08-46-A Heartache

「あっ、帰ってきたにゃ! おにーちゃーん! あやにゃーん!」


 とまり木の翡翠亭が見えたかと思えば、ココナの声が聞こえてきた。宿の外壁に取り付けられたランタンに照らされて、地面に映りこんだ手の影がぶんぶんと揺れている。


「あ、あやにゃんとは私のことかしら……」

「そりゃそうだろ。……みんなもう帰ってたみたいだな」 


 ココナの声で、宿の前にいたアッシマーと灯里、鈴原と高木が弾かれたようにこちらを向いた。

 歩く俺たちを迎えるように、こちらへと小走りでやってくる。


「お疲れさま。ふたりともなにしてたの?」


 灯里の問いかけに、まさか七々扇を泣かせていました、なんて答えるわけにもいかず、


「わ、私はついつい小山田さんと小金井さんと話し込んでしまって……」

「ホビットのオッサンたちに捕まってたんだっつの……」


 ふたり同時にそう返すと、灯里は俺の顔についた分厚い口唇のあとをみて、申しわけなさそうに顔を逸らした。


「心配したよー。探しに行こうとも思ったんだけどー。うわー……藤間くんすごいあとー」


 鈴原が俺に近づいてきて、俺の頬を指差す。なんだか痕の数と大きさをひとつひとつ確認されているような……。そしてたまに指先が頬に当たってくすぐったい。


「あんた、夜、オンナだけで探しに行ったら怒るじゃん。それだったら最初っから心配させんなっつーの。綾音もだし」

「ごめんなさい。心配してくれてありがとう」


 鈴原の指を避けているあいだに七々扇が高木にそう返した。高木は驚いたような顔をして、


「……んー? 綾音、なんか変わった? 藤山、あんたなんかした?」

「藤間も藤山もなにもしてません。まず最初に俺を疑うのやめろよな。ついでに名前間違えんなよな」

「ん? あはは、気にすんなって藤木!」

いってぇ……」


 バシバシと背中を叩いてくる高木。……なんだろう、一ヶ月経っても一年経っても間違えられたままの気がする。


 そんな俺に鼻をすんすんと鳴らして近づいてくるアッシマー。


「はわわわわ……。藤間くんからダンベンジリさんの匂いがしますぅ……」

「高校生なんだからもうすこし言いかた選べよな」


 むしろ選んだうえで言っているのではないかと疑うほどの言い草である。七々扇じゃないけど、きっと俺も今日という日を忘れられそうにない。ぐすん。

 何回目だろうか、深い心の傷を反芻はんすうしていると──


「あんちゃん! 綾音!」


 背後から女将の声。続いて首の後ろに衝撃。


「うお」

「きゃっ」


 俺と七々扇は頭を女将の両脇に抱え込まれてしまった。


「アンタたちよくやったよ! あははははっ! アンタたちこそ本当の勇者さまだッ! あははははっ!」


 女将からは聞いたことのないような朗らかな笑い声。


 よかった。


 俺たちは、シュウマツからココナとエリーゼを守ることができたんだ。


 本当によかった──



「ところで」


 女将の笑い声が消えた。

 いやな予感がして、抱え込まれたまま女将を見上げると、顔は笑っているのに、勝ち気な切れ長からは光彩が消えていた。


 七々扇は女将に解放されて、抱えられているのはいつの間にか俺だけ。


 ひどく、いやな予感がした。



「おにぎり。……おいしかった?」



 さぁっ、と血の気が引く音が聞こえた気がした。


「う、うまかったっす」

「そ。……ココナとふたりで丹精込めて握ったからねぇ……」


 頭にかかる力が強くなってゆく。

 対して俺の声は弱くなってゆく。


「い、痛いっす」

「んで? 誰が握り殺すって?」

「あ、あれは言葉のあやで……あ、いや、ちょっと、マジで痛いっす」


 そう言うと女将は腕の力を弱めてくれる。助かったと思ったら、上から質問を投げかけられる。


「アンタはアタシのことをなんだと思ってるんだい?」

「ぇ……宿屋の女将っす」


 加えられる力。

 どうやら回答を間違えたらしい。


「ほかには?」

「え、えっと……料理が上手で」

「ほうほう」


 力が弱まる。正解したらしい。


「家族思いで」

「いいね。あとひとつくらいほしいね」


 これも正解。もうひとつ……!


