第十八話:奈野さんの様に

 どうやら、本当に原理は分からなかったが、とにかく動きをひまりさんが止めている間に、攻撃を一方的に叩き込む。ということは不可能らしい。事実、刃物を突き立てられた魔物は、それから音こそ立てないにしても、地上約一メートルほどの高さで、再びビクビクと、小刻みに位置を動かしながら、苦しそうに藻掻き始める。いや、そもそもこの魔物に痛みとか、感情とか、そもそもそういう自我らしきものが存在するのか、それすら危ういが、とにかく。

 あかりさんはその包丁を抜き、もう一度刺すだけの猶予はなかったらしい。包丁を逃げざまに抜き、すぐにその場から後ずさりをした。

 そうして魔物との距離を十分に離した後で、後ろを、わたしたちの方へと振り返る。

「ひまっ、後どれくらい?!

「え、えと、多分……あと、5秒くらい……」

 先ほどまで魔物に掲げていた腕を下げ、まるで全力疾走をした後の様な息の切らし方で、苦しそうに喘ぐひまりさんは、顔を上げてあかりさんを見る。その頬は紅潮し、とてつもない疲労感を憶えているのは、最早言うまでもない。

 魔物から噴き出た、血のようなものだろうか。ねっとりとした、スライムのような粘液がこびりついた包丁を勢いよく振るい落とし、次いで袖を使って、顔に着いたそれを拭い取ったあかりさんは、少しだけ苦しそうな顔を浮かべる。そして、ひまりさんの言葉を反芻した。

「五秒、か……」

 その目は、少なくとも先ほどまでの、妹を慈しむような目や、わたしに対しての、楽しそうな目ではない。明らかに殺意を宿しているような、そんな鋭い眼光であった。

 しかし、それもさもありなん。魔物相手に気を抜いた者に待っているのは、ただの死。それだけだから。

 かわいい衣装を楽しむ余裕も、魔法を使えることに喜ぶ余裕も、何もない。

 ただの命を懸けた、殺し合いでしかないのだ。

 魔物を睨みつけ、歯ぎしりをするあかりさん。そして次の瞬間には、再び駆け寄って。

 もう一度、さっきと同じように腕を上げたひまりさんが動きを止め。

 たはずだった。

「っ……!」

 声にならない悲鳴が夜の住宅街へ響き渡る。幸い、まだ一般人が窓からこちらを覗いているとか、その喧騒を聞きつけて警察が駆けつけてきたとか、そういうことは無かったが、それを気にしている余裕は、動きを止めそこなったらしいひまりさんにも、その横でどうしたものかとまごまごしているわたしにも、そして。

 くるりと身を翻し、平面をこちらに向けた魔物。そこから円錐状に鋭く伸びた棘に、危うく顔面の左半分を貫かれそうになったあかりさんにも、無かった。

 走りながら、それでも腰を落とし、姿勢を低くしていたお陰だろうか。幸い、その攻撃はあかりさんにとって、怪我の一つも起こさせないほどの物だったが、それでも。

 今度は勢いよく縮んでいくその棘が、射出される瞬間を遠目にも視認できないほどには、速かった。

「お姉ちゃんっ!!」

 ひまりさんの、あかりさんを案ずる声が響く。だがそれに対し、そのまま身を翻し様にこちらを見たあかりさんは、少なくともこれまでのやりとりからは想像もつかないほど、怒ったような表情でひまりさんを睨みつけていた。

「っ大丈夫! それより、ちゃんと止めておいて!」

 その目を向けられたひまりさんは、背中越しにも分かるほど、肩をびくりと振るわせる。

「ご、ごめんなさい……」

 申し訳なさそうに頭を俯かせ、小さく声を上げて謝った。そこに、動きを止めていないからだろうか。少し話す隙すら与えず、後を追うようにして、あかりさんの方を向きながら、何度も棘を伸ばしてくる魔物。それをぎりぎりの所で躱しながら、あかりさんは更に声を荒げた。

「謝るより、先に止めてって言ってるでしょ!?」

 この二人の、仲が悪いわけではない。それはわたしがこの数時間で、嫌という程知っている。きっと、あかりさんはひまりさんのことをとても大切に思っているはずだし、ひまりさんもまた、同様。むしろ、世間一般の姉妹と比べると、二人は相当に仲が良いとすら思える。。

 しかし、今はそうやって、仲良しこよしをしているわけにもいかない。ひまりさんを庇いたい気持ちはわたしにもあるのだが、しかし今こうして、最前線で、死に物狂いで戦っているあかりさんを見ると、それも出来ない。

