第17話 桜木玲とイカとインクの罠
「ぬぅぅああああああああああああああああああああああッッ!」
深夜の石宮家に、猛獣の如き悲鳴が木霊する。
俺はバッと跳ね起き、一目散に妹の部屋へと向かった。
「どうした、大丈夫か!」
バンッと妹の部屋の扉を開け放つ俺。
すると、妹は真っ暗にした部屋の中で、パソコンの画面に照らされて思い切り身を仰け反らせ、激しくブリッジをしていた。
「……どうした、大丈夫か?」
頭が。
と、俺が頭部及び精神疾患等の心配をしてやっていると、妹は今にも目の端から血涙を流しそうな勢いで、悔しそうに下唇を噛み締める。
「……全然だめだった」
「だめだった? 一体何の話だよ」
「……すごく、高額になっていた」
「はぁ? 何が……ん? これって今超話題になってるゲーム機か?」
「そう。イカの奴とセットで今売り出し中のあのゲーム機」
なんだ、ゲームの話か。それでこいつはこんなに悔しがっている訳か。
変な病気じゃなかったことにホッと胸を撫で下ろす俺。
「けど、もともとゲーム機なんて安い物じゃないだろ。何をそんなに騒いでいるんだ?」
つーか今何時だと思ってやがるこの腐れ妹。
「はぁ……わかってないなぁ、あにきは」
妹はブリッジ状態を解き、やれやれといった様子で嘆息した。
なんだろ、マジ殴りてぇ。
「今現在、ハードは売り切れで再生産を待っている状態。加えてテンバイヤーどもが値段を釣り上げて売り捌いているもんだから、あたしじゃとても手が出ない」
「テンバイヤー? 何だそりゃ? 新種のクモか何かか?」
「あにき、何も知らないんだね。やれやれだ」
妹がもう一度ため息を吐く。てめぇ、自分の成績を鑑みて発言しろよおら。
「いい? テンバイヤーって言うのは、今回みたいな新しいゲーム機のハードが出た時に真っ先に何台も買って、後々ネットオークションとかで売り捌いているような悪質な連中のこと。そんなテインバイヤーのお陰で、大人ならともかくあたしみたいないたいけな中学生は手も足も出ない状態なんだよ」
「……はー、それはそれは。安い物じゃないだろうに、ご苦労なことだ」
「しかも、品薄だから次の生産まで値段を釣り上げておいて、荒稼ぎしようって連中が多くいるから、定価より高く設定されてるんだ」
「ちなみにいくらなんだ?」
妹は起き上がり、PCの前に座り直した。
カチカチッと、何度かマウスを操作して、ネットプラウザを開く。
「ええと、いつもあたしがお世話になっている通販サイトでは……」
「おまえ、そんなん持ってたのか」
知らなかった。というか通販なんてほとんどしないからアマ○ンくらいしか俺は知らないぞ。
妹が使っているのは海外のサイトらしく、そのほとんど……というか全部が英語表記だった。
うーん、半分も読めねぇ。
「ほらこれ、見てこれ!」
妹が興奮気味に画面を指差す。その先には、俺もテレビCMなんかで見たことのあるデザインのゲーム機が映し出されていた。
が、CMで表記されていた価格と比べるとだいぶ高騰しているようだ。
定価が確か三万二千円くらいだったのに対し、この通販サイトは四万二千円という表記になっている。確かに、中学生に一万円の差は大きいだろう。
「つーかおまえ、英語読めんの?」
「これ、英語じゃないし」
「え? じゃあ何語だよ?」
「フランス語」
さらりととんでもないことを言い出した妹。え? 何? フランス?
「おまえフランス語読めんの?」
「そんなことより価格だよ。くそ、あたしにどうしろって言うんだ」
「そんなことって……まあいいか」
好きなことに関連したオタクのやる気と情熱は半端じゃないからな。英語はだめでもフランス語くらいなら読めるようになってしまえる……のだろう。たぶん。
俺は妹のとんでも発言をスルーし、再び画面へと目を落とした。
「それにしても一万円か……」
しかし、三つある価格表示の内の一つが日本語で助かった。全部外国基準で書かれていたら、俺はすごくとんちんかんなことを言っていることになるからな。
「あと一つ表示があるけど、なんだ?」
「これは英語。何ドルになるのかはわからいけど」
「ふーん? しかし酷い奴もいたもんだ。一万円も値段を釣り上げるなんて」
「これはまだ良心的な方なんだよ」
「……これで?」
「これで」
こくんと妹が頷く。
一万円も値段を釣り上げておいて良心的価格設定とかありえねぇだろ。なら、定価より安くしろって話だ。
「他のサイトも見てみたけど、一番高いところで八万円くらいになってたから」
「……もう笑いも出てこねぇな」
定価の倍以上になってんじゃねぇか。
俺はほうっとため息を吐くと、くしゃりと妹の頭を撫でた。
「さっさと寝ろよ」
今見たこと、聞いたことは全て忘れてしまおう。どの道こいつには手の届かない代物だ。
俺は妹の部屋から退散し、自分の部屋へと戻った。
ベッドに潜り込み、スッと目を閉じるのだった。
◆
朝チュン……という手法がある。
十八禁ゲームから家庭用に移植されたギャルゲーなんかでよくみる手法だ。
主人公とヒロインのベッドシーンをすっ飛ばし、時を光の速さで進めてしまう悪魔のような手段。ユーザーは行為中の二人を見ることは叶わず、どこか不完全燃焼な感じを抱きつつゲームを進行しなくてはならないという、あれだ。
果たして、俺はゆっくりと目を開けた。カーテンの隙間から漏れ入ってくる光が、今は朝なのだと知らせてくる。
昨日は妹が無駄に騒いだせいで、よく寝れなかった。
よくもあれだけ、たかがゲームで一喜一憂できるものだ。そのへんの感覚は、まだ俺にはよくわからない。別になくてもいいものだろう。ゲーム機なら内にも何台かあるし、PCでだってできる。何だってあれほど悲しむのか。
俺は妹の昨夜の奇行を思い出しつつ、起き上がろうとベッドに手を突いた。
「……?」
いつもならベッドの軋む音がするはずだ。しかし今日に限ってはそんなことはなく、突いた手の平から感じ取れるのは生暖かい人間の体温と微かな弾力。そしてどこかゴツゴツとした感触だった。
石宮家は俺が生まれた時からペットは飼っていない。だから、猫や犬が潜り込んだという可能性は極めて低い。
とすると、あとこの家に住んでいる生き物は人間しかいない。
親父とお袋と妹と俺の四人家族。だが親父とお袋はこんなことはしないだろう。つかしていたら普通に殴る。
とすると残る候補は妹だけだ。
俺はおそるおそる、布団をめくる。と、そこには案の定と言っていいのかわからないが、妹がいた。迷惑そうな顔つきで、眩しいとでも言いたげに布団を顔の部分まで引き上げる。
「……何してんだ、おまえ」
俺は妹の胸部に乗っていた手を冷静に離し、そう訊ねた。
玲よりもなく、九条のそれとは比べるべくもない胸から。
「……ちょっと眩しい」
「おい、起きろ。何してんだって聞いてんだ」
「何って……ん? そう言えばなんであにきがあたしの布団に……?」
うっすらとまぶたを開けて、妹が問うてくる。だが妹よ、その質問はてんで的外れだ。
俺はよほどそう指摘してやろうかと思って、止めた。
どうせ意識が覚醒すれば、おのずとそのあたりのことは気がつくだろうからだ。
俺の言いたいこと、聞きたいことはそんなことではない。
「それで、どうしておまえはここにいるんだ?」
「どうしてってここはあたしの部屋……ん? なんか違う?」
ようやく妹は意識が覚醒してきたようだ。眠たげに目を擦りつつ、むくりと上体を起こす。
ぼけー、と妹が天井を見上げている。その後、きょろりきょろりと周囲を見回す。
