第3話 九条琴音の挑戦

 桜木玲サクラギレイはゲーマーであった。それもお嬢様にありがちなインベーダーゲームとかそんな古い奴を好んでプレイするようなにわかではなく、エロゲやギャルゲといった通常であれば男がやりそうなゲームをプレイし、そのストーリーに感動の涙を流すタイプの、いわゆるオタクと呼ばれるゲーマーである。

 それは、まあ別にいい。桜木の彼氏として、その程度の変わった趣味くらい目を瞑ろう。というより、桜木の趣味についてとやかく言う権利なんて俺には最初からないしな。ただ、近頃は大分マシになったとはいえ、それでもオタクというと白い目で見られるものである。その辺のことも考慮して、付き合い出すまで秘密にしていたのだろうしな。

 本題はここからだ。俺は今、学校の屋上にいる。風もなく、太陽光すら熱い雨雲に遮られて減退している今この時、屋上に据え置かれたベンチの上で俺は桜木が語るエロゲのシチュエーションをとくとくと聞かされていた。なぜかって? 俺が聞きたいよ。

「――でね、それでね」

 しかしまあ、好きなことの話をする時の桜木の表情はホント可愛い。すげえ可愛い。マジ天使。熱が籠り気味に語り、体中を使って何かを表現しようとするため、その度に彼女のさらさらしたと黒髪が揺れていい匂いが飛んで来る。その芳しい香りが鼻腔をくすぐり、彼女の話の内容を俺の記憶から忘却の彼方へと運んで行ってしまう。一割方も理解出来ないため問題ない。大事なのはいかに桜木が可愛いかを伝えるこれ一点に限る。

「ねえ、ちゃんと聞いてる?」

 普段教室では絶対に聞くことの出来ない俺専用の甘えたような怒ったような桜木ヴォイスで聞いて来る。要するにご機嫌斜めでいらっしゃるのだろうと想像するが、怒った顔すらも可愛い。駄目だ。欠点が見付からない。

 俺は胸の前で手のひらを桜木に向け、彼女との壁を構築する。

「ああ、聞いてる聞いてる」

 適当に相槌を打つと、それもまた桜木の機嫌を損ねる要因になったようで、今度は頬を膨らませ、顔全体を使って怒りというものを表現している。が、その表情でさえもう言葉にできないくらい可愛かった。これも俺専用の表情だ。

 普段の桜木は『深窓の令嬢』なんて呼ばれていて、運動も勉強も何でもそつなくこなす完璧超人みたいに言われているが、実際はそんなイメージとはかけ離れている。結構お茶目なところを見せてくれる桜木がどうしてそんなふうに言われているのかは解らない。知る必要もない。桜木は俺のことが好き、その事実さえわかっていれば十分だ。今から桜木の表情や行動を写真に収めて、俺だけの桜木玲写真集を作るのもよさそうだ。

 桜木の秘密を知っているのは、校内広しといえど俺だけだろう。なぜなら俺は桜木の彼氏だからだ。地上に舞い降りた桜木玲という名の天使のことを知っているのは俺だけ。俺一人だけ。その優越感はハンパない。他に追随を許さぬとはまさにこのことであろう。ぐへへへへへ。

「ちょっとなんて顔してるの?」

 怒った顔が一転、今度は困ったような苦笑に変わる。

「ほら、涎垂れてるよ。何かいやらしいことでも考えてた?」

 言いならが、桜木が素手で俺の涎を拭い、自身の指に付いたそれをぺろりと舐め取る。その光景があまりにも艶めかしく、えろかった。くはー。

 はい、現在進行形でいやらしいこと考えてます。

「どうしたの?」

「何でもない」

 正直に言えばすぐにでも制服を脱いでくれるだろうがそんなことをされては俺の面子関わる。更に桜木の信用にもかかわるためお茶を濁すような態度を取る。まあ仕方あるまい。惜しいけど。

 そういえば、この間桜木の家に行った時も大変だったな。いろんな意味で。

 あの時は、桜木何を思ったのかわからないが、過剰なくらい歓迎してくれたよな。わざわざ両親のいない日を選んでまで。

 あの時、俺がもう少し冷静だったなら、もしかしたら……、

「ねえ、健斗」

 名前を呼ばれ、慌てて桜木に視線を合わせる。

「どうした?」

「やだもう、見つめないでよカッコイイ」

 たぶん、他人が見たら何あの馬鹿二人はとか思われるんだろうなあ……。でもま、今は二人きりだし、思い切りイチャコラさせてもらいましょう。

 そんなことを考えていた矢先、桜木の表情が雲った。まるで、何か思い詰めているような、そんな顔。

 悩みでも、あるのだろうか。っつっても、俺達の年代で悩みがない奴なんてまずいないだろうし、桜木の場合学校では『深窓の令嬢』、家ではオタクというよくわからない二重生活っぽい生活を送っているから、俺みたいな普通の奴にはわからない何かがあるのかもしれない。

 でもなあ、困っているのなら力になりたいと思うよなあ。俺彼氏だし。

そう思って、尋ねてみる。

「何か悩みでもあるのか?」

「うん……その……」

 小さく頷いたものの、その先を桜木は言い淀んだ。言い出しにくいことなのだろうか? なら、無理に聞くのもどうかと思うが、こうして相談して来るくらいだ。相当困っているのだろう。

 ここは、多少強引にでも聞き出すべきだ。

「桜木」

「はい!」

 俺は彼女の名を呼び、肩を掴んだ。桜木は驚いたように目を丸くしたが、そんなことを可愛いと思っているだけの暇はない。

「何か悩みがあるのなら、俺は力になりたい。言ってくれ」

「健斗……」

 桜木は目尻に薄く涙を溜め、ジーッと俺を見つめ返して来る。さっきはどんな表情でもと言ったが訂正したい。笑顔や怒った顔などは何度でも見返したくなるくらい可愛いが、泣いている顔だけはどうも見たくと思うようだ。人間の不思議な心理。

 俺が桜木の目を見詰め、彼女の言葉を待っていると、桜木は感極まったように目尻から一筋の雫を流した。

 涙が、頬伝わり落ちて行く。その後、嗚咽混じりの桜木の声が俺の鼓膜を振るわせる。

「わたし、どうしたらいいかわからなくて……」

「どうしたんだ? 何があった?」

「ずっと、付け回されてるの、わたし。今こうしている間も、どこから現れるかとびくびくしている」

「な! ストーカーっていうことか!」

 なんということだ。俺が付いていながら、そんな奴に桜木が付け回されるなんてことを許してしまうなんて。

 彼氏、失格だ。

 と、そんなふうに自責の念に駆られていると、背後から声がした。

 透き通るようなよく聞こえる声量のある声で、

「誰がストーカーですか!」

 透き通るというか頭に響く。頭痛を催してしまう。

 怪訝に思いつつ振り返ると、そこには見知った顔があった。

 名前など思い出すまでもない。

「わたくし、九条琴音クジョウコトネのような美少女を捕まえてストーカー呼ばわりとは、実に許しがたいですわ!」

「…………あいつか?」

「…………うん」

 こくんと桜木は頷く。俺は桜木を庇うようにして九条の前に立ちはだかると九条に向かって叫んだ。

「個人の趣味嗜好を否定する気はない。だがしかし、相手が嫌がっているのに付け回すのはよくないと思うぞ!」

「ですから、ストーカーではないと言ってますでしょう!」


       ●


「で、なんだってお前は桜木を付け回していたんだ?」

「ですから、それは誤解だと何度も説明しましたでしょう!」

 九条が声を荒げて俺に噛みついて来る。ストーカーはみんなこう言う。騙されないぞ。

「むむむ……その表情は信じていませんわね」

「当たり前だ。お前の言葉を信じるだけの根拠をみせやがれ」 

「根拠と言われましても……」

 九条は困ったように空を見上げる。俺は桜木を後ろに置いて、九条の艶めかしく艶やかな唇からどんな言い訳が飛び出すのかと身構える。

「根拠となり得るかどうかは解りませんが、こういうのはいかがでしょう」

 そう言って九条は制服のポッケから手帳を取り出すと、俺に差し出して来た。俺はその手帳を受け取り、一応確認を取ってからぱらぱらと捲る。

「なんだ、これ? 数字とか書いてあるけど」

「これは戦績帳ですわ。わたくしと桜木さんの勝負の戦績が書かれていますの」

「戦績? なんだそりゃ?」

 尋ねた先は九条ではなく桜木。顔を後ろに向け、視線で尋ねてみる。

「それは……」

 桜木は言いにくそうに目を逸らし、もじもじと指先を突き合わせる。どうしてそんな顔をするんだ可愛いじゃないか!

