第4話 新井美馬の謝罪

ピンポーン、というインターホンの音が鳴り響く。俺以外に誰もいないのか、誰かが玄関に向かう足音は聞こえない。仕方なく、俺が応対に出る。

「はーい、どちら様ですかー」

 棒読み全開で玄関の扉を開けると、そこに立っていたのは先日九条邸でお見かけしたバーサーカー……もといメイドさんの新井美馬アライミマさんだった。黒い短髪にメイドカチューシャ。エプロンドレスというこの間も見かけた格好に加えて、本日はなにやら大きな荷物を抱えていた。

「えっと……どうしたんですか?」

 っていうかその格好でここまで来たんですか? とは尋ねない方がいいだろうなと本能が警告を発したので格好については触れないでおく。

 新井さんはにこやかかつチャーミングな笑顔を浮かべ、

「実は私、今日からここでお仕事をすることになったんです」

「……は?」

 首を九十度ほど右に傾ける。同時に、俺の頭の中のクエスチョンマークも右に傾いた。どういうこと?

 尋ねると、新井さんはちょっぴり照れ臭そうに頬を赤らめ、まるで悪戯の見付かった子供のように舌を覗かせる。

「この間、石宮様がお嬢様をお訪ねになった際、私、とんでもない失敗をしてし待ったじゃないですか。本日は、そのお詫びのために来ました」

「はあ、そうなんですか」

 とんでもない失敗、ねえ。あれを失敗の一言で片付けていいものかどうかは果てしなく謎だが、そのあたりにも触らないでおいた方がいいのだろう。これ以上面倒ごとを増やすわけにはいかん。主に俺の身がもたんからな。

「あ、とりあえず上がってください」

 こんなコスプレ会場でしか見かけないような格好の人をいつまでも玄関先に立たせておくわけにはいかない。来客用のスリッパを出して新井さんを家に上げる。さて、機嫌を損ねられる前にお帰り願おう。

「失礼します」

 新井さんはうやうやしく一礼すると、玄関に入り、俺の出したスリッパに足を入れる新井さん。それらの動作は一つ一つが洗練されていて、とても美しいと評することが出来るだろう。

 だがしかし、俺は知っている。知っているぞ。この笑顔がとても可愛らしく、スタイルもよく、性格も超絶最高なメイドさんが九条琴音クジョウコトネお嬢様のこととなると目の色どころか人格そのものが変わることを。九条のことを勤勉で努力家と思い込んでいるこの人は、敬愛するお嬢様が辱められるとトンデモ無いことをしでかしてくれる。過去に俺は、そんな新井さんの洗礼を受けたことがある。ホントに恐かった。マジ死ぬかと思った。走馬灯見えたもん。

 だからまあ、これからどんなことが起こるかは分からないが、機嫌を損ねられる前に、より正確に言えば九条が絡んで来る前に退散してもらう。それしか俺が生き残る方法は無い。

「やだなーもう。いくら私でも、そういつもいつも怒ってるわけじゃないんですから、大丈夫ですよ」

 からからと笑う新井さん。そうだった。九条家のメイドさんはみんな、読心術が使えるんだった。忘れてた。

「……別に心配なんかしてませんよ。新井さんだって立派な大人ですしね。一度した失敗を何度も繰り返すとは思ってませんよ」

 俺が無理矢理笑顔で返答すると、新井さんもにこっと笑みを返してくる。心中を読まれているから嘘も通用しないし、変なことも考えられない。どうすれば……、

「く……」

 思わず、奥歯を噛み締める。どうせなら網島さんとか来てくれればいいのに。あの人の方がまだマトモそうだし。

「いやあ、どうでしょう。網島先輩は網島先輩でそうとうアレな人ですよ」

 さらりと自分の上司の悪口を言う新井さん。お願いだからこれ以上痛いけな思春期真っ盛りの高校生の心を覗かないで。うっかりえろいことも考えられんじゃないか。

「す、すみませんでした」

 慌てて謝罪の言葉を口にして、勢いよく新井さんは頭を下げた。だから、そういうのを止めてって。

 俺が喋る必要無くなるじゃん。

「あわわわわわわ」

 新井さんが混乱状態に陥りつつある。もういいや。好きなだけ読んじゃって。

「すいません」

 また頭を下げて来た。くう……泣きたくなってくるぜ。

 スリッパを出して家に上げたというのに、このまま玄関先に突っ立っていてもしょうがないのでとりあえず客間に案内する。襖を開け、新井さんを先に入れると、その後に続いて俺も入る。

 このタイミングを、狙い澄ましたようだと思うのは俺が面倒だと思っているからだろうか? たぶんそうだろう。電話が鳴っている。無視してやろうかとも考えたが新井さんがたしなめるような視線を送って来る。

出ないわけにはいかないな。

「少しだけ待っていてください」

 新井さんに頭を下げると、俺は電話に出るために玄関へと舞い戻る。受話器を取り、耳に当てる。

 電話の主は、網島さんだった。

「もしもし」

『もしもし。石宮様でございますか? 網島でございます。以前、お屋敷でお会いしましたね』

「はい、お久しぶりです。それで、いったいどういったご用でしょうか」

 教えてもいないのに、電話番号を知っているとはどういうわけだ? とかは訊かない。桜木と付き合いだして、俺もゲームやアニメに触れる機会が多くなった。その中では、金持ちというのはどんなことをしても許される便利な存在として描かれている。つまり、何でもありなのだ。だから、金持ちである九条家に俺の個人情報が筒抜けになっていたとしても何ら不思議じゃない。そういうことにしておこう。

 電話の向こうの網島さんの中年オバサンの声が言う。

『美馬はそちらに到着しましたでしょうか?』

「はい、ついさっき。あの、なぜあの人を寄越したんですか?」

『先日彼女が粗相をいたしましたことをお詫びさせるためです。勘違いで、なおかつお嬢様もお許しになったこととはいえ、あのままでは私どもの面子に関わりますので』

 だからって寄越してくんなよ、あんな爆弾。

『ですが、これは私ども勝手な都合。もし迷惑だとおっしゃるのでしたら新井に直接お伝えください。そうすれば新井もこちらへ返ってきます』

「そうですか。では……」

『ですが、その場合彼女は解雇されるでしょう』

 俺は次に何を言おうとしていたのか忘れてしまった。表情が苦笑で固まってしまう。

 何? カイコ……それって解雇のこと? 何で?

「そんな、たった一回失敗したくらいで」

『たった一回であろうと、失敗した者にこの仕事は続けられません』

 ずいぶんと厳しいんだな、メイド業界。

 俺は受話器を持ったまま高速で頭を回転させる。

 どうしよう。このまま新井さんを受け入れればいつ爆発するか解らない不発弾を受け入れるようなもの。そんなものを持っていればどんな事態に陥ることになるか、容易に想像出来る。

 しかし、一方でもし新井さんを拒めば彼女は職を失い路頭をさまようことになるやもしれない。そうなれば、彼女はどんな目に遭うだろう。あれだけの美貌とスタイルの女性だ。悪い男に騙される可能性がある。

