第26話 桜木玲とさよならの琴の音–前編

 ざわり……と、教室中がざわついていた。

 俺は入り口で固まったまま、その様子を訝しんでいた。

 なんだ? 何が起こったというんだ?

 級友たちのざわめきに、俺は困惑するしかなかった。どうしてこんなに騒いでいるんだ?

 向いていた級友たちの視線が一瞬だけ俺に集まった。けれども、俺を待っていたわけではないらしい。すぐに視線はそらされ、またざわざわとし始める。

 え、ええと……?

 このまま突っ立っていても仕方がない。俺は教室に入り、自分の席に着いた。

 それから、教科書を机の中に突っ込むこともせず、再び立ち上がる。

「……なぁ、真人。何かあったのか?」

「おう、健斗。いやぁ……それがなぁ」

 級友の一人、剛昌真人が困ったように頭を掻いた。

 その屈強な見た目に違わず、真人はスポーツが万能だ。球技に武道に陸上にとなんでもござれのスポーツ馬鹿と言っていいだろう。

 そんな真人だが、馬鹿だ。勉強はからきしだし、何より嘘や隠しごとはまっこと苦手にしている。……言い換えればそれは素直な奴、ということなのだろうが。

 そんな真人がこれほど歯切れ悪く、言い淀むことなんてほとんどない。大抵はスパッとなんでも言ってしまう奴だからこそ、この事態は相当だ。

「みんなの様子がおかしいだろ。何があったんだ?」

「何がって……ええと、なぁ」

 真人がそれまで話していた隣の奴へと視線を向ける。そいつは困ったように笑うだけだった。

 そして、そいつの顔にも困惑が浮かんでいた。果たして口にしていいのか、躊躇うように。

「教えてくれよ、気になるだろ?」

「う、ううん……まぁ健斗ならいいか。でも、これはまったく確証のない話だからな?」

 真人にしては珍しく、そう前置きをした。こいつがこんなふうに言うなんて、普段なら考えられないことだ。

 よほどの事態が進行しているのだろう。と、俺はごくりと喉を鳴らした。

 どんな話が飛び出してこようと、受け止める覚悟だぜ。

「……九条が、転校する……かもしれないんだ」

「なっ……んだと?」

 おっとぉ? これはかなりの爆弾だぞ?

 九条が転校? そんな話はまったく聞いてないぞ。いや、話ておかないといけない義務はないんどあが、それでも一応今まで友人として付き合ってきたんだ。いきなり転校はおかしいだろう。

「な、なんだそれは? 何かの間違いじゃあないのか?」

「いや、俺だってそう思うさ。もし本当だったら、本人から何か言ってくるだろうしな」

「お、おお……だな。その通りだ」

 真人の言う通りだ。本当に転校するのなら、まず九条本人から報告があるだろう。

 俺や真人にではなくとも、玲にくらいは……。

 と、そこまで考えて俺はハッとした。この話、玲は知っているのだろうか?

 俺はくるりと踵を返すと、教室の出入り口へと向かった。

「どこ行くんだ?」

「玲のところだ。今朝はまだ知らない様子だった」

「本当か?」

「本当だ」

 とはいえ、玲が本気で俺を騙そうと思ったら簡単に騙せるだろう。玲はすごく頭のいい奴だからな。そして俺が玲の言うことで疑惑を持つことはありえない。そんなことはないか?

 ともかく、この話を玲が知っている可能性はめちゃんこ低い。なぜなら、今朝一緒に登校している時にそんな話は一切出なかったからだ。

 もし知っていたとしたら、俺に何らかの相談があってもおかしくはない。

 俺は教室を出て、玲のクラスへと向かった。きょろきょろと首を右往左往して、玲の姿を探す。……と、すぐに見つかった。

 見つかった、という言い方はおかしいだろうか。なぜならあいにくと玲の姿は人だかりにさえぎられて見えなかったから。

 とはいえ、あの人の群れの中心に玲がいるのは間違いない。

 俺は教室に入り、人垣をかき分けで中心人物の前へと立つ。

「け、健斗……?」

 玲はすごく不思議そうな顔をしていた。

 そりゃあそうだろう。俺が玲の教室に来ることなんてまったくと言っていいほどないからな。

「あー……ちょっといいか?」

「え? ええと、うん」

 玲は怪訝そうな顔のまま、周りにいたクラスメイトたちに謝りつつ俺の後について来る。

 俺たちは教室を出て、トイレのすぐ脇にある影になっている場所に滑り込んだ。

「どうしたの、健斗……健斗の方から来てくれるのは嬉しいけど」

「ああ……いや」

 玲はくねくねと体をくねらせていた。心なしか顔も若干赤い気がする。

 この様子だと、まだ知らないみたいだ。……言うべきなのだろうか、俺から。本当に?

