第13話 桜木玲と石宮の心
桜木との破局から数ヶ月が経過していた。
俺はいまだに桜木と別れたという事実を受け入れることができず、茫然自失の毎日を送っていた。
「桜木……どうしてだよ、桜木。何で……?」
オオオ……、と嘆き頭を抱える俺。
しかし、そんな傷心中の俺を慰めようなどと考える暖かな心の持ち主など、残念ながら我が石宮家に一人としていなかった。
母さんは俺を罵倒し、妹は妹で蔑んだ目で俺を見てきやがる。唯一、父さんだけが俺の気持ちを汲んでくれているのか、ぽんと軽く肩に手を置き、優しげな微笑みを浮かべてくるのだった。
俺はこれまでの人生の中で一度として味わったことのない最大の苦難を前に、どうしたらいいのかまるでわからなあかった。
できればよりを戻したい。けど、それを桜木が望んでいないのだとしたら、桜木とはそんな話をするべきではないだろう。
「俺は……どうしたらいいんだ?」
ベッドの上で身悶える。妹の部屋の。
「……あたしが知るわけないし」
妹は俺に一瞥をくれると、すぐにゲーム画面へと視線を戻した。
今やっているのは、パーティ型オンラインゲームのようだ。最大五人までのプレイヤーでパーティを組み、ダンジョンや地下迷宮を探索したりドラゴンやら魔物やらを退治していくゲームだ。
本来なら、いかに始めたばかりの初心者といえど二、三人の小規模パーティならすぐに組めるはずなのだが、妹はそうしたゲームのセオリーを完璧に無視して、ソロプレイを楽しんでいるようだった。
「いいじゃねぇかよ、おまえ恋愛ゲームとか結構やり込んでるだろ?」
「あにきだって、桜木さんとその手のゲームは大概やってるはずだし。つーか何? 二人の問題にあたしを巻き込まないで欲しいんだけど。あと桜木さんがいないといろいろと張り合いがないからさっさと仲直りしてよね」
「ずいぶんと冷たいんだな、おまえ」
「いまさらじゃん」
あ、なんかでっかい悪魔っぽいモンスター倒した。
俺は妹から視線を外し、深くため息を吐いた。
「それができりゃ苦労しねぇよ。つーかおまえにこんな相談してねぇよ」
「だったら自分で考えてよ。わかんないかもしれないけど、今すごく邪魔なんだよね、あにき」
「辛辣だなぁ……」
俺はのろのろと妹のベッドから立ち上がり、部屋を出て行く。
その間際、妹のやっているゲーム画面へと目を向けた。
「……おまえ、もしかしてぼっちなの?」
「うるさいな、はやく出て行けよ!」
妹の怒号が耳に届く。俺はそそくさと出て行くのだった。
◆
ぜぇぜぇと荒い息を吐く。両膝をついて呼吸を整え、やっとの思いで内履きへと履き替えた。
「な、何とか間に合ったな」
あと数分遅れていたなら、完全に遅刻していた。
俺はすぅーはぁー、と大きく深呼吸をして、呼吸を整える。
何度かそうしてから、教室を目指した。
教室の前で立ち止まる。右、左と確認して、ホッと息を吐く。
どこにも、桜木の姿は認められない。そのことに、わずかに安心してしまう。
桜木玲。学校内でも一、二を争う秀才で、その上顔も性格もよくて男子女子ともに人気は高い。にもかかわらずゲーム好きのアニメオタクで、サブカルチャーにも詳しいという二面性のあるアニメキャラのような盛り盛り設定を持つ女子。
そして、およそ数ヶ月前までは俺の恋人だった女子だ。
俺と桜木が破局するまでの経緯については、語るべき紆余曲折など微塵もないのでここでは割愛させてもらうとして。
俺と桜木が破局に至った直接の原因は、どうやら俺にあるらしい。
「……何でだよ、桜木」
俺はここ数ヶ月ずっと、そのことだけを考えてきた。
どうして桜木は俺と別れる気になったのか。俺の何がだめだったのか。
少なくとも、俺の記憶の中ではそれらしい要因は見つからない。だけど、俺の軽はずみな行動が桜木を傷付けてしまった可能性は十分にあった。
だったら、当然謝りたいと思うし、できることなら関係を修復したいと願うのは当然のことだろう。
俺は教室に入ると、自分の席に座り腕に顔を埋めた。
誰も、今の俺に声をかけないでくれ。
心の底からそう願う。けど、俺の願いは無残にも何も知らないであろう一人の女子によって儚くも打ち砕かれたのだった。
「あの……どうしたの? 大丈夫?」
「……ああ、委員長か。何でもねぇよ。大丈夫だ」
と言った端から、ため息が出る。
「ほ、本当に大丈夫? 具合が悪いんだったら、保健室とか行った方が……」
「心配すんなって……本当に大丈夫だから」
俺は彼女を安心させるために、努めて笑顔を作った。
彼女――赤羽美郷はそれでもなお心配そうに瞳を揺らしていた。
大きな丸い縁のメガネに立派なおさげ。まじめくさった態度とおどおどとした口調。
昭和を舞台にした映画か一昔前のギャルゲのヒロインとして出てきそうな人物だった。
「何つーか……委員長ってさ。一緒にいるとホッとするよな」
「え、ええ……!」
「どうしたんだよ?」
「な、何でもない……ただ、石宮くんが変なこと言うから」
「変なこと?」
委員長は顔を真っ赤にして、おろおろと左右を見回していた。
俺が何か言ったらしいが、そこまで妙なことは言っていないはずだ。
なんて感じに委員長とじゃれあっていると、予鈴が鳴り響く。
委員長はしぶしぶといった様子で自分の席へと戻って行った。
間もなく、担任の教師が入ってくる。
その後、ホームルームはつつがなく終了し、午前の授業へと突入するのだった。
◆
他所へ食べに行くとうっかり桜木と鉢合わせになりそうなので、お昼はさっさと購買へ行って教室で食べることにした。
とはいえ、購買はいつも競争率が高い。ので、桜木の動向を気にしつつ食料を調達するのは至難の技と言っても過言ではないだろう。
という俺の予想はおおよその部分で的中した。
俺が確保できた食料といえば、焼きそばパンとコーヒー牛乳くらいなものだ。
