第19話 桜木玲と非リア充の怨念
空は青く、太陽は高い。大地はどこまでも続き、人々は今日という日をあたり前に、しかし感謝しつつ過ごしていく。
俺と玲もその例外ではなく、既に反日ほど過ぎた今日という日をありがたく、そしてあたり前に甘受する。
「でねー、建斗ー」
「それでどしたんだよ、玲」
玲は俺の腕に自分の腕を絡め、その控えめながら形のいい両のふくらみを俺の肘に押し当ててくる。俺はそれを甘んじて受け止めて、にんまりと口の端を釣り上げるのだった。
「その時にねー、それでねー」
「ああ、そうなのかー。そいつはすげーな」
つんつん、と玲の頬を突く。すると、玲はくすぐったそうに目を細め、仕返しとばかりに俺の頬をつんつんと突いてきた。
こちらもお返しにつんつんする。すると玲もつんつん。
なんだか、だんだん楽しくなってきたぞ、これ。
つんつん。
つんつん。
つんつん。
つんつん。
つんつ――トンッ。
「おっと、悪い」
玲とのやり取りに夢中で前から人が来ていたことに気付かず、軽くぶつかってしまう。と、俺は平気だったのだが、そいつが倒れ込んでしまった。
「悪いな、大丈夫か?」
俺は玲から離れ、そいつに向かって右手を差し出す。
すごく肌の白い奴だった。肩口まである艷やかな黒髪と小柄で華奢な体付き。
一見すると女子のようにも見えるのだが、男子の制服を着ているところを見ると男何だろうな……たぶん。自信ねえけど。
そいつは俺の手を無視して一人で立ち上がる。パンパンと軽く尻に付いたと思われる埃を払い、顔の半分は隠している前髪の奥からぎろりと睨み付けてくる。
「わ、悪かったって。こっちの不注意だった」
本当はおまえも悪いだろ、と言いたいところだったが、それを言うとこじれそうだったので口にはしなかった。
そいつは無言で少しの間俺を睨み付けたあと、玲へと視線を移しす。なんか俺と同じように睨んでいる……ような?
それにはさすがにいらっとする。
「おい、確かにこっちも不注意だったかもしれないが、おまえにだって非はあるだろ。大体前髪切れよ。前見にくいだろ、それじゃ」
ここまで言っても黙っているとか、なんだこいつ。いらいらするな。
さすがにそろそろ堪忍袋の尾が切れそうなんだが。殴っていいか、こいつ。
俺が怒りが爆発しそうになっているのを我慢していると、そいつはくるりと振り返った。
なんだこいつ、一言も謝らないで行っちまう気か?
「おい、ちょっと待て――」
「あっ……これ、落としたよ?」
もう限界だ文句の一つでも言ってやろうと口を開きかけたところで、玲が俺の前に出て俺を止めてくる。
何するんだ、玲。俺はこいつを一発ぶん殴るんだ。
「はい、これ。君のだよね?」
そいつは玲をひと睨みすると、玲の手元へと視線を落とした。玲の手の平の上にはキーホルダーと思しき物体。それもラバー製の。
あれは……確か最近アニメになったお仕事系の奴。ブレンド……なんとかだ。
てな感じで考えている俺の目の前で、その手にあった物を見るとカッと目ん玉をひん剥いて、玲の手からそれをかすめ取る。
「おまえなぁ……いい加減に」
「待って、建斗。ごめんなさい。私たちが悪かったよ」
「待て玲、こんな奴に頭を下げる必要なんて……」
「でも、二人の世界に入っちゃって周りを見てなかった私たちも悪いよ?」
「うぐっ……それはそうだが」
しかしこんな無礼極まりない奴に謝るのは癪に障る。
俺は謝らないからな。もう一度誤ってるし。
「…………」
「おい待てこら」
そいつは黙ったままくるりと身を反転させるとつかつかと歩いて行ってしまう。
俺の呼び止める声なんて無視だ。ちくしょう。
「……ったく、なんだったんだあいつ」
「別に怪我をしたわけじゃないんだから、あんまりかっかしないで」
「……まあ玲がそう言うのなら」
俺はこれ以上この話題を引きずるのを止めた。玲がいいと言うのだからもういい。あと俺の精神状態的にも悪い。
「そろそろ授業が始まるな」
「そうだね。教室に行かないと」
「ああ」
俺と玲は教室に戻ることにした。
ん? そういやあいつ、全く別の方向に行ってたような……? 授業はいいのか?
◆
「どうしたんだよ建斗? そんなにいらついて」
そう声をかけてきたのは、同じクラスの剛昌真人だった。
俺より一回りほど大きな体躯。すらりと長い手足。童顔できらきらとした少年のような目をした、俺の友人の一人だ。勉強はからきしだめだが。
先日、俺がこいつに協力したことがあった。まあそれは九割方失敗に終わったのだけど。
こいつはその時のことを恩義に感じているらしい。友達のために手助けするくらい当然のことだろうに、義理堅いというかなんというか。
「別に。何でもねえよ。それよりおまえ、九条とはもういいのか?」
「え? ああ、大丈夫だ。九条も事情を話したら、とりあえずは納得してくれたしな」
「そうか。それは何よりだ。それよりおまえ」
「ん? なんだよ?」
「あー、いや……九条の趣味について何か知りたいことあるか?」
「おお! それだよ、おまえ知ってんの?」
「いいや。まあ玲に聞いといてくれって頼んでおいてやるという意味だ」
「そいつはありがてえ」
本当はよーく知ってるんだがな。しかしこいつのこの様子だと、九条がいわゆるオタクだという事実はまでは知らないらしいな。
あのゲーセンでの一件を目の当たりにして妙なことだが、九条のことだ。うまいこと言い訳したんだろう。真人は真人で単純だし。
「何のお話をしていますの?」
噂をすればなんとやらとはよく言ったものだ。九条がどこか胡散臭そうに目を細めつつ近づいてくる。
「何でもねえよ。おまえの話題なんて一ミリも出してないから安心しろ」
「嘘を言いますわ。今九条と聞こえましたもの」
「ほ、本当だって九条。俺たちは別に何も企んじゃいないって」
「おい、余計なこと言うなよ」
「余計なこととはどういうことでしょう?」
くっ……俺が口を滑らせたばかりに。ハッ、まさかこれは九条の罠! 真人を尋問している振りをして本当は俺を引っ掛けていたのか!
いつもは玲の方が何でも上手だから忘れがちだったけど、九条もこれでなかなかに頭がいいんだよなー、くそ。
「ま、いいですわ。それについてはおいおいということで」
「何のことだかさっぱりわからないが、おまえがそれでいいなら俺たちは言うことねえよ。なあ、真人?」
「あ、ああ……そうだな」
「そうですか。よろしいですわ。ではそろそろ移動しないといけませんわよ?」
「は? ……あ、次は移動教室だった」
俺と真人は慌てて机から教科書を取り出すと、半ば小走りに教室を出た。
あとには悠々と九条が続いていた。あいつも急がなくていいんだろうか?
◆
その日一日の授業を終えた放課後。俺は下駄箱付近で玲と待ち合わせをしていた。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「大丈夫だ。そんなに待ってねえよ」
「よかった。あ、そうだこれ」
「なんだ?」
玲が鞄の中からなにやら包を取り出して俺に手渡してくる。俺はその包を受け取り、ためつすがめつ眺めた。
「えっと、今日の家庭科の授業で作ったクッキーなんだけど」
「何ッ!」
クッキーだと! 玲自ら、手作りの!
この時の俺は一体どんな顔をしていたのだろう。なんか玲が若干引いてるんだが。
「……そんなに喜んでもらえるなんて、嬉しいよ」
何だろう、言葉に全然感情が乗ってないような気がする。その言葉、そのまま受け取っていいんだよな、玲?
「ま、まあいいや。それより早速食っていいか?」
「う、うん……建斗のために作ったんだから、もちろんだよ」
「お、おお……」
ああいや、そんなことを言われるとは思ってなかった。背中のあたりがむず痒くなるな。
「じゃあいただきまーす」
包を解いて、クッキーを口に運ぶ。
うん、砂糖と塩を間違えるなんてべたべたなことはなく、普通にうまいクッキーだった。
「うまいよ、玲」
「ほんと? よかったー」
今度は心からの言葉らしい。玲は胸に手を当て、ほっとしたように呟いた。
「始めて作ったから心配だったんだ」
「へー、そうなのか。だとしたらますます上出来だな」
「ふふ、ありがとう」
にこっと、玲が嬉しそうにはにかんだ。それを見て、俺もまた嬉しくなる。
俺は二枚ほど玲お手製のクッキーを食べてから、残りを鞄にしまった。
「食べないの?」
「ん? 帰ってからゆっくり食べようかと思って」
「そう……そうだね。それがいいよ」
「ああ」
それから、俺たちは校門へと向かう。
――ガシャンッ!
と、校門へと向かう道すがら、俺のすぐ横を植木鉢が一つ、落ちていく。
「ほあああああああああああああッッ!」
びっくりしたー、超びっくりしたーッ!
俺は思わずびくんと肩を揺らし、飛び跳ねた。
「なんだぁ……」
どきどきどきどきどき、と動機が止まらない。
突然落ちてきた植木鉢。すぐさま頭上を見上げるが、そこに人の気配はなかった。
「大丈夫、建斗?」
「あ、ああ……俺は大丈夫だ。それよりなんでこんなものが……?」
「わからない。けど無事でよかった……」
玲は心底ほっとした様子で、へなへなとその場に座り込んでしまった。
「玲、よかったよぉ……」
「お、おいおい、泣くなよ。別に死んだわけじゃないだろ?」
「だって、だってぇ……」
玲が目の端からぼろぼろと涙を流す。俺は持っていたハンカチでその涙を拭ってやる。
やがて、大きな音がしたことで学校職員……つまり先生が何人かやってくる。
「どうしたんだ?」
「いや、何つーかいきなり植木鉢が……」
「おい石宮建斗、おまえ桜木に何をした!」
「へ? いや、俺は別に何も」
「何もしてなくて泣いているはずがないだろう、おまえが何かしたんだな、そうに決まってる。さあ謝れ。すぐに謝れ」
「ちょっと待ってくれ! 俺の話を聞いてくれぇぇ!」
俺はたまらず抗議の声を上げるが、その場の誰一人として聞く耳を持つ者はいなかった。玲は相変わらず泣きじゃくって使い物にならないし。
ああくそ、誰かー、俺を助けてくれぇぇ!
