第十九話:死ぬほど痛い
「っ――ったたた……」
と。
そんな、まるでタンスの角にでも小指をぶつけたかの様な、痛みを堪える声を上げて身体を起こすあかりさんに、わたしは生まれて初めて、本当に腰を抜かした。
なるほど。
腰を抜かす。と、慣用句で耳にすることは、わたしも何度かあったし、それこそサザエさんでも聞いたことはあるし、見たこともある。それこそその場に尻もちをつき、へたり込むことを、そういうのだろう。
余りの衝撃に、経っていられなくなるのだろう。それを、腰を抜かす。そう形容する。
そして、その言葉通りにアスファルトの上へ座り込んだわたしは、大きく口を開けたまま、目の前の光景から目を反らせずにいた。
ひまりさんの駆け寄った先に、倒れていたあかりさん。死んだはずの彼女が、何故かうつ伏せの状態から地面に手を付いて、上半身を起こしているのだ。
「あ、あ……あか、り、さん……?」
わたしは思わず、無意識のうちに彼女を呼ぶ。
それに振り返り、こちらを見つめた彼女。その、アスファルトで擦られていたはずの顔。
そこには傷一つ、痣一つついていなかった。
「ん、どうかしましたか?」
どうかしたのか、いや、どうしてしまったのか。それを訪ねたいのはむしろわたしの方なのだが、しかし彼女は、事も無げに、それからすぐに立ち上がる。そうして、魔物の方へと、再び身体を向けた。
その背中にわたしは、震える声で話しかける。
「……だい、じょうぶなの?」
いや。
聞くまでもない。どう考えても大丈夫じゃない。それくらいの高さまで吹き飛ばされ、地面に全身を打ちながら転げ、そうして転げまわっていた。
普通の人なら、いやそれこそ魔法少女だって、死んでもおかしくないくらいの衝撃は、その身で食らったことだろう。
だろうに。彼女は、少なくともわたしが今、正気であるなら、生きているように見えていた。
そして彼女は。
「……いや、正直死ぬほど痛いです」
そう言うや否や、再び魔物の元へと走り去っていく。
「けど!!」
そして魔物と、先ほどまであかりさんが倒れていた位置。その間に転がる包丁に手を伸ばし、掴みながら魔物の攻撃を、今度こそ躱す。
「痛がってる余裕、無いですし!」
前方からこちらへと、知らない間に距離を詰めていた魔物。そこから再び放たれた棘を、右に旋回しながら避けた彼女は、そのまま右へ円を描くように走り抜ける。それを追うように、棘を引っ込めながら旋回する魔物。
その魔物の動きを、一切の打ち合わせなく、ひまりさんが止め。
あかりさんはそれを視認した瞬間に、方向を90度転換し、地面を勢いよく蹴り。
着地のこととか、自分のこととか。そんなことは一切考えていない様な体制で、捨て身の体当たりを仕掛け。
そのまま魔物ごと、でたらめに転げまわりながら、再び歩道を超えて車道まで転げていく。
「あかりさんっ!!」
生きている。
あかりさんが、生きている。
そう理解しつつ、しかし受け入れきれないわたしは、その場から声を張り上げるだけが精いっぱい、出来ることだった。
そして隣では、とうとう限界まで固定の魔法を使い切ったらしい、ひまりさんが、とうとう息を切らしてその場に座り込んだ。
「お、おねえちゃん……も、う無理……」
息も絶え絶え。背中を小さく丸め、肩で小刻みに何度も息をしながら、必死で体内へと酸素を送り込むように、ひまりさんは喘ぐ。その項垂れた横を、立たない腰で何とか、這いずるようにしてわたしは近づく。
膝を着いて、四つん這いの体制だ。そして不幸にも、このスカートは存外、薄い生地で出来ているらしい。スカート越しにでこぼことしたアスファルトの地面が、膝に突き刺さる痛みに襲われる。
が、そんなことも言っていられない。
どうして彼女が、生きていた。
そんなことが分からない状態では、勿論見た目には傷一つなかったとして、だから大丈夫か。後はよろしく。なんて戦闘を一任できるほど、わたしは薄情ではないつもりだ。
痛みは、無視できない。しかし、堪えることは出来る。
わたしは這いつくばっているのか、そもそも動かない身体を引きずっているのか、それすらあやふやなまま、何とか近づこうと、手足を必死に動かす。
動け。
また殺されるぞ。
そう心の中で唱えて、自分を鼓舞する。
「ううん、十分だよ、ひま」
そんな、落ち着いたあかりさんの声が前から聞こえる。
わたしは、それに反応して首を上げた。
そこには。
緑色の分泌液か、あるいは血液で服の大半を汚しながら、先ほどまで激闘を繰り広げた魔物を抱えているあかりさんが、自慢気に立っていた。
「もう勝負はついたから、心配いりませんよ、綾瀬さん」
そう言って、その抱えていた魔物を、近くに放り投げる。それは空気の抜けたバスケットボールの様に、地面へ落ちた衝撃で潰れると、そのまま端の方から、さらさらと溶ける様に消えていく。
