第27話 桜木玲とさよならの琴の音–後編

 俺の部屋には、俺を含め、三人の人間がいる。

 玲、真人……そして妹。さすがに四人は狭く感じるが、そうも言ってはいられない事態だ。

「……どうしたんだよ、健斗。いきなり呼び出したりして」

「そうだよ。まだクエストの途中だったのに……」

 真人が不思議そうに、妹が不服そうに唇を尖らせてくる。

 だが、二人に事細かに説明している時間はない。俺は手短に説明をすると、ぐるりと三人を見回した。

「えー、そんなわけで九条の転校をどうにか阻止できないものかと思っている」

「思っているって……んなことできるわけないだろ」

 真人のくせに真っ当なことを言う。

 けれど、反対意見……というか常識的なことを言うのは意外なことに真人だけだった。

 玲はある程度事情を知っているから当然だとしても、妹まで何も言わないというのが意外だ。

 こんな場合、真っ先にマジレスしてくる奴だと思っていたのだが。

「……質問なんだけれど、大体なんでそんなことになってるわけ?」

「俺に訊かれても困る。なぜだかはわからないし、今はそんなことを気にしていられる時間はない。ただ、今のところは九条を止めることだけを考えた方がいいだろうな」

 言外におまえも九条がいなくなったら嫌だろう? と問うてみる。と、妹は返事こそしなかったが、寂しげに瞳を揺らした。

 ……兄の俺にはわかる。こいつも九条がいなくなったら寂しいのだ。当然だ。ゲーム仲間が一人減るわけだから。

 最近になってわかったことなのだが、妹も相当なゲーオタらしい。その点では玲や九条とはよく話が合っている様子だ。稀によくマニアック過ぎて俺にはわからないことを言ってるのを耳にすることがある。

 俺の言葉に納得した……というわけでもないようだったが、それでも妹がそれ以上何かを言ってくることはなかった。

 かわりに、と言わんばかりに、真人がピンと真っ直ぐに挙手をする。

「それで、まあ俺たちが呼ばれた理由はわかった。このメンツが九条にとってどういう間柄なのか。……桜木や九条の趣味がだいぶ意外だったけれど」

「それについては他言無用だ。二人とも気にしていることだからな」

「それはいいが……というか、聞きたがる奴なんていないだろ、こんなこと」

「……まあ」

 真人の言う通りだ。玲や九条がゲーム大好き娘であると知りたいと考える奴なんてどれほどいるだろうか。……一定数以上はいないだろう。それよりも何よりも、二人にはイメージ通りの優等生でいてほしいはずだ。

 俺はちらりと玲を見やった。

 学校では優等生として影で『深層の令嬢』と密かに讃えられる玲。黒髪を肩口で切り揃え、均整の取れたプロボーション。何より柔和で物知りな上に気さくで優しく、勉強もスポーツもなんでもこなす完璧超人。……しかしてその実態はアニメやゲームが大好きな俺の恋人。

 それが縁を結んだと言っても過言ではないくらい、九条との出会いは予想だにしないものだった。俺は別に誰がどんな趣味を持っていようと、極端に変ちくりんなものじゃない限りは何とも思わない。そんな俺でも多少は驚いた。

