第29話 桜木玲と学校の怪談を探る

 どこからか隙間風の入ってくる音が聞こえてくる。

 どこからだろう……と俺はきょろきょろとあたりを見回した。

「……どうしたの、健斗」

「ああ……いや、なんでもない」

 すぐ近くから聞こえてくる玲の押し殺したような声に答えながら、俺の視線はなおもあらぬ方向を彷徨っていた。

 どうして俺はこんなところにいるんだろう……と。ふとここに至るまでの経緯を考える。

 ええと……本当にどうしてだっただろうか。

 

 

                       〇

 

 

 遡ること二日前。俺と玲はいつも通り、屋上で二人きりのランチタイムを楽しんでいた。

「ところで、肝試しってしたくない?」

「……肝試し?」

 前の話とは何の脈絡もない、本当に唐突な話題転換だった。

 俺ははたして何のことだろうかと思った。理解が追い付かないとはこのことだ。

「……ああ、肝試しね。なんでまた突然」

「んんー、なんだっていいでしょ?」

 にこにこと笑いながら、きらきらとした瞳を向けてくる玲。

 ははーん、これはまた何かゲームの影響でも受けたか?

 俺は直感的にそう思って、苦笑した。

 玲――桜木玲。俺の恋人であり、学校内では『深層の令嬢』と呼ばれるほどの有名人だ。

 勉強、スポーツなど、苦手なものなんてないじゃないかというくらいなんでもそつなくこなす。その一方で、アニメやゲームが大好きで、その影響を過分に受けてしまう性質を持っている。

 おそらく、玲の実態を知ったところでうるさく言う連中はいないと思うのだが、それでも本人的にはオタバレはNGらしく、クラスメイトや学校関係者の前では秘密にしている。

 彼氏である俺や、一部の人間は知っているのだが。ま、本人が嫌がっているというのなら無理にカミングアウトする必要もない。

「肝試し……ちょっと時期がずれてないか?」

「そんなことないよ。大丈夫大丈夫」

「うっ……そ、そうか」

 けらけらと笑う玲。はたして一体何が大丈夫なのかさっぱりだった。

 が、玲が大丈夫と言うからには大丈夫なのだろう。俺はホラーとか苦手なんだけれど。

「ま、幽霊なんて零の世界でしか見たことがないから大丈夫か」

「……いや、その判断基準はどうなんだろう……まあいいや」

 玲に突っ込まれてしまった。何たる不覚。

 普段ゲームの話をよくする奴のくせに、なんてことを言うんだ、こいつ。

 俺は玲に対してじとっとした視線を送った。が、玲がそんなことに頓着するはずもない。

「ええと……じゃあ肝試し、OKってことでいい?」

「ああ。じゃあ他に誰か誘った方がいいか?」

「まあ二人だけだとね。とはいえ、私の方で誘えそうな人っていないんだよね」

「そうなのか?」

「うん」

 こくんと頷く玲。

 いないのか。友達は多そうだと思ったのだが。

「うーん……友達は多い方だと思うけれど、こんなことを誘える人ってなると……ね」

「ふむ……なるほど」

 寂しげに笑う玲に対して、俺は納得すると同時にバツが悪くなった。

 確かに、普段の玲の生活を知っていればすぐに知れることだった。迂闊。

「それで、何時頃に集合するんだ?」

「ええっとねぇ……」

 玲があごに手を添えて考え出す。考えてなかったのかよ、という突っ込みは封印だ。

 

 

                           〇

 

 

 そして冒頭へと戻る。以上、回想終了。

「……行った?」

「わからない。何せ相手は人外魔境だ。こちらが出て行った途端にバァン! なんてことも」

「ちょっとやめて、脅かさないで……!」

 玲が声を殺し、抗議してくる。いや、今の状況を作ったのはおまえだからな?