「……これっぽっちかよ」
男子高校生には辛い食事内容だ。
しかしてそれも仕方のないことだった。なにせ桜木を気にするあまり、出遅れてしまったのだから。
特に人気の『ふわとろたまごで包んだオムライス風焼きそばパン』ともなれば、一日百個限定商品なことも相まって、ことさら競争率は高い。
そんな超貴重な焼きそばパンを入手できず、普通の焼きそばパンしか手に入れられなかったことは、俺にとって痛恨の失敗だ。
俺は悔やんでも悔やみきれない思いを抱え、教室に戻った。
ここまで、桜木と顔を合わせずにすんだことにホッとする。
「あの……石宮くんお昼はそれだけですか?」
「委員長……いやー、ちょっと出遅れちゃってさ。これだけしか買えなかったんだ」
「そうなんですか……いつもはどこか別な場所で食べてるのに、どうして今日は購買のパンなんですか? 桜木さん、待ってるんじゃ……?」
「ぎくっ……ああ、いや、委員長、俺たち別に四六時中一緒ってわけじゃないんだが。俺には俺、桜木には桜木のつきあいというか、人間関係があるわけだし、たまには別々で食べることだってあるよ。うん」
「そう……ですよね。そういう日もありますよね」
「そうそう。委員長こそ、いつものメンバーと一緒に食べないの?」
「えーと、みんな部活とか委員会とかで忙しいみたいで。わたしも、ついさっきまで委員会で外にいましたし」
「へー、なんだか意外だな」
「意外……ですか?」
委員長はくりっと首をかしげ、不思議そうな顔をした。
「ああ、意外だったよ。女子ってそいう時でも、無理にでも一緒に食べるものだと思ってたからさ」
「そこは人によると思いますけど……でもたぶんそういう人たちってまだお互いのことをよくわかっていない人たちなんだと思います」
「? どういうこと?」
「えっと、つまりまだ浅い関係で、できる限り一緒にいて関係を深めたいって、そう思っている人たちなんじゃないかと」
「なるほど、さすが委員長。深いこと言う」
「あうっ……そんなことはないです。それに、そういう言い方はちょっと……」
「おっと、ごめん。それで委員長、何か用があったんじゃないのか?」
「ああ、いえ、大した用じゃないんですが、あぶれ者同士、一緒にお昼でもいかがですか?」
「……ああ、でも俺」
と、桜木の嫉妬顔が頭を浮かぶ。
今、桜木はどうしているだろうか。教室で一人、寂しく昼食を食べているんじゃ? いいや、それはないな。あいつは学校では割と……というかかなり人気者だ。一緒に食べる友達くらい、いくらでもいるだろう。
俺がわざわざ行って、桜木を飯に誘うのもおかしな話だ。
俺たちは既に終わった恋人なんだ。そんなことをされたら、桜木だって困るに決まっている。
「どうしたの、石宮くん?」
「……おっと、悪い委員長。何だっけ?」
俺がボーッとしていたからだろう。委員長は心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「一緒のごはんでもどうって話……大丈夫? やっぱり保健室に行った方がいいんじゃないですか?」
「ああいや、何でもねぇよ。大丈夫だ。そうだな。一緒に飯、喰おうぜ」
俺はにこやかに、委員長の提案を受諾した。
別に断る理由もねぇしな。
「ありがとうございます」
委員長はどこかうれしそうに、俺の前の席から椅子を引いて来て座ったのだった。
「よいしょっと。……へへ、ちょっと照れますね」
「そうだな……つか委員長、結構喰うんだな」
委員長は弁当派のようで、鞄の中から弁当箱を一つ、取り出した。
いやそれが普通の弁当箱なら俺だって余計なことは口走らなかったさ。けど、委員長が出した弁当箱ってのが普通じゃない。
まず、大きいそれに段数が三段あり、その全てにぎっしりと中身がつまっていた。
彼女の華奢な体のどこにこれだけの食べ物が入るのか、全然想像できなかった。
「ち、違うんでうす。今日はたまたまお父さんがお弁当を作ってくれまして」
訊ねてもいないのにそんな言い訳を始める始末だ。
「別にいいと思うよ。少し意外だったけど、俺はたくさん食べる人って好感持てるし」
「うう……違うのに」
委員長は肩を縮こまらせて、顔を赤くして俯いてしまった。
なんだ? そんなに恥ずかしがるようなことか? 全く、女ってのはよくわからん。
委員長のそんな奇抜な行動の数々を無視して、俺は焼きそばパンの包装を解く。
頬張ると、口の中いっぱいにぱさぱさとした触感と焼きそばのべろーっとした質感が広がり、舌の上を新鮮味を失った野菜たちが滑り落ちていく。
端的に言って美味くない。不味い。
「はぁ……俺の人生、この焼きそばパンみてぇなもんなのかな」
「は? どうしたの、突然?」
「ああいや、何でもねぇよ。こっちの話」
俺は焼きそばパンの断面を見て、もう一度ため息を吐く。
桜木とつきあうことになって浮かれていた、昔の自分が羨ましい。まだそんなに時間経ってないけど。
「ところで……石宮くんって放課後予定とかありますか?」
「予定? いや、別にねぇけど」
「そうなんですか。よかった」
よかった? それはどういう意味だろう?
「なぁ委員長、よかったって何がよかったんだ?」
「あ、あの……もし石宮くんさえ迷惑じゃなかったのなら、今日の放課後……その、えっと」
委員長は言いづらそうにもじもじと落ち着きなく、必死に言葉を探すように目を泳がせていた。その姿はさながら小さな子供か怯えた小動物かといった具合だ。
普段から子供っぽい印象のある彼女のことだ。そんな仕草をされると、思わず抱き締めて頭を思い切りなでなでしたくなっちゃうぜ。
「だからね、放課後ちょっと寄り道していきませんか?」
「おっと、危ない危ない」
「石宮……くん?」
「なんでもないなんでもない」
俺は両手を振って、訝しげな委員長を誤魔化した。
それで、えーと何だっけ?
