06EX-空の彼方

06-10-嘆きの空

 ──アルカディアは、夢を見ない。

 だから、あの悪夢を見なくなった。


 忘れてはいけない愛しさと、忘れなければ自分を保てない絶望がい交ぜになった、あの悪夢を。


 人混みのなか、喧騒が消えてゆく。

 それと入れ違いで、蘇る記憶。


 三人の顔を見たことで、あの暗黒が、あの絶望が、あの虚無感が、そしてあの喪失感が大挙して押し寄せる。



 ──いま思えば、あの日からはじまった。


───


「いつも優しい藤間くんが好きっ!」


 黒のポニーテールにほおずきみたいな赤い顔。

 小学校からの帰り道、七々扇綾音ななおうぎあやねから告白された。


 いまはこんな感じの俺でも、小学六年生ともなればピュアっピュアだ。家が近所の、いわゆる幼なじみである七々扇とはそういう会話なんてなくても、もしかしたらいつか結婚するんじゃないかって思っていたし、この告白は俺をときめかせるにも舞いあがらせるにも充分だった。


 俺も嫌いなんかじゃなかった。

 むしろたぶん好きだった……かもしれない。


 でも、俺も好きだ、なんて幼心おさなごころにも恥ずかしくて言えるはずがなく、


「うん、ありがとう、綾音ちゃん」


 それだけ言って、明確な返事をしなかった。それでも七々扇は嬉しそうに笑ってくれたんだ。



 俺と七々扇は同じクラスの美化委員だった。美化なんて名前がついているが、小学生にそんな大層なことをさせるはずもなく、俺たちの仕事はもっぱらクラスに申し訳程度でおいてある鉢植えの管理と、校庭にある花壇への水やりが主な仕事だった。


 ある日、花壇の一角が踏み荒らされていた。植えてあった朝顔は全滅。七々扇は泣いて悲しんだ。


「犯人は藤間くんでーす。俺見ましたー」


 同じクラスの獅子王ししおうがホームルームでとんでもないことをいいだした。

 もちろん身に覚えなどない。即座に否定して、水掛け論のままホームルームは終わり、それなのに俺がやったんじゃないかと疑いの目を向けられる日々が始まった。



「藤間くんがそんなことするわけないよ。私、知ってるから」

「当たり前だよ。なんで獅子王はあんなこと言うんだろう」


 獅子王は外国人とのハーフで、イケメンで背が高く、喋るのも上手で、友達らしい友達が七々扇くらいしかいない俺と違ってクラスの人気者。

 クラス内の味方は七々扇だけになったころ。


「七々扇が藤間に告ったってー?」

「ありえねー! 花壇ボロボロにしたくせに!」

「罰ゲームだろ罰ゲーム!」


 そんなからかいが始まった。


「やめてよ、そういうの」


 子供というのは怖さを知らないぶん、勇気がある。俺は七々扇を庇うように前にでた。

 そんな日々が延々と続いた。


 そして、やがて──


 靴を隠された。

 筆箱を隠された。

 教科書を隠された。


 無くなったものはだいたい、臭い便器の中から見つかった。


 殴られた。

 蹴られた。

 嘘つきと罵られ、唾を飛ばされた。


「お前がやったんだろ、嘘つき!」

「やって……ない……」

「嘘つき!」


 どうしてこんなことになるのか、全然わからなかった。

 獅子王が俺を疑ってから、全部がおかしくなった。

 あのホームルームから、すべてが狂った。


 そう、思っていたのに。


「みなさーん、七々扇さんからお知らせがありまーす!」

「うっく……ひっく…………ごめん、なさい…………罰ゲーム、でした……。藤間くんへの告白は、全部、罰ゲーム、でした……」



 狂ったのは、もっと前からだったんだ。


───


 それ以来、家が近くだというのに、俺と七々扇が声を交わすことはなかった。


 中学へ上がるとき、獅子王と七々扇が同じ学校だということに嫌気が差したが、それよりもひとつ下の妹──みおがイジメの巻き添えを食う前に中学生に上がれたという安堵感のほうが大きかった。


