第16話 桜木玲と推理アドベンチャーゲーム

 玲とのいざこざが終了して早三日という日が過ぎ去った。

 俺は寝癖をこさえた頭で洗面台の前に立つ。

 ぼふっと、ボンバーヘアーのクールガイが眠たそうな目で俺を見ていた。

 つーか俺だった。

「あー……えーと、何があったんだっけ?」

 がしがしと後頭部を掻きながら、どうにか玲とのいきさつを思い出そうとする。

 えー……ああそうだ。確か、俺と玲が別れたとかなんとか、妙なデマが広がって、それから……?

「待てよ……ほんとにデマだったのか?」

 なんかまじめに俺と玲は別れたことになっていたような気がする。……いや、気のせいだ。そうに決まってる。うん。

 俺は蛇口を捻った。じゃーっと勢いよく水が流れ出し、それを手の平で救って顔に浴びせる。

 ふー、気持ちがいいぜ。

 顔を洗ってタオルで拭いていると、ぴしゃっと洗面所の扉が開かれた。

 鏡越しに、不機嫌そうな仏頂面をぶら下げている妹と視線がかち合う。

「……あにき、まだ使ってたんだ」

「む……何だよ、悪いか」

「悪いに決まってるよ。さっさと退いて」

「何だよ、おまえ。それが兄に対する態度か」

 俺の言い分を聞いているのかいないのか、妹俺を押しのけ、顔を洗い始めた。

「おい、待てよ俺が先に……」

 文句の一つでも言ってやろうと口を開きかける。が、妹は片手をひらひらと振り、取り合おうとはしない。

 ……はあ、仕方ねえな。これも兄貴の努めか。

 俺はため息を吐くと、大人しく退散することにした。

 全く、わがままな妹を持つ兄貴は辛いぜ。

 そうして、また一日が始まる。

 

                        ◆

 

 本日は土曜日。つまり学校は休みである。

 要するに勉強しようと惰眠を貪ろうと玲と一緒に遊園地に行ったりアニメエト行ったりネトゲでランク上げしたりするのも自由なはずである。

 だがしかし、俺はなぜか今現在、学校にいた。

 正確には、校門前で人を待っている状態だ。

「えーと、何だって休みの日にわざわざ学校に来てんだ、俺」

 むむう、とこめかみを抑え、ことの顛末を思い出そうとする。

 えー、まず玲から連絡があった。内容としては、一緒にデートをしたいから学校前で集合とのことだった。だから俺は今学校にいる訳であるが。

「……あの、何であなたがここに?」

「ああ、お気になさらず。私もお嬢様を待ってるだけですので」

「はあ……とおっしゃられましても」

 俺の隣には、同級生で遊び仲間であるところの九条家の執事を務める青年、燕さんがいた。

 からっと晴れた炎天下の中で燕尾服に身を包み、汗一つかかないどころか表情一つ変えないでいる。正直すげーとは思おうが、それ以上に嫌な予感しかしなかった。

 俺とは一、二歳しか違わないはずだが、なんかこう結構年上な感じがするな。

 この人がここにいる、ということはつまるところ、燕さんの主であるあいつもここへとやってくるということだ。

「……時に石宮様」

「ええと、なんでございましょう?」

「件の問題……桜木様との破局問題は無事解決されたそうですね」

「え、ええまあ。お陰様で」

「おめでとうございます」

「あ、ありがとう、ございます?」

 ……なんで知ってんだ、そんなこと。

 いや、まああいつが言ったに決まっている。他に俺と玲の問題を知る人間は……いや、委員長は口が硬い方だし、大丈夫だろ。

「これは私からのささやかなお祝いでございます」

「すいません、なんか気を使わせてしまったみたいで……これは?」

 燕さんから差し出されたそれを受け取り、俺は背筋を凍らせた。

 俺が燕さんから受け取ったのは、一枚の写真だった。

 問題はそこに写っているものだ。

「え、ええええと、これは一体どういうことで?」

「はい。お二人の幸せで幸福なキスのご様子はばったりカメラに収めさせていただきました」

「ど、どうやって……!」

「それは、お二人をストーキングして」

 戦慄とはまさにこのことだ。

 俺はわなわなと手を震わせつつ、再度写真へと視線を移した。

 そこには、唇を重ね合わせる俺と玲……。

「うわあああああああああああああああああああああ!」

 誰もいないと思ったのに誰もいないと思ったのに誰もいないと思ったのに誰もいないと思ったのに誰もいないと思ったのに誰もいないと思ったのにぃぃぃぃ!

 がっくりと膝を突く。コンクリートの地面が、やけに熱かった。

「……ど、どうしてこんなことを?」

「当然、お嬢様の命令です。お二人はちゃんと仲直りをするだろうから、その記念に一枚お願い、と」

「九条おおおおおお!」

 何だよあいつ、まじで余計なことしやがって。

 この光景は俺と玲の二人だけの秘密だと思っていたのに。

「破り捨ててしまいたい」

「構いませんがそれは石宮様と桜木様の中を引き裂く結果にしかなりませんよ?」

「? どういうことですか?」

「これはデジタルカメラで撮影したものです。つまり石宮様、データがこちらにある以上、その一枚を破ったところで無意味だということです」

「何なんだよ、もう!」

 どうして九条はこんなことをするんだ! 俺たちに何か恨みでもあるのか。

「いえいえ、お嬢様は石宮様と桜木様に対して、好意こそあれど恨みなどありはしませんよ」

「……ナチュラルに他人のモノローグを読むの止めてもらっていいですか?」

「すみません。なにぶん九条家に使える身として必須条件なので」

 何? あそこの家の連中は忍術や超能力を体得していないとだめなの? 

 俺は再び戦慄を感じた。……と、俺は十分に冷え冷えとした感覚を味わっていると、背後から聞きなれた、そして俺のもっとも好きな人の声が聞こえてきた。

「けーんーとー」

「ああ、玲ー!」

 俺は写真をポケットにねじ込むと小走りに玲の元へと向かった。

 玲も一秒でも早く俺に会いたかったのだろう。ほとんど全力疾走でこちらへ向かってくる。

「建斗ー!」

 バッと飛びかかってくる玲の体を受け止める。

 見た目に違わず軽いので、押しつぶされるということはなかった。

「建斗、会いたかった」

「俺もだぜ、玲」

 ぎゅー、と抱き合う俺と玲。

 もうずっと、このままで痛いくらいだ。

「そのへんにしておいたらいかがですか? 一応学校の前ですわよ」

「ああ九条……なんだいたのか」

「ええいましたとも。お邪魔をして申し訳ありませんわ」

 俺の言い方が気に障ったのだろう。九条はほほを膨らませ、ふんとそっぽを向いてしまう。

 しかし九条の言い分ももっともだ。

 俺たちは名残惜しさを感じつつ、体を離した。

「それで、今日は何の用なんだ? あの人がここにいる時点でおまえは来ることは予想していたが」

「何、ちょっとしたバカンスへと旅立とうというだけのことですわ」

「バカンスって……まだ夏休みは少し先だぞ?」

「問題なしですわ。明日の昼過ぎには帰って来る予定ですから」

「……ほんとかよ」

 過去何度か、九条の思いつきで遠出をした経験はあった。

 その度に、何かよくわからない手段で拉致され、よくわからない内に目的地に着くというのを繰り返している。……ま、それ自体はいい。九条に連れて行かれて面白くなかったことなんてないからな。

 だが、その分悪いこと……というよりはよくないことも往々にしてあった。

 だから、まあ警戒するに越したことはないだろう。

「それで、今日はどんな移動手段なんだ?」

「まず、車に乗っていただきますわ。我が家の高級車に」

「……言いたいことはまあある。が、おまえにしてはまともな方だな」

 いきなり学校の屋上にヘリをつけたりだとかじゃないとは、こいつもそれなりに成長したということか。

「そして次に船に乗っていただきますわ。豪華なクルーザーに」

「……まあいい。で?」

「そして世界半周の後、ここへと戻って来る」

「なあ九条」

「いかがいたしまして?」

 にっこりと笑顔になる。九条。俺も思わずつられて笑ってしまいそうになった。

「人は物理法則を越えられない。わかってるよな?」

「ええもちろん。重々承知ですわ」

「だったら、その計画に決定的なミスがあることをまず知ろう」

「ミス? おほほほほほほ。わたくしの計画にミスなどありませんわ。おバカさんですわねえ」

「……うん、もういい」

 なんとなく話を聞いていてまずい気はしていた。

 俺が言葉を失っていると、くいくいと服の裾を引っ張ってくる感触があった。

「玲……おまえからも何か言ってやってくれ」

「建斗、楽しみだね」

 ぐっと親指を立てる玲。

 おやあ? 玲、おまえは学校一頭がいいって設定だったと思うんだが。それは俺の勘違いだったのだろうか。

 俺は諦めとともに、ため息を吐いた。

 これ以上何を言ったところで無駄だ。

 あとこちらを睨んでいる燕さん超怖い。

 