 代わりに、九条が答える。

「名前の通り、わたくしと桜木さんが勝負して、かったら『勝』、負けたら『負』の印が掻きこんでありますの」

「なるほど、だからお前のところには『負』の印が多いんだな」

「ちょ! あまりまじまじと見ないでくださいまし!」

 九条が俺の手許からひったくるようにして奪い返し、粗暴な手付きでポッケに捻じ込む。もう少し丁寧に出来ねえのかよ。。

「それで、どうかされたんですか九条さん?」

 桜木はクラスメイト達に対してとる『深窓の令嬢』としての顔で九条に話かける。九条はビスイ、と桜木の鼻先に人差し指を突き付けると、

「どうもこうもありませんわ。桜木玲、わたくしと勝負なさい」

「……勝負、ですか」

 若干顔を引きつつ桜木は予想通り、というように頷いて見せる。どうやら、同じようなやりとりを頻繁に交わしているようだ。もしかしたら、頻繁と言わず毎日のように勝負を吹っ掛けられているのかもしれない。なんて面倒な奴だ。

 そんな面倒な子・九条に対しても桜木は嫌な顔一つせず、九条が吹っ掛けて来た勝負に応じた。

「いいですよ。それでなにをするのですか?」

 どことなく余裕たっぷりに笑っているようにも見える。さすが桜木。そんな表情も小悪魔チックで最高だぜ。

「ふふん、そんなもの決まっていますわ」

 びしっ、と桜木の眼前に九条の人差し指が突き付けられる。何度もこいつは……人に向かって指刺すなと教えられなかったのだろうかこの馬鹿は。

 俺がジト目で睨んでいることなど気にも留めず、九条の口許がゆっくりと動く。

「勝負の定番と言えばチェス。頭をフルに回転させ、持てる知略の限りを尽くして戦う。これぞ中世から続く勝負事の代名詞と言っても過言ではありませんわ」

「チェス……ですか」

 桜木が不安そうに呟く。そのことに九条は怪訝そうに眉根を寄せた。俺もどうしたのだろうかと気になる。

「ルールをご存じないのですか?」

「いえ、ルールは知っているのですが、あまり自身が無くて。なにせ、知り合いにもの凄くチェスの上手な人がいて、その人とは対戦する度に完敗でしたから」

「そんな人がいらっしゃるの……」

 九条は目を見開き、惚けたように口を開けている。が、次の瞬間には目をきらきらと輝かせて、桜木に詰め寄った。

「お名前は何とおっしゃいますの? 教えてくださいまし」

「いえ、多分知らないんじゃないかと……」

 困惑した、というよりは半ば気圧され気味とでも表現した方がいいのだろうか。とにかく、九条があまりにも急速に近づいて来たものだから、桜木の背が危ないくらいに後ろへ逸らされている。

「大丈夫です。そのような強者ならば必ず大会に出場していらっしゃるはず。全国の大会参加者名簿を調べて、わたくしのコーチになってくださるようお願いしてみますわ」

「えっと……その人大会とかあまり興味が無いらしくて、今まで一度も出たことが無いとか……」

「そうですか……」

 それまできらきらしていた九条の瞳が急にしょんぼりした。なんというか、それはもう前々から欲しかった玩具を見付けて、買おうとした矢先に他人に先に購入されて売り切れの札を目の前にした時の子供のようなしぼみ具合だった。

 なんか、可哀想だな。

 俺が同情的な視線を送っていると、九条はしばらくしょんぼりした後で、急に顔を上げ、

「まあ、日本全国津々浦々、諦めずにくまなく探せばいずれ見つかりますよね」

 ……なんともまあ前向きな奴だ。

 この時ばかりは、いかに桜木LOVEな俺でも、九条に尊敬の念を抱かずにはいられなかった。しかしまあ、俺には桜木の言うチェスの上手なその人というのがどんな奴かわかる気がする。なんとなくだが。

 たぶん、見つからないんじゃないかなあ……。

「おいおい、その人のことは探すとして、では桜木さん。わたくしのこの勝負、受けてくださいますわよね?」

「もちろんです。九条さんと遊べるなら、喜んで」

 ずいぶんと温度差の激しい二人だな。まあ、だからこの関係が続いているのだと言えなくもないが。

 俺はなんとなしに微笑ましい気分に包まれた。


        ●

 

 さて、俺はチェスに関するルールなど微塵も知らないので、結果だけを述べさせてもらうとしよう。

 勝者・桜木玲。敗者・九条琴音。

「この勝負、桜木の勝ち……でいいんだよな」

「そうですね。九条さんのキングは縦横斜めの移動、後退も出来ませんから」

 朗らかに俺に報告する桜木とは対照的に、九条は絶望に浸りきったような表情で盤上を見詰めている。

「ありえませんわ……ありえませんわ……」

 ありえあませんわ、を連呼しながら、必死にこの盤面からの反撃の手段を模索している。キングと呼ばれる駒を動かしたり、ルークとかいう駒で桜木のクィーンってのを取ったり。しかし、どう動かそうと結局は次の一手で桜木が九条の白いキングの駒を取ってしまうことになる。

 桜木から聞いたのだが、この状態をチェックメイトというそうだ。

「どうですか九条さん、反撃の一手が見付かりましたか?」

「ぐぬぬ……」

 挑発ともとれる桜木の問いに、九条は悔しさで歯軋りを起こすことで返事とした。どうでもいいけど、いいのお前、そんなことして。一応いいとこのお嬢様じゃなかったっけ? 

俺がそんな心配をしている目の前で、諦めたのか九条の首ががくりと項垂れた。

 完全に、敗北を認めた瞬間である。

「九条さん、楽しかったです。また遊びましょうね」

「悔しいですわ……」

 今にも取り出したハンカチを咥えてムキーッとかやり出しそうなほど九条は桜木を睨んでいる。が、桜木の方はほんわかとした笑みでもって桜木を見下げていた。

「これが、角の違いって奴か……」

 そしてどうでもいいけど、やっぱお前ら温度差あり過ぎ。

 俺が九条に憐れみの視線を送っていると、桜木は床に置いていた鞄を手に取ると、九条から俺へと顔を向ける。

「それでは行きましょうか、健斗くん」

「あ、ああ……」

 およよ、と涙目になっている九条を置いて行っていいものだろうかとまよったが、この程度で登校拒否になったりはしないだろうと彼女に背を向ける。

 階段を中ほどまで下りて、俺は教室のある方を振り返った。

 九条、お前がこの程度でへこたれる奴じゃないと、俺は信じているぞ。


        ●


「俺には全くわからないんだが……」

 そう切り出すと、俺の隣を歩く桜木がん? といった感じに振り返った。

「なんで九条は負けたんだ? 俺が見た感じ、結構いい勝負だったと思ったけどな」

「九条さんは強かったよ。少しでも気を抜けば私は負けていたかもしれない。でもね」

 桜木は砕けた口調で、苦笑を浮かべて困ったというように眉を寄せる。

「詰めが甘いんだよね。勝てると思った時が一番危ないっていうのに。そこに付け入る隙があった。最初は優勢だったのに、付き崩された時の九条さんの顔っていったらなかったね」

 ぷぷぷ、と笑いを堪えているご様子の桜木。こんな桜木を見るのは初めてだった。そして、他人の失敗を笑うとかどうなんだろう……。

 出来れば、知りたくはなかったな。

「詰めが甘い……ねえ。教えてやれば?」

「駄目だよ」

「なんで?」

「九条さん、プライド高いから。私が教えたりしたら、きっと登校拒否になっちゃう」

「そんなもんかねえ」

 俺は山間に分け入って行く夕日を眺めながら呟きを吐き出す。桜木の足音を聞きながら、同時に桜木の声が俺の鼓膜を微細に振るわせる。

「そんなもんだよ。健斗が教えてもたぶん駄目だと思うよ。私が教えてあげてって言ったって思うはずだから。私達とは全く関係のない、第三者がいい」

「第三者、ねえ……」

 そんな都合のいい人物がいるのだろうか。

 俺はそんな疑問を抱き、しかしすぐにそんな誰かに心当たりが無いことに思い至る。

「ま、明日になったらまた勝負挑んでくんだろ」

「そうだね。九条さんがこの程度でへこたれるわけないし」

 俺と桜木は呑気にそう結論を出し、帰路を急いだ。

 秋も深まって来た。少しだけ、風が冷たく感じる。


       ●


 翌日、午前九時四十八分。担任教師の口から本日は九条が休みであることを告げられた。担任教師が言うには、風邪を引いたのだという。俺はちらりと桜木の方を見やる。桜木も俺と同じような疑問を抱いているらしく、困惑した表情で見返して来た。

 本当に、風邪なのだろうか……。

 そう思うのは、俺が昨日の桜木と九条のことを知っているからだろうか。桜木が言うには、人一倍プライドが高く、勝負に拘る奴だそうだ。なら、昨日桜木にチェスで負けたのがショックで学校を休んだとも考えられる。

