09-02-疾風伝説

 東京都へ架かる橋をスルーし、松戸街道を北上する。


 風を切りながら、橋を遠く背にしても、仄暗い気持ちからは走り去れない。


 どれだけ迷惑をかけたと思っているんだ。

 俺のせいで母さんは泣いた。親父は仕事を辞めた。澪は転校した。


 そんな事実に蓋をして、

 周囲の苦しみをかき消して、

 自分ばかりが苦しんだと思い込んで、

 あげくの果てに都合の悪いことは忘れて。


 こころを閉ざして、忸怩じくじたる思いを忘却の彼方へ封じ込めた。


 灯里から事情を聞いても、たとえそれが真実だったとしても。

 この拳で傷つけた相手が十四人でなく、ふたりに変わっただけ。


 アルカディアでモンスターに振るう拳は、誰かを守る拳だと胸を張ることができる。

 しかし、あのとき……獅子王と見張りに放った拳は、まぎれもない暴力だった。

 武道を暴力へと変えてしまった事実は変わらない。


 ……いまさら、どんな顔をして会えっていうんだよ。



 すべてを思い出しても、俺の心は家族のもとへ架けられない。



 河川敷を左手に、橋から逃げるように走り去った。



──



 帰るぶんの体力も考慮し、国府台こうのだいを右に折れ、川沿いの道路から離れた。


 この辺りは商店街らしい。年季のはいった八百屋や小ぢんまりとしたスーパーの看板がいくつも並んでいる。


 しかしまだ六時前ということもあり、さすがに店のシャッターはことごとく下りていて、どことなくもの悲しい。


 商店街を抜けて大通りへ出てまもなく、一台の自転車に追い抜かれた。その際、


「うんしょ、うんしょ……」


 そんなあざとい声が聞こえ、荷を積んだ自転車の主をふと見やる。


 作業服だろうか、薄い青に統一された上下。

 同じ色の帽子からはもこもこそうな後ろ髪が覗いている──


「は? アッシマー?」

「ふえっ?」


 主が振り向く前から、そのあざとい声で間違いなくアッシマーだとわかった。


 足をめ、両膝に手をついて肩で息する俺に、アッシマーは歩道に自転車を止めて駆け寄ってくる。


「はわわ、なんだか黒い影が走っていると思ったら、藤間くんでしたっ」

「うっせ……はっ……はっ……おえっ」


 アッシマーは丸みを帯びた胸ポケットから薄桃色のハンカチを取り出すと、


「ふわぁ……すごい汗ですぅ……」


 まるで躊躇ちゅうちょしない様子で、俺の額にちょんちょんとハンカチを当ててきた。


「ちょ、いい、いいって」

「よくないですよぅ。藤間くん、タオル持ってないんですか?」

「いや……どうせ、すぐ、シャワー、浴びるし」


 一歩後ずさるが、アッシマーは追いかけて俺の頬や目元を遠慮なく拭いてくる。ハンカチは汗を吸って色濃く変色してゆく。


「お前、なに、してんの」

「牛乳配達のアルバイトですっ」


 汗を拭いてくることに対しての「なにしてんの」だったんだが、アッシマーはそう捉えなかったらしい。


「バイトって……お前、パン工場だけじゃなくて、掛け持ちしてんのか」

「はいですっ。中華料理店と倉庫整理のアルバイトもしてますよぅ? 怒られてばっかりですけど……えへへ……」

「う……」


 アッシマーの身の上を聞けば聞くほど悲しくなってくる。

 そんな身の上なのに、こうしていつものように苦労を表に出さないアッシマーを見れば見るほど切なくなってくる。


「藤間くんはなにをしてたんですか?」

「この格好と状況を見て、なんだと思うんだよ……」


 早朝ジョギング以外のなにに見えるというのか、逆に問いたい。


「えとえと……さすがに無銭飲食ではないと思いますけど……うぅん……」

「俺ならワンチャン食い逃げもありえるみたいな言いかたやめろよな」


 「じゃあえぇと……」と考え込むアッシマー。とんでもない女である。

 これ以上の悪事を捏造ねつぞうされる前に、俺から口を開いた。


「早朝ジョギングってやつだ」

