第10話 桜木玲と心霊スポットの恐怖

それは、とある蒸し暑い夏の夜のことだった。

 俺は自室で一人、ごろごろとしていた。

 時刻はそろそろ八時になろうかという時間。突然、スマホけたたましい音とともに着信を知らせてきた。

 完全に油断していた俺はびくっと肩を震わせ、スマホの方を見やる。

 誰からだろう? 着信画面を見る前から、そんな予想を立ててしまう。

 まだ夏休みもそろそろ佳境だ。本来なら、半分以上……せめて三分の二程度は終っていないといけない。

 けれど、俺は今だ、夏休みの宿題に手をつけてすらいなかった。

 きっと、宿題はやったのかー、という担任からの連絡に違いない。なぜか俺、桜木とつきあい出してから教師陣から嫌われている節があるからな。

 俺はおそるおそる着信画面を見た。そして、ホッと胸を撫で下ろした。

 なぜなら、連絡を寄越してきたのは担任教師でもなければ親でもない。

 誰あろう、俺の最愛の恋人である桜木玲からだったのだ。

 俺は一転して気分が高揚していくのを感じながら、電話に出た。

 こんな時間に、一体なんのようなんだろうなー?

「もしもし、俺だ」

『健斗? ごめんね、こんな時間に』

「いや、大丈夫だ。気にすんな。それで、どうしたんだ?」

『んーと、今から出れる?』

「出れ……え?」

『ちょっと行きたいところがあるんだ。つきあってくれない?』

「…………そろそろ八時になるが?」

『そこは大丈夫。ちゃんと言い訳してくるから』

 あ、そう。なら大丈夫……なのか?

「ま、まぁ桜木が大丈夫なら、俺も大丈夫だけど」

『ほんと! よかったぁ!』

 電話の向こうでホッと胸を撫で下ろす桜木を簡単に想像できる。

 うーん、かわいい。

「それで、待ち合わせはどこにする?」

『えー、それじゃあ西駅でいいかな?』

「……西駅って……もしかして電車で移動するのか?」

『ううん。でもそこが一番いい感じだし』

 いい感じ、とはどういい感じ何だ桜木よ。

 まぁいいや。俺は桜木と会えるならどこでも。

「ん、わかった。じゃああとで西駅でな」

『うん、またね!』

 嬉しそうに言って、桜木が電話を切った。

 な、何だったんだろうか? ……って、悩んでる暇はない。急いで準備しないと。

 俺はすぐさま部屋着から何とか外へ出れる格好に着替えて、財布と携帯をポケットに突っ込む。夜の外出なんてそう遠くへは行かないだろうから、これくらいで十分だろう。

 俺はだんだんだん、と階段を下り、玄関へと向かう。

 母親から文句が飛んでくるが構うものか。

 俺は玄関の戸を開けて「こんな時間にどこ行くの!」と声を荒げてくる母さんを無視して外へと出た。

 蒸し暑い夜だった。

 こんな日は、冷房の利いた部屋でゆっくりしていたいと思うような。

 

 

                      ◆

 

 

 西駅へと辿り着いた。桜木はまだ到着していないようで、俺は携帯を取り出して時刻を確認する。

 八時十分前。

 まだかなまだかな、と桜木を待つ。

 すると、前方から見知った顔が走ってくる。

 無論、桜木だ。

「ごめんなさい。ちょっと色々こじれちゃって」

「こじれたって……」

「お父さんが本当にしつこくって」

「へー、おまえの親父さん、帰ってたんだ」

 確か今、南米あたりにいるんだってこの間桜木言っていたような気がするんだけど。

「んーん、テレビ電話的な?」

「それって報告する必要あったのか?」

「ハッ! ……そっか、何も言わずに出てくればバレることなかったのに」

 悔しそうに歯噛みする桜木。……こいつ、仮にも成績優秀者だよな?

 とはいえ、ここまで無事にこれたのなら何も問題はないだろう。帰りにはちゃんと送っていこう。

「それで、今からどこいくんだ? というか、なぜこんな時間から?」

「えーと……健斗って『グリード』って人知ってる?」

「ぐりー……いや知らねぇな。おまえの知り合いか?」

「知り合い、じゃないんだけれど、尊敬している人というか」

「尊敬!」

 ガンッ! と俺は脳髄を思い切りどつかれた気分になった。

 そ、そそそそれって桜木の、尊敬する人だよな? 尊敬、だよな? 別にその人のこと隙とかそんな恋愛感情的なあれはないよな?

「う、うう……ああ」

「ど、どうしたの健斗? 大丈夫?」

「大丈夫だ。俺は……おまえが俺以外を選んだとしても強く生きていくよ」

「え? 何を言ってるのかわからないけど、私は健斗とずっと一緒だよ?」

「さ、桜木……!」

 パアッと、視界が明るくなる。いや元から明るいけど。

「ああ、俺もずっと一緒にいたいと思ってるぜ!」

「ちょっと、止めてよこんなところで……」

 桜木は頬を染め、恥かしそうに顔を逸らした。

 けど、心なしか少し嬉しそうだ。

 俺は桜木がその『グリード』とやらに対して恋愛的な意味合いは一切ないと知り、安心した。

「それで、何なんだよその『グリード』ってのは?」

「『グリード』さんはニ○ニ○動画において人気ゲーム実況者だよ」

「ゲーム実況者……ああ、なるほど」

 それで尊敬、か。

「彼は主にホラーゲームを中心にプレイしていてね。毎回驚くタイミングやリアクションが面白いって話題になってるんだ。ランキングでも常に上位だし」

「でも、ただゲームをやってるだけなんだろ?」

「ちっちっちー、わかってないなぁ健斗は」

 桜木は人差し指を左右に振り、得意気に口の端をつり上げる。別におまえがやってるわけじゃにだろうに。けど超かわいいので許す。

「『グリード』さんのすごいところはね、暗い部屋で一人で、ゲーム実況をしているところなんだよ」

「一人で?」

「普通ホラーゲームって大体二人から三人くらいでするんだけど。恐いから。でも『グリード』さんは毎回一人。たまに画面の端に日本人形を置いてプレイするぐらい恐怖を好む人なんだよ」

「決して恐怖に耐性があるわけじゃないのか」

「そりゃあそうだよ。恐怖に耐性があったら、面白いリアクションなんて取れないから」

「ふーん……話は変わるが、おまえ夏休みの宿題って終わったか?」

「んー? 何で?」

「いや、何となく」

「終ってると思う?」

「思う。何せ桜木だからな」

「ふふ、期待を裏切るようで大変恐縮ですが、一つも終わっておりません!」

「得意気に言うことじゃねぇ!」

 いや俺も他人のこと言えねぇけど!

 俺が突然大声を張り上げたからだろう。さっき俺たちがいちゃついてた時より多くの人が、こちらを振り向く。……なんかすいません。

「だめだよ、こんな公共の場所でそんな大声だしたら」

「お、おお……なんかすまん」

 なぜか俺が怒られていた。なぜかってことはないが。

「それじゃー、早速行こう」

 桜木が俺の手に握る。一瞬どきっとしたが、もう何回も手を握ってることに気づいて、このくらいで心を乱していてはだめだと自分を戒める。

 桜木は切符を買うでもなく、ホームへ向かうでもなく。

 俺を引っ張って、駅から遠ざかって行くのだった。

「おい、桜木、マジでどこ行くか教えてくれよ」

「ふふーん、着いてからのお楽しみだよ」

 そう言って、桜木は行き先を決して教えてくれようとはしなかった。

 俺は桜木の手のぬくもりが感じられる右手に全神経のほとんどを集中しつつ、残ったリソースで頭を回転させる。

 けれど、結局のところどこへ向かっているのか。全然全くこれっぽっちもわからなかった。

 ほんと、どこ行くつもりだよ、桜木……。

 俺は一抹の不安を抱えながら、桜木の柔らかな手の感触と彼女から漂ういい匂いを堪能するのだった。……不安を紛らわせるために。

 

 

                     ◆

 

 

