第8話 桜木玲と画面の向こうの嫁

「ぎゃああああああああああああああああああああああああッッ!」

 某月某日。深夜二時十八分三十六秒。

 誰のものとも知れない叫び声で、俺は慌てて目を覚ました。

「な、なんだ!」

 どたん! と何かが倒れる音がして、俺はベッドから跳ね起きて部屋から出た。

 音は、妹の部屋の方から聞こえてきた。

 俺はすぐさま一階へと降りて、妹の部屋の扉をノックする。

「おい、大丈夫か! 何があったんだ!」

 何度かノックを繰り返す。だが返事はなく、俺はもしやと最悪の事態を想起した。

 日頃からまったくと言っていいほど体を動かさないで部屋に籠り切りの妹のことだ。何か妙な病気に侵されていて、ついにその病が発症したのではないだろうか!

 一瞬にしてそんな考えが脳裏を過ぎり、床に倒れて泡を吹いてぴくぴくと痙攣する妹の姿を連想する。

「おい! さっさとここを開けろ!」

 どんどんどん! と乱暴に扉を叩く。しかし、一向に中から開く気配はなかった。

 何度となく扉を叩く。が、妹からの応答はなく、抱いた悪いイメージは次第に膨らんでいくばかりだった。

「く、くそ……!」

 俺は舌打ちすると、ドアノブをがちゃがちゃと乱暴に回し始めた。

  こんな時までプライバシーがどうのなんて言ってる場合じゃねぇ!

「入るぞ!」

 押し戸ではなく引き戸だったことを思い出し、中に入る。

 そして、視界に飛び込んできた光景に思わず絶句した。

「な、何だ……こりゃあ?」

 そこには尻をこちらへと向け、床に伏して頭を抱えてカタカタと震える一人の少女の姿があった。

 ……つーか、俺の妹だった。

「……何してんだ、おまえ?」

「あ、あにき……? どうしてここに?」

 妹は一瞬びくっと肩を揺らしたものの、声をかけたのが俺だとわかるとすぐに振り返った。

 心底不思議そうな目を向けられて、俺は何だかさっきまで慌てていた自分が途端にばからしくなる。

「どうしてって……おまえが大きな声を出すから」

「……ご、ごめんなさい」

「ああいや、何事もなかったならいいんだ」

 妹は俺から視線を外す。それから、椅子に手を突いてよろよろと立ち上がる。

 俺は妹に近寄り、立ち上がるのを手伝った。

「どうしたんだよ? 何があったんだ?」

「……あにきには関わりのないことだよ。だから、もうお休み」

「何言ってんだ、そんな訳にいくか!」

「あ、あにき……」

「普段は大声どころか蚊の羽音すら出ているかどうかわからないくらいの声しか出さないおまえがあんなに大きな声を出したんだ、きっとよほどのことがあったに違いない!」

「……あにきがあたしのことをどう思ってるのかよく理解したよ」

 妹がじとっとした目で俺を睨みつけてくる。だからどうしたということもないが。

 俺はそれを軽く無視して、妹の断末魔のような叫び声について言及する。

「だからどうしたんだってんだ? 俺はふつーに兄貴としておまえを心配しているんだ!」

「……うん、わかったよ。ちゃんと話すよ、あたしの身に何があったのかを……」

 妹は椅子へと座り直し、スッと顔を上げた。

 六つあるモニタの内の一つを鬱々とした瞳で見つめる。

「……そう、あれはとても凄惨な出来事だった」

 そうして語り出した妹の声は、この上ない憎しみに彩られていた。

 

 

                ◆

 

 

 翌日……違うな、同日だ。同日の午前十一時五八分。

 俺はリビングで見るとはなしにテレビを見ながら、大きな欠伸を一つ溢した。

「ふああ……完全に寝不足だ」

 昨日……いや今日か。今日の早朝午前二時。俺は大慌てで妹の部屋へと押し入った。

 なぜなら、普段は羽虫の方が幾分か大きな音を出すであろう妹が、あろうことか家中に響き渡るほどの大声を上げたからだ。

 そして妹は事情を話した。……俺にとってすっごくどうでもいい話を。

「……まさかゲーム原作のアニメで主人公とくっついたのが原作のどのキャラクターでもなくてアニメオリジナルキャラだったとはな……」

 まあだからと言ってそれで夜中に絶叫を上げてひっくり返るなんざ、俺にはまったく理解できねぇ話なんだけどな。

 しかもそのあと、約二時間に渡って延々とその作品に対する愚痴……もとい批評を聞かされるハメになるとは思わなかった。

 あー……心配して損した。

 俺はテレビを消し、ごろんとソファに寝転んだ。すると、猛烈な眠気が俺を襲う。

 寝よう。もう無理だ。

 目を閉じ、完全にスリープモードへと移行する。

「おやす……」

 み、と口にしようとしたところで、ブーブーと携帯のバイブ音がけたたましく鳴り出した。

 ポケットから携帯を取り出し、発信者を見やる。どうでもいい奴からだったら無視して狸寝入りを決め込もうと思ってた。

 だがしかし、画面に表示された名前を見て俺はすぐさま携帯を耳もとへと持っていく。

 誰あろう、俺の恋人、マイスイート桜木玲からだった。

「ど、どうした桜木?」

『あ、健斗? 今って大丈夫?』

「ああ、大丈夫だ。それよりなんの用なんだ?」

『用ってほどのことじゃないんだけど……今から健斗の家に行っていい?』

「えーと……それって」

 桜木が俺んちに来る! うおー! 何だろうこの妙な胸の高鳴りは!

 これまでにも何度か桜木が俺んちに遊びに来たことはあった。けど、そのどれもが突発的かつ事故的かつ俺のせいということもあって、いまいち素直に喜べないものばかりだった。

 しかしだ! 今回は違う! 桜木がわざわざ事前に連絡をくれたのだ!

 俺は高鳴る心臓を無理矢理黙らせ、動揺が表に出ないよう苦慮しながら応じる。

「お、おう……問題ない。なんなら迎えに行こうか?」

『ううん、大丈夫。道は完璧に覚えてるから』

「そうか、わかった」

 完璧に、という部分が少々引っかかったが、とりあえずその場はそれで電話を切った。

「こうしちゃいられねぇ!」

 俺はベッドから起き上がると、急いで自分の部屋へと戻った。

 ぐちゃぐちゃに散らかった部屋を見て、うっと息を飲む。

「くそう、この程度じゃあへこたれねぇ!」

 とにかく、今は急いで片さねぇと!

 漫画や勉強道具なんかは適当に追い入れに押し込み、桜木から借りたゲームは机の上に丁寧に置いていく。

 そうやってどうにか見た目は綺麗になったように見えるようになった頃、またしても携帯が震える。

「今度は誰だ?」

 見ると、九条からだった。

「どうした! 今俺忙しいんだけど!」

『ちょっとお尋ねしますが、今からお宅へ伺ってもよろしいでしょうか?』

「は? いやだめに決まってるだろ」

 これから桜木が来るってのに。そうでなくとも、彼女持ちの男の家に女が来るって何かと問題があると思うんだが。

 しかしそんな俺の心配など知らぬといった様子で、九条が若干落ち込んだような声で謝ってくる。

『そう……ですわね。すみません、変なこと言って』

「え? ああ、いや……わかってくれたのなら……」

『ええ、わかっていますわ。わたくしごときの稚拙な悩みなどより桜木さんとの逢引の方が遥かに大切ですものね』

「変な言い方すんなよ……どうしたんだ? 今じゃだめなのか? 話しくらいなら聞くぞ?」

『だめですわ! わたくしのようなものの下賤な戯言など聞かず、どうぞ桜木さんとよろしくやってくださいまし!』

「面倒臭ぇ奴だなおまえ!」

 ああもう、どうしろってんだ!