「力が強い──」

「こんなふうにかいっ」

「ぎゃぁぁああぁぁあああ!」


 どうやら俺は大きな間違いを犯してしまったらしい。


 薄れゆく意識のなか、女性陣の「そりゃお前が悪いわ」とでも言いたげな顔も辛かった。



──



 べっとりとついた汗と薔薇の香りをシャワーで流し、綺麗なコモンシャツに着替える。


 汗を吸って重たくなった衣類をアイテムボックスに仕舞い、シャワー施設を出ると、同じくコモンシャツ姿になった灯里がとまり木の翡翠亭の白壁に寄りかかるようにして夜空を眺めていた。


「……なにしてんだ?」

「あっ、藤間くん。……えっと、ちょっと夜風に……」


 半袖に短パンというアルカディアでのパジャマ代わりの服装は、夜風に当たるにはやや肌寒く感じるだろう。現に灯里は俺が声をかけるまで、寄りかかったまま自分の腕をさすっていたのだ。


「入ろうぜ。風邪引いちまう」


 そう言って宿屋の扉に手をかけたとき、


『あははっ、女将さんすごーい!』

『それ一気! 一気! あははははっ!』

『まだまだこんなもんじゃないよ! アンタらも飲みな!』


 中から酒臭そうな喧騒が聞こえてきた。


「……なぁ。酒盛りでもしてんのか。鈴原とか高木とか酒飲んでんじゃねえだろうな」

「さっきは果物のジュースを飲んでいたけど……でも、アルカディアだと十四歳から成人だから……」


 灯里の言うとおり、現実とは違って、アルカディアでは十四歳で成人と認められ、飲酒や冒険者ギルドへの登録が正式に認められるらしい。


 現実と異世界を行き来する俺たちはどうなるんだ、って話なんだが、アルカディアでは飲酒可能、しかし現実での飲酒は発覚次第退学、ギアは国へ返却する、という念書を学校と国から書かされている。


 だから鈴原や高木が飲んだって合法。

 アルカディアで飲んでも、現実で飲みさえしなければいい。


 それでも念の為、ひとこと物申すべきかと一瞬だけ迷ったが、べろんべろんになった女将には近づいていけないような気がして、俺の手は扉から離れた。


 ──ぶっちゃけ、いまは入りたくない。


「あ、あのっ!」


 灯里の絞るような声に振り返る。数匹のマナフライが慌てるように空高く逃げていった。 


「す、すこし、お散歩しませんか?」


 ……なんで急に敬語なんだよ。




 結局、灯里が自室から上着を持ってくることを条件にして、宿の付近を歩くことにした。

 俺はいま宿の扉をあけると女将から壮絶な絡みかたをされそうだし、そもそも唯一の上着であるクロースアーマーは汗だくの状態でアイテムボックスのなかだ。取ってくる上着がない。


