第6話 桜木玲と石宮家の妹(仮)

現在の状況を説明すると。

 俺の目の前には我がマイスイートハ二―、桜木。

 右隣には俺の妹、そして左によく知る女の子。

「……どういうこと?」

「えーと」

 ゴゴゴゴゴゴゴゴッ、と背景に効果でも現れなくらい不機嫌そうな笑顔を浮かべる桜木。

 ちらりと助けを求め、妹へと視線をやる。が、我が妹は傍観を決め込むつもりらしい。一ミリも動く気配がしない。

 どうしたものかと考えを巡らしていると、桜木の不機嫌メーターが更に上昇する気配がした。

「どうして黙ってるの? ちゃんと説明さえしてくれたらそれでいいんだけど」

「いやあ……どう言ったもんかと思って」

 どう説明したところで桜木の不機嫌が治るとは思えなかった。

 しかし、このまま黙っていても時間のロスだ。俺は意を決し、俺の腕に絡みついている女の子についての弁解を始める。

「実はこの子は親戚の子で、昔からこうなんだ」

「それで?」

「そ、それで小さい頃から俺になついていて」

「ふーん」

「えと……その……」

 やっぱだめだ! 今の桜木に何を言ったところで聞き入れてもらえる気がしない。

 再度助けを求めて妹の方へ視線を。すると、妹はやれやれといった様子でため息をついた。

「桜木さん、あにきの話は本当だよ。この子の名前は佐倉井美砂。あたしと同い年で今年で十四歳」

「わたしの方が二ヶ月年上だからもう一五歳よ」

「黙ってなさい」

 ギンッ、と妹の絶対零度の視線が親戚の女の子――美砂へと突き刺さる。

 美砂はびくっと体を震わせ、なおぴったりと俺にくっついてくる。妹とは正反対で年の割に発育がいいため、俺の腕はふたつの柔らかい感触に包まれてしまう。

 それがまた、桜木の琴線を揺らしたようだ。もう二、三度ほど気温が低下したような錯覚に捉われる。

 そもそもなぜ、俺はこんな目に逢っているのか。

 時間をおよそ一時間半前までに遡る。

 

                ●

 

 一時間前。居間でテレビを見ていると突如としてインターホンが鳴り響いた。

「……誰もいないのか?」

 そういや、両親は趣味の旅行。妹は当然部屋から出てくるはずもない。

 仕方なく、俺はテレビを消して来訪者への対応へと向かった。

「はいはーい、どちら様―っと」

「久しぶりだね、お兄ちゃん」

「……えーと、誰果?」

 玄関の戸を開けた先に待っていたのは、見ず知らずの女の子だった。パッと見の年齢は十四、五歳くらいだろう。少し明るめに染めた髪色に、太陽のような笑顔がよく映え

る女の子だ。

 ん? いや待てよ。どこかで会ったことがある気がするぞ?

「むむう……わたしのこと忘れちゃったの、お兄ちゃん?」

「その……」

 その女の子はぷくーっと不満そうに頬を膨らませていた。

 よく見ると知り合いに似ていないような気がしないでもない。スッと通った目鼻立ちとか、童顔ながら整った輪郭とか。

「ちょっと、何してるのあにき?」

「ああ、いや……」

 俺がいつまでも玄関先で四苦八苦していたからだろう。妹がひょっこりと顔を出してきた。

 そうすると、ばっちり目と目が合う訳で。

「わー、久しぶりだね!」

「……誰?」

 片や嬉しそうに。片や訝しげに。各々反応を示してくれた。

 しかし、そんなことが解決に繋がるはずもなく。

 女の子は俺だけでなく、妹の記憶にも存在しないとわかると、ことさら頬を膨らませ、不満顔を作る。

「どうして二人とも忘れちゃってるの?」

「どうして、と言われても」

 桜木以外でこんなかわいい子と知り合いだったという記憶はない。ましてや年下ともなるとなおさらだ。

「わたしだよ、わたし! 佐倉井美砂!」

「へ? 美砂って従妹の?」

「そう、なんで二人とも忘れちゃってるかなあ?」

 あー……そういやいたな。もう三年くらい会ってないけど。

 美砂はぷんぷんと怒りを露わにするようにそっぽを向いた。俺は慌ててフォローする。

「いや悪い。昔とはすげえ変わっちゃってたからさ」

「……そういうお兄ちゃん達は変わらないね」

「はは、まあな」

「……誰?」

 俺と美砂が会話を交わしている中、ただ一人怪訝顔から脱していない奴がいた。

 俺の妹だ。

 妹はずいっと美砂に顔を近づけると、上から下まで舐め回すように観察を始める。

「おい、やめとけって」

「さくらい……さくらい……だめだ、思い出せない」

 妹はうーんと頭を捻って、必死に思い出そうとしていた。が、一向に思い出せなかったらしい。

 まあ無理もないだろう。こいつは俺と違い、筋金入りのゲーマー。親戚の集まりの時も一人で携帯ゲームをしていたくらいだ。

「まあ何でもいいや。あにき、あとよろしく」

 妹は美砂に興味を失ったらしく、ひらひらと手を振って家の中へと引っ込んで行ってしまう。

 俺は妹に代わり美砂に謝罪する。

「悪いな。ああいう奴で」

「んーん、全然。昔からああだったもんね」

「そう言ってもらえると助かる。何の用事で来たんだ? ああ、立ち話もなんだな。上がれよ」

「それじゃあお言葉に甘えて。お邪魔しまーす」

 美砂は一瞬で靴を脱ぎ、とんとんと警戒な足取りで居間へと向かう。

 まるで我が家のことを知りつくしている風だったが驚きはしない。なぜなら幼少の頃、美砂は何度か家に遊びに来たことがあった。

 俺んちと美砂の家は割と近所だ。とはいっても駅ひとつ分はあるけど。

 ぼふんと美砂はソファに座った。それを見て、俺は台所へと向かう。

 二人分のコップを用意して、麦茶を注ぎ、美砂のもとへ戻る。

 それを差し出して、俺も美砂のとなりに座った。

「熱かったろ?」

「まあね。でも外に出るのは好きだから別に大丈夫だよ。日焼け止めも塗ってるし」

「そうか」

 昔は日焼けなんて気にしてなかったのにな。三年会わない間にこうも変わっちまって。

「そんで? 今日はどうして?」

「ふふん、実はちょっと花嫁修業に」

「……は?」

 まて、意味がわからん。どうして花嫁修業なんだ? どうして俺んちなんだ?