 ああ、どうしよう……。

 受話器を持つ手に力を込める。

「分かり……ました。新井さんにはうちにいてもらいます」

 苦脳の末、俺は新井さんを受け入れることを決意した。

『ありがとうございます。では、よろしくお願いしますね』

 はい、と返事をして、受話器を置く。がちゃりと音がして、その後には静寂が廊下を支配する。

 とりあえず、戻ろう。

 客間に戻ると、新井さんが所在無さげというかうずうずしているというか、とにかく落ち着かない様子でそわそわしていた。

「どうかしたんですか?」

「いえ、ちょっとあの辺の埃とか気になりまして」

 ……それはちょっと失礼じゃないかなあ。思ったが、口にはしない。

 窓の外に目をやる。

「……いい天気だなあ」

「そうですね」

 とある休日の朝のことだった。


        ●


「朝ご飯はもうお済みですか?」

 客間を出て台所で洗い物をしている新井さんがそんなことを尋ねて来た。そういえば食べてないな。時計に見ればもう八時を三十分ほど回っている。さすがにお腹が空いて来た。

「まだ食べてないですね。お願いしていいですか?」

「はい。リクエストはございますか?」

 チャーミングな笑みとともにリクエストを尋ねられたので、少し考えて定番だがみそ汁などを頼む。新井さんは快く承り、さっそく支度にとりかかる。

「少々お待ちください」

「はい」

 笑顔で応じ、新井さんが向こうを向くとホッと息を吐く。機嫌を損ねているわけじゃなさそうだ。

 どういう経緯を辿ればあんなキレ方をするのか分からない。

 前に新井さんがキレた時、原因はいったい何だっただろうか。

 俺はテーブルに肘を突いて、エプロンドレスの上からエプロンを着るという何ともちぐはぐな格好をしている新井さんの後姿を眺めながら、前に九条の家に行った時のことを思い出す。

 あの時は確か……九条を押し倒したような格好になっていたんだっけ? それで、お嬢様を襲うとは何ごとかー! みたいな感じになったんだよな……。

 そうすると、新井さんがキレる要因となるのは九条、か?

「何してんのよ、あにき」

 考えごとをしていると、リビングの入り口から声が聞こえて来る。憮然とした、可愛げの無い声だ。こんな声を発するのはこの家で一人、我が妹石宮茜イシミヤアカネしかいない。首をそちらに向けると案の定見知った顔だった。髪の毛を二つに結わえたツインテールに異様に白い肌。短い手足に小さな背丈の一ミリも可愛く無い我が妹だった。

「お前、お客さんが来たら出ろよ」

「あにきが出るからいいでしょ、別に」

 全く可愛げの欠片も無い。桜木とは大違いだよ、全く。

 妹は俺の側に寄って来ると、台所の方へ視線を向ける。するとそこにはキュートなメイドさんが鼻歌まじりに朝メシの準備をしているので、さっき俺が新井さんの後姿を眺めたいたことと総合して、妹は実に不本意で遺憾な答えを導き出す。

「……彼女にコスプレさせて、朝ご飯を作らせて、それを眺めてにやにやしていたのね気持ち悪い」

「にやにやはしてねえだろ」

 前半の二つにはまあ何も言うまい。彼女に、という部分は間違っているにしても、おおむねはあっているのだしな。だがにやにやはしていない。ちょっと考えごとの合間に家にメイドさんがいるっていいなー、と思って相好が崩れていたと思うがにやにやはしていない。断じてしていない。

「それで、休日のこんな時間からお前が起き出してくるなんて珍しいな。何があった?」

「起き出してはいない。眠っていないだけ」

「何を偉そうに言っているんだ? 問題無いと思っているのか?」

 妹は脳の構造に若干の難ありだった。

 俺は眉をひそめ、妹にジト目を送る。がしかし、俺の睨みなど妹にはどこ吹く風で、あまり効果が無いようだった。

「別に部屋にいてもよかったんだけどね。いい匂いしてたし。それにお父さんもお母さんも今日はいないからリビング《こ こ》のテレビ使い放題だし」

「そうかよ。ちなみにあれ、コスプレじゃなくて本業の人だからな」

「え? 何それ?」

「家事手伝い。つまり本物のメイドさん」

「え! 何それ!」

 本物のメイドさんと聞いたその瞬間、妹はがたがたと音を立てて椅子から立ち上がる。あまりの興奮具合に一度立ちあがることに失敗したため音が単発では済まなかったというわけだ。

 そして大きな音に、新井さんがびくっと肩を震わせて振り返る。

「何ですか……あ! おはようございます」

 一瞬だけ怯えたような表情を見せて、それからすぐに例のチャーミングスマイルを浮かべて深々と頭を下げる。

「私、新井美馬っていいます。本日から三日間、お世話になりますね」

「三日間もメイドさんありの生活!」

 妹がもはや卒倒しそうだった。それくらい嬉しいということだろう。なんせこいつはメイドさん萌え。あの家事手伝いのプロフェッショナル集団が今後の日本を左右するとまで豪語していたくらいなのだから。桜木との会話の種を見つけるのに、こいつには何度頭を下げたことか。

「それはそれとして、三日間って……聞いてないんですけど」

「はい、今言いましたから」

 いい笑顔ですねでもそんないい笑顔で言っても許されませんよそんなこと。

「ま、今更何言っても遅いよな」

 俺は溜息とともに呟いた。新井さんは首を傾げているが何のことか教える必要が無いので教えない。それより、そろそろいいんじゃないんですかねえ、みそ汁。

「あ、そろそろ時間ですね」

 新井さんは思い出したように振り返ると、ガスを止めてみそ汁の味を見てみる。思いの他熱かったのか、おたまに掬った分を口に含むと身を仰け反らせる。

「あっちい」

 火傷でもしてしまったのか、冷まそうとするかのようにぺろっと舌を出す新井さん。ああ、案外ドジな側面も持っているんだなあ。癒されるわあ。

「あにき気持ち悪い」

 目の下に隈の浮いた妹から本日二度目の罵倒を頂戴する。昨夜は寝てないと言っていたっから眠いのだろう。ゆらゆらと左右に首を振っている。俺は釣り上がっていると思われる口角を下げるために二度ほど頬を掴んで揉み解す。

 そうしていると、ご飯とみそ汁と焼き魚、付け合わせの野菜を乗せたお盆を新井さんが運んで来た。

「出来ましたよ〜」

 テーブルに朝食が並べられて行く。それが一人分少ないことに気づくは当然のなりゆきだろう。

「新井さんの分は無いんですか?」

「私の分は後で頂きます。メイドとは、主と食事の席を一緒にしないものなのですよ」

「ふおー! すげー!」

 妹の息の荒げ具合に若干引きつつ、俺は新井さんに一緒に朝食を食べようと提案してみる。   しかし……、と渋る新井さんを何とか説得出来ないものかとアレコレ口を動かしていると、妹様からの罵倒が飛んで来る。

「いくらメイドさんが可愛いからって口説こうとしないで。気持ち悪い」

「そんなんじゃねえよ! ただ俺は一緒に朝メシを喰おうと」

「それを世間では口説いてるって言うのよ。何のために最近あたしのコレクションを鑑賞していると思っているの? 一個ダメにしたことがあったし」

「ああ? 同じの何個も持ってるんだからいいだろうが別に!」

「よかないわよ! 鑑賞用布教用保存用。それぞれ一個ずつ。最低で三つは持ってないと行けないの常識でしょこんなの!」

 どこの世界の常識だそれ。

「あ、あの……喧嘩はしないで下さい」

「あ、すいません」

「ふん!」

 愛想笑いを浮かべて謝る俺とは対照的に、妹はふてぶてしい態度でみそ汁を啜る。ずずず、と盛大に音を立てて。

 そして、目を見張った。

「美味しい、これ」

「本当ですか? 嬉しいです!」

「お、本当だ。すげえ上手いよ。新井さんて料理上手いんですね」

「また口説こうとしてる」

「お前はいちいち噛みついてくんなよ」

 我が妹ながらホント、可愛げの無い奴だぜ。

「昔はちょっとカミナリ鳴ってるくらいで俺の部屋に来て、お兄ちゃん一緒に寝ようとか「わーわーわー」

 俺が暴露話をしようとしたら遮って来やがった。まあ当然と言えば当然の反応なのだろう。俺は溜息を吐くと、今度は魚に箸を付ける。

「む……これは!」

 上手い。凄い上手い。うちの冷蔵庫にあった奴だから安物のはずなのになんだこの美味さは!舌の上を滑らかに、すべるように口内を駆け、噛み締める度に油がじわりと湧き出て来る。そしてその油は身が喉を滑り落ちる際にぱさぱさした感じを消している。