 そんな俺が今でも玲との交際を続けていられるのは、俺の正確を立証しているということだろう。

 そして九条のお陰でもある。あいつがいなかったら、たぶん俺たちは今日までやってこられたかどうかわからない。

 俺が玲を嫌いになる、とかいう話ではない。俺ではカバーしてやれない部分を九条がカバーしてくれた。その点は多いに感謝したいところだ。

 まああいつにもだいぶ振り回されたけれど。

 とはいえ、俺が九条に感謝しているのはその通りだった。だから、あいつが不幸な目に遭っているというのならそれはなんとかしたいと思うが人情というものだろう。

「……んでだ、具体的にどうすんだ?」

「……まだ何も考えていない」

「はぁ? それで俺たちを呼び出したのか?」

「ぐっ……悪かったな」

 ちっ……真人のくせになんだか妙に頭が回るな今畜生。

 俺は真人をひと睨みすると、コホンと咳ばらいを一つした。

「あーと、どうせ俺一人じゃ大したアイデアなんて出ないからおまえらに手伝ってもらおうというう腹積もりだ」

「あーあ、最初っから他人頼みかよ」

「うるせ。それにおまえらも他人事じゃないだろうが」

「……ま、そうだな。九条がいなくなったら寂しいのは俺だって同じだ」

 真人はくつくつと肩を揺らして、微かに笑っていた。何笑ってんだ、こいつ。

 事態は差し迫ってるんだ。さっさと方針を考えてほしいものだ。

「それでだ、一体どうやってあいつを止めるかだけど」

「止める……九条さんを?」

「ああ、そうだ。俺たちで九条の転校を止めるんだ」

 玲の問いに、俺は力強く頷いた。

 本当にそんなことができるとは思えなかった。けれど、だからといって何もしないのは違う。

 望みがないからと早々に諦めていたら、何も達成できない。

 俺はすぅっと少しだけ深く、息を吸った。そうしてから、再び眼前の戦友たちを見回す。

 そうだ。こいつらは俺と一緒に戦ってくれる仲間だ。九条のために、そして自分のために。

「そうだな……こんなのはどうだ?」

「どんなのだ、真人」

 真人が挙手して発言権を求めてくる。ので、俺は真人の発言を促した。

「九条を拉致る」

「…………馬鹿なのか、おまえは」

「ひでぇ! せっかく人がアイデアを出してやってんのに!」

「もうちょっと現実的な方法で頼む」

「現実的ったってなぁ……」

 真人はぶつくさと文句を言いながら、再び思案に耽る。まあ気持ちはわからなくもない。

 実際、転校をさせないとなったらその手段が一番てっとり早いのだろう。もし俺たちが覚醒でなく、相手が九条ではなかったら検討する余地のあることだったのかもしれない。

 しかしいかんせん、俺たちはただの高校生で相手は九条だ。その方法はこちらの危険度が高過ぎる。

 現実的ではない……というより、実行不可能だろう。

 俺は真人から視線を外し、残りの二人を見やった。

 玲がおずおずといった様子で、小さくて挙手していた。

「あの……だったら九条さんを説得して一緒に逃げる、とかどうかな?」

「定番だな。けどそれなら法に触れずにやれるな。ナイスアイデアだ」

「俺の時とはえらい違いだな、健斗」

 真人がじとっと睨んでくるが、そんなものは気にしない。

 俺は早速玲の提案を吟味するべく、頭の中で反芻する。

 九条を説得後、一緒に逃避行。……なんだか駆け落ちをするカップルみたいだが、この際それはいいだろう。

 問題はこの誘いに九条が乗ってくるかどうかだ。乗ってきてくれるといいんだが。

 俺はちらりと玲を見やった。すごく不安そうな顔だ。

 そりゃあそうだろう。何せ玲にとって九条は大切な友達だ。俺や真人が思うよりずっと。

 その友達の一大事なのだから、真剣に悩むのも当然だ。そして悩んだ結果がさっきの答えだ。

「……まあ悪くはないと思う。けれど、難しい……だろうな」

「難しい……そうだよね」

 ああ、難しい。そしてこれもまた、達成は困難だろう。

 そのことを玲に伝えるべきかどうか悩んだ。

 九条は別に家柄に対してコンプレックスを抱いたりなどしていない。それどころかむしろ、誇りにすら思っている節がある。

 なら、家の決定に従う方が自然だ。俺たちと一緒に出かけるなんて考えられないだろう。

 俺はそのことを玲に伝えるべきだろうか。

 玲の不安そうな顔を見ながら、俺は考えた。そうして、今は保留にしておこうと思った。

 どちらのしろ、まだ意見を言っていない奴が残っている。そいつの考えを聞かないことには始まらない。

 俺は最後に妹へと視線を向けた。妹は一瞬びくっとしたようだったが、すぐにいつものように俺を面倒臭いものの代表のような目で睨んでくる。

「……あたしも?」

「当然だろう。おまえだって九条がいなくなったら嫌だろう?」

「ま、まあ……寂しいなとは思うけれど」

 妹の返答は端切れの悪いものだった。薄情な奴め。

「……で、何かないのか、おまえは」

「何かって何? 相手は日本屈指の大財閥……は今はないか。ともかく、大企業の娘なんだけど。そんな人に対して、一体どんな策を講じたらいいって言うの?」

「それを考えるのが今この時間だ」

「…………」

 妹の胡散臭そうな視線が俺を射抜く。

 が、俺はそんな視線に屈しなどしない。第一、今回のことはほとんど徒労に終わるだろうとは俺も思っている。それは玲や真人だって同じだ。

 それでも俺たちがこうしている理由は一つだ。万が一、九条が遠くへ行かなくて済む可能栓があるならやらない手はないと思っているから。

 だというのにこの妹と来たら。現実的に考えて~、とか言ってる方が賢くて格好いいと思っている性質の人間だったのか、おまえは。

「あにきの言い分はわかる。でも、あたしたちの力で何かできるとは思えない」

「ぐっ……そう言うが」

 何か反論がしたかった。が、俺が言えることはなかった。

 妹の言うことは一理どころか百里はある。転校は既に決まっていることだろう。

 そして決まったことはそう易々とは変わらない。それが世の常だ。

 まして、俺たちただの高校生(一名中学生)集団でどうにかできるとも思えない。

 それは俺だって同じだ。いや、この場にいる全員がまったく同じ結論を持っているだろう。

 しかし、そんなことを言っている場合じゃないのも事実だ。

「だめだ。あいつは俺たちの仲間だ。だから、このままでいいはずがない」

「健斗……」

 そうだ。仲間が遠く連れていかれようとしているんだ。それをどうにかしようとするのは当然のことだ。当たり前のことだ。

 悪いこと……ではないはずだ。

 俺は自分にそう言い聞かせ、なんとか頭の中を整理する。そうしなくてはならなかった。

「ま、別に協力してもいいけど。だったらさっさと行動した方がいいんじゃない?」

「わ、わかってる。……けれど、一体どうしたらいいのかまったくわからないんだ」

「わからないわからないって言ってる場合? つーかあにきってそんなに頭いいキャラじゃないんだから。何勝手にリーダー格みたいな雰囲気を出してるの?」

 ずいぶんな言われようだ。なんだって俺はこいつにここまで言われなくちゃならないんだ?

 俺は妹をひと睨みした。けれど、妹にはまったく答えていないらしい。

 どこ吹く風とばかりに聞き流している。……ああ、もう!

「わかったわかった。OK、俺が悪かった」

「別にあにきを責めてるわけじゃあないけれど。まああにきがそう言うのならそれでいいか」

「……この」

 とことんむかつく奴だ。まるで妹の方が折れてやった、みたいな言い方をする。

 こっちが折れてやったんだぞ、兄として。

 俺は妹に対して腹立たしい感情を覚えつつ、それをどうにか自分の中に押しとどめる。

 だから、今はそれどころじゃないんだって。

「……いいか、九条を説得するにしたって何にしたって、今のままじゃどうにもならない。俺たちはレベルも足りないし経験値も装備も貧弱だ」

「何言ってんだ、健斗? その例えはわかりずらい」

「……だから、たぶん俺たちが何を言っても無駄だろうってことだ」

「ああ、だったら最初からそう言ってくれ。妙な例え話を持ち出すなよ」

 真人がぽりぽりと頭を掻いていた。知るか、そんなもん。

「そこでだ。俺たちの作戦として何をするべきだと思う。要するに第一目標だ」

 最終目標は九条の転校の阻止。可能ならだけれど。

 俺がぐるりと一同を見回す。別に妹の言ったようにリーダー気取りというわけではないけれど、誰かがやらなくてはならないのだから仕方がない。

「……やっぱり九条さんのお父さんの説得……かな?」

「まあそうだろうな」

 お父さん……じゃなくてもいいけれど。お母さんとか。

 しかしことはそう簡単には運ばないだろう。何せ相手は日本屈指の大財閥だ。アポもなしにいきなり押しかけたって話を聞いてもらえないだろう。

 俺はどうしたものかと思案する。どうしたらいいんだ?

