第15話 人事
井上中将と自身が置かれている状況が分かれば、あとはこの宴席の真の目的を聞くだけだ。
そう米内大将は考えたのだろう。
時局を考えれば、五人の将官に無駄に出来る時間などありはしない。
山本大将が言う日米開戦のその日まであと半年も無いのだ。
「米内さんには現役に復帰していただき、井上君には航空本部長の任を離れてもらいます。そして、米内さんには軍令部総長、井上君には海軍次官になってもらいたい」
直截な山本大将の言葉に、米内大将が当然の疑問を呈する。
「軍令部総長には永野さんが就任したばかりだが」
軍令部で長年にわたって総長を務め、海軍内で隠然たる権力を誇っていたやんごとなき元帥に代わって永野大将が軍令部総長に就任したのはこの春だ。
まだ、三カ月と経っていない。
よほどのことが無い限り、ここでの交代は不自然というものだ。
「実を言えば体調に不安のある永野さんは軍令部総長にはなりたくなかった。永野さんの総長就任については開戦派と避戦派の綱引きの結果です。
そこで、私は永野さんの希望を叶えるべくいろいろと手を回して彼が安心して辞職できる環境を整えた。ですので、米内さんの総長就任に関しては何の問題もありません」
山本大将の言葉に米内大将は「こいつ、またやりやがったのか」と胸中で苦笑する。
おそらく山本大将の切り札である金の話を持ち出したのだろう。
今や、帝国海軍は国家予算の枠内では立ち行かなくなっている。
新しい軍艦の建造や既存艦の修理ならびに改装、それに軍需物資の備蓄や兵隊の教育訓練など、「山本マネー」の恩恵を受けていない部門は皆無と言ってもいい。
もし、今「山本マネー」を引き揚げられたら帝国海軍は経済的な死を迎える。
だから、海軍上層部が山本大将の要求を退け、その山本大将がへそを曲げて海軍を辞職すれば、今度は辞めさせた側が厳しくその責任を問われる。
「山本マネー」を失ってなおそれが補填できるほどの財力がある人間が海軍上層部にいれば山本大将の要求を却下できるかもしれないが、そんな人間は海軍には存在しない。
というか、日本には誰一人としてそんなすごい億万長者はいない。
つまり、山本大将はよほど極端なことをしない限り、金の力でその意を通すことができた。
そして、永野大将に代えて米内大将を軍令部総長にするという山本大将のわがままは、海軍としては十分に許容範囲に入るのだろう。
もちろん、この手のことに関しては如才のない山本大将のことだから、海軍に対して何らかの手土産は用意しているはずだ。
新型艦かあるいは燃料や弾薬といった軍需物資なのか細かいところまでは分からないが、いずれにせよ海軍上層部に対してしかるべき対価をすでに支払い済みなのかもしれない。
そして、人事に関する限り、自分と井上中将がそれぞれ軍令部総長と海軍次官になるだけでは済まないはずだ。
だから、米内大将は山本大将に対して端的に尋ねる。
貴様の腹の中にある人事を教えろと。
米内大将の言葉を予想していたのだろう。
山本大将は懐から一枚の紙片を米内大将と井上中将に差し出す。
・海軍大臣 山本五十六大将
・海軍次官 井上成美中将
・軍令部総長 米内光政大将
・軍令部次長 宇垣纏少将
・連合艦隊司令長官 古賀峯一中将
紙片を見やりつつ、米内大将は三点ばかり疑問を呈する。
「海軍大臣は現在のところ及川だが、彼の後任に山本が滑り込むということか」
「その通りです。海軍大臣は人事権を握れる。組織とは畢竟人と金です。これを握る者は強い」
「つまり山本は金だけでなく人も握るということか」
山本大将の良く言えば正直な、悪く言えば慎みのない言葉に米内大将も苦笑を隠せない。
たぶん山本大将は「山本マネー」を後ろ盾に海軍大臣のポストを要求する、あるいはすでにそうしているのだろう。
「山本マネー」の御威光を前にして海軍に逆らえる道理はない。
「じゃあ、残りは二つだ。嶋田の処遇と古賀の階級。そのことをどう考えているか教えてもらえるか」
嶋田とは山本大将の同期で階級も同じ大将。
米内大将の知る限り、彼は次期海軍大臣に内定していたはずだった。
それに長年にわたってやんごとなき元帥からの寵愛を受け、その存在は山本大将以上に海軍の頂点に近い位置にいると関係者らから目されている。
「嶋田については海軍を辞めてもらいます。古賀君については大将への昇進を少しばかり早めてもらいます。このことで古賀君は連合艦隊司令長官に十分釣り合う貫目となります」
「古賀の大将昇進の件はいいとして、嶋田が海軍を辞めるというのか」
あの男が海軍を辞めるはずがないだろうという疑問顔の米内大将に、だがしかし山本大将は何も言葉を返さずあいまいな笑みを浮かべる。
そのことで米内大将は察する。
山本大将は言葉にできない何らかの非常手段を用いて嶋田大将を海軍から放逐するつもりなのだ。
「この案だと海軍省は山本さん、軍令部は宇垣、連合艦隊は古賀さんという未来知識を持つ三人が海軍最高機関のトップあるいはナンバー2のポジションに着くことになる。もちろん何らかの目的があってこの人事となったのでしょうが、この件について教えていただけますか」
これまで山本大将と米内大将の生臭い会話を黙って聞いていた井上中将が尋ねる。
相変わらずのポーカーフェイスだが、それでも永野と及川、それに嶋田といった井上中将から見てロクでもない大将連中が権力中枢からいなくなるのがうれしいのだろう。
その表情にほんのりと喜色が浮かんでいる。
「井上君の言う通り、我々三人がバラけるのには目的がある。まず、軍令部の宇垣だが、彼は我々の中で最も未来情報について知悉している。だから軍令、つまりは作戦畑でその腕を振るってもらう。それから連合艦隊司令長官の古賀君については話すまでもないだろう。彼には連合艦隊を率いてその知識でもって連合国軍の艦隊撃滅の任にあたってもらう」
山本大将は一呼吸おき、あらためて井上中将に向き直る。
「それから、私が大臣で次官が井上君となる海軍省だが、従来の仕事に加えて裏で終戦工作を行う。そのためには海軍きっての切れ者である井上君の力が必要だ。軍令部にしても宇垣の貫目では少しばかり役不足だから、そこは米内さんに後ろ盾として力になっていただきたい」
「開戦の半年前から終戦工作ですか。まあ、戦争終結のビジョンも無しに戦争をおっ始めるのはバカのやることですから理にはかなっていますが、私のほうは具体的には何をすればよろしいのですか」
井上中将の至極当然の疑問に答えようと山本大将は口を開きかけるが、一方で米内大将と宇垣少将がこちらを見ているのに気づく。
二人は話が長くなることを悟ったのだろう。
呑兵衛が持つ直感で。
そして、その米内大将と宇垣少将が自分を見る意味は一つしか無い。
これだから酒好きの連中は・・・・・・
胸中で盛大にため息をつきつつ山本大将は女将に追加の酒を頼んだ。
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