そうなることによってするりと喉を滑り落ちて行くこの感覚。

 ……エクセレント。

「ちょっとあにき、何泣いてんのよ? 気持ち悪い」

 もはや数えることを放棄するぐらい何度も罵倒してくる妹に対し、俺は焼き魚を指し示す。確かにちょっと塩味がすると思ったが、これは涙だったのか。

「喰ってみろって、ほんと美味いから」

「何もう。この魚、うちの冷蔵庫にあった奴でしょ? そんな美味いわけが……むう!」

 妹も目を見張る。そして俺と同じように涙を流し始めた。このへんは兄妹なんだなと思う。感動の瞬間だ。美味くて。

 新井さんが微笑ましく見つめる中、俺たち兄妹はがががっと一気に朝食を掻き込む。感動にむせび泣きながら、手のしわとしわを合わせる。

「ご馳走様! こんな美味いもん初めて喰った!」

「ホントに! うちのお母さんの腕じゃ絶対に無理よね!」

「ふふふ。ありがとうございます。でも、やはりお母様のお料理が一番なのではないですか?」

「そんなことないわよお。いつも食べてる物が生ゴミ思えて来るくらい美味しかったわあ」

「生ゴミ……ですか」

 嬉しいけどそれは言い過ぎなんじゃ、みたいな笑みを浮かべている新井さんに、俺は食べ終えた食器を流しに運びながら言う。

「生ゴミは確かに言い過ぎだけど、本当に美味しかったですよ。うちの親じゃあんなの作れない」

「ありがとうございます」

 新井さんは小さく会釈すると、立ちあがって食器を持とうとしていた妹を制した。

「そのようなことは私がいたします。どうかお二人はくつろいでいてください」

「そ、そう……じゃあお言葉に甘えて」

 洗い物は新井さんに任せ、リビングへ行き既にくつろいでいる妹の隣に腰を下す。いつもなら嫌がるところだが、今日は新井さんはいるためか露骨に嫌がる素振りは見せない。さっきの朝食のお陰で機嫌がいいのかもしれなかった。

それだけでなく、リモコンを渡して来てチャンネルの主導権まで譲渡して来た。正直、後が怖い。

 俺はリモコンを受け取ると、面白い番組でもやってねえかなと一つ一つ変えて行く。どうでもいいが、番組表という便利機能があるにも関わらずこうして一つずつ変えて行くのは一度見て見ないとその番組が面白いかどうか解らないからだ。目的地までカーナビや地図を使わず、途中で興味が引かれたお店に立ち寄る感覚に近いだろうか。

 何となくいい番組があっていないような気がして、リモコンを妹に返す。これが平常時であればリモコンの奪い合いという骨肉の争いを繰り広げているところだが、やはり見ず知らずの人がいるとそのような内輪のいざこざは起こせないものである。人間が社会的な評価を気にする生き物なんだなと思った瞬間。

「ねえ、あにき」

 小声で、妹が話しかけて来る。

「何だ?」

「今更だけど、どうしてあの人、当たり前みたいな顔でうちことやってんの? ちょっと理解に苦しむんだけど」

「ん〜……そいつを説明するためには千里より長い説明が必要なんだがな」

「簡潔に話せ」

 また無茶を言う。

 しかしまあ、簡潔に話せないことはない。新井さんは過去に俺にとある過ちを犯していて、その事後処理というか謝罪のためにうちでしばらく働くことになった、とそういえばいいのだから。三日間限りとはいえ、無給で家政婦さんを雇えるならこんなに嬉しいことは無い。

「そういえばさー、話は変わるんだけど」

「何だ」

「例の彼女さんとは上手く行ってる?」

「ぶふう!」

 盛大に、俺の口の中からエクトプラズマ的な何かが吐き出される。ちょうど妹の方を剥いていたため、俺のエクトプラズマ的な何かが妹の全身に噴きかけられた。妹はいらだったようにひくひくと眉を立てていたが、俺が気にするようなことじゃない。

やはり、こいつとは争う運命にあるようだ。兄妹とは本来そういう宿命なのかもしれない。

「何すんのよこのばかあ!」

 妹が飛びかかって来る。が、運動神経なんてナマケモノ以下の俺のこと。この兄にしてこの妹ありという感じだ。俺の運動神経は確実に妹に伝染している。奴の一撃を避けることなんざ赤子の手を捻るように簡単だ。

 ひょいとかわす。妹が悔しそうに歯軋りした。俺は調子に乗ってべろべろばあとかしている先にソファがあり、足をひっける。ドシンと音を立てて倒れ、頭部をしこたま強打した。

「ふふん。わたしの前に跪いたわね。わたしのことをばかにしているからそうなるのよ」

 妹が得意げに、さながらRPGのラスボスの魔王みたいな邪悪な顔で俺の見下してくる。対する俺は魔王に打ち破られ、コンテニューを目の前にしたプレイヤーのごとく悔しさで一杯だった。どちらが各が上かなど考えずとも分かるのだが、ここはあえて妹と言っておこう。これが兄の余裕だ。

「何をしているんですか? 喧嘩はいけませんよ!」

 俺達がばたばた暴れていると、奥からお茶の入った湯呑みを持って来る新井さん。見慣れない湯呑みが二つあり、そのことに妹が首を傾げる。

「そんなのうちにあったっけ?」

「ああ、これは私がご用意したものです。お詫びの印に何か持って行きなさいとお嬢様に言いつけられましたので。それならば形に残り、なおかつ使えるものがいいかなと思いまして」

「ホント! 可愛い湯呑み! 貰っていいの!」

「はい」

 無遠慮な妹に新井さんが笑顔で応じる。妹は新井さんのお盆から湯呑みを取り上げ、よほど嬉しいのかくるくると回っている。おかげで中身が数滴零れているが指摘する者は誰もいない。その場にいる全員が微笑ましげに見つめるだけだ。

 俺がジーッと、幼少期の妹の姿を思い出しながら昔は可愛かったのにいつの間にこんな生意気で可愛げのない妹に育ったのだろうと嘆いていると、妹はハッと我に返り、俺に一発蹴りを叩き込んで来る。

「何見てんのよこのばか! 気持ち悪い死ね!」

 あっれー? 何か罵倒のレベル上がってね? 俺何かしたっけ? はてさて、全然身に覚えが無いのだが。それはその体制だとパンツ見えるぞ。汚いから止めろ。さっきメシ食ったばかりだぞ。

「だから、喧嘩は駄目ですってば」

 新井さんが仲裁に入る。喧嘩というよりは一方的に蹴られただけだったのだが別にいいか。事実がどうあれ他人から見ればそんなものなんだろう。

 俺は溜息を吐くと、ソファに腰かけて湯呑みを握った。一口啜り、ほうっと息を吐く。何かいつもと違うな。

「……どうしたんですか?」

 目線を上げると、新井さんが期待値MAXな視線を送って来ていた。何を待っているのか全然俺には分からない。そして落ち着かない。

 俺は湯呑みを置いて、その表面を見た。茶柱が立っている。それだけだ。新井さんが何を期待しているのか……。

 訊いてみることにした。

「どうかしたんですか?」

「いかがですか?」

 質問に質問で返されてしまった。さて、俺はいったい何を尋ねられているのだろう。助け舟を求め、妹に視線を寄越すも、あのくそ野郎から応じる声は無い。というか目を逸らしている。私には関係ありませんって顔をしていやがる。

