09-39-『涙の川、そのほとり』(後編)

 ひざまずいたコボたろうがまず目にしたのは、茶色い木目の床だった。

 わあっと歓声があがり、この場には少なくない人数がいることを察知する。


「コボたろう」

「がうっ」


 呼ばれてコボたろうが立ちあがると、やはりここはとまり木の翡翠亭の透と沁子の部屋で、透のほかには沁子、伶奈、亜沙美、香菜、綾音そしてリディアの姿があった。

 部屋の隅には召喚士と狼をかたどった見慣れない彫像まで置いてあり、やや手狭に見える。


 それにしても──


「コボ、たろう」


 ──ご主君は、こんなにも大きかっただろうか。


「がう……」


 ご立派になられて……。

 一日で急になにかが変わるはずもないのに、昨日よりも背が高く見える透の姿に、コボたろうは目頭が熱くなった。


「コボたろうっ!」


 正面にいた透がコボたろうに抱きついた。

 透の頭がコボたろうの肩に乗り、突然のことにコボたろうは棒立ちになってしまった。


「コボたろう……コボたろう……!」


 大きくなったと思ったが、やはりまだお若い──コボたろうがそう思ったのは、己への誤魔化しにほかならなかった。


 ご主君は、こんなにも感情を吐露する人物だっただろうか、という戸惑いと、


『お前がどこにいても、俺が必ず見つけ出すからっ!!』

『コボたろうっ……! 大好きだッ!』


 死の間際、透から吼えるようにかけられた言葉が押し寄せて、たとえ仮初かりそめだとしても、皮肉でも考えて誤魔化さなければ、と思った。


「コボたろうっ……」


 抱きしめる力は強くなるばかり。

 まるで、このぬくもりをもう二度と離さない、とでも言うように。

 まるで、このぬくもりを守るためなら、何にでも立ち向かうとでも言うように。


 ──自分は、ご主君に似てしまったのだろうか。


 コボたろうの頭の中に、ただの召喚モンスターにこのような執着は不要だとか、言葉を詰まらせる透からはどんな言葉が飛び出すのか──性格上、謝罪の言葉だろうか、など、ひねくれた考えだけがこだまする。

 もっとも、コボたろうにはそれがうれしくてたまらないのだが。


 しかし、透の口からたどたどしくこぼれたのは──



「……ぁ、りが、と、ぅ。……よく、やった。勝った、ぞ」



 感謝と、ねぎらいだった。


「がうっ……ぐふっ……ぐ……」


 こんなことで泣くやつがあるか──

 そんな思いとは裏腹に、コボたろうの双眸そうぼうから涙が滂沱ぼうだとして溢れ落ちた。


 やはり、大きくなられた。


 透の感情の爆発は、堪え性のない子どもだからというわけではないだろう。

 自分とふたたび相見えた喜びを包み隠さずさらけ出しても、ここにはそれを馬鹿にする者などひとりもいないことを承知したうえでの吐露であることをコボたろうは知っている。


 だから、コボたろうもそれに応える。

 毛むくじゃらの腕が透の背に回り、透に負けじと強い力で抱きしめ返した。


 しかし最後の一線で透よりも素直になれなくて、腕の力を弱めるとスッと跪き、涙の川を隠すように顔を伏せる。


「召喚、コボじろう」


 透は沁子のもつリジェネレイト・スフィアによるMPの回復を受けながら、次々と召喚し、ひとりずつ抱きしめてゆく。

 そのたびに歓声があがり、鼻をすする音が部屋に響いてゆく。


 コボさぶろう、ぷりたろう、はねたろう、そしてうさたろうまで召喚すると、部屋の中央にある作業台を隅へ押しやってもかなり手狭になった。


 召喚疲労で透の足がふらついて、伶奈が彼を支えた。いまこのときもMPは減少し続けているのだ。沁子が首を横に振ってスフィアの残量が少ないことを告げた。


 それでも透は歯を食いしばって、口を開く。


「これで、全員だ」


 言いながら、彼は慣れない笑顔を無理やりつくった。


「いまは、マジでギリだけど、いつか、ちゃんと、全員を召喚できるようになるから。で、いきなりですまんけど、ちょいと、頼みがある、んだ」


 透がたどたどしく指さした作業台の上には大量の肉の串やピザ、クロワッサン、さらにはキッシュ、クック鶏のから揚げ、果ては朝食の残り兼昼食のバゲット、フィッシュフライ、サラダが所狭しと並んでいる。