すると、見慣れた配線の束やタコ足配線をしているコンセント。あるいは四画面はある妹特性PCなどなど。そういう妹的設備が見当たらなかったからだろう。
妹はくわっと、瞳を最大にまで見開くと、ゴチンとベッドから転がり落ちた。
「あにき、桜木さんと一向にできないからってあたしを……!」
「待て、なんでそんな結論に落ち着くんだ? おかしいだろ」
そりゃあ玲とはその内しっぽりと……なんて考えてはいるが、別段焦ってる訳でもないし、そのへんはおいおいいい雰囲気になったらということで。
それより、妹を部屋に連れ込んでヤッちまおうとしていた、なんて不名誉なことを言われたら、そりゃ否定しておかないとまずいだろう。
「それよりおまえ、昨日はなんで自分の部屋で寝なかったんだ?」
「なんでって……えーと、なんでだろ?」
「おまえなぁ……まぁいい。さっさと部屋に戻れ。また母さんたちがうるさいからな」
「わかってるし」
妹がイーッと歯を覗かせる。
パタンと扉が閉まる。……ほんと、憎たらしい奴だ。少しは玲を見習えってんだ。
俺ははぁとため息を吐くと、自分もベッドから立ち上がった。
昔はもうちょっと可愛げがあったんだけどなぁ、なんて考えても栓のないことか。
俺は手早く着替えを済ませると、階下へと降りて行った。
朝食を摂り、身支度を整えて学校へと向かう。
その間、妹はずっと落ち込んでいた。
◆
「イカのゲームが手に入らない?」
午前の授業を終え、昼休み。俺が昨日からの出来事を多少端折って話すと、玲は怪訝そうな、それでいてどことなく勝ち誇ったような、不思議な笑顔を浮かべた。おまえのそんな顔も可愛いが、俺としてはもうちょっと無邪気な感じの方が好みだ。
「正確にはゲーム機もだけどな」
「ふぅん……へぇ、そうなんだぁ」
「……どうしたんだよ、玲? なんか変だぞ?」
「変って? 私は別に普通だよ?」
いやいや、にやにやしながら言っても説得力ないからな? なんか、RPGとかでよく出てくる、小物の現場指揮官みたいになっちゃってるよ、この人。
「それで? なんでそんな話を?」
「ええと、実はその……もし余計に持ってたらでいいんだけど、譲ってくれないか?」
「ああ、そういうこと」
「まぁ……大体そういうこと」
「建斗の方の事情は理解したよ。……でもごめんさすがに二台以上は持ってないなぁ」
「ん、まぁそうだよな、普通はな」
「買おうとはしたんだけど、私の時はぎりぎり一台だけしか残ってなかったから」
「買おうとはしたのかよ!」
なんだよ紛らわしい言い方しやがって。
「あたり前だよ。だって二台買えば、もし建斗が買いそびれちゃったとしても一緒にプレイできるし、イカのゲーム」
「お、おう……そいつはどうも」
「どういたしまして。とはいえ、結局買えなかったんだけど」
はぁぁ、と両膝に肘を突き、ため息を吐く玲。
いや、別にそこまで落ち込まなくてもいいからな? たかだかゲームだし。
「……うーん、そういうことなら九条さんに相談してみたら? お金持ちだし」
「おお、そうだな!」
そうだよ、こういうことは真っ先に九条に相談するべきだ。
九条なら二台どころか十台や二十台買っていたとしても不思議じゃない。金持ちだからな。
「ん? そういうや今日は九条はいねぇな。いつもなら呼んでもいないのに勝手に割って入ってくるのに」
特にこういう話をしている時はなおさら。
「ああ、今日はちょっと用事があるって言ってたよ?」
「なんで同じクラスの俺じゃなく、おまえが先に知ってるんだ?」
「さぁ? そのへんは私に聞かれも困るけど……何? 今すぐ九条さんに会いたい感じ?」
「会いたいっていうかさっきの話。思いついたが吉って言うだろ?」
「ふーん……ま、いいんだけど」
「……玲、何か怒ってるか?」
「怒ってなんかないよー」
ぷーい、と玲が明後日の方向を向く。体ごと背中を向ける形になったため、玲の持っている弁当も俺から遠ざかってしまう。
「なんだよ、そんなに怒るようなことじゃないだろ? 弁当くれよ」
「別に怒ってなんかないよーだ。ぱく、もぐもぐ」
「ああ、一人で食べてる! 俺、おまえの弁当がなくちゃだめなんだよ」
「むむぅ……しょうがないなぁ。はい」
あーん、と玲が弁当の中から厚焼き卵を端で掴んで差し出してくる。
おおう、今かよ、玲。つーかそのハシってさっきおまえが使っていた奴じゃねぇの?
俺はどきどきと高鳴る心臓を押さえつけるように胸に手をやり、おそるおそる玲から差し出されたそれを頬張る。
もぐもぐもぐもぐもぐ……ごくん。
ほんのりと甘く、香り高い厚焼き卵だった。体の中に染み渡るようだ。
「もう一口いっとく?」
「ああ、もらおうぜ」
もう何度もキスくらいはしているんだ。その先はまだだけど、間接キス程度でどうこう言っている場合じゃない。
「それで? 九条さんに相談するの?」
「……まぁな。あいつが俺たちの知り合いの中で一番持ってそうなのは事実だし」
「ところで建斗」
「ん? なんだよ?」
「話の流れから察するに、建斗はまだイカのゲームには手を出していないんだよね?」
「ま、まぁな……」
家にハードがないんだから、手の出しようがない。
そのくらいのことは、玲ならわかっているはずだ。
なら、玲が聞きたいのは俺がイカのゲームをやっているか否かではなく、別のことということになる。
「ええと、だったら何だ?」
「いーや、何にも。ただ、建斗がイカのゲームを手に入れたら、私がいろいろ教えてあげる」
「……はは、その時はよろしく頼むよ、鬼教官」
俺たちは笑い合い、弁当を食べ進めるのであった。
◆
「ええと、申し訳ありませんが、わたくしも一台しかそれを持ってはいませんの」
と、本当に申し訳なさそうに頭を下げる九条。その際に、九条の持つ二つの豊満なふくらみがたゆんと揺れた。
俺はその二つの水風船から視線を逸らし、わたわたと手を振る。
「いいんだ。悪かったな、変なこと聞いて」
「いいえ。お役に立てずすみません。何せ今人気のゲームですから、いくらわたくしでも手に入れるのは困難でして」
「ま、そうだろうな……」
夜中に見た海外通販サイトの表示価格を思い出して、身震いする。
あれほど高騰しているということはつまり、かなりの品薄のはずだ。いくら九条が金持ちだからといって、ない物を買うことはできない。
ましてや九条は隠れオタだ。表立ってそういうことを大声で言ったりはできないだろうな。
とはいえ、九条はかなり期待していたのだが。
「九条もだめとなると、アテがなくなっちまったな」
「うう……申し訳ありませんわ」
「ん? いや、違うんだ、気にしなんでくれ!」
しゅん、と九条が落ち込んでしまう。
ああもう、どうしてこう余計なことしか言えねぇんだ、俺は。
自分の軽率な発言に嫌気が差し、俺はくるりと九条に背を向けた。
「あー……別におまえにどうこう言うつもりはねぇんだ。悪かったな」
「いいえ、いいのですわ。お友達が困っている時にお役に立てないわたくしなど、いてもいなくてもいい存在なのですわ!」
「おい、何を言い出すんだ、突然」
九条が涙ながらにそう訴える。なんだか、今日の九条は変だぞ? どうしたんだ?
「これはあれの日だね」
「うお! ……え? 玲?」
俺が困り果てていると、いつの間にそこにいたのか、玲がふむふむとあごに手を添えて立っていた。
「あれの日? あれって何だ?」
「あれはあれだよ。察してよ」
「いやいや無理だって。何を言ってるんだ」
何だあれって?
