07-22-お前が外すのは鎖だけかよ
目覚ましが鳴る前に目が覚めて、時計を見ればまだ五時半だった。
いつもは覚醒まで時間がかかるはずなのに、目覚ましが鳴ったということは、ここは現実だな、とあっさりとわかるほど意識は澄んでいる。
もう一度布団に潜っても、一向に寝られる気配などしない。
俺、どうしちまったんだろうな。
モンハンでもやろうかとテレビへ向かうが、その途中で目に入った、ラックに掛けられている黒のジャージに気を取られ、しばらく考えこむ。
……本当に、どうしちまったんだろうな。
──
「藤間くん、おはようっ! あれ? どこか調子悪いの?」
「おはようさん。……べつになんもねえよ」
通学路、いつもの交差点。
ここに来るまでの道のりが、やけに長く感じた。
「そう? ……そうかな。脚ぷるぷる震えてるよ? 産まれたての子鹿だよ?」
人生初の自発的な早朝ジョギングは、俺に強烈な足腰の痛みをもたらした。
なにをしても痛い痛い。ぎくしゃくと壊れかけのロボットのようになりながら、灯里とふたり、通学路を往く。
だって、しょうがねえじゃねえか。
あの紫を見ちまったら、動かざること山の如しな俺でも、いてもたってもいられなくなっちまった。
ジョギングをしたって、アルカディアで足腰が強くなるわけじゃない。そんなことはわかってる。
でも、変な話だが、ゲームのランクを上げるより、自分を許せる気がしたから。
「……シュウマツの渦って、私たち全員参加なのかな」
「さあな。選ばれた異世界勇者って書いてあったけど、どうなんだろうな。捉えようによっちゃ、参加条件を満たしてるってだけで選ばれたと言えなくもない」
昨晩アルカディアにて開示された情報ぽっちじゃ、なにもわかりようがない。
エシュメルデに拠点のある、アルカディア歴一ヶ月未満の異世界勇者って何人いるんだよ。一万人いるならそこから選ばれるだろうし、50人くらいしかいないんだったら、すでに全員選ばれたことになっていてもおかしくはない。
選ばれたなら、渦の中で防衛ラインを突破されないように死守。
選ばれなければ、防衛ラインを突破したモンスターの殲滅。
どちらが危なくて、どちらが責任重大かなんて、言うまでもない。
だって、防衛ラインを突破されるってことは、きっと、渦の人間はもう
「おっ…………はよー!」
「ぎゃああぁぁああぁぁあ!」
若干ナイーブになった俺の脳を、後ろから勢いよく飛び込んできた高木が揺さぶった。足腰にまで至る衝撃が、痛みとなって
高木は横並びになった俺と灯里の間に入り、両腕をふたりの肩にまわしてきたのだ。ちなみにいまの絶叫は俺のものである。
「あ、ご、ごめんって。そんなに驚かなくても……」
「ふざけんなよお前コラ、ビビったっつーか身体が痛えんだから刺激しないでくれよ」
「藤間くん、やっぱり身体痛いんだ……。怪我とかじゃないよね?」
こちとら早朝ジョギングのせいで強烈な筋肉痛なう。しかし恥ずかしくてそんなこと言えるはずもなく、俺はごにょごにょと口ごもるしかない。
つーか高木お前どんだけ距離近いんだよ、いきなり異性と肩を組むとかどんだけビッチなの? めちゃくちゃ顔が近かったから、叫びながらもこいつまつげ長っ……とか思って、すこしどきどきしちゃっただろ。
……。
でも。
元気になっていて、よかった。
──
『悠真、奴隷ってどーゆーことなん……? 悠真が、買った、の……?』
『ああ。姉妹で売られていてね。ミーナは妹のほうで──』
『そーゆーこと訊いてるんじゃない! なんで悠真がそんなことしてんの!?』
『俺は開錠率が高くないから、代わりにミーナにお願いしているんだ』
祁答院には悪びれた様子がなにひとつない。
人が、人を買う。
人が、人を飼う。
アルカディアでは、それが許されている。
文明も文化も発達していないし、奴隷解放宣言をした偉人もいない。
だから、いまだに奴隷制度が残っているのだ。
『悠真あんたどうしちゃったわけ? そんなことしなくても、あたしらと一緒に来ればいいじゃん! あたし何回も何回も誘ったじゃん! こっち来なよって!』
『いまの俺が行っても、勝てないから。──これでも負けず嫌いなんだ』