「いいから話てみろって。それで楽になれっかもしれねぇだろ?」

『……では本日、お宅へ伺いますわ』

「え? あ、おいそれはまず――」

 ……通話、切られちまった。

 俺は無機質な電子音を響かせる携帯電話を睨みつけ、ベッドへと叩きつけた。

 くそ、なんなんだ今日のあいつは!

 俺はいらいらしつつも、仕方なく掃除を再開した。

 

 

              ◆

 

 

 かくして、桜木と九条。二人が俺の玄関先でバッタリと顔を合わせるという最悪の帰結を迎えることとなったのだが……、

「どうしても納得いかないの」

「同意見ですわ、桜木さん」

「そうそう、あの展開はありえないですよね」

 今現在、俺の部屋には三人の女子がいた。

 一人は何を隠そう、俺の恋人たる桜木。

 もう一人は俺と桜木の共通の友人でありオタ友でもある九条。

 最後に俺の妹といった顔ぶれである。

「それで、おまえらは一体何の話をしているんだ?」

 ぐるん、と全員が一斉に振り返り、ぎらぎらと血走った目を俺に向けてくる。

 うお! 止めろ恐ぇだろうが。

「……健斗は昨夜、何時頃まで起きてた?」

「へ? えーと、十二時ちょっと過ぎくらいに寝ちまったかな」

「なら、知るはずもないですわね」

「です」

 九条の言葉に頷く桜木と妹。

 ああ? 一体何だってんだ?

 俺がこの三人の異様な雰囲気に圧倒されていると、桜木がゆらりと立ち上がった。

「先日、ゲームを貸したよね?」

「ああ、そうだったな。確か『真剣で私に恋してよ!』だったか。複数人の武闘派ヒロインの中から一人を攻略していくっていう……」

「そう。それ、シリーズ累計で三百万本は売れてる人気エロゲなんだけど」

「……だったな」

ヒロイン一人クリアしたあとにそういう展開になってどぎまぎした記憶がある。

 これが彼女から借りたゲームでなければ何ら問題はなかったのだが、如何せん桜木所有のゲームでそういうシーンが流れたことに俺は少なからず気まずさのようなものを覚えたのだった。

「そのアニメ版のテレビ放送がついに最終回を迎えたのです……!」

 なぜか敬語で力強く拳を握り力んだ様子でそう口にする桜木の表情は……凄ぇ悔しそうだった。……なぜだ?

 チラリと桜木の背後を見れば、九条と妹も似たり寄ったりな顔をしていた。

 そのゲームに一体何があったというのか? 別に気になりはしないけど。

「アニメではオリジナルキャラクターとしてヒロインが一人追加されたんですけど、そのヒロインと主人公が先日、大団円のハッピーエンドを迎えましたキエーッ!」

「おおう! 大丈夫か桜木?」

 錯乱したように体を逸らせて金切り声を上げる桜木。

 九条や妹に至っても、キャラ崩壊すら辞さない様子で泣き喚き始めた。

 涙を流し、奇声を上げ、床に転がって身悶えする。

 そんな痛々しい様相を呈し始めた部屋の主たる俺は、はてどうしたらこの事態を納められるのだろうと頭を悩ませる。

 そうして、おそらくは混乱していたのだろう。つい余計なことを口走ってしまっていた。

「でも、ハッピーエンドならよかったんじゃないか?」

「「「よくぬぁぁぁい!」」」

「ひぃぃぃ! ごめんなさいぃぃ!」

 鬼が島の鬼もかくやという形相で睨み据えてくる三人。

 俺は背中を丸め、頭を抱えて蹲ることしかできなかった。

「どうして……どうして私の嫁たる照代があんな目に……」

「陽子……あの純真無垢で愛らしい陽子があんな奴にぃぃ……」

「高貴で気高きセーラの魅力に気づけないとは……アニメ版主人公のなんと愚かなことか……」

 三者三様に嘆き悲しむ姿はそれぞれに違っていたが、いずれにせよ俺にはまったく理解のおよばない次元の話なのでここでは何も言わないでおく。

 つーか余計なこと言ったらマジで殺されるだろ、これ。

「……俺、何か飲み物取ってくるわ」

 とにかくこの混沌としたフィールドから離れたくて、俺はそう言い訳を残して部屋を出たのだった。

 

 

               ◆

 

 

「……ふぅ」

 キッチンで四人分の麦茶をコップに注ぎ、お盆の上へと乗せる。

 その作業は十秒とかからず終ってしまった。そして、この飲み物の注がれたお盆を持ってまた俺の部屋へと戻らなくてはならないのかと思うと思わずため息が漏れた。

 それと同時に、顔が綻ぶのも自覚する。

「……やっぱ凄ぇな、あいつら」

 たかがゲーム、たかがアニメ。俺のような一般人からすれば、そのくらいの認識だ。どれほど感情移入したって所詮はただの作り物で、取り繕いようのないフィクションなのだから、あんなふうに嘆き悲しんだところで無益としか言いようがない。

「それを、あんなふうに悔しがれるんだもんな」

 俺には真似できない。

 もしかすると、俺なんかよりよほど人生を謳歌してんだろうなって思う。

 別に羨ましいなんて思っちゃいないが。

 それでも、俺があんなふうに何かに一生懸命になれるかって言うと……正直全然想像できない。

「なんか凹むなぁ……」

 俺はもう一度ため息を点いた。そのまま、お盆を持って二階へと上がる。

 扉を開けると、その向こうには相変わらず無益な言い争いを続けるオタク女子三人衆の姿が。

「だからね、私も昔から知ってる人の中から選ばれるのならまだ納得できると思うの! それをいきなりあの女が……!」

「わたくしだってそうですわ! あんなポッと出の尻軽にとられるくらいならまだ彼女たちの中から選ばれたほうが幾分もいいですわよ!」

「あたしもそう思います。呪いますよ、あの女……!」

 うーん……やっぱ羨ましくねぇや。こんな連中。

 今の会話だけを事情を知らない人が聞いたらなんだと思うだろうか?

 そんな妄想をしつつ、俺は三人に声をかけながら部屋へと入った。

「ずいぶんとヒートアップしてるみたいだな」

「そりゃ頭に血も昇りますわ! あんなくそ展開無効ですわよ無効!」

 ダンダンッと床を叩く九条。

 いや、仮にもお嬢さまがそんな言葉使いはどうかと思うが。

 九条の意見に同調するように、桜木が地団駄を踏む。実際は手でだけど。

「そう、その通りだよ九条さん! どうしてあんな女がいいの……」

 そう言って泣き出す桜木。

えーと、俺は一体どうしたらいいの?