「ああ放課後ね。いいよ」
「いいんですか! 本当に!」
「ああ……問題ない」
「で、でも桜木さんに悪いような……」
ぐっ! と口の中に何も入っていないにもかかわらず、何かが喉に詰まりそうになった。
俺は慌ててコーヒー牛乳でその異物を流し込む。その正体はともすれば、俺の中にある罪悪感かもしれなかったわけだが。
「そ、そそそれで、どこに行くんだ? もし何かたくさん買うのなら、人数がいた方がいいだろうから、何人か声をかけるけど?」
「いいえ、大丈夫です。そんなに買物をする予定はありませんから」
「そ、そうか……それなら」
んん? だったらなんでわざわざ放課後俺と寄り道する必要があるんだ? それこそ一人で行くか、他の女子の友達といけるだろうに。
委員長の言い方から、男手がいるほどの大荷物を買うつもりはないことは知れる。
うーむ、よくわからん。
「そ、それじゃあ放課後に。ごはん、それだけじゃ足りないでしょう?」
「あ、ああ……」
「残りあげますから。えと……わたし委員会があるのでこれで失礼します!」
言うが早いか、委員長は目にも止まらぬ速さで立ち上がり、鞄を肩にかけて俺の前から立ち去って行った。
色々といっぱいいっぱいだったらしい。椅子も戻さずに、だ。
「……えーと、俺はどうしたら?」
目の前に残ったのは委員長が残していった大量の弁当。
残りは食べていいということなのだろうが、あいにくと俺は今日ははしを持って来てはいない。母親が弁当作んの面倒くさがったからな。
だから、まぁ俺が委員長の弁当を喰うのなら、取れる選択肢は二つだ。
一つは手掴み。そしてもう一つは……。
「……では唐揚げときのこのベーコン巻を」
俺は迷った末、辛うじて手掴みでも喰える物品をチョイスした。
もぐもぐとそれらを咀嚼し、手を拭いてから弁当を片づける。
さぁてこれ、どうしようかな。
俺は弁当の包を持ったまま、思案した。
◆
かくして放課後。
委員長との約束を果たすべく、一階生徒昇降口前で待機していた。
「……おっせぇな」
スマホで時刻を確認する。……約束の時間より既に十分は経過していた。
別段、それを責めるつもりはない。相手は委員会やら何やらで忙しい身だ。こういうこともあるだろう。
対して俺はこれといって何の予定もない、暇人なのだから。
それに、HRを終えて教室を出る際に急に委員会が入ったから遅くなるかもしれないとは聞いていたし。
などと考えていると、昇降口から女子の一団が出て来た。
五、六人で構成されたその一団の中心にいるのは、間違いなく桜木だった。
俺の桜木レーダーがビンビンと反応しているから間違いない。(注)¨下ネタではありません。
俺は慌てて、近くにあった靴箱の陰に身を隠した。
ちらりと桜木を見やる。
さすが、学校一の才女であり人気者の桜木だ。男子のみならず女子からも人気が高いとは。
噂には聞いていたが、今までは独占気味だったためかあまり気がつかなかった。
女が女を侍らせるとか、どこの世界の女王様だよ。
俺は苦笑いを浮かべ、桜木の動向を見守った。
俺の存在に気づいている様子はない。そのことにホッと胸を撫で下ろす。
ついでに周囲に男の影がないことにも安堵する。
「あの……どうされたんですか?」
「うおお! なんだ委員長か」
「えっと……委員会が終わったのですけど」
「そっか。あーと、今はまずいんだ、ちょっと待っててくれ」
「どうしたん……あれって桜木さんですよね?」
「うっ……」
自分以外にそう指摘されると、喉がつっかえるような息苦しさを覚える。
今、桜木とはなるべく顔を合わせたくない。どんな顔をして合えばいいのか、全くわからないからだ。
「声、かけないんですか?」
「あ、ああ……今日はそれぞれ別々で帰ることにしてるから」
「そうなんですか」
ここ数ヶ月、俺と桜木が別れたことはなんとか誤魔化してきた。
しかし、それも限界が訪れようとしているようだ。
あとどれくらい、こうして俺たちの仲を誤魔化し続ければいいのだろうか。
「……もういいか。行こう、委員長」
「は、はい」
桜木の姿が見えなくなると、俺は委員長を連れ立って昇降口を出た。
ま、まさか待ち伏せされている、なんてことはないよな?
無用な心配と知りつつ、桜木と出会ってしまわないよう最新の注意を払い、校門をくぐる。「……ふぅ、大丈夫そうだな」
「あの……そんなに警戒しなくてもいいんじゃないでしょうか?」
「さて何のことか、俺にはわからないなぁ」
委員長の意味不明な日本語には取り合わず、俺は彼女とともに長い長い坂をくだった。
ここまで、桜木とは顔を合わせていない。大丈夫だろう。
「それで委員長、どこへ行くんだ?」
「ええっと、それは……」
委員長は素早くスマホを取り出すと、何かを検索する素振りを見せる。
俺は彼女が調べ物を終えるまで、じっと待っていることにした。
「ありました。ここへ行きたいと思います」
「そ、そこは……」
委員長が見せてきたスマホ画面に映っていたのは、若い女性をターゲットにしているらしい喫茶店の写真だった。
何と言うか……委員長のイメージとはだいぶかけ離れたきらきらした空間がそこにはあった。
「ここに行くのか……?」
「は、はい……ダメでしょうか?」
「ダメってことはないが」
はっきり言って似合わない。イメージじゃない。
なんてことは口には出せないので、一応別の切り口から攻めてみた。
「お、男が行くのはハードルが高いな、なんて」
「で、でも今日はわたしも一緒ですので。それに、わたしがお誘いしたのですからもちろん代金は全てわたしがお支払いします」
「いや、それは悪いから自分で飲み喰いした分は払うが……じゃなくて、俺が言いたいのは」
「や、やはりこういう場所は桜木さんと行きたいですよね」
「よっしゃ楽しみだぜ早く行こう委員長!」
