09-03-青春哀歌
わりと派手なぶつかりかたをしたわりには、幸いなことに俺には怪我ひとつなかった。
アッシマーの弟の頭にたんこぶができたことと、自転車の荷台に載っていた、牛乳を入れるためのプラスチックの白い空箱が軽くへこんだくらいだった。
アッシマーは俺に怪我がないか確認し、ぺこぺこと何度も頭を下げたあと、
「もう、本当にばかですっ……! 怪我したらどうするんですか! 一徹のばか! あとあと……えっと……ばか!」
脅威の語彙力で弟をしかりはじめた。
「男が怪我なんてビビるわけねえよ! なァアニキ!」
「いやどう考えてもビビるだろ。痛いのいやだし。お前ら姉弟揃ってアホかよ」
「さりげなくわたしのこともけなすのやめてくださいよ!!」
アッシマーは悲鳴をあげるようにツッコんでから、あっ、と申しわけなさそうに俯いてしまった。
「で、急になんなの」
「オレは
間違いなく、ヤバいやつだと思った。
「姉ちゃんのカレシがどんなやつか見極めてやろうと思ったんだけどよォ……へへっ……やるじゃねーか」
人差し指で鼻をこすりながら笑顔を見せる。
坊主にされた金髪。右耳には赤の、左耳には黒の小さなピアス。
絶対お近づきになりたくないタイプだ。
こうして向かい合うと、約170cmの俺よりも10cmは低い身長と、アッシマーのように大きな瞳が恐怖感を薄れさせてくれる……本来はそのはずなんだが、それよりもこの状況で、謝るどころか誇らしげな態度が、違う意味の恐怖を俺に与えてくる。
「一徹、ちゃんと謝ってくださいっ! 悪いことをしたら謝らないと……!」
「オトコの本懐は
まっすぐ俺に向ける瞳が、勢いでこの場を収めようとしているのではなく、この言葉になんの疑いもないと言っている。
「……なぁアッシマー。こいつ、いつもこんななの?」
「うぅ……はいです……」
肩を落としてため息をつくアッシマー。
そこにはいつも俺たちには見せない、姉としての気疲れが見てとれた。
「おい、アッシマー二号」
「んだよそれ! オレのことかよっ!」
「それがいやなら、お前はザコ戦闘員一号だ。
俺を睨みつけるように見上げる瞳は
「もし俺が怪我してたらどうすんだ。人身事故で警察行くかコラ。
ふたたび自転車の後部に載せられた箱は、ぱっと見ても誤魔化せない程度にはへこんでいた。
「ぅ……箱に関しちゃ、黙っときゃバレないって……」
「そんなわけにはいきませんっ! 一徹、わたしと一緒に謝りましょう!」
「な、なんで姉ちゃんが謝るんだよ!」
「いいから行きましょう! さあ!」
金髪坊主の腕を引くアッシマー。
……やっぱりこうなった。
同じ職場でバイトをしていて、弟の一徹が問題を起こせば姉のアッシマーも責められる。
なんだよこれ。
ふざけんなよ。
……はぁ。
─────
「あー、ジョギング中、こちらがよそ見をしていて、えーと……彼の乗る自転車とぶつかってしまい、その、転倒した際に箱が破損しました。すみませんでした」
事故現場からすぐの小さな事務所。
ふたりが勤める"みらい乳業"の主任だという眼鏡をかけたオッサンに、俺は頭を下げていた。
「かーっ、えろうすんません。一徹は注意力不足っちゅーか……一徹が箱を壊すのはこれで三回目ですねん。お怪我はあらしまへんか?」
独特なイントネーションの主任は
「はい。こちらはなんとも。素人が見た感じだと自転車に損傷は見当たりませんが、念の為確認しといてもらっていいっすか?」
「心配までしてもらってすんません。抜かりなくやっときます」
「あの……箱の弁償とかは」
「かーっ、とんでもあらしまへん」
主任はそう言ってから手の先にある坊主頭と俺の顔を見比べて、にやりと笑ってみせた。
あー……察してんなぁ、これ……。
