05-18-転──少女が成長した日

「お嬢様、お見事でした」

「え?」


 入浴を済ませて自室へ戻ると三船さんが待っていて、私に恭しく一礼した。


「イメージスフィアを確認致しました。オルフェ海に面する砂浜を録画したスフィアです」

「ええーっ!? も、もしかして……?」


「好きだよ、藤間くん。大好き」

「きゃーーーーーー! やめてやめてやめて!」


 私の声真似をする三船みふねさんの口を慌てて抑える。

 三船さんは頼れる姉のような存在だけど、少し意地悪な一面があるのだ。


「こ、このこと、お父様とお母様は……?」

「無論、ご存じありません。おふたりには違うものを。奥様が知れば卒倒、旦那様が聞けば失禁するかと思われます」

「よかったぁ…………」


 この家令が雇い主のことをどう思っているのかはさておき、イメージスフィアを秘密裏に入手し、両親には当たり障りのないスフィアのほうを手渡してくれたことはありがたい。


「絶妙な告白でした。わたくしがあれこれ申し上げるより、お嬢様の飾らない告白は藤間少年の心を強くうった」


「ぅ……。届いて……た、かな?」


「ええもちろん。藤間少年のお嬢様を見る眼がオンナを見る眼になりました」

「言いかた!」


 ぅ……すごく恥ずかしい。けど、でも、本当だったら、嬉しい、な。


「お嬢様の美しい瞳はすでに、彼をオスとして捉えておりますし」

「だから言いかた!」


──


 胸が、苦しい。


「あいつらが来るんなら、俺はアッシマーを連れて宿を出る」


 藤間くんと足柄山さんは仲がいい。同じ部屋にも住んでいる。

 それでも、ココナさんのお店で亜沙美ちゃんの聞き出した"付き合っていない"という言葉に依存して、どこか安心してしまっていた。

 一週間も同じ部屋に住んで進展がないのならきっと大丈夫、とよくわからない安堵を得ていた。


 それでも、生まれていた。


 私の知らない、絆が。



「お前のペースでいいんだよ、鈴原」



 藤間くんは、変わらない。

 私を助けてくれたあの日から変わらず、すごく優しい。


「か、香菜、あんたまさか……」


 茶色のふわっとした髪が、揺れる。

 いつもマイペースな顔は真っ赤で、瞳を見開いて、藤間くんと目が合えば、どうしようと私たちに助けを求めるように泳ぎだす。


 はじめて見た友人の顔に、いちばん焦ったのは私だった。


 この恋は、私だけのものだと思っていた。


 私の藤間くんへの想いは、私だけのものだ。

 でも、これだけ優しい彼だ。私以外が恋に落ちないなんて、そんな保証など、どこにもないじゃないか。


 でも私は負けない。



 この想いだけは絶対、誰にも──!!



