09-藤間透が週末を謳歌して何が悪い

09-01-思い出に架かる橋

 春はあけぼの、やうやう白くなりゆく山際──なんて清少納言は言った。


 春は明けがたがいいらしい。

 しかし俺の視界には、白くなりゆく山際も、紫がかった雲もない。


「ほっ、ほっ、ほっ……」


 まだ薄暗く、静まり返った住宅街──人様のお宅と、安物のアパートと、時折きゅいきゅいと変な声で鳴く名前も知らぬ小鳥。


 大通りに出る手前、大きな一本木が目に入った。

 入学当時、この木には桜が咲いて桃に色付いていたような気がするが、いまは枯れ落ちて早朝の寒さをもの悲しくたたえている。


 いちどくらい愛でておくべきだったかな、なんて哀愁にふけりながら、らしくない、とはね飛ばすように足を踏み込んで枯れ木を横切った。


 広い通りに出ても、車ひとつ走っていない。古ぼけた信号機が、車なんて通ってないけど規則だから止まれ、と赤色で俺だけに命じてくる。

 なんとなく止まりたくない気分だった俺は、進路を変更して信号を渡らず、そのまま歩道を駆けた。


 身体が痛む。昨日、久しぶりに走ったからか、起きたなりから辛かった。

 じゃあなんで今日も早朝ジョギングなんてやっているのか、なんて訊かれると、やることがなかったから、なんて曖昧に答えるだろう。


 昨日からやけに早く目覚めてしまう。今日なんて四時だった。俺が掴んだのはゲームのコントローラーではなく、上下黒のジャージ。


 ……俺はどうしてしまったんだろうな。


 その理由に明瞭たる説明がつかぬまま、右手に市川駅を一瞥して通り過ぎた。


「ほっ、ほっ、ほっ……」


 こんなことはありえないし、恥ずかしいから誰にも言えない。

 それでも自分のなかで、いちばん納得のいく理由は。


 アルカディアではない、現実世界の俺の胸にも、なんとなくコボたろうたちがいる気がするから。


 草原があって、洞窟があって、小川があって、うさぎ小屋もあって……。

 みんなそこで、仲良くやっている。


 コボたろうはコボじろうにいろいろ教えてやって。

 昨日入ったコボさぶろう、ぷりたろう、はねたろうには、まるで自分がすべて独学で学んだようにコボじろうが自慢げに説明して。

 いまごろ、うさたろうだってみんなと仲良くなったかもしれない。


 コボたろうなんかは律儀だから、うさたろうの小屋を丁寧に掃除してくれているかもしれない。


 俺は、あいつらに胸を張っていたい。

 ひとりで無為な時間を過ごすよりも、こっちのほうがあいつらに自慢できるから。


 きっと、コボたろうたちも槍を振ったり、怪我をしない程度に立合たちあいなんかして、修行しているに決まってる。

 


 おかしな妄想と一緒に走る。


 ……どこまでだって行ける気がした。



 市川市いちかわしと東京江戸川区を繋ぐ橋の手前で、身体が休憩を要求した。たもとにある新しい自動販売機で、すこしもったいないかな、と思いながらもカードで水のペットボトルを購入してあおった。


「はっ、はっ、はっ……!」


 アパートを出たころは寒いくらいだと感じたものだが、明るくなってゆく空に比例して、むしろそれ以上に身体はすっかり熱くなっていた。半分以上残ったペットボトルを勢いよく頬に当てると、温度差があまりにも高かったのだろう、あまりの冷たさに慌てて離して、こんどはそうっと額、逆の頬へと押し当ててゆく。


 荒い息。激しい律動。身体が悲鳴をあげている。

 でも、まだ行ける。もっと行ける。


 ここ数年で架けられた、東京へとつながる橋は綺麗で新しい。



 ──行ってみるか?


     いや、その先はさすがにちょっと──



 この先は東京、江戸川区。

 そして、その先は秋葉原。


 秋葉原には、両親と、妹のみおが住んでいる。



 ……行ったところで、なにを話すっていうんだ。



 あさぼらけに微睡まどろんだ空の下、橋の手前を右に曲がり、ジョギングを再開した。

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