 ったく。

 とりあえず、適当に話を合わせておくか。

「凄くいいですよ」

「本当ですか! よかったです!」

 新井さんは何がそんなに嬉しいのか、ぱちぱちと胸の前で小さく手を叩く。そのまま飛び跳ねるというオプションも付ければ、最高だったのに。

 俺はわけが分からないまま、努めて笑顔を作る。そうしておけば、とりあえずは悪い印象を与えることは無いだろう。そして、早いとこ新井さんがなぜ喜んでいるのか、その理由を探らなければ。地雷を踏んでドカン! 機嫌を損ねて甲賀流忍術が炸裂しかねない。妹のみならず、俺も新井さんの暗殺技の餌食になりかねないなかった。そうして、兄妹そろってどこか遠くの山奥に埋められる、なんてことも。

 と、そんなことを考えていると新井さんが俺の顔を覗きこんでいることに気づいた。ほとんど不意打ちに近かったので、びっくりして後ろへ仰け反ってしまう。その弾みでお茶が零れ、俺のズボンに付着した。股間部分にシミが広がる。

「す、すいません! すぐにお拭きします!」

「ああ、お願いしま……いえ! いいです結構です! このくらい、ほっとけば渇きますから!」

「そんないけません。こんな時に限って来客があるものです。それも通常では考えられないくらい大勢の方がいらっしゃるものです。それが世間のお約束というものです。だから、さあ!」

「いいですって! 自分で何とでも出来ますから!」

 使命感に彩られた瞳をしている。こうなれば、俺が力で新井さんをねじ伏せることは不可能だろう。何か、九条の家に行った時とは別ベクトルのバーサークモードが発動しているような……、

「さあ、さあ!」

 じりじり、じりじり。少しずつ、本当に少しずつ、新井さんがにじり寄って来る。そのことに、俺は猛烈なデジャヴを感じた。あれはそう、桜木の家に行った時だったか。何か同じような状況に立たされたことがあるような気がする。

 半ば現実逃避気味に懐古に浸っていると、壁際まで追いやられてしまった。ああもう、何でこうなる! 

 新井さんは若干血走ったように見えなくもない目で俺の下腹部、シミの出来た辺りを見詰めている。あの時の桜木と違って涎とかたらしていないのがせめてもの救いか。

 新井さんがしゃがみ、俺のズボンに手をかける。ベルトの金具を外し、ずり下ろそうとするところへ上に引き上げることで何とか抵抗する。

「駄目ですよ、そんな抵抗されても」

「だから何でこうなるんだよ!」

 助けて欲しくて妹を見ると、妹は世界の珍犯罪者特集というバライティ番組を見ながら爆笑していた。そんなもんどうでもいいから助けろ! 兄貴の貞操がピンチなんだ! という俺の念は届くことが無く、妹は床の上を転げ回ったり、テーブルをばんばん叩いたりしている。くそっ、俺よりバライティ番組優先か。そりゃそうだろうな!

 ここは、俺が一人で何とかするしかないようだ。

「ごめん、新井さん」

 先に謝り、新井さん目がけて右足を降り出す。なるべく顔は狙わずに、肩のあたりを押すように蹴る。しかし、そんな俺の亀の動きより鈍足なキックなど甲賀流忍者の末裔であられるところの新井さんに通じるわけが無く、軽々と受け止められてしまう。そして、意外なほど強い力で引っ張られ、バランスを崩して倒れ込む。俺の上に、新井さんの顔があった。

「や、止め……」

 必死の抵抗も限界が訪れていた。さすがに万年帰宅部の俺と、新井さんの間には天と地、兎の亀くらいの歴然とした差があるようだ。関係無いけどあの話兎はサボって木蔭で居眠りなんてしなけりゃ絶対に勝てたよな? そうだろう?

「大人しくしてください!」

 新井さんが渾身の力ので俺の下半身を防護していたズボンを剥ぎ取る。なぜこうなるのか全然わからないが、とりあえず危険だと思った。何がどう危険なのか、そのあたりは御想像にお任せします。

「さて、次は下着ですか」

「さてって何ださてって!」

 叫ぶも、新井さんは止まらない。と、そこへピンポーン、と本日二度目のインターホンが鳴った。

「ほら、新井さんお客さんですよお客さん。メイドさんなら、出なきゃでしょ?」

「……ちっ」

 いま「ちっ」って言わなかったか? 俺の聞き間違いか? どうでもいいか。

 新井さんはしぶしぶ、嫌々といった様子で立ち上がり、玄関の方に体を向けた。が、そちらへ向かおうとした新井さんを制し、彼女の前にテレビの前で転げ回っていたはずの妹が立つ。

「わたしが出ます」

「てめええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!」

 心からの叫びが、石宮家を揺らした。新井さんは妹に向かって深々と頭を下げると、再び俺に向き直った。


         ●


「何なのですか、この状況は!」

「あらあらあら」

 九条が叫び、桜木が上品に口許に手を当てている。二人の反応はそれぞれ異なったものだが、それが意味するところは実のところ一つしか存在しない。

 新井美馬さんが俺の上に馬乗りになり、俺の下着を奪い取ろうとして俺の尻が半分以上出てしまっていることに対する呆れとか、怒りとか、そんなもんだった。

 九条が露骨に怒りを表せば、桜木は内に秘めて怒りを溜め込む。どちらにしても、今のこの状況に対して大いなる誤解をしていること請け合いだった。二人とも結構思い込み激しいからなあ……。

「あー……説明させてもらいますと」

「そんなものは必要ありませんわ! あなたが美馬さんに対して暴行を働いているという、己状況が分かれば後は必要無しですわ!」

「待て待て待て待て! この状況のどこが俺が暴行を働いているというんだ!」

「大方、美馬さんの立場と責任感に付け込んだのでしょう、この外道!」

「そうだそうだ、あにきは外道だ」

 黙れ妹! お前は一部始終を知っているはずだろうが。

「新井さんからも何とか言ってやってくださいよ!」

「私、実は男性経験が無くて……お手柔らかにお願いします」

 ポッと赤くなる新井さん。なぜだちくしょう!

「やはり!」

「ちがぁぁああああああああああううううううう!」

 俺の魂からの叫び声は、誰にも聞き届けられることは無かった。

 誤解を解くのに三時間、そこから更に説明を加えて三十分、そしてそこから新たな誤解が生まれ、それを解くのに二時間の時間を要した。

 いつの間にか、午後を一時間以上過ぎていた。腹が減り過ぎて、美味く説明が出来ない。

「……とりあえず、飯にしようぜ」

「そうですね。ご飯を食べて、ゆっくりとお話を聞きましょう」

 それまで黙っていた桜木が口を挟み、俺と九条の間に割って入る。さすがは、持つべきものは彼女だと桜木に感謝の念を視線とともに送ると、桜木はなぜか笑っていなかった。

 いやあ……口許は笑みの形になっているのだが、目が笑っていないように見える。ちょー恐い。

「ど、どうしたんだ、桜木?」

「どうしたんだ? ご自分の胸に訊いてみてはいかがです?」

 他人がいるからだろう、普段の甘えたような喋り方では無く、固い口調で桜木は言う。そしてどうして桜木の怒っているのか、俺には全くと言っていいほど心当たりが無いなー。あはははははは。