「ね、お兄ちゃん。あの約束覚えてる?」

「や、約束?」

「そ。小さい頃に、わたしがお兄ちゃんのお嫁さんになってあげるって言ったの」

「ああ……そういやそんなこともあったっけなー」

 やべえ、欠片も思い出せねえ。

 仮にそんな約束があったとしても、お互いに年頃だ。とっくにいい思い出として風化しちまってもおかしくないだろ。

 が、そんな俺の心情を知ってか知らずか、美砂は俺の腕に絡みつき、きゅっと僅かに力を込めて抱きついてくる。

 その際、言いようのない幸福が俺を包み込んだ。

「どう? 少しは女の子らしくなったでしょ?」

「あーと……その」

 俺が言い淀んでいると、焦れたのか美砂はさっきと同じようにぷくーっと頬を膨らせ、かわいらしい不満顔で俺を睨みつけてきた。

「もしかして覚えてないの?」

「そ、そんなことは……」

 最早まっすぐに目を見ていることはできなくて、俺はさっと視線を逸らした。

 まあそんなことすりゃあ答えなんて言わなくてもわかっちまうだろうけどな。

「むむむ……覚えてないんだぁ」

 しょぼんと肩を落とす美砂。俺は慌てて弁解した。

「い、いや覚えてないというか細部を思い出せないとうか自信をもってそんなことがあったなんて言えないだけでなんとなーくは覚えてるんだ。ほんとぼんやりとだけどな」

「……いいよ、あの約束を覚えてたのはわたしだけだったんだね」

「えっと、その……」

「でも大丈夫だよ!」

「……何が?」

「例えお兄ちゃんが覚えていなくてもわたしはお兄ちゃんのこと大好きだからね!」

「ああ……ありがとう」

「どういたしまして」

 えへへ、とはにかむ様に笑う美砂に、俺も思わずつられて笑ってしまっていた。

 確かにまったくこれっぽっちも記憶になかったが、こうまで言ってもらえるとありがたい。素直に嬉しいと思える。

 ……が、そこで俺はあることを思い出していた。

「……あーっ!」

「何々! どうしたの!」

 突然を大声出した俺に驚いたのか、美砂もびくっと肩を震わせる。

 俺は両手の皺と皺を擦り合わせ、平身低頭陳謝する。

「すまん、今日はちょっと約束があるんだった」

「約束? 誰との?」

「あーと……恋人、と」

「……こい、びと?」

 一瞬にして空気が重くなる。何というか、息苦しくなると表現したくなる感覚だった。

「え? それは何? 何の冗談?」

「へ? いや冗談とかでは」

「お兄ちゃんに恋人なんて出来る訳ないじゃない!」

「ちょっおまっ! それはいくら何でも言い過ぎだろ!」

 出来る訳ないとか言うんじゃない。

 しかしそんな俺の主張を無視して、美砂は大声で、ヒステリックに叫び続けた。

「どうして! お兄ちゃんのお嫁さんはわたし! わたししかいないのにっ!」

「でもそれってもう十年くらい前の話じゃね?」

「何年経とうと色あせることのない約束なの! これはっ! そのためにわたしは今まで頑張ってきたんだよっ!」

 涙ながらに訴える美砂に、俺は困惑を隠せずにいた。

 え? 何これ? 泣くとこ?

「お兄ちゃんは……どうしてわたしとの約束を忘れちゃったの?」

「どうしてって言われてもな」

 普通は十年も前の、子供の頃の約束なんて覚えてる訳ねぇって。仮に覚えていいたとしてもいい思い出、くらいで終わるもんだ。

 なのになんで美砂はこんなに怒ってるんだ? それがわからない。

「うう……ひっく」

「おい美砂……?」

 座り込み、嗚咽を漏らし始める美砂に俺はどうしていいかわからず、おろおろするばかりだった。

 くそ、こんな時に頼りになりそうな奴が俺の知り合いにいねぇ。

 泣きじゃくる子供のあやし方がわからずにいた俺の耳に、インターホンの音が響く。

 それはもう、轟くようにうるさく。

「誰だ、こんな時に」

 今は取り込み中だ。居留守しよう。

 そう思って無視していたのだが、いかんせん相手も強かった。一分ごとにインターホンを鳴らし続け、五分が経つ頃には俺の方が根負けしてしまう。

「はいはい、ちょっとまって」

 今日はいやに来客が多いな。

 俺はひっくひっくと涙を流す美砂をとりあえず放置して玄関へと向かう。

 ドアスコープから来訪者の姿を確認し――全身に鳥肌が立った。

 俺んちの玄関先。そこに立っていたのが桜木だったからだ。

「……なんでだ?」

 まだ約束の時間までいくらかあるはず。そう思って携帯を取り出す。

 と、既に約束から三十分は経過していた。どうもリビングの時計は壊れていたらしい。

 俺は恐る恐る扉を開け、美砂のことは悟られぬように満面の作り笑顔を浮かべる。

「よ、よう桜木」

「ごめんね、約束の時間になっても待ち合わせ場所に来なかったからどうしたんだろうって思ってきちゃった」

「わ、悪いな。楽しみ過ぎて昨日寝れなくてな。寝坊しちまったんだ」

「そうなんだ」

 その程度のことで怒ったりするほど狭量な奴でないことくらいは承知していた。だからあえてこの言い訳を選んだのだ。

「すぐ準備するからちとまっててくれ」

「うん、わかった」

 俺は桜木を玄関先に残し、ダダダダダーッと自分でもびっくりなほどの速度でリビングへと戻る。戻って……どうしよう!

 ぐずる美砂をこのまま放って行く訳にはいかない。しかし桜木にこのことばバレたらどんな目に逢わされるかわかったものじゃあない。

 俺は、どうしたらいいんだ?

 途方に暮れてしまった俺は一先ず二人のことを頭の片隅に追いやってから妹の部屋へと向かった。

 ドンドンドンッと扉を叩く。すると、妹はゴキブリでも見るかのような不快感丸出し表情で俺を見上げてくる。

「何? 今いそがしいんだけど?」

「力を貸してくれ」

「嫌だ。もう少しでヒロイン一人攻略出来そうなのに」

「んなことより俺のことを助けてくれよ!」

 この兄をさあ!

 俺は両手を擦り合わせ、必死に懇願する。と、妹は深く、かなりふかーくため息をついて。

「……どうしたの?」

「――! 実は今日桜木と出かける予定があったんだ!」

 俺は現状を出来る限りかいつまんで、しかしわかりやすく妹に伝えた。

 妹は少しの間考え込むように視線を泳がせると、ひとつの条件を提示してきた。

「……お土産にお菓子買って来て。それでどうにかする」

「わ、わかった。サンキューな」

「べ、別に……いい機会だからパシッとこうと思っただけ」

 俺が妹の手を握って謝辞を述べる。すると妹は若干頬を赤らめて顔を逸らした。

 ん? なんだ? まあいいか。

「じゃあ美砂のこと頼んだぞ」

「……はいはい、さっさと行って来たら?」

「ああ、悪いな――いっ!」

 ひらひらと面倒臭そうに手を振る妹に背を向け、部屋をあとにする。

 ――その時点で、俺は身動きが取れなくなってしまったのだった。

 なぜなら、俺の目の前にいたのが渦中の人物であったからだ。

「ど、どうしたんだ、美砂?」

「……お兄ちゃん、出かけちゃうの?」

「えーと、悪いな。ずっと前から約束してたからさ」

「やだやだ、行かないで!」

 さっきまでのヒステリックな態度はどこへやら。今度は泣きじゃくりながら俺の胸へと飛び込んで来た。

 くそ、どうすりゃいいんだ!

