03-21-Epilogue──これは、さよならじゃない

 一日が終わらなければいいのに。

 そういう日にかぎって、夜は早くやってくる。


「アッシマー」


「は、はいですっ……!」


 今日一日、めちゃくちゃ頑張った。

 俺が頑張れば頑張るほどなぜかアッシマーも頑張るから、負けないように頑張った。人生で一番頑張った。『頑張った』がゲシュタルト崩壊を起こしそうなくらい頑張った。


 とまり木の翡翠亭──

 普段ならば今日やるべきことをすべて終え、あとは寝るだけの時間。



 でも今日は──これからだ。



「アッシマー」


「は、はいぃ……」


「一週間だな」



 ──俺を捨てないで。


 いままで言えなかったその言葉を、呑みこんでよかった──いま、そう思う。



 やっと、気づいた。


 今日一日ずっと考えて、


 考えて考えて考えて考えて、やっと、気がついた。



 俺はストレージからずっしりとした小銭袋を取り出し、その中身を作業台の上に並べてゆく。


「ここに20シルバーある。生活費を除いた、俺たちの稼ぎだ」


「……はい。最近お買いものをしてなかったので、貯めているのは知ってました」


 そりゃそうだよな。バレるよな。


 20シルバーの半分──10シルバーをアッシマーの前に置く。


「これは……?」


「お前の稼ぎぶんだ」


「…………」


 アッシマーはそれを弱々しく見つめたまま、手に取ろうとしない。やがて俺の意図を測ろうとしたのか、アッシマーの視線が銀色の煌めきから俺にうつろう。


 金を貯めた理由。

 俺もなんで貯めてるんだろうって自分を疑問に思ってた。さっさとスキルブックを購入したほうが効率よく稼げるに決まってるのに。


 

 『捨てないで』じゃだめなんだ。

 それは自らを貶めて、アッシマーにマウントを取らせる行為。


 『金もないのに放り出す』でもだめなんだ。

 それは金の優位というマウントを取ったまま、無一文では生きていけないアッシマーを無理矢理俺の手元に縛り付けようとする行為。


 俺がふくらはぎに力を入れ、思い切り踵を上げてまで欲しかったものはなんだったのか。


 恋でも愛でもない。

 友達でもない。

 男としてアッシマーが欲しいとかそういうことじゃない。

 ましてやどっちが有利とか優位とか、マウントとか、そんな話じゃ決してなかったんだ。


 どんな表情かおで、

 どんな声色こえで、

 どんな心理こころで、

 どんな台詞ことばで、


 アッシマーが俺を捨てるのか。


 その恐怖よりも。



「アッシマー。契約を解除する。もう契約は無しだ」

「っ……!」



『き、キモくない……です』



 あの背中ゆうきが。



『えへへぇ……いつか一緒に食べたいですねぇ……。おでん』



 あの安穏やすらぎが。



『ああああああーーーーっ! ……てへっ☆ しっぱいしちゃいましたぁ……えへへぇ……』



 あの風景けしきが。



『ぐすっ……どうしていっつもすぐ死んじゃうんですかぁ……ふぇ……ふぇぇぇぇん……』



 あの慈愛やさしさが。



「もう、契約はなしだ。だけど」


 怖ぇ。

 怖ぇよ。

 でも。


 お前のくれた日常ひびついぞ、お前に捨てられたくないという俺の恐怖を、俺を捨てるお前を見たくないという絶望を上回った。



 ──だから。



「雇うとか雇われるとかじゃねえ。どっちがマウントとかそんなんじゃねえ。捨てるとか捨てないとかそんなのも知らねえ」



 効率とかじゃねえ。

 十五年生きてきてはじめて。


 生まれてはじめて、


 俺の心の奥、

 奥の奥、

 奥深くにある天秤が、


 ──俺以外の誰かを下げた。



「そ、そのだな。すーっ……はーっ……えーと。その。い、いっしょに……ぐむん……えと」



 行けよ藤間透。



 今まで散々ビビってきたろ?