「そ、それにしても、どうして二人が俺んちに? ていうかよくわかったな?」

「ふふふ、我が九条家の情報網を用いれば、このような犬小屋の場所を探し当てるぐらい何でもありませんわ」

「メイドさんが健斗くんのお家にお手伝いに行っていると聞いたので、だったらお泊まりに行こうと言うことになったんです」

「あ、そうなんですか……」

 何だかもの凄く嫌な予感しかしない。何だろう、この背中に走る悪寒は。そして犬小屋ゆーな。

 俺は妹に目を向けると、予想でもしていたのか、妹は全く素敵なタイミングで目を逸らしてしまう。アイコンタクトなど、ここ五年はしていないだろうか。まあしなくてもいいけど。

 しかし、これはどうしたことか。まさかうちにこんな美女と美少女達(妹除く)が終結するとは。何この幸せ空間。でも桜木は何だかご機嫌斜めだし、九条はちょっとしたことですぐ手を出してくるし、新井さんは九条絡みだと豹変するし、妹はちっとも頼りにならないしで俺にとっては地獄と天国の双方の側面の悪い部分だけを掻い摘んで体験している感じだ。何も得する部分が無い。せめて妹がいなければなー。

「それで……どうして俺んちに集まろうと?」

「新井さんと健斗が二人きりでいるのが……いえみんなで集まってわいわいってやるのは楽しそうだなと思いまして」

 何か桜木の本音が垣間見えたような気がしたが、気のせいだろう。そういうことにしておこう。嫉妬とかしてくれたら面倒だけど嬉しい気もする。でも、本人が嫉妬してなんて一言も言っていない時点で違うのだから何も言えない。

「それで、わたくしが新井さんがあなたのご実家で数日お手伝いとして研修に行っていると話したら、桜木さんがぜひにとおっしゃいまして」

 あ、体面的には研修ということになっているのか。九条家のあのでかさを考えれば、世間的な体裁を気にするのも当然なのかもしれない。だったら別に研修なんていう形にしなくて寄越さなければいいのに。別にいいけど。

「じゃあ、すぐにお風呂の準備をいたしますね、お嬢様」

「お願いしますわ、美馬さん」

 にっこりと新井さんが微笑むので、にっこりと九条が返す。いや、家人の了承はいらねえのかよ。

「じゃ、わたしはパジャマの準備をするね」

 と妹は二階へ、新井さんは風呂場へと向かう。新井さん、場所分かるんですか?

「それでは、私は健斗くんと少しお話があるので、九条さんは少しの間一人になりますがいいですか?」

「? ええ、構いませんわ。何のお話をなさるのか見当も付きませんが、いってらっしゃいと言わせてもらいますわ」

 おいおいおいおいおいおいおい! ここは引き止める場面だろう。何ナチュラルに見送ってんの! ていうか桜木、首根っこを掴んで引きずって行こうとしないで! 痛いから! ちゃんと行く、行くってば!

 俺は首根っこに回されていた桜木の手を払い除けると、彼女の後に続いて外へと出た。さて何が起こるだろうと身構えていると、今にも泣き出しそうに桜木が肩を震わせているのが見て取れる。

「……桜木?」

「…………メイドさんと二人っきり……」

「えーっと」

 漏れた呟きが意味するところはたった一つだろう。要するに嫉妬だ。美馬さんが同じ屋根の下で、というシチュエーションが気に喰わないのだろうおそらく。

 先ほどまでは九条達の前だったこともあり、我慢していたんだろうが、それも限界だったらしい。

 でもなあ……、

「妹もいるし、二人きりてわけじゃねえけど」

「でも、妹さんは普段は健斗に対して興味無いんでしょ? こういうことでも無かったら兄妹の会話すらなかったんじゃないの?」

 うるへえ。つうか何でそんなこと知ってんだ。

「いやでも……」

 なお言い訳をしようと口を開きかける。が、先に桜木に潰されてしまった。

「そんなことはどうでもいいの。こうして健斗を監視しにきたわけだし。私が見ている前でまさか綺麗なお姉さんに手を出したりしないだろうから」

 信用ねえんだな、俺。ちょっと悲しくなってくるぜ。

「別に俺は浮気なんかしねえよ」

「でね、もう一つ理由があって」

 桜木は俺の言葉を無視して続ける。ぐす。

「前に私の家に健斗を招待したことあったでしょ? 私も健斗の家にお邪魔してみたいなあって思ってたから、いい機会だと思って」

「……あっそ」

 だったらもう少しマトモな日に来てくれればいいのに。

「まあいいや。折角だしな。お泊まり会楽しんでくれよ」

「うん、そうする」

 ああ、いい笑顔だ。お前のその笑顔は日々の疲れを癒してくれる。桜木よ、お前は何だかんだ不安に思っているのかもしれないが、俺がお前以外の女と付き合うなんざ考えられねえ。

 ああ、桜木さいこー。

「お話は終わりましたの?」

「はい、終わりました」

 にっこりと桜木が笑む。いつもの対外用の笑顔を少し軟化させている。さすがに九条に対してくらいはこんな顔をするようになったのか。

 何かちょっと寂しい気もするけど、仕方無いよな。

 俺と桜木は九条たちの許へと戻った。妹も新井さんもみんないがいた。

「では、少々遅くなりましたが昼食にしましょうか。お嬢様たちの分も急いでお作りしますね」

「お願いします、美馬さん」

 美馬さんの柔らかな笑みに、九条が返している。こうして見ていると、かなり絵になるな。背景がもろ民家っていうところが残念だけど。


       ●


 それから、九条と桜木を加えて少々遅い昼食を摂った。時刻は既に二時になろうとしていた。もはやおやつの時間帯である。

 俺が食べ終えた皿を流しに持って行くと、新井さんがそれを受け取り、桶の中に溜めた水に付けていく。

「後食べ終わっていないのは妹さんとお嬢様ですね」

「そうですね。妹はいつもあんな感じですよ。慢性的に食欲が不足しているというか。九条は家でもあんなに食べるのが遅いんですか?」

「そう……ですね。お嬢様はいつも食材の味を噛み締めて食されますから。それでも普段はもう少し早いのですが……」

「聞こえてますわよ」

 九条の声に振り返る。彼女は不愉快そうに眉を歪めてカレーを食していた。

「わたくしは食材本来の味を楽しむために、あえてゆっくりと食べるようにしていますの。ただ、これはちょっと量が多くて……」

 何となく悲しそうに見えるのは気のせいだろうか?