俺は玲の言うあれの日の意味がわからず、首を捻った。捻ったところでポンと答えてがわかる訳じゃないので、すぐに止めたが。
「そんなことより、どうするの、これ?」
「どうするって……」
俺たちの足下には、おいおいと泣き崩れる九条がいた。
俺はどうしたものかとがしがしと頭を掻く。
「……とりあえず先生に相談してみるか?」
「それがいいね」
俺は九条をその場に残して、踵を返した。
保健室までたどり着くと、一人で一心不乱にスマートフォンの画面を睨みつけていた保険医の先生に声をかける。
「先生、助けてくれ」
「ちょっと今忙しいからあとでー」
「そんなこと言わずに頼む」
「ここをクリアしたら終わるから。あと二十秒」
「一刻を争うんだこのまま寂静がまずいことになるんだよ!」
「……ああもう、死んじゃった」
仮にも保険医の教師が保健室で死んじゃったとか言うなよ。
俺は心の中でそうツッコミを入れた。
その後、先生と一緒に九条と玲の待つ場所へと戻る。
ここまで、往復五分もかからなかった。問題はここからだ。
「……何があったの?」
ひっくひっくとしゃくりをする九条とそれに寄り添う玲。
二人の姿を見て、先生はすごく面倒臭そうな顔をした。
仮にも教師がそんな顔するんじゃない。
「実は……建斗が悪いんです!」
「俺ェ!」
俺は突如として名指しされて、びっくりした。
びっくりし過ぎて思わず目ん玉が飛び出してしまうかと思ったほどだ。
「ほう? ……一体何をしたんだ、君は」
「俺は何もしてねぇよ! 第一、何かしたんなら先生を呼びに行ったりしねぇって」
「それはそうだ。それで、彼女は一体……?」
「大したことはないと思いますよ。ほら、あれの日です」
「ああなんだ、あれの日か」
「だから、あれの日って何なんだよ!」
冤罪をかけた上に訳のわからない会話をしやがって。
俺は思わず叫びを上げた。すると、玲と先生が一斉に俺を振り返る。
「え? 何? どうしたんだよ、二人して」
「はぁ、全く……これは君の監督不行き届きだぞ、桜木」
「うっ……すみません」
「まさかあれの日のことも知らないとは。君は本当に中学校を卒業したのかね?」
「し、しましたよ、バカにしているんですか!」
「その通りだとも」
ポンと先生の手が俺の肩に置かれる。
俺その手を振り払おうとしたが、止めた。
なぜなら、玲と先生。二人の俺を見る目が明らかに可哀想な人を見るそれだったからだ。
「な、なんで……なんで玲までそんな顔をするんだよ」
俺まで泣きたくなってくるじゃないか。
俺はその場から逃げ出したい気持ちを抑え、必死の足をその場に固定する。
「それで、あれの日っていうのは結局何なんですか?」
「さて、では彼女は私が預かって行こう。少し横になれば大丈夫だと思うから」
「あれの日って……」
「お願いします、先生」
「はいよ、お願いされた」
「だから、あれの日って何……?」
なんだよ、何でみんな教えてくれないんだ?
俺は一人だけ仲間外れにされたかのようなひどい疎外感を覚えた。
どうして俺だけ……?
考えている内に、先生に連れられて九条の背中が遠ざかって行く。
俺と玲は黙ってその姿を見送っていた。
やがて、二人の影が廊下の曲がり角に消えたところで、俺たちは互いに顔を見合わせた。
「玲……あれの日って?」
「九条さんもだめとなると、手に入れるのはかなり難しくなったね」
「え? ああ……そうだな」
「でも大丈夫だよ。まだアテならあるから」
「そ、そうなんだ」
玲がぐっとサムズアップしてくる。その頼もしさたるや、尋常ではなかった。
もう、あれの日について考えるのはよそう。どうせ誰も教えてくれないし。
「じゃ、九条さんのことは先生に任せて私たちも教室に戻ろっか」
「……そうだな。まだ授業が残っている」
いくらなんでも、たかだかゲーム機ごときのためにサボる訳にもいかないだろう。
俺たちはそれぞれの教室に戻り、大人しく午後の授業を消化するのだった。
◆
午後の授業を終え、俺は上靴から外靴に履き替えて校門前で立ち尽くしていた。
理由は単純。玲を待っているのだ。
俺たちが交際しているというのは、もはや公然の秘密となっていることは知っていたが、だからといって平然と公衆の面前で恋人的振る舞いができるほど俺は羞恥心を失ってなどいなかった。
そんな訳で俺たちは一度、校門前で待ち合わせをすることにした。
これは俺の提案。玲としては、別に恋人的振る舞いをしても構わないと思っているらしい。何だったら、見せつけてやりたいと思っている節があるくらいだ。
「……遅いな、玲」
俺はスマホの画面で現時刻を確認する。
HRが終わって十分ほどが経過していた。そろそろ出てきてもよさそうなものだが。
俺が不思議に思っていると、パタパタと走ってくる足音が聞こえてきた。
そちらに目をやると、玲が大きく手を振りつつ、息を乱しながら慌てて走って来ているところだった。
「ごめん、待ったぁ?」
「いや、大丈夫だ。……おまえこそ大丈夫か?」
はぁはぁと膝に手を突いて荒い息を吐く玲。
そんなに慌てなくてもよかったのに。
「どうしたんだよ?」
「えっと、ちょっと保健室に行ってたんだけど」
「保健室? てーと九条のとこか。どうだった?」
「うん、大丈夫そうだったよ。少し話こんじゃった」
「そうか。ならよかった」
あれの日とやらだったそうだが、元気だったのなら何も心配することはない。
俺はホッと胸を撫で下ろすと、玲の頭にポンと手を置いた。
「ほら、行こうぜ」
「う、うん……」
ボンッと玲の顔が真っ赤に染まる。それを見て、俺も今自分が何をしたのかを認識した。
公衆の面前で云々と言いながら、こうして頭を撫でているのはどうなんだ?
急に恥ずかしくなって、玲の頭から手を退ける。玲は名残惜しそうに頭を抑えていたが、だからといって今この場でもう一度という気にはなれない。
「さっさと行くぞ」
俺はくるりと玲に背中を向けると、さっさと歩き出した。
かーっと、顔中が熱い。たぶん、耳まで真っ赤になってしまっていることだろう。
くそ、迂闊だった。次からは気をつけよう。
俺がそんなことを考えていると、玲が俺の隣に追いついてくる。
俺は玲に質問してみた。
「ところで、どこに行くんだ?」
「え? あーと、ちょっとした知り合いのところ」
「ちょっとした知り合い? どんな?」
「えーと、私がゲーム好きになったきっかけをくれた恩人? の人」
「ああー……なるほど」
その人なら知っている。というか、前に会ったことがある。
確か玲の家の近所に住んでいるゲームやアニメにハマる一番最初のきっかけとなった人だ。幼い頃はよく一緒に遊んでいたらしい。
「その人のところへ行くんだ」
「え? だめ?」
「だめって訳じゃないけど。大丈夫? 急に行ったら迷惑じゃ……」
「あー、確かに。最近あんまり顔見せてなかったし。ちょっと電話してみようかな」
「ああ、それがいいと思う」
玲はスマホを取り出し、件のお姉さんへと連絡を取る。
俺は少し離れた場所で二人のやりとりが終わるのを待っていた。
数秒後。玲が通話を終え、トテテッと俺のところへ小走りに近づいてくる。
「どうだった?」
「OKだった。来てもいいって」
「……ああそう。じゃあ行こうか」
言って、俺たちは再び歩き始めた。
が、その足取りは重い。たった一回しか会ったことがないが、正直に言って俺はあの人が苦手だった。
なぜ苦手なんだろう。いくら考えてもその答えは見つからない。当然だ、一度しか会っていないのだから、彼女の人となりを俺は知らない。
よく知りもしない相手を苦手と思うのは、きっとおかしなことだ。
俺はぶんぶんと頭を振り、その考えを追い出す。
人間は誰もが等しく人見知りである、という言葉を聞いたことがある。何かのゲームのせりふだったと思うが、その考えでいくと、俺があの人を苦手とする理由は一つだ。