 歩くこと一五分程度。桜木に引っ張られて到着したのは、街の外れにある大きな橋だった。

 田神大橋。通称神橋と呼ばれるこの鉄橋は、俺や桜木が生まれる一〇数年前に完成したのだという。それ以来、ずっと他の街や県との交流を支えてきたらしい。

「……とウィキぺ○ィアに書いてあった」

「へー、そいつはすげぇな」

 俺たちが生まれる一〇数年前からこの場所にあるのか、こいつ。

「けど、おまえがここに俺を連れて来たのはそんなこと言うためじゃないだろ?」

 残念なことに、桜木がそんなことをのためにこんな夜更けに俺を連れ出したとは考えづらい。

 それは桜木が学校で『深窓の令嬢』と呼ばれるほどの優等生である、という理由からではなく。桜木の好きなもの、趣味、趣向を少なからず理解しているから、そう言えるのだ。

 事実、さっき桜木が口にした『グリード』の名前。そこから、大方の予測はできる。

 どうせまた、何かのゲームに影響されたのだろう。

「何でここなんだ? 聖地巡礼ならまた別の機会でいいだろ? 第一こんなさびれた場所……」

「全く、わかってないなー、健斗」

 桜木はまたもや、ちっちっち、と人差し指を振る。

 何だかキャラがすごくぶれている気がするのだけど、それも何かのゲームの影響か?

 まぁかわいいから別に俺としては何ら困ることはないからいいや。

「実はね、つい先日に発見しちゃったんだ」

「発見した? 何を……?」

「それはね」

 と、桜木が自分のスマホを取り出して操作する。そういや、もうあのボールをシュートしてモンスターをゲットするゲームは申していないのだろうか? どうでもいいけど。

「じゃーん」

 なんて、自前のSEを口ずさみながら、スマホの画面を見せてくる。

 そこに移っていたのは、一本のゲームソフトだった。携帯ゲーム機でやるタイプではなく『○S4』とかの家庭用ゲーム機が必要な代物だ。

 無論、俺んちにそんなものはなく。となると、それは桜木の持ち物の可能性が高い。

 もちろん、ただネットから画像を引っ張ってきただけということもあるかもしれないけど。

 どちらにせよ、俺には全くどうでもいいことだった。

 問題はなぜ、桜木がそのソフトの画像を俺に見せてきたのかということだ。

「……これがどうかしたのか?」

「実はこのゲーム、舞台は私たちの街と隣街。そしてなんとこの田神大橋なんだよ!」

「ほほう……そいつはマジですげぇな」

 まさか俺たちの暮らす街がゲームのモデルになってるなんて。全然しらなかったぜ。

「それで、それは一体どんな内容なんだ?」

「えっと、実はちょっと恐い系なんだけど……」

「恐い系? つうことは『グリード』とやらの守備範囲ってことか?」

「そうなんだ。これ、ホラーゲームなんだよ」

「ホラーゲーム……」

 俺はその画像をまじまじと見つめ、疑問に思った。

 画面に映るのは3Dモデルの男女二人。彼らは互いに見つめあっている。

 それだけならまだいい。注目すべきはその背後にいる連中だ。

 白装束の髪の長い女。スーツ姿のサラリーマンふうの誰か。どこぞの学校の制服らしき小学生っぽい女の子。

「……恐そうだな」

「ほんとに恐かったよ!」

 やったのかよ……。

 俺は呆れ半分に桜木を見下した。

「そしてそれが、この場所……か」

「そう。『グリード』さん言ってた。ちょっとこのゲームの舞台モデルとなった街は遠くていけないって。だから、私たちラッキーだよ!」

「ラッキー……なのか、それ?」

「ち、違う?」

「ああいや……」

 確かに、他人にできないことが可能な状況がある。それ自体は何の疑いようもなくラッキーなことなんだろう。

 けど、ことはホラーゲームのモデルになった場所。その聖地をタダで巡られるかどうか問う点にあるだろう。少なくとも俺は、他のことならいざ知らずホラーゲームに関してそういうふうに思えるだけの度胸がない。

 悪いな、桜木。ゲームに関することだからおまえを見習って無邪気にはしゃぎたいのは山々なんだけどな。

「それにしても……下すげぇな」

「ほんとだねぇ。ここから落ちたらひとたまりもないよ。たぶん」

 俺たちは橋から下を流れる川を覗き込んだ。

 ごうごうと唸りを上げ、河口へと流れる激流。そして突き出したたくさんの岩。

 もし今、後ろから誰かに押されでもしたら、俺は頭からあそこへ真っ逆さまだろう。

 考えただけで、身震いする。

 ……ってな感じで考えていると、ふと視界の端に妙な明るさを感じた。

 なんて言ってもほとんどろうそくの光と変わらない、頼りないものだったけど。

「……何だ、あれ?」

「な、何なんだろうね?」

 俺たちの腰のあたりでゆらゆらと揺らめく光。

 あ、あれが俗に言う霊魂の塊……人魂!

「お、おい……段々近づいて来てねぇか……!」

「き、気のせいじゃない?」

 コツ……、コツ……、コツ……、と。

 人魂が大きくなるにつれ、足音が響く。

「に、逃げた方がいいだろ、これ」

「いやいや、幽霊なんてそう簡単に出会えるものじゃ……」

 などと、俺たちが話していると、ふっと突如として光が消えた。

 何だ、ときょろきょろと周囲を見回す。が、これといったものは見つけられない。

 ――そう思い、視線を戻した。の、だ、けど……。

「あのぉ……何をされているのですか?」



「ぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!」

 

 

 俺と桜木は、それこそ跳び上がるように驚いた。

 それもそうだろう。一度は消えたかと思った光が再び点いた。かと思うと、今度は見ず知らずの子供の顔を照らし出したのだ。

 きっと、こんな夜中でなかったら。そしてホラーゲームの話なんてしていなかったら。

 ここまで驚かなかっただろうと思う。

「わわ! す、すいません、そこまで驚かれるとは……」

 腰を抜かして尻もちをつく俺たちに、その少年は謝罪してきた。

「あ、ああ……いや大丈夫だ。立てるか、桜木?」

「う、うん……」

 桜木を引っ張り起こし、再度その少年を見る。

 少年の年の頃は大体小六から中二くらいだろうか。男の子にしては小さめで、どこか頼りない。見た目の印象からいってあまり活発な子ではないんだろうな。

「……悪いな、ちと驚き過ぎた」

「いえ……僕も突然すいません」

 少年は頭の後ろに手をやり、若干気恥かしそうに笑う。

 うん、何とも気安そうな奴だ。

「ところでおまえ、こんな時間にどうしたんだ? 懐中電灯まで持って、用意は万端って感じだけど」

「えっと……何と言ったらいいんでしょう。とある人の影響を受けたといいますか」

「とある人、ですか……?」

「はい。言ってわかってもらえるかわかりませんけど、『グリード』っていう人で……」

「あっ……知ってます、その人!」

「本当ですか!」

 桜木と少年は共通の趣味を持っているらしい。その『グリード』とかいうゲーム実況者のことでおおいに盛り上がっていた。

 ……あとで俺も調べておこう。『グリード』……。

「おお! ってことはお姉さんもあのゲームを!」

「はい! と言っても、まだプレイはしてないんですけど……」

 はてさて、一体何の話で盛り上がっているんだろう?

 俺はこの上のない置いてけぼり感を喰らいつつ、スッと視線を川底の方へとやる。

 相手はたかが子供だ。子供相手に嫉妬なんて見苦しいぞ、俺。

 ごおおおおおおおお、と川底から轟音が鳴り響ている。

 そういや、そろそろ蛍が見れる時期だな。今度、どこか蛍が有名なところでも調べて桜木と一緒に行こう。

 何てことを考えていると、不意に視界の向こう側にゆらりと揺れる光を発見した。

「ん? 何だ?」

 懐中電灯……なわけがない。あそこには人が立っていられるような足場はないはずだ。なら、あれは何だ? まさか、本当に蛍というわけでもないだろうし。

 俺はこのあたりに蛍が出没しないことを知っている。なぜなら、中途半端に人の手が入っているため、川の水は全然綺麗ではないのだ。

 つまりあれは蛍ではなく、何か別のもの、ということになるのだが、はたして一体全体何なのだろう?