◆
それから三時間後。ようやく泣きじゃくるのをやめて玲が事態を説明する。
と、俺は意外なほどあっけなく開放された。
「あーくそ、酷い目にあった」
三時間、俺は玲を泣かせたのは俺だと信じ切った教師陣によって説教を喰らっていた。
そりゃあ普段の行いがいいかと聞かれればそうだとは自信を持っては言えないが。それにしたっていくらんでも信用がなさ過ぎる。我ながら多少傷つくというものだ。
「ごめんね、建斗。私がもっとはやく説明していたらこんなことにはならなかったのに」
「何、おまえのせいじゃないさ、玲。それに玲は俺を心配してくれたんだろ?」
もちろん、玲を責めるつもりなんて毛頭ない。それは玲にだって伝わっていただろうが、玲はなぜか玲は申し訳なさそうにしていた。
「ごめんね、建斗」
「だから、おまえのせいじゃないって何度も言ってるだろ? あれは事故だよ、事故」
「でも……」
「んな悲しそうな顔するなって。そんな顔されちゃあ俺が困る」
不安げに瞳を揺らす玲の頭に手を置き、安心させるために微笑む俺。
この程度で安心させられるとは思えない。が、いくらかは効果があるだろう。
実際、俺の判断はある意味においては正しかったようだ。
玲はそれ以上弱音を言っても仕方がないと判断したらしい。いまだに目尻に溜まった涙をぬぐい、わずかに上気した頬をつり上げてニッと笑う。
「そうそう。俺は大丈夫だ」
「けど、一体誰がやったんだろ?」
「は? 誰がって……」
「だって自然に落ちてくるはずがないし」
「それは……確かにそうだな」
あそこには往々にして植物が飾られていた。だが、万が一のことを考慮してそれなりの対策は施されていたはずだ。
とすると、誰かが意図的に植木鉢を落下させた?
「でも……一体誰がそんなことを?」
「わからない。建斗を狙ったのか、それとも私か」
「玲は……ないだろ。狙われたとしたら俺だ」
「え? どうして? 何かしたの、建斗?」
きょとんとした様子で玲が訊ねてくる。
あーと、これはどう答えたものだろう。
俺はぐぐっと顔を近づけてくる玲から距離を取りつつ、頭を捻った。
本当のことを言えば、玲と付き合っている俺を妬んだ誰か、というのが一番ありそうな線なのだが。
それを伝えては、またさっきみたいに面倒なことになりかねない。できることなら、玲の泣いている姿は拝みたくないものだ。
「えーと……そりゃあおまえあれだ。なんかこう、よくわからない内に怨みを買ったんだろ」
「えー、なにそれ? つまり逆恨みってこと?」
「ま、まあそう言えるな、うん」
「そんなの許せないよ、ほんとに」
ぷんすかと怒りを露わにする玲。
よ、よかった……なんとか誤魔化せた、のか?
俺はだいぶ自信がなかったが、これ以上この話題を長引かせてはいけないと判断し、話題を切り替えることにした。
「と、ところで玲、この間借りたゲームのことなんだけどさ」
「ゲーム? どれのこと?」
「ほら、あの今映画になってる奴の原作」
「ああ、あれね。『フェ○ト』ね」
「そうそうそれだよ。あれ、一応ラストまでプレイしたんだけどさ」
「どうだった?」
「すげー感動したよ。特に最後のシナリオ。あれには泣いた」
「でしょ? あれは誰もが認める神シナリオなんだから」
「ああ、その通りだぜ。かっこいいよな、たった一人だけのヒーローなんて。俺もああなりたいぜ」
「もう、バカなんだから、建斗は」
「は? どうしたんだよ、玲?」
玲は若干頬を染め、照れくさそうに視線を泳がせる。
そこにあるのは羞恥……というよりは単なる気恥かしさで、あとに続いて覚悟と躊躇が読み取れる。
きゅっと、玲が俺の制服の裾を握ってくる。
「もうなってるよ、建斗は。私だけのヒーローに」
「…………」
「…………」
「…………」
ぼふん、と頭の上が爆発しそうだった。
え? 今、なんて言った、玲?
全身が熱湯に入っているかのように熱くなる。
「……か、帰るか」
「そ、そうだね」
玲も今のやりとりが恥ずかしかったのだろう。顔を真っ赤にして俯いてしまっていた。
「だ、誰だ!」
ばきっと、何かが割れるような音がする。
俺はバッと振り返り、音のした方を見やった。けど、そこに人影はなく、ただ寂しく風が吹き抜けていくだけだった。
「どうしたの、建斗?」
「……ああ、いや……何でもない」
気のせい……だったのだろう。
そう自分に言い聞かせ、玲を振り返る。
「帰ろう」
「うん」
俺たちはどちらからともなく手を握り、帰路につく。
そうだ、すべては偶然の産物だ。故意に人を傷つけようなんて輩が俺たちの前にいるはずがない。
この時の俺は、そう固く信じていた。
しかし、この時の俺は……俺も玲も九条も、誰一人として知る由もなかった。
ここから先に待ち受けている、衝撃の展開を。
◆
翌朝、教室にたどり着くと入口付近に人だかりができていた。
「な、なんだぁ?」
「どうしたんだろうね、みんな」
俺は眉をひそめ、玲が小首を傾げる。
俺たちはとりあえず、一番近くにいた奴に声をかけた。
「おい、どうしたんだ?」
「おお、石宮だ」
「何? 石宮だと?」
「石宮が来たのか?」
俺の登場がそれほど待ち遠しかった……というわけではないのは、みんなの好奇心に駆られたような視線でよくわかった。
何だろう、すげー嫌な予感がする。
俺は一斉にこちらを向いたクラスメイト並びに同級生たちの視線に、一歩たじろぐ。
「な、なんだよ? どうしたんだ、みんな?」
「どうしたじゃねえよ、建斗。おまえ、黒板のあれは本当のことなのか?」
「黒板の……あれ?」
教室の中から真人が顔を出し、そう訊ねてくる。俺には何のことだかさっぱりわからなかったので、人だかりを押し除けて教室内へと足を踏み入れた。
――と、そこに書かれていたものを見て、絶句する。
「な、なんだぁ……ありゃあ」
俺たちの目の前、つまりは黒板に、白いチョークで太々と一言、書かれていた。
『石宮建斗は何股もしている超最低男だ!』――と。
「なぁ建斗、ありゃあ本当かよ?」
「な、バカか真人! そんなわけねえだろ!」
再度真人に問われ、反射的に否定する。が、その否定の仕方があまりに慌てていたからだろうか。周りにいた奴らは信じようとせず、ひそひそと内緒話を始めてしまう奴まで出てくる。
それが一人や二人ならいざ知らず、三人、四人と増えていき、なんとなくついにはその場の全員が俺を蔑んでいるかのようにさえ感じられてくるから不思議だ。
俺はいたたまれない気分になって、下唇を噛み締める。
このまま、逃げ出してしまおうか。
そんな気持ちが湧いてくる。本当にそうしてしまおうとする両足を必死の思いで押さえつける。
だめだ。今逃げたら、たぶんみんな俺のことを本当に何股もする浮気最低野郎として認識することだろう。その行為は、黒板に書かれていることを認めることになる。
逃げ出すことはできない。でも、だったらどうしたらいいんだ?
俺は内蔵を握りつぶされそうているかのような息苦しさを感じて、冷や汗を掻く。
どうしたらいい、どうしたら、どうしたら……?
段々と頭の回転が遅くなる。もともとそれほど頭がいいというわけではないので、更に打開策を思いつくのが難しくなっていく。
ただただ、焦りと苛立ちとが混じり合っていく。
誰か……本当に誰か……助けてくれ。
「――ふざっけんなッ!」
心の中で誰かに助けを求めていた俺の願いが通じたのだろうか。教室中がシンと静まり返る。
いや、今誰かの声がしたような……?
俺は俯かせていた顔を上げ、そっと声のした方を見た。
すると、いつの間に入って来たのだろう。教室の真ん中で、玲が両肩を震わせ、怒りに満ちた視線をその場にいた全員に投げつけていた。
玲の思いもしなかった言動に、誰もが彼女を見つめていた。
俺だって、何が起きたのか全く理解できなかった。
「建斗は、違うって言ってるだろ! それをなんで、なんで……!」
「れ、玲……?」
「なんで、あんな黒板に書かれた言葉一つで、どうして……」
徐々に玲の言葉尻が小さくなっていく。最後にはしゃくりをあげて、泣き出してしまった。
「みなさん、どうかされまして?」
「あっ……九条」
「九条……今、来たのか?」
「ええまあ。車が渋滞に引っかかりまして。間に合ってよかったですわ」
九条は少しも焦った様子なく、優雅な佇まいでそこに立っていた。
いつものようにその豊満な両胸を抱き上げるような格好で。
「それで? これは一体どういうことですの?」
怪訝そうな顔で九条が訊ねてくる。それはそうだと思うのだが、説明できるほどの精神的余裕は今の俺にはなかった。
他のみんなにしてもそうだろう。九条から目を逸らしたり、俯いたり。
とにかく、保身に走るのが精一杯の様子だ。
「まあいいですわ。通してくださいまし……ふうむ、なるほど」
九条が黒板に書かれた文字を見つめる。目を細め、何かを思案するような顔つきになる。
「あれは事実ですの?」
「……いや違う」
「そうですの。まあ何にせよ、今は次の授業の邪魔ですわね。消してしまいましょう」
「えっと、九条?」
「何ですの?」
黒板消しを手に、その文字列を消そうとしていた九条が迷惑そうに振り返る。
「お、おまえは……それを見てなんとも思わないのか?」
「はあ? あなたは今、わたくしの質問に対して違うとおっしゃいましたわ」
「それはそうだが」
「それが全てですわ」
これでこの話は終わりだとばかりに、九条は文字列を消す作業を再開する。
「ぐすっ……私も手伝うよ、九条さん」
「あら、助かりますわ」
玲も九条と一緒に、黒板の文字を消していく。
俺は、その様子をじっと見つめていた。
◆
そして一時限、二時限が終わり、三時限目。
俺と玲の所属するふた組みが合同で行う体育の時間。
「あー、建斗。さっきは悪かったな」
本日は体育担当の先生が休みだということで、男子女子混合のドッチボールを行うこととなった。高校生になってドッチって。
その活動の最中、真人が俺に誤ってくる。謝るくらいなら最初から……とは思ったが、こいつだって悪気があったわけではないだろう。
だからまあ、勘弁してやろうじゃないか。
「気にするな。俺は寛大な男だからな」
「いや本当に悪かった。この通りだ」
真人が両手のしわとしわを合わせて謝ってくる。
まあ実際、悪いのはこいつじゃない。いやこいつも悪いと言えば悪いのだが、本当に悪い奴は他にいるのだからこいつばかりを責めても仕方がないだろう。
他の連中だって、多かれ少なかれそういう奴らばかりだ。
罪を憎んで人を憎まず……って誰の言葉だっけ? ガンジー? ま、あんな感じで俺は真人の言葉を軽く流すことにした。
本当のところを言えば、少し、ほんのすこーし傷ついたけど。それは、まあいいや。
そうした真人の行動を皮切りに、次々にクラスの連中が謝罪にくる。
俺はその度に快く許してやるのだが、同時に少しもやもやとした気分になる。
さっきまで俺のことを散々言っていた奴らがちょっと謝っただけで許してもらえるとあたり前に思っている。そのことに、軽い苛立ちを感じてしまうのだ。
