第二十九話:酷いこと
お姉ちゃん。
それは恐らく、あかりさんのことだろう。双子とはいえ、彼女、あかりさんは、今こうしてわたしの目の前にいるひまりさんより、早くに生まれたわけで、それがちょっとの差であったとしても、ひまりさんにとって、あかりさんが姉に当たる親族になるのは、勿論、わたしも分かっている。
いや。
こうして理屈にもならない屁理屈を捏ねるのはやめておこう。こんなのはきっと、わたしがひまりさんの言葉から、目を背けているだけに過ぎない。
お姉ちゃんに酷いことをされた。
それはつまり、あかりさんにひまりさんが、酷いことをされた。ということに他ならない訳で。
「……」
わたしはそんな言葉に対して、沈黙でしか返せなかった。
それから。
……それから、ひまりさんが語った内容。それは、凡そ信じがたいものだった。
勿論、二人と、あかりさんとひまりさんと知り合ってから、それこそまだ二日程度しか経っていないし、時間に換算すると、もっと短い付き合いでしかない。それこそ、わたしが魔法少女になってからの日数だって、その倍程度しか経っていないのだから、そう考えると、当たり前と言えば当たり前ではあるけれど。
しかし、そんな短い付き合いでも言えることがあるとすれば、恐らくわたしの思う限りにおいて、あかりさんは決して、ひまりさんに酷いこと――それがどんな事かはともかく――をするような人間ではない。
勿論、あかりさんは姉として、そして姉妹、家族としてひまりさんに対して、時に厳しい言葉を発することはあったし、それをわたしも見ていた。それこそ、魔物との対決の際には、それが顕著に表れていたといっても過言ではない。それくらい、傍目に見ていたわたしが止めに入ろうと思うくらい、厳しい態度で接することもある。
だが。
それと同じくらい、わたしは彼女、あかりさんがひまりさんに対して、妹として、愛おしく思っているのだと実感するような態度も、見てきた。
それは例えば、車中でわたしとひまりさんが会話している時の表情であったり、レストランで、お手洗いに駆け込んだわたしを心配して、声をかけてきたひまりさんを茶化すような態度であったり、ひまりさんの能力不足により、魔物とサポート無しの一騎打ちをせざるを得なかった場面であったり。ひまりさんへドロップを、その身を案じて分け与える態度であったり。
そういう、細々としたところ。意識していないと見落としてしまいそうなところで、あかりさんがひまりさんのことを、どれほど大事に、大切に思っているか。それを、わたしはちゃんと見ていた。だからこそ、わたしは彼女たちの関係性について、不安を呈することはなかったし、心配することも無かった。
だからこそ。
酷いこと。
それがどんなことなのか。どれくらい酷いことなのか。それは想像もつかないが、しかし、それにしたってあかりさんがひまりさんを泣かせるに留まらず、よもや家出をさせてしまうくらいのことを、した。それがどうにも、わたしは信じられなかった。
いや、ひまりさんを疑っているわけではない。だが、あのあかりさんが。と、そこに疑問、というか、違和感を憶えずにはいられない。
そしてそうなると、次に思い当たる節。それは正に、渚山が言っていたこと。それに対して、わたしが立てた仮設。
対価とは、家庭環境の悪化。という、仮説である。