「ええ、その通りです。……まあ一番かわいいのは陽子ですけどね」

 そしてそこへ参戦する妹。

 九条が納得いかないというふうに妹へと反論する。

「聞き捨てなりませんわね、その台詞」

「いくら妹さんとはいえ、今の一言にはかちんときたよ」

 バチバチバチ、と火花を散らす三人。

 ……話について行けん。

 俺は机にお盆を置いて、再び部屋から出た。

 それから一階のリビングへと降り、ソファに腰かける。

「ああ、もう……何なんだよあいつら」

 他人んちにまで押しかけて来て、一体何をするのかと思えばアニメ談義だもんな。

 せっかく桜木が遊びに来てくれたってのに、これじゃあ前回の二の舞だ。

「どうにかして二人っきりになれねぇかな……」

 ごろんと体を倒し、寝転ぶ。

 そうして何かが変わるわけでもないだろうが、最早限界が近い。

 このまま眠ってしまって、起きた頃にはあいつらのアニメ談義も終了していることだろう。

 そんな願望を抱き、俺はゆっくりと目を閉じた。

 

 

                ◆

 

 

 体を揺すられて目を覚ます。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。

 俺が上体を起こすと、まず目に飛び込んできたのはかわいらしく唇を尖らせた桜木だった。

「おお、どうしたんだ、桜木?」

「どうしたじゃないよ、いきなりいなくなるんだもん」

「いきなりじゃないだろ。それにあの手の話になると俺にはもうついていけないし」

 もうちょっとライトな感じの話題なら何とかなるんだけどな。キャラクターへの愛がどうの嫁がどうのって話になると途端に俺の存在は場違いになる。

「……何か悪いな」

「ううん。私もちょっと考えが足りなかったなって思ってる」

 散々アニメ版『真剣で私に恋してよ!』についての愚痴を言い合ったのだろう。

 今の桜木は多少すっきりしたように見える。

「そうなんだ。ところでどんなアニメだったんだ、それ?」

「大体はゲーム通りなんだけど、アニメ最終話付近でアニメオリジナルのストーリーが追加されてて……って、この間ゲーム貸したよね?」

「あー……」

 ああうん、借りてた借りてた。

「まさか、まだやってないって言うんじゃないよね?」

「ま、まさか……ちょっとど忘れしただけだって」

 そう、うっかりしていただけだ。断じて桜木から借りたゲームに指一本触れていないというわけじゃない。

「具体的に言うとヒロイン一人クリアしてそれで満足してそれからずっと手をつけてないなんてことはないから安心してくれ」

 だからそんな牛でも殺せそうな目で見るのは止めてくれ。

 俺は桜木の顔をまともに見ることができなくて、だらだらと冷や汗を流しながら顔を逸らしすしかなかった。

「ふーん? ならいいけど。ということはまだ全ヒロインクリアはしてないんだよね?」

「あ、ああ……実はそうなんだ。悪いな。今月中には返すよ」

 そして桜木とその『真剣で私に恋してよ!』について語り合おう。

 その時は桜木、どんな顔してくれるだろうか? きっとすごく喜んで、いっぱい喋って暮れることは間違いないだろう。

 俺は無邪気にゲームのことを語る桜木を想像して、思わず頬を緩ませる。

 それが桜木にとってはかなり気味の悪いことだったらしく、若干引きつったような顔で体も引き気味に俺から距離を取っていた。

「ど、どうしたの健斗?」

「いやいや、別にどうもしねぇよ。ただちょっと……」

 と、言い訳でもしようと口を開きかけたところで俺はふととあることに気づいた。

「……なあ、九条は?」

「ああ、九条さんなら帰ったよ? なんでも習い事があるとかで」

「ふーん」

「ちなみに華道だって」

「へー」

 さすがはお金持ちのご令嬢。習い事にも妙な品があるな。

「何? 九条さんがどうかした?

「どうもしねぇよ。ちょっと気になっただけだ。妹は?」

「私が健斗のところへ行くって言ったら『じゃああとはよろしくお願いします』って言って自分の部屋に戻っちゃった」

「そ、そうなんだ……」

 と、ということは今、俺は桜木と二人きりということになる。

 マジか何だこれ最高か!

 そんな俺の心情を知ってか知らずか、桜木がかくんと小首を傾げている。

 ああ、その何気ない仕草一つ一つが愛おしいぜ。

「んで、妹さんからノートパソコン借りてきたよ」

「ん? えーと、なぜ?」

「んー? えっとねー」

 桜木が勿体ぶるようにして腰をくねくねさせている。

 ああもう、なんだこの野郎……かわいいじゃなねぇか。

「じゃーん、健斗の部屋から持って来たよー」

 そう言って桜木が俺の前に突き出してきたのは、件のPCゲーム『真剣で私に恋してよ!』だった。

「えーと、何でそれが? 机の引き出しにしまっておいたはずなのに……?」

「私の頭脳を甘く見ないことだね。健斗のことなら何でもわかる自信があるよ」

 ふふん、と胸を張って得意顔になる桜木。

 え? 何? さらっと恐いこと言ってノートPC広げないでください桜木さん!

 戦慄する俺を置いて、桜木がゲームのディスクをPCへと呑み込ませる。

「ではいざインストール!」

 インストール画面へと移行し待つことおよそ五分。

 正常にインストールされ、ゲームが起動。『真剣で私に恋してよ!』のタイトルロゴがどーんと派手に表示される。

「まず最初は主人公の名前を決めるんだよ。ここは石宮健斗でいいよね?」

「ちょ、待って! いくらなんでもそれは……」

「はい決定」

 俺が止める間もなく、桜木が目にも止まらなない速さでタイピングしていく。

 その結果、画面には『石宮健人』の文字が。

「ど、どうして……待ってって言ったじゃん……」

「えー、ちゃんと『健斗』じゃなくて『健人』にしてるでしょー?」

「いや、そういう問題じゃなくて……」

 このゲーム、確かネットで調べた時は今話題の超泣けるエロゲという評価だったはずだ。

 恋人と自分ちでエロゲをプレイする男。

 字面だけ見たらかなりやべぇだろ、これ。

「何をそんなに焦ってるのか知らないけど、とりあえずスタート」

「くっ……仕方ねぇ。こうなりゃ腹をくくるしかねぇみてぇだな」

 俺は不退の覚悟で居住いを正し、ノートPCへと向き直る。

「まず、どのヒロインを攻略しようか決めないとね。私としてはやっぱり照代がおすすめかな。ヒロインの中で最強を誇る美少女。されどその強さの内側に秘められた寂しがり屋で臆病という本心を持つ彼女は、やっぱりヒロイン中でも断トツで萌えると思うんだよこれが!」

「お、おお……そうなのか?」

「うん、そうだよ」

 太陽のような眩しい笑顔でそう言ってくる桜木。

 そういや、さっきも照代は嫁、みたいなこと言ってたもんな。

 女子なのに嫁がいるってどういうことなんだ……? なんて最初は思ったりもしたもんだが、それが自分が一番好きなキャラクターを示す意味だと知った時は何だか妙に納得したのも覚えている。