しかしそこはそれ。俺は自分の中に生じたそういう気持ちをぐっと堪え、謝罪に来る連中の相手をする。
そうこうしている内に、授業が終わった。
担当の教師が玲に道具の片付けを命じる。玲は嫌な顔一つせず、先生に言われた通りに片付けを開始した。
「玲、俺も手伝おう」
「建斗、ありがとう」
一人では大変だろうと俺も玲を手伝うことにする。他の連中は……さっさと教室に戻ってしまっていた。
全く、薄情な奴らだ。もっとも、あいつらには玲ならこれくらいすぐに終わらせられると思っているのかもしれない。
なにせ、学校での玲は俺の知っている玲とは多少、いやだいぶ違うのだから。
学校での玲はスポーツ万能、成績優秀の才色兼備な完璧超人として知られている。
そんな玲と付き合いだした頃は、そりゃあ色々と言われたものだ。
それこそ俺が玲の弱みを握っているだとか、実は俺は天才的な詐欺師で玲に何億という借金を背負わせているとか……どっかの国の陰謀論とか。
まあほとんどおふざけが入っているとは思うのだが。
しかし、人の噂も七十九日までとはよく言ったもので、今ではそうした話は一切聞かない。
お陰で、現在の俺と玲は平穏な日々を送っている。
「さてと、これで最後だね」
「ああ。あとはこのコーンとライン引きを……」
所定の位置に戻すだけだ、と続けようとして、俺は言葉を詰まらせた。
突然、周囲が暗くなったのだ。続いて、ガタンという音がする。
俺が慌てて振り返ると、さっきまで開いていたはずの体育用具倉庫の扉が閉まっていた。
「は? なんで……」
俺はライン引きとコーンをその場に置き、扉の近くまで歩み寄る。
「……おいおい、まじかよ」
「どうしたの、建斗? 一体何が……」
「あー……いや」
暗闇の中から、玲の不安そうな声が聞こえてくる。
俺はできるだけ玲の不安を煽らないよう慎重に言葉を選んで、現在の状況を伝える。
「誰かが鍵を……間違えてかけやがったらしい」
「え? それってどういうこと?」
「そのままの意味だ。俺たちは閉じ込められた」
ありのままに事実を伝えると、玲からの反応はなかった。
どうしたんだ? とこっちが不安になる。閉じ込められたんだぞ、俺たち。
「だ、大丈夫か、玲?」
俺はおそるおそる、玲へと近づいていく。手探りで周囲の物を避けながら、彼女の側へとどうにかこうにかたどり着く。
俺はやっとのことで、玲に触れた。ここは……頭か? 髪の毛のふわふわした感触が手の平を通して伝わってくる。
「どうしたんだ、玲?」
俺は膝を折り、できる限り玲の不安が増さないよう柔らかな声を出す。
泣いているのだろうか。触れている手の平を通して、玲の体が小刻みに震えているのがわかる。
「だ、大丈夫だ、玲。俺がついてるだろ?」
そっと、玲を抱き締めてやりたくなる。
俺は玲の頭から手を退けると、ゆっくりと背中へ手を回した。
と、俺の手が途中でぴたりと止まる。
「れ、玲……?」
俺は玲の態度に違和感を感じて、眉をひそめた。
玲は震えている。ぷるぷると。しかしそれは泣いているからとか、不安に駆られていだと思っていた。
けど、実際は違っていたらしい。
よくよく聞くと、玲は笑っているようだった。
全身を揺らし、くつくつと笑いを堪えている様はまさに何かを企んでいる悪者のようだ。
「ど、どうしたんだよ、玲? 何がおかしいんだ?」
「う、ううん……別におかしくなんかないよ。ただ……」
「ただ……なんだ?」
「いや……今週見たアニメに同じようなシチュエーションがあったなって思って」
「…………」
ああ、なんだそんなことか。
俺はがっくりと肩を落とし、脱力する。
今週見たアニメに似たようなシーンがあった。それはたぶん玲にとって歓喜するべきことなのだろう。
けど、今はそんなことを言っている場合じゃあない。
「それはわかったから、どうにかしてここから出ないと授業に遅れる」
「建斗はそんなこと気にしないでしょ?」
「いや、おまえが遅れるんだよ。俺はいいけどおまえはまずいだろ?」
「建斗……そんなに私のことを」
段々と暗闇に目が慣れてきたせいか、ぼんやりとだが周囲の状況を見て取れるようになってきた。
玲は両手を合わせ、俺を見ていた。
たぶん、きらきらした瞳でいることだろう。
「……とはいえ、一体どうしたらいいんだ?」
うちの学校の体育倉庫には窓がない。従って、窓を割って脱出、なんてことは当然不可能だ。
ならどうするか? 出入り口となれるような場所と言えば、今鍵が閉まっている目の前の扉以外にはないわけだが。これを突破するのは相当骨が折れるな。
何か別の打開策を考えないといけないだろう。何かないか、何か。
「ねえ、誰かに連絡してみたらいいんじゃない?」
「おお、そうだその手があったか!」
スマホで真人か九条当たりに連絡を取ればいい。そうしたら、すぐにでも助けがくるぞ。
俺は早速ポケットからスマホを取り出し……取りだ、取り……と……。
「あああああ! 教室に置いて来たんだったぁぁぁ!」
俺は頭を抱え、絶叫する。
体育の時間は大体みんな教室に置いている。それはうちの学校が至極まじめな校風だから、ということではなく、万が一落として踏み割ってしまう可能性を排除するためだ。
もちろん、みんなそれなりに盗難対策はしている。それは俺だって例外ではないのだが、今回はそれが裏目に出た形だ。
つーか誰が予想できるか! 自分が通っている学校でこんなアニメかゲームのようなシチュに陥るなんて!
「まあまあ建斗、まずは落ち着いて。こっち来て座ろうよ」
「……なんでそんなに平然としてるんだよ、おまえ」
「建斗と一緒なら、大丈夫だよ」
ニコッと笑った、ような気がする。暗くてよくわからんが。
「……そいつはどうも。しかしいくら大丈夫だからっていつまでもこのままというわけにもいかないだろ」
「ほっといたらその内誰か来るよ。それよりほらぁ、こっち座って」
ポンポンとマットの上に俺を誘う玲。俺はごくっと唾を飲み込んだ。
そう言えば、俺もちょっと前にこんなシチュを見たことがある。あれはなんだったか。
そうだ、玲から借りたゲームだ。Rー十八版から家庭用に移植された奴。
玲はRー十八版も持っていたそうなのだが、そっちは俺には刺激が強いからと家庭用を貸してもらったのだ。彼女からエロゲを借りる彼氏なんてどうなのよって話だしな。
その中にあったぞ、こういうシチュ。
薄暗い体育倉庫。お互いに体育のあとだったからじんわりと汗ばんだ体。
おあつらえ向きにマットが置かれていて……今みたいに。その上に二人で寝転ぶ主人公とヒロイン。どちらからともなくキスをし、服の上から胸を揉み……と、俺がやった奴はここで次のシーンまで話が飛んだ。まあただのヤッてるところだったろうし、別にいいんだけど。失敗したーとか全然思ってないから大丈夫。なにが?
とにかく今の俺は、そのシーンを思い出して顔を真っ赤にしているわけで。
ああ、真っ暗で助かった。あのゲームだと窓から差し込む光のせいでお互いの表情が見えるんだったな。
「いや、えっと、だな……俺たちにはまだ早いと思わないか?」
「ん? なにがー?」
「なにがっておまえ……そりゃあ」
その、ええと……なにも準備らしい準備なんてしてないし、ドッチやって汗掻いているし。
頭の中には次々に言い訳が思い浮かぶのだが、いかんせんそれが口をついて出てくれない。
玲はきょとんとした様子で(たぶんだけど)俺を見つめていることだろう。
「なに言ってんの、建斗。ほらぁ早くぅ」
「ちょっ、待て玲」
玲が俺の腕を掴んで引っ張ってくる。俺は足をもつれさせ、思い切り転倒した。
「……と、いきなり引っ張るな。危ないだ……ろ?」
と注意をしようとして、俺は言葉を詰まらせた。
なぜなら、俺の目の前には玲の顔が間近にあったからだ。つまり俺は玲を押し倒す形で転倒したことになる。その事実だけで、すごく顔が熱くなる。
だというのに、手には柔らかな感触があった。指先に力を込めると、ぷるんと反発してくるような弾力だ。
これは……まさか!
「け、建斗……一体なにを……?」
さすがにこの距離なら、玲の表情を読み取ることができた。
玲は顔を真っ赤にして、体を硬直させていた。そして……ええと、どうしたらいいんだ、ここから?
玲の恥ずかしがるような顔色。九条ほどの大きさはないが形と張りのいい胸。
なによりお互いに汗を掻いているため、玲のかぐわしい香りが倉庫内に充満し、俺の尾行をくすぐってくる。
それだけで、俺の理性は崩壊しそうだった。なんの用意もしていないとか、そんなことが頭の片隅から追い出されてしまいそうなほど、俺はおかしくなりかけていた。
「け、建斗ぉ……そろそろ」
じっと黙り込んだままの俺を不審に思ったのだろう。玲はどこか弱々しく、俺の名前を呼ぶ。
その声に、俺はハッとした。慌てて玲の上から起き上がる。
「す、すまん……! えっと、俺……」
「えと……うん、大丈夫。男の子……だし」
「いや、なんだ……すまん」
「だから大丈夫だよ? それに建斗なら、あのまま……」
「ん? なんだ?」
「な、ななななんでもないよ!」
俺が訊ねると、玲は慌てた様子でわたわたと手を振る。
きっとさっきのことを思い出しているのだろう。俺も、思い出したら恥ずかしくなってきた。
くそ、一体なにを考えていたんだ、俺は。玲とそういうことをするには、もっと雰囲気とか大切にしなくちゃだめだろうに。
俺はわしわしと自分の頭を掻き乱した。邪念よ、去れ!
「ここからの脱出方法を探そう」
「う、うん……そうだね」
本当は黙っていても誰かが来てくれるだろうことは承知していたが、あのままぼけっと見つめ合うなんて今の俺たちには無理そうだ。
それは玲も同じ気持ちなのだろう。ぶんぶんと頷いている。
あぶねー、危うく道を踏み外すところだった。
俺は玲から一旦離れ、どくどくと高速で脈打つ心臓を押さえようと何度か深呼吸を繰り返す。
「……それで、どうするかな」
「そうだね。とはいえ、正直お手上げなんだよね」
「まあそうだろうな」
窓はない、唯一の出口は塞がれている。そんな状況で脱出を試みろと言われたところで無理ゲーだ。高難易度の脱出ゲーだってもう少し色々と用意されているだろうに。
俺と玲はむむむ、と頭を悩ませる。悩ませたところで回答を導き出せる可能性は皆無だけど。
「そうだなぁ……スマホは教室だし、ここはひとつ大声を出す、というのはどうだ?」
「大声?」
「ああ、誰かに聞こえるくらい大きな声」
「……他にいい案もないし、しょうがないね」
ということで、とりあえず大声を出して助けを呼ぶ、に決定した。
「じゃあいくぞ」
すぅーっと思い切り息を吸い込む。口の両端に手を当て、腹の底から力の限り……叫ぼうとして止めた。
理由としては、俺の身に危険が迫ったからだ。
「建斗、危ない!」
「へ? おおわぁぁ!」
ガシャーンッと俺の足元になにかが落ちてくる。俺はそれを紙一重でかわした。
「な、なんだ……?」
よくよく見ると、それはなにやら金属質なもののようだった。
「えっと…陸上部が使う走り高飛びの棒か?」
「横に立てておく方だね」
でも、どうしてこんな物が?