 助けを求め、先ほど同盟を組んだばかりの妹へ視線を寄越す。

 すると、妹はやれやれといった様子でPCをスリープモードにすると俺と美砂の間に割って入って来てくれた。

「いい加減にしてくれない? あにき、困ってるんだけど?」

「……何? 関係ないでしょ?」

「関係あるから言ってる。他人の部屋の前で一体何をしてるんだか」

「だったら別のとこ行こ、お兄ちゃん」

 ガッと美砂が俺の手を握って引っ張る。反対側から妹の手が伸びて来て、双方から俺を引っ張り合う形となる。

「離してよ」

「そっちこそ」

「痛え、痛えって!」

 なんだこいつら、意外と力強いぞ。

 美砂はともかく妹にこれほどの体力があったことに驚いて、俺は思わず目を剥いた。

 何かとんでもない失敗をしでかしてしまったような気がしなくもないけど……、

「……何をしているの?」

 ビュオオオオオオオッ、と。一瞬にして空気が凍りつく。

 俺達三人がそうして遊んでいると、玄関先で待っていたはずの桜木がすぐ目の前に立っていた。

「さ、桜木……どうしたんだ一体?」

 だらだらだらだら、と顔中から嫌な汗が流れ出る。

 嫉妬深い桜木のことだ。このあとにどんな言葉を浴びせられるかわかったものじゃあない。

 俺が内心恐怖に怯えていると、桜木はにっこりと満面の笑みを浮かべて俺を見据えてきた。

 そこから先は語るべくもないだろう。

 

 

               ◆

 

 

 回想終了。一時間半後、現在へと舞い戻る。

「と、とにかく落ち着け。なっ?」

「私は落ち着いています。ええ、落ち着いていますとも」

 や、やべえ……すごく怒ってらっしゃる。

 俺はとにかく激おこ状態の桜木を鎮めようと必死に言葉を紡ぐ。が、桜木が耳を傾けることはなかった。

「少し黙って下さい」

「はい……」

 優しい、しかし氷点下にまで圧縮された怒気が俺の動きを封じる。

 くそ、どう転んでも俺は血の目を見ることになりそうだ。

「……あ、あなたがお兄ちゃんの彼女さんですね!」

「お兄ちゃん? 健斗くんにもう一人妹さんがいたなんて知りませんでした」

「そいつは妹じゃないよ、桜木さん。従妹だよ」

「へえ……だから〝お兄ちゃん〟ですか。慕われてますねえ、健斗くん?」

「あ、ああ……まあな。そ、そんなことより桜木」

「そんなことより?」

「……何でもないです」

 桜木の睨み据えられて、俺は黙りこくってしまった。

 ああ、どうもこういう雰囲気は苦手だ。

 逃げ場がない。どうしようもない。

「……それで、どうしてそんなにぴったりと張りついているんです?」

「お、お兄ちゃんはわたしのものだよ!」

「誰もおまえのものになった覚えはねえ」

 桜木に問われ、怯みつつも答える美砂に突っ込みを入れる俺。

 何だろう、この状態は。

 俺が疲労感に頭を悩ませていると、嘲るような桜木の笑い声が聞こえてきた。

「何を言っているのでしょう、この子娘は」

「桜木、キャラが崩壊してるぞ?」

「健斗くんは黙ってて下さい!」

「……はい」

 助け舟を期待して妹を見やる。が、特別何をする訳でもなく、ことの成り行きを静観するつもりのようだ。

 ことここに至り、自分に出来得ることは何もないと判断したのだろう。

 俺の意志とは関係なく、一層強く腕を握られる。その度に美砂の未成熟な果実が俺の腕にあたり、幸せな気分になる。

 しかし、すぐ目の前の桜木からの威圧感で我に返る。そうして、再び現実を直視しないといけないのだ。ああ、なんと無情なことか。

 桜木は心底苛立った表情のまま、こほんと咳払いを一つした。

「まあ私も年上の身としてうるさく言うつもりはありませんが、しかしこれだけは言わなくてはならないでしょう。――健斗くんが一体誰のものであるか」

 ぎらりと桜木の目が光る。超恐かった。だがその顔もまたいい。

「だから、お兄ちゃんはわたしの……」

「健斗くんは私のものです。これは揺らぎようのない事実。ですから私はあなたがそうして健斗くんをたぶらかそうとしたところで何の感情も抱きません。そんなことで健斗くんの私へのあ、あ、あ……愛がっ! 揺らぐはずはありませんから!」

 何つーか、もうちょっと自信に満ち溢れた顔をしていればもう少し説得力も会ったと思うのだが。まあでも、そういう不安そうな表情も捨てがたい。

 もしこのような状況でさえないなら、きっとカメラでも持参して写真に抑えていたことだろう。そのくらい、今の桜木の表情は俺好みだった。

「な、何を……何を言ってるの! お兄ちゃんはわたしの――」

「いいえ、私のものです。これは事実であり現実であり確実な一つの理論体系です。真実はいつも一つなんですよ?」

「で、でもお兄ちゃんがそうだとは限らないでしょ!」

 オットー? ここまで俺の意志や意見をガン無視してきたにもかかわらず唐突に俺の意識を問うてくるとは。美砂は美砂で結構なサディストの素質がありそうだ。

 ともあれ、二人が俺を取り合っているこの状態は非常に厄介だ。厄介と言うより面倒だ。と言った方が適当だろう。

 なぜなら、どちらを選んだところで報復行動が予想されるからだ。

 だがしかしまあ、考えるべくもなく答えは決まっているのだが。

「俺は桜木のものだ。そして桜木も俺のものだ。異論は認めない」

「ふふ、でしょうね」

「そ、そんなあ……」

 勝ち誇った笑みを浮かべる桜木と、肩を落とす美砂。双方の反応を見て、俺は更に言葉を続けた。

「しかし、他人様んちでそんな話を始めて、あまつさえ他人に迷惑をかけるような奴は願い提げだけどな」

「へ? そんな人がいるの?」

「そんな輩は刻んで炉心にでもぶち込んでやればいいと思う」

 二人が二人して意外そうな顔をしていた。

 え? 何、自覚ないの?

「お、おまえらなあ……」

「ど、どうしたのお兄ちゃん?」

「健斗くん? 具合でも悪い?」

 ……こんな時ばっか意気投合してんじゃねえよ! 

 

 

                ◆

 

 

「お兄ちゃん、こっちのソファに座ってて」

「無理しちゃだめだよ、健斗くん」

「……誰のせいだと思ってんだ、おまえら」

 俺は半ば無理矢理、テレビの前のソファへと座らせられた。

 そして再び、喧嘩を再開させる桜木と美砂。

 ……ったく、どうしたもんか。

「モテモテだね、あにき」

「おまえ他人事だからってなあ……」

 こっそりと俺のとなりに陣取った妹に耳打ちされ、俺は呆れ混じりにため息をついた。

 別にこの状況そのものを嫌がっている訳じゃあない。ただ、何となく落ち着かないだけだ。

 自分を取り合って女の子二人が喧嘩をする。少女マンガとかじゃ割によく見るシチュエーションだろう。だが、経験のない奴が聞いたら贅沢だと言われるかもしれんが、かなり疲れる。精神的に。

「……なあ、ほんと頼むからどうにかしてくれよ」

「そんなこと言われても。ヒートアップしているあの二人を止める方法なんて……」

 妹はうーん、と唸る。打開策を考えてくれているようだ。

 俺はそんな妹の好意に期待していた。

「あっ、こんなのどう?」

「どんなのだ?」

「みんなで出かけるの」

「ま、まじか……?」

「何? 嫌なの?」

「嫌というより」

 俺はちらりと背後で不毛な言い争いを続ける二人を見やる。

 嫌、というよりきっと面倒なことになる。それも、かなりの確率で。

「でもこのまま家の中で過ごすよりはいいと思うんだ。外に出て楽しいことしてれば、自然と二人の距離も縮まるんじゃない?」

「そ、そうか……?」

 あまりそうとも思えないが。

 とはいえ、他に選択肢もない。せっかく妹が考えてくれたんだ。実行してみるのもありだろう。

 俺はソファから立ち上がり、体ごと桜木達を振り返った。

「な、なあ二人とも聞いてくれ」

「健斗くん、今忙しいからあとにして」

「そうそう。お兄ちゃんはそこで座ってまっててよ」

 ぎらりとした鋭い眼光で睨み据えられ、俺はすごすごと再びソファに腰を下ろした。

「……情けない」

「うぐっ」

 妹の容赦のない突っ込みが俺を襲う。しかし、言い返すことは出来なかった。

 なにせ本当のことだから。

「で、でもよお……あいつらの迫力の前じゃあ無理ねえって」

「ふう……仕方ないなあ。だったらあたしが究極の必殺技を伝授してあげるよ」

「きゅ、究極の必殺技?」

「そう。必ず殺す技と書いて必殺技」

「いや、殺す必要はないんだが……」

「まずね」

 妹は疲弊した俺の懇親の突っ込みを軽く無視して耳打ちしてくる。

 その内容に、俺は頭の中が真っ白になった。

「いやいやいや! いくらなんでも無理だろそんなの、殺されちまう!」

「大丈夫、他の人ならいざ知らずあの二人なら」

「どっから出てくんだその自信!」

「いいからいいから、大丈夫だから」

 く、くそ……こいつこの状況を楽しんでないか?