えらく丸っこい牛が描かれた二本のビンを押しつけるように手渡され、みらい乳業を後にした。
ジョギング中に牛乳を貰っても、どうしようもない。
両手に持って走るのはいくらなんでもいやだし、あいにく飲もうにも、俺は牛乳があまり好きではない。
どうすべきか迷っていると、敷地を出たところで後ろから俺を呼ぶ声がした。
「待ってくださいぃぃー」
「アニキー! 待ってくれよー!」
本日の業務が終了したらしいアッシマーとその弟、一徹が手を振り駆けてくる。
一徹は好みなのだろうか、ゴールドの、アッシマーはピンクのジャージに着替えていた。うっわ、だっぽんだっぽん揺れてるわ……。
思わず顔を逸らした俺に、
「なんでこんなことしたんですかぁ……」
申しわけなさそうに俯くアッシマー。胸がちくりと痛んだ。
「だって……違うだろ。こいつが俺にしたこともありえねえけど……その……もっと、違うだろ」
「オレっ……急に止まれなくて、本当にぶつかっちまったのはすまねえと思ってる。でもっ、こんなこと頼んでねえッ!」
「あほ。お前に頼まれても俺がこんなことするわけねえだろ。お前、まだわかってねえのかよ。お前がいったい、誰に迷惑かけたのか」
どう勘違いしたのかはわからないが、一徹は俺がアッシマーの彼氏だと思い、ビビらせようと思ったんだろう。
しかし一徹は俺が避けると思っていて、そのうえ一徹のブレーキが間に合わなかった。このふたつが合わさって事故が起きた。
一徹は相手が俺じゃなければこんなことはしなかったし、俺じゃなければ避けていた。
だれかれ構わずこんなことはしないだろう。
だから、それに関してはもういいんだ。
「迷惑って、アニキだろ……」
問題はここにある。
「俺にもだけどアッシマーにもめっちゃ迷惑かけてんだろあほ。ついでにアニキっていうのもやめろ」
「姉ちゃんは関係ないだろっ」
「アッシマーが、俺やさっきの主任に下げなくていい頭をどれだけ下げたと思ってんだよ」
「それは……姉ちゃんが勝手にやったことだろ」
一徹はきっと、俺が言わんとすることに気づいたのだろう、バツが悪そうにそっぽを向く。
「……そうだな。アッシマーが勝手にやったことだ。こんなの俺もさっきの主任もきっと望んでない。──でも、こいつはやっちゃうんだよ」
姉だから、という立場的な理由もあるだろう。しかしアッシマーは、相手が誰であろうと、なんの得にもなりゃしないのに、弱きを助けようとすることを、俺は──たとえ世界中の誰も知らなくても、俺だけは知っている。
そして俺は、それがアッシマーの悪いところだなんて思わない。
だからせめて、減らしてやりたいと思う。
頭を下げる数を。相手を。
心労を。悩みを。
悲しみも苦しみも、せめて、減らしてやりたい。
一徹の頭に右手を乗せ、軽く力を入れてこちらを向かせ、
「
一徹はぽかんとした顔をしてから「へへっ」と笑う。
「アニキは……
「……あ? あたりまえだろ。こんなこと冗談で言うと思ってんのか」
「……姉ちゃん、よかったな」
一徹はアッシマーを振り向いた。アッシマーは「ふぇ?」と情けない声を出し、なんのことかわからない顔をする。ついでに俺も、なにがよかったのかまったくわからなかった。
ただ、やはりというべきか、振り向くときの顔はアッシマーに似て柔らかに笑んでいて、
──
みらい乳業からアパートへ帰る途中に足柄山家があるため、三人で帰途を歩く。
ふたりと別れてジョギングを再開してもよかったんだが、
「アニキが憧れる
「好きなバイクは?」
「アニキは
さっきからこんな感じで一徹の質問が
どうも一徹は、本物の男とか
「知らねえよ。でもお前みたいに
こんな返しをすれば、大きな瞳をきらきらと輝かせ、
「うひょー! アニキには聴こえるのか……
……これである。どうやら俺は、