別段、大きな揺れがあったわけでもない。こんな物が勝手に倒れてくるとは思えないのだが。
「しかし危なかった。助かったよ、玲」
「私も暗闇に目が慣れてなかったらわからなかっただろうね」
玲が安心した、というようにホッと胸を撫で下ろす。
「でもなんで倒れてきたんだろうな?」
「わからない……でも」
「でも?」
「……ううん、なんでもないよ」
玲は意味深に言葉を切って、首を振る。
いやいや、そこまで言ったなら最後まで言ってくれ。気になるだろう。
「そ、そうか……」
だが、俺はそれ以上その話題に言及しなかった。
本件とは無関係に思えたからだ。あくまで倒れてきたのは偶然によるところが大きいだろう。
「全く……あぶねーなぁ」
「ほんとだよ。建斗が怪我したらどうするつもりなんだろ」
「ああ、これは平井に言っとかねーとな」
俺は脳内に平井の小憎たらしい顔を思い浮かべて、吐き捨てる。
ちなみに平井というのは、さっきまで俺たちの体育の授業を見ていた教師だ。
細身だが適度に鍛えられて引き締まった肉体とは対照的に、性格は極めて陰険で粗暴。生徒の粗探しや欠点を見つけるのが三度の飯より大好きな常に薄気味悪い笑みを浮かべている最低サディスティック野郎だ。
いつもなら自分はあまりこういうぼろは出さないよう気をつけているはずなのだが、俺に見つかったのが運の尽きだな。今のできごとと合わせて報告しておくとしよう。
俺は平井の慌てふためいた顔を想像し、にんまりとする。
「ククククク……」
「建斗、そんな邪悪な笑い声を出している場合じゃないよ」
「おっと、そうだな」
と言ったところで、次の授業の開始を知らせるチャイムが聞こえてくる。
今日は俺たち以外に体育の授業の予定はないのか、体育倉庫の外から人の声が聞こえてくることはなかった。
えぇ……そんなぁ。
体育の授業があれば、当然ここを開けるだろうからその時に出られると踏んでいたのに。
俺はがっくりと肩を落とし、とぼとぼと玲の座るマットのところまで戻った。
「はぁ……なんか疲れたな」
「だと思ったよ。どうしよっか、これから」
「だなぁ……」
今日一日……は言い過ぎだとしても、軽く見積もって一時間は出られないと考えた方がいいだろう。その間、ずっとここに二人きりでいるわけだから。
なにが時間を潰す方法を考えないと。
「スマホはないからソシャゲで時間を潰すとかできないしね」
「なら、ちょっとしたゲームをしようよ」
「は? だからスマホは……」
「なにもデジタルゲームだけがゲームじゃないんだよ?」
「む……」
玲に言われて、なるほどそうだなと思い直す。
ゲームと言えば、ゲーム機やPCやスマホなどで遊ぶもの、という先入観が俺の中にあるためか、すぐにそういうふうに捉えてしまう。
思えばボードゲームだってゲームだし、しりとりだってゲームだ。
そうか考えると、玲の言っていることもわかるような気がする。
「それで、なにをするんだ?」
「最近こういうゲームがあるのを知ったんだけど、ウミガメのスープって知ってる?」
「ああ、もちろんだ! ……知らん」
「だと思ったよ。軽く説明すると、出題者と回答者に分かれてするゲームなんだ。まず出題者が問題を出す。それを回答者が何回か質問して回答するっていうゲーム」
「へぇ……結構難しそうなゲームだな」
「私も実際にやったことないからわからないけど。早速実践してみよう」
「そうだな」
「一応ネットには例題として、ウミガメのスープが記載されていたんだけど」
「ウミガメのスープか。ゲームタイトルまんまの例題だな」
「まあこのタイトルは日本での通称だからね。それじゃあいくよ」
「ああ」
俺が頷くと、玲はすぅーっと軽く息を吸い込んだ。
「昔々、ある海の見える断崖絶壁の崖の上に一件のレストランがありました。そこでは、世にも珍しいウミガメのスープというメニューがありました。ウミガメのスープは大変貴重であり、一日十皿限定でひと皿うん千円するほどの高級料理でした。そんなウミガメのスープを食べるために、一人の男がそのレストランへとやってきました。男は運よくその日最後のウミガメのスープを食すのだけど、男は一口食べると眉をひそめました。男はシェフを呼びつけ、訊ねます。『これは本当にウミガメのスープなのですか?』と。当然、シェフはこう答えます。『はい。間違いなく、本日最後のウミガメのスープでございます』と。男は腑に落ちない気持ちを抱えながらも、ウミガメのスープを完食。支払いを済ませ、家へと帰りました。その数時間後、男は何の前触れもなく突然自殺してしまいました。さてなぜでしょう?」
長々と例題を口にして、玲が一息つく。
「ここで、回答者は出題者に向かって質問することができるんだよ」
「えっと……じゃあ質問だ。男が自殺したのは、スープを飲んだことが原因なのか?」
「うん……というより、その線以外の原因が見当たらないね」
「だったら……海の見えるレストランは関係あるか?」
「それは……あんまり関係ないかな。原因はあくまでスープだよ」
「じゃあ……男は過去に何かトラブルやアクシデントに巻き込まれていたか?」
「うん。昔船に乗っていて、遭難した経験があるね。そこで何度かウミガメのスープを飲んで、飢えを凌いでいたという経験があるよ」
「そうか……」
俺はむむむ、と頭を抱え、考える。
海辺のレストランに立ち寄った男。そこでウミガメのスープを注文し、シェフを呼びつけてこれは本当にウミガメのスープかと訊ねる。……そして自殺。
わけがわからん。過去に遭難したことがあったらしいが、その時のことが尾を引きずっているのか? だとしても一体何が原因で……?
俺は頭の前頭葉あたりが茹だるくらいに脳をフル回転させ、考える。
がしかし、一向にピンとこない。一体、何がどうなったら自殺しようなんて考えに至るのか、全く理解できないのだ。
「……だめだ、降参だ」
俺は両手を上げ、参ったのポーズを取る。
玲はどこか満足そうに、ふふふんと上機嫌に鼻を鳴らした。
「ま、建斗はこの手のコンテンツに触れたことないもんね。でも、この結末はあんまり言いたくないなぁ」
「なんだよ? 気になるだろ、教えてくれ」
「うーん……なんというか、あんまり気持ちのいい終わり方じゃないんだよね」
「そう、なのか?」
「うん、そうなんだよ」
玲の困ったような声が耳に残る。そんなことを言われたら、ますます気になるのが人情というものだ。
だから、本当は教えて欲しい。正解をすっごく知りたい。けど、玲を困らせるのは玲の彼氏としていかがなものかとも思う。
どうしたらいいんだ?
「うー……」
俺は両腕を組み、唸る。玲を困らせずに回答を知るには、自分で正解にたどり着くしかないのか?
「いや、別に教えてもいいんだよ? でも、私も正解を知った時には軽くショックだったから」
「そんなに悲しい結末だったのか?」
「うん……建斗はカニバリズムって知ってる?」
「え? いや……知らないな」
俺はざっと記憶を探った。けど、脳みそのどこをひっくり返してもそんな単語は出てこなかった。
「人が人を食べることなんだけど、このウミガメのスープはまさにそのカニバリズムの話なんだよね」
「そう……なのか」
人が人を喰う。それを聞いて、俺はぞっとした。
背筋が凍る……のではなく、嫌悪感を覚えた。俺だったら、どんな事情があるにせよ、そんなことはしない。
「なんでそいつはそんなことをしたんだ?」
「遭難した時、他に一緒に遭難した人がいたんだ」
まあそうだろう。たった一人で船に乗る奴なんてそうとうバカな野郎だ。
当然、船旅か何かだと想像がつく。
「それで、遭難しちゃって食べ物がなくなっちゃって……他の人と一緒に殺し合いに発展したんだけど」
「なるほど。そんで生き残った奴が死んだ奴の肉を食って生き延びていた、というわけか」
「……うん」
そこまで言われれば、さすがに俺だって察しがつく。
要するにあれだ。自分を生かすためだったら殺人は許容されるべきか、という命題がこの問題の根幹にあるわけだ。
「お互いに殺し合って一人、また一人と一緒に遭難した人たちを殺していくんだけど、ついに男はそのことに疲れちゃうんだよ。最終的に男は殺した人の肉が喉を通らなくなっちゃって。そうすると、あっという間に男は衰弱していくんだよね。それを見かねた他の人が男に嘘をついて食べさせるの。『これはウミガメのスープだよ』って」
「……何つーか、確かに胸糞の悪い話だったな」
「うん、だから私もあんまりこの話はしたくなかったんだ。例えフィクションだと分かっていても、辛いから」
「確かに……悪かったな、強要するみたいになっちまって」
「ううん、平気」
玲がふるふると首を振る。
それからシーンと静かになる。俺は居心地が悪くなって、バッと勢いよく立ち上がった。
「も、もう一回誰かいないか声を出してみるか」
「そ、そうだね……お願い」
そう言って、俺は体育倉庫の出入り口へと向かう。
――と、足元に何か転がっていたらしく、それに思い切り蹴つまずいた。
「おおわぁ!」
「建斗、危ない!」
倒れそうになった俺を支えようと、玲が手を伸ばす。が、どれほど玲がスポーツ万能少女だったところで勢いのついた男の体重を支えることはできっこない。
ドンガラガッシャーンッ――と、他の用具類を巻き込んで盛大に倒れ込んでしまう。
「痛ぇ……」
「だ、大丈夫、建斗?」
「ああ、大丈夫だ。心配ない」
倒れ込んだ際にどうにか俺が玲の上になってやれたからよかった。でなかったら、玲の体のあちこちに用具類が落ちてきて、玲が怪我をするところだった。
「あの……さっき変な音がしたけど、もしかして怪我とかしたんじゃ……?」
「何言ってんだ、だいじょう……」
言いかけて、俺は思わず顔をしかめた。
やべっ……気づかれたか?