「な、なあ二人とも」

「……何、健斗くん? 今忙しいんだけど?」

「お兄ちゃん、ここはわたしの戦場だよ」

「まあまあ……そんなにいがみ合ってるのもなんだし、出かけようぜ?」

「誰と誰が?」

「みんなでだよ。どうだ?」

 ダラダラダラダラ、と全身から嫌な汗が噴き出してくる。

 提案した手前もうあとには引けないが、二人がどんな反応を示してくるのか恐ろしくもある。

 無論、芳しい返答が返ってくるなんて期待はしてはいない。が、少なくとも出かけること事態にはOKしてほしいところだ。

 俺は緊張に胃が縮み上がりそうになりつつも、桜木達の返事を待っていると、まったくの同時に二人は口を開いた。

「わかった」

「いいよ」

 次の瞬間にはバチバチと火花が飛ぶ。全身に鳥肌を立てながらも、一先ずは安堵する。

 よし、これで第一段階クリアだ。

「じゃあ決まりだな。四人でどっかへ行こう」

「え?」

 桜木達は不承不承といった様子で頷いた。その後、お互いに睨み合い、再度火花を散らす。

 俺の横で、妹だけが心底ショックを受けたような顔をしていた。

 

 

               ◆

 

 

「……何であたしまで」

「んなこと言うなって。俺一人じゃ荷が重すぎるんだよ」

 四人で出かける、そう宣言してからおよそ二十分が経過していた。

 俺はなんとか妹を拝み倒して、一緒に同行してもらえたのだった。

「でもあたし、あんまり外に出たくないんだけど」

「兄貴を助けると思って。な?」

「……しょうがないなあ」

 外に連れ出すことに関して言えば一番の難所だった妹をどうにか家の敷地の外へと連れ出すことに成功。そして次の段階へと移行するために、妹の耳元に顔を近づけてこそこそっと訊ねる。

「で、次はどうしたらいいんだ?」

「自分でも考えてよ。つーか顔近い」

 妹は嫌がるように俺の顔を押し退けてくる。

 まあそりゃあそうだろうとは思うけど、もう少し兄貴に対して優しさとか敬意とか持ってくれてもいいんじゃないか?

「うーん、そうだなあ……とりあえずあの二人の気を逸らせそうなところがいいんじゃない?」

「気を逸らせそうなとこ?」

「例えば……前に行ったって言っていた〈九条エリアパーク〉とかどう?」

「え? あそこにあるの二人を?」

「そっ、あそこならたくさんのアトラクションがあるし、何より二人の行動を分散できるはずだから」

「そっか、一緒にいなきゃ頭を冷やす時間も作りやすいだろうしな」

「そういうこと」

 妹は我が意を得たりとばかりににやりと笑んだ。

 と、背後から苛立ったような桜木と美砂の声が飛んでくる。

「それでどこへ行くんですか? もう予定通りには回れませんけど?」

「そうだよお兄ちゃん。どこへ行くつもり?」

「く、〈九条エリアパーク〉だ」

「へ? それって先月開園したあの?」

「ああ、桜木は前に行ったことあったな。モニターで」

「そうだったね。あの時は健斗くんと二人で行ったんだよね」

 勝ち誇ったような顔で桜木は美砂を見下した。

 いやはや、こういう桜木を見るのは珍しい気がする。嫉妬深いのは知っていたけど。

 対する美砂は悔しそうに歯軋りしていた。……あれ? なんかミスッたか?

「あにきあにき」

「な、何だよ?」

「なんてこと言ってるの? あれじゃ火に油を注ぐようなものだよ?」

「そ、そうか? 何だかよくわかんなくて」

「ギャルゲーにおいて複数の女の子を相手にする場合はなるべく共有できる話題を。これがセオリーなんだけど?」

「知らん、そんなセオリーなぞ」

「協力するの止めていい?」

「や、止めないでくれ頼む」

「はあ……しょうがいないあにきだ」

「ねえ二人とも、いつまで話してるの? はやく行こうよ?」

「わ、悪い……んじゃ行こうぜ」

 俺は周りに女子を三人ほどはべらせて(その内二人は険悪の仲、もう一人は妹だが)件の〈九条エリアパーク〉へと向かうのだった。

 

 

              ◆

 

 

 電車を乗り継ぎ、駅二つ分。

 およそ十分強程度の時間をかけて、俺達は〈九条エリアパーク〉へとやって来ていた。

「はー、相変わらずおっきいねえ」

「だな、さすが九条って感じだ」

 実際に設計、建築に関わってるはずもないだろうが、何となく九条のイメージにぴったりなド派手な外観だった。以前に来た時はもっと簡素だった気がするんだが。

「まあいいや。とにかく入ろうぜ?」

「そうだね、お兄ちゃん」

「あっ、こらー! あんまりくっつくなー!」

「べーだ」

「お、おまえらなあ……」

「やれやれ」

 俺達は口々に言い合いながら、入場料を払ってテーマパークの中へと入って行く。

 前に訪れた時と要所要所は変わっていたが、大体の配置やアトラクションの種類なんかに変化はなかった。

「さて、まずどこから行く?」

「えーとね、えーと」

 美砂がきょろきょろと周囲を見回している。どうやら実際に現地を訪れたことで、テンションが上がってしまったようだ。

 年相応にはしゃぐ美砂に、思わずほっこりした。……のは俺だけだったらしく、桜木も妹も無反応だった。

「お、おまえら……せっかく来たんだから少しは楽しそうにしろよ」

「健斗くんと二人きりだったら楽しかっただろうなー」

「あたしは別に来たくなかったし」

「おいおい……」

 とはいえ桜木とのデートプランを大幅に変更して連れて来てしまったのだ。この反応は仕方ないだろう。

 美砂が喜んでいるのだけが唯一の救いか。

「と、とりあえず遊ぼうぜ。せっかく来たんだし」

「……そうだね。せっかく来たんだし。行こ」

「あっ待って桜木さん。あたしトイレ」

「そう? じゃあ先行ってるね?」

「うん」

 妹が一人離脱する。

 え? なんで? アドバイスもらおうと思って連れて来たのにこれじゃ意味ねえじゃん。

「どうしたの、健斗くん? ……ハッ、まさか妹さんのことを……!」

「おまえはゲームのし過ぎだ。現実でそんなことある訳ねえだろ。ただ俺はおまえと美砂の間に一人ってのが辛いんだ」

「それは健斗くんが悪いんだよ。たまの休みに他の女の子といちゃいちゃしているから」

「いちゃいちゃなんてしてねえだろ。それに相手はまだ中学生だぞ?」

「目の前で腕組んでるところなんか見せられたら年下とか関係なく嫌な気持ちになるものなの」

「……そ、そんなもんか」

 それは俺が悪かったな。まだ桜木の心情の変化を理解しきれていないようだ。反省しないと。

 と、俺と桜木がそんな風に話し込んでいると、観覧車の方から美砂の元気な声が聞こえて来た。

「何してるのお兄ちゃーん! はやくはやくー!」

「……ま、せっかくみんなで遊びに来たんだ。楽しまなきゃ損だぞ?」

 言って、俺は桜木の手を握って観覧車へと引っ張って行く。

「……もう、調子いいんだから」

 その際、桜木が何か言っていたような気がしたが聞き取れなかったので、気にしないでおくことにした。

 