「つーかお前、アニキっていうのやめろよな」
さっきも言ってスルーされたが、こいつにアニキって呼ばれると、なんか俺までヤンキー志望みたいでいやだった。
「……だって、お、お
「おい、なに勝手に他人のこと兄にしてんだよ。しかもその言いかた、なんか含みがあっていやなんだけど」
そうこうしているうちに足柄山家に到着である。
はじめて昼間に前を通ったけど、門から玄関、そして庭へと
庭には立派な石や木、
多少古くは見えるが、やっぱりでかい家だよなぁ……。
「アニキ! 次はいつ会える?」
門の前で笑顔を向けてくる金髪坊主。
「アニキって言うなって言ってるだろ……」
まったく悪びれない様子に、げんなりした顔を返す。
「明日もジョギングするんだよな?」
「……気が向いたらな」
「へへっ、わかった! じゃあアニキ、また明日!」
一徹は俺に手を振って、アッシマーに親指を立てて我先にと玄関へ走っていった。
「なんだよまた明日って……」
はああ、と勝手に溜め息が出て、肩は落ちて普段から猫背気味の背中も余計に丸くなった。
「あ、あの、藤間くん」
さっきから静かだったアッシマーが、そんな俺に声をかけてきた。
「本当に、ごめんなさい」
またも頭を下げるアッシマーに、ずきん、と胸が痛む。俺は顔に出さないようにして、
「ん? 入んねえの?」
俺はもう行くから入れよ、と手の甲を振る。
しかしアッシマーは頭を下げたままその場を動かず、両拳を握る。
「藤間くんに、嘘をつかせてしまいました」
ずきん。
……こうなることは、なんとなくわかっていた。
俺がなにもしなくても、アッシマーは俺に頭を下げ、さっきの主任に怒られる。
でも俺が主任に怒られないように小細工をしたところで、俺がねじ曲げた行為に対しても、アッシマーはこうして罪悪感を覚え、苦しんでしまうのだ。
俺は、まちがえてしまったのか。
アッシマーにとって、どちらがよかったのか。
アッシマーがいちばん辛い思いをしなかった選択肢は。
俺が今日、ジョギングをしなければ。
……俺が今日、アッシマーに会わなければ。
「べつに。嘘なんてついてねえ。避けなかった俺も不注意だった。それは間違いないんだ。……だからもういいだろ」
考えるとどんどん悪いほうにいってしまうのは、俺の悪い癖だ。
だからアッシマーを納得させるように、そして己を納得させるようにして、無理やり会話を終わらせた。
沈黙。あとは俺が背を向けるだけ。
それなのに、俺の足は動かない。
まさか、たったいま、今朝こうして出会わなければよかったんじゃないかと仄暗い気持ちになっておいて、名残惜しんでいるとでもいうのか。
足はアスファルトに縫い付けられたように動かない。
「藤間くんはやっぱり、お父さんみたいです」
それは昨日からなんども聞いた台詞。
不思議にも、聞けば聞くほど俺の胸を痛める言葉。
「違うっつってんだろ」
ぶっきらぼうにそう返す。
なんなのだろうか、この苛立ちにも似た痛みは。
「だってわたしは、わたしにこれほど親切にしてくださる男性を、お父さんと伯父さんしか知りません」
そう言ってアッシマーはすこし寂しそうに笑った。
いつも元気に、あざとく笑っているアッシマー。
しかし、アッシマーの本当の笑顔は、こんなにも寂しいものなんだと見せつけられている気がして。
「帰るわ。……また、あとでな」
「はいっ、またあとで、ですっ。……今日は、ごめんなさいでした。──わわっ」
ちくりと刺さる謝罪の言葉を聞こえないようにして、アッシマーに二本の牛乳を押し付けるように渡し、橋のたもとでそうしたように、またしても俺は逃げるようにしてアッシマーのもとをあとにした。
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