「あーと……えっと……な」

「? どうしたの、健斗? 大丈夫?」

 とくれば次は……と反射的にあのせりふが頭の隅を過ぎった。

 おっと危ない危ない。まったく関係のないことを考えるところだった。

 ……ったく、だめだぜ俺。今はそれどころじゃねえだろう。

「……玲、聞いたか?」

「へ? ええと、何を……?」

「やっぱ聞いてねえんだな」

「だから何を? 一体何を言っているの、健斗?」

「実は九条が……九条が転校するんだ!」

「転校……! え、なんで!」

 玲は困惑したように瞳を揺らしていた。そりゃあそうだ。俺だって驚いた。

 がっしと玲が俺の肩口を掴んだ。その手はこれまでにないくらい力強く、けれど弱々しく震えていた。

「……俺にもわからん。一体何があったのか。どうして転校することになったのか、まったくな」

「九条さんが……どうしていきなり」

 打ちひしがれたような玲の表情に胸の奥がかなり痛んだ。

 けれども、俺は玲の何にも答えてやれない。どうして転校してしまうのか、これから俺たちはどうしたらいいのか、何も。

「なんで……なんでなの、九条さん」

「玲……」

 九条は玲にとって唯一、同じ趣味を理解してくれる大切な友人だ。俺も玲の趣味には多少理解を示せるようになったと思うが、やはり九条のそれと比べると年季が違う。

 俺では理解できないような話でも、九条なら理解できるという場面は今まで何度もあった。

 そんな九条がいなくなってしまうかもしれないのだ。玲にとって、これほどつらいことはないだろう。

 なんとかしてやりたいのは山々だった。玲にとっても九条にとっても、きっとその方がいいだろうということは。

 だけれど! 転校してしまう九条に対して、俺たちが一体どれほどのことができるだろうか。俺にはまったくと言っていいほど思い至ることがない。

 どうしたら……と普段まったく使わない頭をフル回転させるが、何も思い浮かばなかった。

 せいぜい、九条が笑顔で旅立てるように送り出すくらいしか……。

「……と、とにかく九条さんに話を聞いてみようよ。何かの間違いかもしれないし」

「……ああ、そうだな」

 玲の提案に、俺は仰々しく頷いた。

 しかし、内心ではわかってる。これが覆ることのない決定事項だということは。

 だからこそ、その質問をするのはつらいことなのではと思わなくもなかった。

 だが、俺自身望んでいるのだ。九条が転校してしまうというそれが、もしかしたら性質の悪い嘘かあるいは誰かの勘違いであることを。

 出発は何かわからないが、尾ひれがついて肥大化してしまっただけだということを願っていた。

「おい待てって」

 俺は脇を通り過ぎようとする玲の腕を掴んで止めた。

 はやいはやいって。

「どこ行く気だ?」

「言ったよ? 九条さんに本当のことを訊くって」

「おまえ、それでもし九条が本当だって言ったらどうするんだ?」

「どうするって……それは」

 まったく考えていなかったらしい。頭がいいくせに変なところで抜けてる奴だ。

「だったら……どうしたら、いいの? 私、どうしたら……」

「そんなの、俺にだってわからねえよ」

 こんなこと、誰に相談したものかわからねえ。真人や他の奴に言っても仕方のないことだろう。何せ、転校なんて九条一人で決められるものじゃないだろうからな。

 ということは、必ず親の介在があるに決まっている。

 親……九条の親ということは、九条財閥の中枢、社長とか会長とか、そんなレベルの人間の力が働いてるってことだよな。

 そんな奴らを敵に回してなんとかなるとは思えない。九条が転校するという事実を覆せるとも。

 だけれど……。

「九条……さん」

 俺は目の前で涙目になって声を震わせている玲を見た。

 弱気で儚くて、今にも崩れ落ちてしまいそうな、そんな俺の恋人。

 果たしてどうしたらいいのかまったくわからないが、それでもなんとかしないといけないことはわかる。

「……ま、とりあえず今は教室に戻れ。俺がなんとかするから」

「なんとかするって……どうするの?」

「わからねえ。けど、なんとかする。……安心しろ。別に悪い結果になりゃあしねえから」

「……ほんと?」

「ああ、ほんとだ」

 俺は精一杯の笑顔で、ぐっと親指を立てて請け負う。

 俺のその無責任な一言で、安心した、かどうかはわからなかったが、玲はにこっとわずかに笑みを作って、頷いてくれた。

 だから、まあ俺という男は単純なもので、それだけで精一杯やってみようという気持ちにもなる。……馬鹿だなぁと自分でも思うが。

 俺は玲の背中を押して、玲を教室へと戻した。教室を出て行く時とは打って変わって落ち込んだ玲の姿に、クラスメイトたちは何があったのかと心配そうにしていた。

 そして俺を睨んでくる。……ええ、なんでぇ。

 俺は困惑しつつも、その場から逃げるようにそそくさと自分の教室へと向かった。

 自分の席に着き、ふぅとため息を吐いた。

「よう。お帰り。なんかお疲れだな」

「まあな。……九条の件、玲に話してきた」

「ああ、知らなかったんだな、桜木」

「みたいだ」

「二人とも、仲よさそうだったのにな」

 真人は意外だと言いたげな様子で、少しだけ目を大きく見開いた。

 けれども、それだけだった。それ以上は何も言わず、黙って前を向いた。

 何も聞かないでくれたのは、ありがたかった。今は考える時間が欲しい。

 ただでさえ物事を思案するということが苦手なんだ。会話しながらなんてやってられるか。

 ほどなくして、担任の教師が教室に顔を出した。そろそろ朝のHRが始まる。

 なのに……。

「来てねえ……のか」

 ちらりと九条の席を見やる。が、そこに当然いるべき奴の姿は、見当たらなかった。

 一体、どうしたんだよ、九条。

 

 

                      〇

 

 

「……相変わらずでけえな」

 何がと問われれば、九条の家が、だ。

 まったく違うものを想像した奴は心が腐っていると思う。

 ともあれ、俺は一人で九条の家を訪ねていた。

 以前にも来たことがあったから、なんとなくのおぼろげな記憶を頼りにやって来たわけだ。

 そして以前に来た時も思ったのだが、金持ちとはどうしてでかい家に住みたがるのだろう?

