第25話 桜木玲と隠蔽術
「……どうしよう、健斗」
「ど、どうしたんだ、玲……?」
誰もいない空き教室。締め切られたカーテンのせいで暗く湿っぽい場所。
ほこりとカビの匂いの充満するその場所で、玲は目の端に涙を溜めて俺を見上げていた。
「私……もうどうしたらいいか」
わっと顔を手で覆って泣き出す玲。俺の方こそどうしたらいいかわからずわたわたする。
「だ、大丈夫だ玲。そんなに泣くなって。俺がついてるだろ?」
「け、健斗ぉ……」
俺の言葉にか顔を上げた玲はさすがに本当に泣いてはいなかった。
それでも、本気で参っているらしく、その表情は疲れ切った人のそれだ。
いつでもにこにことしている玲らしくない。一体、何があったんだ?
「どうしたんだよ、玲? 俺にできることなら何でもやるぞ?」
「ほ、ほんとに……?」
「ああ、本当だ。だから話てみろよ。な?」
俺がなだめるように言うと、玲はうん、と一つ頷いた。
「え、ええと、あのね……」
玲の珍しく弱気な声に、どきどきと胸を高鳴らせつつ、俺は玲の話に耳を傾ける。
「今度、クラスメイトが私の家に来ることになっちゃって」
〇〇〇
それは、およそ数時間前に遡る。
まだ一時限目が始まる少し前。玲はいつものようにクラスメイトと談笑をしていたのだとか。
もちろん、自分がオタクだということは隠して、だ。
だからもちろんアニメやゲームの話題はそこにはなかった。誰それが可愛いだの好きな芸能人は誰かだの三年生の先輩がイケメンで優しいだの、そういう話題だ。
玲にとっては割合厳しい時間だっただろう。少しでも気を抜けばボロが出て、今まで築き上げてきたものが一気に崩壊しかねない。
それこそ、蟻の一穴さえ馬鹿にはできないのだ。
しかしそれはそれとして、クラスメイトとの会話を楽しめない玲ではない。
オタバレを留意しつつ、会話を進めていくことなど玲にとって造作もないことだ。
……が、その最中。まさしく蟻の一穴。いや、核弾頭のごとき発言が投下されたのだ。
すなわち――桜木さんのお家に遊びに行きたーい……だ。
無邪気かつ悪気なく放たれたその言葉に、玲の全身は凍りついただろう。
なぜなら玲の家にはそれこそアニメやゲームの類のコンテンツがわんさかあるのだから。
もういっそカミングアウトすればいいのにと思うのだが、それはそれ。玲にとっては大問題になるらしい。
本人が嫌がっているのなら、あまり無理にさせるものじゃあないと思う。
だからまあ、今までオタバレ防止のために俺もまあまあ協力してきたわけだけど。
今回ばかりは、どうしようもないなぁ。
「……断るしかねぇんじゃねぇか?」
前に一度、玲の家には行ったことがある。そして俺は玲の本性を知った。
あれを隠すには、数日がかりだろう。まして、普段は学校もあるから片す時間もない。
「せ、せっかく遊びに来たいって言ってくれてるのに……それはちょっと」
「そ、そうか……って言ってもなぁ」
以前に九条が玲の家の庭に地下室を作っていたような記憶があるが、まあこの様子だとあそこにも既に置き場所なんてないんだろう。
それこそ、ゲームやアニメなんて毎年多くの作品が作られる。それらを全部とは言わずとも集めていたら、あっと言う間に物の置き場がなくなってしまうだろう。
では、それを解消するためにはどうしたらいいか。
一つの方法として、売却という手がある。中古店に持って行って売ってしまうのだ。
これなら、置き場所に困らない上にもしかすると他の人に遊んでもらえるかもしれない。
それにうまくすると、それこそ数千円の大金が手に入るだろう。
けれど、玲はそれをあまりやりたがらなかった。なぜだろう?
俺は今だにその理由を知らない。まあたぶん、知ったところで理解できないだろうけど。
それはそれとして、目の前の問題に注視しなくては。
「何かいい方法があればいいんだけど……どうしたものか」
「ど、どうしたらいいの、健斗」
「と言ったってなぁ……」
以前に玲の家に遊びに行った時よりも物の数が増えているのだとしたら、どうしようもない。
ここは大人しく見つかってオタバレするより他にないだろう。
もしくは、やはり家に遊びに来ること自体をことわかるか、だ。
しかしとはいえ。
俺はちらりと玲を盗み見た。玲は玲で相当真剣に悩んでいるらしく、うんうんと深く眉間に皺を寄せて唸っている。
ここまで頭を悩ませる玲というもの珍しいし、何より貴重だ。
それほどまでに、玲にとって大切なイベント、ということだ。
なら、断るという選択肢は俺が言い出すまでそもそもなかったのだろう。
だというのにここで重ねて断ろう、なんて言うのは血も涙もない奴過ぎる。
「だったら……そうだ、別の奴の家をおまえの家だということにして」
「えっ……それってつまりせっかく遊びに来てくれるって言ってるのに、騙すってこと?」
「うっ……それは」
玲の売るんだような瞳が俺を射抜く。
ええ……いいじゃん別に。だって他に方法が思いつかなかったんだから。
「いや、今のは例えばだ。ええとだなぁ……ちょっと待てよ」
代替案を立てるべく頭を回転させる俺。
何だろう。他に何ができる? また九条に頼んで収納スペースを作ってもらう、とか?
いいやだめだ。それだと根本的な解決にはなっていない気がする。
一度だけならまだしも、これから二度、三度とあるかもしれない。なら、もっとこう根本的な解決が必要だろう。
そしてこの場合、根本的な解決とは何か。
それはやはり、玲の家のゲーム類を失くしてしまうこと。つまり、売却という結論にたどり着くのだが……。
「…………」
「…………どうしよう」
うんうんと頭を悩ませる玲を横目に、俺は天井を見上げた。
このままここにいて、果たしていい案が浮かび上がるのだろうか。
「……なぁ玲」
「? ええと、何、健斗?」
「とりあえず今日は帰ろう。ここでこのまま頭を悩ませていたところでいい案なんて出ない」
「……そう、だね」
俺のその場しのぎの提案に納得したというわけでもないだろうが、玲はこくんと頷いた。
それでは帰ろうと俺たちは歩き出す。歩きながらも、考える。
どうしたら今度の事態をいい方向に持っていくことができるだろう。
「あっ……そうだ」
「どうしたの、健斗?」
「玲の家じゃなくて俺の家に招待したらどうだろう?」
「健斗の家に? えーと、でも……」
「大丈夫だって。妹には言っとくから」
最初から俺の家に招待する、ということだったら、相手を騙すことにはならないだろう。
これで、玲の懸念も多少は晴れるはずだ。
はず……なんだけど、玲はなぜか浮かない顔だった。どことなく不機嫌そうだ。
「ど、どうしたんだ、玲?」
「ううん、なんでもないよ。健斗が私のためにいろいろ考えてくれたのはわかってるから」
「だ、だったら何でそんなに膨れてるんだよ?」
「膨れてなんかないもん。別に私以外の女の子が健斗の家に遊びに行ったことなんて今までにもあったことだし」
「え? 女の子……?」
「そっ。女の子だよ」
「女の子……」
考えてみれば、そりゃあそうだ。
いくら学生身分とはいえ、男子が軽々に女子の家に遊びに行くなんて言えるはずがないではないか。つまり遊びに行くと言い出したのは女子だ。
クラスメイトの女子が我が家に来る。そうと想像しただけで、何だかどきどきしてきたぞ。
「何? 健斗ってもしかしていやらしい想像とかしてる?」
「し、してないしてない! いやらしい想像なんて断じてしてないから!」
な、なんで突然そんなことを言うんだ、玲。もしかして鼻の下伸びたりしてる?