 どう声をかけた物か。年上としての責任感と、命を賭して戦っているあかりさんに対する情との板挟みになる。

「ほ、ほら、ひまりさん……お姉ちゃんの為にも、止めてあげないと……ね?」

 わたしは、あかりさんの怒号に当てられて、再び肩を竦めて目を瞑っているひまりさんの隣へと近づくと、その肩に触れた。それから顔を覗き込む。正直、こんな切羽詰まった、一刻を争う状況で、少し怒鳴られたくらいで竦んでいる場合ではない。とは思うのだが、それはあくまで、わたしだから言えることだ。

 じれったいとも言っていられない。それにひまりさんが、そんなことは一番、良く分かっているはずだった。

 わたしは震える方から手を下ろし、優しく背中をさすってあげると、涙を流して怖がっていたひまりさんは、それでもわたしの言葉を、それなりに聞き入れてくれたらしい。しゃくりあげ、泣きじゃくりながらも、静かに首を縦に振る。

「ひ、まっ! 早くしてって!!」

 最早数秒の余裕もないらしいあかりさんは、そこで更に声を荒げる。その声に、わたしの気持ちは、次にあかりさんへと向く。

 怯えている場合ではないという気持ち。それは、そんな矢継ぎ早に怒鳴り付けなくてもいいじゃない。という気持ち。

 そんなことを言ってしまったら、今度こそ折角わたしが慰めて、少し勇気を振り絞ろうとしたひまりさんが、更に怯えてしまうではないか。

 そう思ったが。しかしそんな考えは、それこそ杞憂だったらしい。

 わたしの予想に反して、ひまりさんはその声に反応するように激しく袖で涙を拭うと、意を決したように、再び深く息を吸う。

 そして片目を瞑り。

 腕を擡げた。

「っ……止まってっ!」

 指で作った箸で、魔物を視線越しに摘まむような動作。恐らく、その動作がトリガーにでもなっているのだろうか。

 再び、その動作をしたひまりさん。そして次の瞬間、あれほど狂ったような動きであかりさんに連撃を、五月雨のごとく浴びせ掛けてきていた魔物は、ビタリと、再びその動きを止める。

 まるで、その魔物だけ時が止まったかのように。

 おまけに、幸いなことに、丁度あかりさんの方へ向けて、棘を伸ばしたままの状態で。

 わたしは、心の中で少し安堵する。それこそ、先ほどのように半球状で動きが止まってしまえば、攻撃の瞬間に動き出した魔物が、万が一にも朱莉さんを貫きかねない。しかしこれなら。

 攻撃を繰り出した後なら、これまでの攻撃パターンからして、一度その棘を引っ込め、それから再び断面のような、平面をあかりさんに向け、それから棘を伸ばす。それまでの猶予がある。

 そして、先ほどの連撃を交わし続けるあかりさんの身体能力。

 きっと、魔法によるものなのだろうか。凡そ普通の、いち女子高生からは考えられないほどの運動神経を見せていたあかりさんなら、そんな猶予のある攻撃に対して、先ほど同様、手に持った無骨な刃物を突き刺して。それを引き抜いてから、逃げ様に交わすことなど、きっと造作もないだろう。

 そして、あかりさんも恐らく、そう思ったらしい。

 動きが止まった魔物に対して、にやりと歯を見せて攻撃的な笑みを浮かべると、手に力を籠め、回避を捨てたように走り出した。

 一転攻勢。

 それこそ、動きを止めている間であるなら、そもそも回避を考える必要がない。それこそ、最接近して、包丁を突き立てる姿勢にすら気を付けていれば、むしろ回避を考えた走り方より、魔物の元へとたどり着く速度こそ重視するべきだ。

 5秒。それが短いのか、それともかなり長いのか、わたしには分からないが、しかし限られた時間の中。

 1秒、いや、0,1秒だって無駄にできない状況では、一刻も早く攻撃態勢に移る事こそ、最も重要だ。

「っらあ!!」

 まるで人が変わったかのような掛け声を放ち、今度は右に両手で握った包丁を、大きく引いたあかりさん。そのまま、切っ先を再び、魔物の棘ではなく、元々の形状が変わっていない、半球状の頂点。そこへ近づける。

