第2話 雨宿り
裏山の入り口の右手には「花菖蒲」と書かれた看板があった。
覗いてみたが、時期的に菖蒲は咲いてないようだ。だが、土手の草も綺麗に刈り取られ、そこに山から湧き出る水が引かれている。ピークを過ぎ静かに佇む紫陽花の横で、コボタンヅルやヒメジョオンなどの雑草が夏の暑さにも負けず小さい花を咲かせていた。
田舎出身の僕は、どこか懐かしい風景に、気持ちが和んでいた。ジーンズのポケットからスマホを取り出す。カメラアプリのマクロモードでヒメジョオンの花弁に近づけ二、三枚撮影する。
僕は、外に出かけた時、見つけた花々を必ず撮影している。趣味と言う訳ではないのだが、仕事柄これらの写真が役に立つ時があるのだ。
左手には、樹木がうっそうと繁り、日陰になっている。そこには、細い丸太を組んだものが多数置いてあった。椎茸栽培をしているのだろうか。僕は、それを見ながら坂を登っていく。急に、坂の角度がきつくなったような気がした。息をするのがきつい。急登とはいえ、たったこれだけの距離でこんなに苦しいなんてありえない。相当身体がなまっているようだ。
僕は、リュックからペットボトルを取り出すと、水を半分近く一気に飲んだ。そして、「はあ」と情けない声を出したのだ。
漸く落ち着いた僕は当たりを見渡す。登り切った場所は三差路に分かれていた。さあ、次はどちらに行こうか?
僕は悩んだ末に、また右の道を選んだ。理由は簡単だ。右にいくことで自分のアパートに少しでも近づくような気がしたからだ。
それにしても、散策するのは久しぶりだ。舗装されていない山道を歩くのはとても気持ちが良いものだ。僕は力水のおかげか、さっきより元気になっていた。
なだらかな登り道をどんどん進んで行く。細い道の左右には小さな黄色の雑草があちらこちらに花を咲かせている。とても綺麗だ。なんという名前だろう?
僕はまたスマホを取り出すと今度は登って来た道を背景に入れながらシャッターを押す。勿論、花が主役だ。
さらに進んでいくと今度は左右から笹が飛び出し、まるでトンネルみたいになっている。笹をかき分け歩くなんていくつ以来だろう。
僕は暑さを忘れて、ちょっと楽しくなっていた。アパートのすぐ裏にこんな自然が残っている。とても素敵なことだと思っていた。
散策が少し楽しくなってきたその時、僕の頬に一粒の水滴が当たった。
「えっ?雨?」
雨が降るなんて思いもしなかった僕は傘を持って来ていない。ただ、よく考えれば、日中これだけ暑いと夕立があったとしても不思議では無かった。後悔先に立たずとはこのことだ。雨脚はどんどん強くなってきている。どこか雨宿りが出来そうな場所はないかと、辺りを見渡しながら急ぎ進んでいく。すると、少し開けた場所に、ひっそりと佇む小さな木製のテーブルとベンチを見つけた。テーブルの後ろには、巨木が三本並ぶように立っており、その枝や葉っぱのおかげで雨に濡れるのを防げそうだ。僕はこの木製のベンチで雨が止むのを待つことにした。
僕はゆっくりとベンチに座る。見上げた三本の木々は空高くそびえている。葉っぱ達も雨に濡れさらに濃い緑になってきている。
ここはこの散策コースの休憩場所なのだろうか。後ろを振り向くと見晴らしがとてもいい。
向こうの空をみると少し明るい。雨もそんなには降らないのではないだろうか。僕は少し安心していたのだが、予想に反し雨脚はますます強くなっていくではないか。
少しずつ僕の顔にも雨が降りかかってきたその時、笹の葉が大きく揺れる音がした。
僕は、驚き音が鳴る方へ振り向く。
すると、ハンカチを頭にかざして走ってくる女性が目に入った。彼女は、白いワンピースにミュールと言う格好で茶色のリュックを背負っていた。いくら丘のような山とは言え、このコースにその服装では場違いそのものだ。
「あの、すみません。私もここで雨宿りさせてもらってもいいですか?」
彼女はすまなそうに僕に声を掛けてきた。
「ど、どうぞ。急な雨で驚きましたね」
女性と二人っきりで話すことが滅多にない僕はとても緊張していた。
「傘もないんよなー。まさか雨が降るなんて思わへんかったし」
ちらちらと女性のことを見ながら独り言のように声を発する。年は二十台前半くらいだろうか。髪は肩より少し長く、今時珍しく艶のある黒髪だった。前髪の隙間から覗く大きな瞳がとても印象的だ。そして、A3サイズだろうか、スケッチブックを大事そうに胸に抱えていた。彼女はリュックからハンドタオルを出し、スケッチブックの表紙を拭いている。
「あの、絵を描いてはるんですか?」
沈黙に耐えられず僕は、彼女に話かける。
「え、はい。そうなんです。下手なんですけど絵を描くのが好きなんです」
また、沈黙が続く。こう言う時、女性に慣れている男だったら絶好のチャンスとばかりに会話を弾ませる術をもっているのだろうが、僕には到底無理な話だった。
「あの、関西の方ですか?」
今度は彼女が沈黙を破るように質問してきた。
「そうなんです。分かりますか?この春、大阪から稲城に引っ越してきたんやけど、できるだけ標準語でって頑張っても、むっちゃ難しいんですわ。あっ、ほらこうして油断したらすぐでてまうんよなあ」
彼女はくすっと微笑んだ。
そして、おもむろにスケッチブックを開くと「あの、少しだけ、横顔だけ、描いても良いですか?」と聞いてきた。
僕の容姿はといえば、かなり持ち上げ良く言ったとしても普通レベル。モデルには到底向かないし、それに人に描かれるのは初めてのことだった。「あの、僕なんかでいいん?」と思わず聞いてしまう。
彼女は、何も言わずスケッチブックに向けてペンを走らせている。僕はどちらを向いたらいいのかもわからず最初は戸惑っていたが、どうやら自由に動いてもいいようだ。
「あの、美大生とか?なん?」
「この辺に住んでるん?」
僕は何度か質問をしてみるが彼女はずっとペンを走らせているだけだった。もしかしたら、見知らぬ男とただうわべだけの会話をするよりもペンを走らせている方が気楽なのかもしれない。だが、僕はスケッチブックに向かう彼女の表情に見とれていた。前髪を無意識にかき上げるのが彼女の癖なのだろう。デッサンに少し迷った時、必ず前髪をかき上げている。綺麗な爪をしている。ネイルなどで彩られていない自然な感じの指先がとても素敵に思えた。
雨はさっきより弱くなっていた。
樹木や地面に落ちる音がとても心地よい感じだ。僕は、この時間がいつまでも続けばいいと思っていた。
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