第12話 桜木玲とバレンタインの悲劇

午前三時一七分。俺は階下から聞こえてくる物音によって目を覚ました。

「……何だ?」

 俺は眠たい目を擦りながら、ゆっくりとリビングへと降りて行く。……と、一際大きな叫び声に思わずびくっと肩を揺らし、足を止めてしまった。

 それはおよそ人間の物とは思えない、断末魔の叫び声だった。

 ……と、ここまでホラーチックに語っておいて何だが、俺はその叫び声の正体を知っている。

 ゲームだ。それも少し前に発売されたばかりの新作ホラーゲーム。

 世界的大ヒットを遂げ、先日実写映画の終編が公開されたあの大人気ゲーム。今、リビングの三六インチ薄型テレビの画面に映っているのは、その敵キャラクターなのだろう。

 俺は階段を降り切り、第七作目(正確には番外編も多数制作されているので七作目ではないのだが、タイトルには七と明記されているので七作目としておく)をテレビの前にソファに座ってプレイしている妹へと文句を垂れる。

「おい、今何時だと思ってんだ? つーか暗過ぎだろうが」

「あ? ああ、何だあにきか」

「無視してんじゃねーよ」

 妹はチラッと俺を一瞥しただけで、元の通り画面へと視線を戻した。

「ちょっと今忙しいから。電気は点けなくていいよ。その方が雰囲気あるし」

「こんな夜中までゲームしてんのか、おまえ」

「別にいいでしょ、あたしの勝手」

「勝手じゃねーよ、俺の眠りを妨げているんだっての。……ったく」

 俺は冷蔵庫を開けると、何か飲み物はないかと物色する。が、これといって大した物はなく、少し迷った挙句牛乳で妥協することにした。

「それ、今度発売された奴だろ?」

「そーだよ。今、タイムアタックに挑戦してるんだ。もし好成績を納められたらランク上位になれる」

「だから何だって話だがな。……そういうことなら、昼間の方が断然いいだろ?」

「だって……おかーさんが」

「ああ……まぁうるせーよな」

 俺は牛乳を口に含むと、少し前のことを思い出していた。

 あれは一週間ほど前のことだったか。土曜の昼間、いつものようにゲームをしていた妹に向かって、我が母が何事かお小言を言っていた様子を目の当たりにしたのだ。

 その時、なぜか俺も一緒にお説教を喰らったのだが。「お兄ちゃんなんだから妹の面倒はちゃんと見ないとだめでしょ!」って、何歳児に向けた説教の仕方だよ。

 それ以来……ってもまだ一週間と経っていないが、妹は母の前でゲームをしなくなった。とはいえ、あと三日もすれば平常通りに戻ると俺は踏んでいる。

 親子間のケンカなんてそんなものだ。

「……もう少し音小さくしろ、母さんにバレるぞ?」

「わかったよ、もう……」

 妹は手近にあったリモコンを手に取ると、音量を小さくしていく。

 ……かなり大きめに設定していたようだ。道理でうるさかった訳だ。

 三十を超えた大音量でドンパチやるタイプのゲームをプレイしていたにもかかわらず起きる気配を見せないうちの両親は果たしてどんな神経をしているのだろう?

 俺は我が父親と母親の豪胆さにほとほと感心させられてしまった。これが実際の打ち合いだったら、二人は一体どんな立ち回りをするのだろう……などと考えるのはムダというものか。ここは日本の一般家庭だし。

 音量を小さくしてドンパチを再開する妹。この可愛げの欠片もない肉親を視界の端から追い出し、二階へと昇っていく。

「……さっさと寝ろよ」

 明日も学校、あるんだからな。

 そう忠告して、俺は欠伸を一つ残して自分の部屋へと引き返していった。

 後には、猫背姿でゲームを続ける妹を残して。

 

                    ◆

 

 そうして翌日。俺の予想通り、妹は学校に遅刻したのだった。

「……ったく、だからって何で俺まで」

「文句言ってないで手を動かして。じゃないと終わらない」

「誰のせいだと思ってんだ、誰の……」

 俺はきろりと妹を睨みつけた。けれど、妹はどこ吹く風とばかりに全く相手にしていない様子だった。

 俺ははぁ……、と溜息を吐いて、作業を再開する。

 さて、ここで俺と妹が一体何をやっているのか、簡単に状況を整理しておこう。

 まず、俺は風呂掃除をしていた。といっても、浴槽のみを洗って終わらせるいつもの手順で、じゃない。天井の染み、隙間のカビやアカなどを綺麗に落とす、結構本格的な奴だ。

 妹は……絶賛皿洗い中だった。

 俺は一旦手を止め、ぐるぐると肩を回す。そして、どうしてこんな事態になったのか、その経緯にもう一度溜息を吐くのだった。

 始まりは、俺と妹が学校から帰ったその直後だった。

 玄関先で母親が仁王立ちで待ち構えていたのだ。無論俺をじゃない。妹をだ。

 俺と妹は玄関のドアを開けた瞬間、怒りオーラを全身にまとった母さんと遭遇し、俺は母さんの手にある物が握られているのにすぐに気づいた。

 それは、約一ヶ月前に妹の学校で実施されたという実力テストの答案用紙だった。そしてそこには、半分ほどが赤いバツ印で構成された問題の回答欄と、二点と書かれた点数がこれでもかというほどでかでかと踊っていた。

 そう、まるで母さんと中学の教師、二人分の怒りを表しているかのような、そんな字だ。

「……これはどういうことかしら?」

「えーと……どういう、とは? あたし、ちょっとよくわからないんだけれど?」

「そう? ならもうちょっと具体的に言ってあげましょう。どうしてこんなアホみたいにひっくい点数が取れるのかしら? 全部一年生の問題よね?」

「そりゃあ、わからなかったから……かな? で、でもちゃんと全部埋めようとはしたんだよ?」

「そう、それは偉いわ。そこは母さん、誇らしいと思うわ。けれど……」

 母さんの肩がわなわなと震え出す。もう、爆発寸前らしかった。

 が、焦った妹はそのことに気づかず、余計な一言を着け足したのでさあ大変。

「そうなんだ……それはよかったよ。それじゃああたし、やんないといけないことがあるから……」

「またゲームでしょうが! いい加減にしなさい!」

 ピシャーン! と妹の脳天に雷が降り注ぐ。

 あーあ、知らねーぞ、俺。

「ちょっと待ちなさい、健斗」

「あ? 何で?」

 二人を軽くスルーして、家に上がろうとした俺を制し、母さんが振り返る。

 今怒られているのは妹のはずで、なぜに俺が呼び止められなくてはならないのか。はなはだ疑問だった。が、今は逆らわない方がよさそうだ。

 嫌な予感をひしひしと感じつつ、俺は首だけで母さんを振り返った。

「何?」

「あんた、何知らん顔してるの?」

「え? いやだって……」

「だってじゃない、妹の不始末は兄の監督不行き届きよ! つまりあんたも同罪!」

 何と! そんなのは初耳だ。今の今まで、んなことは一言だって言われたことがない。妹は妹、俺は俺のはずだろう。

 地獄の閻魔もびっくりな理不尽過ぎるそのお沙汰に、俺は思わず反論していた。

「ちょっと待ってくれ、何で俺のせいにまでされてるんだ! 勉強してなかったこいつが悪いんだろうが!」

「あんた、成績はいい方よね?」

「いい方……というか、まぁ真ん中あたりだけど」

「だったら、中学の問題くらい教えてあげられるでしょう?」

「待て待て、俺は自分の勉強だってある、彼女と過ごす時間だって必要だ」

「彼女……? というと、例の桜木さん……だっけ?」

 まずい、完全に口を滑らせた。

「ふーん……あんた、恋人ができたって聞いてたけど本当だったんだぁ」

「ちょっと待て……誰から聞いたんだ?」

 そりゃあちょくちょくうちには来るけど、一応両親どちらもいない時間帯を狙って招いているはずだ。……半分以上、運がよかっただけだと思うが。

 それでも、この両親に対して俺に彼女ができたなどという情報が漏れないよう、最新の注意を払っていた。なのになぜ、この女は知っているんだ、俺に彼女がいるということを。

 桜木の名前を……!