俺は自分の口元を鼻まで手で覆った。左手をワタワタと振る。
「つ、つーか女子なんだ」
「当たり前だよ。いくら何でも男子を家に招いたりしないって」
「俺はちょくちょく行ってるけど」
「健斗はいいの。特別」
特別……特別……特別……。手で覆っている口元が思わず緩んでしまいそうな響きだった。
俺はその言葉を噛み締めつつ、俺は更に思案を巡らせた。
「とはいえ、俺の家に……じゃそいつらは納得しないよな」
「……健斗もそう思う」
「ああ……」
何せ玲は学校では『深層の令嬢』なんて影で呼ばれてるくらいだ。本人は既にその呼び名のことを知っているので影でと言っていいのかはわからないけど。
「さてどうしたものかな」
相手が『深層の令嬢』の玲の家に行きたいと思っているのなら、俺の家に来たところで納得なんてしないだろう。あの妹を見たらきっと、文句を言うに違いない。
俺は目の下にくまを作った本当に中学生なのかどうかも怪しいちびっ子の姿を思い浮かべて舌打ちする。
あいつさえいなければ、とは思わない。どうせいなかったところで結果は同じだろうから。
されど、いることで事態が悪化するという展開は十分に有り得た。
だからまあ、どちらかと言えばいない方がいい。
俺は自分の中でそんな結論を出し、けれどもそっと仕舞い込んだ。
俺のこの願いが現実になることなんてこの先絶対にないだろうから、まあ口にするだけ無駄だな。
そんなことより今は玲の問題だ。俺は頭を振って考えを切り替える。
いつの間にか脱線していたが、ちゃんと考えないと。玲は今泣いているんだ。泣いてないけど。
「……そうだ、こういうのはどうだ?」
「? 何、健斗?」
玲の弱々しい視線が俺を捉える。その不可思議な魅力に、俺は思わず「うっ」と唸ってしまった。なんだよまじで。可愛いなぁちくしょう!
「えっと、だな。九条の家に招待するっていうのはどうだ?」
「九条さん? 言ってることと発想が全然進歩してないよ、健斗」
おおっとぉ? なんだか急に辛辣になった気がするぞ?
「いやいや待て待て。話は最後まで聞くもんだ。そうだろ?」
「うっ……それは、私が悪かったかも」
「だろう?」
たしなめると、玲は思いの他簡単に引き下がってくれた。
「九条の家を玲の家ということにして招待するんだ。そうしたら、そいつらだってイメージ通りの玲の家へ招かれたと思うだろうから」
「な、なるほど……それは名案……なのかな?」
くりっと小首を傾げる玲。俺だって名案かどうかは知らない。
けれど、少なくとも悪いことではないはずだ。相手のことを想っての嘘というのは。
この場合相手とはクラスメイトのことで、やろうとしている行為は嘘の上塗り以外のなんでもないわけだけど。
「……じゃあ、ちょっと明日九条さんに相談してみよう……かな」
「そうだな。俺も一緒に頼んでやるよ。一人より二人の方がいいだろ」
「ありがと。お願いするよ」
ニコッと嬉しそうに目を細める玲。肩の荷が下りたというにはいささか以上にあれだけど、まあ多少は気が楽になったんだろうな。
俺はそんな玲の様子を見ながら、とりあえず明日の予定を頭の片隅にメモする。
予定……と言ったところで、普段通りに授業を受けて、変わったことと言えば九条に今日のことを頼むくらいだけど。
それだっておそらく、生中なことじゃないはずだ。
何せ九条もオタバレを嫌っている。まああいつの場合は家柄とかも関係しているから、玲見たいに簡単にバレてもいいじゃないか的な発言はできないけど。
それにしても、と俺は玲の横顔から視線を切った。
そのまま、玲の手をそっと握る。
「え? ええと、どうしたの、健斗?」
「別に……なんでもねぇ」
ポッと頬が赤くなる玲。わずか声を上擦らせて、驚いたように俺を振り返る。
けれどもそれもすぐに終わった。玲の視線が切られるのは少し寂しい気もしたけれど、握り返された手の感触と熱が伝わってきてすぐにどうでもよくなった。
それにしても、俺の周りには面倒な奴らが多いよな。
誰とは言わないけれど。俺は心の中で独り言ちて肩を揺らした。
それが伝わったらしく、玲から「どうしたの?」と問われるが、そこは笑顔ではぐらかしておく。
そんなことより明日のこと、だ。
俺は玲と手を繋いで歩きながら、明日のことを考えた。
それだけで、なんとなく明日が待ち遠しくなるのだから、我ながら単純な人生だ。
〇〇〇
「もちろん、無問題、ですわ!」
翌日、九条に昨日のことを相談すると、二つ返事でOKが返ってきた。
まあおおよそ予想はできたことである。こいつが何の理由もなく他人の頼みを断る姿をこれまでに見たこともない。
だから今度のことを持ちかけた時も、九割方勝算があった。
もしだめと言われたなら、その時は潔く他の方法を考えるだけだ。
「まじか。悪いな、九条」
「ありがとう、九条さん」
「いやですわ。わたくしと桜木さんの中ではありませんの」
九条は照れたように視線を逸らし、顔を赤くしていた。
意気揚々と張っていた胸が次第に萎んでいき、なんとなく猫背気味になる。
やめとけって。おまえ、スタイルいいのにそんな体勢でいるの。
心中でそう忠告しておく。口に出すと玲がどんな顔をするのか簡単に想像できるので、ここは言わないでおく。
「それでは、さっそく燕に掛け合ってみますわ」
「燕……さんって言ったらおまえんとこの執事だっけ?」
「ええ、ええ。その通りですわ。若いのにとても優秀ですの」
「へー」
たぶんあっちの方が年上だよな? なんてことを考えたけれど、これもまた心の内にそっとしまっておく。余計なことは言うもんじゃない。
口は災いの元と言うしな。
俺と玲はスマホを取り出してどこぞへ連絡を入れる九条の姿を黙って見ていた。
どこぞ……とは言っても宣言通り九条の執事のところだろうけれど。
「もしもし、燕? ええ、ええ。わたくしですわ。実は折り入って少しお願いがあるのですけれど……そうですわ。家屋を一件、用意していただきたいのです。条件は……そうですわね。二階建ての3LDKほどでよろしいですわ。桜木さんが困っていらっしゃったので……ええ。わかりましたわ。では、よろしくお願いしますわね」
二分とかからず、話はまとまったらしい。
九条は通話を断つと、それをしまい込みつつ俺たちへと視線を向ける。
「OKですわ。燕が適当な物件を見繕ってくれるらしいですわよ」
「ありがとう、九条さん。あの……でも3LDKって聞こえたんだけど?」
「本当はもっといいお家を探して差し上げたいのですけれど、あいにくと時間がありませんの」
「いや、十分だよ。……というより……ううん、なんでもない!」
これ以上はせっかく骨を折ってくれた九条に対して逆に失礼だと思ったのか、玲は言いかけた言葉を飲み込み、わたわたと手を振った。
「本当にありがとう、九条さん。いつかお礼するね」
「いいですわよ、お礼なんて。お友達が困っているのなら、力になるのは当然のことですから」
おーほっほっほ、と九条がどこの悪徳高利貸しかと思われるほどの高笑いをする。
骨を折っているのはおまえじゃなくて燕さんだろ、と思ったけれども、ぐっと飲み込んだ。
口は災いの元だ。余計なことは言わないに限る。
俺はきゃっきゃとかしましく騒ぐ女子二人を眺め、ふとそんなことを思った。
それにしても、大変だなぁ九条の家の人も。
俺は何人かいる九条家の使用人の顔を思い浮かべ、二人に気付かれないように嘆息した。
まああの人たちは仕事であるということ以上に、九条個人を慕っている節があるから別にいいか。
そうこうしているうちに、昼休みはすぐになくなった。
俺と九条は同じ教室だ。そして玲だけが別の教室。
俺たちはそれぞれの教室前で別れて、その日の午後の授業を消化することとした。
さて、問題はこの後だ。玲の家に行きたいと言い出した女子二人の問題。
それをどう解決するか……だ。
〇〇〇
そして当日。なぜか俺も招待される運びとなった。
「初めましてって言うと変だけど、あんまり話したことないから初めましてでいいよね?」
俺は九条が玲の家だと偽るために借りてくれた一軒家の前で、その女子と対面していた。
「あ、ああ……そうだな」
彼女は大きな瞳を楽しそうに揺らすと、すっと一歩身を寄せて来た。
「私は荒幅木まい。よろしくー」
彼女……荒幅木は緩く敬礼すると、ぱちっと片目を閉じて溌溂とそう言ってくる。
栗色の髪を肩口で切りそろえたショートボブのヘアスタイルは、荒幅木のスレンダーなスタイルによく生えていた。
着やせするタイプなのか、体の凹凸についてはあまり起伏が激しくない。だからといってその魅力が減退する、というようなことはないはずなのだが……。
いかんせん玲が身近にいるからだろうか。普通の男子からしても荒幅木は十分に可愛いと思う。
しかし全くと言っていいほど俺は彼女に惹かれる、ということはなかった。まあ相手も同じだろうからその辺は気がねしなくていいだろう。
そしてもう一人。荒幅木とは対照的な女子がいた。
「え、えと……桃木唯です。今日はお招きありがとうございます」
俺が招いたわけでもないのに律儀に頭を下げる桃木。
たぶん、礼儀正しい奴なのだろう。
俺は桃木に視線を移す。荒幅木がちょこまかとした小動物的なタイプなのだとしたら、桃木はどっしりとした感じだった。
とはいえ、それは別段彼女が恰幅の体格をしている、ということではない。
荒幅木の身長はおそらくせいぜい百六十センチ届くかくらいだろう。
対して、桃木は荒幅木より頭一つ分大きい。高身長美人だ。
こちらも肩口で切り揃えられたストレートボブ。しかし、荒幅木のそれとは違い落ち着いた雰囲気がある。黒髪だからだろうか?