「ふ、ふ、藤間くんはそんなことしませ──」

「藤間くんは悪くないッッ!!」



 ──だ、れ、に……も…………。



 藤間くんへの暴言が支配するこの教室を、ふたつの勇気がつんざいた。


 いつもはおとなしいしーちゃん。

 マイペースで、あまり自分の感情を表に出さない香菜ちゃん。 


 なにもできない自分が、歯痒かった。

 握りこぶしをつくり、大きく息を吸って……でも、立ち上がれなかった。


 そうして私はなにかに打ちのめされて、勇気の代わりに溢れた涙を撒き散らし、教室を飛び出した。


『困ったことがあれば、すぐに言いなさい』

『なにかあったら、すぐに駆けつけるからよ!』


 ”言葉に意味なんてない”のなら。


『好○だよ、藤間くん。大○き』


 あの日、想いが溢れてまろびでた私の言葉は、雲散霧消──霧となってすこしずつ消えてゆく。


「あっ……あっ……! だめっ……!」


『好○○よ、藤間○ん。○○き』


 廊下でひとり、消えてゆく大切な言葉を掻き集めても、意味のない『言葉』でしかない私の慕情は、ふたりの『勇気』に塗りつぶされてゆく。


「藤間くん、藤間くんっ……!」


 やめて。消さないで。

 私の想いを、なかったことにしないで。


「藤間くんっ……!」


 どこにいるの。


 涙も鼻水も捨て置いて、ただ廊下を走った。

 私にはなかった、さんざめく綺羅星のようなふたりの勇気がいまも脳で煌めいて離れない。手を伸ばしても届かない輝きが、臆病な私を見下ろしている。


「好きっ! 好きだよ、藤間くんっ!」


『好○○○、藤間○○、○○○』


 駆けながら叫ぶ。


 しかしまるでバベルの塔。

 百万の言葉を積み重ねても、天に届くことはない。


 崩れてゆく。

 消えてゆく。


 これが消えれば、認めてしまう。


 それだけは、駄目っ──!


「誘い受けの可能性はー?」

「祁答院くんがー? でも誘い受けとヘタレ受けじゃカプ成立無理でしょー」

「相手がヘタレ受けじゃ無理だよねー」


 …………!


「あのっ……! はあっ、はあっ、祁答院くんたち、どこですかっ!」


 前方からきゃっきゃと嬉しそうに歩いてくる三人組を呼び止めた。


 ぎょっとした相手から聞き出した、特別棟の第四会議室へと全力で駈ける。

 しかしドタバタとした足音は三教室ぶんほど手前で止まり、ふらふらと力無い足音と激しい鼓動だけが胸に響いた。


 ──と。



『きみに頼みたいことがある』


 会議室から、祁答院くんの声。

 …………部屋が広いため、声が反響し、外にうっすらと漏れているのだ。

 

 思わず扉の陰に身を潜め、耳を澄ませた。


 藤間くんを一目見れば私はきっと大丈夫。そう思っていたのに、私はなぜこんなことをしているのだろうか。


『友達を……亜沙美と香菜、そして伶奈を守ってほし──』

『ほほふぁる(断る)』


 急に自分の名前が飛び出して驚いたのも束の間、待ちわびた藤間くんの、なにかを口にしながらの声がばっさりと否定した。


 どういう、こと?


『理由を訊いても?』

『俺にはそうする理由がない。ただ、お前の願いの三分の一は頼まれなくてもやる』


『三分の一?』

『アッシマーと灯里はなにがあっても守る。その理由が俺にはある。でも高木と鈴原にはないからだ』


 なんの話なのかはわからない。

 しかし藤間くんの声は、とくんとしたときめきと、ずきんとした痛みを同時に運んできた。


『祁答院。守ってほしいってのは、なにから守れって言ってるんだよ。俺にはお前が矛盾しているように見える』


 祁答院くんは信じられないくらい良い人だ。

 ふたりからもモンスターからも守ってくれるし、誰かが怪我をすると、とても心配してくれる良い人。

 藤間くんにいちばん優しくしてくれた、良い人。


 そのあとも祁答院くんに対する批判は続く。


 胸が痛んだ。


 大切な人が、己に傷をつけながら私の友達を批判するその声に。

 そして、藤間くんの言う誰にでも優しいということは、誰にでも冷たいということ──それは、祁答院くんだけじゃなく、私にも言えることだった。


 そして図々しくも、足柄山さんと私──ふたりの名前が藤間くんの口から出て、わかっていたことだけれど……藤間くんに恋愛感情がないことを改めて認識させられ、苦しかった。