 俺はぐっと目を凝らし、その光を凝視する。

 色合いは赤かオレンジが近くて、右へ左へと絶え間なくゆらゆらしている。

「なぁ、おまえら」

「どうしたの、健斗?」

「あ、あれ……」

「んん? 何か浮いているようですね?」

 少年がそちらへと懐中電灯の光を向ける。

 が、俺たちは三人揃って言葉を失った。

 なぜなら、そこにいるのは蛍でも何でもなくて。

 

 ――酷く髪の長い、病的なまでに白い肌を持つ女性だったのだから。

 

「あ、ああ……ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!」

 さっき、少年と出遭った時とは比べ物にならないほど大きな、そして長い絶叫が響き渡る。

 だが、俺は耳を塞ぐことも忘れて、じっと浮遊する女性を見つめていた。

 おいで……おいで……こっちはへおいで……。

 何となくそうその女性が手招きしているような気がして、俺は無意識の内に一歩、踏み出した。

「け、健斗!」

「ハッ……!」

 桜木に肩を掴まれて、俺はやっと我に返った。

 ゆっくりと、二人を振り返る。

「お、俺は……」

「大丈夫ですか?」

 少年が心配そうに俺を覗き込んでくる。そんな少年に対して、俺は鷹揚に頷くと、額に手を添えた。

 な、何だったんだ今のは? 俺は一体何をしようとしていた?

 自分の行動を振り返り、ぞくっとした。

 あのまま手招きされるままに進めば、川底へ頭からダイブするところだったのだ。桜木が泊めてくれなかったら、おそらくは今頃命はなかっただろう。

 改めて桜木を見る。よかった、こいつと一緒で。

「ありがとう、桜木。お陰で助かった」

「そんな、お礼だなんて……」

 桜木は照れてる……んだろう。暗くてよくわかないけど。というか、さっきのがインパクトでか過ぎた。

「ハッ……さっきのは!」

「もう、いないみたいですね……」

 少年が戦慄したように呟く。

 俺と桜木も少年が手にしている懐中電灯……ライトの光の先を見てみる。

 少年の言う通り、そこには人の影らしき何かは見受けられなかった。大方、ホラーゲームの舞台になったからって、街が大掛かりな仕掛けでも仕込んで置いたのだろう。そうして、俺たちのように無邪気に遊びに来た子供やゲーマー何かを脅かそうって腹だ。そうに決まってる。いや絶対に間違いなくそうだ。……そう、だよな?

 俺は不安に駆られる心を落ち着かせるように、桜木の手を握る。

 そうそう、このかなりひんやりとした体温。そして多少固く、しかしどこかぶにぶにとした腐りかけのりんごのような肌触りがまた何とも…………お?

 ……違うぞ、これ。桜木の手じゃない。

 俺はおそるおそる、ゆっくりと、脳裏に過ぎった予想が外れていることを祈りつつ、隣の、桜木がいるはずの場所を見た。

 けど、桜木はそこにはおらず、かわりに全然知らない血塗れの女性がそこにいた。

「――――――」

 一つわかったことがある。人間はあまりに驚き過ぎると逆に声が出なくなるんだ。

 ぷつんと途切れそうになる意識をどうにか繋いで、俺はパッと血塗れの女性から手を離した。何だか、生臭い腐臭めいた臭いが鼻をつく。

 さ、桜木は……! と桜木の姿を探す。すると、例の少年と何やら会話を交わしている様子だった。きっと『グリード』とやらの話だろう。いや、そんな話はいいからこっちを見てくれよ、頼むよ!

 俺のそんな願いは空しくも二人には届かず、『おおおお』という禍々しい唸り声に思わずそちらへ目を向ける。

 ばっちりと、その女性と目が合ってしまった。

 長い髪の隙間から、どういう原理か赤く発光している瞳。口はだらしなく開けられたまま、がしっと俺の手首足首を掴む。

「な、何だぁぁ!」

 今度はヌメッとした感触に、全身の鳥肌が一斉に立った。

 女性は血塗れで満身創痍とは思えないほどの怪力で、俺の体を橋の縁まで引っ張って行く。

 やばい、このままじゃ川底に引きずり落とされる!

 そう直感した俺は、掴まれていない左足で思い切り女性の腹部を蹴り上げた。

 罪悪感とか、そういうものは確かにあった。けど、今はそんなことを言っている場合じゃねぇ! 俺の命がかかってるんだ!

 ぐにゅん、と気味の悪い手応えを感じ、女性の体が一歩二歩と後退する。その際、俺の手足から手を離してくれたので、俺はすぐさま立ち上がって桜木たちの方へと駆けていく。

「おい、二人とも! ここやべぇぞ!」

「どうしたの? 顔色悪いけど」

「どうしたもこうしたもねぇ! おまえらもさっき見ただろ! 空中を漂う血塗れの女!」

「ああうん、凄かったね。あれ、市役所の人がやったのかな?」

「たぶんそうですよ。僕らのように、聖地巡礼に訪れた人を楽しませようという粋な計らいですよ、きっと!」

 くそ、なんてポジティブな奴らだ。俺もついさっきまでそんなふうに考えていたから全く持って反論できねぇ。

 だけど、今はんなことを言ってる場合じゃなくってだな。

「早く逃げようぜ。でないとあいつが……」

「だめだよ健斗。まだまだ見たいところがたくさんあるんだから」

「そうですよ。せっかくここまで来たんだから、もっと楽しまないと」

「だから、楽しんでる場合じゃ……」

 ない! と言いかけて、俺は言葉を詰まらせた。

 理由は、単純だ。あの血塗れの女性が追い駆けて来ていなかったから。

 何だ? と不審に思ったものの、とりあえずはホッと胸を撫で下ろした。

「大丈夫、健斗?」

「あ、ああ……すまない。どうにもこういう場所は苦手らしくて」

「へー、意外ですね。てっきり『オバケなんて非科学的な存在、認められないわぁ』畑の人かと思ってました」

「どんな畑だ? カブでも植えてんのか?」

 まぁ何でもいい。一刻も早くここから立ち去れるのなら、何と言われようと構わないさ。命には代えられないからな。

「そんなことより、ほら、さっさと帰ろうぜ。ここはやばいって」

「健斗、霊感とかあったの?」

「全くねぇよ! けど、そんな俺でもやばいって思うくらいここは危険だ!」

「ははは、あれはただの演出ですよ。……本当にこういうの苦手なんですね」

 少年が無邪気に笑う。いやいや、おまえだってあれを見たら絶対そんなふうに笑ってらんねぇって。

 とにかく、今この場にいるのは非常にまずい。俺のみならず、この二人もあの変な女に殺されてしまうかもしれないからだ。そして俺の知る限りにおいて、現行法では霊は裁くことが不可能だったはずだ。つまり死んでも俺たちの無念を晴らす手段はないということだ。それどころか、あの血塗れ女のように、今度は俺たちがここを訪れた人を川底へ引っ張り込む役を担うことになるかもしれない。そして俺はそういう役回りはごめんだ。桜木はもちろん、こっちの少年だってそれは同じだろう。

 みたいな感じで言葉を尽くして二人を説得する。

 と、俺の気持ちが通じたのか、桜木と少年はやれやれと肩を竦めると小さく吐息した。

「……いいですか、お兄さん。よーく聞いて下さい」

「な、何だよ……?」

「幽霊やオバケなんて、現実にはいないんです。だから、何でもかんでも妖怪のせいにするのはよくないですよ?」

「してねぇーわ! ボケてんのかこのガキ!」

 今は幽霊のいるいないを論じてるんじゃねぇんだよ、現状ここにいるのはまずいって話だ何で伝わらねぇんだよ! これはあれか、俺が悪いのか? 夏休み前のテストで現国のテストの点数がすこぶる悪かったからか? ボキャ貧だからか、俺が。

 どうしたらいいんだよ、本当に。

 てな感じで、俺が落ち込んでいると、またもや俺の恐怖を掻き立てる出来事が起こった。

「……何だよ、この声」

「うわー……さすがに気持ち悪いね、この笑い声」

 桜木が眉根を寄せて、不快感を露わにする。

 確かに、かなり不気味な笑い声だった。

 『けけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ』と。明らかにそうと狙ったかのような、俺たちの恐怖を掻き立てるように計算された笑い声。

「凄く手が込んでますね。さすが、街の協賛」

「だから、んなこと言ってる場合じゃ――」

 と、また俺が怒鳴りそうになった時だ。

 ぴちゃりぴちゃり、と。水音を含んだ、足音のようなものが耳に届く。

「おおー! これは凄い!」

「ほんと、よくできてますね」

 桜木と少年、二人が感心していた。

 けど、今の俺は全く感心できなかった。

 なぜならそこにいたのは、一寸たりとも作り物感のない、水を滴らせた、大勢の人間の形をした何かだったからだ。

「な、何だよこれ……」

 全員、この川で死んだ連中なのだろうか?

