第28話 桜木玲と不良少女の悩み

 九条がイギリスへと旅立ってはやくも一週間が経過していた。その間、俺はというと特に変わりなく過ごしていた。

 変わったことと言えば、九条がいなくなって俺の周りの連中が静かになったことくらいだろうか。

 真人や他の連中もそうだが、一番落ち込んだのは玲だ。無理もないだろう。

 何せ九条とは一番仲がよかったしな。いくら送り出してやったとはいえ、寂しいものは寂しいんだろう、きっと。

 かくいう俺も、まあ人並みには寂しさを感じているわけで。あんな奴でも、いないといないでちょっとは恋しくなるものだな。

 俺はふとそんなことを考えている自分に気付き、笑ってしまいそうになった。

 別にニヒルを気取っているわけじゃあないが、まさかこんなことを思う日が来るなんてな。

「ま、とはいえあんまり気にしてても仕方がないか」

 俺は鞄をお持ち直し、電車を待つ。到着した電車に乗り込み、二駅過ぎる。

 そうすると、俺たちの通う高校の最寄り駅へとたどり着く。別段特色なんてない、自由な校風云々という謳い文句だけが取り柄の学校だ。

 ……ス〇ールアイドルとか、実際に発足したりしねぇかな。

 なんて、そんなことを考えていると、ポンと肩を叩かれた。振り返ると、そこにはにこっと穏やかな笑みを讃えた玲がいた。

「おはよ、健斗」

「あ、ああ……おはよう」

 玲が挨拶をしてくる。ので、俺も返す。今まで何度となく繰り返してきたやりとりだが、今日の俺は自分でもわかるくらいぎこちなかった。

「どうしたの?」

「な、なんでもねぇよ」

 俺は慌てて玲から視線を逸らし、口元を隠した。

 別に玲にさっきの妄想のことを話したとしても、君悪がったりはしないだろう。けれど、だからといって話すのかといえば話さない。

 なんとなく恥ずかしいからだ。

「変な健斗。……ほら、はやくしないと遅れちゃうよ?」

「わかったから、ひっぱらないでくれ」

 玲が俺の手を取って、ぐいっと引っ張ってくる。

 その手の柔らかな感触に、ちょっとだけどきっとした。

 玲。――桜木玲。俺と同学年で、同級生。

 勉強も運動もその他のこともなんでもそつなくこなす完璧超人。そのくせどこか抜けたところがあって、嫉妬深い俺の恋人。

 そう、俺と玲は付き合っている。なぜかは不明。玲から告白されたのだと記憶しているが、玲が一体俺のどこを好きになってくれたのか、まったくわからなかった。

 とはいえ、人間の気持ちをすべて理屈で説明しようとすることほど愚かなことはない、と一昨日とあるバラエティ番組でも言っていた。から、考えるだけ無駄なんだろう。

 それに俺は玲ほど頭のいい方じゃあない。だから、あまり深々と考えることはやめようじゃあないか。

 俺は素直に玲に手を引かれ、校門前まで一緒に登校した。

「えへへへ」

「ん? どうしたんだ、玲?」

「んー、なんでもないよ」

 にへら、笑顔を見せる玲。俺は首を傾げた。

 なんだかよくわからないが、玲は今嬉しそうだ。なら俺も嬉しい。

 校門前には他の生徒やら先生やらがいて、手を繋いで仲良く登校とかめちゃくちゃ恥ずかしかったのだが、全校生徒の八割は俺たちが付き合っていると知っている。

 それに今までにも何度かこういうことはあったのだから、今更だ。

 逆に見せつけてやれ、という気持ちになっていた。のだが、パッと玲の手が俺から離れた。

「ええと、ここからはちょっと」

「あ、ああ……そうだな」

 玲が顔を赤らめ、俯きがちに視線を右往左往させる。その様子はかなり可愛かったのだが、同時に俺もかっと全身の体温が上がってしまう。

「ま、まああんまりこういうことしててもな。面倒なことになっても敵わないしな」

「そ、そそそそうだね。ええと……」

 玲が俯いたまま、俺の隣を歩く。果たしてそれに何か意味があるのかと思ったのだが、それはいい。

 他の生徒に挨拶をしつつ、玲の他愛のない会話を交わしながら昇降口へと向かう。

 ――と、ドンッと、肩がぶつかった。

 俺は反射的に後ろへと飛び退いた。それから、ぶつかった相手を見やる。

「げっ……」

「ああん? 『げっ』ってなんだこのやろう」

 ぶつかった相手は俺をうらめしそうに睨んできた。だから、こっちも思わずむっとなる。

「てめぇからぶつかって来ておいて、そういう態度はねぇだろうが」

「何言ってんだ。おまえの方こそ、前方不注意だろう」

 言いながら、面倒なことになったと思った。

 何せ相手が学校一の不良娘、四楓院梓だったのだから。

 四楓院は金色に染めた髪を躍らせながら、なお突っかかってくる。

「はぁ? 何言ってんだてめぇ。なめてんのか?」

「誰がおまえみたいな奴を。……冗談なら他所で言ってくれ」

「け、健斗……」

 玲が俺をなだめようとしているのがよくわかった。俺だって、別にここで喧嘩を始めるのは本意じゃない。

 相手は何だかなんだと言って女子だしな。

 四楓院にとってもそれは同じらしく、チッと舌打ちをして、昇降口を出て行ってしまった。

 ……ったく、あいつまたサボるつもりだな。

 四楓院は俺の隣のクラスだが、あいつの悪い噂はたびたび耳に入って来ていた。

 それこそ授業をサボッたり、喧嘩に明け暮れたり。ひどいものだと、援助交際の噂さえある。

 まあ援助交際はないだろうと思うが。だってあいつ、どこの昭和のヤンキーだよって言うくらいばりばりの硬派気取ってんだから。

「えっと、大丈夫? 健斗」

「あ、ああ……大丈夫だ。それよりなんだったんだ、あれ」

「わ、私に訊かれても困るんだけれど」

 だろうな。

 俺は玲の反応に納得しつつ、四楓院の去って行った方をしばらく眺めていた。

 まったく迷惑な奴だ。なんだってあんな奴がこの学校にいるんだろう。

 俺は四楓院に対して、ことさら悪い印象を抱いた。だって仕方ないだろう。あんなメンチ切られたら。

 怖い思いをさせられたんだ。このくらいは許してもらわないと。

「悪かったな、玲」

「ううん、私は大丈夫だけれど。健斗は大丈夫だった?」

「俺は……まあうん」

 大丈夫かと問われれば、別段怪我をさせられたとかいうこともないし大丈夫なのだが。

 ここで頷かなかった方が、もっと玲に心配してもらえたんだろうかとか考えてしまうあたり、俺もだいぶ変態だなぁと思う。

 ま、玲以外の奴に対してこんなことは思わないのだけれど。

「じゃあいこっか、健斗」

「ああ、そうだな」

 いつまでもあんな奴のために時間を割くわけにはいかない。

 俺は玲とともに、上靴に履き替えてそれぞれの教室へと向かうのだった。

 

 

                     〇



「それにしても、そいつは災難だったなぁ」

「他人事みたいに言ってんじゃねぇよ、このやろう」

「だって俺からしたら十分他人事だしな」

 午後の一番最後の授業は体育だった。

 俺と真人は授業が終わると、一番で教室へと戻った。別段何か理由があったわけじゃあない。

 ただ単に他の連中がだべりながらだらだら歩いているので、遅いだけだ。

「んにしてもあの四楓院とぶつかるなんてな。何事もなくてよかったよ、まじで」

「ああ。なんだってあいつはいつもあんなにピリピリしてんだ? おっかねぇんだよ」

「ほんとそれな」

 がらがら、と真人が教室の扉を開ける。と同時に室内へと視線を移し、絶句とともにフリーズした。

「? どうしたんだ、真人?」

「…………」

 ガタガタガタと震え出す真人。なんだ? 何があったんだ?