 ちなみにストーリーは主人公の『健人』と含む他のメンバーがヒロインの『照代』の通う学校に後輩として入学したところから始まる。

「お、最初の分岐点まできたね。ここで選択支を間違えるとまったく違うヒロインのところにいくかバッドエンドまっしぐらだから気をつけてね」

「わかった。つってもどっち選べばいいのかわらんねぇよな、これ」

「まー最初だし、ほとんどチュートリアルみたいなものだからね。そんなに深く考えなくてもいいよ」

「ふーん……じゃあこっちの『みんなで一緒に帰る』を選択してみっか」

 マウスを動かして、二つある選択支の内の下の方をクリックする。

 ちなみにもう片方は『一人で部活の見学に行く』だった。

「おおー、いい感じだね」

「そ、そうか……わかんねぇけど」

 けどまあ、そう言われて悪い気がするわけがねぇ。

 よし、この調子でどんどん進めて行こう。

 俺は画面下に表示されているテキストをテキトーに読み飛ばしつつ、それなりの速さでゲームを進めていく。

「第二の選択支だね。チュートリアルはここまでだよ」

「へー」

 自宅のリビングで主人公の『健人』がくつろいでいると、携帯から着信音が鳴り響く。そして同時に二階の『健斗』の部屋からパリーン! と窓硝子の割れる音がした。

 そして現れる二つの選択肢に俺は首を傾げた。

 一、電話に出る。

 二、二階へと様子を見に行く。

「……何だこれ?」

「ああ、これって結構重要な選択肢だから。間違えたらバッドエンド直行だから」

「待てこれチュートリアルじゃなかったのか?」

「違うよ? チュートリアルみたいなものだよ」

 ああ、つまりはチュートリアルなんてないということか。

 全ての選択支は本編の進行と密接にリンクしているというわけだ。

「何つー初心者に不親切な設計だ」

 エロゲをまったくと言っていいほど嗜まない俺にとって、これほどわかりにくい進行もない。

 ともかく、今は選択支を選ぼう。さて、どちらにするのが正解か。

「なぁ桜木、これってどっちが……」

「あ、それは自分で考えて。じゃないと意味ないし」

「……ああそう」

 意味がないってどういうことなんだろうか。

 俺は桜木の言動に困惑しつつも、マウスを握り直して二つの選択肢を睨みつける。

 片や電話、片や窓硝子が割れる音。……なんかどっちを選んでも地獄へと続きそうなんだけど。

「……いいや、ここは触らぬ神に祟りなしで電話に出よう」

「ちょっと待ったぁぁ!」

「ど、どうした、桜木?」

 桜木が今までに見たことないくらいの剣幕で俺が操作するマウスの動きを止めてくる。当然、桜木の柔らかな手の感触なんて楽しんでる暇はなく、俺はびくびくしながら桜木の次の言葉を待った。

「健斗、今何しようとしてた?」

「……いや、電話がきたから出ようと」

「普通、窓硝子が割れた音がしたんだからそっちに行かない?」

「あーと、何つーか、電話に出ねぇとまずいかと思って」

「うん、確かにまずい。そっちは陽子ちゃんのルートへ入る選択肢だから、陽子ちゃんを攻略しようとしてるならそっちを選択しないとまずいことになる。けど、今は違うでしょ!」

「ええ! ち、違うのか?」

「違うの! 今は『照代』なの!」

「お、おお……そうか」

 桜木ほどこの作品に対する熱意やキャラクターへの愛なんてものを持ち合せていなかった俺は桜木の凄まじい剣幕に押され、ついに選択支二を選らんでしまった。

「……何だこの惨状は?」

 二階の『健人』の部屋の光景を見て、俺は思わず絶句してしまった。

 なぜならそこはおおよそ人間の住まうような部屋ではなく、それこそ廃墟や廃屋と言っても過言ではないくらいの荒れ果てた様相を呈していたからだ。

 俺は思わず画面から視線を外し、桜木を振り返った。

「これ、『照代』が窓から入って暴れ回ったあとなんだよね」

 などとどこか得意そうに解説してくる。

 が、俺としてはその『照代』の行動に戦慄しか覚えなかった。

 なぜなら、いきなり他人の部屋に窓から侵入し、あまつさえぐちゃぐちゃに散らかしていく女なんてそりゃそうだろう。

 どんな鬼のようなキャラデザなのだろうと『照代』の容姿を想像して恐怖に打ち震えていると、俺と同じ心境に達していたらしい『健人』が震える声で目の前の惨状への悲嘆を漏らす。

 と、突然視界が暗くなった。かと思えば、聞き心地のいい綺麗な声が俺と『健人』の耳に届く。

『だーれだ』

 主人公に声はないが、ヒロインには声優が着いているのはこの手のゲームじゃよくあることらしい。のでこの辺はあまり気に留めないでおこう。

 それより問題は『照代』の楽しげな声の方だ。

 他人の部屋をここまで大胆に汚しておいて、謝罪の一つもない上にこの態度はないだろう。

 『照代』の神経を疑うぜ、全く。

 俺が呆れていると、そのシーンは選択支すらなく進んでいった。

 主人公は声の主があっさりと『照代』だと見破り、やれやれといった様子で硝子の散乱した自室に対する文句を述べる。……何だこいつ、キリストかブッダの末裔か?

 ここでようやく『照代』の立ち絵が出てくる。

 『照代』の見た目は鬼や悪魔とは程遠い美少女で、スタイルもよくてボンキュッボンという形容がぴったりくるほど、艶めかしい体つきをしていた。

 しかし大人びた外見とは裏腹に、小学生男子ようなかなりやんちゃな性格らしい。

 いややんちゃってレベルじゃないだろ、これ……、

「次の選択支だね」

「えーと、何々……『照代』を許すか許さないかってところか」

 普通なら許さないだろう。これほどの仕打ちを受けてそれでもなお許そうという奴がいるのなら、きっとそいつは生来のアホに違いない。それか聖人の二択だろう。

 俺は迷わず許さない方を選ぼうとした。しかしまた、桜木から待ったがかかる。

「健斗、よーく考えて。ここで許さないを押したら『照代』とはこれきりだよ」

「いや、でも他人の部屋の窓を割るような奴は恋人にはできねぇって」

「いーじゃんこれはゲームだよ! 何を本気になってるの!」

「普段ゲームする時めちゃくちゃ本気でやってる桜木に言われたくねぇ」

 しかし桜木の言うことも一理ある。

 これはあくまでゲームだ。だから現実では起こり得ないようなことが起こるし、ありえないような展開にもなる。

 そして、実際ではまずないような心理的な動きがあったとしても何ら不思議はない。その理屈はわかる。けど、これを許せるような心理ってどんなだよ……、

「とりあえず許す方を押してみて」

「………………」

 桜木に言われるがまま、許す方の選択肢をクリックする。

 すると、主人公側のテキストが流れ、窓をぶち破って入って来たのはこれが初めてじゃない的なことを言い出した。

『やー、毎度毎度悪いなー』

「ほんとに悪いと思ってんのかよ、こいつ……」

 俺は『照代』のまったく反省してなさそうな顔を見て、少し呆れてしまう。

「それが『照代』の性格だからね。細かいことは気にしない」

「気にしなさ過ぎるだろ『照代』」

 そして何気にスルーしていたが『健人』の部屋は二階にある。

 ……こいつ、どうやって登って来たんだ……?

 俺はそこに一抹の疑問を覚えながらも、それを口にすることなくゲームを進めていくのだった。

 

               ◆

 

 

『まったく、頭はいいくせに昔っから考えなしなとこあるよな、健人は』

 そういいつつも、どこか嬉しそうに『健人』へと手を差し伸べる『照代』。

 『健人』は素直にその手を握り、立ち上がる。

『ホント、あたしがついててやらないとだめなんだから』

 言葉とは反対に『照代』の態度は嬉しそうだ。

 昔と何ら変わった様子のない幼なじみに、ホッとしているのだろう。

 少し前、『照代』は不良に絡まれていた。その不良を守ろうと『健人』は『照代』と不良の間に割って入ったが、結局のところ不良からボコボコにされてしまう。

 まぁその不良は最終的に『照代』によって三途の川を垣間見る結果となってしまったのだが。

『……なぁ、覚えてるか? この場所』

 『照代』が空を仰ぎ、過去を懐かしむように目を細める。

 『健人』も同じように頭上を見上げ、こくんと頷いた。

『あの頃はよかったなぁ……何も考えず、ただただ馬鹿なことばっかりやって』

 今でも大して変わらないだろう、と『健人』が突っ込みを入れる。

 『照代』は一瞬だけ不満そうだったが、すぐにもとの穏やかな口調に戻る。

『そうだなぁ……今でも昔とそさほど変わらない。ただ一つ、おまえがあたしたちを遠ざけるようになったこと以外は』

 太陽が雲間に隠れ、少しだけ視界が暗くなる。

 『照代』が『健人』を睨むでもなく、悲しむような視線を送ってくるのが『健人』にはかなり堪えているらしい。

『どうしたんだよ、おまえ? 昔はあんなに一緒に遊んだだろ?』

 『照代』が問うも『健人』は答えない。

 ただ黙って姉のように慕っていた年上の少女から視線を逸らすことしかできなかった。

『……何とか言えよ』

 『健人』が口を開こうとして、しかし言葉に詰まってしまう。

 結局何も言えないでいると、焦れたのか『照代』が彼に背中を向けた。

『そうか。あたしたちとはもう遊べないか。もう……仲間じゃないってのか』

 そのまま走り出す。

 あの先は森になっていた。子供の頃、『健人』と『照代』、そして『照代』の妹の『陽子』人三人でよく遊んでいた森だ。

 だから、あの森で迷うことはないだろう。ましてやあの『照代』だ。例え熊が出たって素手で十分倒せる実力を持っている。

 何も心配はいらない。

 『健人』は振り返り、自宅への途に着いた。

 まるで、その場から逃げるように。

 