涙目で俯く委員長の醸し出す幸薄オーラに耐え切れず、俺は思わず出発の合図をしてしまっていた。
委員長は両目に浮かんだ涙を拭い、パァッと明るい表情になる。
「はい、ありがとうございます!」
とびきりの笑顔を見せる委員長。
全く、女の涙って奴はどうしてこう、こっちを弱らせてくるのだろうか。
◆
そして件の喫茶店『フ○ール・ド・○パン』に到着した。
「何つーか、おしゃれな店だな」
「はい。制服もバニーみたいでかわいいです」
「どうしてうさぎと言わないんだ?」
「何かわたし、変だったでしょうか?」
「ああいや、別にいいんだ」
俺と委員長は空いている席に座って、メニューを開いた。
すると、いつの間にそこにいたのか、バニー姿(卑猥ではない方)の店員さんが足音もなくニコニコと魅力的な営業スマイルとともに側にいた。
俺は若干びくっと驚いたが、委員長は特に何も思わなかったらしい。ひたすらメニューを眺め、鼻歌混じりに思案している。
「よし、決めました。石宮くんはどうですか?」
「え、ええと、俺は……」
委員長に促され、俺もメニューに目を落とす。
と、とりあえずコーヒーでも頼んでおくか。などとあまっちょろいことを言ってはいられなかった。
見てくるのだ。店員さんが。じーっと俺を見てくるのだ。
まるで「とりあえずコーヒーでも」と頼もうものなら、きっとサバットとかバリツとかましてくるに違いない。うさぎって意外と獰猛だから。
俺はメニューを前に、自然と背筋をピンと伸ばした。
下手を打てば、確実にやられる。
「……コーヒーとパンケーキを」
「あ、わたしはこの紅茶とショートケーキください」
「かしこまりました。少々お待ちください」
店員さんはぺこりと頭を下げ、店の奥へと消えていった。
俺はふぅと吐息すると、途端にどっと疲れが押し寄せてきたような倦怠感に襲われる。
「どうしたました? なんだかずいぶんとお疲れのようですけど? もしかして、体調が優れなかったりなんてしましたか?」
「何でもねぇよ。ただなんというか、こういう場所ってあんまり得意じゃなくてな」
桜木とのデートの時も、こういうしゃれた喫茶店やレストランには来なかった。桜木はいつも時間がもったいないとファーストフードやフードコートなんかですませていたからな。
俺も自然とそっち系に体が慣れてしまっていたようだ。オタクってなんであんなに時間に厳格なんだろうな。みんなああなのか、それとも桜木だけがああだったのか。
などと考えていると、不意に背後から店の入口に見慣れた制服姿が四、五人ほど見えた。次いで、桜木が入って来るのまでばっちり視界に収まったのだから大変だ。
俺はバッと反射的にテーブルに状態をつけ、少しでも桜木の視界に映らないようにした。
そのかいあってか、はたまた桜木は周囲にはべらせている女子連中との会話に夢中で俺に気づいていないのか、気づいていてあえて気づかないふりをしているのか、何にしろ俺の方をちらりとも見なかった。
それは……まぁいい。俺としても、見られたからといってどんな顔をすればいいのか全く検討もつかないからな。
しかしなんだ、なんで俺はこんなこそこそと隠れるようなことをしているのだろうか。
俺の不審な行動に、委員長もどこか訝しげだし。
「え、えと……石宮くん、どうしました?」
「……どうもしてねぇよ。ただ」
「ただ?」
「何でもねぇ」
「ええ……」
委員長は大層困った様子で、奇行に走った俺の同伴者として気恥かしそうに周囲を見回した。
そうすると当然、後ろも振り返るわけで。振り返ると、そりゃあ委員長の視界にも桜木アンドおまけどもの姿が映るわけで。
「あれって桜木さん……ですよね? 声、かけなくていいんですか?」
「あー……いや、今はいい」
「で、でもほら、その浮気とかって疑われたら嫌じゃないですか。ただちょっとお茶しに来ただけなのに」
「……その心配はないから安心しろ」
「それってどういう……ああ、なるほど」
委員長は勝手に何かを納得したようにポンと手を打った。
それから、どこか照れくさそうに頬をかきつつ、はにかんだように笑う。
「わたしとじゃ嫉妬のしようがないですよね。……なんというか、女っ気ゼロですし」
「いや、そんなことはないと思うけど」
委員長の言う女っ気とは一体何を示しているのか、俺にはよくわからなかった。
けど、委員長みたいなタイプの女子は結構人気があると思う。
人の好みなんて千差万別だ。それを本人の主観だけで判断しようとするから、委員長みたいなネガティブなことを言ってみたりする。
俺は別に三つ編みメガネっ子を女子力が欠けていると思ったことはない。むしろそうしたタイプの方が家庭的で穏やかだったりするものだ。ゲームだと。
「それはそうと、本当にどうしたんですか? なんだか様子が変ですけど」
「変……変か、俺?」
「え、ええ……かなり変です」
「ん、まぁそうだよな」
自分が変な行動をしているという自覚はあった。
何せ突然、身をかがめるような奴を変な人間と呼称しないでなんと言うのか。誰でもいい、俺に教えてくれ。
「もしかして、桜木さんと何かあったんじゃ?」
「何にもねぇよ。別に」
「ん……ならいいんですけど。と、話している内に来ましたね」
先ほどの店員さんがトレイに二人分のケーキと飲み物を持ってニコニコと俺たちの前に立っていた。相変わらずの完璧な接客態度で。
俺と委員長の前にそれぞれのケーキと飲み物を置く店員さん。深々と一礼して、俺たちの前から去って行った。
うーむ、これが働く大人って奴か。
ゲームだと知り合いが来店した場合、多少恥ずかしがりながら接客をこなすというのが一種の王道的な振る舞いだが、あの人に関してはゲーム的なノリは通じなさそうだ。
