06-11-滅びの空

 ──悪夢を、見なくなった。


 だから、俺はそれを記憶の片隅に葬って、新しい日々を受け入れた。


 忘れたいけど忘れられない。

 それでも風化した出来事だと無理矢理頭から追い出して、胸から絶望をかき消そうとした。忸怩じくじたる思いを、背中のきずに封じ込めて。


 そうして生きてきた俺は、三人と再び出会うことにより、内側から掻き毟られるような気持ち悪さを覚え、身体からこみあげる嘔吐感をこらえた。


───


「…………んじゃ、俺帰るから。鍵頼むな」

「うん。ピアノ、いつか聴かせてね」


 眼鏡女子──大桑おおくわも、うさたろうの世話をするようになってしばらく経つ。俺は大桑に後始末を任せ、ピアノ教室へ向かった。



 その帰り道、朝比奈芹花に告白された。



「はじめて会ったときから好きでした! 私とつきあってくださいっ!」



 信じられない。

 朝比奈が、というよりも、人間が信じられない。


 また、罰ゲームなんじゃないだろうか。

 こんな可愛い女の子が、俺の事を好きになるはずがない。



 ──けど。



 ────朝比奈芹花は、周到だった。



 ガキンチョからのつきあい。

 小中と学校が違うから、獅子王や七々扇とも絡みがない。

 そして無防備にボディタッチをしてきたり、目が合うと赤面したり、肩が触れると慌てたり。


 これが罰ゲームなら、どれほど手の込んだ罰ゲームなのだろうか。


 朝比奈のことは嫌いじゃない。

 俺がいちばんつらいとき、元気をくれたのは朝比奈だった。

 だから、信じたい。


 信じたい。

 信じられない。

 信じたい。

 信じられない。



 ああ、そうだよ。



 信じたいよ。



 ここで朝比奈を信じられなかったら、俺はもう誰も信じられねえよ。




「ああ。俺も好き──」



 カシャ。



 …………え。



 決断してようやく開いた瞳に映ったのは、今まで見たことの無いような笑顔でスマホを構える朝比奈。そして耳を打ったのは、あまりにも無機質で残酷な撮影音。



「…………ぷっ」


「……え。お前、なにして」



 そこにはなんの媚びもない、残酷で冷酷な魔性があった。



「本気だと思いましたぁー? ふふっ、藤間くんみたいなクソザコを芹花が好きになるわけないじゃないですかー☆ 身の程をしってくださいね♪」



 笑顔で人が殺せるなら、間違いなくこのとき俺は死んだ。

 言葉が刃だとしたなら、間違いなく俺はバラバラになった。



 朝比奈芹花は、悪魔なんかじゃなかった。



 ……悪魔のほうが、まだよかった。



「いまの顔、最高にじわります☆ あ、獅子王くんにRAINで送っとこーっと」


「し、し、おう……?」



 それなのに朝比奈は俺を許してくれなくて、むくろ同然の俺を事実という鈍器で殴りつけてくる。


獅子王龍牙ししおうりゅうがくん。もちろん知ってますよね? ぷっ。小中と苛められてきた相手ですもんねー☆」


 なんで。

 なんで、朝比奈が獅子王のことを知ってるんだよ。


「ほら、芹花って尽くすタイプじゃないですかー。だからカレシの言うことって、なんでも聞いてあげちゃいたくなるんですよねー☆ たとえそれが『罰ゲーム』でも」


 罰ゲーム。

 …………罰ゲーム。


 朝比奈と獅子王の関係なんてもうどうでもよくて、罰ゲームという単語だけが、俺の身体を、記憶を、魂を強く揺さぶる。



 ああ、なんだ。



 やっぱり、そうだったんだ。



 俺に向けられる好意などあるはずがなくて。



 それはすべて罰ゲームで。



「あーあ、みっともない。尻もちつかないでくださいよー。まあそのほうが獅子王くんも喜んでくれるからいいですけど」



 なおもやまない無機質なシャッター音すら優しく感じた。



「なんで……こんな……?」


「さぁ? 詳しくは聞いてないから知りませんけど。あ、反抗的な目がムカつくとか根暗だとか言ってましたよ?」



