09-11-黄昏の魔性

 車内はタバコ臭くはあるものの、綺麗に整頓されており、仕事道具なのだろうか、後部座席に乗る澪の隣に大きなプラスチックらしい箱が載っているだけだった。


「夕飯はまだかな? なにか食べようか。ご馳走するよ」

「いえ、結構です。”謝礼”だと思われたらお互い損なので」


 俺がそう返すと大仁田は面食らったように口を開けたあと、


「あっはっはっ……」


 じつに楽しそうに笑った。


「あれ? でもきみは、僕に話してくれる気になったから、この車に乗ったんじゃないのかい?」

「それは間違いないです」


「じゃあ、どうしてだい?」

「ここで奢られると、俺は謝礼目当てで話したと、誰かはそう感じてしまうかもしれない。これが俺の損」


「くっくっくっ……それじゃあ、僕の損は?」

「話術や人柄ではなく、ぶらさげた金で俺から話を訊きだしたと思われる。これが大仁田さんの損」


「あっはっはっは……あっはっはっは……!」


 なにがそんなにおかしいのだろうか、大仁田は茶色のカバーがついたハンドルを握ったまま、なにひとつ遠慮なく、大きな口を開いてみせた。


「僕のなにが藤間くんのお眼鏡にかなったのかな?」

「今朝会ったとき、澪の顔を見て遠慮してくれたから」


 信号が赤になった。大仁田はハンドルの上部に両腕を乗せ、俺をはかるようにじいっと見つめてくる。


「それで僕がいい人だと? 下心あってのことかもしれないよ? こうすればきみが話してくれるかもしれないという策かもしれない」

「もしも策なら、いまこうして言わないでしょう。それに、べつに策でもかまわないと思ってますんで」

「……策でもかまわない、だって?」


 信号が青に変わった。大仁田は名残惜しそうに俺から視線を正面へと戻しながら三鷹方面──秋葉原のほうへとハンドルをきる。……やっぱり実家の場所もバレているのだろう。

 そうしながら大仁田はちらちらと視線を俺に向け、先を促す。澪が乗っているこの状況で事故でも起こされたらかなわないので、先を続けることにした。


「べつに深い意味はないっす。策でも下心でも、こちらを気遣ってくれた事実には変わりないんで。隣に妹がいると知って余計突っ込んでくる奴らより余っ程信用できます」

「スレてるなぁ……」


 げんなりとした声をあげたのは俺の真後ろ、後部座席に座る澪だ。俺の角度からは見えないが、ルームミラーにはきっと、じっとりどんよりとした目が映っていることだろう。そんな澪に声だけ投げかける。


「澪、メシはまた今度でいいか?」

「やだ。澪も聞くから」

「言うことを聞いてくれよ。俺にも澪に話したくないことだってあるんだよ」


 うさたろうの事件については澪に骨組みだけは話してある。

 しかし大仁田には、過去の獅子王の暴虐や、俺が受け続けたイジメ、事件のアウトラインとして朝比奈のことも語るつもりだった。 


 すべてを語り、すべてを終わらせる。

 終わらせて、獅子王も朝比奈も、もう俺の目の前に現れないでほしい。言葉を選ばなければ、この世から消え去ってほしかった。


 しかしイジメの内容や、朝比奈にされたことまではさすがに妹には聞かれたくない。


 澪はこういうとき、すぐにもう一歩踏み込んで駄々をこねる。しかし珍しいことにしばらくの沈黙が続いた。



 あたりが暮れなずむなか、車は新市川橋を渡り、夕日を追いかけるようにして江戸川区に突入した。東京都とはいえ都下とかのためか、川を挟んだこちら側は千葉市川駅周りよりもやや寂れているように見える。


 東京都に入ってはじめて捕まった赤信号で、大仁田はどうする? とこちらへ視線を送ってくる。


「秋葉原へお願いしてもいいすか。澪が降りてから話します」

「どこかで車を停めてもらえませんか? 澪には聞く権利があります」


 俺と澪が答えたのは同時だった。後部座席が静かだったから、諦めたものと思っていたのに。


「なあ澪。こればっかりは──」

「おにいにはごめんだけど、澪、絶対に聞くからね。澪に言いたくないことならなおさら」


 有無を言わせぬ澪の声。静寂は諦めでなく、聞かせたくないという俺への遠慮と絶対に聞くという澪の意志のせめぎあいだったのだと気づいた。


「言っとくけど澪、半年間それなりに不安だったんだからね。ここで帰ったら、明日からまた不安の続きになっちゃうもん」

「ん……」


 澪は俺の背にあるヘッドレストを両手でつかみ、運転席と助手席の間から顔を覗かせる。


 俺をじいっと見つめる澪の目はやはり一歩もひかない、ともの語っている。

 