「だ、大丈夫だぞ玲。こんなのはただのかすり傷だ」
「傷……! やっぱり怪我したんだ……」
「大丈夫だって別に何ともないから」
玲の悲痛な声を聞いて、俺は内蔵がきゅっと引き絞られる思いだった。
ああ、どんな形であれ玲が悲しんだりするのはやはり嫌だ。
玲には、笑っていて欲しい。そう、あのタツノ○レジェンドアニメのヒロインのように。
「そ、そろそろ退かないとな」
よっこいせっと、俺は玲の上から退こうと状態を腕を上げる。
まさにその時だった。
がらがらがら……、と体育倉庫の扉が開く。
久々に……というほどではないが、割と長時間暗い場所にいたため突然入ってきた日の光に目がなれず、まぶしさで目を細めてしまう。
「まあ、まあまあまあ!」
「ちょっ……! なにをしているの、あなたたち!」
「おまえら……石宮、これは問題だぞ!」
扉が開いた直後に俺の頭上に降り注いできたのは、聞き覚えのある同級生の歓喜したような声と、それに続いて発せられた驚愕の声が二人分。
「だ、大丈夫、桜木さん! あの野獣になにかされなかった?」
「やじゅっ……? いえ、とくには」
「石宮、ちょっとこっちへ来い。おまえには俺から話がある」
「は? ちょっと待て、俺は別になにもしてないぞ!」
「問答無用だ。言い訳なら職員室でゆっくりじっくり聞いてやる」
「待て、待て待てって! おい九条、にやにやしてないでなんとか言ってくれ」
「ま、せいぜいがんばるのですわね。おたっしゃでー」
無情にもひらひらと手を振る九条。その横で不安げに俺を見つめる玲。
いや、おまえも黙ってないで事情を説明してくれ。でないと俺の進退に関わる。
俺はそう視線に込めて玲に訴える。けど、玲には届いた様子がなく、がっくりと項垂れた。
「むだな抵抗はやめて大人しくついて来い。なに、悪いようにはせん」
「いぃぃやぁぁぁぁ!」
体育教師は俺の首根っこを掴むと、ズルズルと引きずっていく。
俺はそのまま、抵抗むなしく職員室へと連行されてしまったのだった。
◆
それからおよそ二時間ほど。授業を三つほどすっぽかす形で、ようやく俺は体育教師の説教から解放された。
くそぅ……あいつ、生活指導も担当しているからって偉そうに。今に見てろよ。
俺はあのでかぶつ強面教師に復讐を誓いつつ、保健室の扉を開けた。
当然、俺の上に落ちてきた体育用具によってもたらされた刻まれた怪我の治療のためだ。
「あー、先生。失礼します」
「はいこんにちは。今日はどうしたの?」
机に向かって書類らしきものを書いていた養護教諭の先生が振り返る。
なぜだろう。ゲームなんかでは養護教諭ってむだに胸がでかくて尻がでかくて……とにかくグラマラスな感じに描かれることが多いのが、現実ではそんなことはなくただのどこにでもいそうなおばちゃんだったりするところに、虚構と現実の無慈悲さを痛感するのがお約束のはずなのだろうが、俺の通う学校の養護教諭はそんなお約束など知らん顔で、ぼんきゅっぼんな体つきをしているのだった。
おまけに胸元を大体に開けたシャツの上に白衣を来て、膝上のタイトスカートに落ち着いた色合いのパンティストッキングを履いていたりするからなお性質が悪い。
まるで、二次元キャラをそのまま三次元に落とし込んだかのような存在だ。
これでは、いかに玲がかわいかろうと天使だろうと、その胸元やら足やらに目線がいってしまうのは避けられない。だって男の子だもん。
「どうしたの? なにか怪我をしたから来たんじゃないの?」
先生に言われて、俺はハッとなって首を振る。
そうだ。俺は肩に受けた怪我の手当をしてもらうために訪れたのだ。
「そうです。……すみません」
「? どうして謝るのかな? なにか悪いことをしてできた怪我なのかなぁ?」
先生はにっこりと柔和な笑みを浮かべて、小さな子供を相手にしているような口調で語りかけてくる。
「そういうことは……ええと、このあたりをちょっと」
と、俺は自分の肩のあたりを指差す。
すると先生はおもむろに立ち上がって、俺の体操服の襟の部分をずらした。
それからじっくりと、俺の肩を見つめる。……患部を、だけど。
「ふむ……ただの軽い打撲だね。ちょっと痛みはあるかもしれないけど、まあ大したことはないよ。湿布貼って安静にしていれば、明日には痛みもなくなってるはずよ」
「そ、そうっすか……」
「そうっすよ」
先生は柔和な笑みを浮かべたまま、椅子に座り直した。
俺は先生に触れられて、どきどきしたってのに先生は平然としたものだった。
これが、大人の余裕って奴か。……ただ子供に見られているだけという線もあるのだが。というかそっちのほうが濃厚だ。
「じゃあシップ出しとくから、今日は早めに帰るのよ?」
「は、はい……わかってます」
「よろしい。じゃあ特別に先生が貼ってあげようか」
「はい……え?」
先生の予想外の提案に、俺は目をどんぐりにした。
要するになんかよくわからない自体になった、ということだ。
「え、ええと……それは」
「自分じゃ貼りづらいでしょ? だから先生が貼ってあげるって言ってるのよ。さあ脱いで脱いで。いくよー」
「ちょっと待って……」
先生に煽られ、俺は慌てて体操服を脱いだ。本当は肩の部分まで露出させるだけでよかったのだが、勢いで上半身を全て脱いでしまう。
「ふうん……結構いい体つきしているのね」
「……それはどうも」
「なかなか引き締まっているわ。部活は運動系?」
「えっと……帰宅部、です」
「そうなの……ということは、自分で鍛えているのかしら?」
「まあ……そうなりますね」
「ふーん……そう」
先生はぺたぺたと俺の肩に触る。いや、肩だけでなく、腹とか背中とか腰とか、全体的にくまなく、だ。
「あの……先生、そろそろ」
「ああ、ごめんなさいね。私ったらつい」
「はあ……」
つい? ついなんだって話だ。
俺は心の中で生じたその疑問を口にしようとして、やめた。
養護教諭とは今回が始めての対面だったのだが、この感じだとどうせはぐらかされるのがオチだ。なら、むだなことはするまい。
ぺたり、と肩の部分に若干冷やりとした感触があった。そののち、ぺちっと軽く背中が叩かれる。
「さ、終わったわ。あとは明日まで安静にしていること。間違っても彼女とむふふなことをしちゃだめよ?」
「わ、わかってますよ。……第一俺たち、まだ高校生ですよ? そんなこと……」
「あらぁ? そんなことは障害にならないわよ。私なんて、中学二年の時に処女を喪失しちゃったもの」
「ぶふぅっ!」
先生のトンデモ発言に、俺は口の中から盛大に何かを吐き出した。
と、突然なにを言い出すんだ、この人は……!
「ははは、冗談よ、冗談」
「で、ですよねー」
「本当は中学三年生の時よ」
「いやそんなに変わらねぇよ!」
俺は思わず叫んでいた。と、俺の後ろに並んだベッドの左側のほうから、ガタンッという音が聞こえてきた。
「あらあら、ちょっとうるさかったみたいね」
「誰か寝てるんですか?」
「ええ。……詳細は言えないのだけど、いろいろと事情を抱えた子でね」
先生は声をひそめ、俺に耳打ちしてくる。しかし俺は先生の甘い吐息が耳にかかっていることで、内容のほとんどを即時忘却してしまっていた。
「さてと、それじゃあこれくらいにしてお仕事に戻らないと」
「あっ……すいません、邪魔しちゃったみたいで」
「いいのよ。生徒のケアも私の仕事のうちだから」
先生がぱちっとウインクしてくる。うーん、これが魔性の女って奴なのだろうか。これはこれでなかなか……。
「それに、私は他人の男の手を出す趣味はないの」
「へ?」
つんつん、と先生が扉のあたりを指差してくる。俺はなんの気なしに振り返ると、そこには一人の女子生徒が鬼のような形相で立っていた。
「なっ! おまえ、なんでこんなところに!」
「……先生たちに事情を話して誤解を解いて……建斗大丈夫かなって思って来てみたら……ななにしてるの、建斗?」
「あ、ああ……いやこれは違うんだ」
「なにが? なにがどう違うって言うの?」
「なにが……と聞かれると答えに非常に困るのだが。と、とにかく違うんだ。俺はただシップを貼ってもらっていただけで」
「鼻の下伸ばしてでれでれしてたくせに……」
「そ、それは……」
言葉を重ねるほど、言い訳にしか聞こえない。
俺はなんと言ったらいいのかわからず、あたふたしてしまう。
前にもこうした修羅場的なことはあった気がしたのだが、その時にどう対処したのか全く思い出せないのだ。……たぶん無我夢中だったのだろう。
俺はいそいそと上着を着て、体ごと玲に向き直る。
あれやこれやと言い訳を重ね、先生からの協力も得られたことでその場は一旦収まりを見せた。た、助かった……。
「ふふ、ごめんなさいね。彼、すごくいい反応をするものだからつい楽しくなっちゃって」
「そういった行為は教育上よろしくないと思われますので、今後お控えくださいますようお願い申し上げます」
「ええ、わかっているわ。……ほどほどにしておく」
事務的にテキストを読み上げるAIのように淡々と言う玲とは対照的に、先生のほうはあくまでにこやかに手を振るのだった。
つーかこの人、絶対玲も含めて遊んでるだろ。
俺は半ば確信気味にそう思ったが、あえて口にはしなかった。
言ったところでどんな仕返しが待っているかわかったもんじゃないからな。
「それじゃあ私は本当にお仕事に戻るわ。眠っている生徒もいることだし、いつまでも騒がしくしちゃかわいそうだもの」
「だったら最初からやらなきゃいいのに」
「いいのよ、気にしなくて。それじゃあお二人さん、またね」
先生がぱちっとウインクをしてくる。それに対して例はロボット地味た動きで会釈したのち、くるりと身を反転させ、つかつかと行ってしまう。
俺も玲のあとを追い、慌てて頭を下げて小走りに玲に駆け寄る。
「ええと……玲、怒ってるか?」
「……別に。怒ってなんかないよ」
先生が目の前からいなくなったためか玲がぷーっと頬を膨らませる。
見るからに怒ってるよなぁ、これ。
「わ、悪かったよ。別に悪気がったわけじゃないんだ」
「だから、別に怒ってないって。建斗が美人の年上の先生に迫られて鼻の下を伸ばしていたりしたって、私は怒ったりしないよ」
「やっぱ怒ってるじゃんか……」
俺を置いて行こうとする玲。一体どうしたら玲は俺を許してくれるのだろう。
うーん……困った。
こういう時は、あの手に限る。
「な、なぁ玲、帰りにどっかよってかねぇか?」
「……どっかってどこ?」
「え、えーと……スターバッ○スとか?」
じとーっと、責めるような玲の視線が俺を貫く。
どうやら、ス○ーバックスはお気に召さなかったようだ。
「じ、じゃあ○オはどうだ? 確か今日って新しいソフトの発売日だったよな?」
「……まぁいいけど。それだけ?」
「へ? ああっと……あとはゲーセンとかか?」
「ゲームセンター、建斗のおごりね」
「え? まじ?」
「嫌なんだ」
玲がぷいっとそっぽを向く。ああもう、わかったよ。
「わかった。それでいいよ」
なんとか、玲の期限は持ち直してくれたらしい。
俺はほっと胸を撫で下ろした。
あー、なんだか結構神経を使ったような気がする。なんか疲れた。
「じゃあその……授業が終わったら校門前で待ち合わせでいい?」
「お? おお、いいぜ」
若干機嫌が直ったか? よかったよかった。
「じゃあまた放課後な」
「……うん」
怒っていた手前、急に機嫌よく降る舞うのもおかしいと考えているのだろうか。
玲は若干頬を染めつつ、小さく手を振ってくる。俺もそれに手を振り返す。
さて、本日の予定も決まったことだし、あとは残った授業を消化していくだけだな。
俺がそう思い、自分が所属する教室の扉を開ける。――と、クラスメートが一斉に俺を振り返った。
俺はびくりと肩を震わせ、身構える。なんだなんだ?