俺はさっそく、気を落ち着けるためにコーヒーに口をつける。とはいえどうせ喫茶店のコーヒーだ。いつも家で飲むインスタントとかわりないだろうと踏んでいた。
それだけに、意外なほどおいしくて、俺は思わず声を上げそうになった。上げなかったけど。
「……うまいな、これ」
「わたしもそう思います。とてもいい香りで、幸せな気分になりますよね」
「ああ……パンケーキもあま過ぎなくていい感じだ」
正直、女子率が非常に高いため、どうせ出てくるものもかなりあまいものなのだろうとたかをくくっていた。けど、どうやら俺の予想はいい意味で裏切られたらしい。ここの店は、男が来ても十分楽しめる空間だ。……いやそんなことはないか。
「……ふぅ、うまかった」
「それはよかったです」
俺はものの数分でパンケーキを平らげた。
本来ならもっと時間をかけて、おしゃべりを楽しみながら食べるものなのだろうけど、俺にそんな女子のようなスキルがあるわけもなく、おしゃべりを楽しむ暇もなく腹に収めてしまったという次第だ。
「ところで委員長」
「どうしました?」
委員長は小さなショートケーキをフォークを使って上品に切り分けながら、そうあいづちを打った。ケーキの切れ端を口の中に放り、咀嚼して飲み込むのを待って、俺は再び口を開いた。
「どうして俺をここに連れて来たんだ?」
「どうしてって……どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ。おまえが俺をこの喫茶店に連れて来た理由は何だって聞いてるんだ」
「意味……あの、わたしが石宮くんと一緒に来たかったから、じゃだめですか?」
わずかに潤んだ瞳で俺を見てくる委員長。
な、なんだか俺が委員長のことをいじめているみたいな構図だ。これはまずい。かなりの破壊力だ。
俺が委員長の知られざる魅力(?)に困惑していると、委員長はニコッと笑って、くるくるとカップの中身をかき回す。
「最近、ちょっと石宮くんの元気がないような気がしていたので。桜木さんと何かあったのかなと思っていたんです。でも下手に事情を詮索するような真似は良くないかなって思ってて。だからせめて、この喫茶店に誘ったら少しは元気になってくれるかなって思って」
「そ、そうだったのか」
それにしてはさっき、委員長は俺に詮索する言葉を言っていたような気がするが。あれか、気にしたら負けって奴か。
「だから、今日ちょっとでも元気になってくれたのならよかったです」
「……ああ、ありがとうな」
「い、いえ、わたしなんて大したことしていませんから。本当に」
「そんなことねぇよ。委員長のお陰で俺、だいぶ気分がよくなったんだ」
「そ、それが本当なら……よかったです」
委員長は顔を真っ赤にして、わたわたと手を振っていた。
「本当に、大したことはしていませんので」
「マジで大したことはしてねぇよな」
「も、もう、すぐそんなこと言うんですから」
委員長は唇を尖らせて、わかりやすく不満顔になる。
それも、俺を元気づけるための作戦の一貫なんだろうか。
なんてことを考えつつ、その後委員長と楽しいひと時を過ごしたのだった。
桜木の動向に気を配りつつ……だが。
◆
「映画?」
「ああ、今度の休み、映画にでも行こうぜ」
「で、でも桜木さんに悪いし……」
「この間いい感じの喫茶店に連れて行ってもらったお礼だ」
「えっと、なんだ……だめならいいんだ」
「だ、だめということは……でも、本当に大丈夫なんですか?」
「ああ、大丈夫だ。それに借りを返さねぇってのは気持ち悪いからな」
「借りって……男の子は妙なところで律儀なんですね」
「なんだよ?」
「なんでもありません。では、楽しみにしていますね」
「ああ、わかった」
というやりとりがあってはや一週間。
あっという間に週末が訪れた。
俺は委員長と駅前で待ち合わせをしていた。男が女子を待たせてはいけないと思い、約束の時刻の十分前には待ち合わせ場所に到着した。
のだが、既に委員長はそこにいて、健気にも俺を待っていたのだった。
「悪い、待たせたな」
「いいえ、約束の時間までまだ十分ほどありますから。早めの行動を心がけてるんですね」
「え? ああ、まぁな」
どの口がそんなことを言うんだ。
俺は乾いた笑いをもらし、どうにか場を誤魔化した。
「ん、んじゃ行こうぜ」
「はい」
このままつっ立っていても意味がない。
俺たちは映画館に入った。
券を買うために列に並んでいると、きゃっきゃと騒がしい声が聞こえてくる。
何だよ……と思って振り返った。そうして、すぐに首の角度を元に戻す。
やべぇ、やべぇよ、桜木がいるよなんでいるんだよ。
だらだらと冷や汗が流れる。
桜木、人気の多い場所はあまり得意ではないはずなのに、どうしてこんなところにいるんだ?
桜木は再び、周囲に取り巻きを侍らせていた。おそらくは桜木自身の提案ではく、あの中の誰かが言い出したことなのだろう。
心なしか、元気なさそうだったし。
俺たちと桜木たちまでは、かなり離れていた。その上間に何人もいるため、桜木たちの会話が聞こえてくることはなかった。
「どうしたんですか、石宮くん?」
「へ? ああいや、何でもねぇ」
委員長が訝しげに俺の顔を覗き込んでくる。
俺は取り繕うように、首を振り、たははと乾いた笑い声をもらした。
けど、今この瞬間にも俺は運命を呪っていたのだった。
この間の喫茶店のことといい、示し合わせたわけでもないのに何でこう桜木とのエンカウント率が異常に高いんだよ……!
「ほら、次わたしたちの番ですよ」
「あ、ああ、そうだな」
列は順調に進み、受付のお姉さんがニコニコと愛想よく待っていた。
俺と委員長は事前に決めていた映画のタイトルを言って、そのチケットを購入した。
問題は、座席だ。現在空いているのは一番後ろから三列目まで。さ、桜木は一体どこに座るんだ?