 そんな疑問も頭の隅から追い出しつつ、俺はインターホンを押した。

 ほどなくして、年老いた――けれどはきはきとした――女性の声が聞こえてきた。

『はい、どちら様でしょうか?』

「え、ええと……俺はくじょ……琴音さんの友人の石宮健斗っていいます」

『ああ、石宮様でございますね。その節は大変お世話になりました』

「えっと、いえ……こちらこそ」

 インターホンの向こう側で通話の相手が会釈する光景が頭の中に浮かぶ。俺は慌てて会釈し返した。

『それで、本日は一体どのようなご用件でしょうか?』

「くじょ……琴音さんが学校に来ていなかったので、どうしたのかと思って」

『お見舞いに来てくださったのですね。それはそれは。真にありがとうございます』

「そんな……大したことじゃ」

『ですがご心配には及びません。お嬢様はすこぶる健康でいらっしゃいますので』

「え?」

『病気の類ではないと申し上げています。ですのでお引き取りを』

「ええと、後俺、琴音さんに訊きたいことがありまして」

『はぁ……あなたもですか』

「え? 俺も……?」

 はて? それは一体どういうことなのだろうか。

 俺は相手の意図を探りかねて、言葉を紡げなかった。どういうことなのか、まるでわからなかった。

『とにかく今日のところは……ああ、何をしているのです、あなたは!』

 後半は俺に向けられた言葉ではなかったのだろう。慌てたように、通話の相手は誰かへと叱責を飛ばしていた。

 それからぶつりと通話が途切れた。俺はどうしたらいいのかわからず、その場に立ち尽くす。

 と、少しの間を置いて、門が一人でに開いた。なんと高性能なのだろうか。

 以前に来た時はこんなギミックはなかったように思う。なんとなく、映画の世界に入り込んだような錯覚に陥る。

 有名なスパイ映画のワンシーンが流れてくるようだ。

 などと考えながら、俺は一瞬逡巡した。

 門は開いた。だけれど、このまま素直に入って行っていいものかどうか。実際に入ったら怒られる、なんて展開はごめんだ。

 俺は数秒間考えて、意を決して入って行くことにした。おそるおそる、足を踏み入れる。

「お、お邪魔しまーす」

 返事はなかった。が、おそらくあまり歓迎されていないのだろうな、ということは想像がついた。というのも、出迎えがなかったからだ。

 他の仕事で忙しくしていただけ、ということも考えられるが、客人が来ているというのにそれはないだろう。

 俺はやはりおそるおそる、だだっ広い中庭を進んだ。ここは以前に来た時とさほど変わらないなと思った。

 豪華な庭園だ。奇麗に刈り取られ、形の整えられた草木や名前のわからない花。たぶんこのあたりで自生している花ではないのだろう。

 そして大きな噴水。映画の中でしか見ないようなそれは、ここがおよそ日本だということを忘れさせてくれる。

「はぁ……すげーな、やっぱ」

「当然でございます。我々が管理いたしております故」

「うおわぁ!」

 突如として背後に立った影に、俺は思わず飛び退いた。

 慌てて振り返ると、そこには女子と見紛うほどの男が……いた。

 短い髪ときりりとした瞳。背は俺より少し高いくらいだろうか。細身だが、不思議と華奢という印象はない。

 燕尾服を纏ったその男(?)はうやうやしく一礼をすると、再び顔を上げた。

「燕さん……お、驚かさないでくださいよ……」

「それは申し訳ありませんでした」

「……本当に思っていますか?」

「それはもう、大変なことをしでかしてしまったな、と」

 そういう割に全然顔色に変化が見えないのだが。

 俺は燕さんをじとっと睨んで、はぁと嘆息した。この人にこれ以上言っても無駄だな。

「ええと、それで九条はどうしたんですか? 今日は休んでいたみたいだったけれど」

「はい。本日お嬢様はストライキ中でして」

「す、すとらいき……?」

「ストライキとは……」

「いえ、意味を訊いているわけじゃあないんですけれど」

「……そうですか」

 燕さんは少しがっかりした様子だった……たぶん。

「……今日はお一人なんですか?」

「え? ええ……まぁ」

 大勢で押しかけるのもなんだと思ったので。とは言わなかったが伝わっているだろう。

「……なるほど。ではこちらへどうぞ」

 俺は燕さんに案内されて、足を踏み出した。

 向かうのは、母屋とは反対側だった。

 茂みの中を通り、鬱屈した道を通る。まるでけもの道だ。

「あの……どこに向かってるんですか?」

「どこ……お嬢様のところですが?」

「へ? だったらだいぶ離れたと思いますけど」

「ああ、あっちには今は誰もいませんよ」

「へ?」

 誰も……いない? どういうことだ? なんで誰もいないんだ?

 俺は困惑に瞳をぱちくりさせた。

 俺の困惑が伝わったのか、燕さんは足を止めて俺を振り返った。

「正確には旦那様とメイド長がいますが、私と美馬さんは離れで寝起きしてします」

「は? ええと、九条は?」

「もちろん、お嬢様も」

「…………」

 絶句……というと少し言い過ぎだろうか。それでも俺は言葉を失った。

 なんで三人して離れで暮らしているんだ、この人たちは?

「あの……それはどうして?」

「それについては本人に直接訊いた方がいいかと思います」

 その後、十分くらい歩いていただろうか。やがて少し開けた場所に出た。

 ……なんだ、ありゃあ?