 

「……えーと」

「どう? いい感じに盛り上がってきたでしょ?」

「どうって……」

 ここまで『照代』の暴力的な面々を見せつけられてからの突然のこれだ。

 一見するとギャグ路線のゲームかと思いつつ、実際のところはシリアスだったなんて。

 とんだどんでん返しだ。

「……なんか喧嘩しちまったけど、ここから二人は仲直りできんの?」

「うん、大丈夫。じゃないとエンディングまで辿りつかないし」

「まぁそうだけど」

 しかし何でこの主人公は幼なじみの二人と遊ばなくなったんだ? 普通なら、多少の壁はできるだろうが疎遠になる、なんてことはなさそうだけど。

 幼なじみなんて生まれてこの年までいたことないからわからん。

「じゃあ進めるよー」

「あ、ああ」

 桜木に促され、俺はマウスをクリックした。

 シーンは移って次の日の朝。『健人』が目を覚ますところから再開される。

「……まだ昨日のことを引きずってるみたいだな」

「だね。まー、仕方ないね」

 仕方ない。……ま、仕方ないな。あれだけ言われちゃあな。

「それにしてもこいつ、中々ふてぇ奴だな。ヒロインを森に置き去りだぜ?」

「その点に関しては問題ないよ。モノローグでもあったでしょ? 熊さえ素手で倒せる女の子なんだよ『照代』ちゃんって」

「……そんなアホな」

 まぁゲームだし、多少現実離れしたところがあってもいいとは思うけど。

 しかし熊さえ倒せるって……やり過ぎだろう。

「まぁまぁ。ゲームなんだからそんな難しく考えないで。ほら、次の選択支だよ」

「わかったよ……なになに」

 二時限目が終了した休み時間。『健人』はあの後『照代』がちゃんと家に帰ったかどうかが気になるらしい。別のクラスにいる同い年で『照代』の妹の『陽子』の下へ行くか否かの二多久が表示された。

「ここは……当然行く、だな」

「まー普通そう思うよね」

「なんだよ? 違うってのか?」

「ううん、正解だよ。ここで行かないって選択支を選ばない理由がないって話」

「だよなー」

 つーわけで『陽子』の下へ行く方を選択し、隣のクラスへと移動する『健人』。

『何? お姉ちゃんはどうしてるかって?』

 『陽子』の鎮痛な表情が『健人』の胸を抉る。

 彼女の姉を想う健気な心情を想像して、俺も胸の奥が痛くなった。

『昨日、熊を一頭持って帰って来たんだけど、どうにも機嫌が悪かったのよ……』

 あっ……本当に熊倒したんだ。

 俺は『照代』の戦闘力の高さに戦慄した。

 と、俺が『陽子』の言葉に唖然としていると、更に陽子の口からとんでもない一言が飛び出した。

『お姉ちゃん、熊を持って帰って来たはいいものの、自分は食べずに部屋に引き籠っちゃったの……どうしたんだろ。心配だわ』

 どうやら『陽子』はまだ昨日の『健人』と『照代』との間で起こったやりとりを知らないらしい。

『健人は何か知ってる?』

 どうするべきだろう。

 同じ〝けんと〟の名前を持つ者同士、妙にこいつに感情移入してしまう。

 今の状況なら、まだ『陽子』に事実を告げるべきではないだろう。けれども、いずれはきちんといわなくてはならない。いつまでもうやむやのままではいられないのだ。

 なんて勝手に悶々と考えていると、再び選択支が浮かび上がる。

 一、昨日の『照代』とのやりとりを話す。

 二、この場は誤魔化して教室へ戻る。

 俺はマウスを操作し、二つ目の選択肢へとカーソルを合わせた。

 そして、クリックし……、

「待って!」

 ようとして、桜木が俺の動きを止めた。

 俺は咄嗟にそちらを見やった。

「このまま逃げても何にもならないよ。ちゃんと向き合わなくちゃ」

「つってもよ、今この状態で何か言っても逆効果なんじゃ……」

 『照代』に言ったことは全て、そのまま『陽子』にも当て嵌まる。

 つまり、いずれは姉と同じように『陽子』とも別れなくてはならない日が来るということだ。

「……だからこそだよ。だからこそ三人はちゃんと話合わなくちゃならない。例え一時、離れ離れになるのだとしても、今逃げちゃだめなんだよ!」

「そんなの……」

 わかっている。そんなこと。

 俺は『健人』じゃあない。だから、奴の全てを理解してやれるなんて思っていない。

 でも、これだけはわかる。『健人』はこの状況でんなことすらわからないような、そんな最低男じゃねぇってことは。

「……でも、だからって辛過ぎるだろ。こんなの……」

 俺は再び画面を睨み据えた。

 そこに移る、不安げな『陽子』の瞳をじっと見つめる。

「大丈夫。『健人』なら大丈夫だよ」

 桜木の声に熱が籠る。

 それでも、俺はまだ心配だった。

 今ここで全部を離してしまったとして、果たして三人は元の幼なじみに戻れるのか。

 おそらくは不可能だろう。収まるべき元の鞘は、木端微塵に砕けてしまうだろう。

 けれどもなお、言葉にしなくてはならないと桜木は言う。

「俺は……」

「ああもう、じれったい!」

「や、止めろー!」

 俺の静止を振り切って、桜木が俺からマウスを奪う。

 そしてそのままカチリ、とクリックする。

「……ああ」

 絶望感が押し寄せてくる。

 このあとの三人の展開を考えると心臓が握りつぶされそうに痛い。

 固く目を瞑る。

「大丈夫だよ」

 桜木の力強い言葉を、しかし今の俺は信じることができなかった。

「目を開けて。しっかりとよく見て」

「でも、でもよぉ……」

 俺にはこのあとの展開を見守るだけの勇気が……、

『そうなんだ。……話してくれてありがとう、健人』

「え……?」

 聞こえてきたのは『陽子』の優しい声。

「ど、どういうことだ……?」

「簡単だよ。『陽子』ちゃんは『健人』の気持ちをしっかりとわかってくれた。理解してくれた。それだけのこと」

「……それじゃあ」

「そう……彼女にはわかっていたんだよ。ずっと同じままじゃいられないって」

 男も女も、年を重ねるごとに変化する。

 心も体も。彼らにできることは、その変化を受け入れ、そして前へと進むことのみだった。

「……『陽子』ちゃんはもう昔の泣虫な『陽子』ちゃんじゃない。少しずつ、大人に近づいていくんだよ」

「あ、ああ……そうだな」

 そうだ。人は成長する。それは確かに寂しさや悲しさを抱かせるものなのだろう。

 だが、決してそればかりではないことも、また多くある。

「こうして、こいつらは一歩一歩大人になっていくんだろうな」

「うん、そうだよきっと」

 画面の向こうには寂しさを押し殺し、気丈に笑う『陽子』の姿があった。

「私ね、『陽子』ちゃんのことが大好きって言った妹さんの気持ち、わかるんだ」

「……マジで?」

「うん。彼女はとても頑張り屋で、友達思いで家族思いで。でも決して誰にも弱い部分は見せずに一人で何とかしようとする不器用なところもあるんだ」

「そいつはすごいな」

「そうなんだ。すっごくかっこいいって思う」

 確かにそうだ。『陽子』みたいな奴が現実にいたら、きっと世界はもっと違っていただろう。

「……さあ、そろそろ終盤だよ」

 『陽子』とのイベントを終え、画面が暗転する。

 喧嘩別れのようになったままの『照代』と話をつけにいかなくてはならない。

 熊をも倒せる彼女との対話は、それはそれは骨が折れそうだ。

 

