第7話 桜木玲斗石宮の妹(真)

 早朝、午前四時。

 何だか寝苦しくて、俺は目を覚ました。

 なるべく音を立てないに気をつけながら、一階のリビングへと下りる。

 台所に行き、コップに水道水を注いで一気に煽る。そうすると寝汗で失った水分を体が急速に吸収しているのか、何となく生き返ったような心地になった。

「ふぅー……さて、戻るか」

 コップを置いて振り返る。すると、テーブルの上の一枚の紙片に気づいた。

 何だこれ、と思って拾い上げる。

 電気も点けていないため周囲は真っ暗で、目を凝らさないとその文面を読み取ることは難しかった。

 何とか文面を読み取る。と、そこには妹の字でこう書かれていた。

 ――心配、しないで。

「………………はぁぁあああああああああああああああああああああああ!」

 家中、いやお隣さんまで聞こえたかもしれない大声で、俺は叫んだ。両親が起きてくるかもとかそんなことを考えている余裕なんてなく。

 いや、だって……ねぇ!

 俺はすぐさま二階への階段を駆け上り、妹の部屋を荒々しく叩いた。

「おい、いないのか! いないならいないって言え!」

 しかし室内からの応答はない。俺はおそるおそるドアノブを回して、妹の部屋へと踏み入る。

 何年振りだろう。この部屋に入るのは。俺が中学に上がる頃には、全くと言っていいほど妹に構ってやらなくなったからな。大体二、三年ぶりくらいか。

 昔は中々かわいらしく、女の子らしい部屋だったように記憶している。

 全体を淡いピンク色で染め上げ、小物やぬいぐるみ何かがたくさんあった。

 そして、今俺の目の前にある妹の部屋も、当時と何ら変わらず……、

「……なんてこたぁねぇか。そりゃあ三年もあれば人間変わるよな」

 ましてや多感が思春期真っ只中だ。色々なものに影響を受けているだろう。

 要するに何が言いたいかというと。

 俺の知らない間にゲームやアニメにとっぷりとハマってしまった妹の部屋は、当時のかわいらしさなんて欠片もなく、まさにゲームと読書とアニメ鑑賞と睡眠のための部屋と化していた。

 PC関連には全然詳しくないので何ともいえないが、何やら床を幾本もの線が這い、本棚にはぎっしりとラノベが詰め込まれ、更には床やベッドの端にブルーレイのパッケージが所狭しと並べられている。

 現在の妹の実態を目の当たりにして、お兄ちゃんショック。ということはないけど。

 奴の正体なんざ普通に知っていたし、だからなんだという話だ。俺はその手の文化には疎いが、別にそれでオタクを見下したりなどしない。

 なにせ俺には、オタクの彼女がいるくらいだからな。

「はっ! そうだ、桜木に電話してみよう!」

 桜木玲。俺の彼女であり、妹と馬が合う数少ない人物。

 才色兼備、スポーツ万能。その他に炊事に家事と何でもこなす完璧を絵に描いたような〈深層の令嬢〉として俺の通う高校では割と有名人だ。

 そして、俺と桜木がつきあっていることは周囲には秘密にしている。秘密……というかとくに話す必要もないだろうと思い、吹れ回っていないだけだが。

 友達のいない妹のことだ。家出なんてしたっていくアテなんて大してない。どうせ桜木の家にでも行っているのだろう。

 などと考え、しかし後々思い起こしてみると、この時の俺はなんだかなんだで平常な思考を保てなくなってしまっていたようだった。

 俺はものけの空だった妹の部屋を出て、急いで自室に戻る。携帯を手にして、桜木へと電話する。

 ぷるるるるぷるるるる、と何十回か呼び出し音が鳴り、まだ眠たそうな桜木の声が耳に届く。

『……はぁい、桜木でふ』

「桜木」

『ふぇぇ! 健斗? どうしたのこんな夜中に?』

「単刀直入に言う。おまえの家に行ってないか?」

『……何が?』

「ああ、すまん。俺の妹がおまえんちに行ってねぇか?」

『妹さん? んーん、来てないよ。というか妹さん、うちに来たこと合ったっけ?』

 桜木に言われて、俺はそういえばなかったかもしれないと思った。

 俺はがっくりと肩を落とし、電話口で『どうしたの?』と心配そうに尋ねてくる桜木はやっぱ可愛いなぁなんて半ば逃避気味に考えてから事情を説明する。

『ええ! 妹さんいなくなちゃったの!』

「ああ……俺が水を飲みに一階に降りたら、書置きだけが残ってた」

 つーかあの両親、俺があんだけ騒いでんのに起きてくる気配がねぇ。

 まったく、とため息を吐くと、桜木が電話越しにでもわかるくらいおろおろとしていた。

『心配だよね、探しに行かなきゃ!』

「はぁ! いやいいって。俺一人で行くから」

『でもどこに行ったかわからないんだよね? だったら人手は多いほうがいいでしょ?』

「しかしだなぁ……」

『つべこべ言わない。私、もう着替えちゃったんだから』

「ああ、さっきの衣擦れの音は着替えてたのか」

 何とまぁ色気のないことだ。状況が状況なだけに仕方ないけど。

 もうちょっと落ち着いた時にお願いしたかったな。

「……じゃあお願い出来るか? 言っとくけどあんま無茶すんなよ?」

『心配してくれてありがと。でも大丈夫だから。任せて』

 桜木は自信満々に言うと、ぷつんと通話を断った。

 はぁともう一度ため息を吐いて俺も軽く着替える。

 なるべくなら妹のことで迷惑はかけたくなのだが、しかしそうも言っていられない。

 俺は両親も起こすべきだろうかと悩んで、せっかく起きていないのだからとできるだけ起こさないように気をつけて外に出た。

「ふー、まだ暗いなぁ」

 世間の人はまだまだ眠っている時間だろう。まだ明かりが窓から漏れているとこも何軒か会ったけど、気にしないでおこう。

 どっちに行ったものかと少し悩んで、右のほうへ爪先を向ける。

 走っても意味のないことはわかっていた。だが、走らずにはいられない。

 俺は息を切らしながら、どこへい向かえばいいのかもわからず、ひたすらに駆けて行く。

 

 

                ◆

 

 