 俺の目の前には割合大きな家屋が一件建っていた。母屋が西洋の古城チックなのに対して、こちらは質素ながら高級そうな平屋だ。

 ここで高飛車なお嬢様とビクトリア朝の衣装に身を包んだメイドと燕尾服の執事が暮らしているのか。……なんか似合わねぇな。

 俺は平屋から出てくるメイドと執事とドレス姿の九条を想像して、思わず吹き出しそうになった。なんだこの面白い光景は。

「こちらへどうぞ」

「あっ……はい」

 燕さんに促され、俺は平屋の中へと入っていく。靴を脱いでスリッパに履き替え廊下を歩く。

「こちらがお嬢様のお部屋になります」

「ああ、はい……わかりました」

 燕さんがふすまに手をかける。そしてバッと勢いよく開けた。

「おお、くじょ……」

 名前を呼び終わる前に絶句した。

 なぜなら、九条が着替え中だったからだ。

 白いレースのブラと少しだけフリルの点いたショーツ。惜しげもなくさらされた白くてきめ細やかな豊満体。

 そして九条の見開かれた瞳と半開きの口。……驚愕がありありと見て取れた。

 ええと、俺は一体何をしにここに来たんだろうな。話をしに来たんだ。……何の話だっけ?

 俺は頭の中が一瞬で真っ白のなったのがわかった。この状況に対する対処方を思案する、という発想すらなく、ただじっとその場に突っ立っていただけだった。

「……この! さっさと締めなさいでしゅわ!」

「わわ、悪い! 悪かった!」

 九条が噛みながら手近にあった物を投擲してくる。俺はそれをなんとかかわしつつ、ふすまを締めた。

 なんで九条の家に来ると毎回あいつは着替えてるんだ? つか燕さんは九条が着替え途中だと知っていたはずだよな?

 俺はバッと燕さんを振り返った。けど、燕さんは俺の非難の視線な土どこ吹く風で、そっぽを向いていた。

 きっと何を言っても無駄なんだろうな。

 俺は諦め半分に溜息を吐いてから燕さんからふすまへと視線を戻した。

 たぶん九条の機嫌は悪くなっているだろう。なにせ着替え途中に開けたんだから。

 どうしたらいいんだろう、と頭を悩ませる。このままだと、まともに話し合いなんてできないに決まっている。

 俺は小さく嘆息して、じっとふすまの前で立ち尽くしていた。

 とにもかくにも、九条が着替え終わるまで待つしかない。

 ……どれくらい時間が経ったのだろうか。中から入っていいとお許しの言葉をいただいた。

「……入るぞ、九条」

「ええ、入って来てくださいまし」

「じ、じゃあ……」

 ふすまを開ける。と、そこには当然だが、九条が立っていた。

 相変わらずの煌びやかさだと思う。おそらくは部屋着なのだろうが、俺たち庶民からしてみれば鮮やかなドレスにしか見えないそれを見事に着こなしていた。

「ええと……おまえ、今からどっか行くのか?」

「はぁ? 何をどうしたらそんなことになりますの?」

「……ああ、そうか」

 やはりあれはただの部屋着だったらしい。いやわからんて。

 俺が心中で一人突っ込みをしていると、背後から燕さんが入室を促してくる。

 ので、俺はおずおずと中に入った。別に女子の部屋に入るのが初めてということはない。

 玲の家にだって行ったことはあるし、母屋での九条の部屋もちらりとだが見たことはある。

 けれども、そこはそのどちらとも違う雰囲気があった。

 なんというか素朴で質素とでも言うのだろうか……九条家のイメージとはずいぶんとかけ離れている。

 田舎の婆ちゃんちと言われた方が、まだしっくりくる。

「あまりじろじろ見ないでくださいますか?」

「お、おお……悪い」

 九条からの非難の声に、俺は慌てて視線を逸らした。

 とはいえ、他に見るべきはなく、なんとなく手持無沙汰になってしまう。

 今日の目的は九条の新居の観察ではないから、それはいいのだけど。

「それで、本日は一体どんなご用でお見えになったのですか?」

「どんなご用……ええと、今日学校来なかったから……どうしてんのかと思って」

「それは……お見舞い、ということでよろしいのですか?」

「まあ大体そんな感じだ」

 俺が答えると、九条は若干顔を綻ばせた。

 確かにお見舞いなんて、ゲームや漫画的なイベントだろう。実際にはお互いに気を遣ったりしなきゃならんのだから、面倒以外の何でもないからな。

 それに、九条の立場からしたらお見舞いなんてあまり経験がないのだろう。

 肩を抱くようにしてぎゅっと体を縮こまらせ、もじもじしていた。

「それはそれは……ありがとうございますわ」

「ああ……で、なんで今日学校休んだんだ? その様子だと別に風邪ってわけでもないんだろ?」

「それは……ええと」

「? どうした?」

「いえ、ええと……」

 九条は端切れ悪く、もじもじとしたままだった。そんなに言いずらいことをしていたのだろうか? 一人で?

 俺はもやもやと、勝手に想像の羽が羽ばたくのを止められなかった。

 一人で他人には言えないようなことをしていた……どんなことを?