 俺はおそるおそる、真人を押し退けて教室内へと視線を投げる。

 と、真人がフリーズした原因がわかった。……そして俺もフリーズする。

 そこに、ありえない人物の姿を見てしまったから。

「な、なんでここに……!」

 金色の染めた髪。不機嫌そうに吊り上がった目許。そしてスカート丈の長過ぎる改造制服。

 つまり、四楓院梓がそこにいた。

「……なんだ、いちゃ悪いか?」

 四楓院が至極不機嫌そうなぶっきらぼうな態度でそう言った。俺としては恐怖から、ぶんぶんと首を振ることしかできなかった。

 まじでなんでいるんだよ! 今日はサボタージュ決める日じゃなかったのか?

 俺たちが驚いていると、四楓院は腰かけていた机から立ちあがった。よく見ると、四楓院が座っていたのは俺の机だった。

 ええ……なんで俺の机の場所知ってんの?

 俺がそんな疑問を抱いている間に、四楓院がつかつかと歩み寄ってくる。

「何? え? なんで……?」

 隣で真人がうろたえていた。疑問府を何度も投げかける。が、当然この場で答えを知っているのは四楓院のみだ。

 そしてその四楓院はというと、俺の真ん前に立ち、ガッと俺の胸倉を掴んでくる。

「……おい、ちょっとツラァかせや」

「な、なんで俺が……」

「いいから。あーしの言うことが聞けねぇってんなら痛い目見てもらうぞ?」

「なっ……!」

 俺は思わず絶句した。

 な、なんて奴だ。理不尽にもほどがある。

 俺が困惑していると、勇敢にも真人が俺と四楓院の間に割って入ってきてくれた。

「何なんだおまえ! 突然現れやがって!」

「ああん? なんだおまえゴルァ……!」

「す、すみません……」

「…………」

 四楓院に睨まれてすごすごと引き下がる真人。おいおい、もうちょっと頑張ってくれよ。

 俺は四楓院に胸倉を掴まれたまま、真人に恨みの籠った視線を向けた。真人はといえばまあなんだか気まずそうだった。

「よし」

 まて、何がよしなんだこのやろう。

 俺が抗議の視線を上げようとしたところで、お構いなしといった様子で四楓院が俺を引きずっていく。どこへ連れて行く気だ?

 俺は締め上げられたままの格好で、ずるずると廊下を引きずられていく。

 ほんと、どこに連れて行く気だよ、こいつ……。サンドバックにでもされるのか?

 この後の自分の姿を想像して、ぞっとする。ああ、恐ろしや。

「ちょっと待ってください、四楓院さん」

「ああん? 誰だてめぇ……桜木か」

 四楓院が振り返る。と、彼女の(物理的に)手中にある俺も振り返ることになる。

 俺は頑張って視線を動かして、声のした方を見やった。まあなんとなく声で誰かはわかるんだけれど。

 はたしてそこには、四楓院の言うように玲がいた。ゴゴゴゴゴゴゴッと背景に漫画的効果音が見えるんじゃないかというほどの気迫を感じた。

 怒っていらっしゃるようだ。そりゃあそうだろう。彼氏がこんなふうに連れ去られる場面に遭遇したんだから。

「健斗、何してるの!」

「えええええ! 俺が怒られるのぉ!」

 びっくりした。俺、拉致られてる方なんですけれど!

 我が耳を疑ったよ、正直。まさか玲がそんなボケをかますなんて思わなかったから。

 しかし今はそんなボケはどうだっていいんだ。俺は助けてほしいんだよ、ほんとに。

 俺の気持ちが伝わったのか、玲の視線が俺から四楓院へと切り替わる。

「ああん? なんだこのやろう。あーしとメンチ切ろうってのか?」

 四楓院は高圧的な態度で玲に詰め寄る。が、玲が臆することなく、じっと四楓院を睨みつけていた。

「……てめぇ、あんまり舐めたことしてっと痛い目見るぞ?」

「はたして、それはどちらのことでしょうね」

「ちょ、ちょっと二人とも……」

 落ち着いて、と言おうとしたが、双方とも俺の話なんざ聞いちゃいねぇ様子だった。ええと、どうしたら?

 俺は更なる助けを求めて、周囲へと視線を動かす。が、俺たちに……とりわけ四楓院には関わりたくないのか、誰もこちらを見ようとはしなかった。

 あの真人でさえ、教室から顔だけを出してこちらを見ている始末だ。いやおまえ、助けろよ、俺を。

 俺は真人を睨みつけた。が、真人は悪びれた様子もなく、てへぺろっと舌を出す。やめろ気持ち悪い。

 仕方なく、自分でどうにかするべく四楓院の手を振り解こうと試みた。けれども、四楓院の握力は存外に強く、俺程度では振り解けなかった。

「は、離してくれ」

「だめだ。てめぇには用があるんだ」

「用? 用とは何でしょうか?」

「……てめぇには関係のねぇことだ、桜木」

「関係ならあります」

「ああん? どんな関係だ? 言ってみろよ」

「うぐっ……そ、それは」

 四楓院の追及に押し黙る玲。

 まあそりゃあそうだ。俺たち二人きりの時というのならまだしも、こんな衆目の前で「私たち付き合ってます」と口にするのは恥ずかしいだろう。

 それが例え公然の秘密なのだとしても、だ。

「なんだ? 言えないのか?」

「なっ……い、いえ……ます!」

 おそらく四楓院的には何気なく言っただけのつもりだったのだろう。が、それが玲にとっては煽りに聞こえたらしい。

 半ばやけくそ気味にそう言うと、すぅっと大きく息を吸った。

「わ、私たちは付き合っています! だから、け、健斗を連れて行くのはやめてください!」

 おおお、と周囲からどよめきと歓声が起こる。

 玲はというと、顔を真っ赤にしてぷるぷるしていた。いつもの玲の恥ずかしがり方とはまた違う感じだ。

 それはそれで可愛いと思うのだが、しかし今は状況がよくない。いつもならここで俺が玲をひといじりして終わりなのだが、今の玲の相手は四楓院だ。

「……ほう」

 四楓院が軽く息を吐く。感心したようなその吐息に、俺は内心でぎくりとした。

 もちろん、悪い予感という意味でだ。

「二人は付き合ってるいるのか。それは知らなかった」

「そ、そうです……だから、健斗を……」

「だが、だからどうしたという話だ」

「……は?」

 四楓院の回答を得て、きょとんとする玲。俺だってそうだし、おそらく周囲のギャラリーだってそうだろう。

 何言ってんだ、この不良娘。

「別にこの男にそれほど興味があるわけではないし、何だったらあーしは自分より弱い男なんて好きにならない」

「な、健斗は別に弱くなんて……」

「ただ、ちょっと用があるだけだ。何、すぐに終わる」

「だから、そんなことを言われても」

 なおも食い下がろうとする玲。しかし四楓院の態度も頑なだった。

「まだ何かあるのか?」

「何かあるのか、じゃないです! だから、健斗を離してくださいとさっきから言っているでしょう!」

「それは私とて言っているはずだ。この男には用があると」

「だから、その用とは一体何のこと……」

「それをてめぇに言う必要はない」

 ぴしゃりと玲の言葉を跳ね除ける四楓院。いや、それはそれとして俺の意思は?