 どれくらい走っただろう。息が上がり立ち止まって膝に手を突いた。

「……もう、日が昇ってるぞ」

 家々の間から僅かに顔を覗かせる太陽の姿が見えて、俺は小さく舌打ちした。

 どうして家出なんてしてんだ、あいつ。何が気に入らなかったんだ。

 俺は妹の心の内がわからず、くしゃくしゃと頭を掻いた。

 ともかく、今は一刻も早く妹を見つけないと。

 俺は疲れたと訴える両足を叱咤し、再び走り出した。

 と、角を曲ったところで危うく人とぶつかりそうになって、寸でのところで何とか回避できた。

「わ、悪い。ちょっと急いでて……」

「あっすいません。わたしのほうこそボーッとしちゃってて……」

 俺が慌てて頭を下げると、その人もなぜか謝ってきた。

 そして俺たちはお互いに何度も謝罪合戦を繰り返して、彼女が妹と同じ中学の制服を着ているのだと気づくまで、その謝罪合戦は続いていた。

「……その制服って」

「え? 何ですか?」

 彼女は小さく首を傾げ、くりくりとした大きな瞳で俺を見つめてくる。

「あっと……今日って中学校やってるの?」

「へ……えっと……いえ、わたしはただの部活で」

「そ、そうなんだ。へぇ……」

 傍から見たらすごい変態ちっくな言葉ばかり選択してないか、俺。

 いや、今はそんなことどうだっていい。

「ねぇ君、名前はなんていうの?」

「名前……ですか?」

 名前を訊いただけなのに、警戒されているようだった。

 まぁそりゃあそうだろう。知らない年上の男にいきなり名前を訊かれたら、そりゃあいいとこナンパとかだと思うだろう。

 が、今の俺にんなところまで考慮してやってる余裕はなかった。

「俺は石宮健斗。君は?」

 先に名乗っちまえば相手も名乗ってくれるだろう。そう思い、俺は思い切って自分の名前を口にした。……のだが、返って来たのか意外な反応だった。

ある意味期待通りだったが。

「石宮……? もしかして石宮さんのお知り合い?」

「ああ、兄だ」

「そうだったんですね」

 俺があいつの兄貴だと知るや、なぜか嬉しそうになった。

 彼女は胸元に手を当てると、にっこりとやさしく笑う。

「わたしの名前は吉祥寺あゆなです。よろしくお願いします、お兄さん」

「お、お兄さん?」

「はい。お兄さん」

 彼女――吉祥寺はなぜか嬉しそうに俺の手を握ってくる。

 まだ小さくて少し骨ばっていたが、やわらかくて触り心地のいい感触だった。

「うひっ」

「どうしました?」

「いや、ちょっと悪寒が」

 背中に氷にも似たうねうねとしたものが這い回るような感覚を覚えて、俺は思わず背筋を仰け反らせる。

 吉祥寺は驚いたように目を丸くしていたが、すぐに破顔した。

「ふふふ、お兄さん、面白い人ですね」

「そ、そうかな……じゃなくて吉祥寺」

「あゆなって呼んでくれなきゃ嫌です」

「いや、今はちょっと急いでてな、吉祥寺」

「あ・ゆ・な」

「……あゆな」

 吉祥寺……もうあゆなでいいか。

 あゆなの攻めに負けて、俺は彼女を名前で呼ぶことにした。

 この際、呼び名なんて何でもいいだろう。

「じゃあわたしはお兄さんのこと、健斗さんって呼びますね」

「ああもう、何でもいいから本題に入らせてくれ」

 ……どうにもペースを狂わされる子だな。

 俺は半ば苛立ちと格闘しながら、女子中学生に詰め寄る。

「俺の妹、知らないか?」

 同じ学校で、しかもあゆなは妹のことを知っている様子だった。なら、今どこにいるのか。せめてそのヒントくらいは知っていてほしい。

 俺はそんな願望を胸に、あゆなの言葉を待った。

 あゆなはうーんと口元に手を当て、考え込むような仕草をしてから、申し訳なさそうに頭を下げてきた。

「すみません。石宮さんとはあんまり仲よくなくて」

「……そっか。悪かったな」

 まぁあの妹のことだし、こんなこったろうとは思ったけど。

 俺はあゆなの前から去ろうと踵を返す。と、あゆなが呼び止めてきた。

「あの、石宮さんがどうかしたんですか?」

「いやどうしたっていうか……」

 果たしてこれは言っていいことなのだろうか。

 判断に困っていると、ずいっとあゆなが顔を寄せてくる。それに合わせて、俺も小さく身を引いた。

 彼女の瞳はこの上なく真摯で、俺は理由もなく心が痛んだ。

「もし石宮さんが困っているんだったら力になりたいんです。お願いします、健斗さん」

「……でも今から部活じゃ?」

「大丈夫です。友達のために休んじゃいます」

 ふんすっと握り拳を作るあゆな。

 彼女の姿に、何だか無償に抱きしめたい衝動に駆られる。

 何だろう……妹のことをここまで思ってくれる同世代があいつにもいたなんて。すげー胸の奥が熱くなる。

「……実は、俺の家に書置きが合ってさ」

 俺はあゆなのその申し出に甘えることにした。女子中学生を巻き込むことに抵抗はあったものの、人手は多いほうがいいという考えに傾いてしまったのだ。

 事情を話すと、あゆなは何度も何度も頷く。

「石宮さんが家出しちゃったので、探し回っている最中なんですね?」

「まぁ大体そんなところだ。しかしいいのか? 妹とはそんなに仲よくないんだろ?」

「いいんです。わたし、石宮さんとは仲よくなりたいって思ってましたから」

「……悪いな」

 部活をサボらせてしまったこととか、妹の捜索を手伝ってくれることとか。お礼を言いたいことはたくさんある。

 だが、俺の持ち得る言葉では、すべてを伝えることは到底できないようだ。

 今度から現国の授業はちゃんと聞こう。

 俺はそう決心して、あゆなとともに妹捜索へと戻った。

「それで健斗さん、石宮さんの行きそうな場所に心あたりはありませんか?」

「心あたりなぁ……昔ならともかく今はお互いにあんま口利かないし」

 とはいえ、ここ最近はポツポツと会話を交わすことくらいならある。

 会話、なんて言ってもほとんどあいつからの一方的な罵倒だったりする訳だが。

「……ゲームショップとか?」

「はい?」

「ああいや、何でもねぇ。気にすんな」

 おおっと危ねぇ。うっかり口を滑らせちまうところだった。

 俺は不思議そうに首を傾げるあゆなを満面の笑みでもって誤魔化しにかかる。

 桜木や九条みたいに、その手の趣味を隠している連中もいることだし、妹もその一人かもしれない。ここは余計なことを言わないのが吉だろう。

「そうだな……図書館とかいそうだな。あいつ本好きだし」

 ほとんどラノベしか読まないけど。

「……図書館ですか。なるほどです。確かにそこなら石宮さんもいそうですね。彼女、本読むの好きですから」

「ん? あいつって学校でもラノ……本読んでんのか?」

「はい、読んでますよ。わたしが言うのも何ですけど、石宮さん学校じゃあ読書家としてかなり有名ですよ?」

「ふーん」

 つっても学校でもあんなオタク丸出しの趣味を披露している訳じゃあないだろうから、きっと図書館で借りた本を読んでるんだろうな。

「ちなみにどんな本読んでるとかわかるか?」

「この前ちらっと見た時は●宮ハルヒ読んでました」

「オタク丸出しじゃねぇか!」

 いや別に悪いとは言わねぇよ! でもそれってクラスで浮くんじゃねぇの?

 そんな疑問が顔に出ていたのだろう。あゆなは言いにくそうに目を逸らすと、指先をちょんちょんしだした。

「まぁあの性格ですからあんまり他のクラスメイトと会話しているところを見たことがありません」

「はぁ……やっぱり」

 これは由々しき問題だ。

 あの孤高の虎気取りの妹を放っておいたら、末はネット廃人になってしまう。

 もう少し、他人とコミュニケーションを取らせないと。

「そういやあゆなはあいつと仲よくなりたいって言ってたな。あんな性格なのにどうしてそう思うんだ?」

「だって石宮さん、かわいいじゃないですか」

「……へ?」

 あゆなは両手の指先をくっつけ、にこっと微笑んだ。

 ……何を言い出すんだ、こいつ。

「実はたくさんの人が石宮さんに話かけようとしたんです。男の子も女の子も、みんな石宮さんと仲よくなりたくて。でも、結果は簡単に想像できるでしょう? 石宮さんはすべてを跳ね除けて、一人でいる道を選択しました」

 よよよ、と泣き真似するあゆな。

「でもわたしはあきらめません。絶対に石宮さんと仲よくなります」

「そ、そうか。……妹をよろしくな」

「はい!」

 元気のいいあゆなの返事を聞いて、俺は何だかホッとした。

 オタク趣味にのめり込むのもいいだろう。だが、こうして人と関わることを放棄してはいけないのだと思う。桜木や九条を見る限り、それはとてつもなく苦しい道かもしれない。段々理解されてきたとは言っても、まだまだ世間の風当たりは強いのが実情だ。

 それに、アニメもラノベもマンガもゲームも、人が一人で創り上げているものではない。そこには多くの人間の力が結集されているのだということを忘れてはならない。

 なんて、つい最近サブカルに触れ始めた俺が偉そうに説教できる訳がないんだけどな。

「着きましたよ、図書館」

「おお、ここが」

 話をしている内に、いつの間にか辿り着いていたようだ。

 俺とあゆなは眼前にそびえるでっかい建物を見上げ、俺はアホみたいに口を開いた。

「ずいぶんと立派な建物だなぁ」

 全面ガラス貼りの、一見すると俺たちの街の図書館とは思えない様相だった。

 つい最近、改築工事をしたのだとあゆなが教えてくれた。しかし改築以前からまったく縁のなかった場所だけに、感慨のようなものは湧かないなぁというのが本音である。

 それはともかくとして、俺とあゆなは図書館の中に入る。

 自動ドアを抜けると、その先はまさに本好きの聖地とでも呼ぶべき場所だった。

 三階まである建物。受付のあるフロアの除く全フロアに背の高い本棚があり、所狭しと古書や小説、はたまた図鑑など。果ては絵本まであり、月末に朗読会を開くという旨の告知が張られていた。