「それにしても、今のは一体何なんだ?」

「た、たぶん〝学校を徘徊する人体模型〟だよ」

「なんだそのベタベタな怪談は」

 俺ははぁと溜息を吐く。動く人体模型なんて……高校生にもなってそんなもの。

第一、あれは小学校の怪談だろうに。本当にそんなものがあると信じてるのか、玲は。

 俺のあきれ顔が不満だったのか、大きく頬を膨らませる玲。可愛い。

「だってこの学校の怪談を調べてる時に出て来たんだもん。仕方ないよ」

「だからってなぁ……」

「大体、健斗だって聞いたでしょ、あの音。明らかに人間の足音じゃあなかったよ」

「……それは、そうだけれど」

 確かに、あれは人間の足音というにはいささか以上に硬質過ぎた。

 まるで、固い金属がこすれ合う音のようだった。

「し、しかし……なんだって学校なんだ」

「学校の怪談を調べてるって言ったでしょ」

「い、やぁ……だからってなぁ」

 俺はぐるりと視線を巡らせる。

 俺たちが今隠れているのは、音楽室だ。スライド式の扉を少しだけ開け、その隙間から外の様子を覗き見ている。

 音が聞こえている時は、恐怖で振り返れなかった。が、こうして安地に入った以上は外の様子を伺はないわけにはいかない。

 そう思って恐怖に全身を強張らせながら、音楽室の外を覗き見ていたのだが。

「……誰もいないな」

「うん……誰もいないね」

 玲が首肯する。

 実際、まさにその通りで、俺と玲が別のものを見ているのではない限り、俺たちの視界の先には誰もいなかった。

 金属音の正体は一向に姿を現さない。撒いた……のだろうか。

「……ま、これで一安心だな」

 俺はふぅっと吐息して、扉から離れた。追手がないのなら、あまり変に構える必要もないだろう。

「と、とりあえずはここで一休みしていこうぜ」

 俺は手近な机に腰かけながら、玲に提案する。玲も、まさかこの提案を退けるはずもないだろう。

 と、思っていたのだが。

「健斗、ここがどこだかわかってる?」

「ん? ああ、音楽室、だろ?」

「そう、音楽室。音楽室……なんだよ」

 急に声のトーンを低くして喋り出す玲。ピアノの表面をゆっくりと撫でていく。

「……な、何が言いてぇんだ? まさか、ここにも変な噂があるとか言うんじゃねぇだろうな?」

「そのまさかだよ」

 玲の視線が俺を捉える。かっと大きく見開かれた瞳は、どこか虚ろで、俺の不安を掻き立ててくるものだった。

「この上にベートヴェンの肖像画ってあるでしょ?」

「あ、ああ……」

 玲が自分の頭上を指差した。その指先を視線で追い、俺は件の肖像画を視界に収める。

「ベートヴェン。あれがどうしたってんだ?」

 玲の言いたいことはさっぱりわからなかった。と、言えればいいのだが。

 実際のところ、玲の言わんとしていることには心当たりがあった。

 察するに、突如としてあの肖像画の目玉が光るとか、そんなところだろう。

 などと俺が考えていると、玲の瞳がふっと伏せられた。

「……笑い出すんだって。突然、何の前触れもなく」

「……な、に?」

 玲の何かを含んだような神妙な物言いに、俺は思わず怪訝に思って訊き返していた。

 笑い出す? 何がだ? あの肖像画が、か?

 俺はなんと言ったものか。恐怖よりもむしろ、そんなことはありえないという感覚に捕らわれていた。

「何言ってんだ、玲。そんなことがあるはずが……」

「それが、本当なんだって。過去に何人もの生徒が目撃してるって」

「う、嘘……だろ? だってそんな」

「ありえない。現実的じゃないって言うんでしょ? でもね」

 にぃっと。玲の口元が凄絶に歪んだ。

 それはまるで、ベートヴェンの霊魂が玲に乗り移ったかのようだった。

 ――と、まさにその時だ。

 

 ははははははははははははははははははははははははははははははははっ!

 

 突如として、笑い声が木霊する。

 俺はもちろん、話をしていた玲もびくんと体を揺らした。

「び、びっくりした……何だったんだ今のは」

 俺はきょろきょろと周囲を見回す。もしかしたら音楽室のすぐ外に、誰かがいるのかとも思って扉の隙間から外を見てみたが、誰もいなかった。

「……本当になんだったんだ、今のは」

 俺は不思議に思いつつ、玲を振り返る。と、どんっと胸のちょっとしたあたりに衝撃を感じた。

「れ、玲……? どうし……」

「ひっぐ……い、今……変な笑い声が……した!」

 俺の腰に手を回し、目の端に涙を溜め、見上げてくる玲。ああ、そんな姿もめっちゃキュートだ。

「だ、大丈夫だ。なんかこう……聞き間違いだろ」

「き、聞き間違いなんかじゃないもん! い、今のは間違いなく男の人の笑い声だった」

「そんな……気にし過ぎだって。大丈夫だから」

「だ、大丈夫なんかじゃない……から」

 ああもう、今にも泣きじゃくりそうになっている玲はすごい。

 俺はこのまま玲の弱気な姿を堪能したいと思いつつ、いやいやと首を振る。

 そんな場合ではないな、今は。

「じ、じゃあはやいとこここから出よう。な?」

「……うん」

 俺が訊ねると、玲はこくんと頷いた。もう、肝試しは懲りたらしい。

 俺はほっと胸を撫で下ろすと、ちらりと廊下の方を見やった。

 今の笑い声、結構でかかったんだけれど誰も来ないな。

「よし……じゃあ帰るか」

「うん……うん……帰ろう」

 ぐずり出した玲を連れて音楽室を出ようと扉の手をかける。

 と、ぴたりと俺の腕が止んだ。ついでに玲の鼻をすする音も消えた。

 なんだ……と耳を澄ます。

 ポロン……ポロロロン。

 誰かが鍵盤をたたく音。そして、美しくも物悲しい調べが奏でられる。

「……え、ええ……」

 一人でにピアノが鳴り出した。おそるおそる振り返るが、やはりそこには誰もいない。

 いない……のだが、閉まっていたはずのピアノが開いている。そして奏られる謎の音楽。

 明らかに誰かが演奏している。そう、見えない誰かが。

「お、おい……玲、おまえの仕込みか?」

「し、知らないよ……こんなの」

 ガタガタガタ、と全身が震える。ちらりと玲を見ると、玲も震えていた。

 それも、割とガチで。 

 つまり、玲の仕業ではないということだ。だったらなぜ……?