それに、荒幅木よりも体の凹凸ははっきりしていた。……さっきから何見てんだ、俺。
俺はこちらこそ、と頭を下げた。このまま相手にだけ挨拶をさせるのもなんだと思ったのだ。
「えっと、俺は……」
「知ってるよ、玲ちゃんの彼氏くんでしょ?」
「……まあ」
玲ちゃんって……。玲にだってクラスメイトで仲のいい奴くらいいるだだろう。
実態を知っているか否かは別として。
「それで、どうして彼氏くんがここに?」
「どうしてって……玲に呼び出されて」
「えー! 聞いた聞いたー? 玲だってー!」
荒幅木が素早く桃木のところへ行き、俺の言ったことを丸ごと無視して色めき立つ。
何だ……玲って言ったことがそんなに珍しいか?
「まいちゃん落ち着いて。本当に付き合ってるんだ、二人は」
「え? ええと、まあ……な?」
改めてそんなことを訊かれると照れるな。
面と向かって問われて照れる俺を見て、荒幅木が更にきゃーっと一人で騒ぎ出す。それを桃木がまあまあとなだめていた。
「え? じゃあもう手は繋いだの? キスは? まさかその先まで行っちゃったり……!」
きゃあきゃあと一人で盛り上がり始める荒幅木。桃木は言うと、慣れたものなのか、気に舌素振りもない。
気にしないで、と手振りで示してくる。気にするなって言われても困るが。
「桜木さんってあんな感じだから、君みたいな人と付き合ってるって意外なんだよ」
申し訳なさそうに桃木が補足する。
意外……なのか、やっぱり。
桃木の言う玲の『あんな感じ』とは十中八九ネコを被っている時の例だ。
つまりそれは『深層の令嬢』と謳われている、成績優秀スポーツ万能な美少女的な玲であり、俺や九条その他数人が知っているような九条ではないということだ。
思えば、俺は玲の教室でのことをあまり知らない。普段はあまり気にならないけれど、こうして玲と同じクラスの奴と一緒にいると思うと途端に気になるものだ。
「えっと……玲って教室ではどんな感じなんだ?」
「どんなって……素敵な人だよ。最初はそりゃあ近寄りがたかったけど、話して見たら気さくで優しいし。意外に冗談とか言える人だったし」
俺の問いを受けて、荒幅木がうんうんと頷きながら答えてくれる。
へー、そうなのか。俺は玲の意外な一面を知れたような気になって、少し嬉しかった。
「後はねぇ……」
にたり……、と荒幅木が悪い顔になった。何を言うつもりなんだと喉を鳴らす俺。
れ、玲の可愛いエピソードが聞けるのか? そんな期待に胸を膨らませる。
いや、膨らませていた……のだけれど。
「あたっ」
「こーら、だめだよ、本人がいないところで勝手にそんなこと話したら」
桃木から頭を軽く小突かれて、荒幅木が不満そうに振り返る。
「いいじゃん。彼氏くんなんだし」
「だめだよ。いくら彼氏だからってそんなことしちゃ。君も、彼氏だからってなんでもかんでも聞いていいってもんじゃないんだから」
「お、おう……」
俺までたしなめられるのか。
それこそ意外な展開に、俺は戸惑いを隠せなかった。
とはいえ、桃木の言い分はもっともだ。いくら彼氏だからって本人のいないところで本人以外からそういう話を聞くのはよくない。プライバシーの観点から。
けれども、気になってしまうのが人情って奴で……。
「それで?」
「……にしし、そう来なくっちゃ」
俺は荒幅木に顔を近づけて、小声でもう一度聞いてみた。
荒幅木は俺の質問に対してなのか行動に対してなのかわからなかったが、嬉しそうに同じようにして顔を近づけてくる。
俺たちの行動をもしかすると桃木は咎めるかもしれないと思ったが、意外にもそんなことはなかった。たぶん、あきれられているんだろう。
それならそれでいい。玲のことを一つでも多く知る機会だ。
「えーとねぇ」
と、荒幅木が言葉を次ごうとした、まさにその時だった。
ピンポーン、というインターホンの音。それに続いて、パタパタとスリッパを鳴らす音が聞こえてくる。
ま、まずい……!
俺は慌てて荒幅木から顔を離した。その際、荒幅木が残念そうな声を出したのは気にしないことにする。
「はーい」
そして玲の声。冷や汗がどっと出てきた。
さて目的はどうあれ、俺と荒幅木の距離はかなり近かった。
あれを見て、果たして玲はどう思うだろう。簡単だ。嫉妬するに決まっている。
それも結構な怖さで。
俺はサッと桃木を見やった。けれど、桃木はどこ吹く風とばかりに視線を逸らしている。
こいつ……! 確信犯だな!
「今開けますよーっと」
声がしたかと思うと、次の瞬間にはがちゃりとドアを開けて玲が顔を出す。
玲と目が合った。別にやましいことはないのだが、なんとなく俺の顔はがひきつってしまう。
それでも、玲は俺の顔を見るやぱぁっと表情を綻ばせた。
それがまた、なんとも言えず俺の胸をちくりと突き刺してくる。
「健斗、いらっしゃい!」
と、玲がいつもより少しだけ高い声を出す。
……が、すぐに視線は俺から隣に立つ二人へと向けられる。
「……ええと、いらっしゃい。今日は来てくれてありがとう」
「いえいえ、こちらこそお招きいただきまして、ありがとう」
「いえーい、おはよう、桜木さん!」
玲と桃木が深々と頭を下げ、挨拶を交わす横で荒幅木が空気の読めなさ全開でピースをする。
玲はと言えば、完全に『深層の令嬢』モードだ。これでは、今日はいちゃいちゃは望めないだろう。
後、荒幅木はもう少し落ち着いたらどうだろうか。
「どうぞ、上がってください」
「それでは、お邪魔します」
「お邪魔しまーす」
桃木と荒幅木が桜木家(借)へと足を踏み入れる。その後ろから、俺も三人の後を追った。
外装の割に、中はかなり奇麗だった。
豪華絢爛、と言うにはいささか以上に物足りない感じがするが、庶民宅としてはまずまずといったところだろう。シャンデリアとかないあたり、燕さんの采配だろうか。
幅の広い廊下を行って、リビングへと向かう。その間、洗面所やらトイレやらキッチンやらを見せてもらったのだが、そのどれもが奇麗に片づいていて、生活感がなかった。
まあ当然と言えば当然だろう。生活していないのだから、ここでは。
通されたリビングのソファに座り、二人はその柔らかさにおおう、と声を出した。
「何これ! すっごいふかふか!」
「何と言ったらいいか……すごいとしか言えないね」
きゃーきゃーと喚き合う二人。そんな二人を微笑ましそうに見ていた玲は、すぐにすっと立ち上がった。
「今、お茶淹れるね」
「あ、お構いなくー」
「ありがとう」
荒幅木がひらひらと手を振る横で、桃木はからからと笑っていた。
なんだか対照的……とまでは言わないが、噛み合わない二人だ。
「ねえねえ、彼氏くん!」
玲がお茶を淹れにキッチンへ引っ込んでいったその時だった。
荒幅木がぐいっとソファから身を乗り出してくる。桃木が邪魔くさそうにしていたが気にした素振りはない。
「彼氏くんはやっぱり、桜木さんのことが好きなんだよね?」
「え? あ、ああ……まあ、な」
確かに、玲のことは好きだ。大好きだ。玲のことなら何でも知りたいし、新しい発見があると嬉しくなる。
けれど、そうはっきりと改めて言われると照れるなぁ……。
「桜木さんって、どんな人?」
「どんなって……ええと」
「ごめんなさい、この子この通りぐいぐいくる子で」
桃木の言う通り、ぐいぐいくる荒幅木を諭すように、桃木がその頭を押さえつける。
何もそこまでしなくても。
とはいえ、どんな人と訊かれても困る。