そうして俺が警戒していると、一番手前にいた奴が質問をしてくる。
それもかなり不躾な奴を、だ。桜木とは体育倉庫でナニをしていたんだ――とか。
質問……というよりほとんど断定的な口調だった。日本語はもうちょっとうまく使え。
などと、心中であきれる。と、そいつを皮切りに一斉に質問が飛んでくる。
まあそのほとんどが、最初の奴と似たりよったりの下世話な質問だったが。
俺はその質問をなんとかかわしつつ、ふと脳裏に過ぎったことを口走る。
「……こんな時こそ、聖杯がほしいよなぁ」
◆
クラスメートからの質問攻めにあい、俺の疲労度はMAXまでつり上がっていた。
とはいえ、玲との約束をすっぽかすわけにはいかん。
俺は放課後になるとすぐさま教室出て、数学の先生に怒鳴られながら廊下を疾駆する。
階段を駆け下り、下駄箱までやってくる。玲の姿を探して左右を確認。
まだ、玲のクラスはHRが終わっていないようだ。
俺は玲の姿が見当たらないことにほっとする。男が女を待たせるなんてありえないだろ。
「……さて、どうするかな」
玲は校門前で待ち合わせと言っていたが、校門前だとさっきみたく質問攻めに合う可能性がある。いや……それはどこにいたって同じことか。
なら、むしろ堂々としていたほうがいいのだろうか。……ないな。
俺は堂々と校門前で玲を待っている自分の姿を想像する。なんとなく間抜けな感じがするな。
ふるふると首を振り、その考えを追い出す。なにか別の案があればいいんだが。
「もういいや。普通に待っていよう」
そう決めて、俺は外靴へと履き替える。それから校門前まで行き、しゃがみこんだ。
五分……いや二、三分くらいだろうか。時間が経ち、俺はなんとなく暇だと感じた。
ので、鞄の中から一冊の本を取り出す。表紙にかわいい女の子がでかでかと描かれた本だ。
いわゆるライトノベルという奴で、挿絵とあまり難しくない文体のお陰で普段本なんてあまり読まない俺でも割と継続して読み続けられる類いの本だ。
玲と付き合う以前は、こうした本を手に取ることなんて絶対になかった。それはつまり、いい作品と出会う機会を自分から棒に振っていたことになる。
こういう点一つとって見ても、玲と付き合ってよかったと思える。
玲は俺の知らなかったことを多く知っているからだ。
そういう部分は、大いに感謝している。
「ん……来たか」
俺はラノベから視線を上げ、玲の姿を確認する。
「おー……い? どうしたんだよ、玲?」
「……別に。なんでもないよ」
校門に現れた玲は頬をぷくーっと膨らませ、明らかに怒っている様子だった。
なんでもない……ようには見えないんだけど。
「いや、でもおまえ……」
「なんでもないったらなんでもないんだよ」
玲はぷいっと顔を背ける。……なんだ?
「でも……」
「……実は、体育の時のあれって明らかに誰かの仕業だったでしょ?」
「誰か……の仕業だったかどうかはわからないが、確かに自然とはならないよな」
きっと誰かが誤って閉めてしまったんだろうと思うけど。
玲は俺の反応が気に入らなかったのか、さらに不機嫌そうな顔色になる。
「ううん、あれはきっと誰かの仕業だったんだよ。その証拠のこれ見てよ」
「うん? これって……キーホルダー?」
「間桐桜のデフォルメキーホルダー。体育倉庫の近くで拾ったんだ」
「え? ……ということは」
んん? どういうことだ?
「つまり、あの場に誰かがいたってことだよ。その人が私たちを閉じ込めたんだ」
ふんすー! と玲が鼻息荒く怒りを露わにする。
「待て待て、それだけで決めつけるのはどうなんだ?」
「健斗……全く」
玲ははぁ……、と溜息をつく。
え? なにこれって俺があきれられてるの?
俺は玲の溜息の意味を理解できず、困惑する。
……どういう、ことなのか。
「玲?」
「いい、健斗。よく聞いて」
「お、おお……」
玲は妙にまじめくさった、真剣な声音で俺に説明する。
「あの場所は私たちが閉じ込められてから、九条さんたちが来るまで誰も来ていない。加えてあの場所にキーホルダーが落ちていたことは不自然なことなんだよ」
「不自然? そりゃまたどうしてだ?」
「なぜならあの場所は、体育の時間以外は運動部が部活をする時くらいしか使われないからだよ。そしてそんな活動をしている最中、キーホルダーを持っていたイとは思わないでしょ?」
「……まあそうかもしれないな」
落としたり、失くしたりしてしまったら大変だからな。特にあのキャラは人気のあるキャラみたいだし。
「だから、変だって言ってるの。あれがあそこにあったということは、体育の時間以外であの場所にいたっていうことに他ならないよ」
「他……ならないのか」
「うん、間違いないよ」
「間違い……ないのか」
「うん!」
自信たっぷりにうなずく玲。俺は苦笑して、頬を掻いた。
「まあだったとしても、もういいじゃんじゃないか? 別に大けがをしたってわけじゃあないんだからさ」
「だめだよ!」
どーん、と玲が声を荒げる。どうしたんだよ、おまえ。
「健斗はけがをしたんだよ。結果的に大したことがなかったとしても、それで流していいことじゃないよ、今回のは」
「お、おお……そうだな」
ゴゴゴゴゴゴゴッと、玲の霊圧が増す。俺がけがを負わされたことについて、怒っているのだろうか。
「大丈夫だよ健斗。犯人は必ず私が見つけ出す。そして健斗の前に引きずり出してやる……!」
「いや、だから俺は別に大丈夫だって」
「とりあえず明日の授業は一つも出ないから」
「だめだろ、それは……」
「授業なんかどうだっていいよ。それより健斗に謝らせるほうが私にとっては大切なことだから。大丈夫、明日一日だけだよ」
もうある程度目星はついているのか、はぎらぎらと怨嗟の炎をその瞳にくゆらせてそう宣言する玲。……いや、そんなこと言われたってなぁ。
うーん、また俺が玲に余計なことを吹き込んだとか言われるんだろうなぁ。
全く、人気者はつらいぜ。
俺は肩をすくめ、やれやれと首を振る。
こうなったら、玲は俺が何を言おうと耳を貸さないだろう。
本当に俺は犯人なんてどうだっていいんだが。まあ玲がそうしないと気が済まないというのなら、好きにさせておいて構わない。
俺も、少し興味があるから。こんなことをする奴が一体どんな奴なのか。
「ま、だったら頼んだぜ」
「まかせて。私が健斗の仇を取ってあげるよ」
「……あんまり無茶はしないでくれよ」
いくら犯人を見つけるためとはいえ、玲が傷ついたりけがをしたりするのは嫌だからな。
俺がそう警告すると、玲は「わかってるよ」と胸を張った。
「私を誰だと思ってるの?」
「ま、おまえは学年一頭のいい奴だからな。無茶はしないだろうとは思っているけど」
「でしょう? 安心して、健斗」
得意げに並びのいい白い歯を覗かせる玲。
……安心できない。つーかむしろすげー不安だ。
俺は胸中に一抹の不安を抱えながら、しかしそれを口にはしなかった。
これ以上言ったところで、それこそ無駄だろうからだ。
◆
そして玲の犯人探しが始まった。それと同時に、桜木玲が授業をサボッているという事実に各教科の担当の先生を始め、玲のクラスメートや真人や九条らも驚きを隠し切れない様子だった。
そんな中、俺は一人溜息をつく。
本当に犯人探しが始まってしまったのもそうだが、玲の行動がここまで他人の関心を引くとは予想外だったからだ。さすがは『深層の令嬢』と言われるだけのことはある。そろそろその設定忘れそうになっていたが。
玲が何の連絡もなく授業をさぼると当然事態の説明を求めて何人もの生徒や教師が俺のもとへとやって来るわけで。
俺はそれらの質問に一つ一つ、丁寧かつてきとーな嘘八百を並べながら答えていく。
「……あなたの言っていることはでたらめですわね」
などと九条に言われた時にはひやっとした。が、何とか誤魔化すことができたのでよしとしよう。
放課後まで、俺は玲のファンの女子や先生や玲にひそかに思いを寄せる男子や玲のファンックラブの会長を名乗る男や果ては学外のホームレスに至るまで、本当に大勢の人たちの質問に答えていく。……本当のことを言ったかどうかはまた別の話として。
そして放課後になると、俺は普段吐かない嘘を連続で吐き続けていたことに対する疲労とようやく今日が終わるという解放感から、ぐでーっと机に突っ伏した。
「お疲れ。大変だったな、健斗」
「真人……まあな。改めて玲の大人気ぶりがわかった」
「学外からも来てたもんな。……どっから聞きつけてきたんだろうな、あのひげもじゃ」
「わからん。……ただまあそれだけ玲がたくさんの人から慕われているんだとわかったらなんだか少し嬉しくなった」
「はんっ……彼女持ちの余裕か? 俺だって近い内に九条と……」
「無理だ無理。諦めろ」
「なっ……協力してくれるんじゃなかったのかよ!」
「ん、まあそうなんだけど」
それはそれ、これはこれだ。協力はするけどうまくいく算段は低いって意味だ。
なんて言ったところで意味がないから言わないけど。
俺はふぅと吐息して、半眼を作る。
そりゃあ俺だって真人の恋は応援したい。けど、肝心の九条にその気がないのならいくら真人が頑張ったところで無意味だ。
だから、俺がしてやれることは皆無だろう。
「……せめておまえがもうちょっとイケメンだったらなぁ」
「ああん? ケンカ売ってんのか、おまえ?」
真人が柄の悪い不良みたいなことを言い出す。
「ケンカなんか売ってねぇよ。ただおまえがもっとイケメンだったら、まだ芽はあっただろうなと思っただけだ」
「十分ケンカ売ってんだよなぁ」
真人はごりごりと俺のこめかみあたりに握った拳を押し当ててくる。
俺は真人の拳から逃れるために、身を捩った。
「やめろバカ。第一、俺だって今ちょっとした問題を抱えてるってのに」
「問題? なんだよそれ?」
「おまえには関係のないことだ。つーか真人、他人の心配している場合じゃねぇだろ?」
「それはそうなんだが……俺に何かできることはあるか? その問題とやらを解決する上で」
「……ねぇよ、バカ」
真人は、たぶん心から俺を心配してくれたんだと思う。
それがなんだかうれしくて、けどそれをそのまま伝えるのは気恥ずかしくて。
俺は思わず、真人から視線を逸らした。
「む……どうしたんだよ、健斗?」
「なんでもねぇよ。つーか俺、そろそろ帰るから」
「もう帰るのか? 桜木を待ってなくていいのかよ?」
「ああ。玲からは先に帰ってるよう言われたんだ」
「そうなのか……何してんだろうな、桜木」
「うっ……そうだな」
本当は玲が何をしているのか、俺は知っている。けどそれをこいつに言ったところで意味はない。それどころか、事態を無駄に悪化させてしまう可能性すらあった。
「俺にもよくわからん」
だから、そんな言葉でお茶を濁す。
もし、玲の言う通り犯人がいるのだとしたら、玲がその犯人を捜していると真人から漏れる危険性もあるわけだし。
別に犯人がどうこうとかどうだっていい。だが、玲の努力が無駄になるのは避けたいところだ。
俺はカバンを肩にかけ、本格的に帰ろうと教室の出入り口を目指す。
こんなところ、さっさとおさらばしよう。今日はもう疲れた。
俺が扉を開けると、背後から小走りに真人が駆け寄ってくる。
「……なんだよ?」
「いや、今日は一人なんだろ? だったら一緒に帰ろうぜ」
「それはいいが……なんか変な噂とか立たないよな?」
「噂? 何のことだ?」
「……いや、いい。こっちの話だ」
本気でわからなかったらしい。真人は首を傾げ、不思議だとばかりにまゆを寄せていた。
「変な奴だな」
「おまえに言われたかねぇよ」
ま、人の噂も何とやらというし。……まぁいいか。
「んじゃまぁ、帰ろうぜ。……? そういや真人、部活は?」
「あー、それな」
真人は秘密を知られた子供のようにバツの悪そうに頭を掻く。
「実はやめちまったんだ」
「は? なんでだよ? おまえ今度の部活超楽しいって言ってただろ?」
「あーと……それはそうなんだけどな」
「あ? 意味わかんねぇんだけど」
真人はどこか気恥ずかしそうに笑う。やめろ、気持ち悪いな。
俺はしっし、とノラ犬でも追い払うような仕草で真人を遠ざけようとする。
しかし、真人は俺から離れるどころか、更に肩を組んできた。
「なんだよ、そんなさみしいこと言うなよ」
「何も言ってねぇだろうが! ええい鬱陶しい、離れろ!」
俺は真人の顔を抑え、どうにか引き離す。と、真人のほうも存外素直に離れてくれたので助かった。
「……んん? なんだありゃ? あれって桜木じゃねぇ?」
真人が指さす先を見ると、確かに人影があった。
よくよく目を凝らして見ると、真人の言う通り玲のようだった。
体育倉庫の扉のところにしゃがみ込み、何やら真剣な様子で考え込んでいる様子だ。
ほ、本当にやっていたのか……。
「おーい、桜木ー」
「あっ、おいバカ」
真人が何も考えず、玲に声をかける。と、玲は真人の声など聞こえていないのかハナから何んの言葉になど耳を貸さねぇといった体でいるのか、顔を上げようとはしない。
「んー? 何やってんだ、あれ?」
「いや、俺に訊かれても……」
俺も玲の行動理由がいまいちよくわかっていない。何やってんだろうな、本当に。
「おい健斗、おまえちょっと声かけてみろよ」
「……ああ、まぁいいが」
真人に促されるまま、俺は玲に近寄る。
とんとん、と玲の肩を軽く叩いてみる。
「れ、玲……? 大丈夫か?」
「ああん? ……あ、健斗だ」
「お、おう……」
一瞬、玲の顔がものすごい形相になった気がした。気のせい……だよな?