 俺は目の前の事実から目を逸らすように、この現象について考えた。

 そうして、一つの結論を出す。

「そうだ、これはあれだ。あのピアノのふたは最初から開いていたんだ」

「ええ……でも夕方下見した時は確かに閉まってたよ?」

「……そうか」

 そんなことしていたのか、玲。なんて余計なことを。

「……あれだ。玲が出てった後に開けられたんだ」

「え? ……うーん、そうかも」

「ほっ」

 俺の説明に、玲はとりあえず納得してくれたらしい。

「でも、音は? 演奏者がいないのにこの音はどこから……?」

「は? はははは、何言ってんだ玲。音なんて聞こえねぇぞ?」

「だめだよ健斗! 現実から目を逸らしちゃ!」

 玲が俺の肩を掴んで、がっくがっくと揺さぶってくる。

 俺はははは、と乾いた笑いを発しながら、玲にされるがまま、前後に揺れていた。

「大丈夫だって玲。俺はいたって健康だから」

「今は健康の話なんてしてないから! その感じだと絶対に大丈夫じゃないから!」

「何言ってんだよ、玲ー」

 ははは、となおも乾いた笑いを漏らす俺に、玲も段々と落ち着きを取り戻してきたらしい。

 俺を揺さぶる手を止めて、むむぅと唸る。

「……私、ちょっと様子見てくる」

「は、はぁぁ! 何言ってんだ危ないぞ!」

 きっと、玲がピアノの方を睨み付ける。俺は玲を止めるべく、その肩を掴もうとした。

 けれども、俺は玲を止めることはできなかった。

 暗闇の中だからか、それとも恐怖ゆえか。目測を誤り、俺の手は玲の肩ではなく空を切った。

 そうこうしている内に、玲がピアノの側まで歩み寄る。俺は一瞬逡巡して、どうにでもなれといった心境で小走りに玲に駆け寄った。

「…………」

「ど、どうだ、玲……何かいたか?」

「え、ええと……なんでもない」

 ピアノから目を逸らしつつ訊ねると、玲が震えた声で答えてくれた。

 なんでもない、か。

 その答えを聞いて、俺はほっと胸を撫で下ろした。

 いつの間にか、音も止んでいる。

「ほらな。やっぱり何でもなかったんだ」

 後から考えると不思議だが、この時の俺はなぜか得意になっていた。

 気を紛らわせたかったのかもしれない。

「……そう、だね」

 くるりと玲が振り返る。その顔は浮かなかったが、だからといって俺に何か言ってくることもなかった。

「……はやく出ようよ。誰か来ちゃう」

「お、おお……そうだな」

 玲が俺の脇を通り過ぎる。と、その時になって気付いたのだが。

 浮かない……どころではなかった。恐怖に打ち震えていたと言ってしまった方が適切かもしれない。

 かなりひきつった顔をしていたからだ。

 俺は玲の背中から、ピアノの鍵盤へと視線を落とす。

 ……何を見たんだ、一体。

「……健斗、はやく」

「あ、ああ……わかってる」

 俺はぞくりと背筋に悪寒が走るのを感じて、鍵盤から視線を外した。

 玲の後を追うようにして、音楽室を出るのだった。

 

 

                        〇

 

 

 壁にぴたりと背中を寄せ、進行方向へと意識を集中させる。

 あのがちゃがちゃという金属音はしない。足音もなし。

 これはいけるか? と自分に問いかける。

 おそるおそる爪先を出し、反応を待つ。が、シンと静まり返った校舎内にはどんな音も響かない。

「……たぶん大丈夫だ」

 俺は玲に……そして自分に言い含めるようにして、影から飛び出した。

 案の定、誰もいなかった。ふぅと安堵の息を吐く。

「よかったね。誰もいなくて」

「ああ。けれど、本当にまだやるのか?」

「あたり前じゃん。だって音楽室の噂は本当だったんだよ。なら、他の噂も確かめないと」

「そ、そうか……」

 その必要はないだろう、と思うのだが、玲がここまで乗り気なのだから、反対しても無駄だ。

 さっきまで半べそ掻いてたくせにな。

 俺は諦め半分に、はぁと吐息しつつ首を横に振った。

「……何、健斗?」

「なんでもナーミン」

 じとっとした視線を向けてくる玲。止めろよ、ぞくぞくするだろ。

「じ、じゃあ次はどこに行くんだ?」

「えっと……」

 あごに手を添えて、玲が考え込む。その間、俺は窓の外を見やった。

 煌々とした月明かり。俺たちを見下ろす満月が、ことさら不気味さを醸し出していた。

「……それにしても、なんだってあんなことに」

 俺は音楽室での出来事を思い出して、ぶるりと体を震わせる。

 あの光景は、たぶん死ぬまで一生忘れないだろう。

「な、なあ玲。ところでここって女子トイレだろ? さっさと出ようぜ」

「え? ああ、うん」

 俺が恐怖と気恥ずかしさから玲に言うと玲はきょとんとした顔で振り返った。それから数度、瞳を瞬かせる。

「女子トイレ……」

 と、呟かれた声に、嫌な予感を覚えた。……え? まさか。

「れ、玲……まさかここにも何かしらの噂があるって言わないよな?」

「へ? あーうん……あるよ、もちろん」

「あっ……さいですか」

 即答されてしまった。もちろんだとさ。

 俺はずーん、と重苦しい気持ちになった。だってここにも変な噂があるんだぜ?

 ただでさえ不気味だってのに。

「……それで、一体どんな噂なんだ?」

「トイレの花子さん」

「……なるほど」

 あーはいはい。トイレの花子さんね。よくあるよくある。なんかそういうのよくある。

 俺は内心の恐怖を玲に悟られないように、平静を装っていた。

 装っていた……が、装えなかった。たぶん……というか絶対にバレてる。

「……んで、どうすんだ?」

 もはや帰りたい気持ちを抑えて、玲に訊ねる。

 玲はきらきらとした瞳を俺に向けてきた。ええ……なんでそんな顔ができるの?