おそらく、俺の知っている玲と二人の知っている玲にはギャップがある。そしてそのギャップは玲自身が作り出したものだ。なおかつ、本人はそれをそのままにしておくことを望んでいる。
なら、俺が勝手にぶっ壊すようなことを言うわけにはいかない。
俺はどうしたものかと頭を捻る。と、桃木が慌てたように手を振ってくる。
「べ、別にそんなに悩まなくても大丈夫だから」
「悩んではないが……難しいなぁと思って」
「それを悩んでるって言うんだよ」
荒幅木が他人を馬鹿にしたように発言をしたので、桃木がそれをたしなめる。
「私たちは別に桜木さんの秘密を暴こうっていうんじゃないの。ただ、彼女の本当の姿が知りたいだけで」
「本当の姿……」
「そうそう。だって桜木さんって学校だとなんて言うか……変なんだもん」
変……と、俺はその言葉を繰り返した。
たぶん、二人は気づいている。二人だけではない。どれくらいの奴が気づいているかわからないが、玲が分厚い仮面をかぶっていることに。
「まあ詳しいことは言えないけど、俺から見た玲はすごく可愛いと思う」
「それはまあそうだろうねぇ。彼氏くんは可愛いって言ってくれなきゃ」
「……まあ、そうだな」
だけれど、それだけではないことも二人にはわかっている。
「なんていうか……何でもこなせる癖に不器用なところがあるっていうかさ」
「んー? ん? あんまりそんな感じはしないぁ、わたしは」
荒幅木が意外といった様子で、瞳をぱちくりさせる。
「桜木さんってなんでもそつなくこなしちゃうし、可愛いし。性格だって女の私から見ても全然いいし。非の打ちどころがないってああいう人のいうことを言うんだろうなぁって思う」
「……ま、その点に関しては否定しないけどな」
桃木の言う通り、玲は何だってこなす。勉強にしろ家事にしろ運動にしろ。大抵のことは平均よりも多少上だ。
でもそれは玲のほんの一面でしかない。きっと荒幅木たちも玲のことを知るほどに、玲のことを好きになって行ってくれるだろう。
この二人はそういう奴らだ。俺はそう確信する。
だけれども、玲はきっとそうは思わない。あいつはたぶん、自分の秘密を知られることを恐れるだろう。
恐れる……ああ、なんだかそんな言葉がしっくりくるな、本当に。
「何の話をしているの?」
そんな話をしていると、玲がお盆の上にお茶を四人分乗せて戻って来た。
時間がかかったな。慣れない家だからどこに何があるのかわからなかったのか?
「なんでもないよ。気にしないで」
にへへ、と荒幅木が笑う。本当は追及したいところなのだろうが、今の玲にそんなことができるはずもない。
玲は「そうですか」とだけ言って、お盆を俺たちの前のテーブルに置いた。
これは後でしこたま怒られるパターンだな。俺が。
「それで……ごめんなさい。私の家、何も遊べそうなものがなくって」
「いいって。それより、二人のことを聞かせてよ」
「二人のって……俺たちの?」
「そうそう」
こくこくと頷く荒幅木。その横で桃木も笑っていた。
荒幅木を止めないあたり、桃木もそのへんの話を聞きたと思っているということだろうか。
参ったな、こりゃあ。
「えっと……だめ、かな?」
「うっ……」
潤んだ瞳で俺を見上げてくる荒幅木。
どうしたものかと玲を見やると、玲も俺を見ていた。
困ったような顔で。
「……ええと、いいか?」
「えっ……私は、その……まあいい、けど」
「あ、ああ……じゃあ」
確認を取ると、玲も気恥ずかしそうに顔を俯かせる。
そんな反応を見ると、俺だって恥ずかしくなる。かーっと体の体温が上がるのがわかった。
「……じゃ、じゃあ質問形式ってことで。何か聞きたいことはあるか?」
「はいはーい。わたしある!」
勢いよく挙手したのは、荒幅木だった。彼女は半ば身を乗り出すようにして、手には架空のマイクすら握っていた。
「お二人は一体全体、どちらから告白したのですか?」
「ごっふ!」
思わず飲んでもいないお茶を吹き出しそうになった。
一番最初から飛ばしてきたな、こいつ。
どちらから……と言われれば、それは玲からだけれど。
「ええと……わ、私から、ということになりますね……一応」
「ふむふむ。では第二門。お二人はお互いのどんなところが好きですか? はい彼氏くんから」
「お、俺から……ええと、そうだな」
俺はちらりと横に座る玲を見やった。
玲の好きなところなんて山のようにある。顔やスタイルもそうだし、色んなことができうるところなんて素直にすげーと思う。好きなものに対して素直な部分も好きだ。
けれど、一番は……一番、は。
「俺が玲の一番好きなところは……なんだかんだと言ってもやっぱ俺のことを好きだって言ってくれたところ……かな?」
「おおー! なるほどなるほど。やはり好きだと言われたら好きになるものなのですね!」
「あー……まあな」
頭の中が茹だってきた。段々と思考力が鈍ってくる。
ああもう、こうなりゃやけだ。
「それで、桜木さんは?」
「わ、私! 私は……その……」
ちらちらと俺を見てくる玲。
今までそんな話をしたことなんてほとんどなかったし、本人を前にすると気恥ずかしいのだろう。俺ってそうだ。
それでも俺は言ったのだから玲。おまえも言わないと不公平だぞ。
逃げられる空間ではないと悟ったのか、玲がすぅーっと大きく息を吸った。
「私は……なんというか、健斗の優しいところに……が、好きになって」
「うんうん……それでそれで?」
「それで……健斗はかっこよくて……でもときどきおちゃめっていうか可愛くて」
「ほうほう」
「えっと……だから……なんと言ったらいいかわからないけれど」
「それからそれから?」
「だから、私は健斗が……大好き!」
玲が両目をぎゅっと瞑り、ひときわ声を張り上げる。
その瞬間、荒幅木がぱぁっと顔を輝かせた。その隣で桃木も嬉しいんだか恥ずかしいんだかよくわからない顔をしていた。
そして俺は……玲の心からの言葉を聞いて、赤面するより他になかった。
もう確実に顔真っ赤だよこれ。体中熱いもん。
この場から走って逃げだしたい気持ちをどうにか押さえつけ、俺はぷるぷると震える指先で玲が淹れてくれたお茶のカップを手に取った。
口に持って行く間、こぼれないようにするのが大変だった。
お茶を口に含み、からからに乾いた喉を湿らせる。カップを戻す際にも、こぼさないよう気をつけなければならなかった。
「きゃーきゃー! やったぁ! ぐへへへへへへへへ!」
荒幅木が気味の悪い笑い声を出している。
けれども今の俺たちにこの小悪魔をどうにかするだけの気力は残っていなかった。
もう、自分たちの自己修復で忙しいんだ。少し黙っててほしいくらいだ。
「じゃあじゃあ、次の質問なんだけどー」
「ま、待った。待ってくれ荒幅木」
「えぇー? なんでぇー?」
俺が待ったをかけると、荒幅木が露骨に不満そうな顔をする。
なんでぇーっておまえ……今の俺たちの状態を見てもまだ記者会見ごっこを続けるつもりか。
「……ええと、二人は玲と遊びに来たんだよな?」
「え? まあそうだね」
「だ、だったら俺はもう帰っていいよな?」
「は? だめに決まってるじゃん?」
何をわかり切ったことを訊いているんだ、とでも言いたげに、荒幅木が首を傾げる。
まあだろうな。わかっていたよ。
俺は諦め半分に頷いた。どの道玲一人をこの二人の前に残して帰るつもりなんてなかったけれど。
それでもここで帰っていいよ、と言われたなら、俺はどんな行動に出ただろう。
素直に帰っただろうか。そして後日、拗ねた玲のポコポコと叩かれるんだ。
ああ、それはそれで悪くないかもしれない。