                         ◆

 

「さて、着きましたわ。こちらの船が今からお二人に搭乗していただく船ですわ」

「……九条さん、またすごいね」

「そんなことはございませんわ。ええ、ございませんとも」

「いやいや、実際すげーな。おまえんち」

 前のヘリの時も驚いたが、今回は更に驚いた。

 なぜなら、俺たちの目の前には見上げるほど大きな、そして巨大な豪華客船があったのだから。

 全体の大きさは四、五十メートルはあるだろうか。白を基調とした豪華絢爛な外装になっていて、ところどころに十字架を模した装飾が施されている。

「では、参りましょうか」

「あ、ああ……」

「うん……」

 俺と玲は呆然としつつ、先を行く九条と燕さんを追って船へと乗り込んだ。

 外装に負けず、内装も豪華だった。

 廊下には高そうな壺や絵が飾られ、天井には一メートル置きにシャンデリアが並んでいる。

 その煌々とした明るさに堪えられず、足下へと視線を向ける。

 すると、真っ赤なカーペットが目に入ってきた。それまで意識していなかったが、ふわふわとしていて非常に高級なものだとすぐにわかった。

 端的に言って、俺みたいな庶民代表みたいな奴が来るような場所じゃあない。

 つまり帰りたい。すぐに。

「さて、こちらが本日のパーティ会場ですわ」

「ぱ、ぱーてぃ?」

 な、何だ? 世界半周旅行じゃあなかったのか?

 俺が不思議に思っていると、燕さんが九条の前に立ち、会場へと続くであろう扉を開けた。

 その先には、何か得体の知れないものが待っているような気がする。

 俺は全身を強ばらせ、ぎゅっと玲の手を握った。玲も、俺の手を握り返してくる。

 うん、玲と一緒なら、大丈夫だ。きっと。

 静かに、うやうやしく開かれた扉の先には、それまでとは比べ物にならないくらいに豪奢なパーティホールが広がっていた。

「うわっ……」

 眩しくて、思わず目を細める俺。

「玲、大丈夫か?」

「だ、大丈夫。……だけど、これは」

 さすがの玲でもこの光景には対応できなかったらしい。俺と同じように目を細めて手の平で影を作っていた。

「どうしまして、お二人とも? さあ中へお入りください」

「お入りくださいと言われても」

「えーと、なんだかすごく豪華で、私たちにはちょっと……」

「大丈夫ですわ。みなさん素敵な方ばかりですので」

 それのどこが大丈夫なんだ? 逆に恐縮してしまって、まともに喋れねーよ。

 ちょっと待て。今ものすごく不穏な言い方をしただろ、おまえ。

「み、みなさんって誰だ?」

「ここにいるみなさんですわ」

 九条がホール内を指し示す。と、そこには瀟洒なドレスを身にまとったたくさんの男女がいた。……明らかにブルジョワな方々だ。

「あ、あう……」

 腰が引けるとはこのことだ。

 俺と玲はそろって後退する。逃げ出してしまおうかと考えてしまう始末だ。

 実際にそうしようかと玲にアイコンタクトをとった。それに対して、玲も一つ頷きを返してくる。

 よし決まりだ。逃げ出してしまおう。

 そう決心し、背後を振り返る。――どん、と何かにぶつかって玲ともども尻餅をついた。

「どこへ行かれるのですか?」

「あの……ええと、いえ」

 いつの間に移動したのか、俺たちの目の前には燕さんがいた。

 ゴゴゴゴゴゴゴッ、となぜか怒っていらっしゃる様子でございました。はい。

「まさか、よもやお嬢様のご好意を無碍になさるおつもりで?」

「い、いやあ、そんなまさか。なあ玲?」

「そうですよ、せっかく九条さんが招待してくれたんですから」

「ふむ……それならば、私から言うことは何もございません」

 燕さんは腰の後ろに手を回し、目を閉じた。

「こら、燕さん。お客様を怖がらせてはいけませんわ」

「……申し訳ございません、お嬢様」

「二人にも謝罪なさい」

「石宮様、桜木様、この度は申し訳ございませんでした」

「……いえ、俺たちも悪かったです。はい」

 これはもう、本格的にこの豪華客船クルーズを満喫する以外に、この船から無事に脱出することは不可能のようだ。

 俺と玲が諦め混じりにホールの方へと向き直る。

 それを見てかは知らないが、九条が声を張り上げ、出航の合図を声高々に口にした。

「さあ、出発ですわ!」

 こうして、俺たちは全然落ち着けもしない豪華クルーズの度に出発したのだった。

 だが、あとにして思えばこんなものはまだ序の口でしかない。

 本当の悪夢はここからだと、この時の俺は毛ほども思っていなかった。

 

                        ◆

 

 船上パーティが始まって早一時間が経過していた。

 俺は居心地の悪さを感じつつ、何とか隅の方でじっと耐え忍んでいたのだった。

「うう……なんだって俺がこんなところに」

「ま、まあまあそう言わないで。……なんとなーくいづらいのは私も一緒だから」

「九条の奴……覚えてろよ」

 ちなみにその九条はといえば、一段高くなった場所で燕さんと一緒に司会をしていた。

 あいつはいいよな、こういうことになれているから。なれていない俺たちは一体どうしたらいいんだよ、ちくせう。

『さあみなさん、ご覧下さいまし! これが我が苦情財閥の誇る三百六十度モニターですわ!』

 苦情が何やら、一際大きな声を出す。すると、突如として床や天井などが消えてしまった。

 俺は驚き、思わず周囲を見回した。

 壁や床、天井が取り払われ、視界の向こう側に水平線が見える。

 九条の言ったように、三百六十度どこを見回しても海と空。室内にいながら、海上の景色どころか海中の様子さえ一望できた。

「おお、こいつはすげー!」

「確かに、ちょっとテンションが上がるね」

 玲と一緒に、感嘆の声を漏らす。ステージ近くでも感性が上がっていた。

『三百六十度モニター自体はそれほど珍しい技術ではありませんわ。すでにいくつかの企業が採用していますし、何より昨今はメジャーな撮影方法としても広く使われていますわ』

 けれども、と九条は大きく目を見開いた。

『これほどの規模、これほどの精度での撮影を成し遂げたのは、世界広しと言えど九条財閥が初! この光景を見られたことは、みな様にとってこの上のない栄誉と存じますわ!』

 おおおおおお! と再びの歓声。俺も一緒になって拍手を送りたかったが、止めておいた。

 今はこの景色を楽しみたかったからだ。海上の景色や太陽光を反射してきらきらと輝く海面や優雅に魚の泳ぎ回る海中。

 おそらくは今後、こんな機会を手にすることは生涯ないだろう。

 だから、まあ今は九条に感謝してやってもいいかと思う。

「すごいね、九条さん」

「……ああ、さすがは九条財閥だ」

「ところでこれ、どうなってるんだろう?」

「へ? 九条が言ってただろ、三百六十度モニターだって」

「それはわかるんだけど」

 玲は床に触れて、不思議そうに首を捻った。

「どうやってモニタリングしてるのかなって思って。だって、水圧の関係とかでガラス張りにはできないし」

「それは……確かにそうだな」

「んー……ま、私は専門家じゃないからよくわからないだけかも。九条さんに聞いたらもっとくわしくわかるかな」

「……だろうな」

 九条なら、もっと詳しく知っていたとしても不思議じゃない。

 あとであいつに訊いてみよう。

 俺はそう思い、ステージ上で更に演説を続ける九条を見やった。

 今のあいつはいつも俺たちの前にいる九条とは違っていて、どこか公的な人物を思わせた。

 

                        ◆

 