「まず個室を一つずつノックするよ」

「ああ」

「そしたらこう言うの。『花子さん花子さん、いらっしゃいますか?』って」

「へー」

「それを全部の個室で繰り返すんだ」

「はあ……繰り返すのか」

 意外だと思った。なぜなら、この手の話って大概花子さんのいる個室の位置って決まってるものだと思っていたからだ。

「なんだか、うちの学校だけなんだよね、花子さんが移動するの」

「へー、そうなんだ」

 あまり興味の湧く話ではなかった。が、玲がそうしたいというのならそうしよう。

「んじゃ、一番手前の方からしていく感じか」

「そうだね。……ええと」

 玲が俺の脇を通り過ぎ、個室の前に立つ。

 我が校の女子トイレの個室は全室扉が閉まっていた。鍵はかかっていないようだったが、ここは男子トイレと一緒らしい。

 ……って、なんで俺は冷静に女子トイレの個室の分析なんてしてんだ。馬鹿か。

 自分に言い聞かせ、目を逸らす。いくら誰もいないからってじろじろ見るのも、なんだか気持ちが悪い。

「じ、じゃあ行くよ、健斗」

「お、おう……やってくれ」

 俺が応じると、玲はさっそく、コンコンと個室の扉をノックした。

「は、花子さん花子さん……いらっしゃいますか?」

「…………」

 シンと静まり返る女子トイレ。俺は段々と気恥ずかしさが薄れてきて、ただただ不気味さだけが漂う感覚にぞくりとした。

 どれくらい待っただろう。冷や汗が止まらず、今夜はそれほど熱くないにも関わらず風邪を引いてしまいそうだった。

 はやく、終わってくれてねぇかな。そんなことばかりが頭の中を反駁する。

「……ええと、あれ?」

 待てど暮らせど、トイレの中から返事はない。とすると、子の個室ではなかったようだ。

 玲は隣の個室の前に体を滑らせると、そちらもノックした。

 しかしここでも返事はなかった。

 そうして次の扉、また次の扉へと移る。が、返事はなく、玲が俺を振り返る。

 どことなく困惑している様子だ。いや、俺としてはありがたい限りなのだが。

「ええと……次で最後だな」

 俺が言うと、玲はなんとなく不満そうにしながら、最後の個室の前に立った。

 コンコン、とノックがなされる。あの文句を口にし、しばし待つ。

「……はい。今……入ってます」

 しっとりとした声だった。ゆっくりとした喋り方で、それがまた俺たちの背筋を凍り付かせてくる。

「だ、だだだ誰!」

「わたし、です。花子ですよ」

 今度もしっとりとした喋り方だった。ただし、少しだけ声が震えている。

 笑って……いるのだろうか。

 俺はごくりと唾液を飲み下した。やっと引いた冷や汗が再びじわりと肌に滲む。

「は、はは花子さん……そこにいるんですか?」

「ええ……わたしはここにいます。この扉を開けて確かめてみてください」

「ふええ……そんなこと」

 できるはずがない。だってそんなことをしたらどうなるか、わかったものじゃないからだ。

 大抵、こういう噂は扉を開け、怪談の正体を確かめようとしたらろくな結果にならない。

 最悪、死すらあり得るのだから、ここは不用意に扉を開けるのは止めた方がいいだろう。

「玲、ここは一旦出よう。扉を開ける必要は……」

 と、俺が最後まで言い終わらない内に、玲の手は個室の扉に駆けられていた。

 きぃぃ……と、錆びついた蝶番の音が響く。ゆっくりと、扉が開いていく。

 俺は玲を止めなければ、と思う一方で、花子さんとやらの正体を知りたいという好奇心に駆られ、動けなかった。

 さて、一体どんな姿をしているんだ、花子さん……!

「……あれ?」

「どうしたんだ、玲?」

 玲が小首を傾げる。俺は玲のその不穏な反応に、びくびくしながら訊ねた。

「いや……誰もいなくって」

「誰も? でもさっきは確かに声が……」

 俺も玲に続いて、個室の中を覗き込んでみる。が、玲の言う通り、そこには誰もいなかった。

「……誰も、いないな」

「でしょ? ……どうして」

 訝る玲。俺だって同じ気持ちだ。

 花子さんの声は確かに聞いていた。あのしっとりとした、背筋の凍るような声はおそらく一生忘れないだろう。

 ……いつの間にか、外は静かだった。

「……出ようぜ」

「……そだねー」

 俺と玲は連れ立って、女子トイレを出た。

 もう帰りたいのだが、はたして玲はどうなのだろうか。

 俺はちらりと玲を見やった。どことなくしょんぼりしているように見えたのは昨日せいだろうか。

 それとも、花子さんに会えずに落胆しているのだろうか。どちらかというと前者であってほしいと思う。

「……それで、次はどこへ行くんだ?」

「次……そうだね」

 玲は俺は振り返って、それから女子トイレの中を見た。

 名残惜しそうだ。……勘弁してくれ。

 俺は努めて女子トイレから視線を外す。そうして、じっと前だけを見つめた。

「三階へ行こう」

「三階……なんでまた」

「ふふん、いいからいいから」

 玲が俺の腕を引っ張って行く。いや、俺としては行きたくなのだが。

 しかしここまで来たんだ。ここで止めたら男が廃る。

 俺は意を決して、玲の後に続くことにしたのだった……。

 

 

                        〇

 

 

 玲に連れられてやって来たのは、学校の西側にある階段だっだ。

 確か、この階段を昇った先には図書室があったはずだ。

「なあ玲、ここが一体どうしたんだ?」

 おそらくは階段に纏わる話があったのだろう。が、玲は俺の質問には答えず、ただひたすら階段の段数を数えていた。……怖い。

「……うん、今のところ全部で十二段だね」

「はあ……それがどうかしたのか?」

「この階段、昇るとなぜか十三段になるらしいんだよ」

「十三段……段数の増える階段か」

「そうそう」

 玲がこくこくと頷く。

 これはまたよくある階段だ。どうせあれだろ? 十三段目を踏んでしまうと、あの世に連れて行かれるとかそんなんだろ?