ただの人見知り。それだけのこと。
だから、そう難しく考える必要はない。誰だって、知り合い以外の人間と会話をする場合は多少気を使うものだ。俺だってそうだ。
大丈夫、大丈夫……。
俺は自分にそう言い聞かせ、どうにか心臓を落ち着ける。
「どうしたの、建斗?」
「うわっ……ってなんだ、玲か」
「ええと、それはどういう意味?」
俺が驚いて身を仰け反らせると、玲が怪訝そうな顔をした。
そりゃあそうだろう。何せ勝手に考え込んだかと思うと隣にいたはずの玲にびっくりして、挙句ホッとしたのだから。玲にとっては何やってんだこいつ状態だろう。
「何でもねぇよ」
俺は玲を安心させるために、ニッと笑顔を作った。
それで納得した訳でもないだろうが、玲はとりあえずはそれ以上言及してくることはなかった。
それからしばらく、玲の知り合いのお姉さんのところへたどり着くまで、俺たちは他愛のない話をした。
ゲームのことやアニメのこと。将来の夢や今後の目標。
そろそろ進路についても真剣に考えなくてはならない時分だ。そのことを考えるだけで頭と胃が痛くなるのだが、考えない訳にはいかない。
今のままの、楽しい生活を続けるためには必要なことだ。
そんな、遊びと真剣を織り交ぜつつ会話をしていると、あっと言う間に目的地へと到着した。
一戸建てのそこそこいい家。とはいえ、あくまで庶民的価値観に照らし合わせればということだが。九条が見たら、ポチの家と同じくらいだとか言いそう。ポチを飼ってるかどうか知らないけど。
ピンポーン、と玲がインターホンを鳴らす。それから、玄関先のマイクから何となくボヤッと聞き覚えのある声が聞こえてくる。
『……はい、どちら様?』
「あ、私だけど」
『あーはいはい、玲ちゃんね。ちょっと待っててー』
ブツッとマイクが切れる。と、ほとんど同時に、がちゃりと玄関の戸が開いた。
「ひっ……!」
「ちょっ……何その格好!」
俺と玲が揃って驚愕する。
そりゃあそうだ。なぜならお姉さん、ブラジャーなしのパンティ姿で出迎えてくれたのだから。
ぐるん、と玲が俺を振り返った。
「てあっ!」
「いてぇぇ!」
ズビシィッと俺の目ん玉へ向けて目潰しを喰らわしてくる。あまりに突然のことだったので、不覚にも喰らってしまった。
ごろんごろんと痛さのあまり転げ回る俺。なんか、目の端から涙が出てきた。
「何を……する」
「だめ、建斗は見ちゃだめ!」
「いや、それはわかるが、何も目潰ししなくたっていいだろ」
「うう……とにかく、建斗はここで待ってて。ほら、中に入って」
「なんだよ仕方ないだろ。さっきまで彼氏が来てたんだから」
「仕方なくないよ! どうして私が行くって言ったのに服来てないの!」
「ヤッてる最中に電話してきて、勝手なことをいう奴だな」
「いいからほら!」
玲がお姉さんの背中を押して家の中へと入っていく。
バタンと激しく扉が閉められ、あとには片膝をついて頬に涙を伝わらせる俺一人が残った。
「……ええと、どうしたらいいんだ、これ」
幸いにして、ご近所さんから見られていた心配はない。ということは通報される心配もないということだ。
それにしても、さっきのお姉さんと玲の会話……なかなかに刺激が強かったな。
もやもやもやぁ、と頭の中につい今しがたのお姉さんの姿が思い出される。
九条ほどではないが、なかなかのサイズの胸。締まるところはきゅっと締まり、出るところは出ている、まさに年上の女の人、という感じの肉体美だった。
ん? つーか今、彼氏が来てるって言ってたよな? それでヤッてたって何を?
何を……ハッ! 何をじゃなく、ナニをしていたのか!
俺がその考えにたどり着くと同時に、バタンと再び扉が開いた。
びくう! と飛び跳ねそうになって、寸でのところでどうにか思いとどまる。
「……どうしたの、建斗?」
「な、何でもねぇよ!」
ぶんぶんと首と手を振る俺。
だめだ、今ここで下手なことをすると、俺の考えていたことが全て玲に知れてしまう。
九条家の使用人たちほどではないが、玲だってかなりの洞察力の持ち主だ。さすがに日々様々なゲームをしている奴は違うぜ。
ここは、できる限り平静を装うんだ。決して気取られては……、
「建斗、鼻血出ているよ……」
「うへっ……まじか」
玲の蔑むような視線が実に痛かった。
どんな顔をしていても可愛い。が、そんな顔は止めていただきたい。できれば笑っていてほしいと思うのが彼氏としての思いというものだ。
俺はハンカチを取り出して鼻血を拭き取ると、スッと立ち上がった。
「それで、俺も入っていいのか?」
「……いいってさ」
「そ、そうか……」
玲はどこか憮然とした様子で、可愛らしい表現を用いれば拗ねたような表情で、俺を家の中へと招き入れる。
「……言っとくけど、変な期待はしない方がいいよ」
「べ、別に俺は期待なんかしてねーよ」
「ふん、どうだか」
さっきの一件で完全に怒っていらっしゃる。
けど、あれは仕方のないことなんだ。男として、ああいうシーンを見せられたら嫌が応にもああいう反応になってしまうんだ。
などという俺の弁明はおそらく通用しないだろう。この場は大人しくしていよう。
俺は粛々と、玲に案内されるままリビングに足を運んだ。
「こんにちは。君が玲ちゃんが言っていた彼氏くん? 話はよく聞いてるよ」
「え、ええと、石宮建斗っていいます」
恐縮しつつ、ぺこりと頭を下げる俺。
そんな俺を微笑ましそうに見つめるお姉さん。……今、舌舐めずりしたような気がしたが、気のせいだろう。
「ま、とりあえず座りなよ」
お姉さんが自分の真向かいのソファを指し示す。
俺はおずおずとすすめられた場所へと腰を下ろした。俺の隣に、玲が座る。
「さて、じゃあ一先ずは……二人はいつから付き合ってるの?」
「へ? いつからって……えーと」
「ちょっ、なんでそんなことを訊くの!」
「えー? だって気になるじゃん」
「気にしなくていいの!」
ドンッとテーブルを叩く玲。……こえーよ。
「落ち着けよ。な、玲」
「へー、玲ちゃんのちゃんと名前で呼んでるんだぁ」
「そ、それがどうしたの?」
「どーもしてないよ。ただ、いいなぁと思って」
「……いいから、本題に入ろうよ」
「はいはい。えーと、なんだっけ?」
お姉さんは虚空を見上げ、んー、と考え込む仕草をする。
「イカのゲームとハードを譲ってほしいって話。もちろん、定価分のお金は払うから」
「ふーん……それだけ?」
「え? ……うん、まぁそれだけかな」
「……ま、いいよ。他でもない玲ちゃんとその彼氏くんの頼みだからね」
お姉さんは足を組み換え、紅茶を一口すすった。
俺と玲はお互いに顔を見合わせる。玲はこの上なく意外そうな顔をしていたが、果たして俺はどんな顔をしていたのだろう。
「いいの?」
「ああ、いいよ」
「嘘……何か企んでる?」
「ハッハッハーッ! こいつは手厳しいなぁ。私が何かを承諾する時はよからぬ企てがあると思っているのかな?」
「うん、思ってる。……昔からそうだから」
キッと、玲がお姉さんを睨みつける。
けど、お姉さんはそんな玲の視線をどこ吹く風と受け流す。
にやにやと意地の悪そうな笑みを浮かべる。
「ただし」
「……ほらね」
お姉さんが口を開くと、玲は心底がっかりした様子だった。
あまりに予想通りだったからだろう。肩を落とす、というよりは当然といった様子でため息を一つ吐いただけだった。
「まぁそう怖い顔をしないで。話は最後まで聞いたとしても問題ないでしょ?」
「……何? そのただしっていうのは」
「私とゲームをして勝ったら譲っもいいよ」
「……へ? それだけ?」
玲が意外そうな表情をする。どうしてそんな顔をするんだ、玲。普段はどんな要求をされているんだよ?