 と、そこまで考えて背後から咳払いが聞こえてきた。燕さんだ。

 俺は想像するのを止めて、九条の返答を待った。それでも「あー」とか「うー」とかしか言わないものだから、段々焦れてくる。

 業を煮やすという表現がこの場合当てはまっているのかどうかわからなかったが、まあ焦れてしまったのだから仕方がない。

 俺の方から続きを言うことにした。

「……あのさ、九条」

「はい? えっと、何でしょうか?」

「これは他人から聞いた話なんだけどな」

「はい」

 そう前置きをして、俺は九条に話し出した。

 学校での噂。九条が転校してしまう、ということを。

「おまえ……転校すんの?」

「へ? ええと……なんのお話ですの、突然?」

「いや……そういう話を小耳に挟んだって言うか……」

 自分でも何を言ってんだと思う。歯切れが悪いにもほどがある。

 これでは、九条に怪しまれても仕方がないというもの。別に後ろ黒いところは何もないが。

 俺は選択支は少ないとわかっていながら、それでも言葉を探す。

 何かないだろうか。何か、いい言い回しは。

「えーと……あくまで噂……なんだが」

「噂……お聞きしましょう」

 九条がすとんと畳の上に座り込んだ。ぽんぽんと自分の前を叩く。

 俺にそこへ座れということなのだろう。

 俺は黙って九条の意図に従って、座った。座って……さてなんと説明するべきかと考えを巡らせる。

 噂は噂だ。俺自身、あまり詳しく知っているわけじゃあない。そもそも、噂の真偽を確かめるために俺はここにいる。九条の見舞いはあくまでついでだ。

 こいつのことだから、多少具合が悪くなっても大丈夫だと思う。だから、体調についてはあまり心配はしていなかった。

「……今日、おまえが近々転校するって話を聞いたんだ。……本当か?」

「転校……一体誰からそんなことを?」

「真人が言っていた」

「剛昌さん……」

「真人は他のクラスの奴から聞いたらしい」

「一体誰がそんな噂を流しているのでしょうか?」

「わからん……そこまでは訊かなかったからな」

 九条はたぁと嘆息すると、俺からへと視線を向け直す。

「それで? あなたはその噂の真偽を確かめにいらしたのですね?」

「ああ。俺だけじゃあない。玲も真人も本当のところを知りたいと思っている」

「それはそうでしょうとも」

 九条は至極落ち着いた様子で首を縦に振る。どうしてそんな顔ができるのか、俺にはわからなかった。

 仕方ないな、というように、九条が肩を竦める様子を俺は黙って見ていた。

「あなたも……わたくしが転校すると言ったら心配してくださいますか?」

「本当に転校するのか?」

「ただのたとえ話ですわ。興味本位と言いますか」

「そ、そうか……」

 だったらいいんだが。いや何がだ?

 俺は内心でほっと安堵した。安心していい材料なんて今のところないのだが、九条の子の言動から察するに転校という話は嘘なんだろう。

 ただの噂だ。真に受ける方がどうかしている。

 俺は自分の行動を恥じ入り、反省した。次からはもっとちゃんと……、

「まあ、わたくしが遠くへ行ってしまうのは事実ですけれど」

「…………」

 ビシッと、全身が凍り付いた。

 俺はギギギッ……、と壊れて錆びついた機械を無理矢理動かすがごとく、顔を上げる。

「え? ……今、なんて?」

「わたくしが遠くへ行ってしまうのは事実だ、と言ったのですわ」

「遠くへ……ってなんだよそれ!」

「ですから……」

 などとまだ九条が何か言っていたが、俺はそのほとんどを聞いていなかった。

 ショックからだろうか。それとも何か別の要因が働いているのだろうか。

 俺は九条から視線を外し、背後を振り返った。けれど、そこに燕さんの姿はなかった。

 いつの間に消えたのか。そんな疑問が脳裏を過ぎる。

 なんだっていいか。今は重要なことじゃあない。

 俺は九条の言葉を頭の中で反芻する。遠くへ行ってしまう。……のだと言う。

 その言葉は現実感すらなく、俺の腹の底に汚泥のごとく溜まってしまう。

 ぐるぐると胃の底を這い回るような感覚に、俺は気持ちの悪さを覚えてしまっていた。

 気がつけば、立ち上がっていた。

「帰る……悪かったな、邪魔して」

「えっと……いえ、わざわざ来てくださいましてありがとうございましたですわ」

「じゃあ……とりあえず俺は帰るわ」

「それは先ほども聞きましたけれど……」

「……そうか」

 俺は九条に背を向けると、とすんとすんとふすままで歩いて行った。

 見送りのためだろうか。駆け寄って来ようとする九条を手で制して、一人で玄関まで行った。

 靴を履き、横開きの扉をがらがらと開ける。と、来た時と同じような奇麗な景色が目の前に広がっていた。

 奇麗……奇麗、なのだけれど。なんだかひどく味気ないような、そんな気がする。

 俺は周りの景色を見るとなしに見ながら、入って来た時と同じ門を目指す。

 門の前にまでたどり着くと、突然背後から声がかけられた。

「石宮様」

「……ああ、燕さん」

 そこには燕尾服を身にまとった燕さんがいた。俺とあまり年は変わらないはずなのだが、その所作はいちいち落ち着いていて、大人びている。

 しかし、燕さんの表情だけはどこか心配そうだった。何を懸念している、とでもいうのだろうか。何を懸念しているのか、俺にはわからなかったが。

「……ええと、今日はお邪魔しました。何つーか……えーと」

 こんな時、なんと言ったらいいんだろう。

 友達が遠くへ行ってしまうという事実は、俺の心を打ちのめしてくる。

「俺……何を言ったらいいかわらなくて」

「石宮様にお願いがございます」

「? お願い……?」

「はい」

 俺が訊き返すと、燕さんはこくんと頷いた。

「……お嬢様を救っていただきたいのです」

「はっ……? ええと、なんて?」

 燕さんが神妙な面持ちで放った言葉対して、俺は思わず間抜けな声を出していた。

 今、なんて言った、この人。

「俺が……九条を救う?」

「はい。石宮様、そして桜木様や他のみな様で、お嬢様を救っていただきたいのです」

「……えーと、それは一体どういう……?」

 意味がわからなかった。俺たちが九条を救う? 果たしてそれは何のゲームだ?