 俺の天秤──俺とアッシマーが両端に乗った天秤は、アッシマーに傾いたんだろ?



 なら、行けっ……!



 天秤がアッシマーに傾いた反動で飛んでいけ、藤間透っ……!




 藤間透の全身全霊、ありったけの力で……!




 飛べ─────




「雇用関係じゃない。ただの藤間透は、ただの足柄山沁子と、これからも一緒にいたいと思ってる」




 泥臭くも全力の。

 俺とアッシマーじゃなければ、愛の告白ともとられかねない全力。


 見開いた大きな目を見続けることなどできず、俺の視線は木の床へと落ちる。



「ひっく……ぐすっ……」


 やがて聞こえる嗚咽。顔を上げるとアッシマーが両目から大粒の涙を零していて、


「も、もしかして、わたし……ぐすっ、す、てられないんですか……?」


「……あ?」

 

「わたしずっと、ずっとずっと棄てられてきたから……」


 自らの腕でぐしぐしと涙を拭い、やがて両手で顔を覆って、


「きっとまた棄てられるって思ってて……! 慣れているつもりでしたけど、でもなぜか藤間くんにだけは棄てられたくなくて……! ふえっ、ふえぇぇぇぇ……!」


 ああ、同じだ──


 アッシマーも俺と同じように、すてられることに怯えていたのだ。


「なんでだよ。なんでお前が……って、もしかしてお前」


 ここ最近めちゃくちゃやる気満々で、今日めっちゃ自己アピールしてきたのって……。


「当たり前じゃないですかぁ! わたし、また棄てられちゃうと思って……! 一生懸命頑張ったんですけど……藤間くんが契約解除するって言ったとき、本当に怖くて、悲しくて……ぶぇぇぇぇぇ……」


「んあ……わ、悪い」


 俺が雇ってるんだから、ふたりの金の使い道や行動方針を俺が決めるとか、アッシマーが「雇われてるんだからわたしのほうが頑張る」とかいいだすから、そういうしがらみを取り除きたかっただけなんだ。


「と、とりあえず泣き止んでくれよ……」


「無理ですぅ……ふぇぇぇぇん……きっと棄てられると思ってて、せめて笑ってお別れを言いたくて、ずっと我慢してたのにぃぃぃぃ……」


「えぇー……」


「だって藤間くん最近すごく無茶しますし、お金貯めてますし、最初と違ってコボたろうもいますし、わたしを棄てる準備だと思ってて」


 ぐすぐすと鼻をすすりながら自分がどれだけ不安だったかを語るアッシマー。このあたりでようやく俺も状況を掴めてきた。


「あれ……もしかしてアッシマー、この先もここに居るってことでいいのか?」


「居ますよぅ! ほかにどこへ行けって言うんですかぁ!」


 ふっ、と一瞬だけ訪れる浮遊感。

 手足が伸びるインド人じゃあるまいし、もちろん実際に浮いたわけではない──そう教えてくれたのは、下にスライドした景色と、木の床に荒々しく着地した尻と腰の痛みだった。


「ふ、藤間くんっ! どうしたんですか!?」


「は……ははっ。安心したら腰抜けた」


 ベッドから立ち上がり、俺を起き上がらせようとするアッシマーを手で制し、改めて木の床にあぐらをかく。


「もしかしてなんですけど……ここ最近藤間くんが無理してたのって……」


「ああ……お前と同じだ。ちょっと背伸びした」


 本当はちょっとどころじゃないんだが、やっぱりここでも俺は強がった。それは己を大きく見せたいわけじゃなく、なんというか……男のつまらない意地のようなものだ。しかし俺の声は震えていて、きっと強がりだとアッシマーはわかっているのだろう。