 北側へ行くとエシュメルデの貧困層。あまり治安がよくないといわれており、俺たちの足は自然と南へと向いた。


「ごめんね」


 紺のカーディガンっぽい上着に袖を通した灯里は、帰ってくるとしばらく黙り込んで、ようやく絞り出すように口にした言葉はこれだった。


「ん……なにがだよ」 


 灯里がどうしてこんなことを口にするのか。

 灯里は超火力の魔法で何体ものモンスターを討ち取ったし、とくにジェリーに対しては、灯里の魔法がなければとてもさばき切れなかった。ならば……


「私、怖かった。藤間くんばっかりがいつも辛い目にあってるから。痛い思いをしているから。私のせいで、藤間くんが……。そんなの、許せなかった。それくらいなら……」


『私は、シュウマツを、きょ──』


 灯里の謝罪はやはり、このことなのだ。

 あのときたしかに、俺の胸には焦りと怒りが灯った。


 しかし、ピピンの生命を穿うがてないと思っていた俺も、己を引き換えに勝利を得ようとしたのだ。灯里にどうこう言える道理はない。


「なにも……追放されようとしなくたっていいだろ。あのとき、俺が死んだって明日には復活するんだから」


 これも俺が言えたことじゃない。あのとき、灯里が死んだって、明日には復活していた。

 俺はそれを理解しているはずなのに、身体が勝手に動いたのだ。


「そんなの……わからないよ。痛みと恐怖を植えつけられて、自分からギアを返す人、たくさんいるみたいだから」


 もしかすると俺も、それが怖くて、思わず庇ったのかもしれない。


 アルカディアを経験していない者の多くは、こう言う。

 ──死んでもどうせ生き返るのなら、怖いことなんてないだろう、と。


 実際、俺も子どものころはそう思っていた。


 アルカディアはゲームのような世界だ。

 ステータスがあって、スキルがあって、魔法があって、ウィンドウがあって。


 でも、ゲームじゃない。

 ゲームにはない嗅覚があって、触覚があって、味覚があって、痛覚がある。


 生命を無理やり奪われるほどの尋常ではない痛みを受けて、それでもふたたびアルカディアの地を踏もうとするものは多くない。それは結局、アルカディアでの”死”にほかならないのだ。


 俺たちは蘇る。

 しかし、残機は無限だと考えるのは、大きな間違いなのだ。 



「それでも、ああいうの……もう、やめてくれよ」

「うん。……ごめんなさい。本当にありがとう」


 やめてくれよ、なんて俺に言えたことじゃない。それでも灯里は頷いて笑顔を見せてくれた。


 これで、元通り──



「そ、そのっ……こんなこと訊くの、本当にずるいって自分でもわかっているんだけど」



 ──だと思ったが、じつは本題はここからなんです、とでも言うように、隣を歩く灯里は拳を握り、うつむいたり俺の顔をちらちら見たりと忙しない。

 