そうして、手に着いた緑色の液体を、気持ち悪そうに払うあかりさんが、こちらに近づく。より早く、わたしは飛び掛かった。
「あかりさん、あかりさんっ、ほんとに大丈夫? ねえ、どこか怪我してない? 血とか出てない? 大丈夫だった? ごめんね、痛かったよね、ごめんねっ、ごめんねっ……わ、わたしが、助けてあげられたら良かったのに、ごめんねっ……」
その後、変身の解けたあかりさんの服をあちこち捲ったり、身体を触ったりしながら、わたしは全身を隅々まで調べながら、涙目でそんなことを言っていた気がする。
だが、彼女の全身。そのどこを見ても、ひたすら調べている間、大丈夫と繰り返していた彼女の言う通り、怪我の一つ、見当たらなかった。精々、活発な印象の彼女よろしく、わずかな日焼けしているところと、そうでないところの境目が、太ももや二の腕に確認できるくらいで。
擦過創も、何もない。
「ちょ、本当に大丈夫ですから、泣かないで下さいよお」
そう言って困ったように笑うあかりさん。だが、わたしはそれでも尚、その現状を受け止めることは出来ない。それくらい衝撃的な出来事だったのだ。
「だ、だって、あの高さから、あの勢いで落ちて、しかもさっきのやつに、正面から顔、貫かれてたし……――あっ、そうだ、顔っ! ちょ、良く見せて! 本当に怪我、してないのよね!!」
そうして彼女の顔に、わたしは顔を近づける。だが、気不味そうに笑って目を反らす彼女。その顔のどこにも、本当に怪我の一つとして、無かった。
「いやっ、だから本当に大丈夫ですって! んもう、綾瀬さん、心配しすぎですよ」
そういって明るく笑って、わたしの手を掴んだあかりさんは、そのままゆっくりと顔から手を離す。
「ねえひま、わたし、いつもこんな感じだよね?」
「……へっ?! う、うん、そう、だね、お姉ちゃん、怪我とかしない……から、大丈夫」
助け舟を求めるように話を振られたひまりさんは、取り乱しているわたしを、唖然として見つめていたのだろう。驚いた様子で身体を跳ねさせると、まだ体力が全快していないのか、少し疲れた様な表情で頷く。
その様子を見て、あかりさんは、未だ納得していないわたしの表情を見たのだろうか。目を反らして笑みを浮かべた。
「ね? ほら、ひまもそう言ってることですし、本当に大丈夫ですって!」
耐性の魔法。
そう切り出したあかりさんは、怪我がないことを確認しても尚、その身を案じてくるわたしへ、詳しい説明を始めた。
「といっても、本当に大した魔法じゃないから、正直恥ずかしいくらいなんですけどね……」
とどのつまり、彼女は魔法を使用している間、一切の怪我や、骨折、その他諸々の外傷に対して、耐性を発揮するらしい。そして、そこでわたしは気付く。そういえば、すっかりファミレスで聞いた、ひまりさんの魔法の方ばかり、インパクトが合って、忘れていたが、確かに彼女は言っていた。
わたしの魔法は、防御というか、耐性というか。
「正確には、守護の魔法、だそうですけど……」
それこそ、防御というか、耐性というか。そのどちらというでもなく、守護。
「つけられた傷とか、そういうのを、そもそも無かったことにしてしまうらしくて。だから、何も身体が堅くなるとか、そんな悪魔の実みたいな能力ではないらしくて」
「その例えは良く分からないけど……え、でも痛がってなかった?」
そこでわたしは気になって尋ねる。少なくともわたしの記憶が間違っていなければ、彼女はそれこそ、外傷こそ負っていないものの、それでも痛みを感じていたような。
そう。確かに言っていた。
死ぬほど痛いと。
「んー、そこがネックなんですよね……」
そういってあかりさんは、考えるような表情を浮かべる。
「単にわたしの魔法が、そもそも未熟なのか、何なのか……勿論、さっきみたいに頭を棘で貫かれそうになっても、無傷で居られるくらいには、ちゃんとした魔法なんですけど、痛いことは痛いって言いますか……多分、痛みまでは消せないんですよね」
守るのはあくまで身体、肉体であって、痛覚などはその限りではない。だからそれこそ、先ほどの様に吹き飛ばされでもしたら、その衝撃から得るであろう痛みは、全てそのまま、感じてしまうと。
しかしまあ、それでも並大抵の魔法少女からしてみれば、その能力は、羨ましく映る事だろう。それこそ、ひまりさんのように、完全に物理法則を無視したような魔法――いや、魔法自体、科学をあざ笑うかのような力ばかりで、それこそわたしの固有魔法も、ひまりさんのも、あかりさんのも、物理法則は無視しているけれど――と比べれば、一見、見劣りするかもしれない。それこそ、戦闘向き、とは言えないし、これといった武器もない。
糸の魔法が、攻防一体の物だとしたら、固定の魔法は、一人では攻撃に転じることは難しくとも、他の誰かがいれば、先程のように、とても強力なものへと化ける。