おそらく、どんなに難解なギャルゲヒロインを相手にしていたって、これほど頭を使うことはなかっただろう。しかし、ここは使いどころだ。これ以上桜木の影に怯えるのはごめんだからな。
俺は急速に頭脳を回転させ、桜木(その他)が座るであろう座席を予想する。
そうして、俺たちが選んだのは、一番最後列の右端の席二つだった。
◆
結論から言えば、俺の選択は誤りだった。
桜木と取り巻きたちは、俺たちが座った座席から一つ座席を隔てた場所に座っていた。
俺と桜木の間には委員長、知らない女の人、桜木の取り巻きたちがいるため、そうそう簡単には気づかれないだろうとは思う。が、油断してふとした瞬間に目が合ってしまうことを防ぐためにも、俺はシートに深く腰を下ろし、じーっとスクリーンだけを凝視していた。
映画の内容は全然頭に入って来なかったけど。
「あー、面白かったですね!」
「あ、ああ……うん、そうだな」
「どうしたんですか? なんだかすごくお疲れみたいですが?」
「何でもねぇよ。ちと映画に入り込み過ぎただけだっての」
「ああ、そうなんですか」
「そうそう」
襲いくる披露感に、俺はぐったりと項垂れていた。
なんだこれは? 何の拷問だよ。何で俺がこんな目に遭わないといけないんだ。何か悪いことしたか、俺。したんだろうなぁ、俺……。
てな感じに勝手に自己嫌悪に陥っていると、やはりというか、委員長が心配そうにしてくる。ので、俺は努めて明るく、陽気に振舞うことにした。
「何だよ、そんな顔するなって」
わしゃわしゃと委員長の頭を撫でる。
と、どこでハッとした。
「わ、悪い……つい、な」
「い、いえ、ちょっと驚きましたけど、大丈夫、です……」
相手は桜木ではないことを思い出して、気安く触れたことを後悔する。
何かの特集でやっていた。女は好きでもない男に触られることに不快感を覚える、と。
なんだか、悪いことをした気分だ。
ここは、早いと話題を変えないと。
「そ、そういやこのへんにうまいクレープの店があるって噂があったな」
「え? そうだったんですか? 知らなかった」
「ちょっと探してみようぜ」
「はい、ぜひ」
かくして俺たちは公園の方へ出向き、そのクレープ屋を探すことになった。
その公園というのは、以前に桜木とともにボールをシュートしてモンスターをゲットするゲームをした公園だったのだが、その時のことは今は置いておこう。
件のクレープ屋は案外とすぐに見つかった。
それというのも、隠れ家的にひっそりとやっている店かと思っていたら、存外繁盛しているらしく店の前には長蛇の列ができあがっていたのだ。
最後尾と書かれたプレートを掲げたお姉さんが、俺たちを見るなりニコッと素敵な笑顔を向けてくる。
「一時間半待ちでーす」
「え?」
「一時間半待ちでーす」
「いやいや、ちょっと長くないですか?」
「一時間半待ちでーす」
決まったせりふしか言わないRPGのNPC村人よろしく、同じ文言を繰り返すお姉さん。
俺たちは顔を見合わせて、どうしようかと思案した。
「どうする?」
「え、ええと、石宮くんが食べたいんだったら、別にわたしは待っててもいいですよ?」
「いや、俺も別にそこまで食べたいと思ってはいないんだが……」
と、俺と委員長がクレープを諦めようとしたまさにその時だ。
「うわー、超ならんでるねー」
「すっごい行列。どうしよう?」
「ねぇ桜木さん、どうする?」
びっくぅぅ! と肩が跳ねる。
アイエエ! 桜木サンナンデ!
俺は慌てて委員長の背中を押し、列へと並んだ。
桜木に背中を向ける形で、なおかつお姉さんの後ろに隠れて。
「そう、ですか。私は別にそこまで食べたいと思ってはいないので、みなさんにお任せします」
「そう? うーん、なら今日のところは止めとこう」
「そうだねー、こんな行列に並んでまで食べたいかって言われると、微妙なところだし」
「だねぇ……んじゃ帰ろうよ」
桜木と取り巻きたちが去っていく足音が聞こえる。
俺はホッとして、胸を撫で下ろした。
お姉さんの背後から出ると、ちらと後ろを振り返った。
遠ざかっていく桜木の後ろ姿が見える。
「い、石宮くん……あの、そろそろ離してくれると助かるんだけど」
「ん? おおっと、悪い」
「だ、大丈夫、です」
委員長が顔を真っ赤にして、熱した鉄みたいに熱くなっていた。
恐ろしいほど高温になっていた委員長から手を離し、俺は再び背後を返り見た。
「今の声、桜木さんですよね? よかったんですか?」
「いいんだ、今は」
非常に迷惑そうなお姉さんから一旦身を離し、俺は桜木が去って行ったほうをじっと見つめていた。
「……やっぱり、二人の間に何かあったんですね」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって二人は学校中でも類を見ない仲のいい恋人同士だったから」
「……そりゃあそうか」
この間といい映画館のことといいつい今し方のことといい。俺はあからさまに桜木を避けまくっていたからな。そりゃあ委員長が不審に思うのも無理はない。
「別に何があったということはないんだ。……そうだな、ここじゃあちょっといいづらいな。場所を移そう」
「ええ、わかりました」
俺たちは再度、迷惑そうなお姉さんの脇を抜け、公園内を歩き回る。
そこには仲睦まじいカップルや家族連れの姿があった。
「実は……俺たち別れたんだよ」
「別れた……! どうして?」
「わからないんだ。でも、突然に桜木から別れを切り出されて、それで」
「別れちゃったんですか」
「ああ、別れちゃったんだ」
俺は可能な限り冗談めかして、肩をすくめて見せた。
そうすることで、少しは自分の中で変化があるかもしれない。そう期待していたが、特段何があるということもなく、ただ無駄な行動で終わってしまったのだった。
「何でだろうな、何でこんなことになっちまったんだろう、俺たち」
「原因がわからないって、どいういうことですか?」
「そのままの意味だ。何が原因だったのか、俺が何か悪いことをしたのか、全然かわらねぇんだ。俺には全く心あたりがねぇんだよ」
「そんなことって、あるんですか?」
「そいつもわからん」
俺は首を振り、嘆息した。
「……それが、ここ数ヶ月の石宮くんの元気がなかった理由、ですか」
「ああ、悪かったな。目障りだっただろ?」
「いえ、そんなことは……ですが、その、差し出がましいようですが、お二人はちゃんとお話しをしたのでしょうか?」
「いいや、何も。ただ一方的に別れようって言われたんだ」
「それって……変じゃないですか?」
「変……か?」