 まったくと言っていいほどアイデアが出なかった。……こうなったら、奥の手だ。

「? どうしたの、健斗? いきなりスマホなんて取り出して」

「ああ、ちょっととある人に協力を頼みたいと思ってな」

「とある人?」

 三人が顔を見合わせるのを横目に見ながら、俺は取り出したスマホの登録画面を呼び出す。

 さて、そこにはいつの間に登録されたのだろう。燕さんの連絡先があった。

 もう……あの人が何をしたって俺は驚かない。

 俺は燕さんの名前の部分をタップして、電話をかける。何度かのコール音の後、高い少年のような声が俺の耳に届いた。

『石宮様でございますね?』

「はい。……いつの間に俺の携帯に……いや、今はいいです」

『はい。ご用件をお伺いしましょう。手短に』

 燕さんの言い方は、大体の事情を知っているかのようだった。

 いいや、この人ならわかっていても不思議はない。だって燕さんだもの。

「九条を止める方法を教えてください」

『……やっと電話をなさってきたと思ったらそんなことを聞くためにわざわざ』

「え? ええと、あの……」

 燕さんは期待外れだ、とでも言いたげに溜息を吐いた。ええ……そんな。

 俺は戸惑いと苛立ちを覚えた。誰知らず声が刺々しくなる。

「今はそんなことを言い合っている場合じゃ……」

『承知致しておりますとも。……とはいえ、わたくしではその質問にはお答え出来ません』

「えっ……? ええと」

 だって燕さんだぜ? あの天下の。

他人のスマホのパスワードすら簡単に突破してしまうような人が、そんなことを言うなんて。

 信じられない。

「だ、だったら俺たちはどうしたらいいんですか!」

『……わたくしではどうにもならないことだからこそ、石宮様に助けを求めたのです』

「うっ……」

 お嬢様を救ってください……あれはそういう意味だったのか。

『それに、多少なりと何か策を思いつかれたからわたくしに連絡をして来たのではありませんか?』

「……まあ、一応」

『聞かせていただきます』

 わざわざ改まって聞かれるようなことでもないけれど。

「……だた、九条の親父さんと話して説得するだけですよ」

『それは名案ですね』

「実は馬鹿にしてますね?」

 燕さんの言い方は実に無機質だったが、それが逆に馬鹿にされた感を強めていた。

「それで、ですね……」

『わかりました。旦那様のスケジュールを調整して近々お話ができるようにしておきます』

「ええと、こっちから言っておいてなんですが、そんなことが可能なんですか?」

 何せ日本屈指の(以下略)会長? 社長? なんだから忙しいものだろうけれど。

 しかし、返ってきた燕さんの台詞は実に頼もしいものだった。

『大丈夫ですよ。わたくしにお任せください』

「……えっと、頼もしいっすね」

 それ以上の言葉を俺は知らなかった。

 ともかく、九条の親父さんのスケジュール調整をしてくれるということで燕さんは請け合ってくれた。……すげー自信だったな、あの人。

 まじで大丈夫なのか?

 俺は半ば不安になりつつ、通話を切った。

 どうだった? と問いかける視線が玲と真人から注がれる。妹は……どっかを見ていた。

「ええと、燕さん……九条の家の執事さんがどうにかしてくれるって」

「ま、まじか……すげーんだな、その人」

「執事さんって燕さんだよね。……大丈夫かな?」

 玲が不安そうに瞳を揺らした。……どういう意味だ?