「そんなこと言って……実は健斗のことを狙っていたとかじゃないんですか!」

「だから、さっきも言った通りあーしは自分より弱い男は……」

 ああ、なんだか議論が平行線にもつれ込んできた。ホランゾンだよ、アリアダストだよ……。

 俺が一人内心で絶望していると、四楓院はゆるゆると首を振る。そして同じ言葉の応酬の繰り返し。

 何一つとして先に進まねぇよ、まったく。

「あのー、お二人とも、いいでしょうか」

「健斗は黙ってて」

「てめぇは黙ってろ」

 双方に言われて、俺は黙り込んだ。教室の扉の前で真人がくすくすと笑っている。

 あいつ……後で覚えてろよ。

「つかなんでいきなり喧嘩してんだ、おまえら」

「喧嘩なんか……」

「このあほが突っかかってきたんだろうが」

「はぁ? あほって私のことぉ!」

「あたりめぇだろう。こちとら別にてめぇには用はねぇんだ。とっとと失せろ」

「むっ……別に私だってあなたに用事なんてありません。ただ、その人をこちらに引き渡してください!」

「……それは無理だ」

「な、なぜです!」

「むっ……なぜっておまえそれは……」

 いきなり、四楓院が顔を赤くする。言い淀んで、言葉尻を濁らせる。

 ど、どうしたんだ、突然。

「べ、べべ別になんだっていいだろ! てめぇには関係のねぇことだ!」

「関係ないことなんてないです! だって私は健斗と付き合ってるんですから!」

 やめてぇぇ! さっきも言ったよそれ、そんな何回も言わなくていいから!

「……てめぇ、よくもまあそう何度も言えるな、そんなこと」

「だ、だって……本当のことですし」

「本当のことだとしてもだ。……学年一位とか言ってるけど、本当は馬鹿なんじゃねぇのか?」

「ば、馬鹿とはなんですか馬鹿とは! 馬鹿って言った方が馬鹿なんですよ!」

「あーはいはい。わかったわかった。時間ねぇからあーしらもういくわ」

「ま、待ってください!」

 四楓院が俺の首根っこを掴んだまま、玲の横を通り過ぎようとする。

 けれども、玲だってそれをだまったまま見ているつもりはないようだ。唐突に制服のベルトの金具の部分を掴んできた。

「な、何すんだてめぇ! 離しやがれ!」

「は、離すのはそちらです! 健斗を返してください!」

「ふざけんな、てめぇが離せやこら!」

 ぐいぐいと引っ張り合う玲と四楓院。やめてやめて! 苦しいしズボン脱げるから!

 だ、誰か助けてくれ……と懇願の視線を周囲に送るが、みんなこの状況を楽しんでいるだけで助けようとはしてくれない。この薄情者どもが!

 これは自分でどうにかするしかないぞと思っていると、唐突に玲がベルトから手を離してくれた。

 た、助かった……けれどなんで?

 俺は割かし勢いよく落ちた腰をさすりながら、玲の方を見た。四楓院も俺と同じ思考回路をたどったようで、訝しげな視線を送っていた。

「なんで……なんで離したんだ?」

「だって……健斗が苦しそうでしたから」

「ああ……あっそ。じゃあこいつはしばらく借りてくから」

「ちょっ……待ってください!」

 そのままずるずると引きずられていく俺。それを追い駆けてくる玲。

 四楓院は舌打ちを一つしたが、別段玲を巻こうという気はないらしい。

 階段すらまともに降りることができず、俺は何度も段差でかかとの部分を打った。

 いてぇんだけれど……もうちょっと優しくなれませんかね?

 内心で四楓院への苛立ちを募らせながら、俺は怪我を量産していく。

 一体……どこへ連れて行かれるんだ、俺。

 

        

                     〇



 連れて来られたのは、人気のない体育館裏だった。なんて定番な場所を選ぶ奴なんだ。

「うわあああ」

 首根っこを掴んでいた手を離されたと思ったら、地面に向かって思い切り投げ付けられる。

 強かに尻餅を突いて、俺はケツをさすりながら立ち上がった。

「な、何すんだこのやろう」

「ああん? なんだその口の利き方は」

「す、すみません……」

 ギンッと四楓院に睨まれて、口を閉ざす俺。なんて情けないんだ、俺……。

「てめぇは黙ってあーしの言うことを聞いてりゃあいいんだ」

「はあ……で、一体何なんだよ」

「……そ、それは……」

 びくん、と肩を揺らし、俺から視線を外す四楓院。なんか急にもじもじし出したぞ、こいつ。

「それは?」

「うぐっ……だから、その」

「だから?」

「……えーと、だなぁ」

「おう」

「…………」

 もじもじもじもじもじ、と顔を真っ赤に染め、人差し指の先を合わせて恥ずかしがる四楓院だった。

 なんだか、すごく怖いんだけれど。

 俺が内心でガクブルってると、四楓院はすぅーっと深呼吸を一つした。

「じ、実はあーしの相談に乗ってほしいんだ」

「相談?」

「ああ。何つーか、めちゃくちゃ恥ずかしいんだけれど」

 なんだ、そんなことか。

 俺は心の内でほっとしていた。どんな恐ろしい目に遭わされるかと思ったけれど、まあそれくらいなら。

「いいぜ。俺でどれくらい力になれるかわからないけどな」

「ほ、本当か?」

「ああ、本当だ。だから任せておけ」

 ドンッ、と俺は胸を叩いた。

「そうか。よ、よろしく頼むぜ」

「ああ」

 それにまあ、ここで断ったら何されるかわかったもんじゃねぇからな。

 そんなことをひっそりと思ったりしたが、当然口にはしなかった。

「んで、一体何なんだ、相談って」

「ええと……それは、だな」

 四楓院が両手で顔を覆っていやいやと首を振る。ええ……そんな言いずらいことなの?

 なんだかさっきまでの自信がなくなってきたなぁ。

 俺は一抹の不安を覚えながら、四楓院の言葉を待った。どの道断るという選択肢は既にないのだから、もう遅い。

 つーか顔を真っ赤にしてもじもじしながら何言ってんだこいつ。まるで似合ってな……。

「……ハッ」

 と、そこで俺はビビビッと脳天に電流が走るのを感じた。

 真っ赤……もじもじ。ま、まさか……とは思うのだけれど、恋愛相談か、これ。

 導き出された答えに、俺は驚愕した。

 恋愛相談……こいつが俺に? この四楓院が? うちの学校で一番恋愛事と縁がなさそうなこいつが?

 俺は自分の中に生じた疑問を何度も繰り返していた。

 ありえないと否定しつつ、しかしと根拠のない反論を繰り返す。

 そうこうと考えているうちに四楓院が口を開いた。

「実は……仲よくなりたい奴がいるんだ」

「な、なんだって……!」

 やっぱりだ。やっぱり恋愛相談なんだ、これは。

 俺は内心でどきどきしていた。恋愛相談なんてされるのは初めてだ。それどころか、他人から何かを相談されるのなんて始めてだ。

「あ、ああ……そうか。そいつは大変だな」

「ま、まあそうだよな。あーしってこんなんだし」

 四楓院が自分の姿を見下ろしつつ、苦笑した。

 普通の女子制服の二倍は長いスカート丈。それに金色の染めた髪。

 目つきは悪く、おまけに口も悪いときたもんだ。そりゃあ他人から好かれようったって難しい話だろう。

「……やっぱおかしいよな。今のはなかったことにしてれ。そして忘れてくれ」

「ちょっと待てって。別におかしいなんて言ってないだろ」

 四楓院がくるりと振り返り、走り去って行こうとする。ので、俺は彼女の手を握った。

「何すんだ、離せよ!」

「待てって。別に俺はおまえがどんなことで悩んでようが、おかしいなんて思わないぞ!」

「はぁ? 嘘吐け、たった今……」

「俺は大変だなって言ったんだ。何被害妄想爆発させてんだ」

「ああん? なんだと?」

「ああ、すいません」

 ぎらりと四楓院が睨んでくる。それを受けて、俺はさっきまでの威勢のよさを引っ込めて、縮こまった。

 まったく……これさえなかったらもうちょっと簡単なんじゃなかろうか。

 だからといって漸減を撤回するつもりなんて毛頭ないが。

 と、そこで下校を促すチャイムと放送が入った。

「……とりあえず今日のところは帰ろうぜ。そしてまた明日、考えよう」

「あ、ああ……わかった」

 とまあ、そんなこんなで俺たちは別れることにした。

 去って行く四楓院の後ろ姿を眺めながら、俺はゆっくりと視線を移動させていく。

 ……すると、見つけてしまった。そいつを。

 そいつはぬろぉっと物陰から出てきた。ええ……何、突然。ホラーなの?