 そんなことを思いながら、戦慄に震えているのは俺だけらしい。

 桜木たちを見やると、パチパチパチと小さく拍手までしている始末だ。どこまで純粋な奴らなんだ、おまえら。

 と、その幽霊集団が立ち止まる。ぴちゃっぴちゃっと、さっきまで俺を執拗にいたぶっていた血塗れの女が前に出る。

 あいつがリーダー各らしい。オバケの集団にリーダーなんてあったのかと、俺は内心で感心していた。あくまでそこだけな。

 リーダー各のオバケ女が何かを言っている。が、俺たちの位置からではか細過ぎて、聞き取れなかった。元より、俺たちに聞かせていたわけでもないようだが。

 後ろで控えていたその他の幽霊団員たちが一斉に雄叫びを上げる。

 が、それぞれの声の大きさや内容、そもそものタイミングが違うため、ほとんど騒音や雑音と何ら変わりのない咆哮だった。

 とはいえ、それで彼女らの士気は高まったらしい。

 ニィィ、とリーダー各のオバケ女が口の端を裂く。

 ゆっくりと、緩慢な動作で手を上げて。

 バッと、振り下ろす。それが合図だったらしい。

 オバケたちはゆらゆらと前進を開始した。そう、俺たちの元へと向かって来ているのだ。

 と言っても、その歩みは非常に遅い。

 大体の霊はこの橋から落ちて死んだ人たちなのだろう。頭が潰れて前が見えない人。足がぽっきり折れまがっている人。多少早歩きくらいはできるものの、走ったりすることができる人は全然いなかった。

 それは、リーダー各のオバケ女とて同じことだ。

 それが唯一の救いだった。

「ほら、走れ」

「で、でもこれってただの演出だよ? そんな……」

「演出じゃねぇよ! 言いから走れ!」

「わ、わかりました!」

 少年が大きく頷く。

 それを合図として、俺たちは一斉に振り返る。できる限り両足に力を込め、全力疾走を試みた。

「ほら、健斗! 健斗、走って!」

「は、走ってるって……くそ、何だおまえら……!」

「お、お兄さん凄く遅いですね」

 言い出したのは俺なのに、何だか納得がいかない。

 俺は前を走る桜木と少年にあーだこーだ言われながら、必死で霊たちから逃げ惑う。

 しかし、いつまでもそうやって逃げてなどいられないことは重々承知していた。

 奴らは幽霊。いざとなれば、瞬間移動だって何だってできるだろう。なら、俺たちが開けたこの距離だって、一瞬で詰められてしまう。そうしたら、お終いだ。

「何か手はないか、何か……」

 ぐるり、と首を巡らせて背後を返り見る。

 この状況を打破するための何かが、きっとあるはずだと信じて。

「……ん? 何だ?」

 と、俺はそ子で一つの違和感を覚えた。

 数えきれないほどの多くの霊。この場所で死んでいったであろう人々のなれの果て。

 そいつらが俺たちを追って来ている。その状況に違いはない。

 けれど、何かがおかしかった。

 何が――と考えて、ふとした事実に気づいた。

 幽霊たちはみな、俺や桜木の背後に密集していたのだ。

 少年の後ろにいるのは、一体か二体。

「何で……?」

 俺たちと少年にどこほどの違いがあるというのか。

 チラと前を走る少年を見る。けれど、特別な違いがあるようには見えなかった。

 違いといえば小柄な体躯。そして、手に持つライト……。

 手の動きに合わせてゆらゆらと揺れるそのライトへと、自然と目がいく。

 俺たちと少年の違い。それは、あのライトくらいしか思いつかなかった。

「……おい、少年!」

「はい? 何です?」

 少年が顔だけでこちらを見やる。

「そのライトちょっと寄越せ」

「はぁぁ! 嫌ですよ! これがないと家に帰れなくなっちゃうじゃないですか!」

「もしかしたら、そのライトの光があいつらの弱点かも知れないんだ!」

 そうだ。あの幽霊たちはライトを持つ少年の後ろには群がっていない。

 そして、俺たちと少年の違いはライトを持っているか否かだ。なら、その可能性に賭けてみるしかないってんだろ。

「おら、貸せって」

「ちょっ……何なんですか、もう! ビビり過ぎですよ、あんなのに!」

 手を伸ばして、ライトを催促してみる。けれど、少年は頑なにライトを俺へと渡そうとはしなかった。まぁそりゃあそうか。いきなり貸せと言われて、ホイホイと貸すような馬鹿はいない。そんな奴がいたら、そいつは間違いなく俺を担いでいるかアホかのどちらかだろう。

 もしくは、電池が切れかかっているとか。

「悪いようにはしねぇよ!」

「嘘だ、絶対に嘘だその顔は!」

 ピカッとライトの光が向けられる。うお、まぶしっ!

「馬鹿止めろ! こんなことしている場合じゃ――――」

 言いかけて、不意に全身に痛みが走った。

 ゴンッ! と鈍く重い音がして、俺が地面に倒れ伏しているのだとわかるまでに数十秒の時間を要した。

 おそらく、日頃の運動不足に加えて、少年から急にライトの光を向けられたために足をもつれさせてしまったのだろう。

 ま、まずい! そう思い、慌てて体を起こす。だが、もう遅かった。

『おおおおおお、おおおおおおおおおおおおおお』

 耳を覆いたくなるような、禍々しい怨嗟の声が空気を震わせる。

 聞いているのすら、躊躇われるような、不快な声の数々。

「くそ、ここまでか!」

 ダンッと地面を叩いた。

 俺は、ここで死ぬのか? こんな人生からドロップアウトしたような連中に引き込まれて。

 嫌だ、超嫌だ。これからの人生、俺には桜木とともに生きるという目標がある。

 あいつ一緒に楽しく過ごす。それが俺の夢だというのに、死んでしまってはそれが叶わないじゃないか! いやむしろ、桜木が悲しむだろう。笑顔も怒った顔も好きだ。困った顔も照れた顔も、大好きなアニメやゲームの話をしている時のキラキラした顔も。全部、好きだ。

 死にたくなんかない! まだ、俺は桜木と一緒に生きていたい!

 ギリッと奥歯を噛み締める。ヒリヒリと痛む傷を無視して、どうにか立ち止まった。

 その瞬間、ガッと。俺の腕が掴まれる。

 しかそそれは冷たく、ヌメッとした感触ではなく、暖かく、柔らかな感覚だった。

「……桜木! おまえ、何で戻って来た!」

「だって、健斗が転んじゃったから!」

「馬鹿かおまえ! 俺のことなんていいんだよ! さっさと……」

「よくないよ!」

 突然の大声に、びくっと肩を揺らす。ど、どうしたんだよ……?