 そして接触する刹那。

 ひまりさんは、閉じていた指先ごと、腕を下ろした。

 恐らく、棘が射出されるのは、あくまで断面。そう推理したあかりさんは、だから魔物の、背後ともいえる場所へと移動したのだろう。

 が、それは早計だった。

 何も魔物が、断面からしか棘を伸ばせないと、言ったわけではない。

「――」

 正確に。

 瞬時に。

 あかりさんの頭部へと伸びた、もう一つの棘。それは明らかに、魔物の背後、つまり球体上の頂点から出て来ていて。

 ひまりさんが動きを止めることをやめた瞬間、まるでこの先のことを分かっていたかのように伸びたその棘は、次の瞬間、勢いよくあかりさんの頭部へと到達して。

 声もなく、身体がまるで、CGでも見ているかのように弾き飛ばされたあかりさんは、力の抜けた四肢をでたらめに動かしながら、距離にして5メートル。

 つまりわたしたちの元まで飛んできた。

 人がアスファルトの上に、見上げなければならないほどの高さから、速度も高度もそれなりの位置から、勢いよく落ちて来て、そのまま滑る音。それは本当に、筆舌に尽くしがたいとしか、言いようがない。

 皮膚がこすれ。骨が響き、肉が鈍く振れる音。思わず耳を塞いでしまいたくなるほどの音を響かせながら、わたしの足元に、あかりさんの肉体は転げ、そして止まる。

 あまつさえ、何の偶然か、わたしの右脚に、丁度あかりさんの、中空ででたらめな挙動を描いていた右手が、覆いかぶさり。

 死んだ。

 わたしはそう直感する。

 交通事故を、わたしはこれまでの人生で、一度も目撃したことはない。どころか、自動車教習所で免許を取るとなった時に見せられる映像。スタントマンの方が、車と接触事故を起こす映像すら、目を細めて見ていたくらいなので、本当にそういう映像も、現実の光景も、目にしたことはないのだが。

 それでも分かる。

 あの高さ。あの速さ。そしてあの位置からここまで飛ばされた人が、アスファルトにその身体を擦られ。そもそも、勢いよく伸びた棘は、正確にあかりさんの頭部を目掛けていた。

 だから、思った。

 死んだのだと。

 手足から血の気が引き、氷水にでも漬けられたかのような、血の気の引く感覚を憶える。

 ああ。また死んだ。

 殺された。

 魔物に。

 ただ、願いを叶えようとしただけの、いたいけな女の子が。

 年端もいかない、まだまだ人生の準備段階、そんな女の子が。

 わたしの目の前で。

 救えなかった。

 救いたかった。

 わたしはそのまま、目の前が徐々に徐々に、白んでいくのを感じた。どうやら、意識が遠のいているらしい。

「お姉ちゃんっ!!」

 絹を裂くような、ひまりさんの声も、最早水の中に沈んでいるように、ぼやけて聞こえない。それこそ、またぞろ奈野さんの時の様に、ひまりさんに魔法をかけて、わたしにも魔法をかけて、精神を安定でもさせれば、この状況は容易に打開できるのかもしれないが。

 無理だった。

 あれは目の前で、ひまりさんが急に倒れて、致命傷を負ったことに、変な冷静さを持てたからこそ起こせた行動であって、今はもう無理だ。二人目ともなると、無理だ。

 目の前で、半分の年の女の子が、二人も立て続けに死んでしまえば。

 正気なんて、保っていられないし、保っていたくもない。

 わたしはとうとう膝まで上り詰めてきた冷感に、思わず崩れ落ちる。冷たい地面に足を付け、へたり込む。

 きっと虚ろに開かれた目は、それでも残酷に、あかりさんだったものへと駆け寄るひまりさんを、この期に及んで追っていたが、それももう、見ているのが限界だった。

 見ていたくない。

 目の前で姉が殺され、その事実を受け止め切れず、その場に駆け寄る妹の姿なんて、進んで見ていたいと思えるほど、わたしは残忍な性格ではない。

 どうして。

 わたしは心の中で叫ぶ。ミネットでも、なのさんでも、あかりさんでもひまりさんでもない、誰か、この結末を作った人に向けて。

「お姉ちゃん、お姉ちゃんっ!!」

 必死で姉の亡骸を前に、声をかけ続けるひまりさんの姿は、とても痛ましくて。

 どうしてこんな、残忍な、結末に。なんてわたしは、とうとう瞼も失神に向けて重たくなっていくのを感じながら、そう思っていた。

 分かっている。

 わたしは死なない。だからきっと、次に目が覚めた時、一人取り残されたひまりさんが、あかりさんの様に戦い、そして結局は敗れ、二人とも食い散らかされるか、あるいは単に死に。魔物はわたしも殺し。そして消えていき。

 次に目が覚めた時は、また一人だ。

 不死の能力で死ねない、わたし一人。

 こんなことなら、願うんじゃなかった。

 死にたくないなんて。

 あの時、死ねばよかったんだ。わたしなんて。

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