 考え過ぎ、だろうか。

 そうこう考えているうちに、ホームルームが終了した。担任教師が簡単に連絡事項を口にするが、なにを言ってるのか全く聞いていなかった。後で周りの奴に訊いとかないと。

 担任教師が出て行くと、そのタイミングを見計らったかのように、俺の携帯が震え出した。開くと、桜木からのメールだった。実際に見計らっていたのだろう。

 内容はこうだ。

『九条さん、やっぱり昨日のことがショックだったのかな……?』

「そんなことねえよ。先生も言ってただろ、ただの風邪だって」

 打ち込み、メールを送信。数秒と経たないうちに返信が来た。

『でも、昨日はあんなに元気だったよ? こんないきなり風邪引くなんて、変だよ』

「……だよなあ」

 メールの文面から、桜木が九条のことを気に掛けているのはわかる。桜木の言う通り、九条は昨日のチェスが原因で学校を休んでいる可能性も否めないのだ。

 もしかしたら、このまま来ない、なんてことねえよな……、

「いや、それはねえだろ」

 病は気から。昨日、桜木に負けて、それで落ち込んで、風邪を引いただけかもしれない。

「違う。それじゃまるで桜木のせいみたいじゃねえかよ……」

 季節の変わり目にちょっと体調を崩しただけだ。絶対に桜木は関係ない。

 そんなふうに誰に対してなのかわからない言い訳を探していると、手許の携帯が震え出した。またも、桜木からのメールだった。

『私のせい、なのかな……』

「く……」

 それだけは絶対にねえ、そう返信して、携帯を閉じた。電源を落として、制服のポケットに捻じ込む。

「なんだよ九条……お前、あんだけことで……」

 誰にも聞こえないよう、小声で呟く。少しだけイラついて、貧乏揺すりしていたことに気づいた。

 その日は、桜木とは一言も話さなかった。


        ●


「九条の家の住所を教えて下さい」

 職員室に入るや否や、俺は真っ先に担任教師の下へ向かい、そう切り出してみた。担任教師はきょとんと目を丸くすると、手許のカップラーメンを啜り、飲み込んでから応じた。

「……なぜだ?」

「心配なのでお見舞いに行ってきたいと思います」

 いけしゃあしゃあと言ってのける。実際のところはお見舞いなんてする気はないのだが、正直に話したところで意味はないだろうと判断。むしろ担任教師の態度を硬化させてしまうだけだろう。

 担任教師は少し考えるような素振りを見せた後、カップラーメンを脇に置き、乱雑な机の上から一枚のプリントを取るとその裏に何かを書き始めた。

「ほら、これだ」

 書き終わって、差し出されてそれは九条の家の住所のようだった。俺はそのプリントを受け取ると、四つ折りにして右手に持ち、

「有難うございます」

「気にするな。しかしお前が九条の見舞いとはな。世の中わからんもんだな」

 呟くと、担任教師は再びカップラーメンを啜り始めた。俺は彼が何を言っているのかイマイチ理解出来ずに、首を傾げる。

「気にするな、こっちの話だ」

 合間に言葉を挟み、担任教師は今度こそ知らんといった風体でカップラーメンの汁を飲んでいる。酸尿になるぞ。

「用はそれだけか?」

 担任教師は生気を感じさせない声音で問い、さっさといなくなって欲しいとばかりに俺を見上げて来る。

「はい、失礼します」

 この場は、大人しく退散することにした。


       ●


 九条の家は電車を乗り継いで二駅行ったところにあった。俺は手許のメモと景色を見比べて、このあたりで問題ないことを確認した。

「それにしても、でっかい豪邸だな」

 目の前にあるのは、映画やドラマで見るような超大金持ちのセレブが住んでいそうな豪華絢爛な装飾が施されている豪邸だった。ここが九条の自宅であるらしい。見上げるほどでっかくて、首が痛い。

 とりあえず、インターホンを押そうと壁伝いに門を目指す。それ自体は見えているがいかんせん距離があり過ぎて豆粒みたいだ。帰ってしまおうかと考えたが、門戸の前に覗き込むようにして張り付いている女の姿を見付けたので近寄ってみることにした。

「よう」

「うわっひゃい!」

 声を掛けると、そいつは驚きと怯えと警戒心を一緒くたにした視線で俺を睨み上げて来た。つまり嫌われたなこりゃ。

「な、なん、ですか?」

 そいつはびくびくと体とチワワより身を震わせ、ファインティングポーズっぽいものとっているが及び腰なのでなんだか凄く間抜けだった。

 眼鏡の向こうの大きな栗色の瞳が、明らかの俺を敵対者として見ていることがちょっと悲しい。

「えっと……三觜島だよな? 同じクラスの」

 そいつ、おそらくは同じクラスの三觜島優花ミシシマユウカはやはり怯え混じりに俺からにじり去って行く。その速度は通常の三倍の遅さだ。

「え、と……どうして、わた、しのなま、え……を?」

「同じクラスだと言わなかったか?」

 以外にも他人の話を聞かない子なのか、こいつは。

「し、しらない、そんなの」

「あっそ。ちなみに俺の名前わかるか?」

 問うと、ふるふると弱々しく三觜島が首を振る。さいで……。

 俺は溜息を一つ吐くと、名乗りを上げた。

「俺の名前は石宮健斗。同じクラスだ。よろしくな」

「…………」

 どうもまだ警戒されているようだ。まあいい。

「ところでお前、こんなところでなにやってんだよ?」

「……くじょう、さん、がかぜひいたって、きいたから」

「お前も見舞いか?」

 こくこくと今度は頷いた。しかもかなり力強く。

「だったら、俺と一緒だな。中に入ればいいのに、誰もいないのか?」

「…………」

 また黙り込んじまった。

 俺がどうしていいのかわからず、困っていると、三觜島は不意に振り返り、歩くような速度で走り出した。

「どこいくんだよ!」

「かえ、る」

「見舞いに来たんじゃなかったのかよ?」

「かえる」

 俺が引き止める暇もなく、三觜島は去って行った。いや、速度的には全然遅く、亀の鈍足といい勝負なのだが、本人が帰ると言っているのだから引き止める理由がない。

 そんなわけで、三觜島は姿を消した。なにがしたかったんだあいつはと首を傾げつつ、インターホンを押す。すると、アパートなどでよく聞くあの音では無く、もっと甲高い、いかにも高級邸宅っぽい音が鳴り響いた。即座に、マイクから声が飛んで来る。

『はい、どちら様でしょう?』

 若い、女の声だった。

「えっと、俺、琴音さんと同じクラスの石宮と言います。琴音さんが風邪を引いたと聞いて」

『お見舞いに来てくださったのですね。有難うございます』

 丁寧な言葉遣いで、若い女の声が礼句を述べる。察しがよくて助かるな。

 それにしてもお嬢様って……そんなこと、エンタメの世界でしか聞いたことがない。まさか、リアルで耳にする日が来るとは思いもしなかった。

 まさとは思っていたが九条、本気でお嬢様だったんだな。

 俺がそんな感嘆に浸っていると、マイクの向こうの若い女は不思議に思ったのか、訝しげな声音で問いを投げ掛けて来る。

『どうかなさいましたか?』

「いえ、すいません。なんでもないです。それで、九条……琴音さんは大丈夫なのでしょうか?」

『はい。よければ上がって行かれますか? その方がお嬢様もお喜びになると思いますので』

「そ、そうっすか……」

 たぶん、喜びはしないだろう。歓迎されないどころか、追い返されるのが目に見えている。

 しかしまあ、これは好機かも知れない。直接九条から話が聞ける。

「じゃ、じゃあ少しだけ」

『はい。それでは今門を開けますね』

 ブツッ、とマイクの切れる音がして、直後に門戸が甲高い金属音を立てて左右に開く。恐る恐る入って左右を確認してみたが、誰もいない。ボタン一つで開け閉め出来る自動ドアみたいなもののようだ。これも、テレビの世界でしか目にした覚えがない。

 戦々恐々と慎重に入って行くと、そこから更に道が続いていた。四方八方を深い木々に囲まれた森に囲まれており、素人が面白半分で入って行けば道に迷うこと請け合いだ。俺一人では到底九条邸まで辿り着くことは出来ない。

「どうしろってんだよ……」

 そんな感じに途方に暮れていると、森の奥から一人の女性が姿を現した。年は二十代前半くらいだろうか。落ち着いた雰囲気の女性だった。

 ただ異様なのは、そんな彼女がいわゆるメイド服に身を包んでいるということだ。つうかここまでテレビの中のセットを引っ張り出して来たかのようなものオンパレードで、俺の脳味噌が臨界点を超えようとしている。がんばれ、俺の頭。

 で、だ。メイド服の彼女の姿に呆気にとられている俺をどう思ったのか、その女性はどんなふうにも解釈かのうな曖昧で柔和な笑みを浮かべ、森の奥を手のひらで示す。

「さあ、こちらへどうぞ」

「は、はあ……」

 俺は恐縮しきりで、歩き出す女性の後ろに続く。

 横に並び、女性の横顔に見惚れながら、尋ねる。

「くじょ……琴音さんはどんな具合ですか?」

「もうすっかりお元気ですよ。本当は午後からでも学校に行くとおっしゃっていたのですが、お嬢様のお父上である旦那様が大事を取って休ませるとおっしゃいまして」

「ははは……」

 乾いた笑いしか出てこない。

 九条、本当に風邪だったのか。

 俺は女性の端正な顔立ちを見て、有名人に似ていると思った。が、誰だったのか、思い出せない。

 誰だったかなあ……。

「? どうしました?」

 ジッと俺が見詰めていたからだろうが、女性は笑みの中に疑問を滲ませつつ、俺に首を剥けて来る。俺は慌てて目を逸らし、森の端々を視界に収めながら、

「いえ、別に……」

 どうしよう。心臓がどきどきする。駄目だ、しっかりしろ。俺には桜木というこの世界に舞い降りたビーマイエンジェルがいるじゃないか。いくらこの人が魅力的でも、桜木の可愛さには到底及ばない。