いや、これは仮説とも言えない、裏付けの一つも取れていない様なものであるため、最早わたしの予測、予想、妄想でしかないのだが。しかしこうも、奈野さん、そしてひまりさんと、立て続けに二人の様子を見ていると、思ってしまう。
きっと、契約したアルプによって、大まかに対価の種類が決められていて。
例えばリッグと呼ばれるカラスと契約した魔法少女には、渚さんのような対価が。
例えばミネットと呼ばれる猫と契約した魔法少女には、奈野さんや、ひまりさんのような、家庭環境の不和を生じさせるような対価が。
付与されるのか。
そんなことを思う。
そして実際。
「そ、その……酷いこと、っていうのは、具体的に……」
恐る恐る、そう尋ねたわたしに、ひまりさんが語ってくれた内容。それは、その仮説を裏付けるに値するだけの、凄惨なものだった。
始まりは、何のことはない、いつも通り、あかりさんがひまりさんに言っていたような、厳しい言葉だったという。
「ちゃんと当番なんだから、ご飯くらい作りなさいって……そう言われたんです」
そう言って、ひまりさんはそれから、ぽつぽつと語り始めた。
「その、わたしたちの家、っ…………お父さんが居なくて、お母さんしかいないんです。それで、お母さんも、いつも夜勤ばっかりだから、ほとんど家に居なくて……ご飯は、いつもわたしとお姉ちゃんの当番制なんです」
月曜日、火曜日、水曜日はあかりさん。金曜日、土曜日、日曜日はひまりさん、そして、木曜日は、その二人の母親が休みであるため、母親が。というような当番の割り振りらしい。
「でも、今日、わたしが登板だってこと、忘れてて……ほら、今日って10月の22日、金曜日じゃないですか。だから、わたしが当番の、三日間の、初めての日、なんです」
人見知り故か、俯いた状態で、手元をもじもじと動かしながら、話を進めるひまりさん。その隣で、わたしはコーヒー以外に買ったものを、使おうかどうか、そんなことを頭の片隅で思案しながら、レジ袋を持ち直す。
「そ、それで、わたし、勉強してたから、ちゃんと作る、よって……部屋越しに、お姉ちゃんに言ったんです。……あ、その頃にはお母さん、もういつも通り、仕事に出かけてるくらいの時間で、丁度ご飯の時間も、過ぎてるくらいで……」
だが、その言葉を聞いたあかりさんは、それからひまりさんの部屋。その扉越しに返事をして、どこかへ行き、すぐに戻って来たという。そしてその時こそ、扉越しではなく、というかその扉を、勢いよく開けたという。
一度、どこかへ行った。それは、その後のあかりさんが言った言葉で明白になる。
「……買い出しを、忘れてて……その、冷凍庫に、材料が、ほとんどなくて」
意外でもない事実として、そこでひまりさんは、自信が料理の腕をほとんど有していないことを白状した。そして同時に、あかりさんが料理に長けていることも。
それこそ、月、火、水、それから木曜日は、料理上手のあかりさんと、その道十何年の母親が手掛ける料理が、食卓に並ぶ。しかし、それから三日間の、金、土、日曜日は、ひまりさんが作った、とも言い難いような、冷凍食品や、お惣菜が食卓を彩るとのこと。
あんた、冷凍庫の中に、何も無いじゃない。
冷蔵庫の中には、そりゃあ食材もあるけど。
あんた、料理出来るの?
出来ないでしょ?