 ザックザックと地面を踏み締めて歩み寄ってくるそいつ――玲に、俺はびくんと全身を揺らした。

「ど、どどどどうしたんだよ、玲」

「あの人……四楓院さんと何の話をしていたの?」

「何の話? なんでもねぇよ、他愛ない世間話だ」

「嘘」

 ぎょろりと四楓院とはまた別の意味合いで怖い視線を向けてくる玲。

 ええ……なんでこんなに怒ってるの?

「やけに早口だったし、目は泳いでるし何だったら冷や汗たくさん掻いてるし。嘘吐きの匂いがぷんぷんするぜ」

「いや、これはその……なんといいますか」

 俺は必死に弁明の言葉を探す。ちなみに目が泳いでいたり汗掻いてるとかっていうのは玲が怖いからであって決してやましいことがあるからというわけではないのだが。

 おそらくそのあたりのことを言っても無意味だろう。仕方がない、ここは奥の手だ。

「なんでもねぇよ。だから心配すんな」

 ポンッと玲の頭に手を置く。そして軽く滑らせる。

 前に玲に借りたゲームでこんなのがあったな。そして男から撫でられて、不機嫌だった主人公の機嫌は直った。

 最初はなぜ俺が乙女ゲーなんてと思ったものだが、最後までやってみると感動して涙が止まらなかったのはいい思い出だ。

 別にあれをあのまま信じているわけではない。こんなのにどれくらいの効果があるかなんてわからないし。

 でも、他に手段がないのも事実だ。これでどうにかなってくれ。頼む。

「……健斗がそう言うのなら、信じてもいいけれど」

「ああ、ありがとう」

 よかった、うまくいった。

 俺は内心でほっとした。これでうまくいかなかったらどうしようとか考えてしまっていたのだ。

「とりあえず……帰ろうぜ」

「……うん」

 俺は玲を連れ立って、帰路につくのだった。

 

 

                        〇

 

 

 そして翌日。何が起こったのかというと、俺にもよくわからなかった。

 結果だけを言うのなら、教師陣に取り囲まれ、尋問めいた質問を次々にされたのだ。

 果たして、一体何のことやらわからないことも多々あった。けれども、大半は俺と四楓院の関係性についてだった。

 いわく。

「おまえ、桜木というものがありながらあんな奴にまで手を出していたのか」

「石宮くん、私たち教師陣はあなたのことを誤解していました。あなたは四楓院さん以上に凶悪な人間です」

「石宮……先生は悲しいよ」

 というものだった。質問……というよりは半分以上俺を罵倒する言葉が含まれていたように思うのだが、それは気のせいだということにしておこう。

 ともかく、俺は必死に弁明した。

 俺は玲以外の奴に手を出したり、ましてや付き合ったりするなんてことはない。第一、どうしてそんなふうに言われなくちゃならないのかがわからない。

 けれども、俺が反論すればするほど、教師陣からのバッシングはヒートアップした。

 次第に俺も反論する元気がなくなってきた。どうせ音も葉もないことだ。放っておこう。

 そうこうして、二時間ほどだろうか。放課後の貴重な時間を使って行われた生徒指導という名の罵倒大会はようやく終わりを迎えたのだった。

「大変だったな、それは」

「本当だ。……ったく、おまえのせいで」

「ああん? 誰のせいだって?」

「……なんでもねぇよ」

 俺が素直に前言を撤回すると、四楓院は満足そうに頷いた。

 まったく、何かあるとすぐ暴力に訴えようとするんだから始末に負えねぇ。

「おまえ、そんなんで本当に大丈夫なのか?」

「はぁ? 何がだ?」

「…………ええと」

 俺は返答に困ってしまった。

 正直なところ、その口調もよくないだろうと思う。別に変にかしこまった言い方をしろってわけじゃあないが、もうちょっと柔らかく話したりはできないものだろうか。

「おまえ、本当に友達を作るつもりあるのか?」

「あるに決まってんだろ! 馬鹿にしてんのか!」

 がなり立ててくる四楓院。まあ今のは俺が悪かった。

 とはいえ、だ。今のままでは、友達百人どころか一人すらできないだろう。

 俺は溜息をついて、ぼんやりと四楓院を眺める。

 先日、四楓院に首根っこを掴まれて体育館裏に連れて来られた理由がこれだった。

 金髪で見るからにヤンキー感まるだしの四楓院。うちの学校でヤンキーって言ったらこいつしかいないわけで、つまるところ悪目立ちしまくりなのだ。

 だが、話してみると言葉使いとか態度とかは乱暴だが、案外普通の奴だとわかる。

 そんな奴の助けになれるのならと協力することにしたが(決して怖いからではない)、実際問題難しそうだ。

 俺はうーん、と唸った。だってこれに友達を作るのは無理だろう。

 誰だって乱暴で危害を加えられるかもしれないという奴には近づきたくすらないだろう。それが人間ってものだ。

 だから、本来ならそこから変えるべきなのだろうけれど。……これがなかなか難しい。

 果たして、どうしたものだろうか。

「……な、なんだよ、そんなに難しい顔をして」

「いや、実際……ねぇ」

「誰に言ってんだ、誰に」

 俺は空に向かって独り言ちた。

 ほんと、どうしたらいいんだろうな、実際。

「とりあえず、話し方を直したらどうだ?」

「話し方を直す……? どういうことだ?」

 わけがわからないというように、四楓院が首を傾げる。

「あーと……そうだな、例えばおまえ、あいつにちょっと話しかけてみろよ」

「はぁ? なんでだよ?」

「いいからいいから」

「ちっ……わかったよ」

 不承不承といった様子で、四楓院は俺が言った通り、通りすがりの上級生の元へと向かって行く。

 何の話をしていたのか、ここからではわからなかった。けれど、おそらくあまりうまくはいっていないだろう。

 それは上級生の態度を見れば明らかだった。なんでだよ。

 ひとしきり会話が終わると、上級生はそそくさと逃げるように顔を青くして立ち去って行った。

 ミッションを終えて戻ってくる四楓院。その表情は、不愉快さでいっぱいだった。

「……なんでああなるんだ? あーしは普通に話しかけただけだぜ?」

「まあだろうなぁとは思っていたけれど」

「はぁ? どういうことだよ?」

 四楓院が眉根を寄せる。本気で分かっていない様子だった。

「いや、おまえ顔が怖すぎるんだよ。怒ってんのかってくらい怖かった」

「いやいやいやいや、別にあーしは怒ってなんかねぇよ」

「わかってるわかってる。でも、端から見たらそう見えるんだからしょうがないだろう?」

「くっ……次こそは」

「待て待て待て待て、どこへ行く気だ」

 通りすがりの生徒へと更にアタックを仕掛けようとする四楓院を俺が止める。

「とめるなよ、用は根性だろ」

「根性じゃねぇよ馬鹿! とりあえず落ち着けって」

「落ち着いてるに決まってんだろ。後誰が馬鹿だこのやろう」

 四楓院が睨み据えてくる。マジでこぇぇんだが、こいつ。

「とりあえず今日のところは作戦会議だ。本格的なのは明日からな」

「ちっ……わーったよ」

 それでとりあえずは、四楓院も落ち着いてくれたらしい。軽く舌打ちをした気もするが、気にしないでおこう。

 俺はほっと息を吐いて、胸を撫で下ろした。

 これで、今日のところは無駄に恐怖を煽られる生徒が出なくて済む。

「……んで、明日の作戦なんだが……」

「ふむふむ」

 俺が作戦を伝えると、四楓院はしきりに頷きながら聞いていた。

 