俺がそんな想像を膨らませている横で、玲が二人に質問を返していた。
「ええと、二人は好きな人とかいないの?」
「私は……まあいない、かな?」
「わたしはねぇ、いるよ?」
バッと、俺たち全員の視線が荒幅木に集まる。
たぶん玲としては、ただの話題転換、話を逸らすだけのつもりだったのだろう。
けれど、意外なところに話のタネが転がっていた。これを活用しない手はない。
俺と玲は頷き合って、先を促した。
すると、荒幅木は俺たちに質問していた時は打って変わって気恥ずかしそうにはぐらかし始める。それはずるいぞ。
「……えっと、どんな人?」
俺と玲がどうにかしてその人の情報を聞き出そうと躍起になっていた時、それまで黙って俺たちの会話に耳を傾けていた桃木が不意に訊ねた。
その声はそれまでの俺たちの声とは違っていて、ひどく静かだった。
何か……不穏な勘ぐりをしてしまいそうになるほどに。
「ええー? 唯まで気になるの? しょうがないなぁ」
荒幅木はやれやれといった様子で肩を竦める。
それからやや間があってから、彼女は頬を掻きながら口を開いた。
「三年生の先輩……バスケ部のエースで、イケメン……とは言わないけれど、まあ可愛い感じの顔の人。性格は……まだよくわかんない」
「よくわかんないって……それでよく好きなんて言えるね!」
「はは、まあそこの彼氏くんと同じだよ。好きですって言われたらなんだか気になっちゃうじゃん? そんな感じ」
「そんな感じって何!」
ダンッと。桃木が握りこぶしでテーブルを叩いた。
「え? どうしたの、唯?」
「……どうもしてないから。ただ……なんとなく?」
「なんとなくでそんな脅さないで! こっちが怖くなったちゃうから!」
「お、脅してるつもりはないんだけど……」
桃木がバツの悪そうに居住まいを正した。それを見て、荒幅木がほっと吐息する。
「ええと……二人は親友……なんですよね?」
空気が変わったと見て取ったのか、玲がひきつった笑顔で露骨な話題転換を試みる。
それに反対する人間がこの場にいるはずもなく、二人ともその話題転換に快く応じてくれた。
「ああ。そうだよ。ええと、それくらい一緒にいるんだったか……」
「小学校からだからもうかれこれ七、八年くらいになるよ」
「ええー、そんなになるの、もう? 信じられない」
荒幅木が驚いたといった様子で口元に手を当てている。
「へー、ということは二人とも幼馴染なんだな」
「幼馴染……そうだね。幼馴染だよ、わたしと唯は!」
ガッシと荒幅木が桃木の肩を掴んだ。桃木は若干顔が赤くなった気がしたのだけれど、どうしたのだろうか?
「家も近所だったし。二人とも苗字に木が入ってるから、すぐに仲良くなったんだ」
「木が入ってたからって……変な理由で仲良くなるんだな」
「子供の頃なんてそんなものでしょ?」
変な理由で仲良くなる……子供の頃なんて、本当にそんなものかもしれない。
俺は自分が小学生の頃のことを思い出そうとして……止めた。全てにおいて薄らぼんやりとしていて、よく思い出せなかったからだ。
「とは言っても、今までずっと仲が良かったわけじゃあないけれど」
「そうなんですか? てっきりずっと親友だと思っていたのですけれど」
「そうだよ。けんかなんてしょっちゅうだったし、絶交だ! って言ったことだってあったし」
「大抵の場合はすぐにけろっと仲直りできてたんだけど」
「そうそう。どっちから先に謝ったわけでもないのに、次の日になったらね」
二人の口調は懐かしい思い出を語るそれで、事実その通りなのだろう。
何せ二人は昔からの親友で、ずっと同じ時間を共有してきたのだから。
付き合ってたかだか数ヶ月の俺と玲とはわけが違う。
そう思うと、なんとなく悔しい気持ちになるものだ。変な話だけれど。
「そうだ。二人はどう? けんかとかするの?」
「けんか……まあ多少は」
「あれをけんかって言っていいかはわからないけどな」
玲とのけんかといえば、ゲーム中の小競り合いやら意見の対立やらが多い。
往々にしてあらゆる面において劣っている俺が折れる形で決着をするのが常なのだが、果たしてあれは本当にけんかと言っていいものなのだろうか。俺にはよくわからなかった。
「なんかこう……小さな衝突? みたいなものはありますよね」
「ああ。その程度ならな」
「へー、二人でもけんかするんだ。でもどうせ彼氏くんの方から吹っかけてるんでしょ?」
「いやー、はははははははは」
実際は真逆だけれど。しかしそれを言うわけにはいかない。
それを言ってしまえば、二人の興味は玲へと向かうだろう。おそらく、教室では温厚な性格で通っている玲が怒る姿なんて想像できないだろうし。
「だめだよ。桜木さんはこんなに可愛いんだから。あんまり困らせちゃあ」
「わかってるって。玲が可愛いってことくらいは」
「ちょっ……健斗!」
「なにおう!」
「まい、落ち着いて」
俺と荒幅木が立ち上がり、お互いの胸倉を掴まんとする勢いで語気を荒げる。
まあ実際俺がやったらセクハラだなんだと言われるだろうから、俺はやらないけど。
「……ふっ、今日はこのくらいにしておいてあげるよ」
「それはこっちのせりふだ」
お互いに毒を吐きつつ、どっかとソファに腰を下ろす。
それからはっと我に返った。かーっと全身が熱くなる。
うう……恥ずかしい。
「わ、悪い……変なものを見せたな」
「んーん。むしろいいものが見れたよ」
という荒幅木の言葉に偽りはないのだろう。にこにこと嬉しそうに笑っていた。
それが、俺たちの羞恥心にさらなる拍車をかけることになるとも思わずに。
「さてと……それじゃあそろそろ」
「ん? どうしたの、まい? 帰るの?」
「まっさかぁ。まだ帰らないよ」
「だったら……えっと……お手洗い?」
桃木がちらりと俺を見る。女子だけだったらなんてことなかったけれど、俺がいるから一応気を使ったのだろう。誰に対してとは言わないが。
しかし、そんな桃木の気遣いなど知る由もない荒幅木だ。からからと笑って、首を横に振る。
「違う違う。……ええとねぇ」
にたにたと下品な笑顔を作る荒幅木。おまえ、本当に女子かよと言いたくなる。
「家の中を探検しようと思ってね」
そう言った荒幅木の言葉に、俺はどきりとした。たぶん玲もだ。
探検……つまりは家探しだ。家の中を見て回り、あれはなんだこれはなんだと質問してくる。
そうに違いない。そう光景を想像しただけで、おぞ気が走る。
ここは玲の家ではない。一時的に間借りしているだけだ。
ことが終わったら、九条を通して返してしまう物件だ。
だというのに、どうしてわざわざ各部屋のことまで調べられるだろう。時間もなかったというのに。
「さってぇ……どこから見て回ろうかな」
「ちょっ……待ってくれ」
さっと立ち上がり、リビングから出て行こうとする荒幅木。それを止めようと腕を伸ばす俺。
もちろん、荒幅木の手を掴もうとした。んだけれど、失敗した。
いや、荒幅木を止めるという点においては成功したと言っていいだろう。
が、総じて見ればやはり失敗だ。何せ……。
何せ、荒幅木のスカートを掴んでしまう形になってしまったのだから。
「え? 何やっ……」
当然、荒幅木は体勢を崩し、その場に倒れ込んでしまう。その際、俺も引っ張られる形で床にひれ伏す。
なんとか全身に力を込めて荒幅木の上に乗っかることは避けられた。けれど、荒幅木に覆いかぶさる形になったのはそのままなので……つまるところ俺は玲と桃木の前で荒幅木を襲ったことになる。
まあでも、事態が事態だし、わかってくれるよね?
