第十二話:フラッシュバック

 これまで、社会人として、それなりに平和なこの日本で生きていた、わたし。勿論この歳にもなると、それなりに人生で、グロいものを見たことだって、一度や二度はある。むしろ、注射や採血の時なども、針が刺さっていく様子をまじまじと見てしまう程、耐性はあるつもりだった。

 だが、違った。

 それはあくまで、医療行為の一環だったり、ましてやグロいものをみた経験だって、およそ事故だった。少なくとも、人が獣にその肉を食いちぎられ、柔らかい皮膚が、肉が、骨が、全て真っ赤に、絵の具でもぶちまけたかのように赤々と、あんなふうになっているのを、わたしは見たことがない。

 その場に思わずしゃがみ込む。手からレジ袋が滑り落ち、瓶がゴトンと大きな音を立てて、床に転がった。しかし今はもう、それどころではない。

 目を閉じればあの光景が蘇る。

 耳を塞げば、骨を噛み砕く音、血を大量に含んだ肉が、ぶじゅぶじゅと音を立てて引きちぎれていく音が聞こえてくる。

 鼻には生臭さがまだ沁みついている。

 口には苦さと酸っぱさが込み上げてくる。

 わたしは目を大きく開き、そのまま玄関先で、暗がりの中、四つん這いになってえずく。背を丸め、何度も何度も、嘔気を憶える。競りあがる胃はもう、胃酸しか出てこないというのに、それでもまだ、吐き足りないらしい。胃の中の空気が、げぼと音を立てて吐き出される。気管と食道が痙攣し、喉や胸に激痛も走る。

 何が何だか分からなくなり、視界がぐるぐると回り始めた。だが、気を失えるほどでもない。少なくとも、わたしの意識はひたすら、激痛と吐き気で、覚醒させられている。

 それに。

 意識を失うなんて、とんでもない。わたしは、酸欠になりそうな程、荒い息を重ねながら、奈野さんのことを思い返す。

 勿論、奈野さんにせめてもの思いやりとして、痛覚と、恐怖心をマスキングした。しかし、本当にその程度しか、出来なかったのだろうか。

 どう考えても無理と分かってはいるが、しかしそれでも、なんとかならなかったのか。奈野さんを生かすために、わたしのこの魔力や、この回復力を、なんとか応用できなかったのか。それこそ、不死性を使って、どうにかこうにか、彼女を生きさせてあげることは、出来なかったのか。

 なんで彼女が死ななくてはならないんだろう。

 まだ、楽しいことも悲しいことも、これから山ほど経験する、高校生だというのに。

 あんなに優しい子だったのに。あくまで利己的な願いではなく、利他的、それも自分の両親が仲良くなることを祈り、そのために毎晩、命懸けで戦っていた彼女だったのに。

「……わたしのせい、なのかな」

 一通り吐き終え、何も出ない胃から、胃液すら出てこなくなったところで、わたしはなんとか身体を持ち上げる。いまだに吐き気は続いているが、それでも何とか、身体を起こせる程度には一度、落ちつけられた。正直、余りの苦しさに、それこそまた魔力で痛覚などを抑えつけたくなったが。

 しかし、ここで向き合っておかなくては。

 奈野さんが死んだ理由。その一端を、わたしも担っているということに。

 そうだ。この3か月もの間、奈野さんは一人で戦っていた。きっと、一人なら集中も出来たのだろう。ほかの何かを気にすることもなく、ただ戦闘だけに集中して、それだけを考えることが出来た。しかし、わたしが入ってきて。よりによって、こんな、自殺しようとしたわたしが入ってきて。

 奈野さんに気を遣わせて。

 そして彼女は死んだ。

 わたしとの会話に気を取られて。きっと、どう説明するのが分かりやすいか、それを考えていたのだろう。

 他ならぬ、奈野さん自身が言っていた。魔物は、一般人相手には直接的な攻撃に出ることがない。あくまで、魔物は、自分たちの魔力を搾取する魔法少女だけに、その攻撃対象を絞っていると。ならば、外をパトロールする時は、それこそあんな風に、奈野さんの顔の傷。それに言及することすら、良くないことだった。そんなことをすれば、それこそ奈野さんの集中が途切れてしまうのは、自明の理だ。

 そうではなく、それこそ話さないくらいの意気込みで、警戒しておくべきだった。なにせ魔物からしてみれば、一人でも嗅ぎつけて襲い掛かりたくなる魔法少女。それが二人も固まって、おまけに気を抜いている。そうなれば当然、襲ってくることくらい、少し考えれば、分かることだった。

 魔法少女の歴では、奈野さんの1パーセントにも満たない日数のわたしではあるが。

 これでも年齢では、奈野さんの二倍だ。少し思慮を深めれば、簡単に分かったことではないか。

 私は自己嫌悪に駆られて、震える手で瓶を手に取った。少なくとも、コンビニでどうして、普段買わないお酒、それもウィスキーの瓶なんてものを買ったのか、自分でもよく分からなかったが、しかし今ならわかる。