 

              ◆

 

 

「結構面白いな、これ」

「でしょー、せっかく貸してあげてたのになんでやらなかったのー?」

 ぷくーっと桜木が頬を膨らませる。

「ははは、悪い。ちょっと忙しくてな」

「だめー、もっと誠意を込めて謝ってくださーい」

「えーと……申し訳ありません?」

「そしたら何かすることない?」

「何かって……」

 桜木が頬を風船のようにしたまま、少しだけ唇を突き出してくる。

 こ、これはまさか……、

「い、いや……妹もいるし」

「はやくー」

 聞いていらっしゃらない。

 俺は妹の部屋の方をちらりと見てから、どうしようか悩んだ。

 で、出てくる気配はない……よな?

「し……仕方ねぇな」

 俺は明らかに渋々といった体をしつつ、内心ではどきどきしながら桜木に顔を近づけた。

 目を閉じ、唇を触れ合わせる。

 ぷるんとした桜木の感触が心地よくて、脳みそが溶けてしまいそうになる。

 ボーッとしてきた。止め時がわからない。

「……ん」

 桜木の吐息が聞こえてくる。余計に頭に血が回らなくなる。

 と、突然がちゃっと扉の開く音が聞こえて、俺たちは顔を離した。

「どう、桜木さん? あにきちゃんとやってる?」

「う、うん、大丈夫だよ!」

 ひょいとリビングに顔を出す妹。

 おそらく悪気なんてなかったのだろう。けれど、桜木とのスイートタイムを邪魔されて俺は多少ムッとしてしまっていた。

「なんで部屋から出て来た?」

「何? だめなの?」

「やー、だめっていうか……タイミングがなぁ」

「ん? 何言ってんの?」

「……まぁいいや。俺、何か飲み物買ってくる」

「あ、じゃあ私も」

「いいって。桜木は座ってろよ」

 俺に続いて立ちあがろうとする桜木を制して、俺は手近にあった財布を手に取る。

「何がいい?」

「あたしコーラ」

「おまえには聞いてねぇ。桜木は?」

「え、えーと、じゃあ私もコーラで」

「オッケー」

 二人からの注文を受け賜わり、俺は玄関の扉を開けて外へ出た。

「……うわぁ、もうこんな時間か」

 太陽が山間に沈みかけ、桜木たちがうちを訪れてから何時間も経っていることがよくわかる。

「早いとこクリアして桜木帰さねぇとな」

 そう心に決めつつ、俺はコンビニへと向かうのだった。

 

 

                ◆

 

 

「おやおや、こんなところで会うとは奇遇ですわね」

「……何してんだよ、九条」

 最寄りのコンビニでばったり九条と出くわした。

 最初に気づいて声をかけてきたのは九条だったが、コンビニと九条というあまりにミスマッチな組み合わせに俺の方が意外なに思った。

「何……と言われましても。ただショッピングをしていただけですわ」

「ショッピング? コンビニだぞ、ここ」

「ええ、承知しておりますわ。それがどうかしまして?」

「あっ……いや何でもない」

 本気でわからない、とでも言いたそうに首を傾げる九条。

 なので俺もそれ以上は突っ込めず、だからこそその場に形容しがたい不可思議な雰囲気が流れ出す。

 コンビニでショッピングって……まぁいいか。

「あなたは……コーラが二つ? またえらく不健康なチョイスですわね」

「ほっとけ。俺の分じゃねぇからいいんだよ」

「ほう。では誰の物か窺ってもよろしくて?」

「別にいいけど……妹と桜木だ」

「桜木さん、まだお宅に?」

「? ああ、そうだ」

「ということはあの宣言は本気でしたのね……」

 九条が俺から視線を逸らし、何やらぶつぶつと言っている。

 俺はどうしたものかと思案して、九条を置いてさっさと帰ろうと決めた。

「じゃあな九条。俺、ちょっと急いでるから」

「待ちなさい!」

「ぐおっ! な、何だってんだ……!」

 九条に襟首を掴まれ、一瞬だけ呼吸がしづらくなる。

 俺は九条を振り返り、文句の一つでも言ってやろうと口を開きかける。

 が、俺が九条に対して言葉を発する前に、九条から重々しい口調でまるで忠告でもするかのように言い放った。

「……今『照代』ルートを進めておいででしょう?」

「ん? ああ、よくわかったな」

 なんでわかったんだ? まさか九条財閥の情報網を使ったんじゃ……! なんて、そんな訳ねぇか。

 俺が勝手に馬鹿な想像をしていると、九条が更に続けて言った。

「……『真剣で私に恋してよ!』の『照代』ルート。あそこには世にも恐ろしいエンディングが待っています。どうぞお気をつけて」

「そ、そんなに脅かすなよ……」

 九条の言い方はそれは雰囲気が出ていた。

 だからだろう。背筋に嫌な汗が伝う。

「ただの脅しかどうか、その目で確かめるといいですわ」

 そう言い残し、九条はコンビニから出て行く。未会計の商品を手にしたまま。

「……な、何だったんだ、あれ」

 その後、俺は満面の笑みを浮かべる店員さんにポンと肩を叩かれ、こっぴどく怒られた上に九条が万引きした分の金まで払わされたことはまた別の話だ。

 

 

               ◆

 

 