 

                ◆

 

 

「わーっ! たかーい、とおーい、こわーい!」

 観覧車には俺と桜木、美砂の三人で乗り込んでいた。

 以前にも乗ったことはあるのだが、相変わらずのこの立体的な動きに慣れない。なんだか酔いそうになってくる。

「大丈夫? 健斗くん顔色悪いよ?」

「だ、大丈夫だ。それより桜木、いい景色だぞ」

「そんなヒットポイントが残り僅かな死に顔で言われても……」

 桜木に外の景色を促しつつ、俺も硝子窓から外界を見下した。

 オープンしてさほど期間は経っていない。にもかかわらず、たくさんのお客さんに来場してもらえるなんて。さすがは九条グループといったところだろう。

 えっと、何人いるんだ? 一人二人三人四人ご……うっ!

「ちょっ健斗くん! ほんとに大丈夫!」

「大丈夫だよ。お兄ちゃんがこんなことでへばる訳ないじゃん」

「むっ……あなたも少しは心配してあげたら?」

「わたしは今忙しいんだよ」

「あっそ」

 ふんっ! とお互いに顔を逸らす桜木と美砂。この空間にいるだけで二、三年は寿命が縮みそうだ。

「あっ、お兄ちゃん見て見て! お兄ちゃんの家が見えるよ!」

「そ、そうか」

「もう、お兄ちゃんノリ悪いよ? その人がいるからかな?」

「あなたがいるからだと思うけど?」

 バチバチバチッ、と火花を散らす桜木と美砂。

 おまえらのその態度が俺の胃を圧迫するんだ……、

「はあ……どうしたもんか」

 妹いわく、桜木と美砂。この二人が仲よくなるのは相当困難らしい。どうしてかはわからないが、原因は俺だという。マジで訳がわからん。

 俺は、どうにか仲よくしてほしいんだけどなあ。

「……よし!」

「どうしたの、健斗くん? 何かを決意した、みたいな顔しているけど?」

「ん? 何でもねえよ」

 せっかく遊園地に来てるんだ。この機会にこの二人を仲よくさせよう。俺の平穏のためにも。

 幸いにもここには前にも来た。勝手知ったる、とまでは言わないが、二人が共通して喜びそうなところは大体わかる。

「じゃ、次は俺の行きたいアトラクションに行っていいか?」

「え? ……いいけど」

「お兄ちゃんと一緒ならどこでもいいよー」

 桜木と美砂の同意を得て、俺はニッと口の端をつり上げた。

 よし、これから俺の作戦の始まりだ。

 妹のことなどすっかり忘れていたことに気づいたのは、再び足を地上にくっつけたその時だった。

 

 

               ◆

 

 

 妹不在という現状は非常に面倒だが、それでも俺は作戦を実行に移すことにした。

 とはいえ、そんなに大した作戦じゃあない。以前に桜木とここを訪れた際に入ったダンジョン型のアトラクションに行こうというだけの話だ。

 パンフレットを片手に、俺は二人を先導する。

 チラチラと背後を振り返る。と、一触即発の雰囲気が漂っていた。

「……はぁ」

 どうにかなんないかな、あれ。いくら何でも心臓に悪い。

 単なる喧嘩というのならまだしも、渦中に俺を巻き込んでの諍いだ。

 何だかギャルゲーの主人公の気持ちが今ならわかる。あいつら、あんだけ可愛い女の子に囲まれて羨ましいとか思ってたけど、正直疲れる。

 とはいえ、このまま不仲なこいつらを放っておく訳にもいくまい。

 そんなことを考えていると、目的の古城までたどり着いた。

「着いたぞ」

 体ごと振り返る。すると、お互いにツンと顔を逸らした桜木と美砂の姿があった。

 おまえらなぁ……、

「えーと……んじゃあさっそく入ろうぜ」

 俺が入り口を指差して言うと、二人は互いに剣呑な雰囲気のまま入り口へと向かう。

 係員のお姉さんの笑顔が若干引きつっていた。

「さて、それじゃあこれから先は一旦別れるぞ」

「え? 一緒に入るんじゃないの?」

「このアトラクションは衣装に着替える必要があるんだ」

「へぇ、知らなかった」

 美砂がショックを受けたように、桜木は感心したように。それぞれに反応を示した。

 前の時は桜木、拉致られただけだったしな。

 うんうんと頷く桜木の隣で、美砂は不満そうに頬を膨らませる。

「嫌だよ! わたし、お兄ちゃんと一緒に入る!」

「無茶いうなって。そういう使用なんだから仕方ないだろ?」

「そんなに嫌なら私と健斗くんだけで楽しんでくるから。外で待ってるといいよ」

「なんだとー!」

 美砂がガーッと桜木に噛みつく。桜木はそんな美砂を軽くいなし、素知らぬ顔をしていた。

「……ったく、おまえら」

 少しは仲よく出来ないものだろうか。俺は何だか頭痛がしてきて、こめかみあたりを押さえる。

「それじゃ、いつまでもこんなところに突っ立ってるのも邪魔になるし、行こうか」

「……ああ、そうだな」

「ちっ……お兄ちゃん、また後でねー」

「ああ」

 今生の別れという訳でもあるまいに。

 悲しそうな表情でぶんぶんと手を振ってくる美砂に対して、俺は何だか申し訳ないような気持になっていた。いや、まったく気のせいなのだが。

「さてと」

 俺も桜木達とは反対側の道に逸れ、衣装室へと入る。

 中は以前とまったく同じで、色とりどりのたくんのデザインの衣装が並んでいた。そのほとんどがどこかで見たような色合いや雰囲気を持っていることに対してはここでは触れないでおこう。

 この間と同じでいいだろうと思い、俺は黒いアンダーと黒のコートを探し出してそれを纏った。ついで武器も前と同じ水色と黒の双剣を選択。

 鏡の前でおかしな部分はないかと一通りチェックして、衣装室を出る。

「……まだ着替えてんのか?」

 ダンジョンの入り口へと続く通路に出ると、そこには誰もいなかった。

 まぁこういう時、女子は時間がかかると言うし。待っていよう。

 そこから五分くらい経っただろうか。ようやく桜木と美砂が姿を現した。

「ごめんね、ちょっと手間取っちゃった」

「お兄ちゃん、待った?」

「ん……いや、大して待ってねぇよ?」

 あれ? なんか桜木からやれやれ……、みたいな顔されたんだがどうしてだ?