「悪いけど、食うの、手伝ってくれねえか」


 透が言い終わる前にコボさぶろうとぷりたろうが作業台に近づいた。すでに作業台の近くにいた亜沙美と香菜が食べものを手にとって、


「あ、コボさぶろう、あたしが食べさせてあげる。はい、あーん」

「がうっ!? が、がうぅ……」


 自分で食べられるのに! と抗議の視線を亜沙美に向けるコボさぶろうだったが、結局は顔を赤くして差し出された肉串にがぶりと口をつける。


「ぷりたろう、パン好きだよねー? はいクロワッサンー。あ、チーズも好きだよね。これもー」

「……♪」


 ぷりたろうは香菜にされるまま、大きなクロワッサンとチーズがたっぷり載ったピザを美味そうにゆっくりと咀嚼するように溶かしてゆく。


 コボたろうはいまだ顔を上げられぬまま、ずっと止まらぬ涙と闘っていた。



 ──ご主君。

 ご主君はそれがしに、一緒に強くなろうな、と言った。


 底辺が成り上がり、無双するまで──その根幹は、この景色が見たかったから、ではないのか。


 みんなが楽しそうにしていて、ご主君も不器用ながら笑っている──誰よりも強くなればそれができると信じ、強くなろうとしたのではないのか。


 これが、誓いの空の先──ご主君が切望した未来ではないのか。


 顔を上げて、この光景を目にしてしまえば、自分は、誓いの果てに到達した幸福に溺れてしまうのではないだろうか。


 それが怖いのか、それとも涙を見せる勇気がなくて顔を上げられないのか、コボたろうにもよくわかっていなかった。



 そんなとき、透がもういちど口を開いた。


「一緒に、強くなろうな」


 コボたろうの耳に届いた声の角度から、かつて自分だけに言ってくれた言葉が、自分にだけ向けられたものではないことを知る。


 しかしコボたろうは嬉しかった。


 透が、ここを目標としていたわけではないことを知って。

 この先も、誓いの先を一緒に夢見られることを知って。


 コボたろうは意を決し、すっくと立ち上がった。


 おっ、と周りの耳目がコボたろうに集まるが、コボたろうは気にせずに肉串を手に取って一気にかぶりついた。


「がうがう♪」


 コボたろうは涙を川のように流しながら、串の肉を咀嚼そしゃくしてゆく。

 綾音がコボたろうの目頭を手ぬぐいでそっと撫でた。


 そのとき、キッシュとピザのあまりの美味しさに、ぷりたろうが核石コアを嬉しそうに点滅させながら、ぴょんこぴょんこと跳びはねて喜んだ。

 ここはあまり立派とはいえない宿屋の二階。ずしぃん、ずしぃんと音をたてて部屋が揺れた。


「あ、ぷりたろう、だめだよー」

「……♪(ぴょいーん)」


 ずしぃーん。


「あははー、もー」

「……♪(ぴょんぴょん)」


 ずしんずしぃん。


 香菜が軽くたしなめるが、ぷりたろうはむしろ香菜にかまってほしい様子で止めようとしない。


「……んあ、お、おい、待てちょいストップ」


 透に言われてはじめてぷりたろうは跳躍をやめ、汗を飛ばしながら小さくなって、透に許しを乞うように擦り寄る。


「……しっ、静かに」


 透が口に人差し指を当てると、部屋の喧騒はやんだ。


 それとは入れ違いに階下から聞こえる、恐怖のあしおと。 


 ズゥン、ズゥウンとゆっくり階段をのぼってくる、地獄の処刑人が奏でる死の音色。


「げぇぇっ、お、女将……!」


 こっそりと部屋へ運びこんだのであろう大量の食べものに視線をやって、透が逼迫ひっぱくした声を震わせたとき、



《コボじろうが召喚を解除》

《はねたろうが召喚を解除》

《うさたろうが召喚を解除》


 部屋から三つの気配が消えた。


「お前らぁぁぁ!?」


 透の声が部屋に響く。


 コボさぶろうは亜沙美の手から肉串を奪い取るようにして食らいつき、作業台から数本の串をその口に納め、


《コボさぶろうが召喚を解除》


 時を同じくして、ぷりたろうは作業台に体液を伸ばし、クロワッサン、ピザ、キッシュなどをあらかた己の体内へ取りこんでから、


《ぷりたろうが召喚を解除》


 ふたり同時に逃げるように消えていった。


「あははー、ふたりともちゃっかりしてるねー」

「ふふっ、同感ね」

「お前らこの状況でよく落ちつき払えるな!?」


 透がふらふらになりながらも唾を飛ばす勢いで叫びながらアイテムボックスへ食べものを収納してゆくと、同じスキル持ちの綾音、亜沙美、沁子が続き、コボたろうもコボルトボックスのなかに肉串を詰めこむが、作業台の上にはまだ半分ほどの食べものが鎮座しており、美味そうな匂いが存在を誇示するように香っている。


 処刑人のあしおとがズシリ、ズシリと近づいてくる。


 もうだめだ、と透が頭を抱え、ほかのメンバーが諦めの境地でむしろほっこりとしたまろやかな顔になったとき、リディアが手を伸ばし、食べものを作業台ごと自身のアイテムボックスにかき消した。