いい加減にしなさいよ、ひま。
そんな言葉を、矢継ぎ早に言われたと、ひまりさんは言う。
そしてその時点で、すでにもう泣きそうな表情を浮かべていることに気付いたわたしは、潤んだ声で肩を震わせるひまりさん。その背中へ迷った末、手を添えた。
そして、嫌がって身じろぎしないことだけ確認してから、ゆっくりと擦る。
それから、ひまりさんは、決壊したように泣き出して、語った内容。だが、その後に続く内容こそ、ひまりさんが言っていた、酷いこと。それに該当する行為であったと、そこでわたしは気付く。
部屋に入ってきた、あかりさん。彼女がそのまま、大股で近づいてくるのを、初めひまりさんは、ただ見つめていたという。しかしあかりさんは止まる素振りすら見せず、お互いの手と手が伸ばせば届くような距離まで近づいてくると、次の瞬間。
「……か、髪を……っ、あ、えと、その、お姉ちゃんには、内緒にしてくれますか」
途端に怯えた様子を見せるひまりさんに、わたしは黙って頷く。
「……髪を、掴まれて」
頬を打たれた、という。
他にも、色々と、されたという。
怒鳴られて、ひたすら責め立てられて、物を投げられて、物で叩かれて、腕を引かれて、冷凍庫の前まで連れていかれて。
「っ……ほ、ほら、良くて見なさいって、そ、その……顔を、れ、いとうこに、押し付けられて……」
大粒の涙が零れては、太もものジーンズに染みていく。
「これ、が、晩御飯を、作れるように、見えるって……怒鳴られて……わ、わたしが悪いっていうのは、分かってるんです。……その、買い出しを忘れて、勉強なんか、してたわたしが悪いのは、分かってるんです。……でも、お姉ちゃん、わたしが、謝っても、許してくれなくて」
頭を、髪の毛を持たれた状態で、冷凍庫に突っ込まされた状態で。
背中を、何度も、何度も。
何度も何度も何度も何度も。
殴られたという。
わたしは慌てて、擦っていた背中から手を離す。その時に、咄嗟のことで、つまり殴られて未だ痛むであろう背中を擦っていたことに対して、謝罪の言葉は出てきたが。だが、その後の言葉。
「………………やりすぎ、だと思う」
言葉の発し方を忘れてしまったと錯覚してしまうくらい、言うことを聞かない喉で、わたしはそんな考えを口にした。
「それは、確かにひまりさんが忘れてて、ご飯を作る当番なのに、作れなかった。それは……うん、ひまりさんにも、責任があると、思うわ。でも……」
言い換えてみれば、それは所詮、ご飯の話であって、別に何も、取り急ぐようなことでもない。それこそ、ひまりさんが作るご飯は、冷凍食品。恐らく、冷凍炒飯とか、冷凍パスタとか、その類だろう。それなら、家の近くにあるコンビニでも行って買ってきて、それを電子レンジで温めればいい。その作業をひまりさんがするか、自分がするか。その程度であって、そこに大した差異は無いように思う。いや、だからこそ、それくらい簡単に、あかりさんが出来うる分、それを忘れていたひまりさんが、例えばそんな風に、お姉ちゃんがやればいいじゃない。なんて言ったのだとしたら、あかりさんが怒るのも分からないでもない。
だが、話を訊いている限りにおいて、どうやらひまりさんは謝っていたという。それなら、その場はそれで収めて、買い出しにでも遅れながら行かせて、電子レンジなりフライパンなりで温めさせて、作らせればいい。
暴力。
それを振るう必要性が、あったとは、思えない。
「わたしはね、別に、体罰とか、そういうのが、一辺倒に駄目だって思わないの。それこそ、何度も言って、分からないなら、そういう教え方も、駄目だけど、でも必要悪っていうか……」
「ひつようあく……?」
首を傾げるひまりさん。わたしは慌てて、注釈する。
「えと、仕方ないと、思わないでもないってこと」
でも、それはあくまで、必要な場合。
「例えば、そうね。まだ小さい子供が、赤信号なのに渡ろうとしてて、それを何度言っても同じようにしようとしてたら、例えば頭を叩くとか、そういうのは……いや、今日日駄目だけどね。でも、仕方ないのかな、って、思うの」
この考えが当然、一般的とは思わない。そんな場合でも、痛みや恐怖に訴えるような判らせ方は、勿論、良くないことだと分かっている。だから、必要悪。
決して、良しとするのではなく、あくまで仕方なく行うこと。
だからこそ、わたしは言える。
「……やり過ぎだと思うな、わたしは」
姉妹喧嘩の域を超えている。
彼女の、恐らくこの後青あざになるであろう背中を見て、わたしは思った。そして、そういった、暴力を振るわれるのが何も今に始まったことではない。ということも、同じように背中を見て、思った。
無数の青あざ。それは、こちらに背中を向けた彼女。その服を捲った白い素肌を、埋め尽くさんとばかりに、夥しい数が、そこへ存在していた。
そしてそれが、背中だけで留まらないことも、彼女自身の言葉から、知ることとなる。
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