だが、あかりさんの能力はあくまで防御。
だからあんな、包丁なんて武器を、わざわざ使っていたのか。わたしはそう納得して、尋ねてみた。
「はい、そうなんですよ。本当は、いくら攻撃が通じないっていっても、当たれば滅茶苦茶痛いから、遠距離の武器が欲しいんですけどね。……銃とか」
「それは……この現代社会では難しいかな」
凄い音を響かせながら、銃を乱射する女子高生。いくら記憶操作で後ほど、どうにでもなるといっても、流石にそれこそ警察が飛んでくることは、容易に想像が付く。というかそもそも、どうやって銃を手に入れようというのか。
「後は、クロスボウとかも考えてみたんですけど……普段から持ち歩くには、ちょっと大きすぎて」
そういって笑うあかりさん。そこでわたしは、思い出す。
変身した時、何処からともなく、あの大ぶりの包丁を取り出していたことを。
「……そういやさ、あかりさん、包丁は今も持ってるの?」
クロスボウが持ち歩きにくい。というのであれば、それこそ包丁こそ、持ち歩くうえで多少の不便はある。それこそ、刃を守るようにして、何かしらで包み、それをカバンか何かに忍ばせておかなければならない。少なくとも、いまこうして変身の解けたあかりさんを見るに、抜身の包丁を片手に持っている、なんてことも無ければ、そもそも大きなカバンも持っていない。
先程身体を触った時も、それらしき物の感触は無かったし、あったら気付くはずだ。
そして持っているかばんも、肩から掛けている小さなもので、中には恐らく、携帯とか、ドロップを入れておくピルケースとか。その程度しか入らない様な大きさだ。
ならば、一体どこに……?
あかりさんは、怪訝そうなわたしの表情と、真面目な訊き方がどうやらツボに入ったのか、吹き出して笑う。
「っ、いやいや、そんなわけないじゃないですか! わたし、そんな危ない子じゃないですって!」
いや。
魔物相手に夜の住宅街で、不敵な笑みを浮かべながら魔物と熾烈な戦いを繰り広げる、フリフリドレスの女の子。
あの光景はどう見ても、危ない子っていうか、マジでヤバい奴だったけど。
中途半端な怖い話より怖かったけど。
そんなことを言える訳もなく、わたしはぐっと胸の内にしまっておく。
「いや、簡単な話ですよ、ただ、変身している時に包丁を、服の間とかに入れておいて、変身が解けるのを待つだけです」
やり方は簡単で。
まず、魔法少女に変身する際に、予め、武器などを足元などに落とすなり、近くに投げておくなりして、変身の際に、衣装と入れ替わらないようにしておく。
そして次に、その状態で、服の間や、手に持つなどして、変身が解けるまで待つ。
最後に、その状態で変身が解けるのを待つと、衣装と同じように、武器が、いわゆる魔法少女のドレスセットの一部として、次に変身する時まで消えている。
「わたしも原理は良く分からないんですけど、でもこれで上手くいきますよ。ほら、それこそ綾瀬さんも、戦い向きの能力じゃないじゃないですか。どっちも」
「どっちも……?」
それをいうなら、どれも。
どっちも、もとい、どちらも。とは、あくまで二つの選択肢、その両方を指す言葉であって。
不死。
精神操作。
そして、糸。
この三つを持っているわたしに対して、どっちも。とは違和感を憶えずにはいられない。いや、この出来事だけなら、これはただわたしの気にしすぎ、国語の先生みたく、日本語を正しく使いなさいと、小煩く言っているだけに過ぎない。だが、これだけではない。
魔物が現れて、ひまりさんに、わたしから離れないように。そう告げたあかりさんが、わたしの不死性について、ミネットから聴いている。そう言った後、もう一つの魔法についても、同様だと。あの時、彼女は確かに言った。
ミネットの伝達ミスか、あるいは。
「あ、あの……わたし、一応戦闘向きの能力は、持ってるんだけど……」
そう伝えたところで、あかりさんは、きょとんとしたような顔になる。
「……え、で、でも、アレですよね。不死の魔法と、精神操作の魔法? でしたっけ。……攻撃に転用できるとは、思えませんけど……」
ひまりさんが、そこでわたしとあかりさんの間で、ドロップを食べ終わったらしい。どうやらあの魔法は、消費量が朱莉さんと比べて、かなり多いらしく、あの息切れも、魔力の消耗によるものだったらしい。みるみる顔色も戻り、肉体の疲労のみになったらしい彼女は、あかりさんの裾を引く。
「……わかった」
「なにが」
「魔物を、精神操作して、頭をおかしくさせて、自殺に追い込むんじゃないの」
「……」
だとしたらわたしは魔法少女側じゃなくて、魔物側だ。
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