 まぁいいや。

「つーか二人とも、すげー格好してんな」

「まぁね。普段こんな格好出来ないし」

「わたし、恥かしんだけど」

 二人の格好を端的に表すなら、エロい。

 桜木はよくフィクションに登場するような、耳の尖がりが特徴的なエルフの格好だった。胸元と下半身を包み込むような白い布とその上から巻かれている淡い青のベール。へそや肩は出していて、おそらく本人のわくわくに満ちた表情さえなければ、かなり扇情的な絵になったのではないだろうか。……まぁそこが桜木のいいとこなんだが。

 続いて美砂は全身にぴったりと張りつくようなライダースーツで、足下へ黒いブーツだ。まるで、どこぞの女盗賊を彷彿をさせる出で立ちと言えるだろう。しかしながら、かの女盗賊とほど己の肉体を晒すことに慣れていないせいか、くねくねと身を捩る様がまた何とも……、

「健斗くん、鼻の下伸びてるけど?」

「な、何言ってんだよ桜木!」

 桜木に指摘され、俺は思わず口元を覆った。

 あ、危ねぇ……桜木に誤解されちまうとこだったぜ。

「とにかく行こうぜ」

「むぅ……すぐそうやって誤魔化すんだから」

「あっ、待ってお兄ちゃん」

 俺は二人を促しつつ、先に行く。そうしないと、桜木のじっとりとした視線から逃れられないからだ。

 第一の部屋の入る。と同時にゴゴゴッと機械音がして、背後の入り口が自動的に閉まってしまう。

 これで、逃げ場はなくなったという訳だ。

「おまえら、運動神経に自信はあるか?」

「私は……まぁ普通」

「わたし得意だよー」

 桜木と美砂が口々に言う。

 桜木はともかく美砂が運動得意というのは意外だった。

 昔は俺のあとをついて回るので精一杯だったのに。何つーか、変わったな。

「んじゃ問題ねぇな」

「一体何が始まるの?」

「見てりゃわかるって」

 前方の扉が音を立てて持ち上がる。上方へのスライド式とはえらく洒落た作りになったもんだ。

 最初に出て来たのは、巨大なクモ。それもデフォルメされたり人型になっていたりしない、パッと見かなりリアルなクモだ。

「ひぃぃぃ! お兄ちゃんナニアレッ!」

「いや、だからクモだろ」

「わたしクモだめなの! ちょっと無理!」

「大丈夫だって。ありゃただのロボットだから」

 九条家の財力を持ってすれば、あそこまでの精巧さを追求することも可能だろう。

 まったく、やることが一々豪気だな、あの家は。

「無理無理無理無理無理ッ!」

「いやだから……」

 あれがいくら本物のクモでないと説明したところで、美砂が耳を貸すことはなかった。

 たぶん、あの気持ち悪いくらいに現実味のある質感がだめなんだろう。

「……だったらそこで大人しくしていてもいいんだけど? 私と健斗くんとであのクモを倒すから」

「おい、桜木」

「あなたはそこで頭を抱えてぷるぷる震えてなさい、生まれたての小鹿のように!」

「えーと……それはばかにしてるのか?」

 何だかよくわからない例えだ。

「どうする? 本気で嫌だったら無理にとは言わないが」

「……やる。やってやるよ、お兄ちゃん!」

「お、おお……そうか」

 桜木の挑発に鼓舞されたように、ゆらりと美砂は立ち上がった。

 それから腰の短刀を構え――ビクッと肩を震わせる。

「どうした?」

「あ、あいつと目があっちゃった」

「あー……」

 クモの目って何だか気味悪いよな。わかるわかる。

「そんなこと言っている間に来るよ!」

 言いながら、桜木は指を持ち矢を番える。

「カラドボルグ!」

「大声で叫ぶな!」

 かの英霊の攻撃名を叫びながら、桜木が矢を放つ。

 矢はまっすぐにクモの下へと跳んで行った。さながら、糸か何かで導かれるように。

 九条家のやることだ。おそらくもっと高性能な技術を使っているに違いない。

 矢はクモの体に命中した。が、その肉体を貫くには至らず、弾き飛ばされてしまう。

「ちっ」

 桜木は舌打ちして、身を半転させる。……何となく悲しい。

 左へと爪先を向け、駆け出した。

 クモは即座に反応し、対応を開始する。いいAI詰んでんじゃん。

 桜木は弓をしまうと、今度は二本の短刀を取り出した。その二本の短刀でクモに切りつける。

 それでもクモは傷一つつかず、ぴんぴんしていた。

「俺達も行くぞ」

「う、うん」

 および腰だったが、美砂は頷き、果敢にクモへと突撃していく。

 俺も双剣を構え、クモへと近づいて行った。

 と、俺達の動きを察知したのか、たくさんあるクモの足の内の二本ほどが俺達に攻撃を見待って来た。

 俺と美砂は間一髪で交わし、すぐさま持っている武器で攻撃を開始する。

 二度三度と打ち合いが続き、その最中俺はちらりと美砂を見やった。

 美砂は俺の後方に控えていた。おそらくクモの隙を窺っているか、恐れ戦いて足が竦んでしまっているかのどちらかだろう。圧倒的後者のような気もするが。

 ――そんな風によそ見をしているのがよくなかった。

「がっ……!」

 クモの放つ固くもしなりのある鞭のような攻撃に、俺は軽く当てられてしまった。するとブーッとけたたましいブザー音が鳴り響く。

 どうやらゲームオーバーのようだ。係員のお姉さんが言っていたが、安全性の確保のために致命傷となる傷を負ったと想定される場合はすぐさまリタイアを推奨しているらしい。

 ゾンビアタック戦法をとるのもいいが、その時は自己責任でお願いしますと言われた。何となく恐い言い方だった。

「……俺はここでリタイアする。あとは頼んだぞ、二人とも」

「任せて、健斗くんの敵は絶対に取るから!」

「えぇぇ! お兄ちゃん!」

「大丈夫だ美砂、おまえなら」

 俺は美砂の頭にポンと手を置き、激励を口にする。

「おまえはこの程度の困難、軽く乗り越えられる力を持っていると俺は信じている」

「そ、そんなぁ……」

 それでも美砂は不安そうにしていた。が、ここで心を鬼にしなければ、桜木と美砂、二人が仲よくなるという結末は遠のいてしまう。

 美砂を甘やかしたい気持ちをグッと堪え、ボス部屋の入り口付近へと移動する。

 振り返ると、やはりというか何というか。美砂が不安そうに俺の方を見つめていた。

「お、お兄ちゃ~ん」

「そんな声出すなって。二人で協力してやりゃ大丈夫だ」

 親指を立て、頑張れと心の中で叫ぶ。伝わったかどうかはわからないが、美砂はへっぴり腰ながら短刀を構えた。

 その間、善戦していた桜木へと視線を移す。次々と一風変わった武器をどこからともなく取り出して連続攻撃を見舞うも、どれも決定打にはならず。

 桜木の表情が段々、得物を狩る獅子のそれから、仇敵を目の前にした戦士のそれに変わっていく。何だかすげー格好いい。

「美砂ちゃん、挟み打つよ!」

「さ、指図しないで!」

 意を決したらしい。美砂が桜木の声に呼応するように腰を落とした。

「一、二、三ッ!」

 合図とともに桜木と美砂。両者が同時に動き出す。

 二人ともそこそこいい運動神経を有していた。だからだろう。ほとんど同時に放たれた一閃の剣戟にさすがの九条家AIといえど、即座に反応出来ていなかった。

 一泊遅れてクモの足が動き出す。もしくはそういう演出なのかもしれない。

 どちらにせよ、桜木の持つ長刀が、美砂の持つ短刀が。

 クモの体に触れたその瞬間。

第一階層クリアを示すファンファーレが鳴り響く。

「……や、やったの?」

「そうみたい」

 桜木と美砂は顔を見合わせ、ハイタッチを交わしていた。

 彼女達の表情は、すこぶる嬉しそうだった。

 