「意外だね。もっとひどい要求をしてくると思っていたけど」
「それは心外だ。私だって公序良俗には則っているつもりだけども」
「それは嘘。そんなことを考えたことなんて一度だってないくせに」
「それこそ心外だ。私はただの一市民。ゲームやアニメを愛する善良な一般人なのだから」
「何を……ッ! 善良な一般人が……」
「おっとそこまでだ。それ以上は彼の前では言わない方がいいと思うけど?」
「……わかってる」
今にも舌打ちをしそうなほど、玲は露骨に彼女への嫌悪感を表していた。
ふぅーっと、玲が大きく息を吐く。それから数秒、思案するように目を閉じた。
「……わかった、相手になってやる!」
ビシィ! と玲の右手人差し指がお姉さんの鼻っ面に突きつけられた。
俺はその様子を、泡を喰ったような心持ちで震えながら眺めていた。
◆
かくして、俺と玲VSお姉さんのゲーム対決が開催されるに至った訳だが。
俺たちは場所を移動して、お姉さん宅の二階にあるゲーム部屋へと案内された。
「うわぁー、すごい……全然変わってないね」
「当然だろ。ここは子供の頃からの私のお気に入りなんだから」
「それはしってるけど」
「ま、とはいえここ数十年で入り切らなくなったソフトもいくつもあるし、大半はネットオークションに出してるんだ」
「どうしてそんなこと……」
「数が増えすぎちゃってね。私一人じゃ手入れも大変で。どうせやらないゲームもあるし、ならいっそ遊んでくれる人に売った方がいいと最初は思ったんだ」
お姉さんは照れくさそうに頬を掻く。
確かに、どんなに入念に手入れをして、完璧に保存していたとしてもどうせやらないんなら意味はない。ならいっそ他人の手に渡すのがそのゲームにとっても一番だろう。
「そしてら結構高値で売れちゃって」
「それがテンバイヤーになるきっかけだったという訳ね」
呆れたように、玲が嘆息する。
「そんな顔をするな。私は小金稼ぎができる。相手はハードを手に入れられる。まさにWINWINだと思うな」
「全然全くそんなことはないよ。……いいから、早くゲーム対決をしよう」
「おっと、そうだったな。ええと、確かこの辺に……」
整然と並べられた何千というゲームソフトの棚へと、お姉さんが手を突っ込んだ。
ごそごそと漁る。
前に玲の家に行った時も似たような光景を見たが、玲のコレクションとは比べ物にならないくらいに量が多い。総額で一体いくらくらいになるんだろうか?
てなことをぼんやりと考えていると、お姉さんが棚の中から一本のゲームを取り出して見せてくる。
それは、俺でも知っている有名なゲームだった。
爆弾を生み出す謎の生物を操り、敵味方の陣営に分かれて戦うという、あれだ。
「こいつで勝負しよう。もちろん、君たちは二人でかかって来てくれて構わない」
ずいぶんと大見栄を張るものだ。いくら何でも、一人で二人に適う訳がないだろうに。
俺はこの時点で勝利を確信した。なぜならこちらには、ゲームの名手である玲がいるのだから。加えて俺もここ数ヶ月でゲームの腕はかなりあがったはずだ。
「どうする、建斗?」
「どうするも何も、受ける一択だ。これに勝たないとイカのゲームは手に入らないんだからな」
俺は腕まくりをする仕草をして、凄んで見せた。
お姉さんはそんな俺をおかしそうに眺め、くすくすと笑っている。
ふん、笑っていられるのも今の内だ。せいぜいあとになって吠え面を書かないことだ。
俺は心の内でそう警告した。口には出さなかったけど。
「じゃあ、早速始めよう」
部屋の奥には大型のテレビと各種のゲーム機。古い物だとファミコンの二代目からある。
その中でも比較的新しい方のゲーム機へと、さっきのゲームをセットする。
「起動!」
ポチッとな。と電源ボタンが押される。
ブゥン……、と一昔前のゲーム機特有の奇妙な音が流れ、ゲームが始まった。
まずはキャラクター選択だ。とはいえ、ほとんど色が違うだけで同じようなキャラに見えてしまうのは、俺がこの手のゲームをあまりやったことがないからだろうか。
玲とお姉さんは迷わず黒と白のキャラを選択する。その間、俺はオタオタと迷っていた。
「ど、どれにしよう……」
「そっちの紫のがおすすめだよ」
「これか?」
玲に教えてもらった通り、紫のキャラを選択する。
そして、秒読みが始まる。
ワン、ツー、スリー……スタート!
「ぎゃーっ! 負けたーっ!」
開始三十秒でお姉さんのキャラに爆発死散させられる俺のキャラ。
え? 何が起こったの、今?
「ふふん、彼氏くん弱すぎ」
「くっ……まだまだ、この程度で終わりじゃないですよ!」
リスポーンに五秒かかる。その間、玲がお姉さんに狙われる構図となる。
「な、なんで死んじゃってるの、建斗!」
「ぼうやだからさ」
「それ、俺のせりふ」
なんでお姉さんが答えてるんですか?
俺がリスポーンを待つ間、玲とお姉さんの攻防が続く。
二人のボム捌きは凄まじかった。お姉さんが二、三箇所同時に爆破を起こすが、玲がそれを華麗にかわしていく。
「くそ! なぜ堕ちない、堕ちろぉぉ!」
「当たらなければどうということはないんだよ!」
あの、二人ともその発言は色々とまずいんじゃないでしょうか?
俺は二人の冷や汗ものの会話を聞きながら、苦笑いした。
ようやく、復帰できた。これで玲を……はわぁ! またぁ!
ドーン! とまたもや爆発に巻き込まれる。
「ちょっと建斗!」
「わ、悪い!」
お姉さんの美麗なコントローラー捌きについていけない。
俺は二度目の死を迎え、再びリスポーン地点へと舞い戻る。
「はははー、弱い弱い。相手にならないよ、彼氏くん」
「く、くそぉ……ごめん、玲」
「本当だよ、もっとちゃんとやってよ!」
「……まじごめん」
「負けて困るのは建斗なんだからね!」
言いながら、次々とお姉さんの攻撃を回避する玲。
そのテクニックは本当に、プロを名乗ってもいいのではないかと思えるレベルだ。
俺はその様子を眺めながら、またも復帰を待つ。
そして五秒が経過した。
「今度こそ気をつけないと」
またやられたりしたら大変だからな。
俺は数秒の間、リスポーン地点から動かなかった。
ここにいれば、例え目の前に爆弾をしかけられたとしても死ぬことはない。いわばリスポーン地点とは絶対安全地帯なのだ。
しかしずっとここにいてはゲームには勝てない。それではイカのゲームは手に入らない。
俺がリスポーン地点から外に踏み出そうとすると、お姉さんが高速でやって来て爆弾を置いて行く。だから俺は素早くリスポーン地点へと引き返す。
「へー、結構飲み込みいいね」
「くそ、舐めやがって」
すっかり遊ばれている。
俺は歯ぎしりをする。それからもう一度リス地点から外へ。が、またお姉さんがやってくる。
膠着状態だ。どうしたらいいんだ、ここから。
俺は突破口を見つけ出せないまま、再びリス地点からの脱出を試みる。
が、またお姉さんがやってくる。爆弾が置かれ、俺は慌ててリス地点へと戻ってしまう。
くそ、またか。そう思った矢先だった。
「おらぁぁぁ!」
玲がリス地点に置かれた爆弾を蹴飛ばしてくれた。
それにより爆弾はマップの一番端っこに飛ばされ、そこで大爆発を起こす。
「ほら、今の内だよ、建斗!」
「お、おう……! 悪い、玲!」
せっかく玲が作ってくれたチャンスだ。これを生かさない手はない。
俺は素早くリス地点から脱出すると、そのままの勢いで手当たり次第に爆弾を設置していく。
頼む、どれか一つでいい、お姉さんに当たってくれ。
「ははは、彼氏くん。そんなことじゃ私は倒せないよ」
よほど俺の行動がおかしいのだろう。俺をバカにしたように弾んだ声を出すお姉さん。
くそ、けど俺にはこれしか方法が思いつかない。
お姉さんの言う通り、爆弾は次々に爆発していく。が、一つとして命中するものはなかった。
それどころか、玲の動きを阻害して邪魔をしてしまう始末だ。
「すまん、玲!」
「……ううん、続けて」
「は? 何を言って……」
「いいから続けて」
「くっ……どうなっても知らないからな」
俺は玲に言われた通り、手当たり次第に可能な限りの爆弾を置いていく。
だが、当然それらは俺たちの敵に傷一つ負わせることはできなかった。
「当たれ、当たれぇぇ!」
「あはははははははははははははは! むだむだむだむだぁぁ!」
俺とお姉さんの小競り合いが続く。
走行している内に、タイムアップのカウントダウンが始まる。
「くっ……そ」
このゲームはタイム制だ。一定時間内により多くの攻防を展開し、死亡数の多いプレイヤーの負けとなる。
つまり今の状況下において、一番死亡数が多いのは俺だ。
そして俺と玲はチームを組んで戦っている。このまま負ければ、俺たちの敗北。
要するに、イカのゲームは手に入らないということだ。
それだけは避けなくては。
「くそぉぉぉぉぉ!」
けど、俺にできることなんてたかが知れている。こうして、同じ手を漫然とバカみたいに繰り返すことだけだ。
俺が感情に任せ、爆弾を連打していると急にお姉さんが曲がった。
真っ直ぐ行った先には俺はまだ爆弾を設置していない。なのになぜ?