「後悔しねえか。怖い思いをするかもしれねえぞ」


 しかし俺が話す気になったのは、瞳の強さにではなく、澪の言葉によるものだった。


「なにそれ。怖いことなら前もって話しておいてもらえないと、逆に怖いじゃん」


 俺がここで語って終わらせても、澪の不安は消えない──それは、事件が終わったことにならないと気づかされたからだった。


「……わかった。大仁田さん、申しわけないっすけど、どこかに停まってもらってもいいっすか」

「了解」



 車はもう一本橋を渡りきったところにある大きな公園の駐車場へと入り、端っこのほうにバックで駐車した。

 大仁田は一度右手を動かして車の窓がすべて閉まっていることを確認すると、ここでいいかい、と言いながらスマホらしき端末を操作して、ボイスレコーダーのアプリであろう画面を俺たちに見せてきた。


「んじゃ、半年前のことを話します。でもその前に」


 俺もポケットからギアを取り出して、内蔵されているボイスレコーダーを立ちあげ、


「今朝、大仁田さんは真実を明らかにしたいと思わないか、と俺に訊いた。俺は俺が体験した真実を話します。……ただ、それが真実かどうか、あなたにはわからない。信じてほしいとも言いません。でも、俺の話をあなたにとって都合のいいストーリーに寄せて捻じ曲げないでください」