「どうしたんだ、玲?」

「いや……そんなことしてお仕事クビになっちゃったりしたら私たちのせいだから」

「あっ……」

 まったく気が回らなかった。

 そうだ、燕さんの主人はどこまで行っても未成年の九条ではなく九条の親父さんだ。

 その親父さんに背いてただで済むだろうか。……そこまで思い至らなかった。

 けれど、他にどうしようもないのは事実だ。どうか無事に済むように祈るしかない。

 俺は玲の言ったそのことを頭から追い出すと、ふぅーっと息を吐いた。

「ともかく全ては燕さんの連絡を待ってからだ」

 俺は頭を振り、部屋を出た。これ以上ここで話し合うことはない。

 それにのどが渇いた。何か飲み物を……と、水分を求めて階下へと降りる。

 誰かついて来るかと思ったが、そんなこともない。

 俺は一人で台所へ立ち、冷蔵庫の中を探った。けれども、お茶か水しかない。

 仕方なく水を手に取りコップに注ぐ。それを一息に煽り、ほっと息を吐いた。

 そうして思いを馳せるのは九条のことだ。

 九条のこと……九条のことだ。

 いつも自信満々だった。何かにつけて玲に勝負を挑み、常に自分を高めようとしていた印象だった。

 俺と玲のことを誰より祝福うしてくれて、俺たちを応援してくれたのも九条だった。

 そんな九条がどこかへと行こうとしている。それもたぶん、望まない形で。

 だったらそれは、止めなくてはならない。何をどうしたって。

 だって……正しいことだとは思えないから。

「……仕事をクビになったら……」

 そんなことで解雇されたりはしないだろう。けれども、相手はあの日本屈指の大財閥だ。

 政治や警察に対してなんらかの影響力を持っていたとしても不思議はない。

「……いやいや」

 俺はふるふると緩く首を振った。何考えてんだか。

 ドラマやアニメじゃあるまいし、そんなわけがない。ずいぶんと玲の影響を受けたようだ。

 そんなふうに考えて、俺はコップに残っていた水を飲み干す。と、ちょうどそのタイミングで玲が台所に降りて来た。

「玲……どうしたんだ?」

「えっと……なんて言ったらいいか。あの、大丈夫?」

「大丈夫? って何がだ?」

「ええと……」

 玲は歯切れ悪く、言葉を探すように空中に視線を彷徨わせる。

 けれど、しっくりくる言い回しはなかったようだ。少しがっかりした様子で再び俺へと視線を戻した。

「……さっき、私が言ったこと気にしてるかなと思って」

「さっき……ああ、燕さんが職を失うかもしれないってことか」

「それ……も」

「別に俺は気にしちゃいない。それに相手は大人だ。そんな個人的なことで使用人をクビにしたりなんかしないだろ」

 法律についてはまったくの素人の俺だが、確かそんな首の切り方はだめだった気がする。

 昔何かの番組でやっていたのを覚えていた。

「それに……あの人ならたぶんどこでだってやっていけるさ」

「そう……うん、そうだね」

「ああ」

 なんてひどい会話だ。我ながらそう思う。

 しかし、俺にとってはそれよりも九条の方が大切だ。

 どうにかしたいと思う。玲のために、そして俺のために。

「そのために一体俺は何をしたらいいんだろうな」

「……そんなの簡単だよ。九条さんの喜ぶことをしたらいいと思う」

「九条の喜ぶこと……ああ、簡単だな」

「でしょう?」

 燕さんの話は、それで終わったらしい。

 俺たちの話題は、今や次へと移っていた。

 つまり、九条のことだ。どうしたら九条を引き留められるかという話。

「お? 何してんだよ、お二人さん」

 俺と玲が話していると、ひょこっと真人が顔を覗かせた。

「ちっとも戻って来ねぇから何してんだと思ったら、いちゃついてやがったな」

「い、いちゃついてたなんてそんな……! 私たちは別に……」

 真人の言葉にいちいち顔を赤くする玲。俺も若干体温が上がってきたようだ。

 それでも玲ほどではないのだろう。平静を装いつつ、じろりと真人を睨んだ。

「何の用だ?」

「何の用とは失礼な奴だな。……つかおまえ、俺と妹さんを二人きりにしたな?」

「うっ……ええと」

 今度はこちらが睨まれてしまった。バツが悪いとはこのことだろうか。

「別に悪いとか嫌だとかって話じゃねぇが……ちと気まずいんだ。はやく戻ってくれ」

「わ、悪かったよ……」

「すみません、気がつかなくて……」

 俺と玲が素直に謝る。と、真人はふんすと満足げに鼻を鳴らして顔を引っ込めた。

「……戻るか」

「そう、だね」

 俺たちは互いに顔を見合わせて、真人の後に続いた。

 会議会場(別名俺の部屋)へと戻ると、なるほど真人と妹が気まずそうにしていた。

 ……いや、妹はいつも通りだった。平然としたものだ。

 気まずそうに肩を縮めているのは、真人の方だけだ。その大柄な体がぷるぷる震えている様子はかなり面白い。

 俺と玲は顔を見合わせて、笑いあっていた。

 真人がすごく不機嫌そうにしていたのが、印象的だった。

 

                       〇

 

 

『今月の十三日……金曜日です。ええ、その通りです』

「なるほど……わかりました」

 電話の向こう側の声……まあ燕さんなんだけれど。に頷きながら、俺はメモを取った。

 どうやら九条の親父さんとアポが取れたらしい。わざわざ連絡を寄越してくれたのだ。

 俺は燕さんに礼を言って、通話を断った。つーつー、という無機質な機械音が耳の奥に響く。

「十三日の金曜日……か」

 俺はスマホをテーブルに置き、ふぅーっと息を吐いた。

 天井を見上げる。油汚れが染みになったものがいくつか点々としていた。

 十三日の金曜日。アメリカではホッケーマスクを被った殺人鬼がうろつく日。

 日本ではそんなことはないだろうけれど、それでもこの国でも不吉な日だとされている。

 ちょっとした面倒事が起こりそうだなと思った。何事もなければいいが。

「ああ、面倒だ」

 俺はスマホの画面をちらりと見やる。

 そこには玲の顔があった。この間デートで行った夢の国で撮ったものだ。

 隣に世界的に有名なネズミがいる。俺の姿はなかった。

 俺が撮ったんだから当然だが、一緒に写ればよかったか。

「あにき……どうかした?」

「……ああ、なんでもねぇよ」

 珍しく妹から話しかけられて、俺はちらりとそちらを見た。

 風呂上りのようだ。妹の貧相な体からほかほかと湯気が上がっている。

「……何見てんの? 変態」

「別におまえの裸なんかに興味はねぇよ。……ただちょっとかわいそうだと思っただけだ」

「はぁ? 何それ? ……それよりさっきの電話、あの人からじゃないの?」

「……ああ、その通りだ。燕さんからだよ」

 俺はひらひらと手を振り、妹から視線を切った。

 さて……どうしたものか。十三日の金曜日とは、なんとも間が悪い。

 不吉だ。うまくいく気がしない。どうしたものか……。

「……お風呂入ったら」

「ああ、そうするか」

 俺はスマホをどうするか考えてから、そのままテーブルに置いておくことにした。

 スリープモードにしてから立ち上がる。

 着替えを持って風呂場に行く。服を脱いで風呂へ。

「ふー……」

 思わず溜息が漏れた。どうして風呂に入ると口から息が出るんだろう。

 俺はその不思議に囚われつつ、ぐるりと視界を回す。

 さて、どうするか。どうしたら九条の転校を止めさせられるのか。俺にはわからなかった。

 きっと、誰にもわからないことなんだろうなと思う。

「……俺は何がしたいんだ……」

九条が転校を止めたいと思っているかどうかすらわからないじゃないか。

もし俺たちのやろうとしていることがただの迷惑でしかなかったら……。

考えただけで、ぞくりとする。なんだか体の中が熱くなる。

風呂に入っているからだろうと思った。ザバッと湯舟から出て、手早く体を洗う。

体を拭いて服を着る。水滴と一緒にさっきの変な考えも頭の中から追い出す。

ここまで来たら、考えても意味のないことだ。今は目の前の問題に集中するべきだ。

俺は鏡の中の自分を見た。頼りない奴だ。情けなくて、泣き出しそうな顔をしている。

しっかりしろ、俺。九条がいなくなることを望んでいないのは俺一人じゃない。

玲や真人や妹だって。そうだ、あいつらのために俺はやらなくてはならない。

俺はパンと軽く頬を張って、気合を入れる。うじうじしていても仕方がない。

「……よし!」

 俺はさっきまでいたリビングへと戻った。すると、ソファに下着姿の妹がいた。

「……相変わらず貧相な体つきだね。もうちょっと鍛えた方がいいんじゃない?」

「うっせ、余計なお世話だ。見るな変態」

 妹が体を捻じって俺を見てそう言ってくる。ので、俺も睨み返してやった。

 ん? あれ? なんかついさっき同じようなやり取りをしたような気がするぞ。

 そう思い、俺は首を捻った。まあいいか。

 俺は妹から自分のスマホへと視線を移す。と、違和感を覚えた。

 スマホの位置が、風呂に入る前より若干左にずれている気がするのだ。

 まあそんな細かいところなんて覚えてるわけがないから、俺の気のせいだろうけれど。

 そんな感じで、俺は特に気にも留めず、スマホを手に取った。

「はやく服着ろよ、風邪引くぞ」

「へいへい。いいよね、なんとかは風邪引かないって言うし」

「喧嘩売ってんなら最初からはっきりそう言え、馬鹿が」

「馬鹿に馬鹿って言われたくないよ」

「なんだと?」

 俺としてはいつもの軽口、憎まれ口の叩き合いのつもりだった。

 別にこれを明日まで引きずろうとは考えていなかったし、一晩寝ればすぐに忘れるはずだ。

 そのはずだった。

 でも、妹にとっては違ったようだ。

「……大丈夫だ」

「大丈夫って……あにきのその根拠のない自信はどこからくるわけ?」

「俺が大丈夫って言ってんだから大丈夫だ。信用しろ」

 妹の猜疑の視線が俺に突き刺さる。本当に信用されていないようだ。

「……ま、信用はしないけれど、一応その言葉に乗っておいてあげる」

「引っかかる言い方だな。この兄がそんなに信用ならないか?」

「あにきは馬鹿だからなぁ」

「やっぱ喧嘩売ってんだなそうなんだな」

 妹が嘆息するのがまたむかつく。なんなんだ、こいつは。何が言いてぇんだ?