 九条の演説が終わり、パーティもお開きになった。

 俺は燕さんに案内される形で、とある一室へと通される。

「……ここが、本日石宮様にお使いいただく部屋でございます」

「おお、こいつはすげー」

 部屋の中は広く、俺んちの部屋の二倍くらいはあった。

 大きな窓とそこから見える雄大な大海原。更に、冷蔵庫までついていて、中には飲み物まで完備されている。

 シャワー室も、人が二人くらいなら悠々と入れそうな広さがあった。

「感動ですよ」

「それはそれは。喜んでいただけたのなら何よりでございます」

「そりゃあ……でも」

「? どうされました?」

 部屋の中央。見るからにもふもふなベッドがあった。

 白くてふわふわで。……でも、一つ気になることがある。

 それは……、

「どうしてダブルサイズなんですか? ここ、一人部屋ですよね?」

「……いいえ、そのようなことはございませんが」

「え? つーことは誰かと一緒に?」

「はい。その通りでございます」

 うやうやしく一礼する燕さん。

 うーん……初対面の人と一緒に寝るのか。それも同じベッドで。

 それは、おそろしく勇気のいることだな。

「すみません。実は部屋数が少ないもので」

「……まあ仕方がないですよね」

 部屋がないのなら仕方がない。いろいろと設備を搭載した船なのだろうから、どうしようもないことなのかもしれない。

 旅行の間くらいは、我慢しよう。

 俺は諦め混じりにそう決意して、燕さんを振り返った。

「そういう事情なら、俺は大丈夫です」

「申し訳ありません。では、もう一方このお部屋をお使いになる方を呼んでまいります」

「はい。わかりました」

 燕さんは腰を折ると、部屋から出て行ってしまった。

 俺は一人、呆然と立ち尽くす。

 知らないひとと数日とはいえルームシェア。どんな人なんだろう。変な人じゃなけりゃいいけど。

 なんて考えていると、がちゃりと扉の開く音がした。

 同室の人が来たのかな?