「……ふん、なるほど。それはいいアイデアだ」
「褒められたって嬉しくなんて……ない!」
「けど、それじゃあまだ足りない」
玲の渾身の気合の声が耳に届く。
「まだまだぁ!」
「ふふふ、甘いあま……え?」
お姉さんの戸惑ったような声が聞こえてくる。
俺は不思議に思い、お姉さんの顔と画面を交互に見比べた。
「……あっ。俺の爆弾」
そうして、知れた。
ただやけくそ気味に置いていたと思っていた玲の爆弾。しかしそれは、俺の爆弾の前へと彼女を誘導するために計算された罠だったのだ。
ドーン! と大爆発を起こす爆弾。前後からの爆発に見舞われて、お姉さんのキャラはバタンと画面に張りつく。
そして、ゲームセット。結果は、玲が死亡数ゼロ。お姉さんが一。俺が二回で俺の圧倒的な敗北だった。
が、俺が負けたという事実よりお姉さんが死亡したという結果の方がよほどショックだったらしい。お姉さんは呆然自失の体で画面を見つめていた。
「私が……負けた?」
「やったー! どうだ、勝った!」
今にも飛び上がりそうなほど大喜びする玲。俺にブイサインまでしてきて、なんかゲームの結果なんてどうでもよくなるくらい可愛かった。
「ふふ、初めて勝ったよ」
「そうなのか? 相当強かったからな、あの人」
「うん。どうだ、参ったか」
お姉さんに向かって渾身のどや顔をする玲。
お姉さんはゆっくりと顔を上げ、俺たちをじっと見つめる。
「……ああ、負けたよ」
ふっと、お姉さんの顔に笑みが浮かぶ。
お姉さんは肩をすくめ、ポンと玲の頭に手を置いた。
「強くなったな、玲ちゃん」
「ふふん、そりゃあいつまでも子供の頃と同じだと思ってもらっちゃあ困るよ。私だって日々成長してるんだから」
「ああ、その通りだ」
「……ん、まぁ丸く収まったみだいだしいいか」
ここでゲームだろ? なんてツッコミはなしだ。そんなことをした日には俺は魔女裁判で火炙りにされる。男だけど。
つーかいつまで頭に手を置いてるんだ、この人。
俺がムッとしていると、お姉さんがようやく玲の頭から手を離した。
「昔は、このゲームで私が玲ちゃんに負けるなんてあり得なかったのに」
「……でも、勝てたのは私一人の力じゃないんだよ」
「え……?」
くるっと、俺を振り返る玲。お姉さんも、俺を見た。
「建斗がいたから。建斗が私と一緒に戦ってくれたから、勝てたんだよ」
「……ああ、その通りだな」
「うん、だからありがとう、建斗」
「い、や……俺の方こそ。俺のわがままに付き合わせちまって」
悪かった、と続けようとして、玲の「あっ」という何かを思い出したかのような声に言葉を発するタイミングを逸してしまう。
「そうだ、これはイカのゲームを手に入れるための勝負だった」
「わ、忘れてたのか……?」
「途中から熱くなっちゃって……てへっ」
「……ったく」
ま、それならそれでいいか。そっちの方が玲らしいといえばその通りだし。
何より、玲が楽しめたのならそれでいいか。
俺は玲の照れ臭そうな笑顔を目の当たりにして、そんな心境になる。
それに、確かにお姉さんは倒したが俺はゲームに敗北した訳だからな。
「そのことなんだが……」
「何? 私は建斗とチームを組んでたんだよ? その私が勝ったんだから実質私たちの勝利ってことでいいでしょ?」
「いいんだ、玲。それは約束に反することだからな」
「で、でもぉ……」
玲が今にも泣き出しそうに目の端に涙を溜めていた。
俺は玲をなだめるように、よしよしと彼女の頭を撫でる。
「……ごめん、建斗。私がもうちょっとちゃんと建斗のサポートをしていたら」
「いいんだ。元はと言えば俺の問題だし。それに俺がゲームが下手なのが悪いんだ」
「建斗……」
うるうると潤んだ瞳で俺を見つめてくる玲。見つめ合う、俺と玲。
吸い込まれそうになる。玲の瞳に。唇に。
俺が玲の唇に自分の唇をくっつけそうになった。と、こほんと咳払いが一つ聞こえてくる。
「あー、君たち。別にやるなとは言わないが、時と場所は考えた方がいい」
「うおお!」
そうだ、この人がいたんだった。
俺は玲から飛び退いて距離を取ると、にへらと愛想笑いを浮かべ、お茶を濁す。
「……それで、約束の物だけど」
「あーはいはい。全く、せっかちなんだから」
よっこいしょっと、お姉さんが立ち上がる。
部屋の奥へと引っ込み、またごそごそと何かを探し出す。
「えーと、確かこのあたりにあったはず」
「何を探しているの?」
「んー? ちょっとなー」
ごそごそごそごそ。捜索すること十分弱。
「あっ」
と何かを発見したのか、声を出すお姉さん。
俺と玲はお姉さんに近寄り、何を見つけたのだろうと手元を覗き見る。
「あったあった。これだ」
「……えーと、それは?」
お姉さんが手にしていた物を目の当たりにして、首を傾げる玲。当然だ。俺だってそれが何なのかわからないのだから。
「これはねぇ……」
くるりとお姉さんが振り返る。と、顔面に得意そうな表情を張り付かせて、手にしていたそれを宝物を自慢する子供のように見せびらかしてくる。
よーく見ると、それはカードのようだった。真っ黒なカード。
「こ、これってブラックカードですか!」
よく日常系アニメなんかで登場する、お金持ちのお嬢様しか持っていないようなカードだ。先日無事最終回を迎えた国民的執事コメディで見たことがある。
「おー、よく知ってるね」
「え? じゃあ本当に……」
「でも違うんだなぁ、それが」
ちっちっち、と人差し指を左右に振るお姉さん。……なんだ、違うのか。
俺は内心でがっかりしつつ、更に質問してみた。
「じゃあそれは一体……?」
「これ? これはねぇ、鍵だよ」
「鍵? 鍵ってどこの?」
「いい質問だね、玲ちゃん」
お姉さんが玲の頭をなでなでする。えーと、あまり気安く触らないでもらえますか?