「……何はともあれ、十三日の金曜日だ」

 その日に九条の親父さんに直談判する。

 何があったのか知らないが、俺たちの九条を勝手に遠くにやるなんてことは絶対にさせない。

 そうだ。その通りだ。だから俺たちはこうして行動している。

「その日が待ち遠しいぜ……!」

 風呂上りの火照った体が、更にめらめらと燃え上がるのがわかった。

 

 

                       〇

 

 

 そして当日。俺は一人のメイドさんに連れられて、九条邸を訪れていた。

 年の頃は俺より少し上だろうか。たぶん二十代の前半だ。

 俺は以前に知り合った新井美馬さんというメイドさんを思い起こす。彼女もまた、この家のメイドさんだった。見目麗しい……とはお世辞にも言えず、俺から見ても子供のようなあどけなさの残った人だった。

 けれど、この人は違う。大人の気品というか、オーラがあった。これが奇麗ということなのだろうと思わせるようなそんな佇まいだ。

「こちらでございます。旦那様がお待ちです」

「あ、ありがとう……ございましゅ」

 ああ、感じまった。

 俺はそのことを少し恥ずかしく思いながら、首を振った。

 かーっと全身が熱くなる。そのメイドさんはくすりともしなかったが、俺としては恥ずかしいことこの上ない。

「え、ええと……」

 メイドさんは脇に控え、なんら俺を中に招き入れようとはしなかった。つまり、自分で入れということだろうか。

 俺はドアノブを握り、扉を開けた。歴史を感じさせる重厚な音が鳴り響く。

 そうして扉を開けた先に、机があった。俺の使っている勉強机なんて非じゃないくらいのしっかりとした、高級そうな机だ。

 そしてその奥の革張りの椅子に座った一人の人物。両手の指を絡め、さながら碇指令のような恰好でその人はいた。

 別段睨んでいるわけではないのだろう。だが、長年の苦労と実績の賜物か、彼の眼光は鋭くこちらを見据えてくる。

 俺は思わず射すくんでしまっていた。びりびりと体全体に電流が走り、両足が動かなかった。

 なんて人だ……! まさか見られただけでこの有様とは。

 俺は思わずびっくりした。びっくり……なんて生易しいものじゃないけれど、他にどういえばいいのかわからなかった。

「……そんなところに立っていないで入ってきなさい」

 がつん、と鼓膜を打ち据えてくるのは、九条の親父さんの貫禄を感じさせるしわがれ声。

 俺ははい、と返事をし、おそるおそるゆっくりと中に入った。

 まるでFPSで単騎で適地に乗り込んだ時のようだ。もしくは連続殺人鬼が潜む館で自分以外の人間が死んでしまった時のような緊張感。

 緊張……そうだ。緊張しているのだ、俺は。

「……まあかけたまえ」

「えと……はい」

 九条の親父さんが手前にあったソファを指し示す。俺は言われた通りにそこへ座り、すぅっと小さく息を吸った。

「ええと……今日は突然すみませんでした」

「ああ、構わんよ。娘に関する大切な話があるといわれたからね」

「はい……そのこと、なんですが」

 おそらく、頭が真っ白になるとはこのことだろう。直前まで、何を言うべきかを考えていたというのに、まったく言葉が浮かんでこない。

「あの……ええと」

 どうしたら……と、ぐるぐると頭の中で今まったく関係のない言葉がぐるぐると管を巻く。

 何を言おう何を言おうと考え続ける。

 と、俺が固まっていると親父さんの方から話を振ってくれた。

「……あの子は、娘は学校ではどんな様子だね?」

「どんな……えっと、すごくいい奴です。それにすごい」

「すごい……とはどういう意味だね?」

「どういう……」

 どういう意味、と訊かれて、すぐにパッと思いつくほど俺は九条のことを見ちゃいない。

 それでも、すぐに思いつく九条の姿があった。

 それは胸を張り、高笑いを決めているあいつだ。

「九条……琴音さんは自信家です。勝負事が好きで、勝つことにこだわって」

「ふむ、なるほど」

「頭もいいし運動も得意です。でも、それに満足せずに自分を磨き続けている。そんなところに憧れるし、尊敬する」

「…………」

「なんてったって九条財閥の跡取り娘ですから。でも、たぶんそれはあいつにとって枷なんです」

「枷……か。手厳しいことを言うな」

「すみません。生意気言って」

 くすっと、親父さんが笑った気がした。気のせいだろうか? わからない。

「別に構わんよ。本当のことだ」

「本当の……?」

 まさかこんなにあっさり認めるとは思ってもみなかった。

「……私の妻、つまりはあの娘の母親は体が弱かったんだ。それでも私たちは子供がほしいと願った。そうして授かったのがあの子というわけだ」

「それは……知りませんでした」

「だろうな。そう易々と他人に話すことではないからな」

 確かに、そう簡単に他人に話していいことではない。それに、それに九条にとって良かれ悪しかれ大切な思い出だろう。

 俺が簡単に知り得ていいものでもないだろうからな。

 俺はさてこの後どう言葉を繋いだものかと思案する。

 多少喋れたお陰である程度は緊張がほぐれた。けれども、親父さんを前にして緊張しているのには変わりがない。

 ま、考えたところで俺一人の頭で大したことは考えつかないだろうけれど。

「それで、君は一体何を言いに来たのだね?」

「ああ……ええと」

 なるほど。あれはこの人なりの気遣いだったのか。まったくわかりずらい。

 俺は嘆息して、言葉を探す。なんと言ったら一番この人に伝わるかを。

「……俺のくじょ……琴音さんに対する気持ちはまあそんな感じです」

「ああ、よくわかった。君は娘のことを好いていてくれるんだね?」

「? ええと、まあはい」

「なるほど。そして君がここに来た理由は娘が学校を去ることに起因しているのだろう?」

「ええ、まあ」

「だったらそれは申し訳ないのだが、私にはどうしようもないことなのだよ」

「は? ……ええと、それは一体どういう意味なんですか?」

 俺は親父さんの言い分がわからず、思わず訊き返していた。

 親父さんは今、なんと言った? 私にもどうしようもないと言ったか?

 だったら……そんなこと言われたら八方塞がりなんだが。俺は一体何のためにこの場所に来たんだ? まったくの徒労じゃないか。

「私は娘に会社を継いでほしいと思っている。そして、今回のことは必要なことだとも」

「え……? あっと……はぁ」

「だから、私には君たちの願いをかなえてはあげられないのだよ。例え今がつらかろうと、これは将来必ず役に立つことなのだから」

「役に……立つ」

 たぶん、九条は今の学校より何十もランクが上の学校へ行くんだろう。本来なら、その方が自然なんだ。

 九条は俺たちと一緒にいるような人間じゃあない。

 ……ふざけんな!