「ああ、俺は別に怪しい者じゃ……」

「け、建斗……?」

「玲? どうして?」

 目の前には、驚いたように大きく目を見開く玲がいた。

「なんで玲がここに?」

「えっと、建斗こそどうして?」

「俺はここが俺の部屋だって燕さんに言われて」

「私だってそう、なんだけど」

「えーと、つまりどういうことだ?」

「確か、ルームメイトがいるって話だったけど。建斗だったんだ」

「そうなのか、この場合」

 つかなんでちょっと嬉しそうなんだ、玲。

「よかった。知らない人と一緒の部屋なんてちょっと不安だったけど、安心したよ」

「それは俺も。だけどいいのか?」

「何が?」

「あっと、男と一緒の部屋だぞ?」

「変なことを聞くね、建斗」

 玲はぴょん、と飛び跳ねるように俺との距離を詰める。

「いいんだよ。建斗だから。……それに私、建斗になら何をされてもいいし」

「ぶふぅ! ば、バカ言ってんじゃねーよ!」

「冗談だよ」

「……ったく」

 いたずらを成功させた子供みたいに笑う玲。

 俺は気を落ち着けるために、深く息を吐いた。

「全く……そんなことばかり言ってるとほんとに襲っちまうぞ?」

「いいよ、別にそれならそれでも」

「……あーもう」

 上眼使いにいたずらっぽくほほ笑む玲。

 俺はわしわしと頭を掻き、玲に背中を向けるように身を反転させた。

「えー? どうしたの? 怒ちゃった?」

「お、怒ってねーよ。第一、そんなことで簡単に怒るか」

「ふーん? なら、照れてるとか?」

「ちげーよ。……ったく、おまえも九条も一体何を考えてんだ」

「あれれー? 実は結構、建斗ってお堅い人だったんだ」

「あ、あたり前だろ」

「さっきはあんなこと言ってたのに?」

「あれは……ただの冗談だ。それに、こんなところで何かする訳ないだろ。当然監視カメラとかあるだろうから」

「ああ、それなら大丈夫だって九条さん言ってたよ。この部屋には監視カメラないんだって」

「あいつ……どんだけ前から計画していたんだ、この状況」

「んー? まあいいんじゃない、そんなことは」

 ボフッとベッドに寝転がる玲。

 その際に、服の裾がちらりとめくれて、その下に隠れていたはずの柔肌が露わになる。

 俺はガン見していいのか迷って、結局視線を逸らした。

「……まあ別にいいんだけどな。こうして玲と二人きりになれは訳だし」

「建斗……」

「玲……」

 俺もベッドの上に乗る。ギシッと音がしたような気がした。

 玲の言う通り、この部屋に監視カメラがないのならいっそ、大人の階段を登ってしまってもいいか。そんなことを考えている自分がいた。

 ま、そんなことはしないけど。

 でもま、キスくらいならいいだろう。

 そう思い、顔を近づける。

 玲は抵抗することなく、目を閉じた。

 そうして、俺と玲の唇が重なる――と、その思った矢先だった。

「ええ! 何? 何?」

「なんだ、急に部屋が真っ暗になったぞ!」

 部屋の中が真っ暗闇に包まれる。

 急に暗室となってしまった室内。もっとロマンチックな状況だったなら、勢いに流されていただろうけど、こんな訳のわからん状況じゃあそれも不可能だった。

 と、暗くなってしまったのは一瞬だけで、パッとすぐに明かるくなった。

「……な、何だったんだ?」

「さあ……きゃあ、何あれ!」

「どうしたんだ、玲!」

「あれ、あれを見て!」

「あれ……? なんだ、あれは!」

 玲の指差す方を見る。と、そこには肌色をした何かが転がっていた。

「……まさか、人の手?」

 よくよく見ると、それは人の手のようにも見えた。

 いやいや、まさか。こんなところに誰が潜んでいるというんだ。

「こ、怖いこと言わないで、建斗」

「悪い……ちょっと見てくるな」

「気をつけてね」

「ああ」

 ベッドから降りて、その何かを確認しに行く。

「う、うわああああああああああああああああああああああああ!」

「え? 何、何がったの、建斗!」

「待て、来るな、玲!」

「……こ、これって」

 玲が喉を詰まらせる。

 それはそうだ。なぜならそこには、こちら側を向いて横たわっている人間がいたのだから。

「し、死んでるの?」

「あ、ああ……そうみたいだ」

 脈はない。人間は生きている間、脈があるものだ。

 だが、死んでしまった人間には脈はない。だから、脈のないこと人も死んでいることになる。

「どうして死んで……というか、なんでこの部屋に?」

「さ、さあ……俺にはわからない」

「こ、この人ってさ、パーティ会場にいた人だよね?」

「……ああ、確かにそうだ」

 間違いなく、パーティ会場で見かけた人物だ。

 口ひげを生やし、優雅に笑っている様子をちらっと見たような気がする。

 と、俺と玲が言い合っていると、部屋の扉を開けて燕さんが姿を現した。

「どうしました、大声を出して! これは……!」

「ち、違います、俺たちは何も」

「わかっています。けど、この船でこんなことが起こるなんて……」

 悔しがるように、表情を歪める燕さん。

「とにかく、お二人はこのまま部屋にいてください。私は警察に連絡を」

「お、お願いします!」

 ダッと走って行ってしまう燕さん。

 よかった。これで警察が捜査に乗り出せば、事件はスピード解決だ。

「ま、まだ犯人はこの船の中にいるのかな?」

「ああ、だろうな。ここは海の上だから、逃げ場がないし」

「とすると、もしかしたら私たちもこの人みたいに……?」

「おいおい、バカ言ってんなよ。縁起でもねえ」

 しかしそうだ。玲の言う通り、この人を殺した犯人はまだこの船の中にいる。

 なら、俺たちが同じような目に遭わないという保証はない。

 俺が、玲を守らないと。

「……大丈夫だ、玲。何があったとしても、俺がおまえを守ってやる」

「建斗……うん、頼りにしてるね」

「ああ、任せろ!」

 どん、と胸を叩く。それは玲を安心させるためでもあったし、俺自身を鼓舞するためでもあった。

 だって殺人犯相手に俺がどこまでやれるかなんてわからなねえし、すげー怖い。

「まあそれはそれとして」

「……玲?」

「とりあえず外に出ようよ」

「へ? だってここにいろって……」

「ここにいたら、私たちが犯人だと疑われちゃう」

「それは……そうだな」

 一瞬暗くなって、それからすぐに明かりが点いた。

 けど、その瞬間に死体が現れた、なんて一体誰が信じると言うんだ。

 玲の言う通り、ここにいるのはまずい。すぐにどこか別の場所に行くのがいいだろう。

 玲の提案通り、俺たちは部屋を出た。――すると、すぐに誰かの叫び声が聞こえてきた。

「な、なんだ?」

「……こっちからか」

「ああ、おい! 待てよ!」

 すぐに身を反転させ、走り出す玲。

 俺は玲のあとを追い、叫び声の聞こえてきた場所へとやってくる。

 そこはランドリールームのようだった。たくさんの洗濯機が並んでいる。

 そして、俺たちの目の前には倒れふす一人の男。

「燕さん!」

 俺と桜木はすぐさま彼の傍らへと駆け寄り、上体を起こした。

 が、すでに意識はなく、呼吸も完全に止まっていた。

「どうされまして?」

 聞きなれた声に、俺はびくっと全身を震わせた。

「……九条?」

「あら、お二人ともこんなところにいらっしゃいましたの? ん? 燕は一体どうした……」

「だめだ、こっちに来るな!」

「んな! なんですの、突然大声を出したりして!」

「い、いいから来るな。そして警察に連絡をするんだ」

「警察……ま、まさか!」

 警察という単語を聞いて、何が起こったのは大方把握したのだろう。九条はサッと顔面を蒼白にすると、すぐさま踵を返した。

「すぐに警察にお知らせしますわ!」

「ああ、頼む」

 九条が急ぎ足で立ち去るのと入れ替わりで、今度は背の高い女性がランドリールームへと入って来た。

「どうしたのよ? 何かトラブルでも?」

「……殺人です」

「殺人……? 何をバカなことを……」

 女性は俺の言うことが信じられなかったらしい。けらけらと笑って、手を振っていた。

 だが、俺と玲が出す雰囲気に圧されたのだろう。すぐにその表情が青ざめる。

「ほ、ほんとに……?」

 確認してくる。が、俺は答えることができなかった。

 かわりに、ランドリールームで横たわっている燕さんの姿を見せる。

「……それ、死んでるの?」

「息はありません。おそらくは死んでいると思います」

「……まさか、あなたたちが?」

「俺たちじゃないです。誰かは……わかりませんけど」

「そ、そうね。犯人だったらいつまでも死体の側にいないものね」

 女性は寒さに耐えるように自分の体を抱く。

 しかし俺は、それが寒さに耐えているのではないとすぐにわかった。

 空調は効いている。船の中は常に快適な温度湿度に保たれているからだ。

「それでは、先ほど琴音お嬢様が走ってどこかへ行ったのは……」

「警察を呼びに。俺たちじゃ電話のある場所なんてわかりませんから」

「なるほど。……いつまでもそのままにしておくのは忍びないわ。この辺のシーツを被せておきましょう」

 言って、女性は一枚の真っ白なシーツを手にした。

 それを燕さんの死体の上に優しく被せると、手を合わせる。

「……それじゃあ、とりあえず琴音お嬢様のところへ行きましょう」

「ええ……その前に、ちょっと待ってください」

「どうかしたの?」

「玲、さっきの人にも被せてやろう。あのままじゃ可哀想だ」

「わかった」

 こくん、と玲が頷く。

 女性はきょとんとしていたようだった。

 しかしすぐに、彼女の表情は更に不可解なものになった。

「……どうしたの? ここに何かあったの?」

「え、ええと……」

 俺たちの部屋にあった死体にもシーツをかけようと部屋に戻る。が、部屋の中にあったはずの死体は消えていた。

「……どういうことだ、玲」

「私に訊かれても……」

「どうしたのよ、あなたたち」

「いや、えーと……なんと言ったらいいか」

 俺は返答に困り、ぐるりと部屋の中を見回した。

 ベッドの上、洗面所の入口。見える範囲には死体はなく、つまりは俺たちがシーツを被せるべき対象がなくなってしまったということだ。

「……何もないのなら、さっさと琴音お嬢様のところへ行きましょう」

「わ、わかりました……」

「はい」

 俺たちは腑に落ちない何かを抱えたまま、女性に続いて廊下へと出る。

 シーツは、その途中でランドリールームへと戻しておいた。

 

                        ◆

 

 警察への連絡を終えたのだろう。バタバタと慌てた様子の九条と廊下でかち合った。

「琴音お嬢様」

「なぜここに? いいえ、今はいいですわ。それより、大変なんですの」

「どうしたの、九条さん?」

 はあはあと肩で息をする九条に、玲が歩み寄る。

 差し出された玲の手を握り、九条は悔しそうにしていた。

「警察とは連絡が取れたのか?」

「……いいえ、取れませんでしわ」

「何! どうして、おまえはそのために……」

「……通話機器、また連絡手段として用意していおいたその全てが何者かによって破壊されていましたわ」

「破壊されていた!」

 俺は思わず大声を出してしまっていた。

「どういうことだよ、それ!」

「わかりませんわよ、わたくしにも!」

「待って二人とも、今はケンカなんかしても意味がないよ」

「……そうだな」

 九条に詰め寄りそうになったところを、玲が止めてくれる。

 しかしどうして、連絡手段が破壊されたんだ。これじゃあ外と連絡を取ることができないじゃないか。

「……犯人の仕業、と考えるのが妥当でしょう」

「犯人の……?」

「ええ、犯人がそうして外部との連絡手段を断ち、犯行を行いやすくした。そう考えるのが自然だと思うわ」

「……私もそう思う」

「でも、だったらどうすりゃいいんだよ?」

 船の中を殺人者が歩き回っている。またいつ誰が殺されるかわからない。

 そんな状況下で、外部と連絡すら取れないんじゃあ、一体どうしたらいいんだ。

「……わたくしたちで犯人を見つけるしかありませんわ」

「はあ? バカ言ってんじゃねえよ、そんなことできるか!」

「しかしやらなくては! じっとしていては、殺されるのだけですわ!」

「九条さんの言うとおりだよ。やろう、建斗」

「玲……」

「ああ、二人の言うとおりだ。やるしかないよ、少年」

「……どうして」

 どうしてそんなにも強気でいられるんだ? だって相手は殺人犯だぞ?

 それも燕さんほどの使い手を殺せるほど腕の立つ格闘家の可能性が高い。

 そんな人物を見つけ出し、あまつさえ取り押さえようというのだろうか。いくらなんでも無謀という奴だ。

 ここは、なんと言われようと断固反対するべきなんだろう。

 だって、俺なんかじゃ確実に返り討ちに合うだけなんだから。

 でも、みんなの言い分もわかる。このままじっと手をこまねいていたんじゃ、いずれは殺されてしまうだろう。その前に犯人をとっ捕まえて縛り上げることができれば、俺たちは無事二家に帰れる。

 外部からの救援が望めない以上、自分の身は自分で守る。その意味合いも込めて、犯人を探し出すのが賢明だろうか。

 それに、女性陣がこれほどやる気になっているんだ。男の俺がやらない訳にはいかないだろう。

 俺ははあとため息を吐くと、こくんと頷いた。

「わかった。やるよ」

「おおー、そうこなくっちゃ、少年」

「頑張ろうね、建斗」

「……ああ、そうだな」

 正直乗り気じゃないけど、仕方がない。

 殺人犯がうろつていては、楽しい旅行にはならないだろうからな。

 

                        ◆

 