「……健斗が一体何に怯えているのか、私にはわからないよ。けれど、だめなんだよ。わかrなくったって、どうしたって。私は健斗が不安な時、側にいたいと思うんだよ」

「桜木……」

「だって、私は健斗のことが……」

 言いかけて、桜木の言葉が止まる。

 その間、幽霊たちは末期の会話でも楽しませたかったのか、じっとその場に突っ立っていた。

 ……すげー空気読んでくれてんな。

「大丈夫。こいつらは全員、私が倒すから!」

「倒すって……どうやってだよ!」

 桜木の意味不明な台詞に俺は思わずツッコミを入れた。

 いや、倒すって言葉の意味事態はわかるんだけど、問題はその方法だ。

 一体全体、どうやってこの大量の幽霊を倒すというんだろうか。

「幽霊が相手なら、武器はあれしかないでしょ!」

「へ……?」

 言い放って、桜木が何やら大きな箱のようなものを取り出した。

「な、何だそりゃあ?」

「何って、当然射影機だけど?」

 何てことないことのように、そう言い切る桜木。しかしおまえ、射影機って。

「こ、ここはゲームじゃないんだぞ? そんなもんであいつらの魂を封じ込められるのか?」

 俺もあのゲームは一回しかやってないから、細かい設定はよく覚えてないけど。確か、写真に魂を封じて霊を倒す、って認識でよかったよな?

「大丈夫。倒せるって」

 桜木は意気揚々と射影機を構える。

 そこで、わが身の危険を感じたのかようやく、律儀に舞っていらしゃった幽霊のみなさんが再び動き始める。

 その距離、わずか数センチ。幽霊さんたちの緩慢な動きでなくては、一瞬で詰められていたほどの距離だ。

「さぁ亡者ども――大人しく眠れ」

「……おい」

 かなり恥かしい中二病的な台詞とともに、シャッター音を轟かせる桜木。

 その刹那、一番先頭にいた血塗れのオバケ女が大きく後ろへ仰け反る。

 この世のものとは思えない、奇妙な叫び声とともに倒れ伏し、消えてしまった。

「ま、マジかよ……」

「へへー、大成功」

 桜木が夜空目がけてガッツポーズをとる。

「思った通り、凄くノリのいい人たちだね。それに、消えるマジックもかなり上手だし」

「あ、ああ……そうだな」

 この期に及んで、まだこの幽霊たちがどこぞのスタッフだと思っているらしい。

 まぁいいや。この状況を打開できるのなら何だって構わない。

「……つっても、じっとしてるのは頂けないな。幸い、相手はあまり動きが早くないから、逃げながら戦おう」

「そうだね。……ふふ」

「……? どうした?」

 俺は立ち上がり、走り出す。桜木も、俺の後ろに続く。

「いやぁ……本当にあのゲームの出来事を体験しているみたいだなぁと思って」

「……ああ、そうだな」

 みたい、ではなく、現実として体験しているんだけど。言わなくていいか。

 確かあのゲーム、幽霊襲われ続けると死んじまうんだっけ? 生命力を吸い取られたりなんだったりして。

 たぶん今なら、川の中に引きずり込まれるんだろうな。そして俺はどっちもごめんだ。

 しかし、妙だな。

「この橋ってこんなに長かったか?」

「うーん……確かに」

 走れど走れど、橋の入り口に辿り着かない。

 そろそろ、見えて来ていい頃だと思うんだけどな。いくら暗いとはいえど、これはいささか以上に遠過ぎる気がする。

「確か全長が三百メートルくらいだから、そろそろ……ん?」

「どうした、桜木?」

「あの子は?」

「あの子? ……ああ、あの少年か」

 そういや、どこ行ったんだろうな。全然姿が見えねぇけど。

 キョロキョロと周囲を見回し、あの少年の姿を探す。

 けど、この暗闇のお陰で一向に見つかる気がしねぇ。歩き回るのも危ねぇし、どうしたものやら。

 と、俺たちが困り果てていると、不意にどこからか聞き覚えのある声が聞こえてきた。

「た、助けて下さーい」

「おお! ど、どこにいるんだ!」

 少年の声だった。すぐ近くから聞こえてくるが、どこにいるのか全然わからねぇ。

 くそ、仕方ねぇな。

「おい、じっとしてろよ、いいな!」

「は、はぃぃ~」

 少年の声が力なく響く。

 くそ、何だって俺がこんなことを……。

 今日、俺は桜木と夜の散歩を楽しみたかっただけなのに。その起因がホラーゲーム実況者の『グリード』なる人物だとしても、俺はこんな時間に桜木に会えるのが嬉しく思っていたってのに。どうしてこう、災難に見舞われるんだ? まさか、何かに憑かれてるんじゃないだろうな? それこそ、妖怪か物の怪の類いに。

「何考えてるかわかりませんが、妖怪のせいじゃないですよぉ……」

「おまえは自分が助かることだけ考えてろ!」

 勝手に人の心を読むんじゃねぇ! 実はおまえが一番妖怪じみてるんじゃないのか?

 俺は一先ず、桜木の手を握る。こんな暗闇だ。万が一はぐれてしまったら大変だ。

「だ、大丈夫だ桜木。俺が着いてるからな。あの少年も、俺が助けてやる」

『おおおおおおお!』

「そうだ、おまえは何も心配いらねぇからな。全部俺に任せとけ」

『おおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉ!』

「むっ……? どうした桜木? 何だかやけに声が低いような……つーかさっきから唸り声しか発してねぇだろ? いい加減おまえの綺麗な声が聞きたいぜ」

『むおおおおおおおおおおおおおおおお!』

「うーん……それに、何だか手の感触もヌメッとして、正直気持ち悪い……ってうおお!」

 自分が握っていたものの正体に気づいて、思わず手を離す。

 それは桜木の柔らかくて暖かなくて小さな手ではなく、さっきから俺たちを脅かしてばかりの血塗れオバケ女の手だった。

 な、何つーもん触らせやがんだ、こいつ!

 洋服の裾で必死に手を拭く俺。くそ、くそ! こんな奴の手を握っちまった!

「ど、どうしたの健斗! 急に大声なんて出したらびっくりするよ!」

「わ、悪い桜木……つーかおまえ、いまどこに……?」

「わ、私は橋の縁にいるよ」

「だ、大丈夫か!」

「な、何とか……でもちょっぴり恐いから早く来てくれると嬉しい……なんて」

「わかったすぐ行くじっとしてろ!」

「ちょっと待って下さい、僕はどうなるんですか!」

 少年のことは後回しだ。

 まずは桜木の安全を確保する。つーかオバケ女から少しでも距離を取りたかった。

 というか何で、こいつは俺ばかりを狙うんだ? 他にも少年やら桜木やら、狙う相手ならいるだろうに。……ま、桜木にちょっかい出そうとするんだったら俺が容赦しないけどな。

「桜木は……いた!」

「ひゃっ! ちょっ……健斗、どこ触って……!」

「へ? どこって……どこだろう?」

 橋の縁まで辿り着き、手を伸ばす。すると、何やらフニッとしてやーらかい感触が俺の手の平に伝わってくる。これは何だろう、と疑問に思い、二、三度揉みしだく。

 かなり柔らかい。それでいて弾力があって、張りがあって。僅かに暖かな人の体温が感じられる。これは、桜木の体の一部と見て間違いないだろう。

 けど、どこだ? 肩? 二の腕? お腹? 足……はさすがにまずか。

 なんて、俺が今触れている部位を推察しようとしていると、ゴンッ! と突如謎の衝撃が俺のあごを捉えた。

「うごぉぉ!」

「いつまで触ってるの! 変態! えっち!」

「な、なぜぇ……」

 俺はじんじんと痛むあごをさすりながら、必死で頭を働かせる。

 桜木のこの反応……そして先ほどの手触り、感触、弾力。ハッ! ま、まさか……!

「まさかおっぶべばぁ!」

 今度は俺の大事なムスコに鋭い衝撃が! 何者かの手によって、危害を加えられたらしい。

 そのあまりの痛みに、俺はただのたうち回ることしかできなかった。

「わ、わざわざ口にしなくていいよ!」

「わ、悪い桜木……でも今のはちょっとやり過ぎじゃ……」

「こ、こんなところじゃ恥ずかしいもん……別の機会に……ね?」

「お、おお…わかった、から」

 たぶん今、桜木はどこぞのゲームヒロインのように、かわいらしいポーズと仕草をとっているはずだ。くそ、これは昼間なら、桜木の赤らめた顔とセットで別の意味で悶えられるのに!