「藤間くんが背伸びする必要がどこにあるんですか……! 藤間くんがいなかったら、だれがわたしと一緒にいてくれるんですかっ……! だれがわたしに『お前のペースでいいんだよ』って言ってくれるんですかっ……! わたしなにやってもトロくてっ……怒られてばっかりでっ……! だれがわたしのままでいいって言ってくれるんですかっ……! だれがわたしの……ふぇ……ふぇぇぇぇぇ……」



 それは、俺の知っているいちばん甘やかな言葉。


 「無理しないでいいよ」って、

 「お前のままでいいんだよ」って、


 誰かに言われたくて、でも誰も言ってくれないから、自分に向けて言っていた言葉。


 ぱんぱんに張ったふくらはぎを柔らかくして、踵を下ろさせる魔法の言葉。


「だから藤間くんも」


「……あ?」



「藤間くんも、藤間くんのペースでいいんですよ」

「っ……」


 やっぱりアッシマーは、俺を弱くする。


 孤高が気高さなら。

 孤独が強さなら。


 自分以外の言葉でこんなにも胸が熱くなる俺は、やっぱり弱かったということなのだ。


「ん、んじゃまあ、明日からも頼むわ」


「ぐすっ……。……はいっ」


 なのに、それがべつに、いやじゃない。


 捨てられなかったという安心感が身体に沁みてゆき、散々俺を弄んだ恐怖心が消えてゆく。


 俺は弱かった。

 俺のペースで……強がらなくてもいいと言ってくれた。

 

 それなら。


 見栄でもはったりでも強がりでもなく。

 振りでも見せかけでもまやかしでもなく。


 『強くなろうな、コボたろう』


 俺はようやく、置き去りにしてしまったあの言葉をもういちど咀嚼そしゃくし、歩き出すことができるのではないか。


 俺は今まで自分を底辺だと開き直りながら、自分だけは自分を理解していると己を鼓舞し、奮ってきた。


 孤独は強さだと。


 ならばいま、アッシマーがくれた温かいものはなんだ。それに反応して、出涸でがらしのようにしなびた心のうちから迫り上がるこの熱さはなんだ。


 アッシマーから……他人からもらうものが力になるのなら、強さの源は孤独なんかじゃないということではないか。


「く、くくくっ……ははははははっ……!」


「え、あ? ふ、藤間くんっ……?」


 怒りは一周すると呆れに変わる。

 呆れが一周すると喜劇に変わる。


 ならば俺の喉を、そして口を経由して爆発した思いは、これまでの藤間透に対する呆れと怒り。



 俺はいま、ついに十五年の藤間透に別れを告げた。



 それでも空虚くうきょにならないのは、目の前で俺がとち狂ったのではないかとあわあわしているアッシマーが俺の心のうちに居座っているからだ。


『藤間くんのペースでいいんですよ』


 俺が言った言葉がアッシマーの口から跳ね返って、心のうちで何度も何度も反射し、反響し────


沁子しみこ、か。……お前の名前、いい名前だな」

「ぇ……」


 反響して、俺の全身にあたたかく、やわらかく、そうっとみてゆく。


「は、はぉああああぁぉあああ⁉ な、なんですか急にもう……ぁぅ……」


 自分をすてて、消えゆくだけのはずだった俺の心を猛スピードで再誕させてゆく。


「アッシマー」


「はわわわわ……、は、はいぃ……」


「やり直しだ。俺は藤間透をここからやり直すぞ」


「……ふぇぇ……?」


 結局のところ俺は、藤間透という人間を意地で貫いたまま、アッシマーに相応しい自分とか、コボたろうに相応しい自分を演じるために背伸びをしていただけに過ぎない。


 しかしそれは裏を返せば、藤間透を演じてきたとも言えるのではないか。


 だからすべてやり直す。


 ありのままの俺を、ありのままでやっていく。


 きっと目の前で泣き顔を傾げている彼女は、そんな俺をも受け入れてくれるだろうから。


「ありがとうな、アッシマー」


「えっと……? こ、こちらこそです……?」


 俺が底辺だと思っていた場所は底辺なんかじゃなく、


 己を捨てた刹那──そのとき、その場所が底辺だった。

  