「……こんなところにあいつがいるのか?」

 妹がこんな場所にくるだろうか。

 俺はあいつの行動パターンを思い出して、首を捻った。

 きっと、一人として利用客のいないのなら、あいつも訪れたりするんだろう。

 そんな俺の心配など気にもしていない様子で、あゆなは俺の手を引いた。

「考えても始まりません。行きましょう」

「お、おお……そうだな」

 俺は頷き、あゆなに続いて図書館内を歩き回る。

 一階から順に巡って行くと、何となく並べられている本の傾向に気がつく。

「何か一階が新聞や参考書、大学案内とかまじめなのが多いな」

「おお、いいところに目をつけましたね!」

「そ、そうなのか?」

「はい。この図書館は一階が受験を控えた学生用、または社会人のちょっとした休憩所となっております。ですので一般常識等の知識を求める際一階を利用するのがオススメですよ」

「ふーん、そうなんだ。と、次は二階だな。こっちは何だか年齢層がちょっと高めのような?」

「こちらは年配の人や小さなお子さんのためのフロアです。ですので絵本や時代小説なんかが多めに置かれています」

「そうなのか。そして三階は……おおう」

 階段を上り終え、俺は思わず身を引いてしまった。

 なぜなら、そこにいたの人の大半が何らかのアニメやゲームのキャラクターらしき絵をプリントしたTシャツを着ていたからだ。……まぁそれだけじゃあないんだけど、ここでは割愛しておこう。

「何だここは?」

「あれ? 健斗さんは知ってて図書館って言ったんじゃないですか?」

「いや、これは知らねぇ」

 図書館ならラノベを何冊かは置いているだろうからというのが理由だったのだが、こんな空間があったとは。

「ここはオタクの人たちが集まり、各々作品への愛を語り合う場です。得てして人は自分の好きなものを語る際に声が大きくなりがちなもの。ここの床や壁の防音性はかなりのものですよ」

「そ、そうなのか……」

 俺がたじろいでいると、少し太った男が俺たちを振り返り、ハッと大きく口を開けた。

「も、モノホンのJCキタ―――」

 その一声を皮切りに、他の男たちも一斉に立ち上がり雄叫びを上げ始めた。

「な、何だぁ……」

 俺は何だか恐くなって、一歩後ろへ下がる。

 や、やばいぞこいつら……なんでこんなに喜んでんだ?

 訳がわからずそんな思考がぐるぐると回る。

 と、俺とは対照的にあゆなが一歩前に出て、スッと右手の人さし指を頬に当てて僅かに首を傾げた。

「みなさん、いくら防音設備がしっかりしているからってそんな騒いじゃメッですよ?」

 瞬時にしんと静まり返る。

 な、何だこいつら……。

 女子中学生に説教されて口の端をつり上げて喜んでいる変態紳士から視線を逸らしつつ、俺はあゆなに訊ねた。

「お、おまえの知り合いか?」

「ふふ、内緒です」

 あゆなはいたずらっぽく笑いながら、しーっと人差し指を口元に添える。

 俺は一瞬ドキッとしたが、すぐにぶんぶんと頭を振った。

 あっぶなー、危うく女子中学生にときめいちまうところだった。

「ここにはいないようですね。さっ、次へ行きましょう」

「あ、ああ……そうだな」

 俺は後ろで頬を上気させ、はぁはぁと肩で息をしている変態どもを無視して図書館を出た。



                ◆



「さて、次はどこへ行きましょう?」

「うーん、そうだなぁ……」

 どこへ行こう、なんて悩んでみたものの、あいつの行きそうな場所なんてあとは本屋とゲーム屋くらいしか思いつかない。どちらも電車で一駅の場所にあるので、あまりあゆなを連れ回したりは出来ないだろう。

「そうだな、次は本屋にでも言ってみるか。ありがとな、あゆな。ここまででいいぜ」

「ふふん、何を言ってるんですか? 乗りかかった船です。最後までつきあいますよ?」

「へ? でもさすがに悪いっていうか……」

「部活までサボらせておいて今更ですね」

 それを言われると痛い。

 結局、あゆなに押される形で俺は彼女と一緒に一駅向こうの本屋へと向かうのだった。

 

 割愛。

 

 電車に揺られること一五分。俺とあゆなは電車から降りて、改札を抜けて駅の外へと出る。

「わー、すごーい」

 何がそんなに楽しいのか、あゆながくるくると回る。その様子を周りの通行人がほほえましそうに見ていたのだが、テンションの上がったあゆなはまったく気づいていないようだった。

 ……ま、しばらくはこのままにしておくか。

 中学生なんて、まだ地元の中を自転車で移動するくらいしかできないのだろう。

 こうして電車で移動するなんて経験、始めてなのかもしれない。

 俺にも覚えがあるからよくわかるぜ。

「おーい、そろそろ行くぞ」

「あっ、はーい」

 呼ぶとトテテテッと小走りに戻って来る。その姿がとても小動物ちっくで無償に撫でくり回したくなる。

「……? どうしたんですか、健斗さん?」

「な、何でもねぇ!」

 己の中に膿み出る邪な感情を抑え込み、俺はきょろきょろとあたりを見回した。

「んー、この辺は久々にくるからなぁ。確かこっちだっけ?」

「健斗さん、大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫大丈夫」

 俺は昔友達と来た時の微かな記憶を頼りに本屋を探す。

 それから小一時間、俺たちは駅前のショッピングタウンを右往左往していた。

 結局本屋は見つけられず、ちょうどいい具合にベンチを見つけたのえ休むことにした。

「……っかしいなぁ。前に来た時と同じルートを通ってるはずなんだけど」

「なかなか見つかりませんねぇ。その本屋さん」

 俺もあゆなも息が上がっていた。

 足はだるく、もうしばらくは歩けそうにない。

 俺たちは地元でも大きめのショッピングタウンに来ていた。店内は広く、たくさんの店がひしめきあって存在しているそこは、まさに人の群れという波を飲み込む怪物のように休日の男女を老いも若いも関係なく飲み込んでいた。ので、普通の歩くよりほよど疲れた。こうして二人そろってベンチに腰かけていることが奇跡のようだ。

「……つーかなんだよこの人の数。何か今日合ったっけ?」

「うーん、何なんでしょうね。どこかでセールやってたりするんでしょうか?」

 女子中学生ともなれば流行りものには敏感なはずなのだが、どうもあゆなその辺が疎いようだ。それとも部活で忙しくてそういう情報を仕入れるのが難しいのかもしれない。

 まぁ俺も流行にはそこまで敏感ではないので、こいつをどうこうは言えないんだが。

「どこかに案内板でもありゃあまだ楽なんだがな」

「ほんとですよ。ここ、あんまりお客さんに優しくないですね」

「何だろ、この人混みを見ていると不思議な感じてするな」

「ですねぇ」

 各店舗を途切れることなく多くの人が出入りしている。

 その姿はそれこそ小さな容器の中に放り込まれた蛇の群れか荒々しく波を立てる海原のようで、彼ら彼女らの発する熱気も相まって俺としてはかなり気分が悪くなる。

 それはこうして座っていても一向に改善される気配がなく、隣に座るあゆなも似たようなものだった。

「……大丈夫か、あゆな?」

「だ、大丈夫ですよ」

 言葉とは裏腹に、あゆなの顔色は優れなかった。

「飲み物でも買ってくるよ」

「え? でもこの人込みじゃあ……」

「大丈夫だって。おまえはそこにいろよ」

 あゆなに厳命して、俺はベンチから立ち上がった。

 確かここに来るまでに二つほど自販機を見かけた。一つは結構遠くにあったが、もう一つは割と近くにあったはずだ。二人分の飲み物を買って戻って来るくらい簡単だろう。

 じゃあ行ってくる、と俺はあゆなに声をかけ、人混みの中へと分け入る。

 桜木と前に人混みが云々って話になったことがあった。あの時、桜木は人混みは割と得意なのだと言っていたが、これを得意というのはいかがなものだろう。

 桜木が言っていたように整然と、整列して歩くということはせず、勝手気ままに進んでいるものだから向こうから来る人、後ろから押してくる人、はたまたボーッと立ち止まっている人や迷子になって泣きじゃくっている子供までいる始末だ。

 桜木よ、どうしてこんなものを得意だなんて嘘吐いたんだ?