 

                       〇

 

 

 そして翌日。俺は一人、昇降口の前で立ち番をしていた。

 とはいえ、別にそういう委員会活動とか罰ゲームとかってことじゃあない。人を待っているのだ。

「よう、何してんだよ健斗。桜木は一緒じゃねぇのか?」

 と、声をかけられたので顔を上げると、そこには真人がいた。

 剛昌真人。スポーツ万能成績最下位。馬鹿の中の馬鹿とはこいつのことを言うのだろうなという気がする奴だ。

「ああ。まあな。……つーかおまえにしてははやくね?」

「そ、そうか? 別に普通だと思うぞ、俺は」

 真人が視線を泳がせる。なんなんだ、こいつ。

「ま、なんだっていいじゃねぇか。そんなところに突っ立ってないでさっさと行こうぜ」

「ああ、悪い。ちょっと人を待ってるんだ、今」

「人? 誰だよ、それ。桜木……じゃあないよな?」

「まあ……誰だっていいじゃねぇか」

 俺は真人から視線を外し、明後日の方角を見た。

 待ち人が玲だったらまだよかっただろう。それなら俺だってこんなお茶を濁すようなことは言わなかった。

 けれど、実際は違うのだ。実際に俺が待っているのは……。

「ま、待たせたな」

 と、考えている間に声が聞こえてきた。張りのある、凛とした声だ。

 ここ何日か、嫌というほど聞き続けて来た声。見なくてもわかる。

 四楓院だ。

「お、おう……別に大丈夫だ」

 だが、俺は振り返ってそいつに応じた。片手を上げ、できるだけ朗らかに。

 俺が応じると、四楓院は嬉しそうに目を細め、わずかに微笑んだ。

「え、ええと……待った、か?」

「いや、大丈夫だ。問題ねぇよ」

「そ、そうか……よかった」

 などという俺と四楓院のやりとりを聞いていた真人はあんぐりと口を開けていた。

 意外……なんだろうな、やはり。四楓院のこういう態度はあまり見ないから。

 態度は……というよりは、四楓院がまじめに登校するということ自体が珍しいのかもしれない。

 そして俺と待ち合わせていたというのもだ。

 真人はバッと俺の肩を掴んで、中に連れ込んだ。顔を寄せ、ひそひそと声を潜めて訊いてくる。

「どういうことだ、これは」

「どういうことって言われても……はたして何のことだ?」

「とぼけるんじゃねぇ。なんでおまえと四楓院が一緒に登校してんだって訊いてんだよ」

「一緒には登校してねぇだろ。ただここで待ってただけだ」

「そういうこと言ってんじゃねぇんだよ、俺は」

「じゃあなんだってんだ」

「だから……」

 ああもう、と真人が頭を思い切りかき回す。

 もちろん、真人の言いたいことはなんとなくわかっていた。

 玲を差し置いて、四楓院と待ち合わせをするという事態そのもののことを聞きたいのだろう。

 つまり率直に言って、俺と四楓院の浮気を疑っているのだ、真人は。たぶん。

 余計なお世話だと思ったが、おせっかい焼きの真人のことだ。これは性分って奴なのだろうな。

 俺と玲のことに関して心配してくれる真人を嬉しく思いつつ、俺は咳払いを一つした。

「ま、大丈夫だって。おまえが心配しているようおなことは何もないから」

「……本当だろうな?」

「ああ。何だったら神に誓ってもいいぜ」

「いや、そこまでしなくてもいいが……ならわかった」

 真人は俺から離れると、とんと拳で俺のみぞおちあたりを軽く小突いてきた。

「そこまで言うんだったら、まあ信じてやるよ。おまえと四楓院の間には何もない……ってことはねぇんだろうけれど、何かしらの事情があるんだってな」

「そうしてくれると助かるぜ」

「ああ……じゃあ、俺は先に教室に行ってるからな」

「おう」

 と、そこまで言って真人は俺の脇を通り過ぎて、さっさと上履きに履き替えて行ってしまった。

 真人が行ってしまうタイミングを見計らっていたのだろう。その直後に四楓院が不安そうな声で訊ねてきた。

「ど、どうしたんだ? あいつは何て言ってたんだ?」

「え? えーと、それは……」

 どうしよう。何と言ったらいいだろうか。

 先ほどの会話をそのまま四楓院に伝えるのは、おそらくはない。

 その場合、どんなことになるか予想は付かないが、たぶん四楓院はいい気分じゃあないだろう。

 せっかく変わろうとしている奴に対して、そんなことを言うのはたぶん間違ってる。

 だから、ここは黙っていようと思った。

「大丈夫だ。何でもねぇよ」

 俺は精一杯の笑顔を作って、四楓院にそう言った。

 はたして、本当にそれでよかったのかはわからない。だけれど、他にやり方を知らなかったのも事実だ。

 だから、今はこれでいい。

 俺は四楓院に質問を挟む暇を与えないために、くるりと背を向けた。

 上靴に履き替え、教室へと向かう。

 その後を、あいつが付いて来ているのが気配でわかった。

 

 

                  〇

 

 

 玲の機嫌が悪い。原因はわかっている。

 このところ、俺がずっと四楓院にかかり切りだったからだ。反省しないとな。

 と、いうわけで、俺は久しぶりに玲と一緒にデートをすることにした。

「どこか行きたいところあるか?」

「ええと……だったらあそこがいいかなぁ」

 という玲の提案で、二駅離れたテーマパークに来ていた。今日のところはそれなりに出費を覚悟していたのだが、玲がここの年間フリーパスを持っていたので入場料は俺の一人分で済んだのはありがたかった。