俺はおそるおそる、背後を振り返った。振り返りたくなかったけれど、振り返った。
当然、玲がいた。怒りの眼差しを俺に向けて。
「……健斗、何をやってるんですか?」
「ち、違う……これは不可抗力という奴で……」
「何が不可抗力だこの大馬鹿野郎!」
玲の怒鳴り声。それに続く罵詈雑言の嵐。
俺としては割とお馴染みになりつつあるその光景に、しかし荒幅木と桃木は不慣れなのだろう。あんぐりと口を開けていた。
「玲、玲落ち着け。そしていったん周りをよく見るんだ」
「一体何を言って……あっ」
俺が注意を促すと、玲はやっとのことで状況を理解したようだ。
見る見るうちにその顔色から怒りが抜けていく。
「えっと、これは違うんです! これは、その……」
「……桜木さんってすごいこと言うんだね。私にはちょっと真似できないなぁ」
桃木が関心した様子でそんなことを言う。別に真似しなくていいんだけれど。
「そして君は彼女に対して弱い」
「よ、弱い……?」
はてな? よくわからないんだが。
「どういう……ことだ?」
「簡単なことだよ。もっとこう、なんというかかんというか……ええと」
荒幅木が頭を抱えて唸り出す。なんだろう、何を探しているんだ、こいつは。
頼むから玲の前で余計なことは言わないでくれよ?
「おい……大丈夫、か?」
「だ、大丈夫大丈夫。なんだったらこれからフルマラソン走れるよ!」
「いや、走らんでいいが……まあ大丈夫ならいいんだけれど」
「それで、何の話だっけ?」
荒幅木がくりっと首を傾げる。その心底不思議そうな顔に、俺は更に嫌な予感を加速させる。
「ところでさぁ」
「ええと、どうしたのですか?」
「ここってほんとに桜木さんの家?」
「ええと……それはどういう……?」
うっ……ついに来てしまった。聞きたくなかった質問が。
もしかしたらこのまま誤魔化し切れるかとも思ったが、現実はそううまくはいかないらしい。
どこかしらでぼろが出るだろうなという予測はあった。しかしどこでだ?
どこでぼろが出た? ここまで、うまく隠せていたと思っていたのだけれど。
「……何の話だ?」
「何のって……だから、この家ってほんとに桜木さんの家かって訊いてるんだけれど」
「だから、それが何の話だって言ってんだ。ここは玲の家だ。俺だって何度かお邪魔したことがあるから確実だ」
「そうだよ、まい。突然何を言い出すの? 恥ずかしいから止めて」
「ええー? ……そう、なんだ」
桃木のアシスト(と本人は絶対に思ってやしないだろうけれど)を受けて、納得がいかないといった様子で座り直す荒幅木。
俺はその姿に、内心ほっとした。よかった。バレなかった。
そのまま、ちらりと真横を見やった。つまりは玲の方を、だ。
すると、玲はぷるぷると全身を震わせていた。……だめだこりゃあ。
そんなことじゃあ、すぐにバレるぞ。荒幅木が疑ったのも無理はない。
さて……どうしたものだろう。
俺はぐるりと視線を部屋中に巡らせる。
いくら桃木から諭されたとはいえ、荒幅木は現在進行形で疑念を抱いている様子だ。その証拠にうんうんと首を捻っている。
対して桃木は俺の言葉を真に受けて、荒幅木からどうにか疑いを解こうとしている様子だった。最初の印象としては、荒幅木の方が頭の弱いイメージだったが、実は案外桃木の方が馬鹿だったりするのだろうか。
まあ……その可能性は無きにしも非ず、か。
俺は再度ちらと横合いを見やり、そう心の中で独り言ちた。
「まあいいや。それはおいおい解明していくとして」
「解明するんだ……」
「当たり前だのクラッカーだよ」
「? 何言ってんだ、荒幅木?」
「あれ? 知らない? わからない? ええー!」
荒幅木が驚いたといった様子で口元に手を当てている。が、驚いているのはこちらの方なので俺の方がそのポーズを取りたいところなんだが。
「それで……何をしよっか」
「何をって……」
「このままだらだらお喋りをしているだけだともったいない気がして」
「もったいないって……何? まあまいちゃんがそう言うのなら。どう、二人とも?」
「俺は……まあいいけど。どうだ、玲?」
「私も構わないですよ。ただ、遊べるものと言ってもこの家に何もなくて」
「ふーん……だったらこういうのはどう? この間ネットで見つけたゲームなんだけど」
言いながら、荒幅木はサッとスマホを取り出して俺たちの前に置く。
世界的に有名な赤いアイコンの動画サイトを開き、その動画を見せてくる
「……なんだ、これは?」
「よくわんないけど、面白そうじゃない?」
よくわかんないのかよ。俺は心の内で突っ込みつつ、その動画へと視線を落とす。
動画のタイトルは『友人三人とオリジナルゲームで遊んでみた』だ。タイトル事態はありがちで、なんとも凡庸な感じなのだけれど、オリジナルゲームという点が若干興味をそそる。
暇つぶし程度に見るにはちょうどいいのかもしれない。俺はあまりこういう動画は見ないからよくわからないのだけれど。
「それにしても……何やってんだ、こいつらは?」
画面の中にいる演者たちはそれぞれに立ち上がっていた。
三人の内の一人が画面の前に立ち、スケッチブックに書かれた絵を視聴者、つまりは俺たちに見せてくる。
それは丸くて赤い物体だった。……トマト、だろうか?
あまりにへたくそ過ぎてよくわからなかったが、おそらくトマトだろう。トマトくらい奇麗に画けよと思ったが、まあいい。
「……それで、これでどうするんだ?」
「この絵が何なのかを当てるんだよ」
「トマト……じゃないんですか?」
「さあて、どうだろうねえ」
荒幅木がにやりと不敵に笑んだ。
何? 赤い身に緑のへたがあるからてっきりトマトだと思ったのだけど、実は違ったりする?
俺はその絵を食い入るように見つめていた。早く正解を出せよと心の中で毒づく。
『正解は、ドルルルルルルルルルルルルルルルッ!』
自前のへたくそなドラムロールとともに、溜めを作る。それがもどかしくて、俺はシークバーを操作してやりたい衝動をぐっと堪えていた。
『トマトでしたぁ!』
「やっぱトマトじゃねぇかよ!」
「ちょっと、何すんのやめてよ!」
荒幅木の携帯を引っ手繰って叩きつけてやろうかと思ったところで、荒幅木がサッと手を引っ込んた。お陰で俺の目論見は水泡と帰す。
「あんまり乱暴にしないで!」
「うぐっ……わ、悪い」
あまりのむかつき具合に思わず咄嗟に取ってしまった行動だったが、それにしても我ながらなんて短絡的なんだ……反省しなくては。
俺は伸ばしていた腕を引っ込め、ソファに座り直した。
「それで……ルールは何なんだ? まったくわらかなかったが」
「えー? あれで分からなかったの? だめだなぁ、まったく」
荒幅木がやれやれといった様子で肩を竦める。首を振る動作までつけているのだから、その他人の神経を逆なでする効果はまさに絶大だ。女を殴りたいと思ったのは初めてだ。
「あれだよ、わざと下手っぴな感じで絵を書く。それを周りの人が何を書いたのか当てていくっていうゲームだよ」
「……本当か、それ? なんだか怪しい気がするんだが」
「怪しくないし! なんだったら一度やってみようよ」
「うん、私もそれがいいと思いますよ」
「私も別にいいよ」
玲と桃木も賛同する。と、なぜか荒幅木がうれしそうな顔でこちらを見て来た。
めちゃくちゃ腹の立つ顔だ。
「……ま、二人がいいなら俺もいいぜ」
特に玲がいいというのなら。
「じゃあ決まりだね……だったらえっとぉ……最初はわたしがやるよ」
「ええ……まいが?」
「なぁに、唯? 何か文句でも?」
「ありません何も。どうぞどうぞ」
「よろしい」
ふふん、と得意げにふんぞり返る荒幅木。何なんだ、一体?