 そうして、俺たちの捜査は始まった。

 とはいえ、素人探偵のすることだ。可能なことなんて限られている。

 例えば、話を聞いて回る。現場に行って手がかりがないか調べる。それだけだ。

 刑事ドラマのようにルミノール反応がどうとか指紋がどうとかまで調べられるほど、俺たちは専門家ではなかった。

 だからまあ、集められる情報なんてたかが知れている訳で。

 俺たちは九条の部屋で、椅子に腰かけたりベッドに座ったりしていた。

「さて、それじゃあ集まった情報を整理しよう」

「あの……その前に一つ訊いていいですか?」

「何? えーと……確か桜木さん、だったわね」

「私の名前、ご存知だったんですね」

「ええ、琴音お嬢様から聞いていたわ。それで聞きたいことというのは何?」

「私たち、あなたの名前を知りません」

「え? ああ、そうだったわね」

 女性は今頃そのことに思い至ったのか、申し訳なさそうに笑った。

「私の名前は心沢美里っていうの。よろしくね」

「はい。よろしくお願いします」

 ぺこり、と玲がお辞儀をする。

 女性……心沢美里さんはそれを満足そうに見てから、俺へと視線を移した。

「それで、君はなんて名前?」

「ああ、えっと、俺は……」

「石宮建斗っていいます。絶対に名前では呼んではだめです」

「ん? それはどうしてかしら?」

「だめだからです。それ以上の理由はありません」

「……ふふ、わかったわ」

 美里さんは肩をすくめ、それでこの話題は終わった。

「では、あまりのんびりもしていられないから各自集めた情報を披露してもらえるかしら?」

「では、わたくしからいかせていただきますわ」

「では、お嬢様」

 九条が挙手し、立ち上がる。

「わたくしの得た情報によりますと、まず燕が亡くなった時間は全員部屋にいたそうですわ」

「全員って、百人以上はいただろ。その全員に聞いて回ったのか?」

「ええ、もちろんですわ。そうしなくては、真実は得られませんもの」

「それで、どうだったの?」

「その内で実際に部屋にいたと証明できた方は半数。もっとも、誰かが嘘を吐いているのだとしたら、この前提そのものが成り立たなっくなってしまいますが」

「そのあたりは今は考えないでおきましょう。では次は」

「はい、私と建斗が二人で調べました」

 俺たちは二人で、あの一瞬の停電のことを調べていた。

「あの停電は意図的に起こされたのだというのが私の見立てです」

「停電? ああ、そういえば一瞬だけ暗くなった時間があったわね。あれのこと?」

「はい」

「でもあれって本当に一瞬だったわ。そんな短時間に、あなたたち二人に気づかれずに死体を部屋の中に運ぶなんてことがほんとに可能かしら?」

「それは……まだわかりませんが、死体を運び込んだとしたら、その時間しかありえません」

 そこ以外で部屋に死体を入れようとしても、それこそ俺たちに気づかれる。

 犯人としてもそれは重々承知だろう。

「そこで私たちは少なくともあの男性を殺したのは、スタッフの中の誰かだと踏んでいます」

「お待ちになって。この船には殺人を犯すようなスタッフはいませんわ。みなさん清廉潔白でしてよ。そこのところ、わたくしが保証致しますわ」

「でも、実際問題スタッフの人でもない限り、意図した時間に停電なんて起こせないと思うんだ。だから私はこの仮説が正しいと思ってる」

「そんなこと……」

「はいはい、そこまで」

 パンパンッと、美里さんが手を叩く。

 そこで、言い争いに発展しそうになった玲と九条の口が閉じられた。

「言い争ってる場合じゃないでしょ。今は情報の共有が最優先。桜木さんもお嬢様も、そのへんはしっかりして」

「……申し訳ありあませんでしたわ」

「私こそ……ごめん」

「それで、君は何かないの?」

「お、俺ですか……?」

「そ、君。彼女にばかり喋らせてないで、何か言いなさいよ」

「……と言われましても」

 何か……と言われても困る。

 俺は調べたこと、見た光景を思い出しながら、必死に考える。

 何かあっただろうか。……何か。

「……えーと、少し気になったんですけど」

「何? 言ってみて」

「燕さんって結構強いじゃないですか」

「え、ええ。なにせあの若さでとある武術の免許皆伝をいただいていますから」

「何、ある武術って」

「何だったでしょう……バリなんとかという。日本の武術らしいのですが、いくら調べても全くわからなかったですわ」

「へぇー、そんなのがあったんだ」

「そうらしいですわ」

「それがどうしたの?」

 九条と美里さんの視線が俺に集中する。

 俺はこほんと咳払いを一つすると、その疑問点を口にした。

「そんな人が、ただ不意を突かれたくらいであっさり死んでしまうとは思えないんです」

「む……確かのそうですわ。燕がただの悪漢にすんなり殺されてしまうなどと、考えづらいことですわ」

「そこで、俺は考えた。相手もまた、何らかの武術の達人だったんじゃないかって」

「それは……ありえそうな話ですわ」

 あごに手を添え、考え込む九条。

 俺はちらっと玲を見た。玲もまた、俺を不安そうに見ていたので、そっと手を握る。

 少しでも不安が和らげばいいと思って。

「……桜木さんはどう思います?」

「何となく、この犯人は単独犯ではないんじゃないかなって思う」

「どうしてそうお思いに?」

「……まだ明確な根拠はないんだけど、例えば停電の時間はごく短かった。でも死体は私たちの部屋に運び込まれた。ということは電気を消す係と死体を運ぶ係の二つが存在したんじゃないかと思うんだ」

「ふむ、それは一理ありますわね。しかしそれらは全て、ただの偶然と言うことも可能ですわ。あるいは、死体を運ぶ人間があらかじめ何らかの細工をしてから、死体を運んだか」

「問題は、一度運び入れた死体をどうしてわざわざまた持ち出したかだよね」

「ええ。どうして持ち出したか。そしてどうやって運んだのか」

 うーん、と考え込んでしまう玲と九条。

 俺と美里さんはもはや、二人の話に着いていけてなかった。

「……お嬢様たちは一体何を言っているの?」

「さ、さあ? 俺にもさっぱりです」

 美里さんが体を近づけて、耳打ちしてくる。

 ドレスの隙間から胸の谷間が除けて、どきっとしてしまった。

 それに感づいたのだろうか。玲が俺を振り返り、ぎょろりと睨みつけてくる。

「な、何でもないぞ、玲」

 俺は美里さんから距離を取り、ひらひらと手を振った。

 たはは、と乾いた笑いを漏らす俺の横で、美里さんが不思議そうに俺たちを見比べていた。

「……何だか大変そうね」

「ええ、まあ」

「ああ、どうぞ。推理を続けて。私は彼ともうちょっとお話しているから」

「ちょっと待ってて、九条さん」

 玲が会話を中断し、ぎゅっと更に力強く俺の手を握った。

 俺は一体どんな罵詈雑言が浴びせられるのかとひやひやした。けど、そんなことは少しもなく、桜木は俺の手を引っ張って、美里さんのいる方とは反対側に俺を誘導する。

「それで、犯人は一体何が目的なんだろう?」

「わたくしにはわかりませんが、おそらくは目的は達成されたのだと思いますわ」

「どうしてそう思うの?」

「仮に犯人の目的を殺人そのものだと設定しましょう。その場合、もう二人殺してしまっているのですから、目的は達成したと言えるのではなくて?」

「この船の全員を殺すつもりかもしれないよ?」

「まさか。この船には乗客、船員合わせて三百人近くの人が乗っているんですのよ。その全員を殺害せしめるなど、到底無理ですわ」

「それはどうだろうね」

 玲は両手の指先を合わせ、目を閉じた。

 ……何、そのへんなポーズ。なんで合掌してるの?

「消えた死体。燕さんの死。断たれた通信手段……」

 ぶつぶつと何事かを呟く玲。……ところでそれ必要?

「……まだ、事件は終わらないと思う」

「どうしてそうお思いに?」

「なぜなら、犯人は通信手段を奪っているから。海の上ではスマホは使えないし、他に方法がない以上、犯人にとってこれほど都合のいいことはないからね」

「つまり、元々連続殺人を犯すつもりであらかじめ通信手段を破壊した、ということですの?」

「その可能性は高いと思ってる」

「それでは、わたくしたちは一体どうしたら?」

「さて、お嬢様方。ここで私から一ついい?」

 美里さんが挙手し、発言する。

 俺たちは美里さんを見やる。美里さんは自分が注目されていることを確認すると、こほんと咳払いした。

「こういうのはどう? 乗客と船員を一ヶ所に集める。そうすれば、犯人もそこに集まることになるんだから、下手に手出しはできないんじゃない?」

「なるほど……それはいいアイデアですわ」

「でしょ? なら、早速実行しましょう」

「ええ、もちろんですわ。管制に言って、船中に知らせてもらいますわ」

「私たちも行こう、建斗」

「あ、ああ」

 玲に手を引かれ、九条のあとを追う俺。

 その更に後ろから、美里さんが着いて来る。

 そうして俺たちは、とりあえず管制室へと向かうのだった。

 

                         ◆

 