 ありがたかった……のだが。

「玲、ここよく来るのか?」

 年間パスを持ってるくらいだから、そりゃあよく来るんだろうけれど。

「うん。念に二、三十回くらいかなぁ?」

「お、おお……そうか」

 そんなにか。

「まあ最近は多くて十回くらいだけれど」

「へぇ……ずいぶんと減ったんだな」

「ん……まあね」

 玲が照れ臭そうにはにかんだ。そんな顔も可愛いのだが、はたして今のところに照れる要素はあったのだろうか。

「とりあえず何する?」

「何って……そうだな」

 俺はきょろきょろとあたりを見回した。

 休日だからだろうか。そこそこににぎわいを見せていた。

 以前に九条家のテーマパークに行ったことがあるが、あそことはまた趣が違うな。

 ここのアトラクションは割合ゆったりとしているというか、のんびりしているというか。

 ともかく、あまり激しいものはないようだ。その点は安心だ。

 だからだろう。小さな子供を連れた家族連れが多いのは。家族でも安心して楽しめるというわけだ。

 ただ、ここに玲がよく来ていたというのは意外だった。そんなに面白いアトラクションがあるのだろうか。

 俺は不思議に思い、あたりを見回した。どれも楽しそうではあるが、特別玲の気を引きそうなものはなかったように思う。

「何かおすすめはあるか?」

「おすすめ……そうだなぁ」

 玲が考え込むようにしてあごに手を添えた。むむむ、と唸り、それからパッと顔を上げる。

「いいところがあるよ! 付いて来て」

「お、おう……」

 がっし、と玲が俺の手を掴んだ。付いて来てと言われたが、そのままずるずると引きずるようにして連れて行かれる。

 連れて行かれたのは、お化け屋敷だった。それも、かなり年季の入った。

「ええと、ここが玲のおすすめ?」

「うん」

「ただのお化け屋敷だろ?」

「ふふーん」

 俺が思ったことを口にすると、なぜか玲が得意げに胸を逸らす。

「ただのお化け屋敷じゃないんだよ。何せこの中にはかずかずの謎が張り巡らされているんだから」

「謎? へぇ、そいつは面白そうだな」

「でしょ?」

 玲がきらきらとした瞳で俺を見る。

 正直、謎解きやクイズの類いはそれほど得意ではない。が、別段嫌いというわけでもなかった。

 俺と玲は連れ立って、お化け屋敷に入って行く。

 中は外観通り、洋館を模した造りになっていた。どっかで見たような……と思わなくもなかったけれど、それは気にしないでおくことにした。

「ほら、あったよ」

 そう言って玲が指さしたのは、一つの木箱だった。板が朽ち、ぼろぼろになったように加工されているが手触りなどから判断して間違いなく見た目ほどぼろぼろじゃあない。

「ふーん……何々」

 箱の中から一枚の紙を取り出す。その紙片に書かれたことを、読んでいく。

「……〝こたのたさたきたみたぎた〟?」

「ノーヒントだね」

 どういうことだ? まるで意味がわからんぞ。

 俺は紙片に書かれたことの意味がまるでわからず、眉間に皺を寄せる。

 一体……なんと書かれているんだ、これは。

「……とりあえず進んでみよう」

 この場に突っ立って考え込んでいてもらちがあかない。

 俺たちはそのまま奥に進むことにした。が、ほどなくして分かれ道へと突き当たる。

「ど、どっちに進めばいいんだ?」

 俺は困惑した。なぜなら、どちらも入り口が不吉でおどろおどろしかったからだ。

 右と左、どちらへ進んでもろくなことにならないのは目に見えていた。

「ほら、健斗。これこれ」

「え? ああ、これがヒントになるのか」

 玲が俺の手元の紙片を指差してくる。さすが常連だ。心得ているらしい。

 俺は再び紙片へと視線を落とした。さっきと同じわけのわからない文字が躍っている。

「うーん……なんだろ、これ」

 紙片の角度を変えてみたり、透かし文字がないか光にかざして見たりしたがだめだった。

 どちらも効果がなく、答えになりそうなものは出てこない。

「なぁ、玲……これって」

「ふふん、もうちょっと頑張って」

 玲には既に答えがわかっているらしい。その上で黙っているつもりのようだ。

 俺に答えさせようということなのだろうが、はたしてどちらに進めばいいんだろうか。

 分かれ道の前に立ったまま、俺は唸り続けた。

 また紙を折ってみたりなどしてみたけれど、やはり答えらしいものは浮かんでこない。

 だめだ。ギブアップ。

 そのことを視線で玲に訴えると、玲は「仕方ないなぁ」というように首を振った。

「〝た〟を抜いて読んでみて」

「ええと……〝このさきみぎ〟……あっ」

 わかった。この「この先右」だ。……つかこれ、クイズ本とかでよくある奴じゃねぇか。

 こんなのがわからなかったなんて。自分の頭の悪さにほとほと嫌気が差すぜ。

「じゃあこっち」

「へ? だってここには右って……」

 玲が左へ向かおうとするので、俺は右の方を指差した。

 暗号というか……クイズには右と書かれている。のに左へ行くのか?

 俺は困惑仕切りで、玲に付いて行く。ここは常連の玲に従った方がいいだろう。

 しばらく行くと、不意に死角からゾンビが飛び出してくる。幸いお化け屋敷なので、バイ〇みたいに危害を加えられるということはないが、思わず悲鳴を上げそうになった。

 まったく、玲の前で悲鳴を上げるとか馬鹿か、俺は。だめだぞ、絶対に。

「それで……ここからどうするんだ?」

「ふふーん、まだまだ謎はたくさんあるから」

 焦らない焦らない。一休み一休み。そう言いそうな雰囲気を漂わせながら、玲はにこりとした。……いやー、嫌な予感がして仕方がないっす。

 俺は何度も叫びそうになるの必死で抑えつつ、その後のお化け屋敷を堪能した。

 謎に注意を向けてから、驚かし演出をするようだ。なんとまあ。

 そうしてお化け屋敷を出る頃には、俺はぐったりと疲れ果てていた。

 

 

                 〇

 

 

 そうしてひとしきりテーマパークを堪能した俺たちだったが、楽しい時間というものはあっという間に流れていくものだ。

 時刻は午後の六時を回ろうとしていた。まだ早いだろと思われるかもしれないが、玲のご両親が心配するといけないので早めに解散するとしよう。清く正しい男女交際を心がけているからな。

「そろそろ帰ろう……」

 ぜ、と口にしようとしたところで、俺ははたと言葉を止めた。

 なぜなら、どこからか怒鳴り声が聞こえてきたからだ。どこからだろう。

 きょろりきょろりと周囲を見回す。と、カフェエリアの方からだった。

 男女が言い争っているようだ。

「なんだとこの女ァ! もういっぺん言ってみろ!」

「ああ、何度だって言ってやるさ! てめぇみてぇな根性の腐ったクズはとっとと失せろって言ったんだボケェ!」

「てめ……女だからって何もされないと思って好き勝手言いやがって!」

「ああん? あんたらこそ相手が女だからって好き勝手できると思ってたんだろうが!」

 お互いに既にヒートアップしているようだ。触らぬ神に祟りなし。ここはさっさと退散した方が得策だろう。

 俺はそう玲に言おうとした。怪我をしてもつまらない。

 けれども、玲はその様子をじっと見ていた。いや、睨んでいたとでも言った方が正解か。

 まるで、憎悪を滾らせているかのような視線だった。怖いわ……。

「れ、玲……どうした?」

「…………」

 玲が俺の問いかけに答えることなく、つかつかとケンカをしているそいつらの側へと歩んでいく。ええ……まじか。

 俺は一瞬逡巡したが、仕方なく諦めて玲の後を追った。いざとなったら、体を張って守るつもりだった。

「大体てめぇには関係ねぇだろうがよ! 俺はそっちのお嬢ちゃんに用がるんだ!」

「だから、てめぇらはこいつが気弱そうだから狙ったんだろ? そういうのが卑怯で行けすけねぇって言ってんだわからねぇのか馬鹿がよ!」

 いやー、お互いに口が汚い。後言い方がひどい。

 俺は心中で苦笑しつつ、はらはらしながらことの推移を見守っていた。

 本音を言わせてもらえば、このまま回れ右をして帰りたいくらいだ。玲を連れて。

 さてどうなる……と思っていると、不意に玲が声を張った。

「止めなさい、二人とも!」

 騒動の渦中にいた二人はもちろん、当事者の女の子。そして成り行きを見守っていたギャラリーの視線までもが玲に集まる。俺が見られているわけでもないのに、なんとなく居心地が悪かった。