 なん、だよ、それ。



 それだけの理由で、俺はここまでされなきゃいけないのか。



 朝比奈との日々はすべてつくりもので。



 朝比奈の笑顔はすべてまやかしで。



 すべて獅子王がこのときのために敷いた道路だったのだとしたら。



 この世には善意などなくて。



 あるのは悪意と、善意や好意に見せかけた悪意だけなんだと。



「あれ? もう帰っちゃうんですかー?」



 もし、そうなんだとしたら。



『うさたろう可愛いね』

『うさたろう、餌だよー』

『藤間くんのピアノ、いつか聴かせてね?』



「うさたろうっ……!」


 スマホを構えたままの朝比奈を捨ておいて、駆け出した。


 今日初めて、大桑に飼育小屋の鍵を預けた。

 もしも、あれも悪意ならば──


 夕暮れの学校。

 煌々と夜を照らすグラウンドの照明を切り裂くように駆けた。


 飼育小屋は校庭とは離れた、あまり人の立ち寄らない場所に建てられている。そこには、普段見慣れない数人の生徒が見張りのために立っていて、きょろきょろと視線を泳がせていた。



 俺はなにひとつ躊躇せず突っこんだ。



「うさたろう!」


「うわ、藤間!」

「やべ、獅子王くん、藤間が……! ぶえっ」



 見張りを殴り捨て、小屋内へ突入する。



 そこには──



 数人によってたかって蹴りつけられるうさたろうの姿があった。



「なにしてんだお前らァァァァ!!」



 そこから先は、よく覚えていない。


 吼える俺。

 笑みを浮かべる獅子王。


 数人に押さえつけられ、中坊のくせに喫煙癖でもあったのか、獅子王の取り出したジッポライターの火で背を炙られる俺。

 痛みでうめきながら、うさたろうを許してくれと嘆願する俺。




 ──気づけば、自室のベッドで天井のシミを数えていた。



「……んあー…………」

「おにい!? お母さん、おにいが!」

「透ちゃん!」


 家族の話によると、俺はたくさんの人間に暴力を振るったらしい。

 包帯を巻かれた拳と宙で吊られた脚が、俺が乱暴な加害者であることをものがたっていた。


 親父は俺に空手を習わせたことを後悔した。俺がそれを武道ではなく、一方的な暴力に使ってしまったのだと。



 寝返りを打つたびに背中が痛んだ。

 それなのに胸の痛みの原因は思い出せなくて、ふとしたことで記憶の面影が脳をよぎり、俺をさいなんでは消えてゆく。



 少年課の刑事によれば、俺は十四人もの人間に対する傷害事件を起こした。

 そのときに生じたストレスから己を守るため心を閉ざし、記憶障害になっているらしい。なんでも、辛いことがあった人間はそうやって己の記憶を都合よく消去し、自己防衛に努める本能があるそうだ。



 俺はその後、十日間の自宅謹慎になった。

 その日から、決まって同じ夢を見るようになった。


 少し広めの小屋。

 そこで俺は押さえつけられて、なにかを叫んでいる。 


 なにも見えないのに、だれかの声だけはしっかりと聞こえるんだ。

 俺のすべてをなかったことにしようとするような声が。


『可哀想になぁ。お前も藤間なんかと関わらなきゃ、こんな酷い目にあわなかったんだけどなぁ。恨むなら藤間を恨めよ? ぜーーーーんぶ藤間が悪いんだから。なあ、そうだろみんな』

『あwwやべwwww前脚千切れたwwwwww』

『お前らなにやってんだよ、しっかり押さえとけ…………うおっなんだこいつ狂いやがった! やべえ、先生呼んでこい! ちょま、おい、やばいって、シャレになんねえって、ぎゃああああああああ!』


 視界が真っ赤になって、その誰かに掴みかかったところで夢は終わる。


 夢が覚めたあと、どうして俺は声の主をちゃんと殺せなかったのだろうという後悔と、それよりも深く大きく、なにか大事なものを亡くした喪失感からくる哀しみで枕を濡らした。



 うさたろう…………。

 んあー……? うさたろうってなんだっけ。


 獅子王ッ…………!