 なんてことを考えながらどうにか進んでいると、さっき見かけた自販機を発見した。

 俺は大人も子供も関係なく謝りながら押し退けて、やっとの思いで自販機の前まで出た。

 何だかもう、ここまでで熱射病にでもかかりそうな感じだ。

 何でこいつらはこんなに平然としてるんだ?

 俺は背後で立ち止まることなく移動を続ける人の群れに視線を投げつつ、自販機に五〇〇円硬貨を投入する。

「さて、どれがいいかな」

 あゆなの好みは聞いてこなかったが、まぁお茶かスポーツドリンクでも買っておけば外すことはないだろう。

 俺は●鷹を二人分買って、また人混みの中へと突入する。

 買った飲み者を落とさないよう注意しながら流れに逆らってあのベンチを目指す。

 今度は迷子の子供の泣き声は聞こえない。どうやら無事に親と再開出来たらしい。よかったよかった。

 体力の半分以上を奪われながらあゆなが待っているはずのベンチまで戻る。

 が、そこにあゆなの姿はなかった。

「どこ行ったんだ」

 ここにいろって言ったのに。

 俺は慌てて周囲を見回す。と、すぐに発見した。

 背の高い太い幹を持つ木の植えられた中央ホールに彼女はいた。

 確かにあそこならここより人の数は少ない。けど、あゆなの目的はあそこで休むことではないようだった。

「何してんたあいつ……!」

 俺はあゆなの奇行に目を疑った。

 彼女はスカートであるにも関わらず、木登りをしていたのである。それもこんな人の多いところで。

「ああもう!」

 俺は綾●を二つ抱えたまま、あゆなの登っている気の下まで行こうと三度人混みへ身を投げ出す。

 どうにか木の下まで辿り着いて、顔を上げ……すぐに下げた。

 白……白だった。純白のパンティを目の当たりにして、顔中が熱くなる。

 俺はパンツ……いやあゆなから視線を逸らしたまま、どうにか彼女に届けよと声を張り上げた。

「おい、何してんだおまえ! ベンチのとこで待ってろって言っただろ!」

「け、健斗さん! いえ、あの子が……」

「あの子?」

 俺はあゆなの言葉を疑問に思い、顔を上げて、すぐに視線を逸らした。

 だからパンツが!

「あの子が、下りられなくなってて」

「にゃーん」

 猫の鳴き声が聞こえた。それで俺は事態を察する。

「わかった、俺が変わるからおまえは降りて来い」

「大丈夫です。わたし、これでも結構運動神経いいんですから」

「おまえの運動神経なんか知らん! いいから早く」

 俺が騒いだせいだろうか。俺たちの周りに大勢の人が集まって来た。

 ざわざわとざわつく。良識のある大人は割と事態を性格に捉えていたが、鼻水を垂らした小学校低学年くらいのガキはパンツパンツと喜んでいた。

 と、その時だ。パシャッとどこかでカメラのシャッターを押す音が聞こえて来た。

 そっちに視線をやると、あゆなのもろパンを携帯で撮影している不届きな輩を発見した。

「おいおまえ、何やってんだ!」

「チッ、気づかれた!」

 俺は男の腕を掴もうと腕を伸ばした。その時●鷹が一つ腕の中から零れ落ちたが気にしている場合ではない。

 出来る限り手を伸ばすも、人混みが邪魔で全然届かなかった。

 そうして手をこまねいている内にその男の姿を見失う。

「……くそ!」

「健斗さん、どうかしたんです……きゃあ!」

「あゆな!」

 あゆなの悲鳴が耳を打つ。俺は残っていたもう一本の綾●を放り捨てて振り返った。

 どうやら猫の救出には成功したらしい。しかし猫を抱えたまま下りるのは至難の業だったらしく、そのまま真っ逆さまに木から落下していた。

 まずい、このまま固い床に落ちたら怪我をしてしまう!

 俺は運動不足な両足に力を込め、出来る限り全力疾走であゆなの元へと行く。

 両腕を伸ばし、彼女の体を受け止める。

「やった……!」

 触れれば折れてしまいそうなほど華奢な彼女の下へと俺の体を滑り込ませる。

 その過程で一瞬だけお姫様抱っこのような形になってしまったがこれは不可抗力だろう。

 そのまま俺たちは、俺を下敷きにする格好で倒れ込んだ。

「だ、大丈夫か……?」

「はい、大丈夫です……」

 あゆなは猫のように俺の上で体を丸くしていた。彼女の腹の上で、さっき助けた猫も似たような体勢を取っていた。

「……にゃーお」

 猫が一鳴きする。それが合図となって、周囲から拍手が巻き起こった。

「……何だか照れ臭いな」

「そ、そうですね」

「とりあえず退いてくれるか?」

「あっ! す、すいません重かったですか!」

「いや、重くはないんだけど」

 むしろ軽過ぎるくらいだ。……女子中学生ってあんなに軽かったんだな。

 あゆなは猫を抱いたまま、俺の上から退いてくれた。それにより、俺は自由を得てどうにか立ち上がる。

「……俺のほうこそ悪かったな。おまえのこと盗撮してた奴がいて、捕まえようとしたんだけど無理だった」

「そんなの気にしません。だって猫さんが助かりましたし」

「……そっか」

 なんていい子なんだ! 桜木の次に好きになってしまいそうだ。

 ……いかんいかん、浮気なんて最底辺男のすることだ。

「じ、じゃあもう行こう!」

「そ、そうですね!」

 その場でずっと拍手を浴びているのも恥かしくなって、俺とあゆなは中央ホールから離脱した。

 その後、どんなふうに噂が広まったのかはわからないが、あゆなが猫を助けた木が恋愛成就の木として有名になったのはまた別の話だ。

 

 

                 ◆

 

 