「ここはねぇ……十三段目を踏むと」

「ああ」

 わかってるわかってる。今更そんなことで驚いたりしないから。

「なんと、次の日ずっと、しゃくりが止まらなくなっちゃう呪いにかかっちゃうんだよ!」

 がくん、と体全体が前のめりになった。なんだ、そのつまらない呪いは。

 俺は思ず、じとっとした視線を玲に向けていた。と、玲は俺が猜疑心を露わにしていると思ったらしく、わたわたと両手を振りつつ、弁解する。

「べ、別に嘘じゃないよ! 本当に調べててそんなことを聞いたんだから」

「いや、別に嘘だと思ってるわけじゃあないけれどよ」

 だからといってそんなことをそうほいほいと信じられるわけがない。

 というより、あまり怪談らしくないなと思った。なんだよしゃくりが止まらなくなる呪いって。

「それで……踏まなかったらどうなるんだ?」

「どうって……踏まなかったらなんともならないんじゃない?」

「ああ、まあ……そうだな」

 そりゃあそうだ。踏んだから呪われるのだから、要は踏まなけりゃいい。

 そうすれば、しゃくりの呪いになんてかからないわけだからな。

「というか、これは……誰かが検証していそうだな」

「そうだね。うまく侵入できたら、これくらいなら何とかしてそう」

 何せ次の日、ただしゃくりが止まらなくなるだけだからな。

 音楽室や女子トイレでのことを思い出し、俺はなんだか拍子抜けしていた。

 だってそうだろう。前二つが本気で怖い奴だったのだから、その後も怖い方がいい。

 それがこれだ。全身の力が抜けてしまうというものだ。

 俺ははぁと溜息をついて、階段を昇る。一段、一段踏みしめながら、

「だ、大丈夫、健斗……?」

「ああ。大丈夫だ」

 例え大丈夫ではなくとも、ただのしゃくりだろう? なら、それほど不安に思う必要もない。

「いーち、にーい、さーん……」

 一段一段をゆっくりと昇っていく。

 そうして、十二段目へと足をかけた。

「……何?」

「どうしたの、健斗?」

 俺が最後の一段を残して立ち止まったことを不審に思ったのだろう。玲が背後から声をかけてくる。

 俺はどうすべきか悩んだ。確かに、一段一段声に出して数えながら昇って来たはずだ。

 そしてこの階段は十二段。俺は今十二段目にいる。

 しかし、俺の目の前には確かに最後の一段があった。つまり、一段多いということだ。

 噂は……本当だったんだ。

「……よし」

 俺は意を決して、最後の一段へと足をかけた。

 どうせ呪いと言っても大したことのない、しょぼい呪いだ。なんてことはない。

 俺はそう思って、最後まで昇り切る。くるりと背後を振り返り、玲を見下ろした。

「……なんともない?」

「なんでもねぇよ」

 玲が心配そうな顔つきで訊いてくる。第一、呪いの効力は明日からだろ。

 俺は玲を手招きした。どの道この階段は昇る予定だったろうから、玲も昇らなくちゃならないだろう。

 玲はごくりと喉を鳴らすと、俺と同じように一段一段を数を数えながら、ゆっくりと昇り出した。

 そうして、最後の一段へと差しかかる。そこで玲は昇るのを躊躇した。

「どうした?」

「ええと、やっぱりちょっと怖い……なって思って」

「はあ……何言ってんだ、ただしゃくりが止まらなくなるだけだぞ?」

「それは……そうなんだれど」

 俺は踏んだってのに。……ま、仕方がない。

「なら、一段飛ばして昇ればいいだろ」

「ええ……そんなこと」

 玲はちらりと腰のあたりを見下ろした。

 スカートだ。なぜかスカートを気にしているのだ。

 別段、うちの学校のスカートは短めということはない。どちらかというと、都会と比べると長くて地味な部類に入るだろう。

 しかも今は夜で、俺は上の方にいる。何がとは言わないが、仮に見えたとしてもなんらきにするところはないだろう。

 見ているとすれば、人外だけだ。そう気にすることでもない、と俺は思うのだが。

「……玲?」

「…………」

 俺が玲に呼びかけると、玲は両頬を膨らませて、ぷるぷると全身を震わせ始める。

 そうして、意を決したように大きく足を上げ、羞恥のあまりに顔を真っ赤にしながら十三段目を回避しつつ、最上段まで昇って来た。

 俺は玲の手を取り、引っ張ってやる。しなやかな玲の体は軽く、その手は柔らかかった。

 俺は玲の体を引き寄せ、抱き締めていた。玲が放つ華やかな香りと全身に柔らかさが俺を癒してくれる。

 ここまで、ただただ面倒で恐ろしいとばかり思っていたが、ここに来てようやくいいことがあったな。

「あ、あの……健斗、そろそろ離して」

「あ、ああ……悪い」

 玲に言われて、俺は慌てて彼女の体を離した。なんとなく名残惜しい気がして、両腕をわきわきさせてしまう。その姿を、玲がじっと見ていた。

「……えっち」

「い、いや……これは違うんだ……!」

「……別にいいけれど」

 いいんだ! と心の中で思ったけれど、言わなかった。

 じゃあ今後はだめ、なんて言われた日には、立ち直れないだろうから。

「と、とりあえずここはこれでいいとして……次は」

「図書室……だな」

 増える階段の怪異のことは、明日になってみないと本当かどうかわからない。

 だから、ここは後回しだ。

 俺と玲は図書室を振り返った。

「と、図書室って一体どんな噂があるんだ?」

「え、ええと……確か走り回っていたずらする小人……だったかな」

「いたずらする小人……」

 なんだそれ。どこの〇〇ビデオの企画だよ!

 と、声を大にして言いたかった。言ったら俺の人生お終いなので言わなかったが。

「じ、じゃあ行こうぜ」

「う、うん……行こう」

 俺と玲はごくりと喉を鳴らして、図書室へと向かうのだった。

 

 

                        〇

 

 

 図書室の小人……それはまことしやかにささやかれる噂だった。

 これはトイレの花子さんや音楽室のベートーヴェンと違い、我が校特有の怪談だ。

 その内容とは、夜な夜な図書室内を小人が走り回り、蔵書にいたずら書きをしたり破ったり折ったり、果ては喰ったりするそうだ。小人って雑食なんだろうか。

「そんな図書室の小人の謎に迫るため、俺たちは今からここに潜入する」

「うん、その通り」

「決して、野次馬根性や好奇心からではないと言っておく」

「当然だよ」

「よし、準備はいいな、玲」

「いいよ、いつでも」

 玲がこくんと頷く。それを見て、俺も一つ、頷いた。

 さあ、小人の謎へと迫るために、俺は勢いよく図書室の扉を開いた!