 

               ◆

 

 

 古城を全階層クリアして、俺達は意気揚々と出口から外へ出る。

 と、妹がいた。

「おいおい、今までどこ行ってたんだ?」

「ちょっとその辺。……その様子だともう仲よくなったみたいだね」

「…………」

「…………」

 つい数秒前まで先のダンジョンの話で盛り上がっていた二人の会話がぴたりと止まる。

 それから、互いに顔を見合わせ、ふんっ! とそっぽを向いてしまう。

「おい、何余計なこと言ってんだ!」

「ああー……なんかごめん?」

「ああ、くそ」

 せっかく仲よくなったと思ったのに。これじゃリスポ地点に逆戻りだ。

「まぁいいじゃん」

「何がいいんだよ!」

「これであたしの用意した計画が発動できるってものだから」

「計画?」

 何だろう……すごく、嫌な予感しかしない。

 俺の方から相談を持ちかけといて何だが、妹の考えは常識的じゃないというか、常軌を逸しているというか。

「こっち」

 俺の危惧を軽く無視して、妹は桜木達を手招きする。

 桜木と美砂は怪訝そうにしつつも、大人しく妹のあとに続いた。

 とはいえ、同じ遊園地の敷地内にあるアトラクションへと移動するだけだ。さほど時間はかからない。

 時間にしておおよそ五分ほど。俺達はメリーゴーランドの前にいた。

「メリーゴーランド?」

「そっ……桜木さん、メリーゴーランド好き?」

「まぁ、前に健斗くんと一緒に乗ったこともあるし」

「なッ……ほんとなのお兄ちゃん!」

「あーと……そんなこともあったようなかったような」

 くそ、ほんと余計なことしか言わないな、あの妹!

 俺は詰めよって来る美砂の視線から逃れようと顔を逸らした。

 すると、メリーゴーランドの鉄柵の前に数人の中年男性の姿があるのに気づいた。

「……あれって」

 目を凝らしてよくよく見れば、その手に握られていたのは馬券? のようなものだった。

「おい、まさかこれって」

「ささ、二人とも早く乗って」

「ちょ、何なの一体!」

 桜木達の乗馬を止めようとしたが、既に遅かった。

 妹の手により、二人はさっさと機械仕掛けの白馬に乗せられていた。

「では、行きまーす」

 係員のお姉さんの相図によって、メリーゴーランドが回り出す。

 最初は緩やかだった回転速度。しかし次第にスピードを増し、やがて自転車ほどの速さにまで達する。

「ちょっとこれ、ほんとにメリーゴーランドなのぉぉぉぉ!」

「何かすごいスピード出てるよぉぉぉぉ!」

「これは〈九条エリアパーク〉名物の〝メリー競馬ゴーランド〟だから」

「おい、何なんだそりゃ!」

 まぁ要するにこの回転する馬を競走馬、乗っている客をジャッキーに見立てて競馬をしようっていうことなんだろうけど。

「いいのかよ、遊園地でこんなことして」

「大丈夫だよ。賭ける金額もたかが知れてるし」

「そういう問題じゃねぇ、危ねぇだろう!」

「その辺はちゃんと考慮してあるみたいだよ?」

 スッと妹がある方向を指差した。

 するとそこには、身長制限が設けられているという旨の看板が。

「いやいやいやいや! そういうことじゃねぇだろ絶対!」

「もう、あにきうるさい」

 くっ……しかしもう始まってしまってる。止めようもない。

 俺は静かに、二人が無事にあの馬から降りて来るのを祈るしかなかった。

 

 

              ◆

 

 

 桜木と美砂の二人がぐるぐると目を回しながら帰って来たのは、それからおよそ一五分後のことだった。

「お、おい……大丈夫か?」

「へ、へーきだよ、お兄ちゃん……うっ」

「そうそう、このくらいのこと何でもないから……うええっ」

 口先では強がってみせるものの、体調に影響を及ぼしているのであろうことは二人の顔色を見れば一目瞭然だ。

「とにかくそこのベンチに座ろう。何か飲み物でも買ってくるか?」

「あ、ありがと……でも今はいいや」

「同感だよ、今飲み食いしたら吐きそ」

「そ、そうか……?」

「ふーん……あんまり儲からなかったなぁ」

「お、おまえなぁ……」

 二枚の諭吉をひらひらさせながら、妹が残念そうに息を吐く。

「あたし、桜木さんに結構賭けてたんだけどなぁ」

「ご、ごめんね……」

「プラスマイナスゼロだし、まぁいいけどね」

「ったく……しかし九条の家がこんな賭博染みたことやってるなんてな」

「賭博って人聞きの悪い言い方しないでくれる? ただのお遊びだよ、こんなの」

「それにしちゃ結構な額つぎ込んでたじゃねぇか」

「……何のこと?」

 俺が睨みつけると、妹はふぃとそっぽを向いて、素知らぬ顔する。

「……はぁ、まさかおまえ、最初に俺達と別れたのってあれの馬券を買うためか?」

「一切身に覚えがありませーん」

 ……もう過ぎ去ったことだ。今さらどうしようもあるまい。

「つーか、あたしはあにきの手伝いをしてるんじゃん。感謝されこそすれ、怒られるいわれはないと思うんだけど?」

「桜木達をギャンブルに巻き込んで置いてよくそんな口が聞けるな」

 まったくこの妹は。

 俺はため息とともに立ち上がる。が、そこでふと途方に暮れてしまう。

 目の前でぐったりとしている桜木と美砂。二人を置いてはどこへ行く訳にもいかない。

 しばらくはここでジッとしているしかないようだ。

「しゃーねぇな」

「……健斗くん、どこ行くの?」

「ちょっとコーヒーでも買って来る。おまえらはそこにいろ」

「あ、じゃあ私も……うう」

「無理すんなって。ちゃんと全員分買ってやるから」

「じゃああにき、あたしカフェオレがいい」

「おまえは自分で買え」

「ちぇー、けちー」

 不満そうに唇を尖らせる妹を無視して、俺はさっさと自販機を探してベンチを離れた。

 ……ったく、あいつらは。

一人でも十分厄介なのが三人もいると疲れる。どうにかこの辺で少し一人になって休んだ方がいいだろう。

しばらく歩いていると、自販機を発見した。のでそちらへと小走りに駆け寄り、財布を取り出す。

「あー……あいつから二万ぶんどってりゃよかったな」

 財布の中身を確認して、後悔する。

 まぁ四人分のコーヒー代くらいあるので大丈夫だが。

「さて、どれにするかな」

 ブラックコーヒーにブルーマウンテン、カフェオレにイチゴオレ。期間限定ブルー○イズマウンテンなんてのもあった。

 こいつは一つ三千円もするんで絶対に買わねぇけど。

「ま、てきとーに買ってくか」

 それぞれ一つずつ購入し、それらを抱えて三人のもとへと戻る。

 しっかし、こうして見ると客の数がかなり多い。それに、客層もバラバラだ。

 カップルに親子、じいちゃんと孫に……あれは何だろう?

 明らかに親子じゃない。しかしハゲ頭の中年と腕を組んで歩いているのは、高校生か大学生になり立ての学生か。ハゲ頭の方も何だかデレデレと鼻の下を伸ばして、気持ち悪かった。

 ……あれが噂に聞くあれか。実際に目の当たりにするのは初めてだ。

 そんな風に周囲を見回しながら桜木達のもとへと戻ると、なぜか盛り上がっていた。

「何だぁ? 急に仲よくなったな、あいつら」

 それはそれでいいことなのだろうが、それにしたって俺の努力は一体何だったんだ?