 俺は思わず立ち上がっていた。つかつかと親父さんの机に近寄り、ダンッと両手を叩きつけた。

「何言ってんだ、あんた!」

 勝手だと思った。親の教育方針だかなんだかで今の学校に通っていた九条。

 友達もできて、あいつにはそれなりに人望がある。なのに、それを全部捨てさせて違う学校に転校させようって? 舐めてるとしか言いようがない。

 俺は思い切り親父さんを睨みつけた。けれど、俺の眼光なんて鋭利さの欠片もないのだろう。親父さんは涼しげ顔でじっと俺を見返していた。

「失敗したと思ってんですか! 今の学校に入れたことが! これまでのことが全部失敗だと! ふざけるなよ!」

 関を切ったように溢れてくる言葉の本流。

 この男の浅ましさに吐き気がする。

「……誰に口を利いているのかわかっているのかい?」

「そんな三流悪党の台詞で騙されると思ってんですか、この野郎!」

「……なるほど。わかっていないらしい」

 親父さんの眼光が鋭くなる。俺とは大違いだ。

 俺は一瞬たじろいだ。だって怖いし。

 けれど、それでも俺は何とかその場に踏みとどまった。誰より、九条のために。

「俺は……!」

 と、言いかけたところで外が騒がしくなっていたことに気がついた

 なんだろう……と思って振り返る。と、バンッと扉を開けて人影が一つ、入って来た。

 玲だ。桜木玲。俺の……恋人。

 そして、九条のこの上ない友人。九条が遠くへ行くことを悲しんでいる一人。

「玲……! え? なんで……」

「あの執事さんが教えてくれたの。……一人で来るなんて、ひどいよ健斗」

「いやー……何つーか大勢で押しかけるのは違うかなーって思って」

「そんなことはない。これは私たち全員の問題なんだから!」

「……なんだね君は。突然入って来て。燕は一体何をしているんだ」

 親父さんが苛立ったように呟く。のを聞いて、俺は再び彼を見た。

 九条の親父さんと相対する。睨み合う二人。トラとハムスターほどの関係性だ。

 それでも、弱いからといって無力とは限らない。

「まったく……後で灸を据えねばならんな。……で、君は一体何者だね?」

「私は……私たちは九条さんの友達です!」

「友達……君のような娘がかね?」

 玲が言うと、親父さんは値踏みでもするかのように、上から下へと視線を動かす。

「……ふむ、なるほど」

 何がわかったのだろうか。親父さんは勝手に納得したように頷いていた。

 なんだ? 娘の友達としては釣り合わないとでも思ったのだろうか。

 もしそうだとするなら、いささか以上に心外だ。

 俺はむっとして、親父さんを睨みつけた。けれども、親父さんは俺の視線に気づく様子もなく、ううむと唸る。

「……君たちは娘が遠くへ行くことが嫌なんだね?」

「あ、あたり前です。だから私たちはこうして……」

 玲が言い終わらない内に、親父さんは手の平をこちらに向けて、玲の言葉を制してくる。

「まったく……なんということだ」

「? ええと、あの……」

 親父さんが頭を抱えて机に突っ伏する。

「わ、私だって……私だってねぇ、娘と離れるのはすごく寂しんだよぉぉ!」

 そしてわんわんと泣き出してしまった。

 ……ってええ! なんじゃそりゃあ!

 俺たちはすっかり面食らってしまい、ソファから立ち上がっていた。

 大の大人が誰憚ることなく泣き喚く姿は……非常におかしかった。

 つーか何? え? 一体どういうこと?

 俺も、おそらくは玲も事態を飲み込めず、二人して顔を見合わせる。

「……ええと、どうしたんですか?」

 俺たち二人を代表して、玲が問う。俺も同じ疑問を抱いていた。

 ほんと、どうしちゃったんだ、一体。

「うう……すまない。君たちは私があの子をどこかへ追いやるのだと思ったのだろう?」

「え? ええ……まあありていに言えば」

 それはまさに俺たちの頭の中にあったことだった。

 九条の父親が俺と九条を引き離すために仕組んだことだと。半ば本気で思っていた。

 しかし……この様子だと何かが違うようだ。

「あ、あなたが九条さんを転校させようとしていたのではないんですか?」

「転校? ……いいや、そんなことはしないよ。なぜなら今の状況は私にとって嬉しいものだからね」

「私にとって嬉しい……すみません、まったく話が見えないのですが」

「私もだよ。なんなんだ君たちは」

 親父さんは涙目になりながら、俺たちを睨みつけた。が、そこには先ほどまでの威厳やら鋭さやらはなく、泣き腫らした瞳は赤く充血していて、年齢不相応の幼い印象を与えてくる。