「ええ。とはいえお二人の間でのことなので、わたしは何とも言えませんが、かなり変だと思います」
「変……か」
客観的に見ると、そうなのだろう。
普通のカップルなら、まずお互いによく話し合った上で別れたりするものだろうし。
それは俺たちのような別れ方も存在するにはするだろうが、どちらかといえば少数派な気もしなくはない。
「どうして桜木は俺と別れる、なんて言ったんだ?」
「それは、わたしにはわかりません。けど、話を聞いている限り何かとんでもなく大きなすれ違いをしているような気もします」
「すれ違いって……何だよ?」
「具体的にはわかりませんが」
委員長は申し訳なさそうに、目を伏せた。
「何で委員長がそんな顔をするんだ? 関係ないだろ」
「しかし……」
「巻き込んでるのはこっちなんだから、テキトーなこと言ってりゃいいんだよ」
「そ、そんなわけにはいきません!」
委員長はバッと顔を上げ、声を張り上げた。
全く関係のない、俺と桜木のことのはずの話なのに、どうしてここまで親身になってくれるのか。俺には全然わからなかった。
けど、委員長の心づかいはありがたいと素直に思う。
「……ありがとな、委員長」
「あぅ……すみません、出過ぎた真似を」
「だから、んなこと気にすることじゃねぇって」
「しかし、わたしには大した助言もできそうにありません。何と言ったらいいのか、全くわからないのです」
「ま、話せて多少は楽になったよ」
「それが本当ならいいんですけど」
もはや俺が何を言っても、委員長の声は沈んだままだ。
俺はこの鬱々とした空気に耐え切れなくて、がしがしと頭を掻いた。
「ああもう、やめてくれよ、そういうの」
「ええっと、唐突に何を?」
「おまえがそんなだと、俺まで変に暗くなっちまう」
ずっと悩んでて、それでも原因がわからなかった。
俺が何かやっちまったのかとも思ったが、それすら心あたりがなかった。
けど、委員長が与えてくれた一つの可能性。もし、俺たちの間で壮大な、それこそ天地を揺るがしかねないほどの大きな勘違いやすれ違いが起こっているのだとしたら。
なら、その誤解なりなんなりを解く必要があるだろう。
桜木が俺にバレンタインのチョコを渡してくれたあの日以来、まともに喋っていない。いや、あの時より以前にも、俺たちはおそらく真っ当な話し合いなんてしたことがなかったのだろう。
ただお互いに好きで、好きな相手と一緒にいたかった。ただそれだけの幼い関係。
「何だか、すっきりしたような気がする」
「そう……それはよかったです」
「ああ、委員長のお陰だ」
「いえ、わたしは本当に大したことは何も」
「それでもだ。例え委員長自身が何もしていないと思っていても、俺にとっては一筋の光だ。その光に向かって、一直線に走ってみる価値は十分にあると思う」
「……くす」
「な、何だよ……?」
唐突に委員長が含み笑いをもらした。
俺は思わず眉根を寄せ、首を傾げる。
「すみません。でも、そんな臭いせりふが言えるなんて……ドラマの見過ぎなんじゃないですか?」
「……ああ、そうかもしれない」
本当はドラマなどではなく、アニメやゲームに影響されたんだけどな。
「そう。それなら、わたしから言えることはもうないですね」
「そうだな。ありがとう、委員長」
「どういたしまして、です」
俺と委員長は互いに笑い合って、帰路につく。
次の日に、とんでもないトラブルに巻き込まれると想像すらできずに。
◆
翌日。学校に向かうと、教室の前で九条が腕を組んで仁王立ちをしていた。
その顔は般若のようにおそろしく、瞳は鋭くえぐるように、俺に注がれていた。
「どうしたんだよ、九条? そんな怖い顔してんなよ」
「どうしたもこうしたもありませんわ。一体どういうことですの?」
「あ? ……ああ」
九条の言わんとしているところに思い至って、俺は目を逸らした。
きっと、俺と桜木のことを言っているのだろう。俺たちが別れたと知って、事情を問いただすためにこうして俺を待っていたに違いない。
「その話、ここじゃねぇとダメか?」
「あなたが嫌だというのなら、場所を移すこともやぶさかではありませんわ」
「そうしてもらえると助かる。何せ他人に聞かれて気持ちのいい話じゃねぇからな」
「わたくしも、あなたと桜木さんとの間に起こったことを赤の他人に知られるのは好ましくありませんわ」
「おまえだって赤の他人だろ?」
俺の皮肉めいたせりふに、しかし苦情はゆっくりと頭を振った。
「いいえ、わたくしは赤の他人ではありませんわ。……もっとも、あなたたち二人がわたくしをそう思っているのなら、わたくしはこのまま回れ右をいたします」
「冗談だって。俺も桜木も、おまえとはいい友達だ。とくに桜木なんかは、おまえのことを親友みたく思ってんじゃねぇか?」
「……それは、ときめくお話ですわ。けど、今はそんなことを言うあなたを待っていたんじゃありませんの」
「わかってるって」
俺は踵を返し、鞄を肩にかけ直した。
さて、どこで話をしようか。
背後に苦情の威圧感を感じつつ、そんなことを考える。
やはり、屋上がいいだろう。人気が少なくて、こういった話に向いている場所といったら屋上以外にはないだろうからな。
そう考え、階段を上り屋上へと向かう。
九条も後ろからついて来ていた。
久しく来ていなかった屋上に出ると、顔に吹きつける風に目を細めた。
ずいぶんと懐かしい気がする。本当はたかが数ヶ月訪れていなかっただけだというのに。
「それで、どうして俺を待っていた?」
俺はベンチに腰を下ろしながら、九条に向かって訊ねた。
九条は俺の隣に少し距離をとって座り、何から話そうかと迷うように左右に視線を泳がせている。
じっと九条が話始めるのを待っていると、九条は意を決したようにすぅっと大きく息を吸い、口を開いた。
「先日、桜木さんと別れたそうですわね」
「……やっぱその話か」
「予想はされていましたか」
「ああ。当然だろ」
冗談めかして肩をすくめて見せると、九条はそれが痛く気に入らなかったらしく、キッと目元を鋭くした。
「どうしてそんなことを?」
「……仕方ないだろ。桜木から言われたんだ。別れてほしいって」
「そんな理由で」
「そんな理由っておまえ……」
俺は九条から目を逸らし、ぐっと拳を握った。
おまえにはわからない。どうして俺たちが別れることになったのか。
当事者である俺にすらわからないのだから九条、おまえにわかるはずがない。
「何だっていいだろ。おまえには関係のないことだ」
「関係のないこと? それは本気で言っていますの?」
九条の声音に、怒気が混ざる。それでも、今だに感情的に喚き散らしたりしないのは、九条の精神力のなせる業なのだろうか。