 俺は悔しいやら痛いやらで、最早自分の感情がよくわからなくなっていた。つい、少年やオバケ女たちのことを忘れてしまっている始末だ。

「いちゃついてないでさっさと助けて下さーい!」

 少年の悲痛な叫びが木霊する。もう限界が近いのだろう。何かの。

 俺はよろよろと立ち上がり、再びあたりに視線を巡らせる。

 が、やはり視界に横たわるのはどこまでも続く闇。明かりは少年が持っているし、さて一体どうしたものだろう。

 なんて考えていると、背後でピカッと明かりが灯った。

 何事だ、と振り返る。すると、少し顔を赤くした桜木が、唇を尖らせ視線を逸らしつつ、俺に一台のスマホを差し出してくる。

「……こういう時のために懐中電灯アプリを入れておいたの。使って」

「おお、すげぇ! こういうのもあるのか!」

 初めて知ったぜ! さすが現代の技術だ。そろそろタケコ●ターくらい作れるんじゃね?

「……っと、現代テクノロジーに関心している場合じゃねぇ」

 俺は桜木からスマホを受け取ると、その光を使って周囲を照らす。

 オバケ女の姿は……見当たらねぇ。さすがはオバケ。神出鬼没という奴か。

 何だか妙に感心してしまった。

「いや、そんなことよりあいつだ」

 俺は今度こそ桜木の手をぎゅっと握り、桜木から借りたスマホの明かりで周囲を照らす。

 くそ、本当にどこにいんだよ……ったく。

 苛立ちが募る。早く見つけてやらねぇと取り返しのつかないことになるぞ。

「……オバケ女のことも気がかりだしな」

「大丈夫だよ、そっちは任せて!」

 桜木がぐっと力強く拳を握る。

 何やら強気で非常に頼もしいのだが、一体なぜそんなに自信満々なのか。

「これでやっつけるから!」

「ああ……それね」

 桜木が取り出したのは、さっきも使った射影気だ。

 一体、どこのゲームからの知識なんだか。

「あの人達、これで写真撮ったら怯んだから、きっとまたノッてくれるよ」

「あ、ああ……そうだといいな」

 今だにあれを何かのアトラクションのスタッフだと思っているらしい。ま、そっちの方が下手に騒がれるよりマシか。

「じゃ、よろしく頼むぜ、先生」

「任せて」

 ドンッと胸を叩く素振りをする桜木。実際は射影気を持っているため、叩けないけど。

 しかし、桜木の奴あんな物どこから仕入れてきたんだ?

 俺は足下に警戒しつつ少年を探しながら、どうしてもそのことが気かかった。

 ついには根負けして、桜木に訊ねる。

「な、なぁ桜木、それって……?」

「ん? ああ、これ?」

 桜木が確認のため射影気を持ち上げる。俺は何度も頷いた。

「これはね……ちょっと言えない方法で手に入れたんだ」

「そ、そうか……」

 言えない方法ってなんだ! すげぇこえーよ! 何だったらオバケよりそっちがこえーよ、普通に! 

 俺が内心で泡を喰っていると、またどこかから『おおおお』という唸り声が聞こえてくる。

 俺はびくっと肩を揺らし、桜木が射影機構える。

 ……こいつ、この状況楽しんでねぇか? 心なしか表情も生き生きしてるし。

「へへ、まだ近くに敵が潜んでいるみたいだね」

「そうみたいだな。……何となくおまえから借りたゲームのシチュエーションに似てるな」

「んー? ああ、そだね。あれは射影機じゃなくてバキュームだったけど」

「そうだったか? 典型的な掃除機だった気がするが」

「それは別のゲームだよ。まだまだだね、健斗は」

「そいつは悪かったな」

 ふふん、と得意気に鼻を鳴らす桜木。俺はそんな恋人を微笑ましく眺めながら、ぐるりとスマホを一周させる。

「……こ、これで大体見て回ったよな?」

「う、うん……あの子、どこに行ったんだろう?」

「さっきまで声は聞こえてたんだが……」

「も、もう完全に聞こえなくなっちゃったね」

「そうだな……」

 本当に、どうしたというのだろう?

 俺と桜木は不安に駆られ、顔を見合わせる。

 けど、最早どうすることもできない。このままあの少年を置き去りにして帰ったのでは夢見が悪いし、何より翌日ニュースにでもなったら大変だ。

 やはり、今この場で発見するしかないだろうな。

「な、何かいい案あるか? 桜木」

「……古典的な方法だけど、一つだけ」

「な、何だ? 言ってみてくれ」

「スマホのライトで橋の縁を照らして」

「こうか?」

 俺は桜木に言われた通り、橋の縁をライトで照らす。が、人の姿はおろか、影すらも見当たらなかった。

「そして、少しずつ移動する」

「い、移動……」

 なるほど、桜木の意図はわかった。

 橋の上のどこにも、少年は見当たらなかった。なら、橋の縁に捕まっている可能性が高いと踏んだんだろう。

 なぜそんなことになっているのか、深くは考えるまい。今はとにかく、少年の救出を最優勢に動かないと。

 俺はスマホのライトをかざして、じりじりと縁に寄る。また、妙な邪魔が入らないかと周囲を見回し、オバケ集団の影がないことにホッとした。

 オバケなのに影がないことにホッとするとは。中々に変な気分だ。

「い、いないな……」

「そう、みたいだね」

 手の平に桜木の感触を感じ、どうにか平穏を保つ俺。……なんか、女の子に支えられなきゃ人一人探せないって結構情けない奴なんじゃないか、俺?

「さ、桜木、暗いから足下気をつけろよ」

「大丈夫だよ。健斗が一緒だから」

 ぎゅぅっと、桜木が俺の手を握る力を強めてくる。

 俺は反対に、表情が綻ぶのを自覚した。そんな場合じゃねぇのに。

「とにかく、もうちょっと行ってみようぜ」

「うん」

 桜木の同意を得て、ますます気力を漲らせる。

 絶対に、少年を見つけないと。

 俺が改めてそう決意すると、ふとどこからか、さっきまで聞こえてきていた呻き声が響いた。

 自然、どきどきと心臓が鼓動が早くなる。

「だ、大丈夫だからな、桜木」

「うん、何も不安に思ってないよ」

「そ、そうか……そいつはよかった」

 そうか、桜木は何も不安に思っていないのか。

 招待不明の唸り声を聞いて、血塗れのオバケ集団に襲われて、果ては少年の姿が見えなくなってしまった。

 この状況下においても桜木は何も不安に思っていないらしい。

 それは俺への信頼の証なのか、それとも……、

「あれって……あの子じゃない?」

「え? ……本当だ」

 と、俺が勝手に悪い方向へと想像を膨らませかけたところで、桜木が少年の姿を発見する。

 俺もそちらへと視線をやり、ギョッとした。

 なぜなら、少年は桜木の予想通りに橋の縁に捕まって今にも落っこちそうになっているからだ。かろうじて両手で橋の欄干を掴んではいるものの、ちょっとしたきっかけがあればすぐにでも真っ逆さまに転落してしまいそうになっていた。