 ──私、いやなやつだ。



『俺には大それた望みも、なにかを変えてやろうって大志もねえ。でもな』


 これ以上は、耐えられない。

 飛び出して、止めよう。

 友達を守るために。そしてきっと、胸を痛めながら言葉を絞り出す大切な人を守るために。


 握りこぶしをつくって、息を吸い込んで──



『アッシマーと灯里を守るためなら、俺はどんな悪にでもなる。守るって、そういうことだろ』



 酸素を取り込んだまま、まるで吐き出しかたを忘れたように私の呼吸は止まった。


 藤間くんのこれも、言葉だ。

 言葉というのは、私にとっては外面そとづらだ。


 でも。


 私ではなく、祁答院くんに向けたこの言葉は、勇気ではないのか。



 ああ…………そうだ。



 そうだそうだそうだ。



 あのときも。



『馬鹿じゃねーの。スマホ代も服代も慰謝料もきっちり請求してやるからなボケ。クサい飯でも食ってろゴミクズ』



 チンピラから助けてくれたときは、どうしてこんな挑発するような言いかたをするのか疑問だった。



 そして、このときも。



『灯里は俺のもんだ。お前らにゃ死んでも渡さねえっ……!』



 ふたりから守ってくれたときは、自分のことしか考えられず、私はただ顔を赤くするだけだった。



 あのときも、このときも。



 きっと。



 ううん、絶対。



 私を、守るために。



 ことが終わったあと、彼らの怒りが、私に向かないように。



 すべての憎悪と憤怒を、背負って。



 藤間くんは──




 藤間くんは、私のために、悪になってくれていたんだ。




「ひぐっ……、ぐすっ…………!」



 駄目、泣いちゃだめ、伶奈。



 また、泣いてしまったら。



 この涙の理由に気づいてしまったら。




『悪いついでにもうひとつだけ言わせてもらう。……灯里を守るのは、祁答院、お前じゃない。────俺だッ‼』



「ううっ……。うぅぅぅぅぅーーーー~~~~……!」



 涙を、そして声を殺すために噛んだ指からはやがて鉄の味がした。


 たったいまこうして私のために悪となり、祁答院くんに立ち向かう藤間くんに対し、私は涙をこらえることすらできなくて、こうして声に変わるのを塞いでいるだけ。


 それすらできず、たまらず走り去る。


 井の中の蛙。


 私の想いは、誰よりも強いと思っていた。

 でもそれは『言葉』でしか表せないもので、

 足柄山さんや香菜ちゃんのように勇気で示すこともできず。


『灯里を守るのは、俺だッ‼』


 こんなにも嬉しいのに、こんなにも哀しい。


 いちばん強いと信じていた想いが、私に恋愛感情を抱いていないであろう藤間くんにも負けたことが。



『○○○○、○○○○。○○○』



 それを認めた刹那、言葉にしかならなかった私の想いは、しーちゃんにも、香菜ちゃんにも、藤間くんにも負けて消えてゆく。



 それなのに、



「好きっ……! 好きだよぉっ…………!!」



 新たな想いが次々と穴の空いたこころに満ちてゆき、そこらじゅうから横溢した想いは掬うことも飲み干すこともできず、ただ涙として流れてゆくのみだった。


──


 午後の授業はなにも耳に入ってはこなかった。

 私を心配してくれるお友達に頭を下げ、授業終了と同時に帰宅した。


 鞄を机に置き、顔からベッドに倒れ伏す。


 好きって、なんなのかな。

 恋って、なんなのかな。

 愛って、なんなのかな。



『灯里を守るのは、俺だッ‼』



「~~~~~~っ!」


 枕に顔をうずめたまま、ばたばたと足を泳がせる。

 そうしながら、果たして祁答院くんにそう言った藤間くんの気持ちに私は勝っているといえるのだろうか、と考えて落ちこむ。


 立ち上がったしーちゃんに。

 立ち上がった香菜ちゃんに。



 好きで。


 好きで好きで好きで好きで。


 好きで好きで好きで好きで好きで好きでしょうがない。 


 でも、誰かを想うって、それだけじゃ駄目なんだ。

 声が聴きたいとか、逢いたいとか、不器用に笑う顔が見たいとか、それだけじゃ駄目なんだ。


 じゃあ、私はどうしたいの?