 でも、なあ……この人には、桜木にはない大人の女性の魅力ってのがあるしなあ……いやいやいやいや。

「なに考えてんだ、俺は」

 ばしばしと自分で自分の頬を張り、余計な邪念を追い出す。ここに来た目的を忘れるな。

「あの……大丈夫ですか?」

 いよいよもって、頭の心配をされてしまった。そんなことより、女性の顔がすぐ近くまで来て、思わず後ろに飛んで下がる。足許の草木につまずき、尻餅を突いた。

「だ、大丈夫ですか?」

「痛いです……」

 俺が立ち上がると、女性はホッとしたように息を吐き、また歩みを再開した。

「お嬢様は、とても素晴らしい人です。聡明で美しく、勤勉で努力家で」

「それは……」

 ずいぶんな褒めようだな。一緒に住んでいると、あんなのでもそんないい評価が出来るもんなのだろうか。

 俺には、無理だな。

「あなたはずいぶんと琴音さんを尊敬してるんですね……えっと……」

 名前を呼ぼうとして、まだ教えてもらっていなことに気付く。ついでにこちらも名乗っていないのことにも。

 女性は慌てたように、

「私の名前は新井美馬と申します。このお屋敷にはこの間来たばかりなもので、まだわからないことが多いんです。すみません、自己紹介が遅くなって」

「いえ、こちらこそ。俺は石宮健斗って言います。それで……」

「はい、先ほどのお話ですよね。私がお嬢様を尊敬しているという」

 女性――新井美馬アライミマと名乗った――は前を向き、歩む速度を落とすことなく言う。

「お嬢様は今、とても難しい立場に置かれいます。旦那様や奥様達の期待に答えようと一生懸命に努力しておられるのです。でも……」

 新井さんは言い淀み、俯きがちに目を伏せる。そんな彼女の様子は俺に怪訝な思いを抱かせるには十分で、

「なにかあったんですか?」

「……私の口からは、言えません」

 目を閉じ、苦しそうにしている。そんな彼女の様子に、俺は胸が締め付けられる思いだった。

「もうそろそろ、見えてきますよ」

 声音は先ほどと違い、明るいものだった。が、無理にそんな声を出しているのだとすぐにわかる。

 森を抜けると、巨大な建物が鎮座していた。屋根の部分は門のところからも見えていて、ずいぶんと大きな屋敷だと推測出来ていたが、こうしてじかに目の前にあると余計にでかく見える。威圧感がハンパない。

 新井さんが玄関口で俺を待っている。扉を開け、その奥を手のひらで示し、

「お嬢様のお部屋は二階です。お茶菓子をお持ちしますので、先に上がっていてください」

 新井さんはうやうやしく一礼すると、一階奥へと姿を消した。彼女に向かって言葉を言おうとした俺の口が所在なげに閉じられる。

 お構いなく……。


        ●


 九条の部屋は二階の一番奥にあるという。あのメイドさんの話では、今日は一日中その一室で過ごさなければいけなかったらしい。

 なんとまあ、過保護なことだろう。

 俺は教えられた通りに九条の部屋の前に辿り着くと、扉の前で立ち止まり、二度深呼吸をした。

 ノックする。すると扉の向こうから、九条の声が聞こえて来た。

「はいはい、今開けますわよ」

 がちゃり、とノブが回り、扉がこちら側に向かって開けられる。向かって右方向に扉が開けられるので、俺は自然と左に避けた。

 おそらく、この選択が誤っていたのだろう。なぜなら、九条は純白の下着姿であったからだ。無駄に育った豊満な九部が俺の目を引いた。なぜだ!

 ばっちり、九条が俺を見ている。九条は瞳をぱちくりさせ、いまいち状況を飲み込めていないようだった。対する俺は、下着姿の九条の白い肌、とりわけ彼女が有するたわわに実った二つの果実に自然と視線が行く。

 数秒から一分ほど、九条が俺を、俺が九条の胸を見詰めるという妙ちくりんな構図が出来上がっていた。

 そして一分後、桜木の悲鳴が屋敷全体に響き渡る。

「き――きゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

「あわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわわ!」

 九条の拳が飛んで来る。そこまで勢いはなかったが、鼻っ柱にクリーンヒットしたため、俺は鼻を押さえて後ろへ二歩ほど下がった。

「ななななな、なにをしていますのこのクズ!」

 手近にあった毛布を引っ張り、己の体を隠しながら九条が蔑みの視線とともに怒号を飛ばして来る。対し俺は、弁解の余地なく即座に謝罪した。

「す、すまん……ていうかなんだその格好は!」

「謝るか逆ギレするかどっちかになさい!」

 あれ? おかしいな?

 俺は自身の行動を疑問に思いながら、しかし今は目の前のことを気にする。

「大体、普通パジャマ姿だろ。なんで下着なんだよ! どこの世界のお約束だ!」

「わたくしがわたくしの部屋でどのような格好をしていようとわたくしの自由ですわ! あなたにとやかく言われる筋合いはありませんわ!」

 いやまあ、そう言われるとその通りなのだが……、

「と、とにかくなんか着ろ!」

「指図しないでくださいな!」

 九条の怒鳴り声が響き、ばたんと扉が閉められる。微かに衣擦れの音が聞こえ、再び扉が開いた。

 再び出て来た時、九条はパジャマ姿だった。生地的にもデザイン的にも、特筆するべき個所がない。すげえ意外だった。

 俺が惚けて見上げていると、九条は目を細め、おぞましいものでも見るかのような目つきで自分の肩を抱いて、

「なにを見ていますの、気持ち悪い」

「悪かったな、気持ち悪くてよ」

 先ほどの光景を思い出して、体中が熱を持つのがわかった。九条のことを直視出来ずに、目を逸らしてしまう。

「忘れないさい、いいですわね」

「イ、イエッサー……」

 怒気を含んだ九条の言葉に、俺はビシッと敬礼で応える。九条は眉を寄せ、眉間に皺を刻み、

「……で、いったいなんのご用ですか?」

 九条が腕を組む。しかし、見た目より大きなその胸が邪魔で、その下に腕を通す形になるので、どうしても大きな両の果実を持ち上げる形になる。

 ぽよん、と揺れた。

「ぐ……」

 思わず奥歯を噛み締める。こいつ、誘っているのか天然なのか。どっちにしろ彼女の持つ双のピーチは男を惑わせる。

 煩悩退散煩悩退散……。

 呪文のように、心中で幾度となく呟く。くそっ、俺には桜木という超プリティな彼女がいるのに。

「ちょっと聞いてますの?」

 俺が一人悶々としていると、少しばかり苛立ったような口調で九条が睨みつけて来る。俺は顔の前で手を手を振りつつ、

「聞いてる聞いてる。で、なんだっけ?」

「聞いてないじゃありませんか!」

 うるせえな。ツバ飛ばしてくんな。

 俺は耳を塞いで九条の怒号をカットする。九条はそんな俺の様子を鬱陶しげに見つめていたが、やがて諦めの溜息を一つ吐いてもう一度問うてくる。

「それで、なんのご用ですの?」

「ああいや、風邪だって聞いたもんだから。大丈夫かなって」

 ん〜……本当はそんなことを言うつもりじゃ全くなかったんだけど、いざ本人を目の前にすると、どうも言い出しにくくなる。

 九条はそんな俺の心の内を見透かしたかのように、声のトーンを一段階低くして、

「……本当にわたくしのお見舞いに来ましたの? なにか別の目的があったのではなくて?」

「あ〜……」

「言いにくそうですわね。ではわたくしが言って差し上げましょうか? 大方、昨日桜木玲に負けたことがショックで今日は休んだとか、そんな失礼なことを考えていたのではありません?」

 はい、思ってました。

 俺は継ぐ言葉が見つからずに、目を逸らしたまま黙り込んでしまった。九条は再度溜息を吐くと、俺を自室へと招き入れる。

「お入りなさい。少しお話しましょう」

「でもお前、風邪じゃ……」

「そんなのとっくに治っていますわ。お父様があまりにもうるさいので、今日は大事を取って休んだだけです」

 九条は憮然と、気に喰わないと言うように口を尖らせる。

「それじゃ、お邪魔します」

「ええ」

 九条の招きに応じ、俺は彼女の部屋に足を踏み入れる。

 九条の部屋は、なんというかなにもない部屋だった。あるのは簡素なベッドと勉強机、そして参考書が数冊収められた本棚だけだ。

「はー」

 全体的に狭苦しく、埃っぽいというか生活感がないというか。外で見たのより広さ的に狭い印象がある。なぜだろう。

 見回していると、九条の叱責が飛んで来た。

「あまりじろじろと見回さないでくださいます? 恥かしいので」

 恥かしい? なんでだろう。恥かしがるようなものなどなにもと思うのだが。

「その顔はなんで恥かしいんだと疑問に思っている顔ですわね」

 九条がジトッと睨みつけて来る。俺は早急に九条の部屋を見回すのを止め、

「なんていうか、意外だな」

「そうですか? これくらい普通だと思うですれけど?」

 や、まあ普通に考えればそうなのだろうけど、しかしこの部屋の所有者は目の前にいる九条琴音だ。広い庭や持ち、広い邸宅に住む彼女のことだから、自室も相当デンジャラスなのだろうと予想したいたのだが、そんなことはなくてびっくりだ。