「しっかしどうすんだ、その猫?」

「どうしましょう?」

 助けたはいいが、猫の処遇に困って頭を抱える俺たち。

 その猫は木に登って下りられなくなった時とは対照的に呑気な顔で「にゃーん」と一鳴きした。……見事なまでに何も考えていない顔だった。

「妹も探さなくちゃならないってのに、猫まで……変なことになったなぁ」

「す、すいません……わたしが勝手なことしたから」

「ああいや、別に責める訳じゃあ」

 ごろごろとあゆなに抱かれて喉を鳴らす猫は、どうやら飼い猫らしい。首輪もあるし、何より人懐っこい。

「……捨て猫じゃないですよね、この子」

「だろうなぁ。となると飼い主が探してるかもな」

「たぶんこの近くに住んでる人のペットですよ」

「そうだといいんだけど」

 県外の人がわざわざ連れて来た、なんて可能性は考えたくないのだが、その可能性は否めない。

 俺はどうしたものかと頭を掻いた。妹と猫の飼い主探し。並行して行うしかない訳だが、果たして上手くいくものかどうか。

「……ま、しょうがねぇか」

 このまま放置しても目覚めが悪い。何より、あゆながやる気満々なのだ。

 俺が不承不承了承すると、あゆなはパァッと表情を明るくした。

 めまぐるしく表情の変化する子だ。

 俺はその様子を見て、まさしく猫みたいだと思った。

「それで、どうやって探すんだ?」

「たぶんこの子、この辺の子だと思うんです」

「まぁ猫の行動範囲なんてたかが知れてるしな」

 せいぜい町内を気ままに歩き回る程度だろう。

 捨てられたのでなければ、飼い主を見つけるのにはそう苦労はしない。

 のだが、俺のほうは妹も一緒に探さなくてはらない訳で。

「なるべくなら一緒に探すけど、たぶんそこまで役には立たないと思うぞ、俺」

「大丈夫です。わたし、人探し得意なんです」

 気丈に笑顔を浮かべるあゆな。

 うーん、何だかこっちが悪いことをしている気がするなぁ。

 俺はあゆなに対して言われようのない罪悪感を感じて、思わず目を逸らした。

 猫の飼い主を探すのに集中したいのは山々なんだが、俺だって妹を探さないといけないし。

 誰に聞かせる訳でもな言い訳が胸の中に渦巻く。

「じゃ、行くか」

「はい」

 あゆなは猫を抱いたまま、俺の後ろを着いて来る。

 俺は妹と、ついでに猫の飼い主を探してきょろきょろと周囲を見回す。

 今だに人通りは多いが、つい十分前と比べると人の数も減ってきている。買い物をするのならともかくとして、ただ歩き回るだけなら何ということはない。

 どれくらい歩いただろうか。

 ぐーっと俺の腹が鳴る。

「ふふふ、健斗さんお腹が空いたんですか?」

「まぁな。……あゆなは大丈夫か?」

「はい、わたしはまだ……」

 なんて言ってる途中でくーっと、かわいらしくあゆなのお腹も鳴った。

 彼女は照れ臭そうに頬を染めると、えへへと誤魔化すように笑った。

「ちょっとお腹が空きました」

「だな……しかしペット同伴でも大丈夫な店なんてないし」

「あっ別にファストフードとかでも大丈夫ですよ、わたし」

「ん? そっか。ならあそこのバーガー屋でもいいか?」

「はい。わたしハンバーガー好きです」

「ならちょっと待ってろ。すぐ買ってくるから何がいい?」

「え? わたしも行きますよ」

「だめだって。猫抱えたままじゃ店員さんに嫌な顔されちまうぞ?」

「うぅ……それはちょっと」

「だろ? 何がいい?」

「えーと、だったら照り焼きで」

「照り焼きだな。わかった。飲み物はコーラでいいか?」

「はい……」

 あゆなは少しだけ肩を落としていた。

 なぜそんなにもがっかりするのかわからなかったが、ともかく俺は猫を抱いたあゆなをその場に残して、バーガー屋の前まで移動する。

 注文し、ほどなくして袋詰めで手渡され、料金を払う。

 それからあゆなのもとへと戻り、所望された照り焼きバーガーをあゆなに差し出した。

「あっ……お金」

「いいって。今日つきあってもらったお礼だ」

「え……でも」

「遠慮すんな」

「……じ、じゃあ」

 あゆなは俺からバーガーを受け取った。猫を抱いたままだから少し包装が剥がし難そうだったが何とか中身を取り出し、ぱくっとかぶりつく。

 途端、幸せそうに頬を緩ませる。

「んん〜、おいしい」

「はは、そりゃあよかった」

 おごった甲斐があるってもんだ。

 あゆなの満面の笑みを見ながら、俺も自分のバーガーにかじりつく。

 一口食べたあと、あゆなの腕の中にいる猫があゆなが食べているほうとは反対側からはみ出ているレタスで遊んでいることに気がついた。

「おい、そいつ」

「え? ああ、何してるの! これはあなたの食べ物じゃないよ!」

 慌ててあゆなが猫からバーガーを遠ざける。と、遊び道具を取り上げられたと思ったのか、猫は思いっきり身をよじりあゆなの腕から脱出、彼女の肩を伝い、一足飛びのバーガーまでジャンプする。

「ああ!」

「なんだと!」

 あゆなも俺もびっくりの光景だった。

 猫がバーガーに思い切り体当たりをかまし、あゆなの手の中から落ちてしまった。

 ぐちゃっと無残にも音を立てて潰れるバーガー。それに対し、猫は軽快な身のこなしで優雅に着地した。

「ああ、わたしの……」

 くんくんと食べるでもなく匂いを嗅ぐ猫。

 嘆くあゆなとは対照的に、あっけからんとした様子だった。

「そ、そんな気を落とすなよ」

「でもせっかく買ってもらったのに……」

「うーん……じゃあ俺の分やるから元気出せ。な?」

「ふぇ?」

 あゆなは一瞬きょとんとした表情になったが、次の瞬間にはボンッと顔中を真っ赤に染めた。

「そ、そそそそれって間接キッ……!」

「どうしたんだ?」

 俺、何か変なことでも言っただろうか?

 いきなり動かなくなってしまったあゆな。彼女の顔の前で手を振ったりしてみるが、これと行って反応はない。

「腹、減ってんだろ?」

「で、ででででもそれは悪いですし」

「気にすんなって。ほれ」

 俺がバーガーを差し出すも、一向に受け取る気配のないあゆな。

 うーん、俺が頼んだのはチーズバーガーだったからなぁ。それがいけなかったのだろうか。

「チーズ、嫌いだったか?」

「い、いいえ……その、ほんとにいいんですか?」

「ああ。遠慮すんな」

 ぷるぷると震える手でおずおずと俺の手からバーガーを受け取ると、忙しなく口元を開閉させている。

 そこから一分弱くらいだろうか。どこから食べようかと思案するように、あゆなはバーガーをくるくる回していた。

「……大丈夫か?」

 何だか顔もすごく赤いし、汗の量も尋常じゃない。

 人混みの中歩き回って猫助けもしたんだから、そりゃあ疲れもするし腹も減るだろう。

 ……まさか、熱射病とかじゃないよな?