「ふん、私の目を誤魔化そうってのがそもそも間違いなのよ。とはいえ、私もこの子から聞いたんだけど」

「てめぇの仕業か!」

 やはり諸悪の根源は妹だった。

 俺は妹を目一杯睨みつけ、罵倒してやろうと口を開きかけた。

 けれども、その前にすかさず、母さんが言葉を挟む。

「いい、あんたは妹の面倒を見ること。近々再テストするらしいから、その時に満点を取らせなさい」

「満点って……大体、何で俺が……」

「口応えしない、あんたの恥かしい過去、桜木さんに喋っちゃうわよ?」

「くっ……わかったよ、やりゃあいいんだろ、やりゃあ」

 やはり子は母親には勝てないらしい。

 桜木に俺の恥かしい過去をバラされてはたまらない。

 俺は渋々、妹の勉強を見る約束をしてしまったのだった。

 

              ◆

 

「それで、何であたしたち家事の手伝いなんてしてるの?」

「仕方ねーだろ、それも命令されたんだから……つーかおまえはまだいい方だろ。俺なんて本格的な風呂掃除だぜ?」

「ん……まぁそうなんだけど。でもほら、手が荒れたりしたら嫌だし」

「ほう、おまえでもそう言うの気にするんだな」

 こいつにもいっぱしに美容に気を使う精神があったとは。何だかんだといっても女の子らしい。意外だ。

 と、俺が珍しく妹の発言に不覚にも感心していると、妹はいやいやと首を振る。

「別にそういうんじゃないんだけど、肌が荒れてぱっくり割れたりしたら、コントローラーのスティックとか操作しにくいなーって思って」

「ああ、ですよねー」

 あまりの妹らしい理由に、俺は思わずそう口走っていた。

 うん、そんなことだろうと思ったよ。俺の感心返せこんちくしょう。

「んで、母さんから押し付けられた家事はあと何が残ってたっけ?」

「えーと……確か、料理と洗濯……くらいだったと思うけど」

「あっそう」

 これじゃあ今日は妹の勉強は見てやれないな。

 三度目ともなる溜息を吐いて、せっせと風呂釜を擦り始める。

 その後、約二、三時間かけて家事を終え、仕事から帰宅した父さんを労ってから、俺は風呂に入った。……何だか、酷く疲れたような気がする。

「あぁ~……疲れたぁ」

 反射的に、そんな声が漏れる。世の母親は毎日こんなことやってんのか。……んな訳ねーか。

 毎日やってたらいくら何でも身が持たないだろうから、精々多くて週一くらいなものだろう。それでもこれだけ疲れるのだから、やはり母親が偉大だなぁと思う。

 思う……が、それは世の、世間一般の、赤の他人の家の母親に対して思うのであって。

 決して、妹の成績不振の原因が兄にあると決めつけ、勉強を見ろと命令した挙句、家事まで押し付けて上の階でぐーすか眠っている我が母のことを言っているのではない。

 俺は風呂からあがると、脱衣所で体の水気を拭き取り、パンイチでリビングへと出る。

 と、妹とばったり鉢合わせになった。

「……何でそんなカッコしてんの?」

「あ? いいだろうが、別に。俺の勝手だ」

「ふーん……ま、いいけど」

 妹は俺の脇を通り過ぎると、おもむろに冷蔵気を開け出した。

 そのタイミングで、父さんが帰宅したのだった。

「ただいまー……って、どうしたんだ二人とも、すごく不機嫌そうな顔して?」

「父さん……いや、何でもねーよ」

 俺は父さんから顔を逸らして、自嘲気味に笑んだ。

 妹と母さんの間にあったいざこざは父さんには内緒だ。母さん一人でさえ手に負えないというのに、この上父さんにまでお小言を頂戴しだしたら、きっと俺の精神が持たない。

 俺は妹を冷蔵庫の前から退かすと、中からカフェオレのパックを取り出した。

 コップになみなみと注ぎ、一気に呷る。

「ちょっと、あにきそれあたしの!」

「うるさい。これからしばらくおまえにつきあってやるんだ、この程度でガタガタ言うな」

「ちっ……むかつく」

 ボソッと吐かれた妹の毒気は、おそらく妹自身は聞こえていないつもりなのだろう。

 ……しっかり聞こえてんぞ、こら。

「こらこら、何があったか知らんがケンカは止しなさい」

 テーブルの方から、俺たちを諭す父さんの疲れたような声が聞こえてきたのだった。

 

                ◆

 

「さてと……じゃあ始めるか」

「待って、今日はもう疲れたから寝よう」

「おまえこそ待て、何勝手に固い決意とともに布団に潜ろうとしてるんだ、このアンポンタン」

「誰がアンポンタン? あたし、こう見えてやる時はやる女なんだけど」

「だったらちゃんとしやがれ。ほら、起きろバカ」

「……何だってあたしがこんな目に」

 そりゃあおまえがゲームばっかりしてあんな酷い点数ばっか取るからだろう。それに、こんな目にというのなら俺こそとばっちりもいいところなのだが。

「それで、おまえは一体何が苦手なんだ?」

「苦手……? このあたしに苦手な教科があるとでも言うの?」

「その通りだ。つーかおまえ、あの点数でよくそこまで自信過剰になれるな」

「自身過剰なんかじゃないし。ただ勉強する時間がないだけ」

「あーはいはい」

 妹の戯言を聞き流し、俺は妹の机から教科書を一冊、見繕う。

「んじゃ、まずは暗記科目からだな。えーと」

「早くしてよ。ゲームできないなら、起きてる意味ないんだから」

「この……まぁいい。んじゃいくぞ。織田信長が殺された場所」

「本能寺」

「誰にやられた?」

「明智光秀」

「信長の死後、将軍に即位したのは?」

「明智光秀」

「その後の将軍は?」

「豊臣秀吉」

「幼名」

「羽柴」

「……えーと、次。開国を迫って外来船がやって来た。このことを何と言う?」

「黒船来航」

「……おまえ、暗記科目って得意なの?」

「ゲームしてたら普通に覚えるし。その時代をモチーフにした歴史物なんて結構あるから」

「ふーん……」

 妹は得意がる様子もなく、平然とそう言うのだった。

 とはいえ、妹の言い分もわからなくはない。俺だって最近はよくゲームをやったりするし、その中で歴史に触れる機会も多くなったように思う。

 俺の彼女……桜木はかなりの成績優秀者だ。桜木もまた、こうして勉強をしてきたのだろうか? ……うーん、いまいちピンとこないけど。

 それからしばらく、俺と妹は一つの部屋で淡々と、各教科の簡単なおさらいをしていくのだった。

 そうしていると、いつの間にか日付が変わり、妹がうとうとし始める。

「んだよ、おまえ。眠いのか?」

「そりゃあ眠いよ。今何時だと思ってる訳?」

「いや、だっておまえ、いつもだったらもうちょっと遅くまで起きてるだろ」

「ゲームしてる時と勉強している時は別。今は超ねみー」

 目を擦りながら、妹が訴える。

 ん、まぁ一日目からそんな根を詰めたところでいい結果に繋がるとは思えないしな。

 俺はパタンと教科書を閉じ、さっさと寝ろよと言い添えて、妹の部屋を出たのだった。

「……全く、誰のせいだっつーの」

 小さく吐かれた文句は、聞かなかったことにしよう。

 どちらにせよ、おまえのせいなんだけどな。

 俺は自分の部屋に戻ると、ベッドに思い切りダイブした。

「……あー、疲れたぁ」

 何だか数日分の体力を一気に使ってしまったような気分だ。これがあと何日続くことやら、非常に不愉快だ。

「……俺もねみー」

 今日はもう寝てしまおう。

 俺は頭から目深に布団を被り、目を閉じる。

 そうすると、とろんとした幕に覆われるように、俺の意識は次第に暗闇へと落ちていく。

 ああ……もう、どうにでもなれ……と。投げ槍な気持ちだけを残して。

 

               ◆

 そして翌日。俺はいつものように、遅刻ぎりぎりの、しかし決して遅刻することのない時間帯に目を覚ました。

「くっ……くああ。もう朝か」

 ふと枕元の携帯に目をやる。いつもなら、桜木からのモーニングコールがくるはずなのだが、今日はなぜか一件たりとも着信がなかった。もしやまだ眠っているのだろうかと桜木の寝顔を想像してみたが、桜木に限ってそんなことはありえない。

 俺は苦笑して、ベッドから這い出す。と、部屋を出た直後に、妹とばったり鉢合わせてしまったのだった。

「……最悪」

「それはこっちの台詞だ」

 開口一番に吐かれた妹の暴言に、俺はいつも通りの憎まれ口で返す。

 と、ある事実にふと気がついた。

「ん? 何か今日は起きてくんのはえーな」

「そう? いつも通りだと思うんだけど」

「いつも通り、ねぇ……」

 まぁいい。いつまでも妹の相手をしている暇はない。

 俺は踵を返し、妹に背中を向ける。

「どこ行くの?」

「洗面所。顔洗うから」

「へー、そんなことしてたんだ」

 そりゃするだろうよ。ラノベやアニメの主人公じゃねーんだ。こちとら何の変哲もない、正真正銘一般的な高校生なんだからよ。巨大な悪と闘ったり、世界を救ったり、はたまた超常的な能力なんて微塵も振るえねーんだ。第一、あいつら普通の高校生じゃねーよ、絶対。元から変な環境下で育って、ついでに妙な能力まで備えてるんだから。平凡な学生舐めんなっての。

 そんな訳で、平凡で一般的な高校生たる俺は主人公的な思考回路など微塵も持ち合わせておらず、それは即ち最低限の身だしなみにくらい気を使うということで。

 今目の前にいる、こんな変てこでちんちくりんな妹とは全く全然、別の人種であるということをご理解頂こう。

「つー訳でおまえは俺のあとな」

「どういう訳かいまいちわからないけど、世の中にはレディファーストって言葉があるのを知らないの? 一応でも彼女持ち何だから、そのくらい弁えてないと」

「おまえがレディ? ハッ、冗談だろ」

 寝言は寝ている最中に言うのが常識だぜ。それじゃあ寝言じゃなくて空言だ。空虚というよりはただただ空洞だ。

 俺はやれやれという思いで心中一杯だった。

 なぜかと問われれば、妹がまた妙なことを言い出したからだ。またマイナーなゲームに毒されたんじゃないだろうな?