 そして少しがっかりだ。

「なぜそう肩を落とすのですの?」

「いや、なんか思ってたのと違ってな」

「予想を上回っていました?」

 九条は得意げに、ふふんと鼻を鳴らした。口許に手をやり、今にもホーッホッホッホ、とか笑い出しそうだ。

「うんにゃ、予想の斜め下を行っててびっくりだ」

「なっ!」

 九条は驚愕というように目を見開き、わなわなと手を震わせている。

 予想の斜め上を行くという表現は時々ドラマなどで耳にするが、予想を下回るとはなんとも聞き覚えのない、実に斬新な演出だ。感動したよ。脱帽ものだ。

 俺は部屋の中ほどまで行くと、今だ両手を震わせている九条に向き直った。

「で、だ。話をしよう」

 そう俺が切り出すと、九条は震わせていた手を止めて、神妙な面持ちで俺を見返して来る。

「……まず最初に言っておきますわ。わたくし、昨日チェスで桜木さんに負けたから学校を休んだわけではありませんの。そのあたり、勘違いしないでくださいね」

「それはもう聞いた」

 三度目だ。そのことについてはもういい。

「お前、どうすんの?」

「どうする、とは?」

 九条が腕を組んだまま目を細める。そうすると胸が揺れるから止めてくれ。気が散る。

「このまま、桜木に負けたまま付き纏うのを止めるか、もう一度勝負するか」

「……は!」

 俺の問いに、九条が鼻で笑った。口の端をつり上げて、凶悪な笑みを形作ると、

「当然、このままでは終わりませんわ。いいえ、終われませんわ。桜木玲に勝つまで、わたくしは何度だってあの人に勝負を挑みます。そして、勝ってもなお挑み続けます」

 勝ち続けます、と九条は言った。その言葉に、俺の心中は複雑な思いで支配される。

 このまま、九条が桜木に勝つことを諦めてしまうのではないかと思ってしまった。

 まあ、そんな心配は無用だったようだが。

「勝つ、勝ち続ける。勝ち続ける。そうじゃないといけないんですわ……」

 漏れ出るように呟かれる彼女の言葉に、違和感のようなものを感じた。

 自身に言い聞かせるように、怯えたように紡がれる言葉に、細かく震える彼女の背に、俺はなぜだか、とても悲しいものが見たような気がした。


        ●


「まあ、まあまあまあまあ」

 お盆にティーカップとお茶菓子を乗せてやって来た新井さんは驚いたような、それでいて面白いものでも見たかのような声を上げた。俺は即座に部屋の出入り口に視線をやり、新井さんを見る。ついでに九条も俺と同じ方向を見た。

「美馬さん、これは……!」

 九条は弁明しようと口を開きかけたが、上手い言葉が見付からないらしく、ぱくぱくと口を開閉させるだけで続きを紡げないでいた。俺も、助け舟は出せそうにない。

 さて、ここで一つクイズを出そう。俺は今九条の部屋にいる。そして九条のべッドの上にいる。そしてパジャマ姿の九条はなぜだか俺の下に敷かれている。つまり、俺が九条を押し倒したような格好になっているというわけだ。

 この状態で、もしも何も知らない第三者が俺達のことを見れば、なんと思うだろうか。はい健斗くん答えてみなさい! ハイ時間切れー。正解は俺が九条を襲っているように見える、でしたー。

「早く退きなさい」

 俺が一人で問答を繰り広げていると、俺の下にいる九条が俺の顔を押して来る。俺は慌てて九条の上から退き、新井さんへの弁解を試みる。

「違うんです、これには深い事情があって」

「お嬢様、石宮様、お二人がどれだけお互いのことを愛し合っているか、この新井美馬、しかとこの目に焼きつけました。ですが、いかにお二人が互いのことを好き合っていたとしても、まだ高校生であるにも関わらずそういうことをするのはどうかと私思います」

「ちょっと美馬さん、なにをいきなり説教モードになってるのですか! これはそういうのではありませんし、わたくしはそこのクズなど別に好いておりませんわ!」

「ひでえ言われようだな」

 だがまあ確かにその通りだ。俺と九条はなんでもないし、俺には桜木というビーマイエンジェルがいるし、そもそも九条みたいな顔と胸しか取り柄のない性格がアレな奴など、こっちから願い下げだっての。

「石宮様、それ以上のお嬢様への侮辱、許しませんよ?」

 なに他人の心読めんの? と聞けるわけもなく、にっこり笑顔で言われては黙るしかない俺。なんか怖い。

 新井さんはこほんと咳払いを一つして、

「愛の営みでないのなら、お二人はなにをなさっていたのですか?」

壮絶な勘違いをしていたことを暴露してそう問うたところで、新井さんはなにかに気づいたように目を見開いた。彼女の視線の先を追うと、目元を真っ赤にした半分脱ぎかけのパジャマ姿の九条がいた。

 え? ……まさか、

「石宮様、まさかとは思いますが、お嬢様を無理矢理襲っていたのでは?」

「いやいやいやいやいや、それはねえよ!」

「もしそうだとしたら、この新井、石宮様をこのまま生かして帰すわけにはいきません。病み上がりのお嬢様を手籠めにしようなどと……」

「聞きましょう、ね? 俺の話を聞きましょう!」

 そしてなんて物騒なことを言うんだ新井さん。生かして帰して下さいよ。

 新井さんはそのあたりにカップと茶菓子の乗ったお盆を置き、ゆらりと俺の方へと歩みよって来た。

「幸い私は甲賀の生まれ。忍者の末裔。その伝承と技を受け継ぐ者。ここで石宮様を殺しても、その後の遺体処理からどうやったら警察沙汰にならずに済むか、そのあたりのことは心得ています」

「なにが幸いなのかちっともわかりませんが凄いっすねえ!」

 半ばやけくそ気味に叫ぶと、それを合図として新井さんが猛スピードで俺との間にあった距離を詰めて来る。もともとそれほど離れてはいなかったが、それでもこれだけの速度で目の前に来られると、瞬間移動でもして来たのかという印象がある。

 新井さんが、どこからともなく刃物を取り出す。あれがクナイという奴か。場違いにもそんなことに感心して、自分の命が摘み取られることに対する恐怖から目を逸らす。

 ああ、俺、ここで死ぬんだね。ごめんね母さん、父さん、そして妹よ。兄は先に逝くよ。桜木、短い間だったけどすっげえ楽しかった。

 一瞬の内に脳内を走馬灯が駆け巡り、直後に新井さんの持つクナが振り下ろされる。

「ふふふふふふふふ」

 人間、一定以上の恐怖に晒されると笑いが込み上げて来るんだね。新発見。ただ、その新発見もすぐに死んじゃうのかと思うと、少し寂しくあるな。

「ちょっと待って美馬さん」

 と、俺が死を覚悟していると、俺と新井さんの間に九条が割って入って来た。九条に付き飛ばれるようにして横に転がる俺は、その一瞬のうちに驚きに満ちた新井さんを見た。

「お嬢様、それほど痛めつけられて、まだそんな男を庇いますか!」

「違う誤解ですわ! わたくしはなにもされておりません!」

「へ……?」

 間抜け全開な新井さんの声が聞こえる。俺は横になった体勢のまま、二人のやり取りに耳を傾けていた。

「わたくしが泣いていたのは、このクズのせいではありませんわ! ちょっと感傷的に鳴ったというかなんというか……」

 言葉尻を濁す九条。止めろ、そんな曖昧な反応は却って誤解を解きにくくするぞ。更に俺を見て来るな、ほら新井さんが鬼のような形相で俺を睨んでいる。

 俺は悲しさのあまり、泣きたくなった。しくしくしく。

「やはりお前がお嬢様を!」

 ああもう、完全に暴漢だよ。過ちを犯した若い男女とか、そんな次元をはるかに超越してるよこりゃ。目尻から涙がこぼれちゃう。だって男の子だもん。

「貴様ァ!」

「話を聞いて美馬さん! 誤解なのよ!」

「お嬢様、お退きください! 今すぐそこのクズを八つ裂きに」

 落ち着いて新井さん。後で恥かしくなるぞ。

「ま、待ってください、俺は――」

「黙れ外道! 貴様さえいなければお嬢様が過ちを犯すこともなかったんだ。貴様のせいだ!」

 駄目だこりゃ。完全に他人の話を聞く耳持たねえ。どうすっかなあ……。

 立ち上がり、天井を仰ぐ。

 解決方法はこの場合ほとんど二択だ。大人しく俺が死ぬか、がんばって新井さんを説得するか。だがまあ、後者のがんばって説得は成功の見込み薄いし、大人しく殺される、が手っ取り早いのかなあ……。でも死ぬのは嫌だなあ……、

「なあ九条、あれお前の使用人だろ? なんとかしろよ」

「無理に決まってるでしょう! 普段はいい人なんだけど、ああなったらわたくしの実力ではどうしようもありませんわ!」

 叫んで、九条は奥歯を噛み締める。万事休すのようだ。マジで死んじゃうのかなあ、俺。短い人生だったなあ。でも、思い起こせば楽しいことは一杯あった……ような気がする。まあどうでもいいけど。