「……実は、お嬢様はご自分のご趣味を旦那様に隠しておいでだったのです」

「あー……それは本人も言っていた気がします」

 九条は玲と同じような趣味を持っている。厳密に言うとまったく違うらしいのだが、俺みたいな素人からしたら同じようなものだ。

 そして九条はこれまた玲と同じく、自分の趣味を周囲に隠している。それについて、以前に本人からぽつりと話を聞いたことがあった。

 いわく、父親がかなり厳しい人だという。ので、そんな趣味があったとわかった日には全て処分されてしまうだろう……と言っていた。

 いくら何でもと思わなくもなかった。父親が娘の趣味嗜好を否定した挙句、持ち物を全て処分するなんて……どこのドラマの世界だよと言いたくなる。

 けれども、俺が冗談のように思っていたことは実は全部本当のことだったらしい。

 俺は軽く頬を打ち据えられたような感覚になりながら、なんとか頭を回す。

「ええと……助けるったってどうやって……?」

 転校はもう決まっているのだろう? だったら、俺たちがどうこう骨を折ったところで意味はない。そんなことは燕さんだってわかっているだろう。

 しかし、燕さんはゆっくりと首を振った。

「いいえ、まだ間に合います」

「でも、九条の転校はもう決まっちまってるんじゃ……?」

「……噂は存じております。多少肥大化しているな、というのが我々使用人の意見です」

「肥大化? ……えっ? それは一体どういう……?」

「まだ、お嬢様の転校は決まっておりません。旦那様は転校させるつもりのようですが、それにしたってすぐにというわけにはいきませんので」

「な、なるほど……」

 考えてみればそうだ。そう易々と転校の手続きが可能なら、九条はとっくに遠くの学校に行ってることだろう。

 ましてや九条財閥の会長だ。その忙しさたるや、並の企業の非ではないだろう。

「まだ時間はある……ということですか?」

「そういうことです」

 燕さんがこくりと力強く頷いた。

 九条の転校を止められるかもしれない。そう思うと、俺はいてもたってもいられず、身を反転させて駆け出した。

 どこへ向かうのか、と決めているわけじゃあない。ただ、このままじっとしていても仕方がないと思ったのだ。

 俺は走りながら、スマホを取り出した。玲に電話をする。

 二度のコール音の後に、玲の涼やかな声が聞こえてきた。

『健斗……どうだった、九条さんは?』

「ああ、あって来た。まあ元気そうだったぞ」

『そうなんだ。それはよかった』

 玲は心底安堵したようだ。ほっと息を吐く音が、電話越しに聞こえてくる。

『えっと、それで今、健斗は何をしているの? なんだか息が荒いみたいだけれど』

「ああ、今、走ってるんだ」

『走って……なんでまた?』

「ああ、まあ思うところがあってな」

 玲の困惑したような声がまた可愛かった。とはいえ、今はそこを堪能している時間はない。

 俺は走りながら、さっき燕さんから聞いた話を玲にもした。

『……それって本当?』

「ああ、本当だ。なんせあの人が言ったんだからな」

『……今から私の家に来れる?』

「今から……か?」

『うん』

 たぶん作戦会議でもしたいのだろう。わかってはいるが、玲が俺を家に招くというシチュエーションがもうどきどきだった。

 俺はにべもなくOKし、通話を断った。とりあえずは駅に向かわなくては。

 玲の家には前に一度行ったことがあった。これで二度目だ。

 俺はそんな場合ではないとわかりつつも、若干スキップするような足取りで玲の家へと向かうのだった。

 

 

                       〇 

 

 

 桜木家の玄関先に立った時に、俺ははっとした。

 走って来たせいで、全身汗だくなのだ。……汗臭くはないだろうか。

 なんとなく不安になって、腕のあたりの匂いを嗅いでみる。が、わからなかった。

 どうしたものかと悩んで、ここまで来たなら仕方がないと腹をくくる。

 インターホンを押し、待つことしばし。

「はいはーい」

 玲の柔らかな声が聞こえてくる。続いて、がちゃりと玄関の扉が開く音。

「うわー……すごい汗」

「は、ははは……」

 玄関を開けた直後の玲は一瞬で驚きの表情へと変わった。

 それはそれで珍しいものを見れた気がしたので、なんだか得した気分だったのだが。

「まあとにかく上がって」

「お、おお……お邪魔します」

 俺は玲の招かれるままに、桜木家へと上がり込んだ。

 以前に来た時は、学校でのイメージとかけ離れた一般的な家に住んでいることに戸惑ったもの、二度目ともなるとそんな驚きの介在する余地はない。

 というか、今は別の案件があってそれどころではないというのが本当のところだ。

「……先にシャワー浴びてきたら?」

「いいのか?」

「そのままだと、気持ち悪いでしょ? その間に飲み物用意しておくよ」

「悪いな」

「ありがとう、でしょ、こういう時は」

「……ありがとう」

 俺が言うと、玲は満足げに二度ほど首を縦に振った。

 シャワーそっちだから、と玲に示された方へと足を向ける。と、確かに洗面所と脱衣所が一緒になった場所があった。

 ここで、毎日玲が衣服を脱いでいるのか……。

 そう思うと、なんだか感慨深いものがある。……気持ち悪いか?