「……うーん」

 図書室に入るなり、玲は唸っていた。俺だって唸りたい気分だ。

「なんだろ……すごく平和だね」

「ああ。破かれたり落書きされたりした蔵書はないみたいだな」

 それどころか、床に本が散らばっている、なんてこともない。小人が暴れ回った形跡はどこにもないのだ。

 やはり、あの噂は眉唾だったらしい。ま、小人なんて実在しているはずがないからな。

 俺はやれやれと肩を竦めた。まったく迷惑な話だ。

「なんてことないみたいだな。どうする? 一応見て回るか?」

「そ、そうだね……もしかしたら私たちがいるから警戒して出て来ないだけかもしれないし」

 という玲の言葉が本気ではないことくらい、その若干弛緩した表情を見ればわかる。

「よし、なら俺はこっちから見るから、玲はそっちからいいか?」

「もちろん。じゃあこっち見てくるね」

 玲が右側の書架を見て回る。対して俺は反対側、左側の書架へと目を走らせた。

「……むむむ、別段何もねぇな」

 小人がいたずらしたという痕跡はおろか、ここ最近読まれたのかどうかすら怪しいい。

 どちらかと言えば古い本が多く、文学系統の蔵書が充実している。

 とはいえ、近年はそんなことで利用者も増えず、ラノベや漫画なんかもとり入れるようになったと知り合いから聞いた。

 たぶんそっちはぽつぽつと利用者があるのだろう。途中の巻だけ抜けているのが所々に見られる。

「……んで、小人ってどこだよ」

 半分小馬鹿にしながら口にしてみる。当然小人なんているはずがないのだから、そんな事で出て来たりはしないだろうけれど。

 そうやって、やっと書架の半分まで来たところで、立ち止まった。

 腰を折った状態から背筋を伸ばし、んーっと伸びをする。

 ――と、その時だった。

「きゃあああああああああああああああッ!」

「ど、どうした、玲!」

 玲の悲鳴が図書室中にこだました。

 俺は慌てて振り返り……そこで言葉を失った。

「み、見ないで健斗ぉ!」

「な、なななななななっ!」

 俺は慌てふためいて、再度振り返った。玲から視線を逸らす。

 玲の……パンツから。

「な、何やってんだ玲、こんなところで!」

「わ、私だって別にこんな格好したいわけじゃ……!」

 玲が涙声で弁解してくる。とはいえ、事実は玲の言い分はとだいぶ異なる。

 今の状況を簡単に言うと、玲がパンツを丸出しにしていた。以上。

 くっ……見えてしまった。よくある縞パンではなく、がっつりとしたショーツを。

「け、健斗……今思い出してるでしょ! 消して、記憶から消してぇ!」

「消した、大丈夫だから!」

「ああもう、なんで……これじゃあお嫁にいけない……」

「心配すんな……俺がもらってやるから大丈夫だ!」

「……健斗」

「だからもう一回振り返ってもいいか?」

「健斗……最低」

「いや、ちがっ……」

 とはいえ、さっきのやりとりはいささか俺の分が悪い。

 しかし、だからといってこのまま手をこまねいていては、原因はつかめないままだ。

「大丈夫だから!」

「何が大丈夫なの!」

 涙声の玲。おそらく一生懸命スカートを抑えているんだろうけれど、謎の力によって意味を成してはいないのだろう。

 なら、今がちゃ……今しかない!

「すまん、玲!」

 俺は心からの謝罪を玲に投げ、意を決して振り返る。と、そこには不思議は姿の玲がいた。

 突風でスカートが舞い上がるマリリンモンローみたいになっている玲がいた。親父から聞いたことしかなかったけれど、実際に見るとすげーな(語彙力)。

 俺が感心していると、玲がきっと睨みつけてくる。

 俺は慌てて再び目を逸らそうとした。が、ぐっと堪え、よーく目を凝らす。

「……なんか、いる?」

 確証は持てなかった。が、なんとなく玲のスカートの裾あたりになんかいる、ような気がする。……なんだ?

 俺はおそるおそる近づいていく。と、その何かはパッと消えた、と思う。

 と同時に、玲のスカートをたくし上げていた謎の力も消え失せ、玲のスカートは元の通りに戻った。……ちょっと残念。

「……健斗、なんでちょっと残念そうなの?」

「い、いやあ……そんなことはねぇぜ?」

 玲の鋭い指摘に、俺は思わず目を逸らしていた。へたくそなりに吹ける口笛を吹きつつ、図書室内を見回した。

 なんだろう、あれは……。絶対になんかいたよな、今。

 困惑しつつ、再び玲の方を見る。と、今度はスカートは無事だった。

「だ、大丈夫か?」

「う、うん……でも、なんだったの、今の?」

「え、ええと……なんか今そのへんにいたような気がしたんだけれど」

「へ? 嘘……」

「ほんと」

 俺が言うと、玲は気味が悪そうに、きょろきょろと周囲を見回す。

 別にゴキがいたとか、そんなことを言ったつもりはなかったのだが。それでも不気味なことには変わりがないのだろう。

「どんな感じだった?」

「どんな……悪い。よくわからなかった」

「えー、何それ……」

「……悪かったって」

 だってしょうがねぇじゃねぇか。相手は豆粒くらい小さかったんだから。

 俺がぶーたれていると、玲ははぁと溜息を吐いた。

「べ、別に嫌ってわけじゃないけれど……今はちょっと……だめだから」

「れ、玲……」

 さっきまで俺の中にわだかまっていた負の感情が一気に払拭された瞬間だった。

 え? 何この可愛い生き物。俺の彼女だけど?