 そんな俺の(珍しく)心配をよそに、妹は俺の脇を通ってとっとっと、と小走りにどこぞへと向かう。

「どこ行くんだ?」

「洗面所。一応顔くらいは洗っておこうと思って」

「おま、俺が先だぞ!」

「ふんだ、ボーッとしてるあにきが悪い」

 何、俺が悪いのか。なら、仕方がない……訳がない!

「待て待て、俺遅刻しちまう、おまえは遅刻しても問題ないかもしれんが、俺はまずいんだ!」

「はぁ? 何言ってんの、あたしだってまずいよ。次遅刻したら一週間トイレ掃除何だから」

「それはおまえの自業自得だ。って違うそうじゃなくて、俺が遅刻すると桜木の評価にまで影響してしまう!」

 桜木は学校ではまじめな優等生で通っている。それがただでさえ、俺と交際を始めたと周囲に知れた時には、俺から色々と悪影響を受けたのだと陰口だったら日口だったりを叩かれたものだ。教師陣に至っては俺をまるで目の敵にまでし始まる始末だ。

 俺は妹肩を引っ掴み、ぐっと押し止める。

「ちょっ……何すんの、離して」

「おまえこそ諦めろよ。おまえみてーなへなちょここんにゃく女が抵抗できる訳ねーだろうが」

「誰がへなちょここんにゃく女だ。これでも学校では結構モテるんだぞ、あたしは」

「へん、誰がんなこと信じるかよ、嘘も大概にしろよ、おまえ」

「嘘じゃないし! あにきこそ、桜木さんをダシに使ってるだけじゃないの!」

「ふざけんな! 俺が桜木をダシにするとかありえねーから!」

 ちょっとこいつ、最近口応えし過ぎじゃね? 俺の方が兄貴なんだし、もうちょいうやまえよ、このバカが。

「ふん、どうだか」

「こいつ……」

 肩を竦め、やれやれといった様子で首を振る妹を、俺は今力一杯殴りつけてやりたいと思った。……端的に言って、くそむかつく。

「大体おまえはなぁ!」

「あにきこそ!」

「あんたたち、いい加減にしなさい! 遅刻するわよ!」

 飽きもせずケンカを始めようとした俺たちの頭上に、母さんのかみなりが思い切りよく落ちてきた。

 俺と妹は一時的な休戦をして、簡単に身支度を整えてそれぞれの学校へ向かうのだった。

 

                ◆

 

 そうして、一日の授業が終了し、現在は放課後。

 俺は桜木と一緒に帰ろうと、彼女を探した。

「……あれ?」

 けど、教室にもどこにも桜木の姿はない。

「どこに行ったんだ?」

「ああ、桜木さんならもう帰ったよ」

「え? あー……そうなのか」

 ちょっとがっかり。

 あまり表には出していないつもりだったのだが、明らかに態度に出ていたのだろう。桜木は先に帰ったと教えてくれた同級生女子がくすくすと笑う。

「本当に二人は仲よしなんだね」

「は、ははは……」

 俺は何だか気恥かしくなって、その子から顔を逸らした。

 何だ、桜木はいないのか。なら俺もさっさと帰ろう。

 そう思い、昇降口へと向かう。その道すがら、携帯が震え出した。

「桜木から……?」

 メールボックスを開き、内容を確認する。

「……『急用ができたため、一緒に帰れません。ごめんね、健斗』って」

 何だよそれ……彼氏と一緒に帰るより重要な用事って。

 何となく面白くなくて、子供じみているとわかってはいても腹が立つ。

 けど、他にどうしようもない。

俺は携帯を仕舞い、下駄箱から自分の靴を取り出した。

「……帰るか」

 帰って、それから着替えて一息吐いて、妹の勉強を見てやって。

 そして、風呂に入って眠る。またそれの繰り返しか。

「ああもう、嫌だなぁ」

 せめて一目、桜木の顔が見れたらなぁ。

 そう、心の中で文句を垂れつつ、俺は我が家へと帰還するのだった。

 

              ◆

 

 そして、我が家の二階、妹の部屋にて。

「違うって言ってんだろうが! 何度言ったらわかるんだ!」

「わかる訳ないじゃん! あにきの説明が下手くそ過ぎるんだよ!」

 俺は妹といがみ合っていた。がるるる、とお互いに歯を剥き出しにして、それこそ犬と猫のように激しいケンカを繰り拡げていた。

「そこはこっちの式を代入するんだ、そしたらここに繋がるまでの回答が出るから」

「その言い方じゃわかんないって言ってるじゃん! ほんと、教えるの下手だよね!」

「おまえこそ理解力なさ過ぎだろ! ちったぁわかる努力をしろ!」

「してるよ、だからこうして嫌々あにきに勉強見てもらってるんでしょうが!」

 取っ組み合いが始まりそうな雰囲気だった。だが、五年前ならいざ知らず、今の俺にそこまでする気力はない。

 妹の相手なぞ、本当はしたくないのだ。早くこの妙な事態から解放されて、自由の身になりたいものだ。

 俺の心労を察してか、妹が剥き出しにいていた歯を引っ込める。

 それから、ふぅと小さく息を吐いた。

「全く、こんなことしている場合じゃないっての。再テストは二日後だよ」

「俺だって、いつまでもおまえの面倒を見ている暇はないんだ」

「つっても、今日は桜木さんと一緒に帰ってないんでしょ?」

「……何でわかった?」

「わかるよ。だってあにき、いつもなら桜木さんを家まで送ってから帰ってくるじゃん。紳士振ってさ。なのに今日は早かったから。何、ケンカでもしたの?」

「まさか。おまえじゃあるまいし、桜木と俺がケンカなんかするかよ」

 俺は妹の憎まれ口を受け流し、ヒラヒラと手を振った。

 全く、こいつはどうしてこう、脱線するようなことばかり言うんだ。

「ふーん……まぁいいや。じゃ、再開しよう」

「誰のせいで中断していたと思うんだ」

「そりゃあにきのせいでしょ?」

 あっけからんとそう言い放つ妹に、怒りを通り越して呆れすら覚える。もう、溜息を吐く気力すらない。

「暗記科目は問題ないのにな。数学や理科となると途端にだめだな、おまえ」

「理科は割と得意な方だと思うんだけど。プレパラートとか覚えてたし」

「けど、化学式やそれを使った計算なんかは苦手だったろう」

「あにきだって似たようなものでしょ」

「いいんだよ、俺は。今問題とされているのはおまえだ」

 やれやれといった様子で肩をすくめ、左右に首を振る妹。

 そんな妹に対して、俺はビシッと指を差し、はっきりと言ってやる。

「おまえ、かなりバカだぞ、実際」

「はぁ! バカじゃないし、バカって言う方が……ハッ!」

 典型的な返し文句を口走ろうとして、妹は言葉を止め、大きく目を見開いた。

 どうしたのだろう、と不思議に思っていると、妹は焦ったと言わんばかりに掻いてもいない汗を拭う仕草をして、ふぅーっと大きく息を吐いた。

「危ない危ない。危うく乗せられるところだった」

「はぁ? どうしたんだ、おまえ」

 普段やらない勉強のし過ぎで、本当に頭の中にバラの花園が咲き乱れたんじゃないだろうな。もしそうだとしたら、兄弟の縁を切りたくなる事態だ。

「もう少しで頭の悪い妹と優秀な兄のテンプレ展開をやっちゃうところだった。あにきのせいで」

「もう俺、おまえのこと見捨てていいか?」

 トイレ掃除でも何でもやりゃあいい。こうして俺が何のメリットもない妹の家庭教師なんて引き受けてやってんのに、このアホ妹ときたら……。

 俺が踵を返し、妹の部屋から出て行こうとすると、妹は泣きじゃくる真似をして、俺の腰あたりにすがり着いてくる。

「待ってごめんあたしが悪かったから許してお願い!」

「ええい、鬱陶しいな、このバカは」

 これが桜木か、さもなくば他の同級生女子だったらまだしもよかったのだろう。

 しかし、今この場で俺にしがみ付いてきているのは紛れもなく妹だ。興奮なんてするはずもなく、どころか不快感すら覚えてしまう。

 普段から運動不足気味の妹のことだ。振り解くことなんて訳ないことだが、そうした場合、今後桜木と接触を禁止すると母さんから通達があった。……常識的に考えれば実現なんてほぼ不可能なのだが、相手があの母さんだからな。きっとあらゆる手を使って実行する。

 その可能性があるから、俺は今こうして妹の面倒を見てやってる訳で。

「はぁ……仕方ねーな」

 俺はボリボリと頭を掻き、溜息を吐いた。

 もう、俺に幸せなんて残ってねーんじゃねぇかってくらいに、何度目かになるかわからない溜息だ。

 

               ◆

 