「はぁぁあああああああああ!? 藤間くんが!? 早朝!? ジョギング!?」

「食い逃げよりありえないみたいに言うなよ……」


 アッシマーの声に驚いたのだろう、ガードレールで羽根を休めていた小鳥がぱたぱたと一斉に飛んでいった。


「いつからしてるんですか?」

「昨日」


「ほぇぇ……藤間くんはえらい子さんですねぇ……」

「なんだよそれ……一日でやめたらかっこ悪いから今日も走ってるだけだ」


 なにがえらい子さんだよ。お前のほうがよっぽどじゃねえか。


 なんだよ掛け持ちって。十五歳でバイト四つ掛け持ちってなんだよ。

 そのうえアルカディアでも稼いで……。


 いったい、どんな身の上なんだよ。


 つくづく人間は不平等だ。

 つくづく人間は不公平だ。


 そしてそれを何事もないように笑顔に変えてしまうアッシマーと、仕送りを打ち切られてヘコんでいた自分を比べてしまう。


「あ、あの、藤間くん……?」

「んあ、わ、わりぃ」


 気づけば近い距離でアッシマーを見つめていた。慌てて離れると、アッシマーはふいと視線を逸らす。


 なんとなく気まずい空気になってしまって、そろそろジョギングを再開しようかと思ったとき、遠くから叫ぶような声が鳴り響いた。



「なにサボってんだよー! って、あぁぁああああああああっ!?」



 アッシマーの肩越し──遠くに、アッシマーと同じ薄い青の作業服を着て自転車にまたがる少年の姿。


「……なぁ、あの丸刈りヤンキー、お前の知り合い? 彼氏? ……はありえないか……」

「私に彼氏さんができるわけないみたいな言いかたやめてくださいよ! お、弟ですっ」


 は? 弟?


「あーっ、てめぇコラァ! 姉ちゃんのカレシじゃねえか!!」


 金髪坊主ヤンキーが俺を指差しながら立ち漕ぎで猛然とこちらに向かってくる。


 作業帽は被っておらず、丸刈りの金髪。あどけない顔立ちをしているが、生意気そうな目。


「あれ、お前の弟なの?」

「は、はいですぅ……。ち、ちなみに藤間くんのこと、彼氏さんとかそんなことわたし、ひとことも言ってないですからね!?」

「わかってる。わかってるから右胸だけを隠すのをやめろ」


 俺どんだけお前の右胸好きなの? 言っとくけどそれお前の妄想だからね?



「ゴルァァァァァアアアアア!」



 俺はヤンキーが苦手だ。

 マジ怖ぇ。近づきたくないどころか視界にも入れたくない。


 でも、アッシマーの弟だとわかると、それだけで恐怖なんて感じなくなってしまった。


一徹いってつ! スピード出しすぎですっ……!」

「姉ちゃんは黙ってろぉぉぉオオオッ!」

「アッシマー、離れてろ」


 自転車が火の玉となって迫ってくる。

 アッシマーを左手で追いやって、俺は棒立ちのまま自転車を迎える。


「一徹! 藤間くん!」

「心配すんな」


 アルカディアで、どれだけの殺意を正面から受け止めてきたと思っているんだ。


 槍を持つピピンと比べれば、チャリンコなんて怖くねえ。


 ──それに、止まるだろ?

 止まるよな?


 …………あの、そろそろブレーキかけないと危なくありません?


 金髪坊主は俺の目前でようやく急ブレーキの高い音を鳴らすが、どう考えてももう遅い。


「なんで避けねェんだよォォォッ!」


 激しい接触音。

 腹と胸に衝撃。


 俺、金髪坊主、そして自転車は一緒になってふっとんで、歩道に転がった。


 視界に蒼空がひろがる。

 カラカラカラ……とタイヤのから回る音に混じって、



「へ……へへっ……。すこしもビビんねぇのかよ……。……ご、合格だ……。一緒に疾風かぜになろうぜ、アニ……キ…………」



 頭側からそんな声が聞こえてきた。

 合格とか疾風かぜとか、アニキとかどうでもよかった。



 ただの人身事故だった。

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