「うお! まぶしっ!」

「わ、悪い……」

 ライトの光を浴び、少年が眉間に皺を寄せて目を細める。

 俺は慌ててスマホのライトを明後日の方角へ向けると、すぐさま少年のもとへと駆け寄った。

「大丈夫か!」

「こ、この状況が大丈夫に見えますか……」

「いや、かなり苦しそうな体勢だな。待ってろ、今引き上げてやる」

 桜木にスマホを渡し、俺は少年の腕を掴んだ。

 その瞬間、少年はわずかに安心したのか、欄干を掴んでいた手から力が抜ける。

 すると、少年の体は重力に従い、下を流れる川の中へと引き込まれそうになった。

 俺は反射的に腕に力を入れる。すると、普段全くと言っていいほど使わない筋肉が突然の二体労働にビキッ! と悲鳴を上げた。

 けど、そんなことに気を取られている場合じゃない。今ここで手を離せば、少年の命はない。

 俺は全神経を腕へと集中させる。

 できうる限りの全力を持って、少年を引き上げようと試みた。

 が、そんな俺の努力も空しく、少年の体は一ミリとて上がらない。

 むしろ、重さが増しているような、そんな印象だ。

「ぐぐ……おまえ、見た目の割に重いんだな」

「………………」

「でも安心しろ、いくら何でもガキ一人の体重を支えられねぇなんてことはねぇから」

「………………」

「おい、聞いてんのか?」

 額に汗を滲ませ、息も絶え絶えにちょっと強めに言ってみる。

 しかし、少年は一向に俺の言葉に反応を示そうとはしない。

 ただ青ざめた顔で、パクパクと口を動かしている。

「ど、どうしたんだ?」

「……あ、あうぅ」

「だから、どうしたんだよ! わからねぇよ!」

 俺はいつまで経っても引き上げられないことにいらいらして、思わず叫んだ。

 だが、少年の顔色は顔ざめたままだ。何か、様子がおかしい。

「……ぼ、僕の足に……」

「ああ? 何だって?」

「僕の足に、変な感触が……!」

「変な感触?」

 俺は思わず眉根を寄せた。

 少年は今にも泣きそうに、目の端に涙をため、必死になって訴えてくる。

「本当なんです! 何かこう、ヌメッとしてて! それが僕の足に……!」

「ヌメッとしてってそりゃ……」

 間違いない、オバケ女のことだ。

「桜木! ちょっとこいつの足下照らしてくれ!」

「う、うん、わかった」

 桜木が俺の隣に来て、スマホのライトで少年の足下を照らす。

「……お、おおぅ」

 この状況はさすがに異常だと思ったのか、桜木も口元を押さえ、苦い顔になった。

「あのー、いくら何でもやり過ぎですよ?」

「いやいや、そんなこと言ってる場合か! おまえ、射影機はどうした?」

「へ? 今撮るの? ……止めといた方がいいんじゃないかなぁ」

 桜木が渋面を作りつつ、荷物の中を漁る。

 ごそごそと猫型ロボットよろしく、射影機を探していた。

「さ、桜木……何なんだその荷物は?」

「お、女の子には色々と必要なんだよ。それより、あったよ」

 どこか得意そうに射影機を示してくる桜木。

 その満面の笑みは非常にかわいいことこの上ないのだが、今はその笑顔を呑気に鑑賞している暇はない。

「そいつであいつを写すんだ」

「何言ってんの、健斗? さすがにこの状態であのノリのよさを発揮したりしないって」

 まだあいつらをただのサーカス集団だと思っているらしい。

 確かに、本当に何の変哲もないサーカスなら、この状況下で自らを危険に晒すようなことはしないだろう。けど、あいつは違う。あいつはサーカス団団長じゃなくて、間違いなくここで自殺した幽霊だ。

 もう確信したぞ、俺は。ここで死んだ連中が、この場を訪れた人々をあの世に引きずり込んでいるんだ。

 そして今、俺や桜木やあの少年が狙われている。

「た、頼む桜木!」

「む―……別に私はいいんだけど」

 俺が真剣に拝み倒すと、桜木は若干頬を赤らめて俺から視線を外した。

 どうしたんだ? じゃなくて、今は少年に集中しろ。

「……どうしてそう、健斗って真剣な表情が様になってるのかな」

「はい? 何ですか!」

「何でもないよ。じゃあはい、チーズ」

 カシャッと、シャッター音が鳴る。

 どうか利いていてくれ、と心の中で念じつつ、オバケ女のいた場所に目を向ける。

 すると、オバケ女は微かな悲鳴とともに、少年から手を離して川底へと落ちて行った。

 同時に、腕にかかっていた重さがなくなり、戸惑いながらも一気に少年を引き上げる。

「……た、助かったぁ」

 少年は地面にへたり込み、肩を激しく上下させている。

 俺も、全身に冷や汗やら何やらを掻いてべとべとだ。

「……ったく、何であんたところにいたんだ」

 俺は少年を軽く睨みつけながら、訊ねた。

「いやぁ、何だか凄く危ない気配を感じたので逃げようとしたのですけど」

「ほう? 一人だけでか?」

「……ええ、まぁ」

「いい度胸だな」

 ゴキッと指を鳴らす。

 少年は怯えたように、がくがくがくがくがく、と震え始めた。

「ま、待って下さい! 暴力反対!」

「そうだよ、健斗! 気持ちはわかるけど……」

「わかっちゃうんですか!」

 がーん、と少年が大口を開けて残念がる。

 桜木が止めてくるので、俺は渋々拳を解いた。ま、人を殴ったことなんてないし、これで正解だったのかもな。

「それで、お二人に背中を向けて家に帰ろうとしました。ことが起こったのはその時です」

「な、何が起こったの?」

「……突然足首を掴まれて、ずるずると引きずられてしまいました。何とか橋の縁に捕まったんですけど、ずっと離してくれなくて、凄く恐かったです」

 そりゃあ恐いだろうよ。いきなり足首を掴まれて、川底に引きずり込まれようとしたんだからな。恐がらない方がおかしい。

「そいつはまだ俺たちのことを狙ってる」

「ひっ……! は、早くここから逃げましょう!」

「そうしたいのは山々だが、下手に動けばおまえみたいになりかねない。……つーかおまえ、ライトはどうした?」

「え? あっ……さっきのドタバタで落としちゃったみたいです」

 少年は右手を見つめて、不安そうに呟いた。

 俺は一瞬の逡巡のあと、ふぅと嘆息する。

「しょうがねぇな」

「え? まさかライトを貸してくれるんですか?」

「悪いが俺はろくな装備を持って来てない。だから当然、ライトの類いはない」

「……そうですか」

 目に見えて肩を落とす少年。

 落胆するのはいいが、それはこの場を無事乗り切ってからにしてもらいたいな。

「本当なら今頃、俺たちは二人きりの夜の散歩を楽しんでる時間帯だったんだぜ?」

「はぁ……そういえばお二人は恋人さんなんですか?」

「へへ、そうなるのかな?」

 桜木が照れたように顔を赤くした。

 何だか、こっちまで恥かしくなってくるな、その反応。

 俺は小さく咳払いをすると、恥かしさを紛らわすために周囲へとライトを向ける。

「さて、どうするかな」

 オバケ女の出現には何か規則性のようなものがある、なんて話ならまだ簡単だったかもしれない。でも、実際奴が現れるのに何かルールのようなものがあるとは到底思えなかった。

 オバケ女が姿を見せるのは、完全にランダム制だ。誰を襲い、誰を仲間に引きずり込むか。それは百パーセント奴の裁量にかかってると言ってもいい。

 そんな事態を覆すためには、あのオバケ女の猛攻をくぐり抜けなくてはならない。

 幸い、桜木の持つ射影機は奴には有効だ。……完全に桜木はこの事態をお遊びだと捉えているようだが、まぁ変に騒がれるよりはいいだろう。

 しかし、射影機は一台しかなく、加えて俺たちは三人。

 仮に桜木を先頭にして奴を警戒いたとしても、背後から襲われる危険性が十分にある。

 くそ、何かいい方法はないだろうか……?

「それじゃ、そろそろ帰ろっか」

「な、何言ってんだ桜木? どうやって帰る気なんだよ?」

「普通に帰るに決まってるよ。健斗こそどうしたの?」

「どうしたって……」

 きょとんとした様子で首を傾げる桜木。

 え? だって、ねぇ?

「いい、健斗。今私たちが体験しているのはただのアトラクション。だから、帰ろうと思えばすぐに帰れるの」

「……へー」

 ことここに至り、まだこれを催しものとして認識しているらしい。

 いや、さすがにねぇだろ。少年なんて危うく殺されちまうところだったんだぜ?