「わ、悪かったよ……でも本当にわからなかったんだ。何つーか、小さ過ぎて」

「わかったから。それはそれとして、ここって何かいる?」

「まあいるだろうな。十中八九」

 何もないなら、さっきみたいな不可解な現象は起きないだろう。

 俺はぼんやりと頭の中に、数分前の映像を思い出していた。

 ……玲のパンツ姿を。

「……健斗、何想像してるの?」

「は、はぁぁ! な、何言ってんだよ、玲! 俺は別に……」

「消して、すぐに記憶から消して!」

 玲がぽこすかと俺の胸元あたりを叩いてくる。全然痛くねぇ……と言いたいところだったが、実は結構痛かったりする。割と力があるからな、こいつ。

「わかった、わかったから」

 俺は玲をなだめすかすようにして、玲の両肩に手を置いた。

 本当は忘れるつもりなんて毛頭ないのだが、ここは忘れたふりをしておいた方がいいだろう。

「忘れた、もう忘れたから。な?」

「……ほんと?」

「本当だ。だから落ち着け」

「……わかった」

 実際には俺が忘れたはずがないとわかっているのだろう。

 けれども、これ以上何か言ったところで意味はないと判断したのだろう。玲が大人しく引き下がってくれた。ふう……。

 と、そこで再び不思議なことが起こった。

 ぶわあっと。玲のスカートがまためくれ上がったのだ。

 つまり、またパンツ丸出し状態だ。

「け、健斗ぉー!」

「見てないから、俺は見てないからな!」

 俺は慌てて玲に背中を向けた。

 ああ、ちくしょう。なんだってこんなことになるんだ。

 ぐるぐると頭の中をこの不可思議な現象と玲のパンツが順繰りに巡っていく。

 ああ、だめだ。玲のパンツが強い。ちょっと前に見た映像と合わせて脳裏に焼きついてしまう。

 というか、この状況を打開するためには原因を突き止めなくてはならないのではないだろうか。そして、原因とはすなわち玲のスカート付近にあると想像する。

 なら、ここは後ろを振り返って玲のパンツを凝視……じゃなくて、原因の究明をするのが先決なのでは?

 俺は自分にそう言い聞かせ、すぅっと息を吸った。

「れ、玲……俺は今から振り向くぞ」

「え? だめだって。なんでそんなこと」

「原因を突き止めるためだ。……俺を信じろ!」

「健斗……わかった。わかったよ、健斗」

 おそらく恥ずかしいのだろう。玲の声は震えていた。

 それでも、玲はこの異様な事態を打開するために、俺に振り返ることを許してくれた。

 なら、俺も全力でそれに答えるぜ!

「いくぞ、玲ィィ!」

 叫びながら、バッと振り返る。と、当然そこには派手にスカートがめくれ上がった玲がいた。

「ちょっと健斗、にやにやしない!」

「す、すまん……ええと、どうなってんだ?」

 玲に怒られながら、状況を見る。

 派手にめくれたスカート。その下から除く白い脚。大事な部分を隠す逆三角形の布。

 それらがすべて余すところなく見えているこの状況を作り出している原因は……。

「……ハッ」

「何? わ、わかったの?」

 玲が羞恥に顔を真っ赤にしながら訪ねてくる。が、俺はそれには答えず、ゆっくりと玲に近づいて行く。

「け、健斗?」

 じーっと、玲のスカートの裾に視線を集中させる。

「な、何をやって……」

 玲が涙声で訊ねてくるが、今は取り合える状態じゃあない。

 なんだ……これ?