 俺は玲の脱衣の様子を想像しそうになって、慌てて首を振った。

 せっかく好意でシャワーを使わせてもらうのだから、無心で使わないといけないだろう。

 俺はどきどきと高鳴る胸の鼓動をなんとか押さえつけ、制服を脱いだ。

 そして、浴室へと続く扉を開ける。

 扉は折りたたみ式になっていて、開けると中は白を基調としたタイル張りになっていた。

 なんとなくだが、イメージに合っていると思った。何の感想だ。

 俺はシャワーヘッドを掴み、ノズルを回した。最初は冷たい水が出ていたのに、段々と暖かなお湯に変わっていく。

 この瞬間は割と好きだった。たぶん俺だけじゃないだろうと思う。

「健斗、着替えここに置いておくから」

「お、おおう!」

 いきなり背後から声をかけられて、どきりとした。心臓が口から飛び出しそうだった。

 そりゃあそうだよな。シャワーをと言ったからには、当然着替えも用意するよな、普通。

 何せまたあの汗を吸い込んだ制服を着なくちゃならないんだから。それじゃあ意味がない。

「わ、悪いな……」

「ううん。その……将来的にはこういうこともしなくちゃならないだろうし」

 と言う玲の声音は上擦っていた。緊張、しているのだろうか。

 つーかなんだその発言は。まるで俺たちがけ、けけけ結婚する、みたいな言い方だな。

「そ、そそそそうだな」

 玲の緊張が伝染したのか、俺も声が上擦っていた。浴室だからか、よく響く。

 その後しばらく、玲が脱衣所でごそごそやっている音が聞こえていた。

 洗濯機の回る音。今、洗濯物と言えば俺の制服くらいしかないのだが。

「え? まさか俺の制服を洗って……」

 玲には聞こえないくらいの小声でそんなことを呟く。

 シャツにズボン。……それに下着まであったはずだ。

 俺の下着を……玲が洗う?

 なんだかすごく恥ずかしい。え? 何? そういうプレイ?

 俺は更にお湯の勢いを強くした。背後でごそごそやっている音が聞こえなくなるように。

 何をしているんだ、俺は。今日来たのは玲とそういうプレイをするためじゃあないだろう!

 俺は自分自身にそう言い聞かせ、パシンと頬を張る。そうすることで気合を入れようとした。

 しかし、気合が入ったのかと言えばよくわからない。なんだろう、妙な感じだ。

 とはいえ、いつまでもここでシャワーを浴びているわけにもいかない。

 俺はシャワーのお湯を止め、浴室を出た。ゴウンゴウンと洗濯機の回る音が聞こえる。

 そちらに目を向けると、やはりというか俺の制服が回っていた。

 そして、脱衣籠の中にスウェットが一式あった。ついでにバスタオル。

 これに着替えろ、ということなのだろう。

 俺はそのスウェット一式を手に取り、袖を通していく。

 地味な色合いだった。紺とも灰色ともつかないよくわからない色使い。そして俺には少しサイズが大きいようだ。ダボッとしていた。

 着替えを終え、リビングへと顔を出す。と、玲が何やらお茶らしきものをテーブルの上に置いているところだった。

「ああ、上がったんだ」

「ああ。服、ありがとな」

「ううん……えっと」

「? どうした、玲?」

 俺がスウェットの裾を引っ張りつつ言うと、玲は気恥ずかしそうに視線を逸らした。

 なんとなく顔が赤い気がする。どうしたというんだろうか。

「これ、親父さんのか? なんだか悪いことしたな」

 こんな時、出された着替えは大体兄または弟もしくは父親のものだと相場が決まっている。

 そして玲は一人っ子だから、必然的に可能性は一つに絞られる。

 このスウェットは親父さんのものだろうと勝手にあたりをつけていた。

「大丈夫だよ……だってそれ、私のだから」

「ぶふぅ!」

 思わず、口の中らから何かを吐き出してしまっていた。

 なんだって? これが玲の?

 俺は再び、自分がまとっている地味目のスウェットを見下ろした。

 確かに寝る時にそんなに派手な格好はしないだろう。だけれど、一体誰が考えるだろうか。

 彼女が……自分の寝間着を貸してくれる、なんて。

「だってこれ……玲にはかなりサイズが大きいんじゃないか?」

「だって……おっきい方が楽だから」

「見た目もだいぶ……その」

「それ着たら後は寝るだけだもん」

「あー……」

 それ以上の言葉を次ぐことはできなかった。

 ああ、そうか……これは玲の寝間着なんだ。

 俺は三度自分の着ているものを見下ろして、考えた。

 これが玲の……寝間着!

 ようやっとのことで脳が追いついた。……何に?

