あっ、いえ、でした!」


 イングローネさんが慌てて私の言葉を否定してくれる。

 それでも、すべて、言っておきたかった。


「こんな私が……私なんかが、恐ろしいモンスターに勝てるはずがなかった」


 イングローネさんも秘密さんも項垂れる。

 自虐的で、閉塞的で、どろどろとした厭世観えんせいかんまみれた私が、なにかを成そうなんて、こんな図々しい話はない。


 ──でも。


「──なんて、そんなこと、もう言いません」


 はっ、とふたりの顔が上がった。


 はじめて自分に胸を張ることができた。

 はじめて自分が生きていると実感することができた。

 自分が地を這う虫螻むしけらだと思いこんでいた私が、はじめて手首の傷以外にみそぎを見いだすことができた。 


 いまならきっと、この想いだけで空を飛ぶことだってできる。


 ──たとえこの背に、翼はなくとも。


 イングローネさんの顔が明るくなり、秘密さんが私にとことこと駆け寄ってきて、布団の端をきゅっと掴んだ。


「まったく……あんたら、アタシの話を聞いていたのかい?」


 ベンテローネさんが苦笑して「昼食の準備はできてるよ」と残して部屋を出ていった。


「月乃さま、秘密さま、ご飯、食べられるだか?」

「はい」

「おなかすいた」


 私は答えると同時に布団を抜け出して立ち上がり、三人で頷きあってベンテローネさんのあとに続いた。

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