「これは私が借りてる倉庫のカードキーなんだよね」
「カードキー?」
というと、俺たちのお目当ての品はここにはないということになる。
せっかくここまで来たというのに、また移動しなくてはならないのか。面倒だ。
「それで、その倉庫というのはどこにあるんですか?」
とはいえ、あとはその倉庫まで取りに行くだけだ。もうすぐ、イカのゲームが始められる。
「ここから駅に言って、電車で三時間のところ」
「……えーと、何です?」
なんか、今とんでもないせりふが聞こえてきたような気がするのだが、気のせいだろうか。
俺は我が耳を疑いつつも、もう一度お姉さんの言葉に耳を傾ける。
「だから、電車で三時間のところだって」
「あ、ああー、なるほど……」
聞き間違い、とかではなかった。そうであったなら、どんなによかったことか。
俺はがっくりと項垂れた。駅から三時間。すると、俺の家に帰り着くのは遅くとも十時を過ぎるだろう。
そうなったらおそらく、両親からこっぴどく叱られる。妹からも、どんな目で見られるかわかったものじゃない。
今日のところは諦めよう。別にすぐにやらなくては死んでしまうという訳でもないのだし。ゲーム獲得の権利は今、俺のところにあるのだから後日取りに行ったとしても問題はないだろう。ああ、何も問題はない。
「……とりあえず、それをください」
「だめだよ、これは渡せない」
「どうしてです?」
「私の借りている倉庫のセキュリティは完璧だ。私が直接取りに行かないと引渡してはもらえないだろうね」
「そうですか。ではまた後日、日を改めて……」
「いいや、だめだね」
お姉さんがおかしそうに笑いながら、首を振る。
「私、明日から忙しくなるから。今日しかチャンスはないよ」
「そんな……! そんなのってないですよ」
俺はお姉さんにすがりつくようにして、頼み込んだ。
「お願いします。どうか、後生ですから!」
「くくく……そんなにあのゲームハードが欲しいのかい?」
「はい、欲しいです。すごくすごく欲しいんです」
「だったらおねだりしてみるんだ」
「……ください。あなたの大切なそれを、俺にください!」
「だめだだめだ、そんなんじゃ全然心が揺さぶられないよ!」
「そ、そんな……俺は、どうしたら」
がくっと両手両膝を突く俺。これ以上の手立てはない。しかしこのままでは、ゲーム機は手に入らないかもしれない。
それは、すごく嫌だ。せっかくお姉さんに勝利したのに。
「あははははは、愉快愉快! ……ってあれ?」
お姉さんの素っ頓狂な声に反応して、俺は顔を上げた。と、玲が侮蔑と嫌悪の眼差しとともに、お姉さんからカードキーを奪い取っていた。
「何をする!」
「何をするじゃないよ。私たちは条件を満たした。なのに約束を破るつもり?」
「約束は守るさ。ただ、今日を逃すといつ君たちの手に届くかわからなくなってしまうというだけのことさ」
「ふーん。へー」
お姉さんが肩をすくめると、玲は更に冷ややかな視線を彼女へと向ける。
「だったらいっそのこと、これを使えなくしてやろうか?」
「な、何ぃ! そいつは一枚きりで、再発行は受け付けていないんだ! それだけは止めてくれ!」
「そ、そうだ玲、いくらなんでもそれはやり過ぎじゃないか?」
「建斗は黙っていて!」
ぴしゃりと言い放つ玲。
えぇ……なんで俺がそんなこと言われなくちゃならないんだ?
しかし、今反論したら、確実に面倒なことになる。根拠は何もないが、俺の中のシックスセンスがそう警告していた。
だから、俺はこの場は大人しく黙っておくことにする。決してひよった訳ではなく。
「前々からそういうところが気に入らなかったんだよね。自分勝手でわがままで自己中心的で他人を顧みなくて快楽主義なところが」
「あの、玲ちゃん? それ全部同じ意味じゃ……」
「黙りなさい!」
「ごめんなさい……」
俺と同じように、ビシッと言われて黙ってしまうお姉さん。
うーん……なんか可哀想、かな? だからと言って助け船を出そうなんてことは全然思わないが。
「……わかったよ。行けばいいんだろ、行けば」
お姉さんは渋々といった様子で立ち上がった。
尻についた埃を払うようにパンパン、と二度叩く。
「……ったく面倒臭いなぁ」
「文句言わない。約束は約束でしょ」
「へいへい。わかってますよーっと」
お姉さんのやる気のない、間延びした声が届く。
俺は苦笑いを浮かべ、さっさと部屋を出て行く二人を追った。
その間際、ちらりと背後を振り返る。さっき、三人で対戦したゲームのある場所を。
さっきのゲーム、もし俺が一人だったら確実に負けていた。にも関わらず、負け戦を勝ち戦にしてくれたのは玲だ。
やはり、俺には玲がいないとだめみたいだな。
俺は玲の存在に感謝して、ゲームから視線を外した。
どうか、二人の絆が永遠でありますように、と。そう願って。
◆
お姉さんの借りているという倉庫にたどり着くまで、電車に揺られる事三時間弱。
到着する頃には、あたりはすっかり暗くなっていた。
「んー、やっと着いたー」
お姉さんが大きく伸びをする。つられて俺や玲も背伸びをした。
「それにしても、玲ちゃんには困ったものだよ。まさかこんな時間に連れ出されるとは」
「約束は守ってもらわないと」
「私が約束を破る女だとでも思っているの?」
「その通り」
「ひどいなぁ、玲ちゃんは。私ってそんなに信用ない?」
「ないから今日来たんだよ」
玲がヒラヒラとカードキーをちらつかせる。どうでもいいけど、そんなことしていて大丈夫か? なくしたら大変じゃ?
なんていう俺の心配が届いたのだろうか。お姉さんが慌てたように玲に飛びかかって行く。
「ちょっ、玲ちゃん何やってるの! そんなことしたらあぶないでしょうが!」
俺もそう思う。ただでさえ見た目ブラックカードなんだから、下手したら強盗とかに襲われそう。そしたら取り返すなんてできないよ、俺。
まぁ実際は倉庫の鍵で、紛失したら再発行不可というだけだから、大人しく渡してしまえばそれでいいんだろうけど。それだとゲームが手に入らないから困るな。
「玲、そのくらいにしておいたらどうだ?」
「むっ? まぁ建斗がそう言うなら」
玲はどこか不満そうだったが、素直にお姉さんへとカードキーを返した。
「それが戻ったからといって逃げたりしたらただじゃおかないから」
「ここまで来て逃げるという選択肢を取れると思う? それに玲ちゃんから逃げ切れるとは思えないなー」
「ま、運動神経は私の方がはるかに上だしね」
えへん、と玲が得意そうに笑った。なんて可愛らしいんだ。
俺は玲のそういう子供っぽいところも好きだぜ。
「それじゃあ、早く行こう」
玲がガシィッとお姉さんの頭を掴んだ。
う、うーん……ちょっと可哀想になってきたな。さすがにあれは止めさせよう。公開処刑過ぎる。
「玲、そのへんにしておいてやらないか?」
「何? 建斗は私の味方じゃないの?」
「いや、全面的におまえの味方だ。だから、その上で言ってやってんだ」
その状態はあまりにひどい。おまわりさんに職質されたとしてなんら不思議はない光景だ。
「建斗の言いたいことはわかる。この状態は目立つなぁってことでしょ?」
「ま、まぁ大体そんな感じ」
本当は目立つなぁどころではないが。しかしこれ以上何を言ったところで、意味なんてないのだろうな。おそらく。
俺はちらりと頭部を鷲掴みにされているお姉さんを見やった。
彼女はどこか恍惚の表情で、ぐっとサムズアップしてくる。
「大丈夫だよ。そういうプレイだって言えばおまわりさんも納得してくれるよ」
「どういうプレイだよ!」
その場合、俺が二人にこういうことさせていると思われるんじゃないだろうか。大乗じゃねぇよ、それ。
止めてくれねぇかな、本気で。
だが、何を言ったところで無意味なんだろう。それは今の一瞬のやりとりで把握した。
ここは、二人から少し距離を置いた方がいいか。
俺はそう判断し、ススススッ……、と玲たちから離れる。
どの道二人とは一緒にならないとはいけないとはいえ、今だけは、知り合いだと思われたくない。……そう、心の底から思ってしまったのだ。