 管制室入口前で、若い男性と九条が言葉を交わす。

 男性はうーん、と唸ったり首をひねったりしていた。が、やがて一つ大きく頷いた。

「わかりました。やってみましょう」

「お願いしますわ」

 男性が踵を返し、管制室の中へと姿を消した。

 ほどなくして、俺たちの耳に船内アナウンスが聞こえてくる。

 それはほぼ、さっき九条たちが話していた内容そのままだった。

「……さてと、これで一応は大丈夫か」

「けど、みんなに起こったことを話さないと」

「そんなことをしたらパニックね」

「などと言っている場合ではありませんわ」

 美里さんは嘆息し、肩をすくめた。

「素直に従うかしら?」

「事情を話せば大丈夫……だと思いますわ」

「ああ、俺もだ」

 誰だって殺されたくはないからな。

 一ヶ所に集まっておけば、殺人の被害者になるリスクは減る。大勢の人の前で誰かを殺すことがどれほど危険かは犯人もわかっているだろうからだ。

「拒否をすれば自分が疑われる。犯人がそのへんをわかっていなはずはない」

「だから絶対に乗ってくる。……だね?」

「その通りですわ」

 自信たっぷりにそう断言する九条。

 けど、美里さんの表情は冴えなかった。

「どうかしたんですか?」

「どう……というほどのことでもないんだけど」

「ん?」

「お、お嬢様、大変です!」

 バンッと管制室の扉が開き、さっきの男性が慌てた様子で出て来た。

「どうしました?」

「こ、各部屋に備えつけてある内線から、抗議の電話が多数よせられています」

「何です?」

「だから、抗議の電話が……」

 男性の言う通り、彼の奥ではひっきりなしに電話が鳴り続いていた。

「助けてください!」

「自分たちで何とかしなさいよ! それがあんたたちの仕事でしょ!」

「そ、そんなぁ……」

 男性は情けない声を出して嘆いた。

 俺たちは彼に背中を向けた。

「それで、これからどうするんです?」

「どうしてみんなが拒否するのか。その理由を確かめないと」

「……ということは、みなさんの部屋を回るのですね?」

「ええ、そうよ」

 ええ……まじかよ。

 俺は信じれないような思いで天井を仰ぐ。

 美里さんは力強く頷き、廊下を歩くのだった。

 

                         ◆

 