 そして家に帰ると、リビングでは妹と桜木が仲よく大画面でレースゲームをしていた。どうやら俺が出て行ったあと、暇だったらしい。

「おーす、帰ったぞー」

「あ、お帰り……お父さん」

「ファッ!」

「お、お帰りなさい、あなた……」

「さ、桜木まで何言ってんだ?」

 俺は二人からくる絶妙な精神攻撃を受け、頭の中が混乱しそうになっていた。

 え? 何これ? 何今の超嬉しいんですけど! 妹がいなかったら倍嬉しい。

 俺が事態を飲み込めず、棒立ちでいると、突然妹が吹き出した。それに伴って、操作していた緑色の車がスター音を響かせる車と激突して宙を舞った。

「ははは、びっくりした?」

「お、おまえなぁ……」

 どうやらただのおふざけだったらしい。まぁそうだよな。桜木も妹も、いきなり妙なこと言い出すもんだからびっくりしちまった。

「さてと、あにきも帰って来たし、邪魔者は消えるよ」

 ちょうどレースも終わったらしく、妹はWI●Uの電源を落とし、立ち上がる。

「ほら、コーラ」

「何だかんだ言って買って来てくれるあにき大好き」

「俺はおまえのそういう調子のいいとこあんまり好きじゃねぇな」

 まったく、外に出たら借りてきた猫みたいに大人しくなるくせに。こんなんだから友達もいねぇんだろうな。

「ほっといてよ」

 妹はコーラを持って自分の部屋へと消えて行った。

 俺はテーブルに桜木の分のコーラを置いて、ソファに座り込む。ちなみに俺はファ●タだ。

「さてと、進めますかね」

「だね。はやくしないと日が暮れちゃう」

「ほんとそれな。えーと確か『照代』のことについて『陽子』に訊ねたところで止まってたな」

「うん、だから次は『照代』と話さなくちゃいけないの」

「だな」

 俺はノートPCを開け、途中でピタリと時間の止まっているゲーム内へと再び入り込む。

 ウィンドウの枠内をクリックすると、静止していた彼女たちの時間が動き出す。

 学校での『陽子』とのやりとりからシーンは移り、夕暮迫る商店街。

 『健人』はぶらぶらと歩きながら、呆然と『照代』のことを考えていた。

「……なんか、すげぇ寂しい光景だな」

「うん……『健人』の心が伝わってくるようだね」

 彼の心は今、悲しみと空しさで一杯になっていることだろう。

 俺は『健人』の心の内を推して図り、なんとなく悲しい気持ちになった。

 これが、キャラクターへ感情移入するということなのだろう、きっと。

「それで、こいつは一体どこへ向かっているんだ?」

「見てたらわかるよ。……とか言ってる間に現れたようだね」

 桜木が画面の中央部を指差し、そう言った。

 俺はマウスをクリックしてテキストを読み進め、次のシーンへと移行する。

 商店街を抜けた先、淡いオレンジの大地に大きな影を落として『健人』の前に屹立する人影。

『……待ってた』

 とても静かな、沈んだような声音。でもどこか怒気を孕んでいて、下手に触れれば爆発してしまいそうな気配がある。

 『健人』はこくりと頷くと『照代』のあとに続いて行く。

「ど、どこへ行くんだ……?」

 二人の表情は真剣そのものだ。これから何かしらの話し合いが持たれるんだと思うけど。

「それにしても喋らないな」

「まぁそんな場面でもないしね」

 桜木の反応は淡泊だった。

 じーっと、PCの画面に見入ったまま、一瞬たりとも視線を外そうとしない。

 俺はその様子を横目で盗み見て、それからまたPCへと意識を戻す。

 『健人』たちがやって来たのは以前に『照代』が姿を消したあの森だ。

 しかし今度は『照代』も行方をくらますことなく、くるりと彼を振り返る。

『……陽子から聞いた。おまえが私を心配してくれていること、まずは素直に嬉しく思う』

 当然だ。二人は……いや三人は幼なじみなのだから。

 誰か一人でも欠けたなら、きっと残りの二人が悲しむ。

 だから、あんな消え方をした『照代』を『健人』が心配するのは当然だった。

『わ、私も悪かったと思っている。子供っぽかったなと反省しているんだ』

 少し頬を赤らめ、視線を逸らして唇を尖らせる『照代』。その姿は年上のお姉さんや最強の武人という今までの彼女のイメージとは大きくかけ離れたものだった。

 だが『健人』は知っている。この『照代』表情、仕草の意味を。

「……大丈夫だよ、『照代』」

「桜木……」

 桜木の声には感情が乗っていた。

 それだけ、このゲームに入り込んでるってことだろう。俺なんかとは思い入れが段違いだろうしな。

『……健斗さ、最近変わったな。少し男らしくなったか? 昔は私が睨んだだけで泣いてただろ?』

 気まずそうに語り出した『照代』の言葉に、俺と桜木は黙って耳を傾けていた。

 

 

               ◆

 

 

『……私はそんな、変わっていくおまえを見るのが素直に嫌だった。段々男らしくなって、私より背も高くなった。声も低くなったし、何より私たちが三人で一緒に遊ぶことがなくなってしまったことが何より悲しい』

『照代姉さん……ごめん、姉さんがそんなふうに思ってたなんてしらなかったよ』

『いや、いいんだ。今はそんなことを言い合っている場合じゃない』

 『照代』は首を振って『健人』の謝辞を受け流した。

『わかっていたさ。おまえが思春期の少年であるということくらい。でも……!』

 『照代』は目の端に滴を溜め、ぐっと拳を握り込んだ。

『私はもう一度、昔と同じようにおまえと陽子の三人で遊びたかった。笑い合いたかったんだ……!』

『姉さん……』

 彼女の言葉には、切実な思いが込められている。

 それは表情や仕草、声なんかから読み取ることができた。

 その上で、『健人』言う。変わってしまった己自身を受け入れようとするかのように。

『……もう、昔には戻れないんだ!』

『……!』

『姉さん、姉さんだって変わったよ! 昔はもっと色々と……とにかく子供だった!』

『け、健人……? 突然何を?』

『それがなんだよ突然! 胸もお尻も大きくて柔らかそうで、近くにいたらいい匂いで! そんなんで昔みたいにくっついて来られてどきどきするなって方が無理な相談だろ!』

『な、ななななな何を言っているんだおまえは!』

『だって仕方がないじゃないか、本当のことなんだから!』

 関を切ったかのように溢れ出した『照代』への劣情の数々を吐露していく『健人』。

 もうどうにでもなれという心境だった。

『それで、姉さんのこと意識するようになって、そしたらもう姉さんのことばっかり考えちゃうようになっちゃって、姉さんと話す度にどきどきして上手く話せなくてよそよそしくなって姉さんのこと避けちゃうようになるし、本当に何してんだよ俺って自己嫌悪に陥ったことだって何度だってあるんだ!』

『そ、そんなの……そんなの私のせいじゃないもん! 健人が悪いんじゃん!』

『いいや、姉さんのせいだ! 姉さんがそんなにかわいくて美人でえろくてスタイルよくていいにおいで魅力的なのがいけないんだ!』

『な、何それ意味わかんない! そんなのおまえが勝手にそう思ってしまっただけで……』

『そうだ!』

 なお言い繕おうとする『照代』の言葉に被せて、『健人』は発言する。

『俺は姉さんのことを姉さんとは思えなくなっていた。一人の女の子として、いつの間にか好きになっていたんだ』

『……そ、そそそそんなの好きって言わないんじゃないか? だっておまえ、私の胸や尻が好きなんだろ? それじゃあ他の女でも……』

『他の女子を前にしても、そんなふうに思ったことはない。姉さんだけだ。姉さんの胸だから触りたいと思う、姉さんのお尻だから顔を埋めたいと思う、姉さんの匂いだからずっと嗅いでいたいと思うんだッッ!』