 俺は何だか心配になっておろおろするしかなかった。

 こんな事態になったのは俺のせいだ。今朝、妹の捜索の手伝いなんて頼まなきゃ、こんなことにはならなかったのに。

 俺は己の思慮の浅さを嘆いて、俯いた。

 そんな俺の態度が彼女に余計な気を使わせてしまったのだろう。

 あゆなは慌てて手を振った。

「あああ、ほんとのほんとに大丈夫ですから! い、いただきまーす!」

 ほとんど勢いでぱくりとかぶりつく。

「お、おいしー」

「ははは、それはよかった」

 俺はあゆなの足下で潰れたバーガーをできる限り綺麗に拾い上げ、一緒にもらったナプキンで可能な限り床に残ったソースを拭き取る。

 その際、ごろごろと喉を鳴らしていた猫を撫でてやる。

 猫が一鳴きしたのを聞いて、俺は立ち上がった。

「あの、ほんとに大丈夫ですから」

 上目づかいでもう一度大丈夫と口にするあゆなの姿は、むしろ俺のほうを心配しているようでもあった。

 あゆなはまぶたを伏せ、申し訳なさそうに肩を落とした。

「わたしこそすいません。健斗さんは一刻もはやく石宮さんを見つけたいと思ってるのに」

「……いや、俺のほうこそ悪いな。変に気を使わせちまって」

 俺はあゆながバーガーを食べ終えるのを待って、猫を抱えた。

「飼い主、見つかるといいな」

「はい……!」

 俺の後ろを着いて来るあゆなの姿は、母親を追いかける動物に似ていた。この場合は父親だろうか。しかしペンギンなんかは父親が卵を温めるっていうし、間違ってないだろう。

 それまで通り俺は妹を、あゆなは猫の飼い主らしき人を探して周囲に視線を走らせる。

「中々見つかりませんね」

「だな。これで一応一通りは見て回ったし、もしかするとここにはいねぇのかもしれねぇ」

「へ? じゃあ石宮さんはどこに?」

「さぁな? ま、あいつのことだから案外何ともなかったりしてな」

 場を和ませようとおどけ半分にそう言ってみたが、あゆなは気を使ってにこっと微笑んだだけだった。

 うーん、どうもバーガーのあたりから空気がおかしい。

 俺はこんな空気になることを望んじゃいないので、どうにか軌道修正できないものかと試みる。

「そ、そういや今日は悪かったな。部活に行く途中に声かけちまって」

「いえ、大丈夫です。石宮さんがいなくなったと聞いて、わたしから志願したんですから」

「ああ、ほんとありがとな。ところでよ、あゆな」

「どうしました?」

 あゆなは俺の腕の中で大人しくしてる猫の喉を撫でながら、続きを待っていた。

 俺はどう言ったものかと考えを巡らせる。

「あーとな、どんな部活をしてるんだ?」

「えーと、美術部ですよ」

「美術部? つったら絵を描く部活だよな?」

「まぁ絵だけじゃないんですけどね。他には彫刻とか」

「彫刻!」

 彫刻というのはあれか。木を彫って色々な形にする奴か。

「あれって体力いりそうだよな」

「はい。かなり疲れますよ。健斗さん、彫刻とかしたことないんですか?」

「俺んとこの高校、彫刻なんてしないから」

「そうなんですか。楽しいのに」

 あゆなはがっかりと肩を落とした。

 うーん……こんなはずじゃなかったんだけどなぁ。

「俺、彫刻って仏さま作るってイメージしかないんだけど」

「ふふ、まぁ代表的なものではありますよね。わたしは作ったことないんですけど」

「そうなのか?」

「だってかわいくないじゃないですか」

「そんなふうにいうなよ」

 仏さま傷つくよ。たぶん。

 なんて下らない話をしていると、俺の視界に見覚えのある頭頂部が飛び込んできた。

 あのまったく手入れをしていない無造作ヘアーは……、

「ちょっとこっち来て」

「ど、どうしたんですか、健斗さん!」

 俺は猫を抱えたまま走り出した。その後ろをあゆなが着いて来る。

 俺たちはあの無造作ボサボサヘアーのいた場所まで来た。が、そこには誰もおらず、肩で息をしている俺とあゆなを通行人が迷惑そうに振り返っているだけだった。

「……っかしいなー、確かにいたと思ったんだけどな」

「あっ石宮さんですか?」

「ああ、妹の頭が見えたような気がしたんだけど」

「頭……よくわかりますね」

「んー、まぁ長いつきあいだからな」

 俺はあいつの兄貴だし。つーかあの特徴的な爆弾ヘアーは普通にわかるだろ。

 なんてあゆなに言っても仕方ないので言わない。

 かわりに、サービスセンターを見つけたのでそちらへ近寄ってみる。

 受付のお姉さんがにこにこと胡散臭い笑顔で応対してくれた。

「いらっしゃいませー、本日はどういったご用でしょうか?」

「あの、えっと……ちょっと訊きたいんですけど」

「はい、なんでしょうか?」

「猫の迷子でも放送ってしてもらえますか?」

「猫……?」

 おそらく、人間の子供の迷子ならたくさん見てきたであろうお姉さん。

 しかし猫の迷子とは初耳だったようだ。少し面喰ったように表情を固まらせるが、すぐにそれまでと同じようににこっと口の端をつり上げると、快く頷いてくれた。

「いいですよ。そちらの猫ちゃんですね?」

「はい」

「どちらで発見されたのですか?」

「えーと、こいつが中央ホールにある木に登って下りられなくなってたんです」

「ああ……それであなたが下ろした、と?」

「いえ、それはこいつが」

「ああ、あなたが」

 お姉さんは俺からあゆなへと視線を移す。あゆなは気恥かしそうにしていたが、こくんと小さく頷いた。

 お姉さんはにこにこと笑顔を絶やすことなく、猫を見せてくれというので猫を渡した。

 ためつすがめつして、お姉さんが俺へと猫を返した。

「……彼女さん、かわいいですね。学生カップル羨ましいです」

 本当に何気なく悪気とか全然なくて言ったのだろうが、そのお姉さんの推測は残念ながらはずれだ。

 俺がそのことを訂正する暇もなく、お姉さんは放送へと移ってしまった。

「はは、彼女だってよ」

「………………………」

「ん? あゆな? どうしたんだよ、顔赤いぞ?」

「……何でもありません」

 どうしたんだろう?

 あゆなの心の内を図りかねて、俺は困惑した。

「放送しておいたので、もしかすると飼い主が現れるかもしれません。よかったらその猫ちゃん、こちらでお預かりしますけど?」

「わ、わたしも待ちます! ちゃんと飼い主のとこに帰るか確かめたいので!」

「そ、そうですか……彼氏さんはどうします?」

「あー……そうですね。残ります」

「そうですか。ではあちらのほうにベンチがありますので、そちらで待っていて下さい」

 少しだけ歩いた場所にある休憩所を指し示して、お姉さんは通常業務へと戻っていった。

 俺とあゆなはお姉さんに勧められたベンチへと行くと、よっこらせっと腰を下ろした。

 あゆな猫と戯れながら、少し沈んだ声で謝ってきた。

「……すいません」

「ん? 何が?」

「あの……わたしなんかと恋人っぽく見られちゃって」

「んー、俺は全然嫌じゃなかたっけど?」

「ほんとですか?」

「ああ、ほんと。あゆなはどうだった? 嫌、だった?」

「いえ、わたしも全然……むしろ嬉しかったというかごにょごにょ」

「へ? 何だって? 最後のほう聞こえなかったんだけど?」

「んな! 何でもありません」

 ぷくーっと頬を膨らませ、あゆなはそっぽを向いた。

 俺はそんな彼女が何だか可愛くてついつい苛めたくなっちまう。

「そんなに怒るなんて、やっぱ俺って嫌われてんだなー」

「いや、そんなことはないです! ……今日始めてあったわたしに色々よくしてくれて、親切にしてくれて……」

「親切つっても妹探しを手伝ってもらってるのはこっちだからなぁ」

「それでも、健斗さんはわたしに親切にしてくれました。それに、木から落ちそうになったわたしを助けてくれたし……」

「あれは……何だろ? 体が勝手に反応したっていうか」

「……えっと、すごく……かっこよかったです」

「お、おお……」

 そう素直に褒められると、何だか背中がむず痒くなってくる。

 俺はどう反応したらいいものかわからず、黙りこくってしまった。

 おそらくはそれがいけなかったのだろう。あゆなはちょっとだけ罪悪感のようなものを顔に滲ませて、小さく微笑んだ。

「すみません、わたし変なこと言いましたよね?」

「いや……変なことっつーかなんつーか」

 ただ単に、他人から褒められたり感謝されたり、そんな経験に乏しいだけなのだけど。そんな話をしたところであゆなには関係のないことなので黙っておく。

 そんな感じで、俺とあゆなの間には言いようのない緊張感が漂っていた。

 何だろう、甘酸っぱい青春劇にも似た、この状況は。

 どれくらいそうしていただろうか。俺はベンチに腰かけたまま、ちらりと隣で猫と戯れるあゆなを見やった。

 よくよく見れば、かわいらしい顔立ちと言えるだろう。

 まだ幼さの残る童顔にくっきりとした目鼻立ち。加えてあの性格だ。きっとすごくモテるし、友達も多いんだろうなと推測する。

 妹とは大違いだ。

 みたいなことを一人勝手に思っていると、前方からサービスセンターのお姉さんが駆け寄って来るのが見えたので、俺たちは同時に立ち上がった。

「飼い主の方が見えたようです」

「そうですか。わかりました」

「ありがとうございます」

 ぺこりと、あゆなは僅かに頭を下げた。

 それに習って、俺もお姉さんに向かって会釈する。

 お姉さんはにこっと優しく笑むと、俺たちをその飼い主の人のところまで案内してくれた。

 そこにいたのは、見た感じ十歳前後の女の子だった。

「ミー! どこ行ってたのー!」

 飼い主の女の子が駆け寄って来るとミー(おそらくは名前だろう)と呼ばれたらしい猫があゆなの腕の中からするりと抜けた。

 そのまま、女の子の腕の中へと飛び込んでいく。

 その後、一しきり再会を喜んでいた女の子とミーは思い出したように俺たちを見て、すっくと立ち上がった。

「この度は、ミーを見つけてくれてありがとうございました」

「どういたしまして。その猫、ミーちゃんとは仲よしなんだ?」

「はい。ずっと一緒でしたから」

「かわいいね、ミーちゃん」

「はい!」

 女の子が満開の笑顔で応える。

 あゆなは嬉しそうに女の子の頭を撫でていたが、やがてその手を引っ込める。

 俺たちと女の子は互いに手を振り合い、別れた。

「ふー、よかったな、無事に飼い主が見つかって」

「はい。一件落着です」

 あゆなは嬉しそうな、けど僅かに寂しそうな表情をしていた。

 笑っている、のだろう。出会ってからまだ一日と経っていないが、この子が笑顔以外の顔をするのが意外だった。

 意外だ、と思ってから、何を馬鹿なことを考えているんだと自分を叱責する。

 妹じゃないんだから、そんなふうに思うのは失礼というものだろう。

 なんて考えながら、ついつい妹と同じように接してしまっていたここ半日の自分を反省する。

「さてと、じゃあ次はどこに行きましょうか?」

 くるりと振り返り、あゆなは俺の隣を通り過ぎて行く。

「あれ? 健斗さん?」

「ああ、悪い。ちょっと考えごとをな」

 俺はあゆなの背中を追うように、彼女を追う。

 さて、次はどこへ行こう。

 

 

                 ◆

 

 

 そこから二時間、ショッピングタウン内をくまなく探しまわった。が、結局妹の影すら掴むことは出来なかった。

 俺たちはショッピングタウンから出て、近くの公園にいた。

 木陰に座り込み、ため息をついた。

「……どこ行ったんだろう、ほんと勝手な奴」

「あと、近くに石宮さんの行きそうな場所ってないんですか?」

「うーん……そうだなぁ……そうだ、確か近くにゲーム屋があったな」

 俺は携帯を取り出して、地図機能を開く。

 周辺地域を検索すると、やはりあった。ゲ●だ。

「んじゃあ最後にここに行って終わりにするか」

「え? もう……」

「ん? どした?」

「……いいえ、何でもないです」

「そっか」

 あゆはな残念そうに視線を落としていた。

 どうしたのだろう? 何か気にかかることでもあったのだろうか?