 そんな疑問を挟みつつ、俺は腕を持ち上げ、すぅーっと思い切り匂いを嗅いだ。

「ちょちょちょちょちょちょちょ! 健斗何やってるの!」

 玲が顔を真っ赤にして慌てて止めてくる。なんて可愛いんだ。

 そしてスウェットから漂ってくる甘い玲の香り……かぐわしい。

 俺は自分でどれほど変態チックなことをしているのかを自覚しつつ、それを行った。だから玲に嫌われても仕方がない。

 まあ玲なら顔を真っ赤にして怒ってはくるだろうが、許してくれないということはないだろうという確信があったからこそだが。

「うーうーうーううううー」

「ははははは、悪かったって……だからもうやめてくれ」

 ぽこすかと俺の腹を殴ってくる玲。運動が得意な玲だけあって、存外痛い。

 俺は玲をなだめつつ、少し距離を取った。

 これ以上殴られたら、吐血してしまうかもしれないからだ。

「……そんなことより」

「そんなことより! そんなことよりった言った!」

「今日、九条の家に行って来た」

 ガーンッ、とショックを露わにする玲を無視して、俺は本題に入った。

 俺のその言葉を聞くと、玲は途端に真剣そのものの面持ちになる。

「……どうだった、九条さん」

「元気そうだった。……少なくとも病気じゃなさそうだったぞ」

「そうなんだ……よかった」

 ほっと胸を撫で下ろす玲。確かに、病気じゃなかったのはよかった。朗報だ。

 けれど、もう一つ俺は玲に伝えなくてはならないことがあった。

「……九条のあの噂、本当らしい」

「あの噂……ってあの九条さんが転校しちゃうっていう」

「そうだ、それだ。その噂は本当だった」

「嘘……本当に……九条さんいなくなっちゃうの?」

 玲が不安げに瞳を揺らす。そりゃあそうだろう。玲にとってみれば、同じ趣味を共有できる唯一の友達と言っても過言ではないからな。

 俺もある程度はそういう話ができるようになったが、九条とは年季が違う。

 九条の存在は玲にとって大きなものだろう。なんとかしてやりたいところだが。

「俺がなんとかできるとも思えないんだよなぁ」

 俺はただの学生だ。一高校生に過ぎない。

 そんな俺が九条のために何をしてやれるだろう。皆目見当もつかない。

 九条邸を去る間際、燕さんが言っていたことを思い出す。

 ――お嬢様を救ってください。その言葉の真偽はわかりかねた。

 救う? 俺が九条を? 日本が誇る大財閥の一人娘を?

 一体どんな思い上がりや買い被りがあったら、そんなことが言えるのだろう。少なくとも、俺はそんなこと言えない。言えるはずがない。

 燕さんのできないことが、俺にできるとは思えなかった。

 どうしたら……と、悩んでいると、スッと俺の頬に柔らかな感触が生まれた。

 なんだろう、と意識が思考から現実へと引き戻される。当然、目の前には玲がいた。

 玲の手だった。俺の頬に触れていたのは。

「玲……何を?」

「一人で悩んだりしないで。九条さんのことは、私にとっても大切なことだから」

「……いや、俺は別にそんな……」

「ううん」

 俺が言い終わるより先に、玲が首を振ってくる。

 何が言いたいんだ? そう問おうとして、止めた。

 無意味だ。何もできない。

 俺は再び、心の中で燕さんの言葉を繰り返す。

 九条を救ってほしいと言った、あの人の言葉を。

「…………」

 けれども、俺に何かができるとは思えなかった。

 九条がどんな理由で転校するのかは知らない。けれど、それが決まったことなら俺に覆すことなんて……できるはずがなかった。

「……俺、今日九条に会って来たんだ」

「うん」

「あいつ、病気でも何でもなくて、ただのずる休みだった」

「うん」

「ずりーよな、それ」

「うん」

「でさ、何つーか、俺はあいつと話をしたんだ」

「うん」

「何を言えばいいのかわからなかった。俺はあいつに何も言ってやれなかった」

「うん」

「俺……どうしたらよかったんだろうな」

「……それは、私にもわからないかな」

 玲はにこりと微笑んで、俺から手を離した。

「だからさ、まあいろいろ思うところはあると思う」

「…………」

 玲は俺から離した手を胸元に持って行き、小さく頷いた。

「健斗がどうしたいか、どうしてほしいかを伝えるのが一番じゃないかな?」

「……玲って優等生のくせにたまに馬鹿みたいなこと言うよな」

「馬鹿は余計だし、健斗の方がうじうじしてて馬鹿みたいだよ?」

「うっせ、余計なお世話だ」

 言い合って、俺たちはどちらからともなく笑いあった。

 ひとしきり笑うと、スッと胸の奥に溜まっていた何かが吐き出されたような気持ちになった。

 体が軽くなって、ゆったりとした心地になる。

 玲のお陰だと思った。たぶん玲がいなかったら、俺はこのまま塞ぎ込んでしまうかもしれないから。

 だから……。

「悪かったな、玲。……サンキュ」

「ふふ……お安いご用だよ、これくらい。それに……」

 それに……ともう一度小さく吐息して、玲は言った。

「私も九条さんとこのままお別れなんて嫌だから。だから、何かするなら私もやるよ?」

「……ああ、頼んだぜ」

 まったく単純な我ながら単純な人間だと思う。さっきまであんなに落ち込んでいた気持ちが少し玲に励まされただけでこれほど回復しているのだから。

 情けない話だが、ほんと王に俺は玲なしでは生きていけない体になってしまっているのかもしれないな。

「……ははっ」

「健斗? どうしたの?」

「なんでもねぇ。……さて、じゃあどうするかな」

 九条が遠くへ行ってしまう。その事実を変えるのは難しいだろう。

 何せこちとらただの高校生だ。ただの未成年がどうにかできる問題ではないだろうな。

 とはいえ、何もしないのは違うだろう。今まで散々世話になってきているんだから。

 とすれば、一体何をしたらいいのだろうという話だ。

「私にいい考えがあるよ?」

「……いい考え?」

 パチン、と玲がウインクをする。そんな玲の姿を可愛いなと思いつつ、その反面で俺は嫌な予感を抱いていた。

 別に玲の能力や発想を疑っているわけじゃあない。

 それでも、いい考えがあると言われて嫌な予感しかしないのは……我ながらだいぶ毒されてきているな、とも思う今日この頃だった。

 

 

                                      続く。

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