とにもかくにも、荒幅木がどこからかペンを取り出した。動画内のようにスケッチブックに書くつもりのようだ。
だが、次にスケッチブックが出てくることはなかった。がさごそと鞄の中を探り、荒幅木が一生懸命に探している。……だが、見つからないらしい。
「あれー? どこに行ったんだろう? おいて来ちゃったのかな?」
「どうしたの、まい? もしかしてスケブないの?」
「うん、そうみたい。どうしよう……もしかしたら家にあるのかも」
「もう、いつも持ち歩いてるくせに、こういう時だけ忘れてくるんだから」
「えへえへ」
桃木が呆れたように言うのに対して、荒幅木は照れたように笑のだった。
いやいや、全然照れるようなところじゃないからな、今の。
俺は荒幅木のそうした態度にあきれを感じ、はぁと嘆息した。
じゃあ、このゲームはできないのだろう。できなかったところでどうでもいいが。
と、俺が思っていると、横合いからにゅっと腕が伸びて来た。
「ええと、これなら代用品になりませんか?」
そう言って手を出してきたのは、もちろん玲だ。その手には、薄型の端末が握られていた。
液晶タブレットだ。なんとかパッドとか、いろいろと呼び名のあるあれ。
俺は機械系統にそれほど明るくないので、外見的に大きな違いがなければ全部同じに見える。使える機能も大体同じらしいので、それで間違っていないのだとか。
「おおー、さすが桜木さんだね!」
何がさすがなのかまったくわからなかったが、とにかく二人の興味はそちらへと向いたらしい。これでゲームを始めることができるということだろう。
俺もよかったと心から思う。まだバレてないらしい。
「それで……具体的なルールはどうする?」
「ルール? え? ……絵を描いてそれを見せ合うんだよ。そしてそれが何を表しているのかを当てるってゲームなんだけど」
「でもそれだと勝敗がはっきりしないだろ?」
俺が問うと、荒幅木はきょとんとした様子で小首を傾げる。
「……ねえ、彼氏くん」
「な、なんだ……?」
つーかいい加減その呼び方やめてくれませんか? 結構恥ずかしいんだが。
などという俺の心の声は当然のように荒幅木たちには聞こえない。
「勝敗って……そんなに大事?」
「は? 何を言って……大事……だろ?」
荒幅木のくりっとした大きな瞳が俺を見つめる。そこにあるのは、紛れもなく純粋な疑問符だった。
俺は玲と桃木へと視線を送る。同意二人なら同意してくれると思ったのだ。
しかし、桃木は俺の意見に賛成をしなかった。まあこいつの場合は荒幅木の味方だろう。
なら玲はというと、玲もまた勝敗を決しなくてはならないという俺の意見には賛同してくれなかった。玲もまた、なんとなく楽しめればそれでいい、みたいなことを言い出す。
おいおい、どうしたんだよ玲。いつものおまえらしくないぞ?
いつもなら何かと勝ち負けを競いたがるだろう。なのにどうしたんだ?
俺は玲の負けず嫌いな性格をよく知っていた。それだってこいつの魅力であり、俺にとって好きな部分の一つだ。
なのに、今はそれを引っ込めている。なんだ? 二人の前だからか?
俺はなんだかショックだった。実際のところ、目的と照らし合わせてみればその通りなのだろうが、それでも多少なりと落ち込む。
……後で拗ねてやろう。
そう心の内に決めて、俺ははあとため息を吐いた。
「……わかった。俺が間違っていた」
「わかればいいんだよ。まったく男の子って奴ぁすぐに勝負事にしたがるから」
「……悪かったって」
荒幅木がやれやれといった様子で再び首を振る。
ええー……俺が悪いみたいな流れになってるけどなんでぇー?
俺は内心で腑に落ちないものを感じつつ、それをぐっと飲み込んだ。
今はいい。とりあえずは落ち着け。
さあ、ゲームの時間だ。
「じゃあ一番手はわたしからね!」
荒幅木が大きく手を上げ、タブレットを手に取る。
おそらくペイントツールを起動させているのだろう。慣れた手つきでタブレットを操る。
「さあ、何描こっかなー」
くるくると頭の上あたりで人差し指を回す荒幅木。たぶん頭を回転させているイメージなのだろう。
決まったらしく、パッと顔を綻ばせ、タブレットに指を走らせていく荒幅木。
俺たちは彼女が何を描いているのかを知ることはできない。そういうルールだからだ。
……なんとも変な話だ。厳格なルール決めは断ったくせに、この手のルールは決めたがる。
まあ、知り合いが集まって楽しむためのパーティゲームなのだろう。楽しければそれでいい、みたいな。
俺は内心でむすっとしながら、それでも心のどこかで笑っていた。
だめだなぁ。ずいぶんと毒されちまったようだ。
過去の自分を思い出して、今の自分と比べる。笑ってしまうほどに変わったしまったのだと自分でもわかる。
昔の俺はたぶん、そもそもこんなことに参加なんてしなかっただろう。面倒だなんだと言って逃げていたに決まっている。それが今じゃこの有様だ。
まったく変わったなぁ。俺も。
などと考えているうちに、荒幅木の手が止まった。
「できた!」
という声とともに、彼女は描いたものを手の平をいっぱいに広げて隠しながら、タブレットを俺たちの前に持ってくる。
「いい? いくよ?」
「ああ」
「大丈夫ですよ」
「いつでも」
俺たちが返事をすると、荒幅木はにこっと笑ってじゃじゃーん、というかけ声とともに手の平を退けた。
すると、そこにあったのは……なんだ?
ぐねっとした胴体。長いようなそれほどでもないような首。ポチッと二つある干しぶどうのような眼玉。手足は粘土のようにぐねぐねとしていて、とてもじゃないが生き物というより化け物だった。
……なんだろう、これ? わからない。
俺たちは首を捻って考えた。それはもう、必死に。
たぶん、この中で一番頭を悩ませたのは俺だろう。
いくら勝敗がないとはいえ、一番早く正解にたどり着ければそれはもう勝ちと呼んでいいレベルだと思うからだ。どんだけ勝ちにこだわってんだよ、俺。
それはそれとして、この絵だ。なんだこの未知の地球外生命体は。わからん。
「……なぁ、荒幅木」
「ん? なーに?」
「質問ってありか?」
「質問……んー、元のルールにはないけれど、いいよ。ただしイエスかノーで答えられるものに限ります」
「ええと……だったらこれは動物、か?」
「イエス!」
荒幅木が元気よく答える。なんだってんだ。
「じゃあ私も。これの体表面の色は白ですか?」
「ノー」
玲の質問に対して、両手でバッテンを作る。ぶーっと丁寧に唇を尖らせていた。
「次は私。これは……海外の動物ですか?」
「イエス!」
今度も両腕を使って頭の上で〇を作る荒幅木。いちいち反応が大袈裟な奴だ。
その後も質問を繰り返す俺たち。それらのすべてに、荒幅木は体を大きく使って大袈裟にイエスノーを答えていく。
「だったら……これは四足歩行動物ですか?」
「イエス」
「ええと、それじゃあこれはアメリカに住んでいますか?」
「ノー」
「これは地球の動物ですか?」
「イエス」
「これの手足は短いですか?」
「ノー」
「これは節足動物ですか?」
「節足動物って何?」
「クモなどですね。手足が棒のようになっていて、折りたたんだりして移動する動物です」
「あー……じゃあたぶん違うかな。ノーで」
「じゃあじゃあ……ええと」
だめだ、もう質問が浮かばなくなってきている。これは荒幅木優勢だろう。
さぞや嬉しそうにしているのだろう、と荒幅木を見やる。
と……あまり嬉しそうではなかった。というより悔しそうだ。
「……ええと、そろそろ何もない? だったら答えを」
「待ってください! もう少しだけ時間をください!」
「え? でも……」
「もうちょっと……もうここまで出かかってるんです!」
「わ、わかったよ……なんかちょっと怖い」
ずいずいっと荒幅木に顔を寄せる玲。どうも、負けず嫌いが発動したようだ。
ま、これは仕方がないな。なんとかしてやる義理はない。
俺は玲の動向が行き過ぎないようにしないととは思いつつ、別段何もしなかった。
まあそのうち答えも出るだろう。それまでの我慢だ。
「え、ええと……あの、えーと……」
ぐぬぬ……、と頭を悩ませる玲。これほど悩んでいる玲を今だかつて見たことがあっただろうか。なんとなく新鮮だ。
俺は内心でほくそ笑んでいた。ぐふふ。
そうだ、苦しめ……苦しめ。
「伝説上の生物?」
「の、ノー……」
「だったら……その……ええと」
「こ、答えを言っちゃっていいかな?」
「だめ! 絶対にだめです!」
玲が語気を荒げて止めにかかる。びくっと荒幅木が肩を揺らした。
「白くて首が長くて……なんかこうふにゃふにゃしていて」
「あっ……そこで引っかかってたんだ。ちょっと待ってて」
荒幅木がサッとタブレットを取り去る。何やら書き加えているようだ。
書き終わったらしく、タブレットを俺たちの前に差し出してくる。
そこには、黒い模様が書き加えられていた。
それは、まさしく……。
「あっ……ああ、あああああ!」
玲がタブレットを指差してわなわなと震える。
それがなんであるのか、玲のみならず今やこの場の全員が理解した。
それは……キリンだ。キリン。アフリカに暮らす大型動物。
四本の脚で立ち、長い脚と首で木の葉を食んでいる動物。
何と言うことでしょう。たった一つ。キリンの模様を書き忘れていただけで、こうまで混乱させられるとは。
つーかそれっていいの? ゲームの趣旨に反するんじゃあ?