 そんな感じで俺が死への覚悟を再度決めていると、九条が小声で俺に耳打ちする。

「こうなったら最後の手段ですわ。わたくしの携帯があそこにあります。美馬さんを引き付けている内に助けを呼んでください。いいですわね?」

 それはいいけどさあ、そんなに近づくなよ。もっと客観的に物事を判断した方がいいぞ? 耳打ちってことは九条の顔が俺の顔に極限まで近づくってことで、

「お嬢様から離れろぉ! このクズがぁ!」

 火に油を注ぐ結果にしかならない。はぁ……、

「しょうがない。頼んだぞ」

「任せておくがいいですわ」

 言って、九条が前に出る。同時に、俺は後ろへ飛ぶ。九条がいつも使っているであろうベッドまで駆け寄り、彼女の電話を手に取る。

「電話帳電話帳」

 誰でもいい。九条の知り合いに連絡を取って助けに着てもらおう。これだけ広い屋敷だ。使用人があの人一人ってことはないだろうから、彼女の先輩なり同期なりがいるはずだ。その人に連絡が取れれば……、

「ああくそ! 落ち付け俺!」

 やけに冷静だなと思っていたが、そんなことはないらしかった。あまり現実的じゃないから認識が追いついていないだけで、本能ではきちんと恐怖を感じているらしい。が、そんなもん今は邪魔だ。逃げ場のないこの状況で、逃げたいと念じても意味はない。

 俺は震える指先でなんとか携帯電話を操作し、とりあえずデスクトップを開く。ここからどうするんだっけ? がんばれ俺。

 操作する右腕の手首を左手で押さえ、いろいろとボタンを押して行く。いつも使っている機能のはずなのに、まるでそこだけ白紙してしまったかのように真っ白で、全然思い出せない。

「くそ」

 早くしないと、九条が!

 ちらりと視線を送ると、九条は新井さんと対峙していた。完全にバーサーカーと化した新井さんは目の前にいるのが九条だと認識で来ていないようで、ぶんぶんと腕を振って技を繰りだしている。なんだ、メイドさんって戦闘が出来ないといけないのか? なんかイメージと違う。「く……まだなの!」

「今やってる!」

 視線を携帯に戻す。かちゃかちゃとやっていると、一つのフォルダを開いた。

「げ……」

 やべ、と思った時には既に遅く、九条のプライベート情報が俺の視覚を通して脳味噌に伝達される。

 認識は一瞬だった。だが、どう反応していいのか全くと言っていいほどわからない。

 俺はボーッと画面を見詰めていた。

 なぜって? そりゃ驚いたからさ。

 なにせ、そこに映っていたのが様々なポーズを取っている二次元美少女だったらだ。驚愕。今までのどの出来事より驚愕。

「ちょっと、なにしてますのこのグズ!」

 九条の叱責で、電脳世界に飛びそうになっていた俺の意識は現実へと引き戻される。そうだ、今は助けを呼ぶことが先決だ。

 その二次元美少女満載のフォルダを閉じ、今度こそ電話帳を開いた。先ほどの驚くべき事実を目の当たりにしたせいか、指先の震えは小さくなっていて、スムーズに操作することが出来た。

 電話帳の中にはずらりと名前が並んでいる。男のものから女の名前まで、たくさん。この中の誰に電話すればいいのかわからずに、操作の手が止まってしまう。すると、まるで俺が手を止めることを予想していたかのように、九条の怒鳴り声が聞えて来た。

「網島美々という人物に電話をしなさい! 事情を話せばわかってくれますわ!」

「あ、ああ、わかった!」

 俺は電話帳から網島美々という名前を見付け、発信ボタンを押す。

「早く、早く」

 プップップ、という無機質な機械音の後に、連続した呼び出し音が鳴る。

 二階ほど鳴って、繋がった。

『はい、もしもし?』

 網島さんの声は中年のオバサンのような声だった。


       ● 


網島さん曰く、九条家のメイドさんは皆読心術を会得しているのだという。読唇術ではない、読心である。相手の心が読めるのだ。恐ろしい。

 現在起こっていることの事情を離し、網島さんに来てもらった。彼女は俺達の姿を発見すると、にこっと聖母のように優しく微笑み、バーサークモード全開の新井さんと対峙する。

 まず、仕掛けたのは新井さんだった。右腕を突き出し、拳を叩き込む。それを陽動とし、かわしたところを対角のある左の足で網島さんの脇腹目がめて蹴りを放った。普通の相手であるならば、この連撃のコンボでノックダウンするところだ(九条解説)。しかし、網島さんは戦闘技術において新井さんの上を行く実力者だという。陽動の拳をあえて受け左足の蹴りをかわした。最初から相手を騙すつもりで放たれた拳は無意識のうちに手を抜いてしまっている(九条解説)。対し、本命である蹴りの方は相手を殺そうとして放つのだという。ゆえに仮に致命傷を避けられとしても、重傷を負ってしまうのだという(九条解説)。だから、最初の陽動の拳をあえて受けることでダメージを最小限に抑え、次に対角線上から来る蹴りをかわし易くするのだという(九条解説)。

 なにもんだよ、お前ら。

 俺は半ばあきれ気味に、網島さんと荒い……新井さんの戦闘の様子を眺めている。新井さんの拳を網島さんが喰らったと思ったが、どうも少し違うらしい。新井さんの拳の先で、網島さんが涼しげに口を真一文字に結んでいる。どうやら、新井さんの拳を喰らったと見せかけて後ろに下がって避けていたようだ。なんという戦闘技能だろう。感心してしまう。羨ましいとは思わないが。

 予定が狂ったことで、蹴り上げようとしていた足を引っ込めざるを得なくなった新井さん。その余計な一動作を加えたことで、新井さんの次の動作が遅くなる。

 そこを、網島さんが突いた。一瞬にして背後に回ると、新井さんの後頭部に手刀を打ち込む。すると、新井さんは昏倒し、その場に倒れ伏した。

「ふー……手の掛かる子です」

 網島さんは息を吐くと、くるっと反転し、俺達の方に向き直った。

「琴音お嬢様、お怪我はありませんか?」

「ええ。わたくしは大丈夫です。それより、助かりましたわ。ありがとう、美々さん」

「いえいえ、九条家の侍女として、下の者の不手際を窘めたに過ぎません。今後、このようなことが起こらないよう努めて参りますので、なにとぞご容赦ください」

「怪我人は出なかったのですし、構いませんわ。それに、美馬さんもわたくしのことを思っての行動ですから」

「本当に申し訳ありません」

 網島さんは深々と頭を下げると、俺の方へと顔を向ける。

「お客様も、お怪我はありませんか?」

「えっと……はい、大丈夫です」

「そうですか、よかったです」

 網島さんはホッとしたような笑みを作ると、気を失っている新井さんの首根っこを掴み、軽々と持ち上げる。

「では、わたくしどもはこれで失礼いたします」

「はい、ありがとうございました」

 網島さんは笑みを浮かべ、うやうやしく一礼して部屋から出て行った。九条ははぁと溜息のようなものを吐き、振り返り、

「携帯、返してくださいます?」

 憮然とした表情で、右手を差し出して来た。えらく態度が違うが気にしない。俺は彼女の手のひらの上に、携帯電話を乗せる。

「助かった」

「別にお礼を言われるようなことではありませんわ。うちの使用人のミスですから」

 九条は何でもなさそうに言って、携帯電話をいじり始める。何か変なところを触られていないかどうかチェックしているようだ。心配性な奴め。

 しかし、さっきのアレは何だったんだ……。九条の携帯の画像フォルダの中にいたたくさんの二次元美少女達……アレは、まさか、

「で、何の話でしたでしょうか?」

「えっと……確か……」

「そうそう、これからわたくしが桜木さんに対してどのような態度を取るか、というそういう話でしたわね」

 そうだったっけ? ん〜……ま、そうだったということにしておこう。

「んで九条、お前どうすんだ? 桜木に挑戦し続けるのはあいつがいいと言えばまあいいが、一度負けた奴に無策で挑んでも同じ結果になるだけだぞ?」

「何をおっしゃってますの? わたくしが一度負けた相手に二度負けると思ってますの?」

 「と、言いたいところですけど」と九条は言葉尻を濁した。

「このままではわたくし、桜木玲に勝てる気がしませんの。だからまあ、協力し、わたくしに」

「えっと……何で俺が?」

 問うと、九条は俺にビシッと人差し指を突き付けて、

「あなたがけしかけたのでしょう? だったらあなたが責任を持ってわたくしを桜木さんに勝たせる。それは当然の理屈でしょう」

「何だそりゃ、むちゃくちゃだな」

 呆れた。なんで俺がそんなことをせにゃならん。風邪だって聞いて一パーセントくらいは心配して来てみたが、どうやらとんだ杞憂だったようだ。ったく、余計な手間掛けさせやがって。

「そんじゃ、俺は帰るからな」

 網島さん達が出て行ったのと同じ出口を通って、九条の部屋を出て行く。背後で、九条が金切り声を上げていたが無視した。どうせろくなことじゃない。

 というか、そもそも俺に何か出来るとは思えないんだがな。あいつは俺のことをどう思っているのだろうか。ま、どうでもいいか。

 九条邸を出ると、来た時と同じようにメイドさんの案内によって森の抜ける。門の前で深々と頭を下げるメイドさんに応じ、会釈しながら思った。

 この人にも、俺の心は読まれているのだろうか。


        ●


 翌日、九条は学校に姿を現した。彼女の周りにはたくさんの人だかりが出来上がり、その全てが女生徒だった。皆瞳を潤ませて、九条が元気に登校したことを喜んでいた。大げさだろ。

「しっかし、相変わらずモテモテだな、九条の奴」

 俺の後ろの男子が耳打ちしてくるが、男にそんなことをされても気持ち悪いだけなので、シッシと手で払っておくに留め、返答はしなかった。

 そんなことより、桜木からメールが届いているので話しかけるな。

『よかった、九条さんちゃんと学校に来てくれて』

 そりゃ来るだろ。内心で突っ込みつつ、さも同意見かのような返信をする。少し考え、更にメールを送った。

 なあ桜木、お前の目から見て、九条はどう思う?