「な、何してんだ、玲?」
「何って、見ての通りだよ?」
「見ての通りって言われても……なぁ?」
「ああ、本当に何してんだ、桜木?」
「ん? ああ、剛昌くん、いたんだ」
「最初からいた。……つーか何してんだよ、まじで?」
真人の問いかけに、かわいらしくウインクした。
「な・い・しょ」
「…………」
「…………」
ああもう、かわいいなぁちくしょう!そんな顔されたらどんな疑問だって吹っ飛んじまうだろう!
俺は玲の小悪魔的なかわいさに、身悶えするほどだった。
「……あー桜木、そういうのいいから」
しかし真人はこの玲のかわいさを全く理解しようとせず、むしろ無表情に顔の前で手を振っていた。
「なっ……おい真人、てめぇどういう了見だ!」
俺は思わず、真人の胸倉を掴んでいた。そのまま捻り上げようとしたが、さすがに相手はスポーツマンだけはある。基本的な力量差は明白だった。
俺は真人に軽くあしらわれた。
真人は至極鬱陶しそうにひらひらと手を振る。
「どういう了見って何だよ? それより桜木、一体何を……?」
「だから、内緒だって」
「内緒だって言ってんだろぉぉ?」
「おまえはどいう立ち位置なんだ、健斗?」
真人が怪訝そうにまゆを寄せる。……俺だって自分がどういう立ち位置なのかよくわからなくなってきたところだ。
「……まあ隠すようなことでもないしね。別にいいよね?」
「へ? ああ、玲がいいのなら、俺は別に……」
というか、そもそも俺は隠していたわけじゃあないんだがな。なんか玲が秘密にしたがっていたっぽいから玲の肩を持っていただけで。
「実は……体育の時にちょっとしたトラブルに巻き込まれてね」
「ああ、健斗と桜木が二人して体育倉庫に閉じ込められたのか」
「……まあ知ってるよね」
そりゃあ知ってるだろうよ。何せあれ、結構な騒ぎになっていたからな。
俺はその時のみんなからの仕打ちを思い出して、泣きそうになった。
特に桜木玲ファンクラブなる組織の存在を知った時は肝を冷やしたものだ。あいつら、すげー俺のこと目の敵にしてくるんだもん。
「けどそれって単なる事故だったんじゃ……?」
そう、世間的にはあのできごとは事故だったで片がついている。今更掘り返したところで、誰も幸せになりはしない。
「……違うよ。あれは事故なんかじゃないよ」
どーんっ! と効果音が聞こえてきそうなほどはっきりと、玲が言い放つ。
「なぜなら、あの場所に最後まで残っていたのは私と健斗の二人だけだったんだから」
「? だからこそ事故……なんだろ?」
真人が困惑気味に再度問うた。それを受けて、玲はちっち、と細くしなやかな人差し指を立て、左右に振る。
「だからこそ、だよ。あの場には私と健斗しかいなかった。そして私も健斗も体育倉庫に入っていた。じゃあ一体誰が外から鍵をかけたんだろう?」
「え? それは……ええと」
真人は本気で困ったというように首を傾げる。
「それは……つまりおまえたち以外の誰かってことか?」
「そう。明らかに第三者が外から鍵をかけたとしか考えられないんだよ!」
「そ、そうだったのかー!」
がーん、と真人はショックを受けたように身を仰け反らせる。それを見て玲は勝ち誇ったようにふふんと鼻を鳴らした。何の勝負だよ。
「だから私は今、その犯人を調査しているんだよ。……健斗を危険な目に合わせた狼藉者は絶対に許さない……!」
玲の瞳の奥にめらめらとした炎のような揺らぎが見て取れた。
いや、だから別に大したケガをしたわけじゃないんだからそれはいいって言ってるんだけどな。しかも授業までサボって。そのせいで俺、今日えらい目にあったんだけど。
「そんな……そんな事情があったなんて」
わなわなと何かに打ち震える真人。一体何がそんなに心を打ったんだ?
「すげーぜ桜木! 俺にもぜひ手伝わせてくれ!」
「ありがとう、でもいらないよ!」
玲がにこやかに、しかしはっきりと断った。
まあ真人なんか何の役にも立たないだろうしな。
「そうか。……ま、手助けが必要になったら声をかけてくれ」
「その気持ちだけで十分だよ。ありがとう」
にっこりと玲が笑う。……うーん、明らかに苛立ってるんだよな。
俺は玲の微妙な表情の変化からそのことを察した。だから何だって話だけど。
「ま、今日のところはこのへんでいいんじゃないか? 早く帰ろうぜ」
「……健斗がそう言うんだったら」
「おお、じゃあ三人でどっか寄って行こう!」
真人がなぜかうきうきでそう提案してくる。本当になぜだ?
俺は疑問に思いつつ、玲の手を引いて真人の後を追った。
まあ別段これといって用事があるわけでなし。多少は真人につきあってやったとしても罰は当たらないだろう。
そうして、俺と玲は真人に導かれるまま、夕暮れの街へと繰り出していくのだった。
◆
「どうしたんだよ、玲?」
翌日。俺は玲に呼び出されて、例の屋上へとやってきていた。
「健斗……実は、今度の事件の真相がわかったんだよ」
「へー、そいつはすげーなぁ」
「む、なんか興味がなさそうだね」
まあ……興味なんか微塵もねぇわな。ずっと言ってるけど。
「そんなことより飯食おうぜ、腹減ったわ」
「そんなことって……! 健斗は悔しくないの、あんなことされて!」
「んなこと言われたってなぁ……俺にとっては別にどうだっていいことだし」
「どうだっていいって……」
玲はわなわなと全身を震わせる。若干涙声になっているのは気のせいだろう。
「だって健斗はケガまでしたんだよ!」
「ケガったってそんな大したこともなかたしな。それに……」
「それに……?」
あー、なんかこれを口するのは恥ずかしいな。
俺は頬を掻いて、玲から視線を外す。
ぬぬぬぬ、と玲が悔しそうに唇を引き結ぶ。
俺ははぁーっと大きく息を吐いて、よしと意を決する。
「玲、俺はおまえが何ともなかったならそれでいいんだ。だから、犯人なんてどうだっていいんだよ」
「健斗……」
玲が感激したように途端にきらきらとした目で俺を見てくる。
それから一歩、近づいてくる。すぐ側まで近づくと、俺は玲の手を取った。
どちらからともなく顔を近づける。……キス、しちゃうのか、俺? こんな場所で。
玲がゆっくりとまぶたを閉じる。これは……もう後にはだろうな。
ええい、どうにでもなれ、という心境で俺は玲に顔を近づける。
お互いの唇が触れるか触れないか……といったところで、俺は弾かれるように顔を上げた。
物音がした……ような気がしたからだ。どこから、と訊かれると困るけど。
「どうしたの、健斗?」
「いや……今なんか変な音がしなかったか?」
「変な音? ……ううん、しなかったと思うけど」
「……そうか」
玲はそんな音はしなかったという。なら、本当にそんな音はしなかったのだろう。
俺は玲の言葉を信じ、キスを再開、することはできなかった。
「……健斗?」
「ああ、いや……すまん」
俺は玲から体を離し、音のしたほうへとゆっくりと歩み寄る。
音がしたのは、屋上の出入り口近く。隠れられそうな場所は一ヶ所しかない。
俺は排気口の前まで行くと、おそるおそるその後ろを覗き込んだ。
「……えーと」
そこには、一人の男子生徒がいた。小さく体を丸め、ぎょろりとした目を俺のほうへとむけてくる。
「おまえは……」
じっと俺を睨んでくるそいつの顔には、見覚えがあった。けど、どこで見たのかとんと思い出せなかった。
どこだっけ。つーか誰だっけ、こいつ。
「やはり、あなただったんですね」
「れ、玲……」
いつの間にそこにいたのか、玲は俺のすぐ後ろに来ていた。
「……なんのことだ? 僕は今この場所で絶賛ぼっち飯中だったんだが?」
そいつは玲の言葉に反論するように、極めて反抗的な態度と声音でそう言った。
「いえいえ、私の捜査能力と推理力を甘く見ないほうがいいですよ」
「……おまえのことは知っている。常に成績上位にいる奴だな」
「まあ……自慢じゃないですけど」
とか言いつつ、照れたように玲が頬を染める。単純な奴だ。
「それで、なぜこんなことを? 答え次第ではただではおきませんよ?」
にっこりと今までに見たことのないくらい素敵な笑顔でそう言う玲。底冷えするような冷たい声音とのギャップがまた、玲の中の怒りをの度合いを如実に表している。
玲の怒気を感じ取ったのは俺だけではないらしい。そいつもまた、顔を青ざめていた。
「なぜって……そりゃあ」
そいつは玲から顔を背け、冷や汗を流す。なんだか、こっちが悪いことをしているみたいだ。
もごもごと口の中で何かを言っていた。けど、当然俺たちに聞き取れるはずもなく、玲が何度か聞き返す。だが、その度にまた何を言ってるのかわからなかった。
たぶん四度目か五度目の時だろう。ついに玲が焦れて、そいつの胸倉を思い切り掴み、ひねり上げた。
「……ちゃんと答えてもらってもいいですかぁ?」
かわいらしい声音とは裏腹に、玲の態度は冷淡だった。そのまま、首を絞めて殺してしまいそうなほどだ。
そいつも玲の殺気を感じ取ったのか、ぶんぶんと顔面蒼白で何度も頷く。
玲はそいつの胸倉から手を離し、じっと無言で待った。
それから一、二分ほどが経ってからだろうか。ぽつりとそいつが口にする。
どうして俺たちを襲ったのか。その理由を。
「……リア充は滅びろと思って」
「…………はぁ?」
「れ、玲……?」
普段の玲からでは考えられないような声が飛び出す。なんかもう、本当にこいつのことが嫌いなんだろうなとわかる、そんな声音だった。
俺や九条と接する時以外の玲も、俺は当然知っている。けど、その時とはまた違った玲の一面だ。……本気で怒ると、まじで怖ぇな、こいつ。