と、思ったけれども。まあ今はそんなことどうだっていいのだろう。答えがわかったことで玲はご満悦のはずだ。
てなことを思って玲を見やったのだけれど、しかして玲はまったくと言っていいほど笑顔はなかった。なんか悔しそうだ。
「え? 答えがわかったんじゃないのか、玲?」
「わかった。……わかったよ。わかったんだけれど……でも」
「だったら、もっと喜んだらいいんじゃ……」
「わかってる……わかってるよ。だけれど」
だったら何が不満なんだ? と訊くのは野暮か。
さすがにここでそれを訊いてしまうと、俺が玲のことをまったくわかっていない奴みたいになってしまう。それはないので、普通に流す。
「え? 何が不満なの? ここまで来たらもうわかるでしょ?」
「うう……そ、そうなんだけれど」
おいいい、荒幅木ぃぃ! 俺が我慢した問いを何平然とした様子で、何だったら若干したり顔つきで言ってくれちゃったんでこいつぅぅぅ!
俺は荒幅木のあまりの空気読めてなさに絶望した。絶望した!
なんだってこいつはこう、他人の傷をえぐるようなことを平然と言うんだ? 馬鹿か? 馬鹿だからか? 他人の気持ちを考えろやごらぁ!
俺は荒幅木をぎろりと睨みつけた。けれども、荒幅木には効果がなかったようで、どこ吹く風……といより俺の方を見てすらいなかった。
くっ……なんなんだ、こいつまじで。
俺は腹の中が煮えくり返る……とまでは言わないけれども、それに近いような感覚を覚えていた。なぜなら、玲がすごく慌てふためいているからだ。
玲を困らせやがってこの馬鹿が。だったら今度は俺がおまえを困らせてやる。
「答えはキリンだろ」
「せいかーい。よくわかったね!」
「馬鹿にしとんのかおのれは」
「えー? なんでぇー?」
荒幅木が大きな瞳を更に大きくして、栗っと小首を傾げる。
本当にわかっているのかいないのか、よくわからない仕草だ。
「……まあなんでもいい。じゃあ次は俺の番でいいな?」
「いいよいいよ。どんどんいっちゃおー」
おー、と一人盛り上がる荒幅木。玲は若干落ち込んでいて、桃木は冷静に黙々と俺たちのやりとりを見つめていた。
「……ええと、じゃあ」
何を描こうか。んー……いざこうして改めて考えてみると、何を描いたらいいのか思い浮かばないものだな。何だろう……ええと、荒幅木みたいに動物でいいか?
動物……なんだ? 簡単過ぎてはつまらない。だけれど、難し過ぎてもどうせこいつじゃあ答えられないだろう。
どっちのバランスを欠いてもいけない。故に俺自身が知っている動物でなくては。
俺はしばらく頭を悩ませた後、ふっと顔を上げた。
よし、何を描くか決まった。俺が書くのは……ライオンだ!
そうと決めたが早いか、俺はタブレットに指先を這わせていく。
できる限り、崩した描き方がいいんだったな。さっきの荒幅木のキリンみたいな。
俺はまず、たてがみから描いていく。そっちの方が面倒が少なくて済みそうだからだ。
できるだけ崩して、へたくそに描いていく。それがゲームの趣旨だ。
なるべく相手に正体を悟らせないようにしないといけない。その点ライオンは優秀だと思う。
なんせ、有名ドーナツチェーン店のあいつがいるからな。
もしこんなふわふわしたライオンが目の前に現れたら、あっちの方のライオンと見間違うだろう。しかしこれは百獣の王の方のライオンだ。つまり俺の勝ちだ。
俺は思わずにんまりと頬を緩めた。どんな形であれ、勝負に勝つというのは気持ちがいい。
逆に勝負事に挑んで勝ちにいかないなど、勝負師とは言えない。まあ俺は勝負師ではないけれど。ゲーマーでもない。
しかし、一匹の男としては、勝ち星を取りに行くのは当然の流れだ。
俺はそのままさらさらとタブレットに指を走らせていく。
そうして、できあがった絵を三人の前に差し出した。さあ、どうだ!
「ライオンだ」
「ライオンですね」
「百獣の王……だね」
「な、何……!」
三人が三人とも、俺の意図した動物を即座に言い当てた。な、なぜだ!
俺はタブレットを手元に引き寄せ、じっとそれを見つめた。
なぜわかったんだ? それも数秒の間も置かずに。こんなにファンシーなライオンなんていないだろう。
俺はふわふわとした質感の自分のライオンを睨みつけ、わなわなと体を震わせた。
「え、ええと……どうしたわかったんだ?」
「どうしてって……だってライオン以外にいないでしょ、それ」
「逆に何だと思ってほしかったの?」
「……ごめんなさい、他に思いつかなくって」
何……だと。俺はやはり何かを間違っていらしい。
タブレットをテーブルに置き、がっくりと項垂れる俺。慰めようとしてくれる者はここにはいない。ああ、同情の視線が痛い。
「さてと、じゃあ次は私だね」
桃木がタブレットを手に取り、何を描こうかと考えるように視線を天井へと向ける。
何か、俺と同じ過ちを犯さないだろうかという期待を抱く。が、そんなことは望むべくもないことは十分に承知していた。
なぜなら俺のすぐ後だからだ。すぐ後の手番でそんなミスをする奴はいないだろう。
……とまあ。ゲームはそんな感じで割合わいわいとした様子で進行していった。
玲が楽しそうで何よりだ。俺は自分の失態をすぐに忘れて、玲の笑顔を見やっていた。
確かに、俺や九条たちの前にいる時と比べると若干無理をしているのではと思えるのだが、これもまた玲の一面なのだろう。
だからまあ、それを否定するのは酷と言うものだ。
だからこれでいいのだと、俺は思う。この光景はきっと、玲が大切にしたいものの一つだと思うから。
俺? 俺はもちろん、楽しかったに決まっている。あの後三度ほどやったが、全部即答されたことを除けば。
〇〇〇
「今日は招待してくれてありがとう。とっても楽しかった」
夕方、玄関先でバイバイと手を振る荒幅木に応える玲。その横で、桃木が若干困ったように笑っていた。
「いえ、私も楽しかったです。また遊びましょう」
「うん! 次は九条さんたちも交えて遊びたいな」
「九条さん……ですか」
「九条さんと桜木さんって仲よしだよね? だから私たちも仲良くなりたいなって」
「ええ……また、いつか機会があったら。その時は声をかけておきます」
「絶対だよ、絶対だからね!」
「はい」
また来てくださいね、と言わなかったのは、玲なりの考えあってのことだろうか。
どうせこの家は玲の家じゃあない。だから、そのまたの機会とやらがいつ訪れるはかわかったものじゃあないな。
とはいえ。
「…………」
「どうしたの、健斗?」
二人が玄関からいなくなって早々、玲の態度や口調はいつものそれに戻っていた。
あの二人が戻って来たらどうするつもりなんだ、こいつは。
「なんでもない」
俺は玲から視線を外し、リビングへと戻る。テレビを点けると、なんてことのないニュースが山のように流れていた。
後からトトトッと玲も続いてくる。俺の隣にすとんと腰を下ろし、もぞもぞしだした。何だ?
「はは、二人きりになっちゃったね」
「……ああ、そうだな。あいつら帰ったからな」
時刻はそろそろ七時になろうかという時間帯。まだ外は明るかったが、それでもほの赤い光が混じり始める。
逢魔が時……とでもいうのだろうか。自慢じゃあないが勉強はからきしなので、これが正しい用法なのかは定かではない。
しかしまあ、それはそれとして。荒幅木たちと過ごした時間は悪くないと思った。
そして玲も楽しそうだったし、今でもそうだ。
「……なあ、玲」
「なぁに、健斗?」
「ああ、いや……いつかみんなと仲良くなれたらいいな」
「……うん!」
その光景を想像してか、玲の表情がにんまりと笑みに変わった。
しかし実現するとして、だいぶ先の話になるだろう。
とはいえ。
実現するといいな、と俺はこの時思った。
友達百人できるかな、だ。
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