「さ、桜木……それはさすがに無理があるんじゃ……?」

「そうですよ、僕なんて落ちそうになって……」

「それは、ちゃんと落ちないようになってたんじゃない?」

「桜木も見たはずだ。幽霊が俺たちの前に現れて、色々と面倒なことをしてたのを」

「うん、そうだね」

 何てことないように、桜木が頷いた。

 俺と少年は困惑して、互いに顔を見合わせる。

 何を言っているんだ、桜木? いや、そういうポンコツなところもかわいいけど、今はそんな場合じゃないんだ。

 そう言おうと思って、口を開きかける。

「おい、桜木」

「それじゃあ、ちゃっちゃと帰ろう」

 桜木は俺たちに背を向けると、来た方向へと足を踏み出した。

 俺と少年は慌てて桜木のあとを追う。

 道中、少年が小声で訊ねてくる。

「……あのお姉さん、学校でも成績悪いでしょう?」

「い、いやぁ……学年上位の超秀才なんだけどなぁ」

「嘘でしょう? だったら何で、あの状況でまだアトラクションだって言えるんですか? ありえないですよ、僕殺されかかったのに」

「俺が知るかよ」

「恋人でしょう、お二人は」

「恋人だったらパートナーの全てを知ってると思うなよ」

「し、知らないものなんですか!」

 少年は驚いたというように、目を見開いた。

 全く、これだから誰かと交際したことのないガキは。……まぁ俺も桜木が初めての人だけど。

 しかし、このまま本当のことを言って、少年の夢を壊していいものだろうか。

 俺は少年から視線を逸らし、唸った。

「……どうしたの、二人とも? さっきからこそこそして」

「な、何でもねぇよ、桜木」

「そうですよ、何でもありません」

 俺と少年がわたわたと手を振って、桜木を誤魔化す。

 桜木はじとっと何やら疑り深い目をしていたが、特別なことは何も見い出せなかったらしい、すぐにまた、前を向いた。

 それを受け、俺たちはまたこそこそ話を再開する。

「何だよ? おまえ的には恋人同志ってのはお互いの全てを知り尽くしてるものなのか?」

「はい……いえ、僕自身誰かとおつきあいしたことはありませんので、確定的なことは言えませんけど。でも、きっとそうだろうなぁと漠然と思っていたので」

「ん、まぁそうだよな。ホラーゲームばっかやってたらなぁ」

「今、ホラーゲームをバカにしましたね?」

 少年の声音がわずかに低くなる。怒ったのだろうか。

 バカにしたつもりはない。しかし、あまりホラーゲームにばかり傾倒するのもよくないだろうと思っていることは事実だ。

 そのことを伝えるべきか迷っていると、不意に桜木の動きが止まる気配がした。

 俺は顔を上げ、桜木を見る。少年も同じように、視線を前に向けたようだ。

「どうしたんだよ、桜木?」

「……健斗、あれ」

 桜木は真っ直ぐ、目の前を指差す。

 俺は桜木の隣まで小走りに駆け寄ると、それを視界に納め、愕然とした。

 ――――そこに、例の血塗れオバケ女がいたからだ。

「ええい、しつこい奴だな、本当に!」

 俺はいらいらして、思わず声を荒げた。

「桜木、射影機」

「わかってるよ!」

 桜木はすぐさま射影機を構えると、カシャカシャと連続でシャッターを切る。

 オバケ女は怯み、後退した。

「よし、いいぞ!」

 この波状攻撃にあのオバケ女は耐えられない。

 なおも連続でシャッターを押す桜木を横に、いけいけと拳を突き立てる俺。

 ……なんか、すげぇ情けねぇ奴になってないか?

 いや、そんなことは考えるまい。何せあのオバケ女に対抗できる武器を持っているのは、桜木だけなのだから。

 俺は桜木の応援を続けた。桜木も、オバケ女を打倒すべくシャッターを切り続ける。

 と、突然にシャッター音が途絶えた。

「な、何だぁ!」

 俺が驚いて隣を見ると、桜木も困ったように射影機をいじくり回していた。

「ど、どうしたんだよ?」

「だめ、フィルムが切れちゃったみたい」

 てへっ☆ と自分の照れ隠しに自分で自分の頭を小突く桜木。

 う~ん、かわいい。そんな場合じゃないけどな。

「どうすんだよ、早くフィルムを変えないと……ああ、オバケ女がこっちに歩いてくるぅぅぅぅ!」

「替えのフィルムなんて持って来てないよ。第一、これは単に雰囲気作りのために持って来ただけだし」

「雰囲気作りって……」

 なんじゃそりゃ! と心の中で絶句する。

 確かに、言われてみればそうだ。不審者や野生動物に対する警戒と対策はいくらでもするだろう。けど、こんなふうにマジモンのオバケに襲われるなんて一体誰が予想できるというんだ。

「とにかく、何か手を考えないと! 頼みの綱の射影機は使えなくなっちまったし」

「わかってるよー。とはいえ、使えそうなものはないねぇ。眠くなってきたし」

「寝るなよ? 寝たら死ぬぞ」

 ふぁぁ、と小さく口を開けて欠伸をする桜木。

 だから、んな呑気なこと言ってる場合じゃねぇって。

「おいおまえ、何かいいアイデアは……」

「あの……その射影機のレンズをスマホのカメラのレンズの上に重ねてみてはどうですか?」

 少年がおずおずといった様子でそう提案してくる。

 俺はその意味するところがわからず、思わず渋面を作った。

「ああ、なるほど!」

 けど、桜木には少年が何を言いたいのかわかったらしく、ポンと手を打つ。

「ちょっと待ってて」

 桜木が足下で何やらがちゃがちゃと作業を開始する。

 な、何が始まるんだ、一体……?

 俺と少年が見守る中、桜木は数分かけ、ようやく射影機からレンズを取り外した。

 そして、そのレンズを荷物の中にあったガムテープで貼りつける。

「これでよし」

 桜木は満足そうに頷くと、射影機のレンズの着いたスマホをかざす。

 かなり不格好なそれを、桜木はスッとオバケ女の方へと向ける。

『おお? おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!』

 身の危険を感じたのか、オバケ女はさっきまでの緩慢な動きを捨て、全速力で走ってきた。

「ぎゃあああああああああ! 何だよあいつ走れんのかよ!」

 完全に手足は動かしているのに、全く足音がしない。その感覚を不気味に思いつつ、オバケ女から目を逸らすことができなかった俺。

「……これで、終わりだよ」

 桜木が呟き、シャッターを押す。

 カシャッとシャッター音が響き、そして。

 そして、オバケ女の動きが止まった。 

『ぐっ……ぐぅおおおおあああああ! きぃええええええええええ!』

 およそ元人間のものとは思えない悲鳴が木霊する。

 俺と少年は恐怖にがくがくと震え、地面にへたり込んだ。

 そんな最中、桜木だけが悠然と俺たちの前に立っている。

「おー、すごーい。まるでゲームみたい」

 はしゃいだようにそう言って高笑いを始める桜木。

 無事に生き残ったからだろうか。それともゲームのような体験をしたからだろうか。

 どちらにしても、桜木にとっては最後までただのアトラクションだったらしい。

「ん? どうしたの二人とも? ほら、立って」

 桜木が振り返り、俺たちに手を差し出してくる。

 俺は遠慮なくその手を握り、立ち上がった。

 が、少年は桜木の手を借りることなく、自力で立ち上がる。

「はぁ……全体的に死ぬかと思った」

「僕なんて危うく殺されかかりましたけどね」

「何言ってるの、二人とも? 本当に死ぬわけないでしょ」

 白い歯を覗かせ、桜木が快活に言う。

 俺と少年は顔を見合わせ、苦笑した。

「ああ、そうだな」

 桜木にとって、これはゲームだ。ただのゲーム。

 ゲームの中だったら、死ぬことはないだろう。

「今回の話をニ○ニ○動画で実況したら、再生数伸びるんじゃないか?」

「『自演乙』とか『はいはいワロス』とかって言われてお終いだよ。はー、それにしても楽しかったねぇ」

 桜木がンーッと伸びをする。

 楽しかった、か。そいつはよかったな。

 俺はもう二度と、こんな命がけのゲームには参加したくないけどな。

 こんな、くそなホラーゲームには。

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