「ああん? なんだおまえは?」

 柄の悪い男の不躾な視線が玲に注がれる。俺はとっさに視線を遮るように玲の前に回った。

「ちっ……んで、何の用だ? 今俺たち、取り込み中なんだがな」

「別にこっちとしちゃあ、てめぇがどっかへ行ってくれりゃあそれでいいんだ」

「それは俺だって同じだボケェ。てめぇみてぇなガサツそうな奴には興味ねぇんだよこちとら」

「別にあーしだってあんたと関わりたいわけじゃあない。けれど、見過ごすこともできないからな」

「ちっ……うぜぇ」

「こっちのせりふだ馬鹿野郎」

 バチバチバチ、と二人の間で火花が散る。

 その間にも、ぞくぞくとギャラリーが増えている様子だった。

「おい、四楓院。そのくらいにしておいたらどうだ?」

「はぁ? 何言ってんだ。先に突っかかって来たのはこいつだぞ」

「なんだとこらぁ!」

「そうかもしれないが、あまり目立つのは……」

「無視すんじゃねぇよ、この野郎」

 男はかなり頭にきている様子だった。それでもいきなり殴りかかってこないところを見ると、彼なりの理性が働いているのかもしれない。

「大体、てめぇらには関係ねぇだろうが。知り合いかもしれないが、すっこんでよろ!」

 知り合いかもしれないのに関係ねぇと断じることができる根拠はと一体何だろう。

 俺は男の言い分にいささか以上に疑問を覚えたが、そんなことを言ったところで何も事態は好転しない。

 そんなことより、今は一刻もはやくこの場から立ち去りたい。

「それで、一体どうしてこんなことに?」

「ああ、この男がこいつにちょっかいかけてたんだ」

 言い争っていた女――四楓院が目の前の男をあごでしゃくって、それから背後を振り返る。

 四楓院の後ろにいたのは、気弱そうな女の子だった。黒縁眼鏡をかけ、いかにもおとなしめといった雰囲気だ。

 と、ぐるりと視線を巡らせ、出て来た情報を整理する。

 おそらく、この男は眼鏡の彼女を見て、気の弱そうな子だと思ったのだろう。うまい具合に言いくるめて、おいしい目に遭えると踏んでいたんだ。

 だけれど、そこへ四楓院がやって来た。嫌がる彼女を無理矢理連れて行こうとする男に対して、四楓院がとっさに止めに入ったと。まあそんなところだろうか。

 俺はざっくりとそんな推理を頭の中で組み立てた。それが本当かどうかは四楓院とそっちの眼鏡の彼女に訊ねればわかることだ。

 今は、この場を去ることが先決だ。これ以上ことを荒立てるのは得策じゃあない。

 俺は二人にそう言おうとした。が、俺が口を開く前に玲が男に詰め寄っていた。

「今のお話……本当なのですか?」

「はぁ? だったらなんだってんよ」

「いえ、だとしたら立派なあなたは最底辺野郎だということですよ」

「……んだと?」

 ぴくりと男のまゆが動く。明らかに気分を害したふうだった。

「気弱な女の子に迫り、あまつさえ止められて逆上さえしている」

「…………」

「まったく……なんということでしょうか。ねぇ、健斗」

「え? 俺……あ、ああ……そうだな」

 いきなり話を振られて、俺は思わず頷いていた。

 まあ俺と玲の予想が正しいのなら、あの男を庇う理由なんて少しもないのだけれど。

「もう一度言います。あなたは最低野郎です!」

 ずびぃっと。玲の人差し指の先端が男に向かって差された。

 男はみるみる内に顔を紅潮させ、わなわなと全身を震わせる。相当ご立腹のようだ。

「てめ……俺を馬鹿にするのもいい加減にしろよ!」

 なんと我慢の利かないことだろうか。男は拳を固く握って、玲に向かって振りかざす。

 俺はすぐに玲の前に躍り出た。生まれてこの方ケンカの経験なんてないが、肉壁くらいにはなるはずだ。

 来たるべき衝撃と痛みに備えて、俺は思い切り目を瞑った。それで痛みが和らぐわけがないとわかってはいたが、他にどうするべきかもわからない。

 ……が、いくら待っても想像していた痛みは襲ってこなかった。

 俺はゆっくりと、おそるおそる目を開ける。と、目の前には四楓院の後ろ姿があった。

「お、おまえ……なんで?」

 言い終わる前に、バタンと男が倒れ込んだ。ええ……気を失ってる?

 俺は事態を飲み込めず、ぱちくりと瞳を瞬いた。

 どうしてだ?

「ま、これでも中学時代は割とけんか三昧だったからな。多少の心得はある」

「心得って……」

 なんだよそれ。……俺は思わずへたり込みそうになって、ぐっと堪えた。

 玲の前でみっともない姿を見せるわけにはいかない。恐怖で膝ががくがくと笑っていたが、気にしない。

 俺は玲を振り返った。大丈夫だったか、という言葉は喉の奥に引っ込んで出てこなかった。

 玲が涙目になって、俺を睨んでいたからだ。

「え、ええと……玲? どうしたんだ?」

「どうしたんだ、じゃないよ。どうしてそんなことするの?」

「えー……そんなこと、とは一体?」

 おそらくはさっき、玲の肉壁になろうとしたことだろう。というか絶対それだ。

 俺はぽりぽりと頬を掻いた。

「何つーか、体が勝手に動いちまって……」

「この……馬鹿ぁ!」

 玲が涙目……というかほとんどなくじゃくりながら俺の腹を叩いてくる。

「別にあれくらい、自分でどうにかできたのに。健斗にもしものことがあったら私、どうしたらいいかわからないよ……」

「あ、ああ……悪かった」

 ええ……なんとなく謝っちまったけれど、なんで俺が悪いみたいな空気になってんだ?

 だって無茶をしたのは玲の方だ。俺はそれをどうにか収めようとしただけで。

 んー? 俺がおかしいのか?