「……あー、もう朝か」

 カーテンの向こう側から、朝日が差しこみ、俺は目を覚ました。

「ここは……あいつの部屋か」

 俺はきょろきょろと周囲を見回した。年頃の女の子らしい……というイメージとはかなりかけ離れた配線だらけの部屋で、それも横になって眠っていた訳ではないため体中が痛い。

 ゴリゴリと音を立てる背骨やら首筋やらをほぐしながら、うーんと大きく伸びをする。そうすると初めて全身に血流が流れる気がして、何だか目の冴えていく思いだった。

「昨日は結局、あのまま寝ちまったのか」

 ふとベッドの方を見る。と、妹がぐーすかと寝息を立てて、色気もへったくれもなく、腹を出して眠っていた。

 俺はそんな妹のあられもない姿に欲情したり、また慌てふためいたりするより先に、情けないやらみじめやらといった感情を抱くのみだ。

 何だかもう、こいつが逆にかわいそうに思えてくる始末だ。

「……とりあえず、顔を洗うか」

 幸い、本日は土曜日。学校は休みだ。だからこそ、昨晩は遅くまで二人で勉強をしていたのだが、それにしたって午前四時の段階で力尽きてしまったのだからお笑い草だ。

 俺は足をもつれさせながら妹の部屋を出て、階下へと向かう。

 洗面所へ行き、顔を洗う。それから、朝飯でも喰おうとキッチンへ足を延ばすと、テーブルの上に一枚の紙片を発見する。

 そこには、母さんの字でこう書かれていた。

 ――週明けの再テストで合格点を取れなかったら、どうなるかわかってるでしょうね?

 という内容だった。

「……えーと?」

 たぶんこれは、妹に向けて……だけじゃない。俺にも向けられたメッセージだ。

 再テストで合格点を取れなければ、妹のみならず俺にまで世にも恐ろしい罰が下されるぞ、という。

 ブルッと、背筋に寒気が走る。

 戦慄という言葉では足りない恐怖が、俺の中を駆け巡った。

 何が恐いってそりゃあもう、この理不尽さ。我が母親ながら、どうしてこうも息子を追い詰められるのか。あいつの成績が悪いのはあいつ自身のせいだろうに。

 しかし、これはあれだ。全力でことに当たらなくてはならないだろう。そうして妹に再テストをパスしてもらわなくては。でないと、でないと。

「俺と桜木のラブラブハイスクールライフが危うい」

「何を一人でぶつぶつ言ってんの? 気持ち悪い」

「うお! ってなんだおまえか。起きてたのか」

 背後から唐突とも思えるタイミングで投げかけられた妹の暴言に、俺は思わず飛び跳ねそうになった。

 つーか今の恥かしい台詞が聞かれていたのか。恥かしい、恥かしいよぉ。

「いや、今はそれどころじゃない。これを見ろ!」

「……えーと、何々」

 バンッと妹の眼前に母さんからのラブレターを晒してやる。妹の視線が、その文面をゆっくりと読みこんでいく。

 おおよそ一分ほど、静寂が舞い降りた。

 ごくり、と喉が鳴る。俺と妹、どっちから聞こえてきたのかはわからない。

 妹は不意に、俺から母さん直筆のラブレターを引っ手繰ると、ビリビリに破いてしまった。

 ヒラヒラと、破かれた紙片が宙を舞う。

「な、なんじゃこりゃあああああああ!」

 妹の絶叫が轟く。ちょ、おまえこんな大声出せたのか。

 俺はとっさに耳を塞ぎ、ダメージを軽減した。

「うっせーんだよ、ちったぁ近所迷惑も考えろ!」

「あにきに言われたくないし……いや、今はそんなことどうだってよくて」

 ぷるぷると、妹の全身が小刻みに震え出した。

「こ、これって、つまり赤点回避できなかったら本格的にゲーム禁止ってこと……?」

「あ、ああ、おそらくな」

 そして俺と桜木の学園生活も終了するということだ。

 いや、いくらあの母親にしたって、そこまでのことはしないだろう。

 精々、多少のペナルティを課される程度だと思う……思いたい。

「で、でもいくら何でもずっとってことはないよね?」

「わからんぞ、少なくともおまえが高校を卒業するまでずっと、ということはあり得るかもしれない」

 そして俺と桜木の学校生活も……考えただけで戦慄ものだった。

「くぅ……それじゃあ、あたしはこれから何を楽しみに生きていけば」

「待て、諦めが早くないか? 次の再テストでおまえが合格点を叩き出せさえすればいいんだから、そう希望がない訳じゃない」

「だめだよ希望なんてないよ絶望だよ! 少年よ、これが絶望だって言ってるア○リアさんの顔が目に浮かぶようだよ!」

「だからそう自暴自棄になるな。まだおおよそ二日はある。大丈夫だ」

 頭を抱えて悶え始める妹を宥めるべく、必死に言葉を重ねる俺。

 しかし、実際に希望はあるのだろうか? なにせ、ことは二日後に行われる。

 そしてここ三日、俺は妹の学力を嫌というほど知った。暗記科目に絞ればそう難しくはない。だが、その他の数学等は壊滅的だった。

「いや、壊滅的だからこそ、そこに重点を置かないと」

 幸い、かどうかは置いておいて、妹の知識には大きく偏りがあるものの、暗記科目に問題はないように思えた。だから、そっちの勉強は捨てて、数学、理科(特に科学式などなど)に重点を置いた勉強法にシフトすれば、今からでも十分に間に合う……はずだ。

 俺も数学や科学なんかは得意は方ではない。けど、妹よりはできると思う。

「だからおまえは俺の言いなりになってりゃいいんだ」

「おおう、何を唐突に言い出したのかと思えばこのあにき……妹にいきなり肉奴隷になれとか鬼畜過ぎませんかね?」

「誰もそんなこと言ってねーだろうが! さっさと部屋戻って勉強するぞ!」

「待って待って! せめて水だけでも飲ませてよー!」

 ジタバタと暴れる妹を引きずって、二階へと戻る俺。

 大丈夫だ。俺だってまだ水すら飲んでねーから。

 

               ◆

 

 机に向かう妹。これほどこいつに似合わない姿もないだろう。

 俺は必死になって笑いを堪え、現代中学の教科書に目を落としていた。

「えー、では次は教科書三十二ページの……」

 勉強の形式は至ってシンプル。俺が問題を出し、妹が回答する。それをただひたすら繰り返す、反復練習と同じ要領だ。

 どんな困難なことも、繰り返し行えばかならずできるようになる。どんなバカでも、続けていればいつかは成し遂げられる。

 それが人間の素晴らしいところだ……と、何かのゲームでも言っていた。いや、アニメだったかな? まぁどっちでもいいけど。

 ともかく、今は妹だ。妹のため、妹ファーストで頑張れ、俺。

「では次の問題」

記憶を探り探りしながら、何とか問題を出していく。

 むむう……中学の問題って、これほど難しかっただろうか。

 俺は頭を捻りながら、どうにか妹に説明をしていく。

 問題の時方、ことの起こり、時代背景。

 妹はそのいずれにも、真剣な様子で頷いていた。

「ふむ……何となくわかったよ」

 さて、その台詞の何パーセントが真実なのか、俺にはわからない。

 けど、今は信じて根気よく付き合うしかない。妹のため、何より俺自身のために。 

 そうして、今日も俺と妹の夜は更けていくのだった。

 

              ◆

 

「それで、勉強の方はどうなのよ?」

 夜半過ぎ。妹も寝静まり、俺はようやく自分の時間を手に入れたのだった。

 ここ数日、桜木とはまともに会話を交わしていない。そろそろ寂しさも限界に近づいていた。連絡を入れようか、はたまた迷惑だろうかと悩んでいると、夫婦の寝室から出てきた母さんから突然、そんな質問を投げつけられた。

 俺は携帯を片手に身動きが取れなくなってしまう。

「えーと、どうしてそんなことを?」

「どうしてって、そりゃあ気になるのが当然ってもんでしょう。次の再テスト、あの子ちゃんと合格点取れるかしら?」

「……知らん、そればっかりはその時になってみないとな。本人も俺も、できる限りのことはしているけど」

「あの子、ずっとゲームばかりしてきたじゃない? だからもう不安で不安で」

「なら取り上げればいい。つーか俺を巻き込まないでくれ」

「だめよ。あの子がああなったのは、あんたにも原因があるのよ」

「はぁ? 俺に原因だぁ?」

 突然何を言い出すかと思えば、この母親。

 なぜに妹のゲーオタ化が俺のせいなんだ。あいつは自分の趣味として、好きでゲームをしているんだぞ?

「その様子だと、覚えていないみたいね」

「何をだよ……?」

「そうね、あれはあんたがまだ小学生のころだったかしら」

 母さんは頬に手を添え、小さくため息を吐いた。

「あんた、昔ちょっとおかしかった時期があったのよ」

「おかしかった時期?」

 何だそりゃ? どういう意味だ?