 一ヶ所に集まらない理由としては、殺人犯と一緒の空間にいるなど耐えられないからだった。

 それは……考えてみればそうだろう。九条の言ったように、犯人の目的が殺人そのものだった場合、一ヶ所に集中するのはむしろ危険だと言える。

「……なんてこと」

 美里さんは嘆くように、両手で顔を覆った。

「どうしてみんなわからないの? それぞれの部屋にいる方が危険だっていうのに」

「でも、部屋にいる方がいいんじゃ? 鍵をかけて布団を被って寝てれば、明日になる」

「鍵を破られたら? ドアを壊されたり、ピッキングをされたら?」

「鍵を壊されるのはどうしようもありませんが、ピッキングはありえませんわ」

「どうして?」

「この船の鍵は全てカードキーになっておりますので。それに、外部から破壊活動をしようとしたなら、即座に警報音が鳴り警備の者が駆けつける手はずになっておりますわ」

「それは頼もしい限りね」

 皮肉るような彼女の言葉に、九条はむっとした様子だった。

 けど、それ以上はただの不毛な言い争いになると直感したのだろう。口を閉ざし、腕を組んだ。

「……どうしよう建斗、このままじゃまずいよ」

「ああ、わかってる。けど、何の手がかりもないんじゃ、俺たちじゃどうしようもないな」

「手がかりと言えるものといえば、停電くらいだけど」

「それと消えた死体か」

「それだけ。あとはみんなアリバイなしの容疑者ってことくらい」

「困ったな」

 四人で頭を捻る。捻ったところで、どうにもならないけど。

「……小説や映画だと、このままだとまた誰かが死んじゃうわよね?」

「縁起でもないことを言わないでくださいまし」

「でも、実際にその通りにならないという保証はない……か」

 ずーん、とお通夜みたいな空気になる。

「おいおい、どうしたんだよみんな。さっきまでの勢いはどうしたんだ?」

「……だって建斗、相手は武術の達人で何の手がかりもなくて、それに居場所もわからない。そんな相手にどうやって立ち向かうの?」

「それは……」

 俺だってわからない。でも、このままじっとしていたところで事態が好転するとは思えない。

 だから、例え危険があるとわからなくとも、やるしかない。

 俺たちの手で犯人を捕らえるんだ。それ以外に方法はない。

「……できる対策としては、今後単独行動はしない。できる限りみんなで一緒にいる。あとはせめて何か武器になるようなものがあればいいんだけど」

「武器、ですか」

「ま、それはさすがに無理だよね」

「……厨房は? バイオとかだと、まず厨房でナイフを手に入れるのが定番だと思うんだけど」

「なるほどですわ! そのあと歩き回って、銃や弾薬を発見するのがお馴染みですわね」

「よし、それで行こう」

 美里さんがすっくと立ち上がる。

 それに続くように、玲と九条も立ち上がった。

 バイオ云々の部分に突っ込みはなしですかそうですか。

 俺は心の中で嘆息しながら、三人に遅れて膝を伸ばした。

「では、参りましょう。こちらですわ」

 九条の先導で、厨房へと向かう。

 さすがだ。船の内部構造には詳しいな。

 ほどなくして、厨房へとたどり着く。

 そこには本日の業務を終え、明日の仕込みをするコック姿の男性が数人いた。

 俺たちが入って来るのに気づいて、驚いたように振り返る。

「お、お嬢様? どうしました?」

 コックの中でも一際長い帽子を被った男性が歩み寄って来る。

 彼の顔には困惑の表情がありありと浮かんでいた。

 それはそうだろう。なにせ突然、責任者の娘が厨房を訪ねてきたのだ。何か不手際があったのではと不安になるのも頷ける。

「いえ、何というほどのことは。……ここにいる全員分の包丁かナイフを用意してくださいます?」

「包丁……? えっと、何にお使いに?」

「それは言えませんわ」

「いくらなんでもそれはだめですね」

 ん、まあそうだろう。普通はだめだ。

 何の理由もなく刃物を持ち出すなど、不可能だろう。

「……あなたたちにはまだ知らせてませんでしたが」

 九条が男性に顔を近づけ、何やら耳打ちする。

 男性は九条の話が終わると、サッと顔から血の気を引かせた。

 たぶん、二人が殺されたことを伝えたのだろう。

「な、なんてことだ……!」

「ですから、わたくしたちは自分の身を守る術がほしいんですの。ご理解いただけて?」

「それは……理解しました。だけど、やはり包丁やナイフをお渡しする訳には」

「ええい、わからず屋ですわね」

「まあまあ、そうカッカしないの、お嬢様」

 美里さんがポン、と九条の肩に手を置いた。

「彼らだって好き好んで言ってる訳じゃあないでしょ? ちょっとは理解してあげなきゃ」

「……わかりましたわ。無理を言って申し訳ありませんでした」

「ああ、いえいえ。こちらこそ申し訳ない」

 ぺこり、と頭を下げる九条。それにつられてか、男性も腰を折った。

「さてと、これで和解は完了したわね。……ということで」

「へ?」

「ねえお兄さんたち。だったら私たちを守ってくれない?」

「ええと、それは一体どういう……?」

「だって、武器を渡すのが無理なら、あなたたちに守ってもらうしかないじゃない。こっちは女の子と子供しかいないんだから」

「あの……まあ理屈はわかりますが、私共は格闘家や警察じゃあないので」

「へぇー、ならあなた、私たちがどうなってもいいと言う訳ね?」

「いえ、決してそのような……」

「だったらいいじゃない」

 美里さんの手が、コック長? の顔に添えられる。

 彼はあまり女性なれしていないのか、ポッと顔を赤らめた。

「な、何を……」

「何だったら、私がサービスしてもいいわよ?」

「さ、さー……びす?」

 ごくりと喉を鳴らすコック長。後ろの方でも、他の従業員たちが若干色めき立っていた。

 全く……そんな場合じゃないってのに。

「そう、サービス。どんな内容がいいかしら」

「だ、だめだ。私には妻と娘が……!」

「いいじゃない。ここにはその奥さんと娘さんはいないのだし」

「はわわわわわわ」

 コック長の太ももに自分の足を絡める美里さん。

 その妖艶な姿に、何だか俺まで変な気分になってくる。

「……建斗、何を考えているの?」

「いいえ、何も考えてませんて!」

 玲の冷たい声音に、思わず背筋を伸ばす俺。対照的に、瞳を輝かせるコックたち。

 くそー、素直な彼らが羨ましい。

「……おほん! そのこまでですわ!」

「あら、どうしたのかしら、お嬢様?」

 コック長の足に絡めていた自分の足を解く美里さん。

九条を振り返り、不思議そうに首を傾げる。その背後で、コック長が前かがみになりながらホッとした様子で胸をなでおろしてた。

「どうした、ではありませんわ。今はそんなことをしている場合ではないのではなくて?」

「……そうね、私が悪かったわ」

 美里さんは肩をすくめ、コック長およびコック全員へ謝罪した。

「お仕事の邪魔をして申し訳ありませんでした」

「え? ああ、いえ……大丈夫です」

「ほんと、何も問題ないですから。ええ」

「何だったら俺の出刃包丁であなたのアワビを刺しますよ」

「ええい、お静かになさい!」

 ぴしゃり、と一喝する九条。九条の喝に、姿勢を正す以下数名。

「だから、今はそんなことを言っている場合ではありませんわ! わたくしたちは命を狙われていますのよ、そこのところどうぞご理解くださいまし!」

「うう……すみません」

 深々と頭を垂れるコック長以下数名。

 九条はその様子を見て、嘆息しつつ頷いた。

「あなたもですわ。あまり他人を誘惑するようなことはよしてくださいまし」

「それはそれは、失礼をしました、お嬢様」

「全く……今がどんな状況かわかっていますでしょう?」

「もちろん。けど、意外だったわ」

「意外……とは?」

「いえ、てっきりお嬢様なら顔を真っ赤にして恥ずかしがると思ったのだけど」

「……わたくしのことをバカにしていますでしょう?」

「いえ、そんなことはありませんよ」

 美里さんとぼけたように、目を瞬かせた。

 彼女は知らないようだな。九条の秘密を。

 なぜ九条が美里さんの突飛な行動を見て顔色一つ変えなかったか。その理由を。

 俺は知っているけど。ま、言う必要はないな。本人も極力なら周囲に知られたくないことのようだし。

「で、どうでしょうか?」

「私共も仕事がありますし、それにここにいても安全とは言い難いかもしれません」

「どういうことですの?」

「もし犯人がこの部屋に入って来たとしたら、包丁やナイフは犯人にとっても凶器になります。そうした場合、我々だけでは」

「それは……一理ありますわね」

 むむう、と苦い顔をする九条。

「お部屋に戻られて、厳重に鍵をかけられては?」

「いえ、犯人は鍵を開ける術を持っていると思われます」

「……あなたはお嬢様のお友達の。それはどういう意味でしょうか?」

「第一の被害者は私たちの部屋に死体を運び込みました。そのことから考えて、犯人はこの船の鍵を自由に開け閉めできる人物ということになります」

「それでは、船員スタッフの誰かが犯人だと?」

「それはまだわかりませんわ。けど、その可能性も大いにありますわ」

 九条が言うと、コック長は嘆くように顔を覆った。

「おお、それは何と恐ろしい。これではおちおち仕事など」

「……大変でしょうが、頑張って」

「ええ、わかりました」

 コック長が頷き、俺たちは厨房をあとにした。

 

                       ◆

 

「それじゃあ、今後のプランを考えましょう」

 美里さんは腕を組み、その豊満な胸を持ち上げるように寄せた。

 そのお陰で胸部が強調され、俺の視線を釘づけにしようとしてくる。が、俺は何とかその魅惑に打ち勝ち、胸から視線を逸らした。

 ……本当は玲が超睨んでくるからなんだけど。

「……プラン、といいますと?」

「決まっているわ。私たちで犯人を捕まえるためのプランよ」

「つまり、犯人確保のための計画ということですわね」

「ええ。あまり時間もないのだし」

「時間……? 時間がないってどういう意味ですか?」

「おーほっほっほー! 何でもないですわよ!」

 九条が何かを誤魔化すように急に笑い出した。

 え? 何? すげー怪しいんだけど。

「だって今……」

「そうですわね、いかがいたしましょう」

「そうだね、私としては犯人を誘い出す餌を撒くのがいいんじゃないかなって思うんだ」

「さすがは桜木さんね。私もそれはいい考えだと思うわ」

「ですよね。……でも、一体誰が餌になるのか。それを決めないと」

「そんなの決まっているわよ」

 ニコッと、美里さんが素敵な笑顔になる。

 そのまま俺の方を向くものだから、俺としてどきっとしたりぞくっとしたり、何だか複雑な気分だった。

「えーと……みんな何を言って」

「私たちはみんな女子。女の子にそんな危険な役はだめだと思うわ」

「ええ、わたくしもそう思いますわ。とすると、候補は一人」

「……えっと、まさか俺が?」

 自分を指差す手が震える。

 えっと、俺が犯人を誘い出す餌……ということは、下手をすると殺されてしまう可能性があるということだよな?

「いや、それはさすがに……なあ、玲」

「ええと……ごめんね、建斗」

「……まじですか」

 潤んだ瞳で俺を見てくる玲。そこには申し訳なさが全面に現れていた。

「私も、建斗が危険な目に遭うのは嫌だよ。でも、こうしないとみんなが危ないから」

「君一人が犠牲になれば、みんなが救われる。それは素晴らしいことじゃない?」

「待って、待ってください、それはおかしいでしょ!」

「往生際が悪いですわよ」

「往生なんかしてたまるかあ!」

「引っ捕えなさい!」

 俺は踵を返し、逃げ出した。

 けど、玲の運動神経には勝てず、すぐに捕まってしまう。

「げふっ」

 床に倒れ伏し、あっという間に拘束されてしまう。

「大人しくなさい。大丈夫、悪いようにはしないから」

「まじで待って! ほんと無理だから!」

「そんな子とはないわ。人間、やろうと思ってやれないことはないのよ」

「そんな名言っぽく言われても無理ですよー!」

 俺はただの学生なんだ。なのにこんな仕打ち、ありえないだろ。

 俺は目の前の美里さんを呪い、九条を睨み、玲に懇願した。

「離してくれ、俺を自由にしてくれよ」

「だめ。それはできないわ」

「どうして……」

「なぜならわたくしたちにはもう、犯人が誰なのか大体の目星はついていますから」

「何……! だったら、そいつをすぐに捕まえて……」

「だめだよ、建斗。証拠がないから、捕まえられない」

「証拠なんて、あとからだって」

「いいえ、今ここで彼には捕まってほしいの。そのためには、君の犠牲が必要よ」

「あなたのことは、たぶんきっとおそらく一生忘れませんわ」

「だめな奴じゃねえか! すぐ忘れるパターンだぞそれ!」

「ええい、うるさいわ! 大人しくしなさい!」

「いやー、いやあああああ!」

 ぐるぐるぐるぐる、とどこから取り出したのか縄でがんじがらめにされる俺。

 両手首を固定され、足を一本にまとめられる。

 ついでに体全体に何重にも縄が巻かれていく。

 くそ、これじゃあ身動きが取れない。

「解こうとしても無駄よ。なぜならそれは彼女に教えてもらった巻き方だから」

「くそ……九条、なんでおまえこんな巻き方を知ってるんだ!」

「新井さんから教えてもらいましたわ。何でも故郷でよく使われたのだとか。何に使ったのでしょう?」

 きっと拷問とかだよ、ちくしょう! あの人元忍者だから。

「……では、しばらくここで待っていてくださいまし」

「じゃあね、建斗」

「ま、待ておまえら、置いていくなって。おいって……なあ玲!」

 俺の静止を無視して、三人は俺を置き去りにしてその場を去った。

 あとには、身動きの取れなくなった俺が一人残された。

「ちくっちょう! どうしたらいいんだ、全く!」

 俺はどうにか縄を解こうと頑張ってみた。が、縄は一向に外れる気配がない。

 さすがは忍者直伝の緊縛術だ。お見事と言うより他にない。

 しばらくもがいていたが、やがて疲れてくる。……何だって俺がこんな目に。

 縄を解こうとするのを止めて、俯いた。

 失意の底に沈む、とはまさに今の俺のことを言うのだろう。

「……どうしてだ、玲」

 まさか玲にまであんな態度を取られるとは思わなかった。玲なら、きっと反対してくれるだろうと思ったのに。

 俺はがっくりと項垂れた。何か、違うことを考えようとしても無駄だった。

 と、俺の目の前に誰かが立つ。足音もなく、いつの間にか、だ。

「あんたは……!」

 俺は大きく、目を見開いた。

 顔を上げた俺の前には、見知った顔がいたからだ。

 

                        ◆

 

「……つまり、どういうことだったんだ?」

 縄で縛られて一時間後。俺はいまだ緊縛状態から解き放たれないまま、じっとそいつの話に耳を傾けていた。

「つまり、全てはお嬢様の仕組んだゲームだった、ということございます」

 燕さんはうやうやしく一礼すると、顔色一つ変えず平然とそう言ってのけた。

 彼は今だに目を白黒させる俺を置き去りにして、俺の背後へと回り込んだ。

 そうして、俺が解こうとして解けなかった縄を容易く解いてしまう。

 自由の身となった俺は、しかし状況がいまいち飲み込めず、困惑する。

「えーと、要するに誰も死んでなくて、あれは演技だったと?」

「はい。おおまかに言えばその通りでございます」

「……何だってそんなことを」

「一つ、確かめたいことが」

 ドンッ! と燕さんが壁際に俺を追い込んでくる。

「確かめたいこと?」

「はい。あなたは一体、お嬢様のことを何と思っておいでなのか。それを知りたいと思いまして」

「……どうして、そんなことを?」

「私はお嬢様の幸せを願っています。そして、あなたにはそれを果たせる力がある」

「言っている意味が……よくわからなんですけど」

「いいえ、わかっているはずです。本当は」

 燕さんの鋭い眼光が俺に突き刺さる。

 俺はヘビに睨まれたカエルのごとく、身動きが取れなかった。

「……五分後、お嬢様がやって来てしまいます。その前にどうか」

「どう……と言われても」

 俺の答えなんて、とっくに決まっている。

 この人だって、それを十分承知しているはずだ。なのになぜ?