 ……わからん。

「だって、俺は確かに聞いたんです。九条が遠くへ行ってしまうと」

「それは本人からかね?」

「はい、そうです。本人から聞きました。この耳で、確かに」

 俺は記憶をたどるまでもなく、自信を持ってそう断言できる。

 それだけのことはしっかりと頭の中にあった。

「……ああ、そんなことか」

 親父さんは目尻の涙を拭きながら、ガタッと椅子の背もたれに体重を傾ける。

「娘は……海外にホームステイすることになったんだ」

「……は? ホームステイ?」

 目が点になるとはこのことだろう。隣をちらと見ると、玲も似たり寄ったりな表情だった。

「イギリスへ行くそうだ。娘は英語は堪能だが、本場に触れたことはないんだ」

「イギリス……」

「ああ、その通りだよ」

「でも、英語を話せるのなら、別に英語圏じゃなくてもいいんじゃ……」

 親父さんは机の上で滴となっている自分の涙を拭いながら、若干声を震わせる。

「歴史や文化……単に語学留学する以上のことを知りたいだと娘は言っていたよ」

「知りたいのだと言っていた? ということは九条が自分から言い出した?」

「当たり前だろう。でなければ、誰がどことも知れない土地に娘を一人で行かせるものか」

 どことも知れない土地って……別に未開の地というわけではないのだから、そこまで言わなくてもいいと思うのだが。

 しかし親父さんは俺の心中など知らんといった様子で、またしても嘆息した。

「だからまあ、娘が望むのであれば私としては是非もない。ただ応援するだけなのだよ」

「……さ、寂しくはないんですか?」

「寂しくはないか、だと……?」

 ぎらりと親父さんの眼光が鋭くなる。それにたじろく俺と玲。

 しかし、すぐにまた目の端に涙をため、おいおいと泣き出した。

「寂しいに決まっているじゃないか! 娘と離れるなど、私には考えられないことだったのだから!」

「ああ、すみません。なんか変なこと言っちゃって」

 俺は慌てて謝罪した。なんか可哀想になってくる人だ。

 それにしても海外に……イギリスにホームステイとは。

 すごいというか凄まじいというか。末恐ろしいというか。

 俺はイギリスで旗を掲げて瓦礫の上に仁王立ちする九条を想像した。かなり似合う。

 それにま、あいつならどこででもやっていけるだろう。何せ九条なんだ。

「期間はどれくらいなんですか?」

「……二ヵ月だ。長いだろう! 長いとは思わないかね!」

 親父さんが俺たちに同意を促してくる。促してくるというかもはや強制に近い。

 俺と玲は苦笑しつつ、親父さんに同意した。押し切られて……というのは間違いではないが、何もそれだけではない。

 俺たちにとっても、二ヵ月間九条尾と離れるのは寂しいし、長いと感じる。

 それでも、たぶん俺たちには九条を止めることはできないだろう。

 この人のように。本人が望んだというのだから。

 と、ぽろぽろと涙を流す大財閥の会長を前に、俺たちがどうしたらいいかわからずにいると、突如として背後の扉が開く。

「ああ、またこんなに泣かれて。もう決まったのことですので、どうか気をお沈めください」

「うう……気など静まるものか。第一、燕。おまえだろう、この子たちを私のところに差し向けたのは」

「差し向けたとは心外です。私は彼らに救ってもらおうと思ったのです」

「救う? 一体誰を? 誰も困ってなどいないだろう」

「お嬢様に決まっているではありませんか。わたくしもメイド長をはじめとした使用人一同も、お嬢様のことを大切に思っているのです」

「だ、だからといってこれに何の意味があるというのだね?」

 それは俺も疑問に思っていた。果たしてこの状況にどんな意味があるのか、まったくわからなかったのだ。

「もちろん、旦那様にお嬢様のご友人をご紹介して差し上げたく」

「どうしてそんなことをする? それに一体何の意味が……」

「意味……でございますか」

 燕さんは親父さんの鼻をちーん、とやりながら、事情を説明する。

「ご留学に際して、お嬢様はそれはそれは心を痛めておいででした」

「心を痛める? ……どうして娘にそんなに気にすることがあるというのだね?」

「もちろん、ご友人方のことです。……それに旦那様のことも」

「私……? それに彼らのこと、だと?」

 親父さんは訝しむように眉をひそめ、俺たちを見回した。

「え、ええと……」

「そんなことはありないだろう?」

 俺が何を言っていいのかわからずにいると、親父さんはすぐに俺たちから視線を外した。

「ありえない、ということは、それこそありえないことなのですよ、旦那様」

「? ……どういう意味なのだね?」

 親父さんは心底わからないといった様子だった。問いかける口調も若干刺々しい。

 けれども、俺にはわかるような気がした。どうして九条が俺たちや親父さんのことを気に掛けるのか。

 だが、それはたぶん俺の口からは言わない方がいいだろう。

 玲も俺と同じ気持ちなのだろうか。さっきからずっと黙っている。

 俺はちらりと玲を覗き見しつつ、親父さんと燕さんのやりとりを黙って見ていた。

「……わたくしからは申し上げられません」

「なんだと? 燕、貴様は一体誰の執事なのだ?」

「誰の……と申しされますと、それは決まっております。お嬢様です」

「……何?」

 親父さんが更に苛ついたように、ぴくりと眉の端を動かした。

 うう、まずいんじゃね、これ?

 俺と玲がハラハラしながら見守っていると、鼻取りを終えた燕さんが丸まったティッシュをくず籠に入れていた。

「旦那様は、本当はお嬢様に海外留学などなさって欲しくはないのでしょう?」

「当然だ。……誰が好き好んであんな可愛い我が子を見知らぬ土地に送り出したいと思うだろうか。燕、おまえはどうだ?」

「残念ながら、わたくしに子供はおりません故、わかりません」

「ふん、だろうな。娘のたっての願いでなくば、そんなことはしないに決まっている」

 親父さんは鼻を鳴らしたのだろうが、さっきまで泣いていたせいで鼻水をすする音しかしなかった。……なんとも格好がつかないな。

「そうだ。娘の……あの子のたっての願いなのだ。今まで散々振り回してきて、それでも文句一つ言わずにいてくれた、あの子の」

 また、親父さんの目の端に涙が溜まる。涙もろい人だと思った。

 たかだか一ヶ月そこら、離れるだけだろう。それとも親というのは、みんなこんなものなのだろうか。

 俺も、玲との間に子供ができたら……いつかわかる時がくるのだろうか?

 わからない。まったくわからなかった。

 それでも、たぶん今の俺にしか言えないことがある。だから、言うべきなのだろう。

 それが九条のためで、九条が望むというのなら俺たちだってそうだ。

 親父さんとまったく同じ気持ちとは言わない。けれども、似た部分があるはずだ。

 俺は一歩、前に踏み出した。高級な絨毯のお陰で、足音は立たなかった。

 けれど、俺が踏み出したことが気配で察せられたのだろう。親父さんも燕さんも、俺の方を振り返った。

「あの……」

「何をうじうじと鬱陶しいことをおっしゃっているのですかお父様!」

 俺が口を開こうとしたところで、バンッと背後の扉が勢いよく開いた。

 驚いて、反射的に振り返る。……と、そこには不機嫌そうな顔の九条がいた。

「……え? ええと……どうしてお二人が?」

 九条は俺たちの姿を認めると、不機嫌そうな表情から一転して困惑したような表情になっていた。とはいえ、俺たちだって困惑している。なんだこの状況は。

「あの、ええと、九条さん落ち着いて。私たちは……」

「ハッ……わかりましたわ! お父様、わたくしのご友人であるお二人に何を吹き込んでいらっしゃったのですか!」

「いや、あの……話を聞いて、九条さん」

 なんだか若干日本語がおかしい気がするのだが、それはいい。気にしないでおくことにする。

 昔からスルースキルは一級品だという自負がある俺だ。そんなことより今は目の前のことを片づけないといけないだろう。

「まあいいですわ。お二人のことは後々として。お父様!」

「な、なんだね……私に一体何の用だと……」

「お二人に一体何を吹き込んでいらっしゃったのかわかりませんが、まだそんなことでうじうじぐずぐずとされていたのですか!」

「あ、当たり前だろう! 娘が遠くへ行くのだ、親の身としては……」

「シャラップ! 黙りなさい、そしてうじうじするのは止めなさい!」

 ビッシィッと、九条の人差し指を親父さんに突きつけられる。

 えーと、なんだこの状況は。

「お父様、いい加減子離れをしてくださいまし。でなくては、この琴音が安心して旅立てませんわ」

「し、しかし……我が娘よ」

「もう、泣かないでくださいな。今生の別れ、というわけではありませんわよ」

 おいおいと泣き出す親父さん。それにつられてか、九条も若干涙ぐんでいた。

 そして燕さんも密に……何? なんなのこの状況?