「何て言ったかなー? そうそう、中二病……いや、小学生のころの話だから小児病か」

「どっちでもいいけど、それがどうかしたか?」

「そのころからなのよね。あの子もおかしくなりだしたの」

 母さんは昔を懐かしむような口調で、ゆっくりと目を閉じた。

「何て言うのかな……昔のあんたたちはそれはもう仲よしの兄弟だったんだよ。あの子があんたの後を追っかけて、あんたはあの子がちゃんと追っかけてきているか時々振り返って」

「……昔のことは、忘れちまったな」

 言いながら、俺はまた冷蔵庫の中を物色する。

 とはいえ、本当は覚えていた。ぼんやりと……だが。

 昔の俺は、今の桜木や妹ほどではなくとも、一般的な男子小学生程度のゲーム的な腕を持っていた。上手くもなく、下手でもなく。PVPゲームをやれば、勝ったり負けたりしたものだ。

 だから、友達とは何となく、上手くやれているつもりでいた。

 小学校五年生くらいの時だろうか。ある日、俺は唐突に髪を逆立て、ナイロンのマントを見に着けて友達と遊んでいたことがあった。当時流行ったゲームのキャラクターを真似たコスチュームで、俺は主人公のライバルのポジションのキャラを演じていたと思う。

 主人公こそやれなかったけど、敵役よりは何倍もマシに思えたから、俺はその役どころを甘んじて受け入れた。

 その格好を見てからだったか。妹が俺にべったりになったのは。

 いつも後ろから着いて回ってきては「おにーちゃんかっこいい」と目をキラキラさせていたものだ。

 今にして思えば、あの頃が一番かわいかったなぁ……それが、現在はアレだ。

 見る影すらないとはまさにこのことだと、身を持って痛感している最中だったりする。

「それがどうしたんだよ?」

 そんな昔話が、今のあいつと何の関係があるのか。母さんの言っていることは容量を得ない。

 俺は冷蔵庫から顔を上げないまま、更に問う。

「あの頃のあんたたちはかわいかったのにねー、と思って」

「……うっせ」

 母さんが肩を竦める。見なくてもわかる。

「それがどうしてこんなふうになっちゃったんだろうねぇ」

 嘆くような、哀れむような声音だった。うっせーくそババア。

「……何だよ、嫌味言うためにわざわざ降りてきたのか?」

「そんな訳ないじゃない。トイレよトイレ」

「だったらさっさと行けっての」

「あんたこそ、さっさと冷蔵庫のドア閉めなさい、深夜料金とはいえ、電気代が勿体ないわ」

「へいへい」

 ろくなものがない。

 俺はパタンと冷蔵庫のドアを閉め、立ち上がった。

「はー、いつからこんななっちゃったんだろうねー、本当」

 母さんが廊下へと姿を消す。

 俺は母さんの去って行った方を見ながら、小さく嘆息した。

 いつから……その問いに答えるのは簡単だ。

 妹がゲームやアニメにハマり出したのは、確かその頃だった。

 俺がゲームに夢中で、友達と正義の味方がごっこをやっていた時だ。

「……別にかっこよくなんかねーだろ」

 あの頃は楽しかった。友達とバカやって、いらんことしでかして。

 いつも妹の笑顔が、当然のように側にあった。

 それが、半年ほど続いた。俺と妹は比較的他の兄妹と比べて仲がいい方だったらしい。

 四六時中……というほどじゃあないが、割かしベタベタしていたと思う。だから、まぁ小学生ならしょうがないと今は思えるが、当時はよくからかわれたものだ。

 そうして、それを恥かしいと思い、妹を嫌煙した。

 妹は当時から人づき合いが苦手な方で、俺以外に遊び相手なんていなかったから。

 だから、だろうな。ゲームにどっぷりハマり込んでいったのは。

「……つーことはあれか。俺のせいか」

 はぁぁ、と今更ながらの事実に気づく。

 俺のせいで、妹は引きこもりになっちまったってのか。

 これは、酷い。

「責任を取る……なんて言うつもりはないが」

 今度の再テスト、必ず合格点を取れるようにしてやらなくてはならないだろう。

 妹の大好きなゲームを続けさせてやるために。

 俺は飲み物を諦め、自分の部屋へと向かう。

 その途中、ふと妹の顔を見たくなって、立ち寄った。

 乱雑に散らばったコードの類いを避けながら、ベッドへと近づく。

 すぅー、と小さく寝息を立てる妹の寝顔を見る。

「……寝てりゃ普通にかわいい、と思うんだけど」

 起きてる時は周回ボス並にイライラする奴なんだけどな。

 しかし、まぁあれだ。それもまた妹だってことだろう。

 兄と妹。この二つの関係性はどこまでいってもまとわりつく。

 なら、認めて、受け入れてやるしかねーだろ。

 それが、兄貴ってもんだ。

 

              ◆

 

 かくして翌日。俺と妹の異様な格闘戦は今日も続く。

「違うって何度言えばいいんだ、その年は大化の改新じゃねー、本能寺の変だ!」

「わ、わかってるって、そんな大声出さないでよ」

「おまえが再三言って理解しないからだろ! ……ったく」

 朝の六時から起き出して、今は八時半を少し過ぎた時間帯。

 本日は日曜日。再テスト明日だから、あまり時間はない。この調子では、妹は高校を卒業するまで、ずっとゲーム禁止になっちまう。

 それは、こいつとしても望むところではないだろうから、どうにかして無事にパスさせてやりたいところなんだが……如何せん本人にやる気がなさ過ぎる。

 このままスパルタを続けていても、意味はないだろうから、そろそろ別の手を考えなくてはならないんだけど。……何かあるか?

「はぁ……どうにかして、おまえのやる気を出させる方法があればいいんだが」

「あると思う? そんなの」

「あると思うなら最初からこんなこと口走ったりしねーよ」

 ないとわかってしまうから、こうして溜息も出るってもんだ。

「第一、俺が誰のためにおまえの勉強を見てやってるかわかってるか?」

「あにきのためでしょ? 桜木さんとの交際に暗雲が立ち込めるから」

「あー……まぁそうだな」

 それも一理ある。俺と桜木の中をあのくそババアによって引き裂かれないためにも、妹の再テスト突破は必須だ。

 しかし、俺の目的はそれ以外にもある。それは妹からゲームという唯一の娯楽を取り上げあられないことなのだが……妹はその辺を理解していないらしい。ま、別に感謝とか求めてる訳じゃないからいいんだけど。

 俺は肩を竦め、手にしていた教科書を脇に置いた。

「ちょっと休憩しようぜ。疲れちまった」

「あたしもー」

 妹が机に突っ伏する。可愛げもへったくれもない部屋着だったが、だからといってどうということもない。

 俺は教科書を放り、妹の部屋を出た。

「飲み物よろしくー」

 という妹の台詞は無視だ、無視。

 リビングに着くと、さすがに日曜ということもあってか父母ともにテレビを眺めていた。

「最近は物騒な事件がおおいな」

「そうね」

 二人の会話につられて、テレビを見る。すると、画面の向こう側でニュース原稿を呼んでいた女性キャスターの口から、鎮痛な声音が漏れ聞こえてきた。

『また、行方不明の男性は今だ見つかっておらず、捜査関係者は引き続き、全力の捜査を……』

 どうやら誘拐事件のニュースのようだった。ので、顔を逸らした。

 今はそんなことより、妹のことだ。不謹慎だろうが、誘拐された男性に心を痛めている余裕はない。

 彼と同様、俺の人生もまた、妹の今度のテストにかかっているのだから。

「……それもまた変な話だけどな」

 一人ごちて、ため息を吐く。

 と、母さんが俺の方を振り返る。

「あら、あんた起きてたの」

「ああ、起きたんだよ。あんたらはいいよな、日曜だってのにのんびりできて」

「しょうがないじゃない。日曜くらいしかのんびりできないのよ、大人は」

 ヒラヒラと手を振る母さん。父さんは苦笑しきりで、一言も発しようとはしない。

「それで、あの子の勉強の方はどうなのよ?」

「……一応やれることはやってるつもりだ。けど、あいつのやる気がちっとも上がらない。どうしたもんかと頭を捻っているところだよ」

 軽く肩を竦める俺に、母さんがふーむと唸りを漏らす。

「どうしたらいいか、ねぇ……あの子、ゲームしている時はすごく集中しているのよね」

「ゲーム、ねぇ」

 そりゃあゲーム大好きっ子だからな、あいつは。ゲームがなきゃ生きていくなんて到底不可能だろう。それくらい、ゲームの虜……いや奴隷と言っても過言ではないのかもしれない。

「勉強をゲームだと認識できるようになりゃ、それが一番なんだろうけど」

「そんな方法があるならさっさと実践しなさい」

「そんな方法がねーから困ってるんだよ、このバカ母」

「あんた、親に向かってなんて口の利き方を……!」

 母さんがいきり立つ。けど、俺は気にせずコップに一杯、水を注いだ。

 一気に煽る。すると、頭の中が冴えてくるようだった。

「…………」

 けど、だからといってポンと名案が浮かぶような構造には残念ながらなっていない。

 俺は流し台にコップを置き、小さく嘆息してから二階へと戻る。

 背後で母さんがぎゃあぎゃあと何か言っていたが、いちいち気にとめるような時間はなかった。だから、無視する。

 妹の部屋に戻ると、さっきまで机に突っ伏していた妹がベッドへと移動していた。

 なら起きろよ、このバカ妹が。

 俺は妹が眠っているであろうベッドに近づくと、バッと勢いよく、布団をひっぺがした。

「てめぇこの野郎……ってあれ?」

 のだが……俺の目の前には妹の姿はなく、そこには枕や毛布などを丸めて作られた、いわば変わり身の人形もどきが一体、寂しげに横になってるだけだった。

「あいつ……!」

 逃げ出したな、あのバカ。

 俺はすぐさま踵を返すと、どたどたと足音を立てて階下へと降りる。

 母さんが怒鳴っていたが、本格的に構っている時間がなくなったのでガン無視する。

 どこだ、どこへ逃げた! この一大事に、あいつは一体どこへ……!