 俺はよーく目を凝らして、それを見つめる。

 小さい何かがそこにいた。羽虫のような何かが。

「健斗ぉ……」

 俺は玲の訴えを無視して、その虫? へとゆっくりと手を伸ばす。

 そんな俺の行動をどう思ったのか、玲が息を飲んだ。

「……健斗、だめだって。こんなところで……」

 玲が何か言っていたけれど、無視だ。虫だけに。

 そろぉっと、俺はその何かを包み込むようにして捕まえた。

 案外簡単だったな、これ。

 と、俺がその何かを捕まえたと同時に、玲のスカートを支えていた謎の力が抜け落ちたように、スカートがひらりと元の形へと戻った。

「な、何だったんだ、今のは」

「そ、それはこっちのせりふなんだけれど。どうして……」

 ぐっす、と玲が涙目になりながら俺を睨んでくる。めっちゃ可愛い。

「悪かったって。そんなことより」

「そんなこと……?」

「あっ……いや……ほら、見てくれ」

 俺は両手で包んでいたそれを玲の前に差し出した。そうして、ゆっくりと慎重に手を開く。

 すると、俺の手の中には一匹? の羽虫? がいた。

 不思議な色合いだった。薄い緑とも、淡い青色ともつかないような表面。

 これは自然のものなのだろうか。体中がほんのりと光を放ち、手の平にはじんわりとした温かさがあった。

「……ええと、何これ?」

「なんなんだろうな、一体」

 玲もさっきまでのことは忘れてしまったのか、とりあえず脇に置いておくことにしたのか、その発光体に視線を落としていた。

「……こいつが怪異の正体か?」

「怪異……というより妖精って感じだけれど」

 確かに。玲の言う通り、この羽虫はどちらかというと妖精だ。

 俺はさてどうしたものかと思案する。本当に怪物だったら、このままにしておくわけにもいかないだろう。

 かといって、妖精を握りつぶすわけにもいかない。どうしたものか。

「……どうする、これ」

「どうするって言われても……」

 玲もだいぶ困惑している様子だった。そりゃあそうだろうなと思う。

 何せ玲のスカートをめくっていたのはこいつだ。こいつ単体の仕業かはわからないけれど、こいつがその中の一人? であることは確実はわけで。

 なら、俺たちとしてはこいつを放っておくわけにはいかない。落とし前はつけさせないといけないだろう。

「……とりあえず逃がしてあげたら?」

 と、考えていた俺とは裏腹に、玲が慈悲深い提案をする。

「いいのか? だってこいつは……」

「いいよ。だって……こんなに怯えているんだから、ひどいことできないよ」

 にこっと微笑む玲。なんて優しんだ、この天使は。

「おら、玲に感謝しろよ、おまえら」

 こくこくと(おそらく)頷いている妖精。俺は少し手を持ち上げると、その妖精はふわりと飛び上がり、どこかへと消えてしまった。たぶん仲間のところへと帰ったのだろう。

「……ええと、じゃあどうする?」

 妖精の姿が消えたことを確認して、俺はぽりぽりと頬を掻いた。

 まだ頭の中には玲の下着のことが何度も蘇っている。とはいえ、それを本人の前で口にするようなデリカシーのないことはしない。……んだけれど。

 俺はとしては今日の探索はここまでにしたいと思う。はやく帰りたい。

 俺が玲に問うような視線を送ると、玲はなんだか気恥ずかしそうに俯いたまま、ぼそぼそと呟く。

「……つ、疲れたし、帰ろうかな」

「……そうか。それがいいな」

「うん」

 俺と玲は連れ立って、図書室を出た。

 こうして図書室の怪異は解明されたわけだ。その正体はいたずら好きの妖精の仕業だったいうロマンチックな落ちで。

 気を抜けばにやついてしまいそうになるのを必死で抑えつつ、俺は玲とともに入って来た裏口へと向かった。

「ええと、今は何時だ?」

 俺はスマホを取り出して、時計を見やった。すると、夜中の二時を回っていた。

「うげっ……もうこんな時間かよ。大丈夫か、玲?」

「大丈夫だよ。今日は友達の家に泊まってるって言ってあるから」

「え? ああ……ならいいんだけれど」

 しかしはて? と俺は思った。玲がそんなふうに言える友達なんてはたしていただろうか、と。

 もしかすると……と、俺はふと不安に駆られた。

 玲の両親は全部わかってて玲を送り出したのではないだろうな。

 俺はふと背筋に冷や汗が流れるのを感じた。ぞくりと全身に鳥肌が立つ。

 だとしたら、玲を家まで送って行った時に何を言われるのかわかったものじゃあない。

 その時に浴びせられるであろう罵詈雑言を想像して、陰鬱な気分になる。

 ついでに妹や、俺の両親からも向けられる侮蔑の視線。年頃の娘さんを連れ回した最低男として、末代まで語り継がれるんだ、そうに決まっている。

 と、俺が一人悲嘆に暮れていると、玲がとてて、と俺の前に躍り出た。

「どうしたの、健斗?」

「ああ、いや……なんでもない」

 にこっと玲が微笑んだ。……なら、まあいいか。

 それまでの沈んだ気分が嘘のように晴れていく。玲効果すごい。

 そういて、一階まで降りて行った。……と、玲がふと立ち止まる。

「……どうした?」

「……なんか聞こえる」

「はあ……何も聞こえないと」

「ちょっと静かに」

 玲の指示を受け、俺は黙り込んだ。

 それから、玲は目を閉じて耳を澄ますようにじっとしていた。

 何なんだろう、一体。玲は何を聞いたんだ?

 俺も玲の真似をして耳を澄ます。……が、やはり何も聞こえなかった。

 いや、待てよ……玲の言う通りだ。何かが聞こえる。

 がしゃんがしゃんがしゃん、という金属質の音。それも、割合大きな音だった。

「え? ……一体どこから……」

 更に耳を澄ます……と、段々と大きくなっていくのがわかった。

「なんだか……近づいて来てね?」

 ぎぎぎ、と玲を振り返る。すると、玲も俺と同じ心境だったらしい。顔が真っ青だ。

「え、ええと……そういえば忘れてたんだけれど」

「え? 何? 怖い話?」

「そう。怖い話。怪談の続き」

「や、止めてくれないか?」

 がしゃんがしゃんがしゃんがしゃん。

「えっとぉ……走り回る人体模型と骨格標本って言うんだけどぉ」

 などと、玲が説明するよりも先に。

 がしゃん! と背後からひときわ大きな音が響いてきた。

「ひっ……!」

 俺と玲が揃ってびくんと体を震わせた。振り返るべきか否か……それが問題だ!

「け、健斗……振り返って見てみてよ」

「い、いやー……それはちょっと」

「な、なんでぇ……」

「だって怖いから」

「怖いって、それでも男子なの」

「男子女子はこの場合関係ねぇと思うんだが」

 それで心霊現象を克服できたら苦労はねぇんだよ。

 俺たちが言い争っていると背後からもう一度がしゃん! 金属音が鳴り響く。

 びくう! と、再び体がが跳ねる俺たち。

「くっ……ちくしょう」

 どうせ大したことないんだ。警備員さんとか、そんな落ちに決まってる。

 俺は意を決して、おそるおそる背後を振り返った。

 ゆっくりと、細く目を開けて。

「ひぃ――」

 声にならない悲鳴が俺の喉を締めつけてくる。

 それは人体模型だった。白骨標本だった。

 そいつらはぎぎぎ、と俺たちへと顔を向ける。焦点の定まらない、あるいはぽっかりと眼窩の空いた瞳? を俺たちに向けてくる。

 ゆっくりと体ごと俺たちを見据える。そうして――笑ったように見えた。

 その似たいはクラウチングスタートの構えを取って……一目散に俺たちのところへと走ってくる。

「「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!」

 その後、夜の学校内で絶叫が響き渡るという、新たな怪談が追加されたのだった。

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