 コンコンとノックの音が耳朶じだを打った。この音は、三船さん。


「…………どうぞ」

「失礼しま──お嬢様、ひどい顔をしておられますね。お化粧をしたまま枕に顔をうずめては、処理が──」


 本当に遠慮のない家令だ。私はあてつけのように顔をうずめてゆく。


「やれやれ。──お嬢様、以前わたくしに藤間少年の調査を依頼なされたことを覚えておられますか?」

「調査。…………あっ」


 そういえば、お願いしていた。

 入学直後、彼の名前を知り、しかしやはり声をかけられない私が、どんな趣味なのか、どんな食べものが好きなのか、ど、ど、ど、どんな女の子が好きなのかを知りたくてお願いした。


「三船、ごめんね? 藤間くんとおしゃべりできるようになってからも続けてくれていたんだ……」

「調査中断のご命令をいただきませんでしたので」


 三船は律儀だ。多少融通が利かないこともあるが、仕事はきっちりとこなすし、仕事の質も高い。


「では報告はやめておきましょうか」

「き、聞くっ……!」


 ベッドの上から勉強机に移動する。机の上にはいつの間にかレモンティーのカップがゆらゆらと湯気を立てていて、それに驚いているあいだにどこから取り出したのか、まくらカバーを交換していた。


「……多少ショッキングな内容が含まれますが、よろしいですか?」

「う、うん」


 成長しない。

 私の頭はどこまでお花畑なのだろうか。


 ショッキングな内容というのは、藤間くんの好みの女性が私からかけ離れている……そんな程度だと思っていた。



「では。藤間透、石川県金沢市生まれ。藤間いつき塔子とうこのあいだに産まれる。ひとつ下の妹がおり、名前はみお。兄妹関係は良好だったようです」


 家族構成から調べあげるとは、この家令はどれだけ律儀なのか。


「金沢市……千葉から遠いんだね」


 兄妹関係は良好"だった"という過去形は、いまは藤間くんがひとり暮らしをしているからだと、とくにつっこまなかった。


「中学校での成績は優秀。常にクラストップの成績ですがこれといった友人はおらず、休み時間はよく眠っていたようです」

「……」


「当然恋人はなし。しかし小学校、中学校ともに"偽告白"を受けたことがあるそうです」

「偽告白?」


「好きでもない相手に告白し、舞い上がったところでネタばらしをしてからかう、タチの悪い"イジメ"あるいは"罰ゲーム"の一種です」

「……っ!」


 罰、ゲーム。

 そんな酷いことを本当にする人がいるのかと信じがたい気持ちになったが、それよりも罰ゲームという単語に私の記憶が反応する。


『罰ゲームなら他所でやれ』

『話しかけるだけで罰ゲームかよ』


 じゃあもしかして、私の行動が罰ゲームだと藤間くんが思ったのは、過去のイジメが原因……?


「実際、彼は陰湿なイジメと暴力を受けていたようです。彼の背には、小さいですがいまだに火傷の跡が残っています」

「待って、待って待って待って…………!」


 私は自分の浅はかさを呪った。

 なにが好きな女の子のタイプか。


 馬鹿じゃないのか。


 火傷? やけどってなに。

 不慮の事故とかじゃないの?


 イジメ?

 どうして?


 どうして、藤間くんを虐めるの?

 なんの権利があって?


「理由は暗いから、陰気くさいから、生意気そうな目が睨んでいるように見えるからだそうです」


 目眩がした。眼の奥で、なにかがぱちぱちと瞬いた気がした。


 悔しくて、切なくて、哀しくて。


 どうしよう。もう涙なんて枯れ果てたと思っていたのに、また泣きそう。



 そして、私の予感は的中する。




 私はこの直後、わんわんと泣くことになる。







「藤間少年は、可………………いた…………を目の前で……され逆上。十四名への傷害事件を起こし、それが原因となって藤間家は金沢を去っています」




(了)

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