「ですね。いつもはもう少し小食ですから、お嬢様は」

「お前が庶民の食事を体験してみてえなんて言うからだろ」

 何かばかにされた感じだが、その辺りは気にするまい。

「ですが、これほどとは思いませんでしたし」

「なら残せばいいだろ。無理して食う必要は無いんだから」

「それでは食材を作ってくれた農家の方々や美馬さんに申し訳無いですし……」

 意外だな。そういうところは厳格というかちゃんとしているのか。

「意外ですわね。庶民というのはその辺りは案外ずぼらというか」

「まあ、喰えないもんを無理して喰うのは農家の方々の本意じゃないだろうからな」

「勝手な解釈ですわね」

「…………」

 そう言われてしまえば返す言葉も無い。

 しかし九条よ、そう難しそうな顔をされてまで食べようだなんて農家の方々も思っていないと思うぞ。それも立派に勝手な解釈だろう。

 ま、そんなことはどうでもいい。農家の方々の気持ちなんて俺には分からんのだしな。

「そんなことより、さっきから桜木の視線が痛い」

 俺と九条と新井さんの会話を聞いていて不機嫌係数が上がって行ったのだろう。桜木が凄い顔で俺に睨みを効かせている。マジ恐い。

「何だよ桜木、お前も何が言いたい?」

 正直桜木は笑っている顔がホント可愛い。だからそんな顔すんなよ。

「……別に。楽しそうだなって思って」

 どう見たらそう見えるのかはなはだ疑問だ。九条と新井さんの相手をするのは正直かなり疲れるぞ。お前もか、面倒な。

「それよりも、これをどうするか考え下さいですわ」

 九条がカレーの皿を指し示しながらしかめ面を披露している。

「ふー」

 俺は肺から空気を吐き出し、側頭部を掻く。しかたねーなあ。

「ちょっとそれかせ」

「ちょっ……何をする気ですの?」

 九条は訝しげに訊いてくるが行動で示してやれば解り易いだろう。新井さんにお願いして、新たなスプーンを渡してもらう。

 そのスプーンを使ってカレーを一口分すくい、ぱくりと食べてやった。

「な、何を!」

 がたり、と九条が立ち上がり、テーブルを揺らす。が、それよりも俺には桜木のあの非難するような目。あの目の方が突き刺さってくる。

 そんな俺の心を抉る視線を受けながら、カレーを胃の中に掻き込んでいく。空になった皿を新井さんに渡した。

「……お願いしまう」

「はい」

 新井さんは目を細め、どこか嬉しそうに皿を受け取り、流しにつける。俺は彼女の意図をあえて気づかない振りをした。

 それにしてもうえっぷ。結構な量残ってたな。俺もどちらかというと喰う方じゃ無いからな。苦しい。

「あ、ありがとうございます……」

「……別に」

 呆然と言った様子で、九条が礼を言ってくる。だろうなと思いつつ、俺はテーブルの九条の向かいに腰を下した。隣に座る桜木が俺の爪先を踏んでくる。その程度は予想の範疇だ。我慢できる。

「ずいぶんとお優しいんですね、健斗くんは」

 笑っているが目が笑っていない。何か家にいる時はずっとこういう雰囲気のような気がする。たぶん気のせいだ。

「もったいないと思ったからな」

 それ以外の理由は無い。本当に無い。神に誓ってありはしない。

 俺は目の前からどこか緊張した面持ちの九条の、隣から桜木の嫉妬にまみれた視線と爪先に圧力を感じながら午後の時間を過ごした。

「……せーしゅんだねー」

「他人事だな」

 妹に突っ込みを入れ、俺は本格的にヤバイ立場へと追いやられる。


       ●


 妹以外の誰かと一緒に昼食を食べるという、これまでの生活からではとても考えられないような珍しい体験をした午後三時頃。

 とはいえ、別に死に別れたとかいう過去があるわけではない。フィクションの世界では無いのだ。そんな奇特な理由がそうそうあってたまるか。

 そして、一緒に昼食を食べた新井さん、九条、桜木の三人に囲まれて、俺は危機的な状況に陥っていた。

 具体的には桜木に睨まれ、九条に迫られ、それを遠巻きに新井さんが微笑ましげに見つめ、さらに遠巻きに妹が観察しているという構図が出来上がっていた。助けろよ。

「な、なあ九条……ちょっと熱くねえか?」

「そ、そうですか、わたくしはそれほどでもありませんわ」

「ならいいけどよ……」

 全然よくねえよ。でも俺には九条を振り解くことができない。

 桜木の方を見ると……うぐっ。

「な、何だよその目……?」

「べっつにぃ」

 プイッとそっぽを向いてしまう。何なんだよ、もう。

「それより、い、いいいいいい石宮!」

「な、何だよ?」

「その、さっきはありがとうですわ」

「はあ……」

 さっきから何回目だよ、それ。

 新井さんが見ている手前、九条を無碍に扱うこともできない。結果として曖昧な感じになってしまうのだが、それすらも桜木は気に喰わないらしい。嫉妬というとされる方は嬉しいものだとかいうが、桜木ぐらい嫉妬深いと割と面倒だなと感じたりはしない。うん、しない。

 ていうか服の上からじゃ解りずらいが、九条って以外とスタイルいいんだよな。特にし過ぎなくらい主張している胸とか……。

 そう言えば前に、九条んちで九条の下着姿を見たことがあったような……。結構どころじゃなくでかかったなあ。

「何を考えておいでですの?」

「あ、いや……何でもねえ」

 この間の下着姿の九条を思い出していましたとは口が裂けても言えない。新井さんと桜木の両方から地獄の四十八手を喰らうハメになるだろう。いやあ。

「あにきは基本的にえっちなことしか考えていない」

 あ、こら妹! てめえ!

「へー……そうなんですか、健斗くん?」

「どんなことを考えていたのか、詳しく聞かせていただけますか、健斗様?」

 一瞬にして二人の沸点を超えてしまう発言が妹の口から発され、新井さんと桜木がつめ寄ってくる。何か二人の後ろに阿修羅が見える。

「待ってくださいまし、お二人とも!」

 じりじりと距離を詰めてくる桜木たちを九条が止めてくれた。俺との間に立つ九条に、さすがの二人も動きを止める。

「なぜお二人がそれほど怒っているのか正直分かりませんが、石宮といえど殿方ですわ。その辺りは理解して差し上げないと」

「お嬢様、なんとお優しい」

 およよ、と新井さんがエプロンで涙を拭う仕草を取る。いやいや。そして対照的に桜木の冷凍光線みたいな視線が俺を射抜き、吹雪に見舞われた登山家のごとく身動きを封じてくる。

「でもいいんですか、九条さん?」

「何が、ですの?」

 九条が首を傾げている。桜木が何を考えているのか分からないが、その先は言っては駄目な奴だろう。俺には分かる。分からんが。

「やめ――」

「健斗くんがえっちなことを考えているのだとしたら、たぶんモデルは九条さんですよ?」

「ふえ?」

 俺が止める間も無く、桜木が告げる。で、九条はイメージに合わず素っ頓狂というか、無防備というか、とにかく訳わからん声を上げた。

 しばらく、静寂が包み込む。コチコチと時計の音が響き渡るくらい静かだった。それが俺の死の宣告を告げる時を刻む音だとすれば、これほど恐ろしいこともほんとに無いだろう。

 ぴったり一分後、その時はやってきた。

「あ、あわわわわわわ!」

「健斗貴様ァ!」

「さあ健斗くん、レッツキルタイム」

 九条が顔を赤くして崩れ落ち、新井さんが怒りに耳まで真っ赤に染め、桜木が見たこともないくらい悪い顔で笑んでいる。桜木、その笑顔は可愛くないよ。

 そして、新井さんの手によって俺が細切れにされる未来が見えた。

「せーしゅんだねー」

「それはもういい!」

 妹に突っ込みを入れる。兄妹最後の会話がこんなのなんて嫌!


       ●


 死んでいない事実にまずびっくり。そして俺以外の死人が誰もいないことに二度びっくり。

「あてててててて」

 高等部に痛みを感じ、顔をしかめる。状態を起こすと、異様なくらいの暗さだった。後なんかちょっと寒い。

 ぺたぺたと体のあちこちに触れる。裸だという事実を知り、三度目の驚愕に目を見開いた。

 何があったんだ……!

 ともかく電気を点けよう。そう思い、ベッドから出ようとした。

 が、ベッドに手を突いたところで動きが止まる。理由としては、手の平に異様な柔らかさを感じたからだ。直後に「ん……」という色っぽい声が俺の脳味噌を揺らす。それは明らかに女の声だった。気が動転しているためか、声から誰であるかの判別をすることができない。

 ただ、俺の予想が正しければこれは……、

「く……何だ?」

 考えようとしてパッと明るくなった。

 思考を中断し、明るくなった部屋に目を細める。真っ暗だった空間からいきなり明るくなったため、一瞬視界を奪われてしまう。

 何も見えない。

 それも、数秒にも満たない間だけ。すぐに明るさに目が慣れ、徐々に視界が開けてきた。

 部屋の入り口に、妹が立っていた。

「やあ、底辺あにき。お目覚め?」

「は?」

 妹の言っていることの意味が解らない。何だ底辺あにきって? 初めて聞いたぞ?