「それはどういうことですか?」
「そ、そのままの意味だ。そのまま……あの、えっと」
だんだんと尻すぼみに弱々しくなっていくそいつ。最初は顔だけ逸らしていたのが、ついには上半身ごと……最終的に前進を反転させ、背中を向けていた。
「何あっち向いているんですか? あなたの妙ないたずらのせいで、健斗はケガをしたんですよ? その落とし前はどうつけるつもりですか?」
「そ、それについては誠に申し訳なく思っている所存でありましてその……」
「はぁいぃぃ? よく聞こえませんがぁ?」
手の平を耳に当て、相手を煽る玲。なんかもう、キャラ崩壊はなはだしいとかいうレベルをはるかに超えているような気がしなくもない。
つか、まじで顔から態度から声音から言葉の内容から、悪者っぽいんだよなぁ。
悪いのはそいつだとわかってはいるが、なんとなく哀れな気分になる。玲を敵に回すとこうなるんだなぁというのが痛いほどよくわかった。あまり怒らせないでおこう。
……そろそろとめるか。
俺は玲をとめようと、二人の間に割って入ろうとした。
と、その時だ。保健室の扉が開かれる音がした。
誰が来たんだ? と三人で振り返る。と、今の今まで留守にしていた養護教諭の先生が戻ってきたところだった。
「あらぁ? なんだか絶賛修羅場みたいねぇ」
先生は玲の前に立ち塞がる俺という構図を見て、一瞬で笑顔を作る。
それも、なんとなく裏がありそうな感じで。
いやな予感がする。
「でもだめよ。ここは申請な学校なんだから」
「別に修羅場ではありません、先生。どちらかというと粛清です」
「粛清……男に走った彼を元の道に引き戻そうというのかしら?」
「男に走った? ……って俺のことか!」
や、やめてくれそんな冗談。口から心臓が飛び出るかと思ったぞ。
俺はぶんぶんと激しく首を振り、先生の言葉を否定する。
「違いますよ、ちょっと玲がやり過ぎてたから……」
「あんなことまでされておいてやり過ぎということはないと思うよ」
「あんなことって……ナニをされたのかなぁ?」
にやにやと訊いてくる先生。つかおまえも俺の後ろ震えてないで否定しろ!
俺は背後で涙目になっているそいつを睨みつけた。が、そんなことをしても何の解決にもならないので、すぐに玲に向き直る。
「そ、そうだ……! 謝らせるのはどうだ?」
「謝らせる? こいつに? だめだよ健斗、そんな甘いことじゃ」
「だ、だったらどうするってんだ?」
「どうするもこうするも、当然……」
玲が邪悪な感じでにたつく。だああ! もう悪い予感しかしねぇ!
「こいつには人柱になってもらう」
「ひ、人柱……?」
「知らない、健斗? それはそれは素晴らしいものだよ」
「い、いや……知ってるけど」
というか、前に玲の借りたゲームの中にそんな単語が出てきた気がする。
確か、何か魔術的な儀式をする際に人間を供物としてささげる、的な意味合いの言葉だったと思うが。
え? なんで今そんな単語が出てくるんだ? 人柱って……一体何をするつもりなんだ?
玲の纏う得たいの知れないオーラがさらにどす黒くなった気がする。それを背後の奴も感じたのか、さらにがたがたと大きく揺れる。
「ま、待て玲……ちょっと落ち着こうぜ」
「退いて健斗、これはもう私個人の問題なんだよ」
「あっと……だからその……そうだ! 待て玲!」
俺は必至で訴えた。これ以上暴走させていたら、本気で何をするかわかったもんじゃない。
俺は死ぬ気で考えて、ある結論を導き出す。
俺の懇願が届いたのか、玲は怪訝そうな顔をしながらも一応、動きを止める。
「俺は……正直こいつのことなんてどうだっていいんだ」
「でも、さっきから庇ってるよね?」
「それは……おまえが本気で何でもしそうに思えたからだ。俺はおまえにこんなことはしてほしくないんだ」
俺は真剣に訴えた。この訴えが、玲に届くことを願って。
しかし、玲はゆっくりと頭を振る。だめみたいだ。
「だめだよ、健斗。私はそいつを許せない」
「お、俺は……」
なお後ろの奴への制裁を諦めようとしない玲に、ごくりと唾液を飲み下す俺。
もう、最終手段に出るしかないのか?
俺は頭の中で何度もその言葉を反芻する。これを言わなければ、この場は収まらないだろう。
「お、俺は……おまえが好きだ! 大好きだ!」
「え? え?」
かーっと、顔中が熱くなる。必要もないのに渾身の力を込めて叫んでしまった。廊下にまで響いただろうか?
と、今はそんなことに気を回している余裕はなかった。
俺はダンッと一歩踏み出すと、素早く玲の肩を引き寄せた。
「え? ええ?」
困惑する玲を無視して、玲の体を抱き寄せる。と、玲もまた玲の体の硬直具合がよくわかった。
「け、健斗……? あの、今はそんな場合じゃないと」
「いいや、今はそんな場合だ」
もちろん違う。玲の言う通り、今はこんなことをしている場合じゃない。
ここには俺の後ろのいる奴や先生もいる。こんなことをされて恥ずかしいだろうが俺だって恥ずかしいから我慢してくれ。
「俺は、おまえが好きだ。玲、おまえはどうだ?」
「わ、私も……その、健斗が好き、だよ?」
「だったら、俺のお願いを聞いてくれ」
「う、うん……わ、わかった」
「本当か? 何でも聞いてくれるな?」
「何でも! ……でも、健斗がそう言うんだったら……」
「ありがとう、玲」
俺は玲の背中に回していた腕を解き、ポンポンと頭を撫でる。
と、玲はふにゃあっとした笑顔? を浮かべた。どういう感情なんだ、それ?
「あいつを……まあ許せとは言わないけど人柱にするとかそういうことは言わないでほしいんだ」
「……うん、わかった」
玲が顔を真っ赤にしたまま頷く。俺だって似たようなものだろう。
よ、よかった……ここまでやって嫌だと言われたらどうしようかと思った。
俺はほっと胸を撫で下ろし、更に玲の頭を撫でる。
「サンキュな、玲。俺のために」
「ううん、健斗のためだもん。私は大丈夫」
「そうか。……そいつはありがたい」
俺は玲の間の抜けた顔が俺の前にある。俺は今、無性にその唇を奪ってやりたくなったが、他二名がいるので自重しておいた。これ以上、玲に醜態を晒させるわけにはいかない。
俺は玲の頭から手を除けて、背後を振り返った。
さっきまでの玲の霊圧から解放されて、涙目になりつつ俺たちを睨むそいつを。
「おまえ、名前は?」
「……どうして教えないといけないんだよ?」
「いや……何となくだけど、だめか?」
「……ああ、リア充に名乗る名前なんかない」
厳しい一言で拒否される。つかなんだよ、さっきからリア充リア充って。
「別に俺たちはおまえを取って食おうってつもりはないんだけどな」
「おまえたちに食われるくらいなら、僕は自ら死を選ぶ」
「……まーそんな悲しいこと言うなって。もう友達だろ、俺たち」
「ともだっ……! ふ、ふん! 騙されないぞ、そんな言葉じゃ!」
「や、別に騙しているつもりはないんだけどな」
相当強情は奴だ。あれだけの茶番を演じたんだから、もう友達でいいようなものだが。
俺はそいつの強情さに苦笑した。
「な、何がおかしい!」
「いいや。んじゃ俺の名前を教えておくわ」
「い、いらん! 僕に友達なんて……」
「俺の名前は石宮健斗だ。よろしくな」
有無を言わさず名乗り、握手を求める俺。
そいつは数秒間俺の手をじっと見つめた後、ぼふんと顔を真っ赤にした。
よくアニメとかで女の子が即落ち二コマする時の脳の処理が追っつかない時の減少に似ている気がする。……ま、まさかな。
「……仕方ないな」
そいつは唇を尖らせ、ムスッとしたまま俺の手を握った。
「僕は……新谷だ。新谷虎次郎」
「新谷か。んじゃ俺たち、もう友達ってことで」
「ま、まだ僕はおまえを友達と認めたわけではないぞ。第一、友達っていうのはこういうふうにしてなるものじゃないだろう!」
「んー、まあ確かに普通はいつの間にかなってるもんだしな」
虎次郎がそう主張するのもわかる気がする。
「けど、いいんじゃね? こういうのも」
こんな友情の始まり方も、またありだろう。
特別なルールやしきたりやマナーなんてないのが、日常ものの定番だ。……最低限の倫理観は必要だけど。
お互いに名乗り、握手を交わす。それでもう友達だ。
「……さてと、じゃあいろいろと解決したわね?」
パンと先生が手を打って、俺たちの間に流れる弛緩した空気を引き締める。
「じゃあま、とりあえずは私からそれぞれの担任の先生に報告しておくわ。それで、石宮クン」
「……ええと、何でしょう?」
なんだか嫌な予感がする。……今度はまじで。
「今度の騒ぎの責任者として、君には反省文を提出してもらうわ」
「は、はぁぁ? なんで俺!」
俺はどっちかって言うと被害者なんだけど!
俺が抗議の声を上げると、先生はニッと笑って付け足す。
「君、新谷クンの友達なんでしょ? だったら付き合ってあげたら?」
「付き合ってって……そりゃないでしょ先生……」
俺はがっくりと肩を落とす。
「あ、あの先生……私は?」
「玲ちゃんはそうねぇ……お咎めなしってことはないでしょうけど、大して何もないと思うわ。よかったわね」
「いえ、それは……」
玲はなんだか不服そうだった。が、先生はパンパンと手を打って、声を張る。
「さて、じゃあ今日のところは解散! 明日も学校はあるから、ちゃんと登校するのよ? わかった、石宮クン」
俺にだけ、釘を差してくる先生。
あ、あんまりだぁぁぁぁ!
世の中の理不尽さを、まざまざと見せつけられた俺だった。
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