『どうって?』

 なんていうか、お前と同じ種類の人間じゃないかってことだ。

『それってどういう……まさか!』

 確証はないが、その可能性は大いにある。

『でも、あの九条さんに限ってそんな……』

 傍から見ればお前だってあんな趣味があるなんて欠片も思われてないぞ。人間、誰しも裏表があるもんだ。

『それは、そうかも』

 ちらりと桜木の方を見る。桜木は何か考え込むようにして顎に手を当てていた。真剣な眼差しで携帯のディスプレイを見つめる彼女の表情は、これ以上ないくらいクールだった。

 メールは来ない。たぶん九条のことを考えているのだろう。だから、こちらから送って桜木の思案の邪魔をしようなんてことは考えない。俺も九条のことについて思いを馳せる。

 手掛かり……っというか九条をオタクだとする根拠は昨日見た携帯の二次元美少女フォルダしかない。しかし、そのことは言えない。言えば九条からはもちろん桜木からも殺されてしまう。殺されるのは嫌だ。だから言えない。つまり、画像フォルダ以外の根拠を示さなければならないのだが、そんなもんは無いので困った。

 やはり、黙っていたほうがよかったのではないかと思う。思ったところで、もう言ってしまったのだからどうしようもないのだが。

 しかし、どうするか。そう頭を回していたところで、携帯電話が震える。

 開くと、桜木からのメールだった。

『今日の昼休み、屋上集合』


        ●


 どうしようもない状況だった。

 俺は桜木に言われた通りに屋上へとやって来て、そして扉に背を付けて冷や汗を流している。

 なぜかって? そんなの、九条に迫られているからに決まっているじゃないか。

「どういうことですの! きっちりかっちり説明してもらいますわよ!」

 ドスの効いた、なんともお嬢様らしからぬ物言いで詰め寄って来る九条になす術なく、桜木の視線を投げて助けを求めた。が、桜木は肩をすくめるだけで、実際に動こうとしない。なんでだ!

「えっと……説明というと?」

「とぼけないでくださいましな! あなた桜木さんにわたくしがオ、オタクではないかとお尋ねになったそうではないですか!」

「あー、それね……別に大したことはないさ。ただの直感だよ」

 目線は九条を避け、頭は上手い言い訳はないかと高速で回転している。それでも、今の状況を打開するだけの一言が思い付かず、俺は桜木に視線をやるより他なかった。

「桜木、なんで言ったんだ!」

「いやですよ。こういうことは、本人に直接確かめるのがいいかと思いまして」

 ホホホ、と優雅に笑って見せる桜木。可愛い、可愛いのだが、どうも今の状況を理解しておられないようですねですね桜木さん。

「桜木さんではなくわたくしを見なさい!」

 ダンッ、と扉が力の限り叩かれる。とはいっても九条の力などたかが知れているので扉の表面には凹みなどは出来ず、変形もしていない。

 それよりも、九条が口にした大胆発言に驚いた。

 わたくしを見なさいって、年頃の娘が言うには少々以上に勇気のいる台詞ではなかろうか。そしてなぜか桜木は笑っていた。しかし、細められた目元が全然笑んでいないように見えるのは俺だけだろうか。

 なんか、怒ってる気がする。気のせい、だろうか……、

「な、なあ桜木、なんか怒ってる?」

「何も怒ってませんよぉ……昨日健斗くんが九条さんの家にお見舞いに行っただなんて、そんなことを気にするほど矮小な人間ではないつもりですがぁ?」

「…………」

 怒っていらっしゃるようだった。言い換えれば嫉妬だ。俺が昨日、桜木に一言も告げずに九条の家に言ったことを怒っているらしい。そんなことで怒んなや。

「や、昨日はちょっとしたヤボ用というか、用事があって」

「だから、気にしてないと言ってるじゃありませんか。健斗くんとく九条さんんが昨日なにをしていようと私には関係の無い話です」

「な、なにをしていようととはどういう意味ですの!」

 九条が顔を真っ赤にして桜木を振り返る。どういう想像をしたのか知らんが、そういう反応は逆効果だぞ。学習しろ。

 案の定、桜木は額に青筋を浮かべて、更に笑みを濃くする。が、もはや彼女の笑顔が死神にしか見えないのがなんとも残念だ。この表情は可愛くない。

 そして桜木は一歩二歩と近づいて来て、

「私だってまだ、されたことないのに……九条さん相手にそんな……」

 みたいなことをブツブツ言っている。怯えているのはわかるがそんな近付くな九条。無駄に育った胸が俺の顔に押し付けられて気持ちイイ。

「落ち着きなさい桜木さん! いったい、なにをそんなに怒っていますの!」

 え? マジで言ってのんか?

 俺は九条の胸に顔を埋めた状態で、怒りに狂う桜木を見る。昨日は新井さんで今日は桜木か。面倒なことが続くな。

 こんな状態ではまともに発音出来ず、喋れたところで今の桜木のへんてこりんな誤解を解くなど俺に出来るはずもない。

「はふぅ……」

 九条の胸の中で溜息を吐いた。こそばゆかったのか九条の体が小さく揺れたが、桜木が向かって来ていることもあって俺から離れるようなことはしなかった。離れろよ。

 俺はどうにかこうにか九条の胸の谷間から抜け出すと、桜木目かけて走った。あっちも歩んで来ていたため、すぐにお互いの距離がなくなる。

 俺が桜木の前で立ち止まると、桜木も立ち止まった。よく見ると彼女の目尻には透明な滴が溜まっている。今にも泣き出しそうだった。可愛い。

「……どうした、桜木?」

「どうしたって、健斗が浮気するから」

 後ろで九条が聞いているにも関わらず、いつもの丁寧口調を引っ込めて俺と二人だけの時にしか出さない口調で桜木は不満を口にする。

 ぐずっ、と鼻水を啜って、

「私、昨日待ってたんだよ……ずっと待ってた。いつもみたいに一緒に帰ろうと思って。でも、健斗は先にどっか行ってて、私はそれ知らなくて……」

 それで俺が九条んち行ったって聞いて不安になったのか。

「九条さんの家に行ったって先生に聞いて、そしたら二人がなにしてるのかすごい気になって、嫌な想像ばっかりしちゃう……」

 俺は桜木の目尻の涙を指先で掬って、

「悪かったよ。お前が私のせいかも、なんてメール送って来るからさ。だったら確かめに行こうと思ってさ」

「でも、なにも昨日じゃなくても……」

「そうなんだけどな。思い立ったが吉日、なんてな。いても立ってもいられなくてさ」

 でも……、

「それでお前のことそんなに不安にさせちまったら意味ねえよな。悪い」

「ほんとだよ、馬鹿ぁ……」

 桜木が俺の胸に飛び込んで来て、泣きじゃくる。俺は彼女の小さな背中を抱いて、ただひたすらに謝った。

「すまん、すまん」

 何度も何度も、謝った。

 聞こえて来るのは、九条の困惑したような声。

「……なんなんですの?」


         ●


「あのぉ、いい話っぽくなってるところ申し訳ありませんが、そろそろいいでしょうか?」

 俺と桜木が熱い抱擁を交わしていると、後ろから野暮ったい声が聞こえて来る。振り返ってみれば無駄に育った果実だけが取り柄の性悪お嬢様がいた。

「何だよ?」

「何ですかその態度。なぜわたくしにオタクの容疑が掛けられているのか、そのことに対する説明を要求しますわ」

 九条はやれやれといった様子で、腕を組んでいる。持ち上げられる形となっている胸が小さく揺れて、思わず視線が釘付けになる。そして俺の頬が桜木によって捻り上げられた。

「懲りない人だね」

 ジトッと睨みつけて来る桜木のことはとりあえず無視して、俺は彼女から体を離す。桜木は残念そうな声を上げるが、露骨に嫌がったりはしなかった。

 体ごと九条に向き直り、彼女が要求して来た説明をどうしようかと今更ながら思案する。

 正直には言えない。絶対に殺される。ならばどうするか。嘘を吐くしかあるまいよ。

 しかし、どんな嘘を吐けばいいのだろう。全く見当違いのことを言って煙に巻くか、それとも真実の中に嘘を紛れ込ませて真実をあやふやにするか。俺の語彙の乏しさと話術の駄目さ加減を考えると、後者は無理に近い。

 なので、

「ちょっと風の噂で聞いて」

「嘘が下手くそですわね」

 即座に見抜かれた。なぜだ!