「ん、隣を見てみなよ」

「隣って……」

 言われた通り、左右に視線を走らせる。するとそこには、俺と同じようにまっ裸の少女が二人。

 一人は桜木。俺の恋人であり彼女。笑顔が可愛く、気絶しそうになるくらい超絶可愛い生命体。

 もう一人は九条。大金持ちのお嬢様。語尾の「ですわ」が特徴。ついでに育ち過ぎた胸部も特徴。こちらもまっ裸。

 な、なななななななな、

「なぜだああああああああああああああ!」

 外は暗いしたぶん夜中だろうとか、近所迷惑だとか、そういったことは一切考えなかった。ただ、この状況に対する説明を誰か! 誰か早く!

「あにきうるさい。三人とも起きちゃうじゃん」

 妹がいたって冷静に指摘してくる。うるせえ、こっちはそれどころじゃ無いんじゃ!

 は? え? う? 何この状況? 俺は一体どうしたら……、

「ん……けんと?」

 俺の布団の中で桜木が身じろぎする気配がする。どうしようと慌てふためくが妙案など思いつくはずがない。このままケーサツ沙汰イコールバッドエンド決定だこりゃあ。

「落ち着きなよ」

「これが落ち着いていられるか!」

「大丈夫だって。三人とも合意の上だから」

「いやそれにしたってふたり……三人?」

 なん……だって? 今三人と言ったか妹よ? 俺は桜木と九条の二人だけでは飽きたらず三人目まで毒牙にかけていたと? そういうことなのか?

「どういうことだ、それは?」

「んー……そりゃ覚えてないよねえ」

 勿体ぶるな早く言いやがれその眠たげな半眼に眼潰し喰らわすぞこのくそ妹が。

「えっと、どこから話したらいいのやら」

 妹は口の中でアイスの棒を弄びながら、思案するように天井を仰ぐ。

「まず、あの新井美馬さんって人が目にも止まらぬ速さであにきを気絶させて、それからそっちの九条さんが必死に止めようとしてた。そこに桜木さんが一つの提案を投げ込み、このような展開に」

「納得できるかボケェ!」

 一ミリも俺の意志が介在してねえ! つうかやっぱ新井さんにやられてたのかちくしょう。

「それであにき、さっきからずっと桜木さんの生おっぱいこねくり回して楽しんでいるところ申し訳無いけど、桜木さん、起きてるよ?」

「そういやそうだった」

 俺は桜木の胸から手を退かした。桜木は気恥ずかしそうに目を逸らし、顔を耳まで真っ赤に染めている。ついでに何も言わないものだから、さっき目を覚ましたことを忘れていたくらい大人しかったことも付け加えておこう。

「健斗くん……いい加減に」

「あ、ああ……悪い」

 しかしどうする? 今の俺は完全完璧にまっ裸の状態。このまま布団から出ようものなら俺のビッグマグナムが二人ないし四人に見られてしまうことになる。今さら感がハンパ無いがそれだけは避けなければ。再び新井さんの手によって制裁を受けるかもしれない。

「そう言えば、その新井さんは?」

「そこにいるじゃん」

 妹が指差すのはベッドの隣。まあそれほど広い部屋でもないしな。そりゃ同じ部屋で寝ようと思ったらこんなふうになるのは自明の理だろう。

 俺たちの隣で、新井さんが静かに寝息を立てていた。眠る時までメイド服なのは家に住み込んでいるからだろう。普段は寝巻があるに違い無い。

 そして、そのメイド服の股の部分とか胸の部分とか、後首筋についているキスマーク的な奴も、その全てが俺のものでは無いと思いたい。誰か嘘だと言って。

「本当だよ」

「黙れ」

 俺の心中を見透かしたようにそう言ってくる妹に睨みを据えて、さてどうしたもんかと考えを巡らせる。九条をまだ寝ているが桜木は起きている。しかし桜木もまだ寝ぼけ眼だ。果たしてこの状況でタンスまで辿りつけるだろうか。

 いや、辿りつかなくてはなるまい。いつまでもこんな格好でいるわけにはいないのだから。

「仕方がない、行くぜ!」

 いずれにせよ、俺は辿りつかなくてはならないのだから。

 俺は素早く布団から出ると、思い切りジャンプした。運動は苦手では無い程度の運動神経しか持たない俺だが、ベッドのスプリングが反発する力を借りて大きく飛ぶことができた。新井さんの上空を飛び越え、着地する。

「よし!」

 グッと拳を握る。第一関門突破。

 次はタンスだ。ファッションに拘っている時間は無い。パンツとシャツとズボンを取り出し、高速で身につける。

 ふー……。

「ミッションコンプリート……」

 額に浮かぶ冷や汗を拭う仕草とともに、余裕を取り戻す。

「……で、どうすっなあ」

 振り返ると、今だに裸の桜木と九条が俺のベッドの上にいる。そしてベッドの隣には乱れたメイド服姿の新井さん。振り向いて、後悔して目を逸らした。

 どうしよう……ほんとに。

「なあ妹よ、頼みがある」

「とりま二人が着る服を持って来いっていうんでしょ?」

 さっすが俺の妹。よくできてやがる。

 数秒から数十秒の後、妹が二人の衣服やら下着やらを持ってきた。俺は二人が布団の中から出てこれるようにと気を使って階下へ降りる。別に俺には刺激が強すぎるとかそんなことじゃないんだからね!

 色々と腑に落ちない点はあるものの、とりあえずはこの心臓の鼓動を沈めることに尽力しよう。あいつらのことはその後だ。

 ずるずるずる、と扉に背中を預けて床に尻をつける。額に手の平を添え、はあああ、と重い溜息を吐く。

 なぜだ、なぜこんなことに。

 原因を探るため、記憶を遡ってみる。が、とある一部分だけ綺麗さっぱり記憶が無い。おそらくこの記憶の無い時間帯が俺が気を失っていた時間帯なのだろう。

 そしてその後、何かがあってああなったと、そう考えるのが妥当だろうか。

 だが、何が? 解らん。そもそも俺はなぜ気を失っていたんだ? 高等部の軽い痛みとなにか関連性があるのか?

「……あー」

 考えても一向に解らない。答えが出ない。

 ただ、一つだけ解っていることは――

「もーいいよー」

 俺の部屋から妹が顔を出し、あの二人の着替えが終了したことを告げてくる。妹が引っ込んだ後で、深呼吸を数度行い、ゆっくりと扉を開ける。

 中には、寝ぼけ眼な九条と割としゃっきりした顔の桜木、ほんのりと易しげに微笑みながらも怒りのオーラを振りまいている新井さんがいた。彼女らの後ろで妹が興味無さげに突っ立っているがそんなことはどうでもいい。

「あーっと……みんな、俺は……」

 どう切り出していいのか解らず、歯切れが悪くなる。

 桜木が前に歩み出てくる。神妙な顔つき。自分がやったことに対して思うところがあるのだろう。

 それはそうか。あんなことした後だしな。

「……ごめんなさい、健斗くん」

「いや、俺の方こそ……気を失っていたとはいえあんなことになっちまって……」

 お互いに歯切れが悪い。俺の方は、どう声をかけていいのか分からないからなのだが、桜木の方はどうなのだろう? こういう時、お互いの心の内を確かめ合うことができたら言いのにと思う。

「健斗くん……本当に、ごめんなさい」

 桜木は俯き、小刻みに肩を振るわせる。泣いているのだろうか。九条たちの方を見ると、同じような光景が広がっていた。妹も桜木たちと同じように顔を伏せている。

「ほんとうに、ごめんさい……ぷぷ」

 桜木は本当に悲しそうに……悲しそうに?