「どうしたんだ?」

「い、いえその……」

 やはりあゆなの態度は煮え切らない。

 そういやショッピングタウンでいくつか店を覗いたっけ。その時に欲しいものでもあったのだろう。

 俺はどうしたものかと空を見上げた。

 うーん……もしそうなら無理矢理連れて行くのはちょっと悪いな。でも妹探しはしなくちゃならないし。

 なんて思っていると、携帯が震えた。

 桜木からだった。

「悪い、ちょっと待っててくれ」

「は、はい」

 俺はあゆなを置いて、少し離れた場所で電話に出た。

「もしもし、どうした桜木?」

『あっ健斗、妹さんいたよ』

「まじか?」

『まじまじ』

 俺は妹がどこにいたのか尋ねた。

 すると、今俺たちのいる地点から近く、まさしく今から向かおうとしていたゲ●にいた。

『そこで私たち遊んでるから』

「おう、わかった。悪いな」

『大丈夫だよ。私もゲーム好きだから』

「ああ、知ってる」

 桜木の声はいつ聞いてもいいもんだな。

 俺は勝手に癒されていると、桜木が少し声のトーンを落として訊いてきた。

『……ところで、今って一人?』

「ふぇ! 一人だけどどうした?」

『んーん、何となく今、健斗が知らない女の子と一緒にいるんじゃないかと思って』

「ははは、そんな俺がいつもいつも女の子と一緒にいる訳がないだろ?」

 怖ぇぇぇぇぇ!

 俺は背筋が凍りそうになって、思わず身震いした。

 さすがにそんなとこまでは桜木に伝わるはずもなく、俺たちはその後、●オで落ち合う約束をして、電話を切った。

 携帯の画面を見ながら、そーいや桜木は結構嫉妬深い性格だったことを思い出す。

 いくら相手が妹みたいなJCだったとしても怒りを露わにするだろう。

「悪い、待たせたな」

 俺があゆなの元まで戻ると、あゆなは小さく首を振った。

「大丈夫です。それより、チラッと聞こえて来たんですけど石宮さん見つかったんですか?」

 ああ、と俺は頷いて、それから気恥かしさを抑えて続けた。

「知り合い……つーか俺の彼女が見つけてくれた」

「え? 彼女……」

「ん? ああそうだけど、どうした?」

 気のせいだろうか。あゆなは何だかショックを受けたような顔……ってんな訳ねぇか。

 俺は自分の誇大妄想を振り払うと、あゆなに向かって手を差し出した。

「ま、これで一応一安心だし、ちょっと遊んで行こうぜ?」

「でも……」

「あいつらも遊んでるって言ってたしな。もう一度ショッピングタウンに行こう」

「……は、はい!」

 あゆなは大きく頷くと、俺の手を取って立ち上がった。

 桜木とはまた違う、少し加える力の方向を間違えれば折れてしまいそうなくらい華奢な手だった。

 そのあと、俺たちはショッピングタウンへと舞い戻る。

 さすがにこの時間だと人の流れは疎らで、するすると進むことが出来た。

「さてと、どこ行くか」

「あ、あの! わたしちょっと寄りたいところがあるんですけどいいですか?」

「いいぜ」

 俺が了承すると、あゆなはどこかぎこちない顔で笑った。

 俺たちが向かったのは、タウンの二階にあるアクセサリーショップだった。

 店内は黒を基調とした落ち着いた雰囲気で統一されていて、まぁ好きな部類の店だ。

 俺とあゆなは店内を物色する。

 ここはさっき、まずありえないだろうと思いつつも立ち寄った店だった。

 妹はファッションやなんかにはさほど興味を示さない。

 しかし若干中二病が入っていて、割と趣味の悪いものを喜ぶ節がある。

 まさかとは思うが、あゆなもそうなのだろうか?

「実はさっき来た時から気になってたのがあって……あった、これだ」

 あゆなが手にしたのは、不思議な形をしたネックレスだった。

 何だろう……原●パイを半分にしたような形、とでも表したらいいだろうか。

 そしてあゆなはその隣のブレスレットも手に取った。

「はい、健斗さんはこっち」

「俺も買うの?」

「……だめですか?」

「いや、だめっていうか……俺アクセサリーとかしないし」

「そう……ですか」

 目に見えてしゅんとするあゆな。

 ああもう、そんなふうにされたら断りにくいだろうが。

「わかったよ。俺も買うよ」

「ありがとうございます!」

 俺が●氏パイの形をした装飾のあるブレスレットを受け取ると、これまたなぜかあゆなが大喜びしていた。

 ぴょんぴょんと跳ねる仕草はまるでうさぎを連想させた。

「……心がぴょんぴょんするんじゃあ〜」

「何ですか、それ?」

「んー、嬉しい時に言う言葉」

 俺は先日桜木からの受け売りを教えた。

 自分が嬉しい時、誰かが嬉しくって自分にまでその嬉しさが伝わって来た時。

 笑顔になれる瞬間にこの言葉を言うのだと。

 桜木はそう教えてくれた。

 だからまぁ、今がその時なのだろうと俺は思った。

 妹と同い年の女の子と買い物に来て、こうして選んで。

 そしたらその子が喜んでくれて。

 使い時は今、この瞬間を置いて他にないだろうと思えるような状況だった。

「そうなんですか? わたしも今度使ってみよーっと」

「ははは、そうだね」

 俺たちは揃ってその二つをレジに持っていく。

 ここはどうしても自分が払うと言って聞かないので、俺はじゃあということで素直に甘えておくことにした。

 ショッピングタウンから出ると、夕日が沈んでいくところだった。

 

 

                 ◆

 

 

 俺たちはそのまま、●オへと向かう。

 向かいながら、道中桜木にどう言い訳しようかと考えていた。

 電話では女の子と一緒にはいない、みたいなことを言ってしまった手前、あゆなを連れて行くと確実に怒られるだろう。

 うーん、と俺が悩んでいると、あゆなは唐突に俺の前へと躍り出る。

 自然、俺たちの歩みは止まった。

 あゆなはくるくると楽しげにステップを踏み、ニッと口の端をつり上げて笑う。

「そんなに不安そうな顔しないで下さい。大丈夫ですよ。別に浮気とかしてた訳じゃあないんですから」

「そ、そうかなぁ……」

「健斗さんって基本男の子してますけど、妙なところで女々しいですね」

「うぐっ……痛いところを」

 しかしそれにしたって仕方のないことだろう。

 俺は桜木の前じゃあ絶望的に弱い。特別弱みを握られている訳でもないのに、何となく桜木の嫌がりそうなことはやりたくないと思ってしまう。

 きっと今この時も、桜木は妹や他の人とゲームをして楽しんでいるのだろう。

 笑っているといいな。

 その笑顔をこれからぶち壊しに行かないといけないのかと思うと、そりゃあ気も滅入る。

「ふふ、じゃあわたしがとっておきのおまじないをしてあげます」

「おまじない?」

「はい。ちょっと目を閉じて下さい」

「……こうか?」

「ちょっと、動かないで」

 がさがさと袋がこすれ合う音が聞こえる。

 頬を細くて柔らかな感触が包み込む。その感触に、俺は一瞬びくっとして目を開けそうになった。けど、我慢してあゆなの言うおまじないとやらが終るのを黙って待った。

 どれくらいの時間が経ったのだろう。

 数分、下手をしたら数十分。

 沈黙がいやに時間を長く感じさせた。

 一体何が起こるのだろう。そんなどきどきが俺の鼓動を早くする。

 ごくりと息を飲む音がした。周りに人の気配はなく、今そのことを不思議に思う。

 どうでもいいことだ、と自分の中で一蹴する。

 頬に触れた手が震えていた。

 それからスッと、もう一方の手が伸びてくる。

 そのままゆっくりと、僕の顔を自分のほうへと引き寄せるあゆな。

 真っ暗な空間で、彼女の腕が示してくれる導きだけが俺の道しるべだった。

 