『な、何だよおまえ……それじゃまるで変態じゃないか』

『ああ、変態かもな』

 『健人』が一歩前に出る。その動作に反応して、『照代』も一歩後ずさる。

 数度、二人の間で同じ動作が繰り返された。

 が、背後にある木の幹に後退の道を阻まれ、『照代』は顔中を蒼白にした。

『だけどそれが事実だ。俺は、照代、おまえが好きだぁぁぁッ!』

 どこまでも続いていきそうな大きな声。『照代』の記憶にある幼い頃の『健人』からは想像すらできない、熱の籠った叫び声。

 こういうことには不慣れな『照代』は顔中を真っ赤にして、わなわなと震えていた。

『お、おおおおおおおおおおおおおッッ!』

『ぐえぇッ!』

 瞬間、『照代』のボディブローが『健人』を襲う。

 『健人』は数メートル後方へと吹き飛ばされ、一度地面で跳ねてからその辺の木にぶつかってようやく止まった。

 『照代』はハッと我に返り『健人』へと駆け寄る。

『だ、大丈夫か!』

『だ、大丈夫だ……問題ない』

 と言いつつも、苦しそうに呻く『健人』。きっと、日頃から咄嗟に手加減する訓練を受けていなかったら死んでしまっていただろう。冗談ではなく。

『おまえが悪いんだぞ! 急に変なこと言い出すから!』

『ああ……確かに俺が悪かった。姉さんにはすまないことをしたと思っているだがしかぁし!』

 『健人』は声を張り上げて全身に気合を漲らせ、どうにか起き上がる。

『それでも俺は姉さんと一緒にいたい! 今までみたいな幼なじみとしてじゃなく、恋人としてずっと!』

『そ、そんなことを大声で言うなバカ者が!』

 『照代』は『健人』を起き上がらせると、ツンとそっぽを向いた。

 しかしそれは『健人』の言葉に呆れたというよりも、どちらかというと気恥かしさから来るものだろうと思われる。

 その証拠に『照代』の目は泳ぎまくり、手もとは落ち着きなく動き続けている。

 『健人』は『照代』のその反応を見て、あと一歩だと確信した。

『姉さん、後生だ! 俺とつきあってくれ!』

 『照代』の肩に両手を置き、真剣な眼差しで見つめてくる『健人』に『照代』はますます顔が赤くなる。もうお湯でも湧かせそうなくらいに頭の中は茹で上がっていた。

『わ、私はその……』

『俺じゃなだめ? 他に好きな人がいるの?』

『そ、そういう訳ではないのだが、しかし……』

 煮え切らない『照代』の態度に業を煮やしつつある『健人』だったが、ぐっと堪え、彼女の返事を待つ。

『私は……』

 ぐるぐると目を回す『照代』。両耳からプシュー、と白煙が立ち昇りそうだ。

 これ以上危険だろうか。『健人』はそう考え、『照代』の背後の木から手を離した。

 主に自分の身を守るために。

『……いいんだ。ごめん、姉さん。困らせちゃって』

『健人……?』

『そうだよな。こんなふうに無理矢理想いを伝えたって意味がない。姉さんを困らせるだけだってわかってたんだ。でも……もうどうしても我慢が利かなかった』

『そ、そんなに私のことを?』

『あたり前だろ。姉さんくらい魅力的な女性なんて、この世にはいないよ』

 その一言が、更に『照代』を困惑させる。

 いつの間にかあたりは暗くなっていた。煌々と夜空に輝く満月が二人を照らしている。

 『健人』はその丸い月を見上げ、ぽつりと呟いた。

『……今宵は月が綺麗ですね』

『え……?』

 明治の初頭。まだ日本に愛という言葉が存在しなかった時代。人々はそう言って大切な人に想いを伝えたのだという。

 奥ゆかしい日本人にとって、愛を伝えるというのはそれほどまでに心をざわつかせるもの、ということだ。

 伝えた側も、伝えられた側にとっても。

 夜が更けて行く。

 

 

               ◆

 

 

 さて、結論から言おう。『照代』はその後、予想通りとでも言おうか、『健人』の告白を受け入れて二人は晴れて交際を始めることとなったのだが。

『ごろにゃーん』

「……凄い絵面だな」

 作中最強の少女、川島照代。彼女のそれまで毅然としていて、見るからに自由人といった様子だったのだが、その変貌ぶりに俺は唖然とした。

「主人公に膝枕させてその上でごろごろして更に猫なで声で甘えてくるとか……何だこいつ?」

「ちょーかわいいでしょ?」

 桜木が画面を指差し、満面の笑みでそう訊いてくる。

 俺は何と答えようもなく、曖昧に笑って誤魔化すだけだった。

「もうね、普段はきりっとしてるのに主人公にデレたあとのこのギャップに萌えるんだよね!」

「あ、ああ……そうだな」

「あと、たまに主人公がちょっとしたいたずらした時に見せる表情。びっくりしたような嬉しいような、あの顔がまたたまらないんだぁ……」

「ははは、そいつはよかったな」

 うっとりしたように語る桜木。その顔は非常に幸せそうで、俺としてはそっちのほうが『照代』のデレ具合を見るよりよほど萌える。

 ま、そんなこと本人には口が裂けても言えないけど。

「やー、それにしてもよかったぁ。無事に攻略できて」

「ん? これ、攻略できなかったら何かあんのか?」

「バッドエンドに入ると『照代』が死んじゃうんだよ」

「え……?」

 あそこからどうやったら死ねるのか、だいぶ謎だったが別にそんなのが見たいとは到底思えないので、俺はその続きを聞くのを躊躇った。

 桜木としてもあまり話したい内容ではなかったらしい。いつものようにこっちが聞いてもいないのに勝手にぺらぺらと喋ってくることはなく、ホッとする。

「あにき、無事に攻略できた?」

 唐突に妹が耳元でそう訊ねてくる。

 足音どころか扉を開ける音すらなかったため、まったく気がつかなかった。あるいはゲームに集中し過ぎて聞こえなかっただけか。

 どちらにせよ、驚くだけの気力がない。

 疲れた。

「……ああ、何とか無事な。桜木のお陰で」

「いやぁ、そんなに褒められると照れるよー」

 言葉の通り、照れているらしい桜木が頭を掻く。

「それで、どうしたんだよ、おまえ?」

「んー、さっきお父さんから連絡があってさ。今日ちょっと帰れないんだって」

「母さんは?」

「お母さんもお父さんと一緒にいるって。だから夕飯は二人でテキトーにすませてって言われた。それを伝えに来たんだけど」

「何だよそれ……じゃあ夕飯は出前でも頼むか?」

 両親ともに帰れないんじゃしょうがない。俺も妹も料理なんてできないのだから。

「そだね。その前にあにきは桜木さんをちゃんと家まで送って行かないとだめだよ?」

「わかってるって」

「あ、あのー、二人とも……」

 桜木がおずおずといった様子で手を上げた。

 俺たちは桜木のその珍奇な行動の意味を理解できず、兄妹揃って小首を傾げる。

「どうしたんだ?」

「私、お夕飯作ろうか?」

「え?」

「桜木さんが……?」

 俺と妹が桜木のその提案に目を剥く。

「マジでいいの? そんなことしてもらって?」

「うん、いいよ。……迷惑、かな?」

「いやいや、迷惑じゃねぇよ! すげぇ嬉しい!」

「ほ、本当に?」

「ああ」

 割と本気でそう思っていた。

 妹は……なんか微妙な顔をしていた。

 桜木の料理の腕を疑っているんだろうか?

「何だその顔? 大丈夫だって。桜木の料理すげぇ美味いから」

「や……そんなことは」

「あー、もう胸いっぱいだわ」

「え? 何? 夕飯いらないの?」

「いるに決まってるじゃん」

 ぎょろりと妹が俺を睨み据えてくる。

「何だよそんな顔すんなよ」

 ただでさえ日頃の目不足のせいでできた隈のお陰で目つき悪いんだから。普通にこえーよ。

「じ、じゃあちょっと冷蔵庫の中見せてもらうね」

「お、おう、よろしく頼む」

 桜木は台所へと向かおうと立ち上がった。

 その時、ちょうどエンドロールが終わり、ゲームの続きが流れ出す。

「ん? 何だ?」

 俺は何の気なしにそちらを見た。見て、後悔した。

 それは、いわゆる主人公とヒロインの濃密な絡みのシーンだったからだ。

「あー……」

「…………」

「…………」

 桜木と妹が黙り込む。

 そういやすっかり忘れていた。

 こいつがその手の、俗に言うエロゲーと呼ばれるものだったことを。

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