「なぜわかったのか、とそう問いたげな顔をしてらっしゃいますね。お教えしましょう。先日、あなたがわたくしの家へ来た時に、わたくしの家の使用人のほとんどが読心術をマスターしているという話は聞きましたね?」

「あ、ああ……網島さんがそう言っていたな」

 ぐりぐりぐり、と桜木が靴のかかとで俺の爪先を踏みつけて来る。痛かったが我慢出来ないほどではなかったので、我慢して九条の話に耳を傾ける。

「わたくしも扱えますのよ、読心術」

「な、なんだってー!」

 こいつはびっくりだ。九条も読心術が使える? 何だそりゃ。

 いや、考えてみれば当然のことなのか? 九条家のメイドさんが使えるのだから、九条自身が読心術を習っていても不思議じゃないのか?

「……まぁ、扱えると言っても今のように、嘘を嘘と見抜ける程度でしかありませんけれど。わたくし、まだ未熟者ですし」

 いやいや、それだけでも十分に脅威だって。これは、嘘は通じないということか。

 え? なら正直に言うしかないんじゃね? 殺されるしかないんじゃね? マジかよ、まだ死にたくねえよ。

 俺が一人落ち込んでいると、九条が説明を催促して来る。

「早くしなさいな。休み時間が終わってしまいますわ」

「あ、ああ……」

 くそ、どうする。昼休みが終わるまでになんとか上手い言い訳を見つけないとやばいぞこりゃ。どうすれば……、

「あ、あの!」

 悩んでいると、背中から声が聞こえて来た。くそ、今この状況を誰かに見られれば、しち面倒臭いことになる。

「わた、しから説明しま、す」

 現れたのは三觜島優花だった。九条は怪訝そうに眉根を寄せると、

「三觜島さん、なんであなたが?」

「あ、なま、え、覚えておいて、くれた、んですね」

 途切れ途切れに、しかしどこか嬉しそうにそう言う三觜島は、こほんと咳払いを一つして、

「きの、う……いしみ、やくんが、くじょ、うさんのい、えに行った時、彼、くじょう、さんの携帯、電話をイジってた」

「それは、わたくしがお願いしましたから。使用人の人が暴走したので、助けを呼んでくださいと。お恥ずかしい話ですけれど」

「まぁ、それはそうなんだけど……」

 そこで、三觜島が言い淀む。つうかさっきからなんで知ってんだ? まるで見て来たかのように俺達がやってたことを知っていやがる。

 こいつ、まさか……、

「お前、俺達を見てたわけじゃないよな?」

「なん、のこと? わた、しは……なんにも、しらないよ」

 顔を逸らし、泳ぎ目で応える三觜島を俺は怪しいと思い、見詰める。

「じゃあなんでそんなこと知ってんだよ?」

「……かみ、さまのお、つげ。きこえて、きた」

 なにを言ってるのやら。そしてなんとなくだが、これ以上三觜島には関わらない方がいいような気がして来た。なんとなくだが。

 しかし、そんな俺の心情など気にも留めず、九条が三觜島の手を握る。

「三觜島さん、あなた凄いですわね!」

「あうぁ……そんなことは……」

 手を握られたことよってかどうかはわからないが、三觜島の顔が瞬間的に赤くなる。そのことを不思議に思いながら、俺は桜木にそっと耳打ちする。

「なぁ、いちおうこれって止めた方がいいのか?」

「んー……どうだろうねぇ。私はその場にいたわけじゃないし、よくわかんないけど、たぶん関わらない方がいいんじゃないかな。ま、結局は九条さんが決めることだから、私達じゃどうにも出来ないけれど」

「そうだな。念のため忠告はしておくが、それ以上のことは出来ないな」

 溜息とともに、呟きを漏らす。俺の言葉は吹く風にかき消されたのか、九条達まで届くことはなかった。それどころか、彼女達は自分達独自の世界を形成しているようだった。

 ……ついて行けん。


          ●


『わたくしはこの三觜島さんと特訓をしてまいります。三日後、再戦を申し込みますわ!』

 ビスィッ、と九条を指差して宣言する九条を、俺は半ば呆れ気味に見ていた。彼女の表情は自信に充ち溢れていて、勝算があるっぽかった。

 そして三日後。俺は教室の端っこの席で桜木とともに九条が来るのを待っていた。中々現れない九条にイラつく俺を知ってか知らずか、桜木は悠然と椅子に腰掛けていた。すげぇ。そして可愛い。

 教室に備え付けられた時計を見ると、そろそろ六時になろうという時間だった。後三秒ほどで短針が六に到達する。

 一、二、三、と心の中で唱えていると、六時ちょうどに三觜島を引き連れた九条が入って来た。二人はまっすぐにこちらに歩んで来る。桜木の前の席に九条が腰掛け、三觜島がその傍らに立つ。ちょうど、俺と相対する形だ。今日のところは俺達は全く関係無いのだが、それでも三觜島にとっては大勝負なようで、あらん限りに俺を睨んで来る。俺は目を逸らし、桜木と九条の間に置かれているチェス盤を見下す。

 相変わらず、わけのわからん黒と白の盤上にはこれまた黒と白の駒がそれぞれ並んでいる。黒が桜木で、白が九条の駒だ。

「わたくしが先手を頂きますわ」

「どうぞ」

 九条の宣言に、桜木が短く答える。余裕満点に微笑む彼女は聖母マリアと見紛うほど皇后しく、美しかった。

「では、始めましょう」

 桜木が試合開始の合図を口にする。同時に、九条が盤上の白い駒を一つ摘まみ、動かす。

 俺にはルールがわからいので、対戦の内容はすっ飛ばして結果だけ言うと、桜木は負けた。それも大敗したらしい。よくわからんが。


       ●


「手を抜いた……と、そんなことはありませんわよね?」

「ええ。私は全力で戦いました。でも、勝負は時の運。勝つこともあれば負けることもあります」

「そう、ですわね……しかし、釈然としませんわ」

 勝ったというのになにがそんなに気に喰わないのか、九条はしきりに首を傾げている。が、考えることを諦めたのか放棄したのか、すぐに立ち上がると、

「ようやく、これで一勝一敗ですわね」

 まるでいい勝負でしたとでも言わんばかりに清々しい笑みで桜木に握手を求める。俺は知らんがお前ら今までもしょっちゅうこんなことやってたんじゃなかったのかよ。そんな問いは、桜木の言葉に遮られる形で俺の喉元に堰き止められる。

「九条さん、まったく別の話になるのですけれど、訊いてもいいですか?」

「よろしいですわ。このわたくしに答えられることでしたら、なんでも訊いてくださいな」

「そうですか……では」

 桜木はこほんと一つ咳払いをすると、

「九条さんはオタクですか?」

「んなッ……!」

 九条は清々しい表情を一転させて、目を見開き眉を寄せ、若干後ろへ仰け反る。桜木はというとジッと九条を見詰めていて、彼女の答えを待ち構えている。

「……そんなことは、なんと思いますわ」

「本当に?」

「え、ええ。だってわたくし、アニメやゲームや漫画やライトノベルが大好きなだけですもの」

「…………」

 ふむ。

 九条はアニメや漫画やゲームやライトノベルが好きなだけでオタクではないらしい。九条みたいな奴を世間ではオタクというのではないだろうかと思ったが、偏見持ってると思われるのも嫌なので黙っておく。

 ふるふると微細震えている九条に、桜木はフッと笑いかけ、

「実は私もオタクなんですよ」

 困ったような、または不安に支配されたかのような顔で告げた。彼女の告白に、九条と三觜島が空いた口が塞がらないとあんぐりと開けている。俺は知っていたので驚かない。

「桜木、さん……あなたが?」

 九条のほそっこい指先が桜木を指し示す。指差すな。

 桜木は一つ小さく頷くと、再び困ったようにはにかみ、

「私、エロゲとかギャルゲとかが大好きなんです。感動的なお話ばかりで」

「……どうして、そんなことを?」

「………………お友達が欲しかったのです」

 消え入りそうな声で呟くと、桜木はぽつりぽつりと語り出した。

「私の学校での立場、それは九条さん、あなたも知っての通りのものです。ですから、私は本当の自分を出せずにいた。もちろん、他の皆さんと一緒にいることは楽しかったですが、それでもやはり思うのです」

 もし、同じ趣味を持ってるお友達と一緒にお喋りしたり、お買い物に行ったりしたらどんなに楽しいだろう、と。

 桜木は自分の胸の内をそう表し、真っ直ぐに九条を見据える。右手を差し出し、

「私の負けです。でも、私のお願いを聞き届けては頂けませんか?」

「お願い……」

「はい! 改めて、私とお友達になってください」

 差し出された右手を、しばらくの間九条は見詰めていた。が、やがて笑みを形作ると、桜木の右手に自分の右手を添える。

「喜んで」

 二人が、お互いに握手を交わした。嬉しそうに微笑みあう二人の様子を眺めながら、俺も嬉しく思う。思うのだが……。

 やはり、俺ではな駄目なのか……俺では、桜木を理解してやることは出来ないのか。

 そういう、歯がゆい思いが俺の心中を掌握する。支配する。

 きっと、誰にも言えない。こんな気持ちでいるなんて。

 なぜ俺がこんな苦い思いをしなければならないのだろう。

 そして、三觜島をどうしようかということに頭を悩ませる。


                                       fin

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