さすがはゲームプレイヤー。胆力が違う。
「わたくしとあなた方の間で、関係のないことなどないでしょう」
「いいや、これは俺と桜木、二人以外には全く関わりのないことだ。……そしてもう、終わったことなんだ」
「終わってなどいませんわ!」
頭の奥にまで響き渡りそう金切り声に、俺は思わず顔をしかめた。
「……うっせぇよ」
「も、申し訳ありませんでしたわ。お見苦しいところを」
九条はコホンと咳払いを一つすると、ビッと俺の鼻っ面に人差し指を突きつけてくる。
「しかし、あなたが悪いのですわ。ええそうです。あなたの軽率な行いこそ、今こうした状況をまねいていると言っても過言ではありませんわ」
「過言だろうが。俺一人でどうにかできる問題じゃねぇんだよ、これは」
「くっ……確かにその通りですわ。桜木さんともお話をしなくては」
「言っておくが、余計なことはしなくていいからな?」
「余計なこと? とは何ですの?」
「俺たちはもう終わったんだ。お互いに傷は抱えていても、平穏に暮らしていこうって時におまえみたいな奴にしっちゃかめっちゃかにされてたまるか」
「終わった……ですか」
九条は疲れたようにはぁとため息を吐いた。
一体、何が言いたいのだろう、この女。
「それは、桜木さんとあなたの間で十分に話し合われた結果なのですか?」
「うっ……いや、違うが」
「だったら、まだわからないと思いますわ。まだ、桜木さんの心の内を推し量るには早計だと、わたくしは思います」
「だから、おまえには関係のねぇことだと何度言えば……」
「関係ないことはないと何度言ったら理解していただけますの!」
さっきの金切り声とは違う、感情に任せた言葉が俺の胸を打つ。
俺は思わず口籠り、立ち上がった。
「……何でおまえはそうまで俺たちのことを心配するんだ?」
「誠にせん越ながらわたくし、桜木さんとは一番の親友のつもりでいますの。今まで何度となく激闘を繰り広げ、勝った負けたの勝負を繰り返してきました。その中で、わたくしと桜木さんには確かな友情が芽生えたのだと確信していおりますわ」
「……少年マンガの読み過ぎだろ」
なんで少女マンガじゃねぇんだよ。
「そんなことはどうだっていいことですわ。問題はなぜ、あなた方二人が別れているのか、ということについてですわ」
「何でもなにも、別に不思議なことじゃねぇだろ。人間関係ってのは常に変化する。なら、こういうことも当然あり得たことだ」
「黙らっしゃい!」
ビシッと言われ、素直に黙り込んでしまう俺もどうかと思う。
だが、九条のそのあまりに似つかわしくない言動に、俺は思わず苦笑していた。
「はは」
「? 何を笑っているんですの」
「いやぁ……わかってはいたことだが、おまえってやっぱいい奴だなと思ってよ」
「ふん、おだてたって何も出ませんわよ」
九条は腕を組み、不機嫌を装ってふんすと荒く息を吐いた。
その様子はまさに、お嬢様というよりは江戸っ子といった風情だ。
俺は九条のそうした行動を面白く思い、またありがたくも思った。……口には出せないが。
「しかし、別にいいんだ。俺たちのことはほっといてくれて構わない。仕方のないことだったんだよ、これは」
「しかしそれでは……」
「おまえが俺たちのことをどう思っていてくれたか、十分にわかったから。だから、大丈夫だ」
九条の頭に、軽く手を乗せる。
そうしてゆっくりと、優しく撫でた。
「……は?」
一瞬、九条の表情がきょとんとして、次いでズザザザザザッと後ずさった。
「な、なな何をいたしますの! このバカ、変態、変人!」
「わ、悪い、別に何か意図があったんじゃないんだ。ただ、何て言ったらいいか……そう、癖だ! 妹によくこうしてやるから、だから特に意味はないんだ、本当だ!」
「嘘をおっしゃい! 妹さんとは近頃までろくに口も聞いていなかったと、本人から聞いていますわよ!」
あんのくそ妹め、一体何話してんだバカが! バカのくせに!
九条は気を取り直しすように、コホンと咳払いを一つする。
「それでは、どうやって桜木さんとあなたの中を修繕するかですけど」
「だから、それはいいって言ってんだろ」
「よくありませんわ。それではわたくしが桜木さんと遊ぶ口実が作り辛くなってしまいますわ」
「結局は自分のためかよ」
「当然ですわ、だってわたくしはオタク。自分に素直で真っ直ぐが心情ですもの」
「どっかの塾のコピーみてぇな心情だな」
「お黙りなさい!」
九条の一喝に黙り込む俺。だから、黙り込んじゃダメだろう、俺。
「お父様や使用人たちのことを悪く言うのは許しませんが、わたくしのことを悪くいうことも許しませんわ」
「最終的に何一つ許さないってことか」
やれやれだ。全くこいつには呆れて何も言えん。別にビビッてるからとかじゃなくて。
「さて、それでは作戦会議をしなくてはなりませんわね。……と、もうこんな時間」
九条は携帯を見て、ハッと目を見開いた。
俺も自分のスマホを取り出し、時刻を確認する。
あと数秒で、本日の授業が始まろうとしていた。
「……またお昼休みにでも集まりましょう」
九条はそう言って、ベンチを立った。さっさと戻らないと、二人揃って遅刻扱いになっちまう。桜木とならいざ知らず、こいつと一緒に遅刻したとあっては色々と面倒だ。
桜木にも、変な誤解をされてしまうかもしれない。
急いで教室に戻ろうと、俺たちは揃って出口の方を見やった。
と、九条が不思議そうな声を発する。
「あそこのドア、確かに閉めましたわよね?」
「ああ、俺が閉めたから間違いねぇ」
しかし、ドアは半開きになっていて、その奥から暗い廊下がうっすらを覗いていた。
「本当に閉めたんですの?」
「いや、そう言われると閉めてなかったような気もしなくはないな」
何となく自分の記憶に自信がなくなって、俺は九条から顔を逸らした。
じとーっと、九条が責め立てるような目で俺を睨んでくる。
「ここの屋上は開放厳禁ですわよ。全く、何をしていますの、あなたは」
「わ、悪かったって。……つーか俺が悪いのか?」
「当然ですわ」
「ん、まぁそうだよな」
腑に落ちない部分を感じつつ、納得する俺。
何だろう……すごく嫌な予感がする。
教室に戻ると、そこからなし崩し的な感じで嵐に巻き込まれてしまうような、そんな予感。
しかし戻らなくてはならない。九条と仲よく遅刻なんて、そんな不名誉はごめんだ。
俺たちは屋上をドアを開け、屋上をあとにした。
このあとに待つ、地獄のような数時間を、この時の俺たちはまだ知らなかった。
続く。続くったら続く。
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