 庭、ベランダ、トイレ、ダイニング、バスルームetc ……。

 どこをどう探しても、家の中に妹の姿はなかった。

「ああくそ、あのくそったれが」

 俺は悪態を吐いて、地団駄を踏む。

 家の中にはいない。とすると、次に候補に上がるのは屋外だ。

 しかし、引き籠もり予備軍の妹の行くアテなんてそうはない。精々一か所、多くて三か所程度だろう。 

 この時点で、並の兄貴ならきっと妹の行き先に見当をつけてさっさと追いかけるのだろうが、あいにくと俺はこの数年、あいつの兄貴をまともにやってこなかった。

 妹がどこへ行ったか、なんて全くわからないのだ。なさけないといったらない。

「ああくそ」

 二度目の悪態を吐いて、外に出る。

 もちろん、どこを探せばいいかなんて見当は全然ついちゃいない。けど、何もしないで家にいるよりはずだ。

妹の行きそうな場所についての第一候補としてゲームショップがあがる。妹が学校に行く以外で出かけるとなると、ゲームショップ以外にないだろう。図書館なんぞに行っても、ムダに時間を持て余すだけだろうからな。

 俺はとりあえず近場のゲームショップを当たってみることにした。以前にもゲームを買いに早朝から並んでいたことがある。その際にも妹を探して行ったゲームショップに、今回もいるかもしれない。

「……ったく、ムダな労力は使うくせによ」

 俺は一人毒づきながら、走り出す。

 時間は、一分一秒だって無為にはできない。なぜなら有限だからだ。

 それは、俺と桜木の高校生活をも有限だということだ。なら、精一杯楽しみたいと願うのは当然のことだろう。

 そして今、妹のせいでその高校生活が脅かされようとしている。だったら俺は、全力でその要因を叩き潰すよう努力するまでだ。

 桜木と、一つでも多くの思い出を残すために。

 

                ◆

 

 などと啖呵を切ったはいいものの、例のゲームショップに妹の姿はなかった。一応店長にも確認を取ってみたが、常連らしい妹の姿はここ数日、見ていないということだった。

「駅前に一週間前くらいに新しいゲームショップができたから、そっちじゃないかな?」

 と親切にも教えてくれたので、俺は店長にお礼を言い、ひとまずその新しいゲームショップに向かってみることにした。

「……遠いって」

 とはいえ、駅前ともなると歩いて数分という距離ではない。どれほど短く見積もっても二十分はかかる。走って行くとなると十分かそこらだろうが、その後妹を引きずって帰る手間を考えると何だかあまり走る気にはなれない。

 仕方なく、俺は徒歩での移動を選択した。まだ朝も十時を少し過ぎたあたりだ。妹を見つけてから帰っても、まだまだ半日はある。

 大丈夫だ。そう自分に言い聞かせ、俺は駅前に向かうのだった。

 

               ◆

 

「……くそ、ここにもいねぇ」

 新しくできたという駅前のゲームショップは開店記念イベントでもやっているのか、かなり賑わっていた。時折りスピーカーから店員の注意が飛んでくるほどだ。

 その中を押し合いへしあい、俺は妹を探して泳ぎまくっていた。

 そうしてたっぷり十分ほど、人混みに揉まれ続けた俺はようやく、酸素濃度の薄い店内から通りへと出たのだった。

「ああ…ムダな手間だったな」

 手近なベンチに腰かけ、ブツクサと文句を垂れる。

 どこへ行ったんだ、本当に。

 まだ昼前とはいえ、このままでは時間の浪費だ。再テストは明日にまで迫っている。

 そのことは、あいつ自身がよくわかっているはずなんだけど。

「あれー? お兄さんじゃないですか、どうしたんですか?」

「あゆな……?」

 呼び声に応じて顔を上げると、俺の目の前には妹の友人(?)の吉祥寺あゆながいた。

 今日は制服ではなく私服で、髪も下ろしているからかどこか大人びて見える。

「一人ですか?」

「ああ、まぁな」

「お兄さんも何か買いにいらしたんですか?」

 あゆながちらりとゲームショップの方を見る。まぁこんなところに座っていたら、そう誤解されても仕方ない気もするけど。

「いいや、俺は買い物に来たんじゃないんだ。あゆなこそ、何でここに?」

「これから友達と隣街まで買い物に行くんです。冬物のバーゲンがあるという情報を掴んだので」

 へへへ、と可愛らしく舌を覗かせるあゆな。

 へー、冬物のバーゲンねぇ……女子中学生でも、そういうのに興味あったりするんだなぁ。

 やはりそのあたりは女の子らしい。あゆなも服やら何やらが好みらしい。うちの妹にも見習わせてやりたいぜ。

 と、頭の中に妹の顔が浮かぶ。そうすると何だかいらいらしてくるから不思議だ。

「それで……その、お兄さん」

「ん? 何だ?」

「あの、もしよかったら一緒に、どうですか?」

 どうですか? どうですかとはどういう意味だろうか。

 もしかして……まさか、買い物に一緒に行きませんかという意味か!

「あー、いや……今日は止めておこう。また日を改めて誘ってくれ」

「そうですか……わかりました」

「でも、ありがとうな」

「いえどういたしまし……え?」

 あゆなの頭の上に手を置き、軽くすく。

 何だか、昔は妹にもこんなことをしていた気がするな。

「あ、あのあの……お兄さん!」

「おっと悪い」

 あゆなに怒鳴られて、俺は思わず手を離した。

 うーん、犬猫じゃないんだから、嫌だったかな。妹でもあるまいし。

「すまん、決して何かよこしまな気持ちがあった訳じゃ……」

 などと口走ってしまう。これでは、言い訳をしているように思われても仕方がないだろう。

 俺はあゆなからのあらん限りの罵倒の言葉を覚悟しつつ、彼女の返事を待つ。

 すると、あゆなはつい今し方俺が手を置いていた場所。つまりは自分の頭に手を添え、二、三度撫でつける。何だか、心なし顔も赤いような気がした。

 そ、そんなに嫌、だったんだろうか。年頃の女の子なのだから、そうなのかもしれない。

「だ、大丈夫か?」

「え? えっと、大丈夫です。……ただ、ちょっとびっくりしちゃって」

「だ、だよなー、妹じゃあるまいし」

「……石宮さんの頭も、さっきみたいに撫でたりしてるんですか?」

「昔な。最近じゃまともに口も利かねぇよ」

「そうですか……」

 それでも、ここ数ヶ月は俺たち兄妹の間に会話もあったように思う。

 ここ三日くらいが、一番口数が多かったような気もするけど。

「さてと、友達と待ち合わせてるって言ってたな」

「はい。本当はお兄さんも一緒に来てくれると嬉しかったんですけど」

「悪いな。ちょっとやらないといけないことがあって」

「いえ、大丈夫です。その……頑張ってください!」

「……はは」

 頑張ってください、か。

 そそくさと駅の構内へと走って行くあゆなの背を見送りながら、俺は頭の中でその言葉を反芻していた。

 言われずとも頑張るさ。俺の高校生活がかかってるんだから。

 俺は踵を返し、駅から遠ざかる。

 さて、次はどこを探そうか。

 妹の行きそうな場所なんてとんと見当がつかないけど、今闇雲だろうと何だろうと探すしかない。

 あゆなの言う通り、頑張って……な。

 

              ◆

 

 ゲームショップを二件、ついでに書店を二件回って、しかしそのどこにも妹の姿は見当たらなかった。

 もはやあいつの行きそうな場所に心あたりなんてない。早くも完全に手詰まりだ。

「……帰ろう」

 仕方なく、俺はとぼとぼと帰路についた。

 時刻は昼少し前。ぐぅーっと腹の虫が泣き出したので、一旦腹ごしらえをするためという意味合いが非常に強い。

 ……財布を持って来ていれば、その辺で昼食をすませることもできたのだが、ない物は仕方ねぇな。

 かくして、ようやく我が家へと辿りつく。腹減ったー、とぼやきながらキッチンに顔を出すと、俺はそこで信じられない光景を目の当たりにした。

 何と、今朝から行方不明だったはずの妹がテーブルでくつろぎつつ、昼食を頬張っていたのだから驚きだ。

「おまっ……何でいるんだよ!」

「あにきこそ、今までどこ行ってたの? 勉強、滞ってるんだけど」

「どこって……おまえを探しに出てたんだろうが」

「はぁ……つってもあたし、ずっと家にいたけどね」

「はぁぁぁ!」

 妹はあっけからんとそう言い放ち、更に一口、飯を口の中に放り込んだ。

「どういう意味だ、そりゃあ!」

「どふいふひみってそれふぁそのままのふいみ」

「喰ってから喋れ!」

「……あにきが言えって言ったんでしょ」

「それで、おまえ今までどこにいたんだ?」

「はぁ……あにきの部屋、かな」

「あっ……」

 盲点だった。まさか俺の部屋に潜んでいたとは。

「つーか何でおまえ隠れてんだよ、自分の立場わかってんのか?」

 明日の再テストで合格点を取らなきゃ、ゲーム禁止だぞ?