『誰に!? 何に!?』
祁答院は困ったな、と言わんばかりに苦笑する。
届いて、いない。
高木の叫びが。叫びの理由──すなわち、アルカディアでは合法とはいえ、奴隷の購入なんて現実では禁忌だというモラルに基づいた咆哮が、祁答院には届いていない。
俺には、ふたりともの気持ちがわかる。
そんな高木の思いも。
祁答院の、アルカディアでは合法なんだからと言わんばかりの苦笑も。
でも。
『高木、落ち着け。気持ちはわからんでもないけど、その子を怖がらせていい理由にはならねえだろ』
ミーナと呼ばれた猫耳少女は祁答院の背に隠れ、身体を震わせていた。
『っ……! …………帰る』
高木は納得してくれたのか、踵を返して街へと足を向ける。追いかけようとした俺の背に、
『きみは、俺を、責めるかい?』
祁答院の悪意──その有無はわからない。
しかしそれはまるで、悪にでもなるといった俺への皮肉だった。
『責めねえよ。生きかたなんて人それぞれだろ』
あのとき、アッシマーに出会わなかったら。
リディアが取引相手になってくれなかったら。
灯里が加わってくれなかったら。
ありとあらゆるたらればで、奴隷の購入という選択肢は、俺にもあったのだから。
でも。
光り輝くカースト頂点に立つお前が、それをするかよ。
わかってる。こんなの、トップに立つ人間に対する、俺の勝手な
奴隷を購入するという禁忌を犯すのは、どうしようもなくなって、底辺になったやつがすることだなんて、俺の価値観でしかない。
それでも。
『責めねえ。────でも、お前が外すのは、その子とお前をつなぐ鎖だけかよ』
それだけ言って、高木の背を追いかけた。去り際、背にかけられた言葉に、しかし胸の痛みを感じながら。
──
「……であるからしてー」
ノートにだけは写しているものの、授業の内容なんてちっとも入ってこなかった。
自分のこと。
灯里やアッシマーのこと。
アルカディアのこと。
シュウマツのこと。
勉強くらいしか取り柄のなかった俺が、いまは考えることが多すぎる。
『鎖だけ? 藤間くん、なにを言っているんだい? 鎖だけじゃなく、首輪まで外したら、奴隷じゃなくなってしまうじゃないか』
背中で浴びたあの言葉が、俺の聞き間違いだったと思いたくても、どれだけ自分を誤魔化しても、俺の耳は、俺の脳は、一字一句違わずそう認識してしまっている。
俺は祁答院を知らない。
だから、あいつの口からそんな言葉が出たなんて信じられない──こう思ってしまうのは、俺のエゴだ。
しかし、じゃあ、なんだったんだよ。
俺に見せてくれた優しさは、なんだったんだよ。
一緒に砂を集めてくれたときの汗と笑顔はなんだったんだよ。
わかってる。俺のエゴだ。
祁答院はいいやつだ。
だから、奴隷を買うなんて選択肢をするわけがない。
したとしても、それはあくまで誰かを救うためであり、なにか事情があるんだって。
祁答院。お前はいったいなにを守りたくて、いったいなにを捨てたんだよ。
お前はきっと、親しい者全員を守りたくて、俺にあんなことを言った。
すべてに優しいのなら、すべてに冷たいことと変わんねえ。
なら、すべてを助けるってことは、すべてを見捨てるってこととどう違うんだよ。
両極にいる二者ともを守ることなんてできねえよ。そして俺は、お前にその片方を託されるほどの人間じゃねえよ。
もしかしてお前は、それでも両方を捨てられなくて、代わりに自分を捨てたんじゃないのか。
……ははっ。祁答院に偉そうなことを言った俺が、こんなことを思っちまうなんてな。
でも祁答院。それは本当にお前のやり方なのかよ。俺には捨てるものが自分しかなかったけど、お前にはたくさんあっただろ。
お前が積み上げた塔を自分で崩しちまったら……
お前はやはり、すべてを助けるつもりで、すべてを壊しちまうことになるんじゃねえのか。
その証拠に。
果たしてあれだけ気遣いのできたお前は、ちゃんと気づいたのかよ。
お前が助けたいと願った、目には見えない、高木の涙に。
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