「……ったく、無茶しやがるぜ、まったく」

「大体、あなたが軽率な言動をするからです。もっと他に言い方ってものがあるでしょう」

「うっ……あーしも頭に血が上っちまっててよ」

 まあ状況は大体察しがつく。それにこいつがそれほど思慮深い性格とも思えない。

「今、なんか失礼なこと考えてただろ?」

「へ? いいや、別に」

 それにしても意外だった。まさかこいつが他人助けをするなんて。

 そんな奴には全然見えなかったのに。

「俺、おまえのこと誤解していたのかもな」

「ああん? なんだと?」

「あーと……何つーか俺、おまえって結構危ない奴だと思ってたからさ」

「てめぇ……ぶん殴るぞ」

 と、四楓院が拳を握り、振り被る。が、実際に俺を殴ったりすることはなく、すぐに拳は引っ込められた。

「ま、別にあいつ一人で解決できるようだったらあーしだって手は出さなかったさ。あーしにだって面倒事に巻き込まれたくはないっていう気持ちはあるしな」

「だったらなぜ?」

「どうにもあーしの睨んだ通りにならないようだったからな。手を貸してやってたんだ」

 確かにしつこい奴だったな、あいつ。それに相手の女の子も気の弱そうな感じだった。

「……いい奴だな、おまえ」

「んなっ! ……なんだ唐突にっ! 褒めたって何も出ねぇぞ!」

「別におまえから何かもらおうなんて思ってねぇよ」

 一瞬にして四楓院の顔が真っ赤に染まる。たぶん、褒められることに慣れていないのだろう。

 それはおそらく風貌とか言動とかが邪魔をしている。そのせいで、本来の四楓院を誰も知らない。

 本当はこんなにいい奴なんだってことを。

 それを知っているのは、俺と玲だけだ。なんとなく得した気分になる。

 なる……んだけれど、同時に寂しさも覚える。

 どうして誰もその事を知らないんだ、と。

「大丈夫ですよ、四楓院さん。きっといつか、あなたのことをわかってくれる人が現れますから」

「な、何言ってんだ。別にあーしは一人でも大丈夫だし」

 玲がにっこりと微笑みつつ、四楓院に言う。さりげなく、俺と四楓院の間に体を割り込ませるのを忘れずに。

「さてと、んじゃそろそろ帰ろうぜ。腹減ってきた」

「ふふ……もう、健斗ったら」

「しょうがねぇだろ。生理現象だ」

 俺と玲は四楓院に向かって背を向ける。と、一瞬だけ四楓院が寂しそうにまゆを寄せた気がした。……気のせい、だったのだろうか。

 俺は不思議に思って振り返った。すると、ぎろりと四楓院から睨まれる。

「あんだよ」

「ところでおまえ……一人で来てたのか?」

「パパごふんごふん……家族とな」

「へぇ……それはそれは意外なことだ」

「別にあーしだってこの年になって家族と遊園地って柄でもねぇよ。でも毎年来てるんだ。両親も楽しみにしてるし、断りづらいだろ」

「へへ……そっかそっか」

 訊いてもいないことまで、顔を赤くしながらべらべらと喋る。それが照れ隠しだと、俺は知っていた。

 そんな四楓院を見るのはかなり意外で……なんとなく心地よかった。

 誰かを助けるために迷うことなく行動できる四楓院。なんちゃってヤンキーのくせに家族とは仲のいい四楓院。

 学校の中だけの彼女しか知らなかったら、きっとこんなふうに思うこともなかあっただろう。

 それだけでも、来たかいがあったというものだ。

 おそらく玲も同じ気持ちなのだろう。俺の横でにこにこと笑っている。

「な、なんだよてめぇら……さっさと帰れよ帰るんだったら!」

「わかったわかった。じゃあな」

「また明日ですね、四楓院さん」

 俺は四楓院に手を振り、玲が小さくお辞儀をする。

 と、四楓院は更に頬を赤く染め、ゆっくりと小さく手をあげた。

「……またな」

 ぼそりと呟かれた言葉は俺たちの耳には届かなかった。

 だけれど、おそらくはそう言っていたんだろうと、俺は自分勝手に決めつけることにした。

 最終的にハプニングはあったものの、今日一日は概ね楽しかったと言えるだろう。

 

 

                       〇

 

 

 そして翌日。学校の屋上。

 今日は天気がいいのでお昼は屋上で食べようという玲の提案を受け入れ、俺は一人屋上の扉へと手をかける。

 が、俺はぴたっと扉を開ける手を止めた。なぜなら、扉の向こう側で話し声が聞こえたからだ。

 一人は四楓院だ。特徴的な張りのある声で、凛と張り詰めた印象があった。

 対して、もう一人は聞き慣れない声だった。どこか弱々しく、だけれどしっかりとした芯を感じさせる声だ。

 そろぉーっと、細く扉を開ける。隙間から、その様子を覗き見た。

 やはり二人だ。一人は当然四楓院だ。珍しく戸惑っている様子だった。

 そしてもう一人は……あれ? どこかで見たことあるような。

 肩口で切り揃えられたセミロングの黒髪。眼鏡に気弱そうに揺れる瞳。

 顔は赤く、一世一代の決意をしたかのような表情。

 まるで、四楓院に対して愛の告白でもしているかのようだった。だけど、女子同士だし、まさかな。

 俺が覗き見守っていると、背後から足音が聞こえてきた。振り返るまでもなく、今の時間にこんなところに来るのは一人しかいない。

 玲の声が俺の耳に届く。

「健斗? 何してるの、こんなところで」

「しっ……今いいところだから」

 ああ、この発言は俺もすっかり毒されたということなのだろうか。

 とはいえ、この状況。別に一般人でも普通にいいところというだろう。

 何せあの四楓院が今まさに、俺たちの知らない誰かから手紙をもらっているのだから。

 淡いピンク色の封筒だった。この距離からではそれ以上の情報は読み取れない。

「う、受け取ってください!」

「あ、あーしにか?」

 眼鏡女子の決意に満ちた声が屋上に響く。

 四楓院は戸惑ったように、封筒とその眼鏡女子を見比べた。

「え、ええと……なんだこれ?」

「す、すみません、急に。わ、わたし……あまりお話が得意じゃないので、その」

「ええと……気持ちを手紙にしたためました……てか?」

「……はい」

 こくん、と眼鏡女子が頷く。四楓院としては冗談のつもりだったのだろう。

 が、意外なことに肯定されてしまい、戸惑っている。

「そ、その……返事はすぐにじゃなくて全然かまわないので」

「え、ええと……とりあえず、ありがとう?」

 ああ、だめだ。こんな時にどんな反応をしたらいいのか、あいつ全然わかってねぇ。

 俺はなんとなくじれったさを感じ、いっそのこと出て行ってやろうかと思った。

 けれども、そんなことをすれば場の空気が台なしだ。当然、あの眼鏡女子は去るだろう。

 そういして、ようやく訪れた四楓院の春は過ぎ去っていく。それはもっとだめだ。

 仕方なく、俺はこのまま見守ることにした。

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

 お互いに沈黙が続く。眼鏡女子は恥ずかしそうな顔のまま、俯いている。

 俺は……どうしたらいいんだろう。

「……えっと、ありがとう、でいいのかわらねぇけど」

 四楓院はそう前置きをして、虚空に視線を彷徨わせる。

「これ、後で読んだ方がいいん……だよな?」

 こくんと眼鏡女子が頷く。そりゃあそうだ。

「えっと、じゃあ帰ったら読むから。……そろそろ教室に戻った方がいいんじゃないか?」

「え? ど、どうして、ですか……?」

「そりゃあ、あーしといたらいろいろ変な噂が立つだろ?」

「変な噂……ですか」

「ああ。例えば、あんたもろくでもない奴だとか言われたり」

 は、たぶんしない。どちらかと言うと四楓院の悪名が増すだけだと思う。

「だ、大丈夫です。わ、わたし、そういうのあまり気にしないので」

 眼鏡女子は健気にもそんなことを言う。あいつにはもったいないくらいのいい子だ。

「そ、そうか……とはいえじゃあ……」

 四楓院はぐるんぐるんと頭を回す。次の言葉を考えているのだろう。

「と、とりあえず……飯、喰ってくか」

「……ッ! はい!」

 眼鏡女子が大きく、そして力強く頷く。ええ……じゃあ俺たちは?

 眼鏡女子の敷いたレジャーシートの上に腰を下ろす二人を見守りつつ、俺は心の中で訴えた。

 俺と玲のいちゃらぶ時間がぁぁぁ!

 俺は扉からそっと体を離し、小さく嘆息した。

「はぁ。仕方がないか」

「そうだね。今日のところは別の場所を探そうよ、健斗」

「ああ。……んにしても、いつの間にあんなことに? というよりあれって誰だ?」

「何言ってるの、健斗」

 俺が記憶を探っていると、玲ははぁと呆れたように溜息を吐いた。

「あれ、昨日変な人に絡まれてた人だよ」

「え? ああ、言われてみれば」

 確かにそんな気もする。昨日は突然いなくなったと思ったら、今日はこんなことに。

 まったく、人生ってわからないものだ。

「え? どうしたの健斗? なんでそんなしみじみと」

「何つーかさ、子供の成長を見守る親ってこんな気持ちなのかなと」

「……何言ってるの、健斗? ……気持ち悪い」

 玲が心底気持ち悪そうな顔をする。珍しい。そして可愛い。

 俺は玲の言葉にぞくりとしつつ、屋上の入り口から離れた。

「ま、子供なんて俺たちには当分先の話だけどな」

「そうだよ。私たちが子供を育てるなんて、まだまだ先のことだよ」

 ゆっくりと足音を立てないように気をつけながら、俺たちは屋上を離れるのだった。

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