「……なあ、俺の気のせいだと思うんだが、笑ってねえか?」

「そ、そんなことはない……ですよ……」

 あれ? おかしいな? 

 一たび疑問に思えば、九条たちも、果ては妹までもが怪しく見えてきた。彼女たちも笑っているのではないだろうか?

「く……もう限界……あにき間抜け過ぎ」

「どういうことだ? お前はなにか知っているのか?」

 妹を問いただす。が、答えは別のところから返ってきた。

 トントン、と桜木が俺の肩を叩いてくる。

「健斗くん、これを見てください」

「……何だ、これは?」

 桜木の指の間に一枚の紙切れが握られていた。そしてそこには、でかでかとこう書かれていた。

 『どっきり成功』……と。

「なん、だと……?」

 絶句とかそんなレベルではない。頭の中が真っ白になるとはまさにこのことだった。

 あんぐりと開いた口が塞がらない俺に、桜木がやんわりと微笑んでくる。

「健斗くんがあまりにも私を見てくれないので、お仕置きです」

「それにしたって体張り過ぎじゃあ……」

 九条たちもよく協力したな。

「友達の頼みですもの。断れるわけがありませんわ」

 何をそんなに誇らしげに胸を張れることがある。布団で隠れていたとはいえ男の前で裸を晒したんだぞ。危うく俺のビッグマグナムがげふんげふん。

「それで、なぜ新井さんまで?」

「お嬢様だけに痴態を晒させるわけには行きませんので」

 新井さん、うやうやしく一礼しているがあなたが一番露出的に少なかったですよ。お嬢様の体の張り具合とは全然違う。申し訳程度の飾りつけでしかありませんでした。

「で、どうしてお前まで……」

 俺は妹をジト目で睨み据え、問う。

「聞きたい?」

「どうでもいいが、一応聞かせろ」

「頼まれた」

「誰に?」

「桜木さんに」

 でしょうねえ予想はついてましたよこんちくしょう。

「…………」

 まあいいや。このことについては不問としよう。これ以上ぎゃーぎゃー言ったところでどうにもならないだろ。俺の心は大海原のように寛大だからな。

 それでも一点だけ、桜木に謝っておかなければならないことがある。

「なあ、桜木」

「何ですか? 健斗くん」

「その……悪かったな……うにゃうにゃ触っちまって」

「え? 何? 聞えませんでした」

「く……」

 ずいっと桜木が顔を近づけてくる。いい香りが鼻腔をくすぐり、ようやく静まったと思った俺の心臓を激しく波立たせてくれる。

 俺は顔中が熱くなるのを感じながら、どうにか桜木に伝えたいことを口に出す。

「いや……だから……その……悪かったな、お前の胸、触っちまって」

 くあー、耳まで熱い。背中かゆい。桜木の顔をまともに見れない。何か俺とんでも無いことしてたような気がする。

「こねこねしてたもんね、あにきのへんたいー」

 妹がはやし立ててくる。だが今の俺に妹の野次に反論することができない。

 桜木もそれで思い出したのか、ボッと頬を朱に染めた。

「えっと……そりゃ恥かしかったけど、私の胸なんかで健斗くんが喜んでくれるなら……」

 く……駄目だ、可愛すぎる。桜木、お前の可愛さは犯罪級だぜ。

 スッと、桜木の唇が俺の耳元に近づけられる。

 小声で、

「今度は、人のいないところでゆっくりと……ね?」

 いや、それは……。

 足許がふわふわする。頭がくらくらする。どうして俺の彼女はこんなにいい奴なのだろう。

 駄目だ、立ってらんねえ。

 涙が零れそうだぜ。

 そのまま崩れ落ちてしまいそうになって俺をさっと支えてくれた人がいた。

 新井さんだった。

「大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫です。すみませんね、へへ」

 俺はつい照れ隠しに笑ってしまう。このままの体勢なら新井さんの柔らかな肢体を堪能出来るのだが、それをすれば俺は約二名から殺されてしまうだろう。

 残念だが、ここは素早く離れるとしよう。

 俺は新井さんから二歩ほど距離を取った。美馬さんは(表面上は)特に変化も無く、微笑んでいた。

「どこかお体の具合が優れないようでしたら、わたくしが看病いたしますが?」

 それか限り無く魅力的な提案だったが、先と同じ理由で俺が死ぬ。

 丁重にお断りし、かわりにというわけでもないが、俺は新井さんに一つの提案をした。

「じゃあ、今度俺がピンチの時にお願いするします」

 半ば社交辞令的な意味合いも無かったわけではなかったが、それ以上に新井さんほどの美人さんに看病してもらえるなら死んでもいいと思えるかもしれない。

 マジで死にたかねえけど。

「健斗くん、何を考えているんですか?」

「何も考えて無いですよ」

 桜木に睨み据えられ、俺のタマタマはきゅうんとなった。変な性癖に目覚めてしまいそう。

「さて、それではわたくしは帰りましょうかね」

 九条が立ち上がる。その動作は優雅そのものであり、俺は彼女に一瞬だけとはいえ目を奪われてしまった。

「お嬢様、お一人で大丈夫ですか?」

「大丈夫ですわ。わたくしを誰だと思いですの? 九条家次期当主ですわよ!」

 なぜそれが大丈夫だという根拠になるのかはイマイチよく分からないが、彼女を一人で帰らせるのは危険らしい。だって新井さんがおろおろしっぱなしだもん。

「しょうがね、送ってやるよ」

「結構ですわ!」

 ビッと手の平を突き出し、不要と言い張る九条。しかしなあ、そんなこと言われたって……。

 ちら、と新井さんの方を見やる。

 どうしたもんかなあ。

 たぶん、このまま九条を帰せば十中八九間違い無く何かの犯罪に巻き込まれてしまうだろう。

 それほどに、九条家の一人娘というブランドは危険なのだった。たぶん。

 どちらにしろ、日も傾き出した。女子の一人歩きはさせられない。

「む……ぐぐ」

 俺は必死に頭を捻る。これでもかというくらい捻る。

 もう今世紀最大級に頭を使い、脳みそを活性化させ。

 そして浮かんだ、一つのアイデア。

「新井さん、もう結構ですよ」

 俺は出来るだけ朗らかに笑って、新井さんに伝える。

「もう十分色々としてもらいましたから。帰ってもらって結構ですよ」

「し、しかし……」

「網島さんには俺から言っときますから」

 何よりも九条を一人で帰らせるな、と目で訴えてみる。

 俺が思いついたアイデア。それは新井さんに九条を遅らせるというものだった。

 こうすれば、新井さんは九条を送り届けるという大義名分の下、堂々と九条家の門戸をくぐることが出来る。そしてうちからも爆弾を取り除くことが出来るという訳だ。

 俺の意図が新井さんに伝わったかどうかは定かではないが(腑に落ち無いという表情をしていたことからもたぶん伝わっていない)新井さんが九条を追いかけて行った。

 俺んちには俺、妹、桜木の三人が残された形になる。

「……えーっと、桜木」

「なんでしょう?」

 ここにいるのは妹だけなんだから、そうかしこまらなくてもいいんじゃないか? よっぽどそう言ってやろうかとも思ったが、こういうのは本人のタイミングだし、別にいいか。

「送ってやるよ」

「わーい、ありがとうございます」

 丁寧口調の中にも、甘えた感じがあって大変よろしい。

 そんな訳で俺は妹に留守番を頼んで家を出た。

 桜木家への道のりは、たぶん分かる。桜木本人も一緒だし、道に迷うということも無いだろう。

 そんな訳で、俺と桜木は日の沈み始めた街を並んで歩くのだった。










                                      FIN

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