 でもその場所……底の底には天上から手が伸びていて、見上げると『自分のペースでいいんですよ』って柔らかく笑ってくれるアッシマーの姿があった。


 俺はようやく、すれ違いも勘違いもなく、俺以外の誰かの──あたたかなその手を掴むことができた。そうして振り返ったとき、ついに穴の底で膝を抱えて肩を震わせる己の姿を見つめることができたのだ。


『いいんだよ、お前のペースで。──藤間透』


 『俺』を見上げる穴の底の俺。虚ろな、しかし自分は強いと威嚇するような目で『俺』を見上げている。


 『俺』は俺をやり直す。

 ひとりだけの世界で自分は強いとうそぶく俺を、寂しさを隠しながら孤独は強さだと強がる俺をやり直す。


 ……でも俺は、これまでの俺を否定しない。


 俺だけは俺を否定しなかった。

 だから『俺』はやはり、いままでの俺を否定しない。

 俺の強さも俺の弱さも否定しない。


 アッシマーの手を握って一段上にあがった『俺』は、底の底で膝を抱える俺を否定しない。


 だってそんな俺のことを、アッシマーは俺のペースでいいんだよ、って言ってくれたんだから。



 『俺』は穴の底にいる俺を無理矢理引き上げる。

 プライドだけ高くて暗い目をした、生意気そうな俺を、アッシマーが『俺』にしてくれたように、引き上げる。


 そうして、やり直すと決めた『俺』に今までの俺を重ね合わせる。


 差し伸べられたアッシマーの手を取った『俺』と、『俺』の手を取った俺が重なり合って交わり、ひとつになってゆく。


 なんだかんだ言って結局、いままでの俺も嫌いじゃなかったのだ。



 これは、さよならじゃない。



『おつかれさま、孤独が強さだと信じてきた俺』



 辛さも痛みも一番知っている俺が俺自身を最後にねぎらって……『俺』は俺を取り込み、ひとりの藤間透になった。



「ふ、藤間くん? ……あっよかった、いつもの藤間くんの目ですぅ……」


「ん?」


「なんだかいま、一瞬だけ藤間くんの目が綺麗になったんですよぅ……。濁ってないっていうか、汚れてないっていうか…………」


「おいこら言いたい放題だな」


「でも大丈夫ですっ。もうすっかりいつもの藤間くんの目ですから。ちゃーんとよどんでますっ」


 なんだよいつもの俺って。そんなに汚い目してる? ちゃーんと澱んでるってひどくね?


 しかしやっぱり怒りは一周すると呆れに変わるようで、さらには喜劇に昇華するようだ。思わず口の端が緩んだ。


「そうかよ……。……よかったな」


「はいっ!」


 最初にすっ転んで、立ち止まって。

 一歩踏み出したかと思えばまた転んで。


 それでも人はまた立ち上がって歩いてゆく。


 ほんと、身勝手だよな、人間って。


「んじゃ寝るわ。台の上にぶちまけた金はどうする? 半々にして個別管理するか?」


「いえいえ、それはスキルとか装備とかが落ち着いてからでいいですっ。わたしが持つと無計画に使ってしまいそうなので!」


「んじゃ仕舞うぞ。明日は買い物からだな。……欲しいもんとかあったら、遠慮なく言えよ」


「はいですっ!」


 俺を拒否されるんじゃないかという恐怖と緊張から解放され、訪れる安心と高揚。



 いまなら俺は、なんでもできるんじゃないかって思う。



 ふたり別々のベッドに潜り込む手前、窓の外を見ると、一筋の流れ星がエシュメルデの夜空を切り裂いていった。



 いまの俺なら、あの流れ星の行方ゆくえを探すことだってできる。



 そんな馬鹿げた妄想を枕にして、いつもより柔らかく感じる安物のベッドに身体を横たえ、やがて訪れる優しい微睡みに身を委ねていった。



(了)

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