 澪は七々扇に懐いていたし、ふたりは姉妹のように仲が良かった。しかしあの日から七々扇は、俺は当然だが、澪とも関わらなくなった。



 中学では無に徹した。中学一年、中学二年と無に徹した。

 七々扇や獅子王とは別のクラスだったこともあり、イジメられることはなかったが、休憩時間はいつも寝たフリだったため、陰キャ、根暗、キモいなどの陰口を言われるようになった。


 中学三年生で、獅子王と同じクラスになった。

 俺のなにが気に入らないのか、あいつは俺が静かにしていても、事あるごとに煽りたおしてくる。


 学校は針のむしろだった。学校と習い事のサイクルで、小学校ではいちばん嫌だった、無理やりやらされていた習い事が俺の救いだった。



「藤間くん、手がおっきいですねー☆ ほらほら、芹花せりかよりこんなにもおっきいですっ!」

「あっ、ちょ」


 小学校から同じピアノ教室に通う朝比奈芹花あさひなせりか

 すこし離れた場所にあるため、おなじ中学校に通う者はおらず、朝比奈は俺が受けているイジメなど知るはずもない。


 馴れ馴れしかった。

 でも、それがありがたかった。

 あざとい喋りかたも、べつに嫌いだと思わなかった。


──


 俺の通う中学校には、ウサギの飼育小屋があり、いつの間にか飼育委員になっていた俺は、朝と昼、下校時の餌やりが日課となっていた。


「よーしよしよし…………」


 俺の与えるペレットや牧草を一生懸命食べる姿が可愛くて可愛くて、


「ぷぅぷぅ」

「本当に可愛いな……」


 こんな俺に懐いてくれることが、心から嬉しかった。


──


 あるとき、朝比奈が急によそよそしくなった。ピアノ教室で目が合うと顔を赤らめて逸らす。連弾で肩がくっつくと盛大にミスる。


「どうしたんだよ」

「芹花、変かもです……。ずっと胸がドキドキしちゃって……えへへ……」


 亜麻色のふわっとしたセミロングを揺らす……そんな朝比奈に、俺はなんのときめきもなかった。


『ごめんなさい……罰ゲーム、でした』


 幼なじみである七々扇との思い出は消えてくれないのに、俺の浮ついた心を生まれる前に消してゆく。

 俺の未来から、希望や期待を『罰ゲーム』に塗りつぶしてゆく。


 だから、なんのときめきもない。



「あーん! 足くじきましたぁー! 藤間くん、おぶってくださいー!」


 ないけれど、女子として意識していないわけではない俺にそんなことができるはずもなく、学校ではひとりの味方もいない俺の依り所となっている朝比奈に、仕方ないから肩だけ貸してやる。


 やたら身体を密着させてくる朝比奈を見ないようにして、夕焼けに伸びる長い影を意味もなく見つめたまま帰途についた。


──


「よーしよしよし、うさたろうは可愛いなぁ…………」


「ふ、藤間くん、ちょっといい? です、か?」


 ウサギの飼育小屋でうさたろうを愛でながら気弱な声に振り返ると、名前も知らない眼鏡女子が声に負けないくらい弱々しい目を俺に向けていた。


「……なに」

「ぅ……私も飼育委員だから……私もお世話したいな、って……その……」


 そういやこの眼鏡をかけた女子、同じクラスかもしれない。

 影が薄いからとかではなく、人との関わりを絶ってきた俺からすれば、クラスメイトの名前なんて覚えようともしていなかった。


「うわぁ…………かわいいね…………」


 うさたろうをなでりなでりする、名前も知らぬ女子の眼鏡越しに見える瞳は煌めいている。


「うさたろうっていうんだね。藤間くんがつけたの?」

「……まあ。俺しか呼んでねえけど」


「ぷぅぷぅ」

「あはっ、うさたろうかわいいー!」



 俺しか呼ばない名前を他の誰かが呼んでくれることを、すこしあたたかく感じた。

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