「……九条は、俺にとって大切な友人です。もちろん玲にとっても。かけがえのない無二の」

「お嬢様を恋人とする気は?」

「それは……ないです。俺には玲がいますから」

「……そうですか」

「ご、ごめんなさいごめんなさい!」

 スッと、燕さんの影が俺から遠ざかる。

 もしかしたら、何かしらの制裁を加えられるのではと思い、とっさに両手で顔を庇う俺。

 しかし、何もなかった。

 おそるおそる手を退かすと、燕さんは呆れたような困ったような顔で、俺を見ていた。

「別に何もしませんよ。私の訊きたいことは聞けましたから。……まことに残念ではありますが。しかしそれも仕方のないことでしょう」

「……ほんとに、すいません」

「いいのですよ。お嬢様とて、とっくに吹っ切れている問題のようですから」

「とっくに? ……それはどういうことですか?」

「おっと、喋り過ぎましたね。これではお嬢様になんと言われるか」

 燕さんはシーッと人差し指を口元に当てる。

「どうか、今のやりとりはご内密にお願いします」

「それは……えーと」

「だめですか?」

 だめ、という訳じゃあない。けど、何となく腑に落ちないのだ。

「あなたは一体、何がしたかったんですか?」

「……お嬢様から、今回のクルーズについてご提案をいただいた時に私は考えておりました。もしかすると、これはチャンスかもしれないと」

「チャンス? それは一体……?」

「……石宮様、あなたはご存知ないかもしれませんが、実はお嬢様はあなたに好意を寄せておいででした」

「は? いやいや、それはあなたの勝手な想像で……」

「想像などではありませんよ」

 そう断言する燕さんの瞳は、本気だった。

 ……え? まじで?

「信じられないという顔ですね。まあ仕方のないことですが」

「だって……ええ?」

「ま、もはや石宮様に関係のないことでございます。そう置きになさらずに」

「……えーと、わかりました」

 燕さんの言い様は全く理解できなかった。

 九条が俺のことを……? まさか。バカバカしいとまで思う。

 だって九条は今まで、どちらかと言うと俺と玲の幸せを望んでくれていた立場だ。

 それが、どうして俺のことを好きだという結論になるのか。全くわからなかった。

「……さて、そろそろ時間ですね」

「時間って……一体何が始まるんです?」

「第三次大戦は始まりませんので安心してください」

 ニコッと、燕さんがほほ笑んだ。

 それと同時に、室内に音楽が鳴り響く。……どっかで聞いたことのあるような曲だ。

「あるーはれーたひーのことー」

「まほういじょうにゆーかいなー」

 何だろう、すごくどこからか怒られそうなフレーズの歌詞が聞こえてくる。

 俺は燕さん越しに扉の方を見た。けど、その先には誰もいない。

「一体どこから……?」

 ぐるぐると室内を見回す。と、突然背後の壁が左右に割れた。

「ええ!」

 俺は驚き、目を丸くした。

 開いた口が塞がらないとはこのことだ。

「な、何だよ、これ!」

「本日のために特別に設えた特設ステージでございます」

 燕さんが厳かに説明してくる。が、俺が訊きたいのはそんなところじゃあない。

「何だってこんな……」

「お嬢様のご希望で」

 困惑する俺に燕さんは淡々と言ってくる。

 と、俺と燕さんがそんなやりとりをしていると、曲が終わった。

 終わった……と思うと、次の曲が始まる。

「……って今度は『もってけセ○ラ○服』かよ!」

 軽快でノリのいい音楽とともに、曲が始まる。

 すると今度は、何やら天井からゴンドラのようなものが降りて来た。

 そこには、九条を始めとして何人かの美女が妙なポージングとともに立っていた。

「……えーと、これは?」

「お嬢様のご希望です」

「……これも?」

「ええ」

 ずいぶんあっさりと頷く燕さん。

 ……えーと、どうしてこうなった?

 俺は何がなんだかわからず、眉間に皺を寄せる。

 そんな俺の隣に、見知った人影が一つ。

「九条さん、私たちのお祝いをしてくれたんだって」

「玲……なんだ、お祝いって?」

「ほら、私と建斗ってその……変なことになったでしょう?」

「ん……まあな」

 俺と玲が妙な勘違いで別れたり、またくっついたり。

 周りには、だいぶ迷惑をかけたと思う。

「だから、何というか、復縁記念? そんな感じだって」

「おまえは知ってたのか?」

「さっき聞いたよ。元々何か変だなとは思ってたんだけど、問いただしちゃった」

「……あっそ」

 てへっ☆ と可愛らしく舌を覗かせる玲。

 いやいや、すげー可愛いんだけど、それだけになんか怖い。

「どうやって聞いたんだ?」

「ん? 聞きたい?」

「……ああ、いえ。別にいいです」

 きっとものすごく恐ろしい手段を用いたのだろう。玲と九条の間柄なら、あり得ない話じゃない。

 ま、それだけ遠慮のない関係になってきたってことなんだろうけど。

「まあ元々、無理な日程ではあったし。最初の違和感はそこだったんだよ」

「なるほど。つまり、最初から世界半周旅行なんて考えてなかったってことか」

「うん」

「じゃあ、別にそう言ってくれればいいのに。わざわざこんなことしなくたって」

「そう……なんだけど、まあいいかなって思うよ」

「……だな」

 九条が俺たちを祝ってくれるというのなら、悪い気はしない。

 だから、文句を言うつもりなんてさらさらないのだが。

「そういや、あれも九条の仕込みだったんですか?」

「あれ……と言いますと?」

「えっと、ほら俺たちの部屋にあった死体」

「死体……? はて何のことでございましょう」

「またまた」

「私には全く身に覚えがございませんが」

「え? どゆこと?」

「さ、さあ……私に訊かれても」

 玲に視線を向ける。が、さすがに玲もそのあたりの事情までは察していないようだ。

「……まさか!」

 バッと、燕さんを振り返る。

 燕さんは平然とした様子で、まぶたを閉じた。

「……ええ、その通りです」

「あの人はほんとに?」

 ぞくり、と背筋に悪寒が走る。

 本当に、死んで……、

「冗談ですよ。彼は生きています。ちゃんと」

「え? ……ああ、あー」

「よかったー」

 ホッと胸を撫で下ろす玲。俺も玲につられて、肩の力が抜けた。

「本当はあなたたちを誘導する役目は美里さんにお願いしていました」

「彼女も仕かけ人だったんですか」

「ええ」

「あなたが死ぬこともシナリオの内だったのですか?」

「その通りです。けど、お二人が部屋にお戻りになられたのは計算外でした。焦りましたよ、本当に」

「……ほんと、手の込んだことをしますね」

「これも、お嬢様のお望みですから」

 燕さんはくすりと笑った。

 大変だなぁ……本当に。

 俺は目の間で謎ダンスを踊っている九条を見つつ、九条家の使用人方の苦労を思って嘆息した。

「全くです……しかし、お嬢様と一緒にいると飽きませんよ、本当に」

「そうですか。……ナチュラルに俺の心を読むの止めてもらっていいですか?」

「ふふ」

 玲がおかしそうに笑った。

 何がそんなにおかしいのか、大体わかっている。だから、あえて訊ねるような真似はしなかった。

 今はただ、この時間を楽しませてもらおう。

 そう、思っている。

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