と、俺が距離を取って歩いているのに気づいたのか、なおお姉さんの頭を鷲掴んだままの玲がふと振り返る。
「……どうしたの? そんなに離れて」
「えーと、なんでもない。気にするな」
「ふーん?」
玲は納得していないのか、どこか不審がりつつ、倉庫を目指した。
「ねえ、あとどれくらい?」
「えー……確かこのあたり」
てな感じで、お姉さんが記憶を探り探り道案内をしてくれる。いや、割と最近出たゲームなんだから覚えてろよ。
俺はなんだか言いようのない不安に襲われる。大丈夫かな、この人。
俺が一人、勝手に不安がっていると、突然お姉さんが嬉しそう声を弾ませた。
「そうだ、思い出したよ。このあたりだ」
「思い出したって……まあいいけど。それで、どこ?」
「こっちこっち」
お姉さんは鷲掴みにされている頭から玲の手を振り解くと、たったったーっと小走りに駆けて行く。
「え? でもこっちって……」
お姉さんに導かれるままについて行くと、駅のほど近くの路地へと入って行く。
段々と人気がなくなり、これは本格的にまずいのでは? と思われる雰囲気になってきた。
また後日、改めて来なかったことを後悔するレベルだ。何あった時、俺一人で対処できるのだろうか。
などと、俺が不安に駆られていると、お姉さんが立ち止まる。
「ここだよ」
そう言って彼女が指し示したのは、確かに貸し倉庫のような場所だった。
けど、見た目はほとんどコンテナのようで、とてもカードキーを使って開けるほど高性能な作りになっているとは思い難い。
まあ意外と必要なのかもしれないが。
俺と玲が困惑しているとお姉さんはおもむろにカードキーを取り出し、前に出る。
スッとその側面。磁気の部分をかざす。と、ピーッという電子音のあとに、開錠される音が聞こえてきた。
「なっ……本当に開いた、だと」
「ね? 私の言ったことは本当だったでしょ」
「……それはわかったから、早く取って来てよ。私たちここで待ってるから」
「え、えぇ……私一人で行くの?」
「当然。中で閉じ込められたりしたら大変だもん」
「そ、そんなことしないって。さすがに」
「どうだか」
玲はふんと鼻を鳴らし、腕を組んで威圧的にお姉さんを見る。
お姉さんはここに至ってようやく観念したのか、渋々といった様子でコンテナの中へと入って行く。
「言っとくけど、閉じ込めたりしたらだめだよ?」
「しないよ、そんなこと」
玲の冷ややかな反論を受けて、お姉さんは寂しそうに笑った。
それから七分くらいだろうか。俺たちが待っていると、ようやくお姉さんが戻って来た。
その手に、やたらとカラフルな箱を抱えて。
「……これが君たちが探し求めていた物だよ。受け取りなさい」
そう言って、お姉さんがその箱を差し出してくる。
俺はお姉さんから箱を受け取って、じーっと眺め回した。
「……なんか、違う」
ことの発端となった妹のパソコンの画面に映っていたそれを思い出す。記憶と照合してみると、なるほど確かによく似ているが細部が微妙に異なっていた。
「えーと、これは俺たちが求めている物ではありません」
「何を言っているんだ? これは君たちが求めている物だろう。そしてこれが、彼氏くんが探し求めていたイカのゲームだ」
お姉さんがそれを差し出してくる。
俺はまたもお姉さんが差し出してきたそれを受け取り、更にテンションを下げた。
「……これも、違います」
「何ぃ! これは今や生産中止となり、制作会社さえ潰れたもう二度と手に入らない伝説のいわくつきくそゲーだぞ!」
お姉さんが轢き殺されたカエルのような顔で驚く。けど、どんなに驚かれたところで違うものは違う。
俺はお姉さんが渡してきたそれらをもう一度見下ろした。
「いや、そんな顔されても……」
困る。こんなレトロゲー渡されても。
それはおそらく、俺が物心つく前に発売されたのであろうゲームだった。
ソフトのパッケージ裏を見ると、イカの絵とともに操作の概要が細かな字で長々と書かれていた。
それをより完結に言うと、次の通りだ。
イカのキャラクターを使ったレーシングゲーム。複雑怪奇なステージをひた走る、走り屋イカどもの血で血を洗う白熱バトル!
そんな売り文句が踊っていた。
「えぇ……」
こんなの渡されて、俺はどうしたらいいんだ? いちおう勝負して得た物だから、受け取るべきなのだろうか。
俺はよくわからないまま、玲とお姉さんを交互に見比べた。
「……えーと、返却する方向で」
「な、何! 君は私の渾身の勇気を踏み躙る気か! それを渡す決断をするのに、どれほどの覚悟が必要だったと思う!」
「と言われましても」
こんな物持って帰っても、おそらく妹は喜ばないだろう。苦い顔をして、ポイッと部屋の隅に投げ捨てられるのがオチだ。そしてそのまま忘れ去られる。
そんな未来まで見えた。
「……すみません、これじゃあだめなんです」
「だめ……だと」
ガーン、とお姉さんがショックを受けたように目を見開く。そりゃあそうだ。大事にしていた宝物を渡すと一度覚悟を決めたのに、それを今更いらないとか言われたら誰だってこうなるに決まっている。
けど、俺は言った。言ってやった。はっきりと、ではないかもしれないけど。
「すみません」
俺はそのゲーム機一式をお姉さんへと突き返す。お姉さんは放心状態で、ぐらぐらと体を揺らしてそのゲーム機一式を受け取った。
いや、本当にすみません。俺が悪いんです。なんか変な期待しちゃったんで。
心の中で全力で平謝りする。そんなことをしても無意味だと知りつつ、する。
「大丈夫だよ、建斗。そんなに気にしなくて。どうせ明日になったらけろっとしてるんだから」
「そ、そう……? ならいいんだけど」
「いい訳あるか!」
お姉さんが涙声で怒鳴ってくる。
俺はびくっと肩を揺らし、お姉さんを見やった。
うるうると目の端一杯に涙を溜め、唇を歪ませるお姉さん。
「あ、あの……」
「うるさいバーカバーカ!」
「あっ、ちょっと……」
お姉さんがゲーム機を倉庫にしまって、脱兎のごとく走り去る。
俺と玲はその様子を、ただ呆然と眺めていた。
「行っちゃった……どうしよう」
「ほっとこーよ。それより私たちも帰ろう?」
「あ、ああ……そうだな。いつまでもこんなところにいるのもあれだし」
俺が踵を返し、歩きだそうとしたその時だ。
ぎゅっと、右手に何か柔らかい感触が生まれる。
「……えっと、玲?」
「えへへ、なぁに?」
突然握られた手を不思議に思って、振り返る。と、玲のやけににやついた顔が飛び込んできた。俺は不思議に思い、握られた右手へと視線を落とす。
お互いの指と指を絡み合わせる、いわゆる恋人つなぎという奴だ。玲と付き合いだして、幾度となくしてきたはずだが、未だに慣れない。
俺はかーっと全身が熱くなるのを感じて、なんだか背中がむず痒くなった。
「……いや、なんでもない」
むず痒くはなったが、悪い気はしなかったのでそのまま握り返す。そうすると、玲から更に握り返された。ので、俺ももう少し強く握ってみた。
そうすると玲が更に……と、これ以上は際限がなくなりそうなので、俺の方から妥協しておく。そうすると、玲はどこか不満そうだったが、文句はなかったのでそのまま歩き出す。
路地を抜けると、すぐに駅の明かりが見えてきた。
まだ人気はたくさんある。そのへんを歩く通行人が俺たちを見ているような気がして、更に体温があがった。背中がゆず痒くなると同時に、今度は脇汗が尋常ではなく出てきた。
チラと玲を盗み見る。玲も俺と同じらしく、ほんのりと顔を赤らめて落ち着きなく髪の毛を弄ったりしていた。
俺たちはそのまま、煌々と光輝く駅構内を恥ずかしさと心地よさに包まれつつ、進むのだった。
その後、家に帰り着く頃にはすっかりイカのゲームなんて忘れていた俺は、当然のように待ち構えていた妹にこっぴどく罵られ、罵倒されるのだが、それはまた別のお話。
とにもかくにも、俺はその夜、なんだかとても幸せだった。
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