 右肩上がりに盛り上がりを見せる九条家の面々を他所に、俺と玲はさめざめとした気持ちで事態の推移を見守っていた。

 なんだろう……後は勝手にやってくれよって感じ?

「あー……どうする、玲」

「どうするって……なんとなく帰りにくいなぁなんて……」

「俺もだ。精神的に身動きがとりずらい状況だな、これ」

 おそらく話はまとまったのだろうが、しかしまだまだこの余韻は長く続きそうだ。

 俺はそう思って、はぁと嘆息した。なんか思わぬ形で事態が収拾しそうだった。

 いや……ある意味元の木阿弥というか……鞘に収まったというべきか。

 なんにしても、一件落着……なのだろうな、きっと。

 俺はぽりぽりと頬を掻く。俺たち……いらなかったよな、絶対に。

「……あーと、俺は帰りますね」

「あっ……私も」

 俺たちはおいおいと泣き続ける親父さんと九条から視線を逸らし、扉に手をかける。

 がちゃがちゃ、と何度か回す。……が、一向に開く気配がなかった。

「な、なんだ……!」

「どうしたの、健斗?」

「ああ、いや……なんか開かなくって」

 俺が玲に報告すると、玲は俺を押し退けて扉を開こうとした。

 けれども、扉は開かなかった。……どうしてだ?

「……鍵、かかってたっけ?」

「え? ええと、よくわからないけれど、たぶんかかってなかった」

「じゃあ、誰かが鍵をかけたんだろうね」

「誰かって……なんで?」

「私が知るはずがないけれど」

 くるりと玲が振り返る。俺もつられて振り返った。

 玲の視線の先に九条たちがいた。……あれを見届けろってことか?

 俺はぞっと背筋に悪寒が走るのを感じた。ええ……帰りてぇ。

「うう……すまないな、琴音。本当は笑って送り出してやりたいんだが」

「ふふ、お父様のことなら琴音は何でもお見通しですから、こんなことも想定内ですわ」

「ああ、本当にすまない。……私なら平気だ」

 親父さんは涙を拭って、九条に視線を向けていた。

 九条は九条で、自分の父親に自愛に満ちた瞳を向けている。なんだか迷える子羊とシスターみたいだなと前にやったゲームのことを思い出した。

 そして俺たちは思った。

 たかだか海外留学するだけでそこまでなくなよ、大企業のトップ……と。

 

 

                          〇

 

 

 それから、俺と玲が解放されたのはたっぷり三時間が経過してからのことだった。

 その間、俺たちはずっと部屋に閉じ込められていた。……なぜだ。

 俺と玲はソファに座り直し、じーっと二人の様子を眺めていた。そろそろ終わるだろうと思っていたにもかかわらず、九条と親父さんが話を切り上げる様子はまったくない。

 その合間にも何度か扉を開けようとしてみたのだが、一向に開く気配はなかった。

 仕方なくそのまま、およそ三時間ほど九条たちの寸劇を眺めていたというわけだ。

「ぐすっ……しかし、寂しくなるねぇ」

「もう、お父様ったらそれって何度目ですの」

「しかし、何度言ったって言い足りないよ。何だったら今から取り止めてもいいんだがね」

「だめですわ。わたくしから言い出したことですし、今からキャンセルなんて仲介された方々にも、受け入れ先のホームにも迷惑ですわ」

「それはそうだ。すまなかった。私が間違っていたよ」

「ええ。だからわたくし、行ってきますわ」

「ああ、行っておいで」

 ひしっと父親と娘が抱き合う。涙ぐましい、感動のシーンだ。

 こんな状況でなければ。

「……あのー、話が終わったのなら俺たちを出してくれないか?」

「あら? 石宮さんに桜木さん。まだいらしていたの?」

「……ああ、まだいらしていたんだよ」

 振り返った九条のきょとんとした、不思議そうな顔が俺を見ていた。

 俺は起こる気力すらなく、ぐったりと項垂れた。まさか、そんな言い方をされるとは思ってもみなかったのだ。

 そりゃあ最初からなんか変だなとは思っていた。助けてくれって言われてもピンと来なかったし。

 だがしかし! こんな仕打ちを受けるとは思わなかった。

 九条が父親との抱擁を終え、俺たちのところまでやってくる。

「まったく、何をなさっていますの? 恥ずかしいですわ、あんな姿を見られて」

「は、はははは……」

 俺も玲も苦笑いしか出なかった。いやはや、まったくと言いたいのはこっちなんだがな。

 九条は俺たちの脇を通り過ぎ、扉へと手をかける。

 がちゃり、と今度なんら抵抗なく扉は開いた。……もう、驚くほどじゃない。

「ほら、開きましたわ」

「ああ、開いたな。悪いな、九条」

「いえいえ」

 九条が俺たちを外へ出す。

 廊下には、誰もなかった。

 それから、長い回廊を通り、階段を降りて一階へ。玄関先まで、俺たちのことを見送りに来てくれた。

「申し訳ありませんでしたわ。せっかく来ていただいたのにろくにおもてなしもできませんで」

「ああ……まぁ……うん」

「気にしないで大丈夫だから、九条さん。じゃあ、今度またお別れ会をやろうね」

「ええ。楽しみにしていますわ」

 まあたった数十日とはいえ、お別れはお別れだ。お別れ会くらいはやってやってもいいか。

 俺は九条のいない日々を考え、なんだか寂しい気持ちになった。

 普段はやかましい奴だけど、いないといないで寂しいものなんだな。

 まだ九条は旅立ったわけじゃないけれど、そんなふうに感じてしまうのはなぜなんだろうか。

 俺は怒っていいのか悲しんだらいいのかわからないような気持ちになって、きょろきょろと周囲を見回す。……と、玲も同じ気持ちなのか、自然と視線がかち合った。

 にこっと、困ったように笑う玲に俺も微笑み返す。

「イギリスか……なんだか遠いところに行っちゃうような気がするね」

「まあな。実際に遠いところにくわけだが」

 それにしてもだ。九条がいない生活。たぶん……だいぶ静かになるだろうな。

 俺はふとそんなことを考えつつ、玲と手を繋ぎ、帰路を歩くのだった。

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