 大仁田の目の前に画面を突き出して、録音ボタンに指を伸ばした。

 大仁田は笑みを見せたうえで大きく頷く。


「約束しよう。……じゃあまず、うさぎの飼育小屋であったことから訊いてもいいかい?」


 俺と大仁田は同時に録音ボタンをタップした。



──



 それからは大仁田が質問し、俺が答えるという質疑応答が続いた。


 うさぎ小屋でのこと。

 獅子王のこと。

 小学校のイジメのこと。

 朝比奈のこと。

 七々扇と朝比奈、ふたりの告白罰ゲームに獅子王が絡んでいたこと。


 アルカディアで七々扇、朝比奈、そして獅子王と出会ったこと。

 灯里がすべて調べてくれたこと。

 七々扇が澪を守ってくれたこと。


 あの事件にまつわるすべてをつまびらかに語った。

 大仁田はメモを取りながら聞くことに徹してくれて、澪は「綾音さん……」と鼻をすすっていた。


獅子王正虎ししおうまさとら警視正ご子息の暴虐か……」


 大仁田は深い息を吐き、手帳をペンの頭で上からなぞって、もういちど俺に顔を向ける。


「ところで、きみに真実を伝えた灯里さんというのは珍しい苗字だけど、この春、警視総監に就任した灯里慶秀あかりよしひで氏のご息女なのかい?」

「この春かどうかは知りませんが、灯里がちらりと言ったかぎりではそうみたいです」


「やっぱりそうか……」


 大仁田は手帳を睨みつけたまま、考え込んでしまった。

 その空白に、澪が後ろからひそやかに滑り込んでくる。


「灯里さんって、あの魔法使いの人のこと?」

「そうだ」


「ひょえぇ……おにい、すごい人と組んでるんだね……。どうやって仲良くなったの?」

「仲良くっていうか……まあ成り行きだ」


「澪としてはその”まあ成り行きだ”を詳しく聞きたいんだけどなぁ……」

「警視総監の娘とつるんでるんじゃなくて、つるんでるのが偶然お偉いさんの娘だったってだけだ」


「偶然ねぇ……ふむむ」


 今度は澪が考え込んでしまった。……が、灯里との乱暴な出会いはどう考えても偶然でしかなく、どれだけ考え込んでも無駄に決まっている。


 生まれた静寂に、大仁田が手帳の上でペンを滑らせながら訊いてくる。


「藤間くん、いいかい? すこし気になるんだけど、この朝比奈って女の子の名前は?」


 あまり答えたくもなかった。あいつのプライバシーとかそういうことは一切気にしないが、正直、名前を口にするのもいやだった。


「……芹花せりかです。朝比奈芹花」


 その名前を声に出した瞬間、窓の外の夕日が落ちた気がした。春の夕焼けは夜に変わりつつある。

 大仁田はきっとその名前をさらさらと手帳に書き記して「朝比奈芹花……朝比奈芹花、ねぇ……」とつぶやいて目を閉じた。


「ごめん、また澪も喋っていいですか?」


 後部座席から声。大仁田が「もちろん」と左の手のひらを上にして差し出すと、澪は言葉を選ぶようにややたどたどしく続ける。



「ちょっと不自然じゃない? おにいが告白したところを罰ゲームにするならわかるよ。でも、朝比奈って人から告白したんでしょ?」

「だから告白が罰ゲームだったんだろ」


「そういう意味じゃなくてさ。朝比奈さんが告って、おにいが受け入れて、そこで罰ゲームでしたーって、ちょっと違和感っていうか、不自然っていうか、お粗末っていうか」

「どういうことだ?」


 澪の言っていることが理解できず振り返ると、澪は腕を組んで唸っていた。


「ピアノ教室で一緒だったんだよね? でもさ、そもそもピアノのお稽古って先生と生徒の一対一だから、生徒同士での交流ってあんまりないんじゃないの?」

「俺と朝比奈で隣のコマだったんだよ。俺が先のときもあったし、朝比奈が先のときもあって、最初は稽古を交代するときにあいさつするくらいの仲だったんだよ。それで──」


 奇しくも学校でいじめられるようになったころだろうか。

 朝比奈の稽古が先のとき、朝比奈は残って俺の稽古を待ってくれるようになったんだ。


 さっさと帰ればいいのに、俺が演奏する覚えたてのブルグミュラー練習曲を聴きながら、俺の弾くピアノが好きだからだなんて笑顔を見せて。


 中学校に入ってからだっただろうか、朝比奈がバイエルからブルグミュラーに移ってしばらくしたころ、コンクールのため、朝比奈と一緒に連弾の練習をするようになった。

 校区は違っても、帰る方向は一緒だった朝比奈を家の近くまで送るようになったのはそれからだ。


「ふーん……。おにいっていつからピアノ習ってたっけ? 朝比奈さんは?」

「たしか、小学校三年生だったと思う。朝比奈も俺と同じ時期にはじめたって言ってたけど」


「じゃあ、お兄は中学校三年生で事件が起こるまで通ってたわけだから、すくなくとも五年間は同じピアノ教室に通ってたんだよね? 朝比奈さんはそれだけ長い間、獅子王とつきあっていて、罰ゲームに従事してたってこと?」

「それは……」


 朝比奈と獅子王のつきあいがどれくらいかなんて、俺にわかるはずがない。小学校三年、あるいはそれ以前から交際しているなんて考えにくいことだが、ありえないことじゃない。


「五年間我慢するなんて、普通のことじゃないよ。……ねえおにい、もしかして朝比奈さんも──」

「やめろ」


 たしかに普通じゃない。だとしたらなんなんだ。

 同じピアノ教室に通った。

 一緒に帰るようになった。

 仲良くしているつもりだった。

 だけど、半年前のあの日、すべては崩れ落ちた。


 もしかすると、小学校のころは、朝比奈は獅子王と関わっていなかったのかもしれない。


 ……だとしても、なんだっていうんだ。


 たとえば朝比奈は中学校一年か二年のときに獅子王とつきあうことになって、自分の彼女と同じピアノ教室に俺がいることをどこかで知った獅子王が、俺に対するイジメの延長で朝比奈に罰ゲームだと命じたんじゃないのか。


「獅子王が綾音さんにしたのは、罰ゲームを命じたことじゃない。脅迫だよ。なら──」


 澪は自分の身体を両腕で抱くようにして──


『芹花が藤間くんみたいなクソザコを好きになるわけないじゃないですかー☆』


 あの日、黄昏のなか、朝比奈芹花は悪魔よりも悪魔だった。

 うずくまる俺を見て、楽しそうに笑い、写真を撮り、獅子王に送りつけた。

 俺は朝比奈のなかに、身が凍りつくような魔性を見た。


「朝比奈さんも、獅子王に脅迫されていたんじゃ」

「違うっ……!」


 思わず頭を抱え、否定の言葉が口をつく。


 否定したのは当然、朝比奈を庇いたいわけではない。

 いまさら、あの朝比奈が、七々扇と同じように被害者だったなんて思いたくなかったことと、


「おにい、根拠は?」

「アルカディアで再会したとき──」


 夜の市場。

 倒れ伏す獅子王。

 後ずさる朝比奈に、ゆっくりと詰め寄る俺。


『許してもらえませんか? 一回、タダでさせてあげますから』


 獅子王に脅迫されていたのなら、俺に対するあの媚びはいったいなんなんだ。

 弱者に対する徹底したさげすみと、強者に対する徹底したへつらい。


 俺が毒を吐いて返すと、憤懣ふんまんやるかたない様子で市場を去っていった朝比奈が、獅子王に脅迫されていたなんて、考えられない。


「……そうか。朝比奈さんのことはすこし気になるね。僕が調べてみるよ。半年前のことと無関係とは思えないからね」


 たとえ朝比奈のことを調べたって真相が変わるはずもない、なんて頭では思いながらも、俺は大仁田になにも言えなかった。


 だって、俺が大仁田をめるということは、真実の裏付けをめさせ、それこそ俺にとって”都合のいい真実”によせることになってしまうから。


「お任せします。……俺が知っていることはこんなもんです」

「うん、今日は話してくれて本当にありがとう。なにかわかったら連絡するよ」


 俺がギアのレコーダーを停止させると、大仁田も俺に見えるようにレコーダーの電源を切り、手帳と一緒にスーツのポケットへと仕舞った。


「さて、送るよ」


 車のエンジンが音を立ててかかり、車はゆっくりと公園の駐車場をあとにした。


 夕日はすでに落ちきって、街灯が闇を照らしている。



 大仁田がやけにちらちらとバックミラーを気にしている気がした。

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