「これで、いいの」


 首を傾げるリディア。

 いくつもの歓声が起こり、それぞれハイタッチをしたり、抱きしめあって、部屋は安堵の喜びに包まれた。


 そんななか、乱暴なノックの音が鳴り、返事を待たず部屋のドアが開いた。


「すごく揺れたんだけど……アンタたち、変なことしてないだろうね……?」


 現れたのはもちろん、女将のエリーゼだ。


「ご、ごめん女将! 藤木が猫神家の一族ごっこをやるってきかなくてさ……」

「そ、そうそう、頭から床にずこーっと突っこんじまって……!」


 機転をきかせたつもりの亜沙美に、透が「お前もうちょっとなにかなかったのかよ」と耳打ちした。

 猫神家がなんのことかわかるはずもないエリーゼは「ふーん……?」と気のない返事をし、鼻をすんすんと鳴らす。


「えらくいい匂いがするねぇ……?」


 リディアを除いたみなが心臓を掴まれた心地だった。

 息を吸うと、誤魔化しの効かない、肉と揚げ物、ピザの匂いが部屋に漂っている。


「……ところで、作業台はどこに行ったのさ。あれうちの備品なの知ってるでしょ?」


 エリーゼは部屋を見回しながら、みながちらちらとリディアのほうを窺っていることに気がついた。エリーゼと視線がぶつかったリディアはぬぼーっとした表情を崩さぬまま答える。


「わたしが、あずかってる」

「預かる? なんで? アンタたちの部屋には自前の作業台かあるじゃないか」


 女将の詰問され、リディアは透に視線を送る。


「いいの」


 透が首肯を返し、リディアが手をかざすと、部屋の中央に作業台が現れた。


 これで一安心──と胸を撫で下ろす者は、この部屋にひとりもいなかった。


「……へぇ」


 作業台の上には、匂いの原因が、収納したときとなにひとつ変わらぬままこんもりと鎮座していたからである。


「あたしのつくったご飯は食べすに、こういうのは食べるんだ」


 エリーゼがにこりと微笑んだ。

 対し、みなの表情は恐怖に凍りついた。


 ……そこに、ひとりの勇者が立ち向かう。


「ぐるぅ……」


 エリーゼと透のあいだに入ったのは、コボたろう。


 すたこらさっさと逃げていったものどもとは違う。

 召喚モンスターのなかで衆にすぐれた忠義の士。


 透だけは絶対に守ってみせる、と両腕を広げ、エリーゼの前にたちはだかった。


 そして勇敢に吼える。



「がうっ!」

「は?」

「きゃん」



《コボたろうが召喚を解除》



「コボたろうぅぅぅぅぅぅぅ!」


 透の悲痛な叫びを聞きながら、コボたろうの意識はとまり木の翡翠亭から離れ、青い輝きがセカンダリボディを消し去って、プライマルソウルを『ソウルクレイドル』と呼ばれるゆりかごの名を冠した通路へと導き、召喚世界へといざなった。



──



 コボたろうが目を覚ますと、そこは川のほとりにある木陰だった。


 いまだに魂には恐怖が残っている。

 ──あのくれないの目は、間違いなく悪鬼のたぐいだった。


 本当に情けない、とコボたろうは己の拳を地面に叩きつける。

 自分の忠義が、恐怖などに負けてしまうなんて。


 それでもきっと、透はこんな自分を責めたりしない。

 透は召喚モンスターに対し、忠勤よりも精神的自由を重んじる節がある。


 透はきっと、こんな自分でも許してくれるだろう。

 いまはただ、透の無事を願うばかりである。


 立ち上がったコボたろうはいつの間にか笑んでいて、ほかの召喚モンスターが、あー、やっぱり帰ってきた! とでも言いたげな様子で近づいてくると、コボたろうは頬を引き締め、


「がうがうっ!」


 お前らには言われたくない、と表面でだけ怒ってみせた。

 しかし、ほかの五人が笑顔のままでいたため、コボたろうもそれに釣られて、ぶはっ、と笑顔を晒してしまうのだった。



 一本木のそばを流れる川には白く煌めく水が流れていて、美しい緑が茂り、花さえ咲き誇っている。


 先ほどコボたろうが流した涙は、川となって頬を伝っていった。


 泣くのは、恥ずかしいことじゃない。



 ──涙は、悲しいものじゃない。



 だって、涙の川、そのほとりにはいつだって、大いなる愛と大輪の笑顔が咲いていたのだから。



 なんのことはない木陰にも、


 うららかな陽だまりにも、


 小高い丘の上にも、


 大いなる蒼空にも。



 世界は、こんなにも、愛に満ち溢れている。

 


(了)

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