 んあー……? 誰それ。



 ひどい記憶障害と睡眠障害。


 鮮明に思い出しては、もやのように消えてゆく。

 明確に思い返しては、ゆずりはのように散ってゆく。



「透、澪。引っ越すぞ」



 引っ越す原因が俺にあるのは明らかなのに、その理由を思い出せないことが申し訳なかった。俺と違って澪には友達がたくさんいたのに、俺のせいで台無しにしてしまった。


 それでも、澪は、俺に恨みごとひとつ言わなかった。



 引っ越し当日。



「ふ、藤間くん!」


 荷物を積み終え、家族のお荷物である俺が最後に車に乗り込むその刹那、ポニーテールの女子に声をかけられた。

 妹の澪はそいつが誰だかわかっているみたいだったが、俺にはさっぱりだった。


「んあー? 誰だっけ」


「ごめん……なさい…………」


 謝られても、俺には理由なんてわからない。

 一度首を傾げて車に乗り込むと、親父はアクセルを踏み、住み慣れた家を後にした。


 ミラー越しに、コンクリートに膝をついて頭をこすりつけるポニーテールが目に入り続けた。


───


 蘇る記憶。

 迫り来る暗黒。

 俺のすべてを包み込む絶望は、目の前の三人のようでいて、しかしすでに俺の心に存在していた。

 

 あたたかな日々を否定する三人。



「おひさし……ぶり、ね」


 黒のポニーテールを戸惑いがちに揺らし、目を伏せる七々扇綾音ななおうぎあやね



「ええーっ? なんで藤間くんがアルカディアにいるんですかぁー?」


 亜麻色のセミロング──下半分だけウェーブをかけたような髪をくりくりと弄る朝比奈芹花あさひなせりか



 そして──



「いいか、こいつはな。中坊のころ、暴れまくって俺たち14人に一方的な暴力を振るったとんでもないヤローだぜ」


 逆立てた金の短髪。190cmはあろうかという長身から俺を見下しながら口角を上げる男が獅子王龍牙ししおうりゅうが

 その表情には『なんでまだ生きてんだよ、気持ち悪い』という理不尽な嫌悪感と『新しいおもちゃを見つけた』とでも言いたげな、無垢な冷酷が浮かんでいる。



 こいつらは、だめだ。



 俺のあたたかな日々を、罰ゲームにしてしまう。



 アッシマーも灯里も、一緒にいる高木と鈴原も罰ゲームにされてしまう。



 そしてなにより。



『ぷぅぷぅ』

『よーしよしよし、うさたろうは可愛いな。うりうり、うりうり』



 俺の大切なものを、奪ってゆく。



 アッシマーも、灯里も、奪われてしまう。



 それだけは──



「最っ低…………」



 聞いたことのないような灯里の冷たい声が、冬の訪れを告げた。



 ──それで、いい。



 悲しいけど。

 泣きたいくらい寂しくて、立ち上がれなくなるくらいつらいけど。



『藤間くんのペースでいいんですよ』

『好きだよ、藤間くん。大好き』



 俺は、今度こそ忘れない。



 こいつらを守るためなら、俺はどんな悪にだってなってやる。



「そうだ。俺は誰彼構わず暴力を振るう最低ヤローだ。どうやって殴ってやろうかだけ考えてお前らと一緒にいた。あーあ、バレちまったか」



 俺の言葉に、獅子王の顔が笑みで醜く歪んだ。

 こいつらはもう、俺の味方じゃない。

 これで獅子王はきっと、こいつらに手を出さない。



 アッシマー。

 灯里。



 泣きそうだよ、俺。



 でも、これしかねえよ。


 

 大丈夫だよ、藤間透。大丈夫。



 罰ゲームなんかじゃないよ。



 これからの俺の道に、お前らはいないけど。

 これからのお前らの道に、俺はいないけど。



 これは、罰ゲームなんかじゃない。



『藤間くん藤間くんっ! さささ、起きてくださいっ、採取に行きましょう!』

『だから、かっこいい……ん、だよ?』

『んあー……』



 狂おしいほどいとおしい想い出のなかで、また逢えるから。




(続)

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