「……わかってるよ。けど、根を詰めたところでいい結果に結び付くと本気で思ってる?」

「うっ……けど、時間がないんだ」

「あにき……あにきがそこまで必死になる理由、あたし知ってるよ。そしてどんな理由だって、あにきがあたしのためのしてくれることならうれしいと思う。素直にね」

「な、何だよいきなり……?」

「けど、いいんだよ。もういいんだ」

 妹の顔に陰が差す。一体、どうしたというんだろうか。

「どういうことだ? どうしてそんなことを言うんだ、諦めんなよ!」

「あにき、そんなキャラだった? 某元テニスプレイヤーみたいなこと言い出して」

「キャラとか今はどうだっていいんだよ、そんなことよりおまえ……」

 ゲーム禁止になっちまうぞ、いいのかよそれでも。

 おまえの……ゲームに対する想いってのはその程度のものだったのか。

 残念だぜ。がっかりだ。失望した。

「……そうか。わかった」

「ごめんね、あにき」

 妹の深刻そうな声音と顔色。

 その二つを目の当たりにして、俺は悟った。

 こいつはゲームを犠牲にすることを選んだ。ゲームを捨ててまでも、勉強をしない道を突き進むと。

 己の道を突き進むと。

 ならば、これ以上俺がとやかく言うのは野暮というものだろう。

 妹が腹をくくったのだ。兄貴である俺も、覚悟を決めなくてはならないだろうな。

「……わかった。おまえがそう言うのなら、俺はもう何も言わない」

 首を二度、横に振る。

 妹への当てつけ、桜木への謝罪の気持ち。

 色々な意味合いを込めたつもりだったのだが、きっと俺の心は誰に元どいちゃいない。妹にも、誰にも。

「あーあ、これで俺の高校生活も終わりかぁ」

「何言ってんの、まだ始まったばっかじゃん」

「……ああ、そうだな」

 しかし、桜木と一緒に過ごせなくては意味はない。

 俺は「はは」と力なく笑い、倒れ込むようにして椅子に座る。

 すると、かわりに妹が立ち上がった。

「じゃ、あたしは部屋でゲームするから」

「……そうかよ」

 このアマ……! くびり殺したろかと思ったが、今は大目に見てやろう。

 何せ最後のゲームタイムだ。せいぜい楽しんだらいいさ。

「じゃ、そゆことで」

「おーう」

 ヒラヒラと小さく手を振る妹に、生返事を返す俺。

 もう何だか、目の前が真っ暗だよぅ。こんな時こそ、桜木の声を聞きたい。

 携帯を取り出し、発進履歴を開く。ここ一、二ヶ月はずっと桜木とばかり通話をしていた。桜木とだけ、やり取りをしていたことになる。

 無論、学校の友人連中ともそれなりに付き合いはある。けど、桜木とは比べるべくもない。

 俺にとって、それくらい桜木の存在は大きなものだ。

 その桜木と、もう高校生活を一緒に送れない。人生で一度きりの、高校生活を。

「……どうしてこうなった」

 胸の奥が、きりきりと痛む。

 すまない、桜木。俺の力が足りないばかりに、おまえまで巻き込んじまって。

 桜木への謝辞を心の内で反芻する。

 ああでもないこうでもないと頭の中をひっくり返して考える。

 そうすると、一つの妙案を思いついた。

「……そうだ、今からでも桜木に会いに行こう」

 そうしたなら、きっとこのもやもやも消え去るだろう。

 俺は椅子から立ち上がると、飯も食わずに家を飛び出した。

 大通りへ出て、駅の方へと向かい。それから、電車に揺られること三十分弱。

 前に桜木の家にはお邪魔したことがあった。その時に通った道だ。よく覚えている。

 駅の構内をぐるりと回る。何となく、もう二度と見ることはできないと思ったから。

 そうして外に出ると、目の前にはタクシー乗り場とバスターミナルがあった。

 タクシーは……何の変哲もないただの高校生である俺が乗るにはちと割高だ。別段急を要するということないのだから、ここはバスを使おう。

 俺はバスの運行表に目を走らせた。と、ご都合主義なラノベばりに都合のいいことに、あと三分もすれば次のバスが……なんて言っている内に大きな箱物が見えてきた。

 バスは俺の前で停車すると、その乗り口の扉を開ける。俺が乗り込むと、自動で口を閉じた。

 すぐに発進する。車体が結構揺れたが、倒れるほどではない。

 俺は適当な椅子に腰かけ、窓の外をみやった。

 桜木の住む、街並みの風景。

 ビルがあり、草木があり、人がいて犬猫がいて。

 俺の住む街にもありそうな、全国共通のぼんやりとした、ほのぼのの代名詞のような街。

 何度か目の当たりにした、そして今後、おそらくは見ることもないだろう風景。

 しっかりと目に焼き付けておこう。そう思って、俺はジッと、窓の外を眺め続ける。

 そうしてどれくらいの時間、そうしていただろうか。たかだか十分程度なような気もするし、もしかしたら一時間くらいは座っていたかもしれない。

 携帯で確認すると、どちらも違っていた。

 ほんの五分程度だ。その程度の時間を十分とか一時間とか言っていたらしい。全く、これほどまでに堪え性のない男だっただろうか、俺は。

 バスが停まる。目的のバス停だ。

 俺は車掌に金銭を払い、遠ざかって行く車体を見送った。

 ぐるりと周囲を見回す。数えるほどしか来ていないはずだが、ずいぶんと懐かしい気分だ。

「さてと」

 バス停に背を向け、桜木の家を目指して一歩踏み出す。と、ここで俺はとある重大事態に気がついてしまった。

 桜木の家を訪問する。それはいい。けど、そのことを桜木に伝えていないのだ。

 俺はすぐさま携帯を取り出し、桜木に連絡しようと試みた。

 だが、その指の動きが寸でのところで止まってしまう。

 電話……するべきなんだろうな、常識的に考えて。

 今日は日曜だ。今から突然桜木を訪ねて行ったところで、桜木が家にいるとは限らない。もちろん、俺が行ったと知れれば桜木は喜ぶだろうが、一方で桜木のご家族は迷惑に思うかもしれない。