 わたしとしたことが。今年30歳だなんて、我ながらよくもまあ、自虐的に言えたものだ。

 キャップのラベルを剥がし、乱暴に蓋を取る。

 こんな、何も考えていないような、ちょっと考えたら分かるようなことも分からないような人間だから。

 だから奈野さんは死んだんだ。

 全部、わたしのせいだ。

 心の中でそう吐き捨てて、口に当てた瓶を、真っ逆さまに傾ける。

 喉に流れ込む、アルコール。わたしは吐き出したい気持ちを必死に抑え、目を固く瞑り、必死に喉を動かした。

 文字通り、酒に溺れそうになる。きっと、気管にも少なからず入ったのだろう。それから間もなく、わたしは瓶を無意識の降ろして、そのまま下を向いて。

 数度咳き込んでは、飲み下したウィスキーを、激しく嘔吐する。それを何度も繰り返した。

 喉が焼けている。血の味がする。

 下品な声を上げながら、そうして何度も何度も、えずき続けて。

 しかし苦しさが収まると、わたしはまた、その瓶を咥え、上を向く。

 きっと、こうしていると、いつかは死ねるとでも思ったのだろうか。正直、どうしてこんなことをしているのか、わたしは自分でも分からない。どうせ吐いてしまうなら、それほど酔いも回らないし、増してや、急性アルコール中毒など、夢のまた夢といえるほど、迂遠な自殺方法である。

 そもそも。

 呪いの様な願いによって、わたしは魔力の尽きない限り、死ねない身体だというのに。

 一体、どれくらいの間、そんな無意味としか言いようのないことを、続けていたのだろう。気が付くと、瓶は半分程が開いており、足元には、吐き出したウィスキーが水溜まりを作っていた。それが膝をついて座り込んでいるスカートや足を濡らし、不快感を憶える。

 ぜいぜいと息を切らし、なんとか呼吸を整えながら、わたしはようやくそこで諦めて、瓶を床に置いた。今更零れないように、キャップを丁寧に固く締める。

 目元は重たくなり、部屋中に漂う、アルコールの臭い。頭がくらくらとぼやけ、半開きになった口からは、よだれだかお酒だかわからないものが、糸を引いて太ももに垂れた。

 最後に一度、わたしは競りあがる胃に任せて、胃の中に残っていたウィスキーを床へ嘔吐すると、それっきり、記憶が途絶える。

 いったいそれから、どうやって、家に戻ってきたのか、憶えていない。しかしどうやらわたしは、そんな嘔吐物を部屋に撒き散らしたまま、流石に外へ出たわけではないらしい。それを片づけた記憶だけは、うろ覚えではあったが残っていて。

 はっとして我に返った時、呼気に漂うアルコールの香りを感じながら、わたしは覚束ない足取りで、玄関の扉、そのドアノブに外からしがみついていた。

 あまりに唐突過ぎる出来事に、一瞬、時間が巻き戻りでもしたのか、現実がバグでも起こしたのかと、酔っぱらった時特有の、訳の分からない思考を辿ってしまうが、どうやらそういうわけではなく。

 何のことはない。腕時計を見て考えるにどうやら、わたしは玄関先で散々お酒を無駄にした後、そのまま泣きながら奈野さんと待ち合わせをしていたコンビニまで歩いて向かい、そのゴミ箱を漁り、捨てた服を取って戻ってきただけらしい。

 服の袖に着いたケチャップやソース、パスタの残骸は、どうやら捨てられていたお弁当箱から付いたものらしい。そして、わたしは後生大事に抱えている服に目を落とす。

 いよいよ酔いが本格的に回ってきたのだろう。ぐらぐらと揺れ、焦点の定まらない視界の中、玄関の前で、それを改めて広げる。

 奈野さんの服が、そこにはあった。

 それからわたしは扉を開けて玄関に上がり、靴と服を脱ぎ散らかしながら部屋へと戻る。

 足元にあった瓶に躓いて、よろめきながら、壁伝いにそのままベッドへと向かった。

 どうせ家には、わたし一人だ。だから、汚れた服を脱いで、それから部屋着に着替える気力も出ず、そのままベッドの上へ転がるようにして上がる。

 足を曲げ、そこに正座する。そして目の前に、奈野さんの服を置いて、もう一度、綺麗に、丁寧に畳み直した。

 本当に幸いだったのは、奈野さんの服が一切汚れていないことだった。少し変なことをしていると思いながら、鼻を近づけてみたが、少なくともゴミの臭いが移っている、なんてこともない。

 勿論、あの血なまぐささも感じられない。だがそれが余計に、もの悲しい。

 とにかく、わたしはその服を丁寧に畳み終えると、それを正面に置いて、改めて向かい合う。

 そうだ。

 あの時、言い忘れていた、言えずにいた言葉を言わなくてはならない。奈野さんから最後の最期まで、情報を引き出そうとするよりも、何よりも。わたしのせいで死んでしまった奈野さんに、言わなくてはいけないことがあるじゃないか。

「……すみませんでした」

 手を付き、わたしは奈野さんの服に向かって頭を下げる。

 それで、どうやら本当に決壊したらしいわたしの涙腺は、今度こそとめどなく涙を溢れさせた。

「すみませんでした、すみませんでしたっ……わ、わたしのせいで、奈野さんが、死んでしまって……、わたしなんかより、ずっと、奈野さんの方が、立派で、頼もしくて、優しいし、お父さんとお母さんのことを、願うくらい、だから、その願いの方が、わたしなんかより、立派なのに!! ……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!! わたし、わた、し、あなたの代わりに、死んであげることもできない、代わりに、生きて欲し、い……死にたい……死にたいよぉ……」

 やっぱりわたしはあの時、死んでおくべきだったのだろうか。

 あの時、ちゃんとビルから飛び降りて、そのまま死んでおけば。

 わたしのせいで人が死ぬなんて、こんな最低な経験は、しないで済んだのだろうか。

 奈野さんだって、きっと死にたいわけじゃなかっただろうに。

 叶えたい願いが、会っただろうに。

 こんな、死なないだけの魔法なんかより、奈野さんを生き返らせる魔法が欲しいのに。

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