 どこか煮え切らない気持ちを抱きつつ、俺は三人の下へと近づく。

「あ、健斗くん」

「お帰りなさい、お兄ちゃん」

「あにき、遅い」

 桜木と美砂が俺を出迎える。あと妹よ、おまえは消えろ。

「ほれ、コーヒーとかカフェオレとか。あとイチゴオレだ」

「わーい! ありがとう、お兄ちゃん!」

「ありがと、健斗くん。頂きます」

「ちっ……ミルクの使用量が半分切ってる。苦そう」

 そのくらい我慢しろ。

「どうしたんだ? 急に仲よくなったみたいだけど?」

「んー? ちょっとねー」

「ないしょー、ねー」

「ねー」

「はぁ? 何だよそりゃ」

 まぁ何でいいか。少し複雑だけど、仲よきことは美しきかな。

「……あにき」

 そんな感じで俺が和んでいると、ちょいちょいと肩を突かれた。

 振り返ると妹が何やら複雑な表情を浮かべている。やっぱ苦かったのか?

「どうしたんだ? どうしてもってんなら違うの買って来てやってもいいぞ?」

 何せ今の俺は機嫌がいい。その程度の雑用ならむしろ喜んで引き受けよう。

 そう思っていたのだが……、

「違う。気をつけた方がいいよって言おうと思ったの」

「気をつける? 何をだ?」

 まさか二人の仲がよくなったからって嵐でも来る、なんて言いださねぇよな?

「そんなことは言わないけど、あまりにも急に仲よくなりすぎでしょ?」

「いやいや、友情を築くのに時間なんて関係ないさ。要は心の問題だからな」

「……あっそ」

 俺が自信満々に言ってやると、妹は呆れとも諦めとも取れるような表情で身を引いた。

「何こそこそお話してるの、お兄ちゃん?」

「うおっ! 美砂、あんまくっつくな」

「ええー? どうして?」

 美砂は俺の腕に自分の腕を絡め、ぴったりと体をくっつけてくる。そうすると、年の割に成長の著しい二つの果実が俺の腕を包み込む訳で。

 ゴゴゴゴゴッと炎天下の中で更に気温が上昇するのではないかと思うほどの熱気を桜木からから感じ取り、俺は慌てて弁解を試みる。

「や、これは単なる美砂の悪ふざけで」

「もう、お兄ちゃん素直じゃないなぁ……ほんとは嬉しいくせに」

「な、なな何言ってんだ!」

 自分でもわかるくらい声が上ずっていた。

 あれ? さっきはあんなに仲よく見えたのに。もう険悪ムード?

 困惑と焦燥に駆られながら妹へと助けを求める。が、妹は肩を竦めるばかりで何もしてくれようとはしなかった。

 な、何なんだあいつは!

 スッと桜木がベンチから立ち上がる気配がして、俺はさっとそちらを振り返った。

 ずんずんと俺の方へと向かって来る。な、何する気だ?

 もしかしたら俺、ここで死ぬかもしれない。両親よ先に謝っておく。……すまん。

 ……ってな感じで死の予感に目を瞑り、来るべき時をジッと待つ俺。

 しかし、その時は一向に降り注ぐ気配もなく、俺はそっとまぶたを持ち上げる。

「……さ、桜木さん? 何をしているんですか?」

「……な、何でもいいでしょう」

 目を開けたその先には、俺の左腕に絡みつき、ピタッと体をくっつけている桜木の赤面した顔があった。つーかいい匂いする。

 ん? というより何だこの状況? 右腕に従妹の女子中学生。左腕に恋人。

 何だかまるで、両腕に女の子をはべらすプレイボーイみたいじゃないか?

「ちょっと、離れてよ」

「あなたが離れてくれたら考えてあげないこともないけど?」

「はっ冗談言わないで」

 ただ、この険悪ムードのお陰ですごい腹が痛いけど。

「おおー……これが噂に聞く両手に華って奴か」

「おまえ……感心してねぇで助けろ」

 実際問題、今の俺達の姿を他人が見たらどう思うだろう?

 

 

                ◆

 

 

 〈九条エリアパーク〉から帰還し、俺は真っ先に自分のベッドへとダイブした。

「……あー疲れた」

 これまで何度となくギャルゲ主人公を羨んできたが、実際に自分が体験してみるとかなり疲れる。たぶんこれからは、あいつらともっと仲よくつきあっていけることだろう。

「しっかし何だかんだ帰ってくれてよかったな、二人とも」

 説得(という名の懇願)の末、桜木と美砂は何とか家に返すことができた。

 きっとあのまま顔を合わせていれば、取っ組み合いにまで発展していたことだろう。くわばらくわばら。

「もうこのまま寝ちまおう」

 明日は明日の風が吹く。どうとでもなるさ。

 俺は目を閉じ、ずぶずぶと沼にはまっていくような感覚に身を任せる。

 そうすると意識が遠のいていき、深い闇の底へと真っ逆さまに落ちて行くような……、

「……誰だ?」

 携帯電話が鳴り響く。そうすると自然と意識は現実へと引き戻されてしまう。

 着信画面を確認し、発信者が桜木であることを確認する。

 仕方なく俺は通話ボタンを押し、携帯を耳もとにあてる。

「どうした?」

『何だか眠そうだね?』

「そう聞こえるか?」

『うん』

「それで、どうしたんだ?」

 眠そうだね、という桜木の指摘は当たらずとも遠からずと言ったところだ。

 実際、眠気はさほどないものの体がだるく、正直こうして喋っていることすら億劫に感じる。

『え、えーと……今日のこと、謝っておこうと思って』

「謝る?」

『うん……美砂ちゃん、に対してちょっと大人気なかったかなって。健斗にもだいぶ迷惑かけちゃったし』

「ああ、そのこと」

 それなら心配いらないだろう。美砂はあの程度でどうこうなるような奴じゃないし、桜木自信そのことを自覚しているのなら次回からはもっと気をつけるだろう。

 ま、今回の件に関して俺から桜木に特別何か言うつもりはない。

「俺は大丈夫だ。あと美砂に関してもそこまで気にする必要はないぞ」

『そ、そう?』

「ああ、そうだ」

『よかったぁ』

 耳もとで桜木の安堵の声を聞いて、俺は自然と顔が綻ぶのを自覚した。

 どんなに面倒だと思っても、どれほど億劫に感じても、この声を聞くと少しだけ気分が晴れる。

『あ、ありがとね、健斗』

「ああ、気にすんなよ。んじゃまたな」

『うん、またね!』

 桜木の声が途絶え、あとには無機質な機械音だけが続いている。

 俺は携帯電話を脇に放り、枕へと顔を埋める。

 桜木とつきあいだしてもう数ヶ月。最初の頃のように声を聞いたり顔を合わせたりするだけで心臓が高鳴る、なんてことはなくなった。

 代わりに俺の中に、別の感情が芽生え始めていることに気づいていた。

 ずっと一緒にいたい、と。

「……いれるかな?」

 ごろんと寝返りを打つ。

 先のことはわからない。もしかしたら離れ離れになってしまうことだってあるかもしれない。

 でも、でも今だけはそう思っていてもいいはずだ。

 だって、痛いほどに心臓が脈を打っているのだから。心地よく、何度も。

「これが、誰かを好きになるってことだろうか?」

 なら、これ以上の幸せはないと、今の俺は確信を持ってそう言える。

 ともかく今は眠ろう。そしてまた、明日学校に行こう。

 桜木と会うために――。

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