 それに、桜木の父親と顔を合わせたりなんかした日には、気まずくって仕方がないだろうな。

 だから、本来なら桜木に電話の一本でも入れて在宅かどうかを確認してから行くのが筋……なんだろうけど。

「ま、サプライズってことでいいだろ」

 俺は携帯をしまい、苦笑した。

 なんて自分本位で、わがままなんだ、俺は。

 自らの行動を自身で笑い、再び足運びを開始する。

 足取りは軽やか、とは言えない。今後の俺たちのことを考えると、とてもスキップをする気分にはなれないのだ。

 それでも、暗い顔をしているのは止そう。桜木が不安がるから。

「……よし」

 二、三度深呼吸を繰り返し、意を決する。

 ぎこちなく、ゆっくりとインターホンへと手を伸ばしていく。

 ぷるぷると震える指が、ボタンを押し損ねる。そこで、自分の不甲斐なさを知ってしまい、腹立たしい。

 俺は、いつからこんなに臆病な人間になってしまったのだろうか。

 桜木との今後を憂い、意気消沈するような男になってしまったのだろうか。

「……落ち着け、俺」

 桜木はもともと、天高く咲く高値の華だったはずだ。それがどういう訳か、俺と知り合い、恋人にまでなった。

 最初はそれを嬉しいと思った。好きだと言ってくれた桜木に対して、精一杯報いたいと。

 けど、本当の桜木を知るにつれ、俺は内心で桜木のことを変な奴だと思っていた。

 ゲームが好きで、ゲーム仲間が何より大切で。

 そして、そんな桜木だからこそ、最初の頃よりずっと、心から桜木を好きになれた。

 誓ってもいい。これは本心だ。だから、俺の心が揺らぐことはない。

 今後、これから先何があろうと、俺が桜木を嫌いになったり、他の女に靡くようなことはない。絶対にだ。それは、自信を持って言えることだ。

 だから、大丈夫だ、俺。桜木なら、きっと受け入れてくれる。

 そして、俺と同じ気持ちを抱いてくれるはずだ。

 俺は小さく、か弱く震える右手で拳を握った。そうして……、

「いってぇ……」

 ごん! と思い切り自分の顔を殴りつけた。口の中を切ったらしい。舌の上を、ざらざらとした鉄錆び臭い味が通り過ぎる。

 だが、これで目が冴えた。覚悟が決まった。

 俺は再び、インターホンへと手を伸ばした。そうして、押す。ボタンを押し込む。

 ピンポーン……、と、呼び出し音が微かに俺の耳にも届いた。続いて、バタバタと家内を走るスリッパの音色。

 聞き覚えのある、その二つの音に、俺はホッと胸を撫で下ろした。

 桜木はちゃんと家にいてくれたらしい。と、そう確信すると同時に、桜木が玄関の戸を開けてその可愛らしい顔を覗かせた。

「はーい、どちら様……って健斗? え? 何で?」

「悪い、取り込み中だったか?」

 エプロン姿の桜木は目を白黒させて、わなわなと全身を震わせている。

 はは、驚いている。予想通りだ。やはり、いきなり来て正解だったようだな。

 俺は自分の思惑が上手く行ったことに満足して、思わず笑んでいた。

 そのことは、桜木に指摘されるまで気がつかなかったけど。

「ちょ、何笑ってるの、健斗! 私がびっくりしているのがそんなに楽しい!」

「違う、いや違わないけど、違うんだ」

「何それ意味わかんない!」

 そりゃあそうだろう。何せ俺にもよくわかっていないのだから。

 しかし、大目に見てほしい。俺にだって、自分の心がわからない時くらいある。

 今が、まさにその時だ。

「……すぐに帰る。今日はだだ、一言言いに来ただけなんだ」

「健斗……?」

 普段の俺とはあまりに雰囲気が違うからだろうか。桜木は困惑したように眉根を寄せる。

 けど、ここで止める訳にはいかない。遅かれ早かれ、桜木には言わなくてはならないことなのだから。

「じ、実は……今後の俺たちのことなんだ」

「あ、えっと、あの……ごめん、どういう意味?」

 困惑しきりの桜木を他所に、俺は自分勝手に話を進める。

「俺たち、もう高校生の間は一緒にいられないかもしれない」

「え……? それってどういう意味なの?」

「……色々と事情があってな」

 妹の成績不振が原因、なんて口が裂けても言えない。そんなことを言えば、怒り狂った桜木が妹に対して何を仕出かすかわかったものじゃないからだ。

 確かに、妹と桜木は仲がいい。それはお互いにゲームという共通の趣味を持っているからだ。

 ことそのことにのみ焦点を当てれば、妹は俺以上に桜木を理解できるだろう。

 けど、それだけだ。本当の意味で桜木を理解し得るのは、この世界で俺ただ一人。そう確信している。

 だからこそ、この話はできるだけ早くしなくてはならないと。そう思った。

「色々な事情って?」

「だから、色々な事情は色々な事情だ」

「その内容を教えてよ。私にできることってないの?」

「……いいや、おまえにできることはない。この件に関しては」

 これは既に決まったことだ。決定事項。覆すことはできない。

 俺は桜木に対して、今現在、これ以上ないほどの責め苦を与えていることだろう。桜木からしたら、勝手な男と思われても仕方ない。これは、破局も覚悟しておかなくてはならないだろうと思う。

 それくらい、俺のしていることは酷いことだ。桜木から別れを告げられたなら、即刻腹をくくるつもりでいる。

 俺は桜木から罵倒されることも覚悟して、返事を待つ。

 一秒……二秒……三秒……、たった一分にも満たない時間。それが、これほど長く感じられるのは、たぶん生まれて初めてだ。

 だが、一向に桜木からの返答はない。罵倒も、罵りも蔑みも。何もない。

 ただ、何も言わずに家の中へ引っ込んで行ってしまった。

「桜木……」

 追いかけようかと一瞬、迷う。けど、追いかけてどうするという自問が俺の足を前にださせてはくれなかった。

 少しして、桜木は戻って来た。すると、その手に何か握っているようだ。

 俺は眉根を寄せ、何だろうと目を凝らす。……と、桜木がそれを差し出して来た。

「これ……あげる。本当は明日渡そうと思ってたんだけど」

「これって……」

 綺麗にラッピングされたその包みを受け取って、俺は目を剥いた。

 それはおおよそ、今し方別れ話に類似した会話をした男女の間で交わされるべきものとしては、到底似つかわしくない代物だった。

「今日が何月何日かわかる?」

「今日……あっ」

 桜木に問われて、俺はようやく思い至った。

 妹の世話や母親との諍いなどですっかり失念していた、今日という日付の意味。

 より正確に誤解を失くすつもりで言うのなら、明日の日付だ。

 本日は二月十三日。日曜日。

 そして明日は、二月十四日。

「バレンタインデーか」

「……健斗って、何気に抜けてるところあるよね」

 苦笑する桜木。俺もつられて、笑ってしまった。

「……ありがとう、嬉しい」

「また、そんなこと言う。……どうして突然そんな話をしたのか。その理由は聞かないよ」

「……いいのか?」

「いい……訳ないけど、健斗が言わないってことは言えない事情なんでしょ? なら、無理には聞かない」

「ありがとう……助かる」

 理由が理由なだけに、どれだけ格好つけてもつかないからな。

 俺は桜木からもらった包みを小脇に抱えて、身を反転させた。

 もう、帰ろう。いつまでもここにいたら、決心が鈍りそうだ。

 桜木も俺を止める真似はしなかった。お互いに、言葉には出さなくとも考えていることは似通っているらしい。

 つまるところ、俺たちはお互いに、いつかこうなることを予見していたのだろう。意識的にしろ、無意識的にしろ。遅かれ早かれ。

 こうして、別れることを。

 どれくらいの距離を離れただろう。俺は桜木邸の方を振り返り、そっと手を振った。

 ……明日、また学校で会おう。……ただの、彼氏彼女じゃない友達として。

 そうして、また笑いあえる明日が来ることを、今の俺は祈っているしかなかった。

 ああ、今日も空が眩しいぜ。

 

              ◆

 

 一夜明けた翌日。午後四時半過ぎ。

 俺は一人、自室のベッドの上で項垂れていた。

「あー」

 叫ぶでもなく、そんな奇声じみた声を出す。……と、とんとんとん、と下の階から足取り軽く、昇ってくる足音があった。

「……帰って来たか」

 この時間に、こうして帰ってくるのは妹だけだ。

 俺はのっそりとベッドから起き上がると、廊下に出る。

 すると、妹と鉢合わせする格好となった。

「おお、あにき」

「よう、どうだった、再テスト」

「え? えーと……まぁうん」

 妹は歯切れ悪く、そう言って頷いた。

 ああ、この様子だとだめだったっぽいな。それにしてはやけにそわそわしているのが気にかかるが、今はいいか。

「そうか。残念だったな。本当に」

「ちょっと、あにき酷い。残念ってどういう意味」

「どういう意味も何も、そのままの意味だが? 残念だから残念と言った」

「ん? ははーん、もしかしてあたしがテストだめだったとか思ってる?」

「だめだったんだろう、実際」

 ちっちっち、と妹が意味もなく得意気に人差し指を振る。何だろう、えらく腹が立つな。

「じゃーん、これを見なさい!」

 そう言って、テンション高く妹が取り出したのは、一枚の紙。

 どうやら、例のテストの答案用紙らしかった。

「……ちょ、おま」

 しかし特筆するべきはその内容の異様さだろう。

 答案用紙の右上。つまりはよく点数を書かれる場所。

 そこに、何と百点の文字が踊っていたのだ。それも先生と思われる字でお褒めの言葉まで頂戴して。

「なっ……何でおまえこれ……何で!」

「あにき、現実は受け入れるべきだよ。あたしこれでも勉強はできる方だから」

「いやいやいやいや、これあり得ねぇだろ!」

「ちょっと、あり得ないってどういう意味だ!」

 ゲシゲシッと、妹の足が俺の向こう脛を蹴りまくる。その痛みによって、これが夢幻ではないと俺に教えてくれたのだった。

「返せ! ……全く、なんてあにきだ。妹の才能の片鱗を見て、気が狂っちまいやがった」

「だ、だったら何でおまえは俺に勉強を見させたんだ! ここ二日三日が丸々ムダじゃねぇか!」

「いやいや、ムダだと言い切るのは早計だよ、あにき」

 妹はまたもやちっちっちー、と例のむかつくポーズを取る。

「あにきのお陰で、あたしはこうしてテストで百点を取れたんだから」

「どういう意味だ?」

「あにきがあたしに教えてくれたとこ、全部すっぽり都合よく、あたしがわからないところだったんだよ」

「えっ……えーと、どういうことだ?」

「つまり、だね。あたしの苦手だったところをあにきのお陰で補完できたってこと。ありがとね、あにき!」

 ぱちこーん、とウインクをかます妹。

 えー……何じゃそりゃあ……。

 何だか納得のいかないもやもやを抱えて、俺はその場に蹲った。

「……おまえのせいで俺、桜木に別れ話的なことをして来たんだぞ?」

「はぁ? 何でさ。別にあたし関係ないじゃん」

「おまえが勘違いさせるようなこと言うから……くそったれめ」

「はぁぁ? そんなのあにきの早合点が悪いんでしょうが!」

 怒りに任せて叫ぶ妹。だが、そんな妹につきあってやる気力は今の俺にはなかった。

 ああもう、どうしよう。明日桜木にどんな顔をして会えばいいんだよ……。

 俺の心中は、もう渦潮並に荒だっていたのだった。……めでたしめでたし。めでたくねぇけど。

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