「あ、あのとき、その、藤間くんは、私の口を……その、ふ、塞いでくれたよね……?」

「ぶっ」


 ああ、塞いだ。

 たしかに塞いだ。

 しっかりくっきりばっちり塞いだ。 


「ご、ごめんねっ。……救命活動だった、ってわかってるの。わかっているんだけど……。そ、その」

「あ、いや、その、すまんかった。その件に関しては謝る。ほかに手段がなくてだな、その」


 お互いに忘れるべきだろうと思って、意識的に思い出さなかった記憶。

 あのとき灯里は朦朧もうろうとしていたし、もしかして灯里も覚えてないんじゃないか、なんて甘っちょろいことを考えていた。



「あの、ね? あ、あの救命活動のなかに……あぅ……1%でも0.1%でも……そ、そのっ……き、キスは混ざっていたのかなって」


 脳を揺さぶる問いかけ。


 その質問にどんな意味をもっているのかなんて、問い返さなくても理解できる。


 愛の在り処を灯里は問うているのだ。


 あのとき──たしかに灯里を救うためにしたことだった。

 そのなかに、灯里への愛はあったのか。


 愛という単語を広義で捉えれば、あった、だろう。


 灯里は俺を知りたいと言って、

 俺は灯里を識りたいと思った。


 しかしそれは、キスをするような関係になりたいと……ようするに、灯里と恋仲になりたいのか……そこが大きな問題だった。


 灯里の想いに応えたいと思う。

 口には出せないが、好きか嫌いかで訊かれると、間違いなく好きだ。


 灯里のことを思って、そして灯里を失いたくないという自分のことを思っての行動だった。


 ──ならば。


 口唇が乾かぬうちに交わした、アッシマーとのくちづけはどうなるんだ。


 あれも救命行為だった。


 でも、灯里と同じように、あのときもアッシマーとの軌跡を振り返り、ずっと隣に居てほしいと感じた。


 灯里への想いが慕情ならば、アッシマーへの思いも慕情なのではないか。


 それどころか、先ほど七々扇と交わした抱擁ほうようが、俺の胸を疼かせる。



 あれも愛、ならば。



 俺に笑いかけてくれる鈴原も。



 俺を抱きしめてくれた高木も。



 ぜんぶ、愛なんじゃないのか。



 そして、あれも愛、これも愛──そうやって逃げ道をつくっておきながら、結局のところ、俺はまだ誰かと並び立てるだけの人間になっていないのではないか。

 あるいはこれを二心ふたごころではないのかとさいなんでいるのか。



 この二週間で、いろんなことがありすぎた。

 孤独だった俺が手にしたものは、あまりにも多すぎた。


 その区別も整理もつかぬまま、曖昧なまま、灯里に「もちろん含んでいた」なんて返してもいいものなのだろうか。


 そして、

 「あれはキスなんかじゃない、純粋な救命行為だ」

 なんて返答は、自らに嘘をつくことだ、と己の心音こころねが訴えてくるのだ。


 歩きながら、灯里はどれくらい俺の返事を待ってくれているのだろう。気づけば俺は歩きながら頭を抱えていた。

 そんな俺の姿を見たのだろうか、灯里が独りごとのように呟いた。 


「ぁぅ……そんなに、悩んで、くれるんだ……。うれしい、な。……えへへ……」


 灯里の頬はマナフライが照らす夜道でもわかるくらいぽうと赤く染まっていた。

 こんな質問に答えることもできない俺を見ても、こんなにもいじらしく、前向きに考えてくれる。そのことがまた、俺を切なく掻きむしるのだ。



「私、シュウマツでわかったの」


 武器屋の看板がある路地を曲がると、灯里は話を変えてくれた。それにほっとしてしまう自分も情けない。 


「みんなの強さに。……しーちゃんの、強さに」

「……なんのことだよ」


「はねたろうがいなくなっちゃったとき……しーちゃんだけは、はねたろうが生きてるって信じてた」


 俺がはねたろうを忘れてしまって、みんなが俺に詰め寄ったとき……アッシマーはたしか鼻歌を歌い、何事もないかのように調合していた。

 いま思えば、アッシマーは教室に流れる暗い空気を明るいものに変えるため、わざとそうしてくれていたのではなかったか。


「コボたろうたちのいのちを救ったのも、しーちゃんの優しさ──強さだった」


 灯里は優しくも淋しげに微笑んで、視線を落とす。

 踏みしめた枯れ葉がくしゃりと音をたてた。 


「でも私、負けないから。誰にも。しーちゃんにも」

「ぇ」


 丸くなっていた灯里の背がぴんと伸びる。

 

「藤間くんにも。──そして、弱い私にも」


 踏みしめたのは枯れ葉ではなく、自分の弱い心だとでも言うように。

 闇のなかで、灯里の瞳が鳶色に煌めいた。



「私が、藤間くんの”あかり”になるから」



 夜を灯すように。

 闇を照らすように。



「戻ろ? つきあってくれて、ありがとう」


 一歩先んじた灯里はくるりと反転し、両手で俺の向きを変え、背を押してくる。


 ……灯里は、こんな俺のどこが良いと思ってくれているのだろうか。

 入学前、チンピラから助けたのが、もしも俺でなく、たとえば祁答院だったとしたら──


「う……」


 その先を考えることを拒絶するように、胸が痛んだ。

 灯里が、他の男に、照れくさそうにはにかむ──それを思うと。


「ぐ……」

「藤間くん、どうしたの?」


 自分でも驚くほどの身勝手が信じられない。

 明確な答えを出さずにおきながら、ちっぽけな嫉妬心は、ちっぽけなこの身を焼くほどの痛みを訴えてくる。



 あの救命措置に、愛はあったのか──



 この胸のうずきが、答えを教えてくれている気がした。

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