 

 ――ちゅっと。

 

 

 額に、ものすごく柔らかい感触が生まれて、すぐに消えた。

 同時に俺の頬にあった彼女の手も離れる。

「……もう、目、開けていいですよ」

「……何したの?」

 俺は額を撫でながら、その不思議な感触を思い出していた。

 思い出しながら、あゆなを見やる。

 あゆなは全身を真っ赤にして、チワワみたいにぷるぷると震えていた。

 俺が何度覗き込んでも、決して目を合わせようとしない。

 何かを堪えるように口を噤んでいた。

 それから、俺たちはゲ●に着くまで無言だった。

 

 

                ◆

 

 

「遅かったね、健斗」

 ゲ●に着いたと同時、開口一番に桜木がそう言った。

 俺は悪いと謝罪し、どうにか桜木の機嫌を直させた。

「あにき……浮気?」

 が、妹が俺の後ろにいたあゆなに気づいたのだろう。いらん一言を口走ったせいで桜木の機嫌がまた悪くなる。

 俺がまた謝ろうと頭を下げかけた、その時だ。

「違うよ、石宮さん」

「……確かあなたは、吉祥寺さん……だっけ?」

「うん、覚えててくれたんだぁ。うれしい」

 あゆなは心から喜んでいるらしく、ぎゅっと妹に抱きついた。

 妹鬱陶しそうな顔をしていたが、無理矢理引き剥がそうとはしなかった。

 まぁそんな体力、こいつにある訳がないんだが。

「それで? ちゃーんと説明してくれるよね、健斗?」

「いやぁ……話せば長くなるんだけど?」

「私、心が広いからちゃんと聞いてあげる」

「……わかったよ」

 それで桜木の誤解が解けるというのなら、お安い御用だ。

 俺はここまでの経緯をかいつまんだりすることなく、長々と詳細に至るまで話して聞かせた。……もちろん、木登りの下りは省略したが。

 それから、なぜかアクセの部分も省いたほうがいいというあゆなの提案により、その部分もぼかして説明することにした。すると、やはりというか何というか桜木は詳細な説明を求めてきたので、俺ではなくあゆなが事細かに語って聞かせていた。

 ……何だろう、七割半作り話なような気もしなくもない内容だった。

 しかしまぁそれで桜木は一応納得した様子だったので、これ以上何も言わない。

 せっかく鎮火しかけたというのに、そこに再び火種を放り込むようなことはしない。

 今はようやく見つかった妹との感動的な対談に興じるとしよう。

「で、どうして何も言わずいなくなったんだ? 心配しただろう」

「心配いらないって手紙書いてたと思うけど?」

「あんな置き手紙一枚じゃ家出と勘違いされても仕方ねぇぞ!」

「あにきも大概、妄想が過ぎるよね」

「んだと? ……まぁいい。それで、おまえは何をしていたんだ?」

「今日、新しいゲームの発売日だったんだよね」

「へぇ……それで? だから早朝から買いに来てたと?」

「ほんとは昨日……いや一昨日の夜くらいから並んでたかったんだけど、営業妨害にもなるし止めといた」

「ったりめーだ馬鹿かおまえは!」

「はぁ……ついにあにきに馬鹿呼ばわりされる時がくるとは」

 妹はそのことを嘆くように、およよ、と泣き真似をする。

 それがおふざけであったことは重々承知していた。が、今回はまじで心配したのでそのおふざけにはつきあわない。

「ふー……まったくこいつは、今度からはちゃんと全部言え。そしたら俺も並ぶのつきあってやるから」

「だったらむしろあにき一人で並んでよ」

「俺はおまえと違ってゲームとか疎いからな。よくわからん」

「はぁ……仕方ないなぁ。今度からそうするよ」

 妹は大きくため息をつくと、なぜか俺がわがままを言っているみたいな態度を取った。

 何だか非常に納得いかなかったが、まぁいい。無事だったことだし。

「桜木も悪かったな。妙なことにつきあわせて」

「んーん、私は別に大丈夫だよ。ゲームショップ巡りもできたし」

「……そういや、その両手の袋は何だ?」

「これ? 全部買ったゲームだよ?」

「それってまさか?」

「そ、妹さんが言ってた今日発売の最新の奴」

「ぜ、全部同じものか?」

「店舗ごとに得点が違ったり、限定版と通常版があったりするからねぇ」

「あたしはここまでできないな。やる必要もないけど」

 珍しく、妹に同意する。ここまでやる必要あるか?

「保存用鑑賞用布教用って奴か?」

「ああ、それは別に買う予定」

 まだ、同じゲームを買う予定がある、だと!

 俺は驚愕に目を見開いた。

 このゲームだけで、一体どれほどの出費なのだろう。考えるだけで恐ろしい。

 何だか目眩がして、桜木から視線を外す。と、あゆなと目があったので、こいつにもお礼を言っておことにした。

「ありがとな、今日は。結局はこういう結果になっちまったけど」

「いいえ、わたしも楽しかったです。石宮さんの意外な一面が見れて」

「ははは、意外ってほどでもねぇだろ?」

「いいえ、意外でした。石宮さん、学校じゃあほとんど他人と喋らないし、ずっと本を読んでますから。授業も退屈そうで。だからわたし、今日はほんとに楽しかったです」

「……そうか。ならよかった」

 わざわざ部活を休ませてまで協力してもらったからな。そう言ってもらえると、俺も幾分か心が楽になる。

「さて、もう暗くなるし、帰ろうぜ」

「うん」

「だね」

「はい」

 その場にいた全員がほとんど同じタイミングで頷いた。

 俺は女の子三人に囲まれて、帰路につく。……うーん、この字面だけ見たら俺、なんかすげー女たらしみたいじゃね?

 あゆなとは、駅で別れた。

 電車を待つ間、あゆなのことを桜木に紹介し、妹に紹介する。逆もまたしかり。

 それから他愛のないことを話していると電車がやって来て、あゆなはその車両に乗り込んだ。

「それじゃあみなさん、またお会いしましょう」

「ええ、楽しみにしているから」

「ん」

 妹の素っ気ない態度にも、あゆなは笑顔だった。

 一人一人視線を送り、そして俺のほうへと顔を向けた。

「それじゃあ、またです――健斗さん」

「ああ、またな――あゆな」

 互いに名前を呼び合い、電車のドアが閉まる。

 汽笛とともに発進する。

 彼女へと手を振り続け、見えなくなったところで手を下ろした。

「ふう、行っちまったなぁ」

 たった一日しかともにいなかった。加えて今生の別れという訳でもないのに、何だか妙に寂しい気持ちになる。

 俺は自分でも不思議なその気持ちに、軽く困惑した。

 困惑してから、まぁいいかと思う。

「さてと、俺らの電車は何分だっけ?」

「待って、健斗」

 俺が時刻表を確認しようとすると、桜木の手が俺の肩にかかった。

 ぎりぎりと強く握ってくる。いでででででででででででででで!

「何すんだよ、桜木!」

「健斗さんって何? あゆな? ずいぶんと親しげに呼ぶ合う仲なんですね?」

「あ、あの……桜木、さん? 顔、恐いですよ?」

 俺は桜木の般若のような笑顔を目の当たりにして、危うくちびりそうになった。

「は、ははは……」

 乾いた笑いが漏れる。

 最早言い訳など無意味で殺されるかと思った。

 ま、これはこれで楽しいし、ありなのかもしれない。

 なんてことを思う、今日この頃だった。

 

 

                                       FIN

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