第八話:優しい子
家へ帰り、わたしは一度シャワーを浴びた。そしてそれから夕食を摂る。といっても、わたしは元から食が細く、更にカフェで抹茶のタピオカラテなんて、高カロリーなものまで飲んでしまっている。どうやら、特にあれがボリューミーだったのか、いつもの半分も夕食は喉を通らなかった。
いや。
気付かないようにしているだけで、こんなのは後付けの理由に過ぎない。
本当に食べられなかった理由は、そうではなくて。
ただ、怖いのだ。魔物と、これから命懸け、というのは不死であるわたしにとって、あくまで比喩表現ですらないが、それにしたって、一歩間違えれば激痛を伴う。そんな戦いが起こるかもしれない所へ、これから赴くのだ。怖く感じるのは、当たり前だろう。むしろ、わたしのように魔力が尽きない限りにおいて、死んでしまうことのない身体ではなく、あくまで魔法の力により、多少強化された程度の身体。そんなあまりにも頼りない肉体を持つ奈野さんが、どうして恐怖を感じさせずに、あの魔物達と戦えているのか。その方がわたしにとっては、どうにも理解できない。
食事の際も、そんなことを考えていたせいもあってか、割り箸を持つ手ががたがたと震えて止まらない。そんな怯えてしまっている自分を感じながら、わたしは水も満足に通らない喉へ、それでも半分足らずは、無理矢理に押し込んだ。
ここで食べて置かなかったが為に、この後のパトロールで、急遽魔物と戦うとなった時、お腹が空いて力が出ない、ではお話にならない。
しかし魔物相手にパトロールや、戦闘。そんな経験は全く無いため――当たり前だが――わたしは一体、何を持って行くべきなのか、分からない。何だろう、そもそも、カバンとか、変身の際に、そもそもどうなるのだろう。これが例えば漫画やアニメなら、何故か元々着ている服は、再び変身を解いた時には、元に戻っているものだが、その辺り、どうなっているのだろう。
奈野さんとの待ち合わせ場所は、いつも奈野さんがパトロールの始点としているらしい、公園だった。そう、丁度昨日、場所を移したあの公園である。そこに、わたしは少し悩んでから、一応財布だけ持って、車で向かう。そもそも、そのパトロールがどれくらいの時間をかけて行われるものなのか分からないが、もしも歩いている途中、喉が渇いたりしたら、飲み物も買いたいし。
そうして公園の近くにあるコンビニへ、わたしは車を停める。腕時計の時刻は、まだ少しの余裕を示していた。だが、果たして公園の中へ入ると、まだ15分は余裕があるというのに、彼女はすでに到着していたらしい。後姿ではあったが、彼女の洋服で判断できる。そして、当たり前と言えば当たり前、むしろ前回のあの格好こそおかしいのだが、今日の公園で見る彼女は、私服だったので、わたしは少し安心する。そしてやはり、カバンの類は、持っていない所を見ると、変身の際、洋服は魔法少女の服、あのフリフリドレスと換装されても、カバンは対象外なのだろうか?
奈野さんは、近づく私に気付くと、振り返ってベンチから腰を上げる。だがわたしはそこで、手を挙げて挨拶しようとした、その開かれた口すらそのまま、固まってしまう。
こちらへ向けられた、今日のカフェで見たのと同じ、屈託のない笑顔。しかし、その左目と左頬。そこに出来た、あまりにも痛々しい傷。わたしは思わず、急ぎ足で近寄った。
街灯の光があるとはいえ、夜の公園は薄暗く、見通しも悪い。だが、そんな中でも、明らかに彼女の顔に出来た傷は、それが一目で、余程の物であると見て取れる。実際、近寄って確認すると、左目は目の端がやや腫れ、赤黒く内出血の跡が見える。左頬骨のところもまた同様で、こちらは口の端が痛々しく切れていた。
「あっ、こんばんは、綾瀬さ――」
「それどころじゃないでしょっ、どうしたのよ、それ!」
ようやく言葉を発せられるようになった口で、わたしは彼女に詰め寄る。
「何があったの、大丈夫?! 誰かに、やられたの……?」
見れば見るほど痛々しい傷。それが、魔物にやられたような傷ではないことは、流石のわたしでも一目でわかる。この傷は、間違いなく。
人が人を殴った時に出来るような傷だった。
それも、大の大人が本気で、一度や二度ではない。何度も何度も、拳を振り上げなければ出来ないほどの。
そんな傷だ。
彼女はしかし、そうやって近寄るわたしに、今度は恥ずかしそうな笑みを浮かべた。その目尻からは、涙の筋が渇いて、なんてこともなく。どうやら本当に恥ずかしいらしい。
「あっ、えへへ、すみません……。お恥ずかしいところ、見せちゃいましたね」
「……恥ずかしいって、何を……」
わたしは思わず眉を顰めた。
「だから、誰にやられたの……? というか、大丈夫なの、痛くないの?」
いや、痛いに決まっている。それこそ、今でこそこの程度の腫れで済んでいるかもしれないが、これはこの先、普通なら明日の朝くらいに、腫れはもっと酷くなるだろう。しかし彼女は、そんなわたしの心配に対して、やや的外れな答えを返す。
「いやいや、これくらいの怪我なら、魔法ですぐ治せますよ? といっても、綾瀬さんほどのリジェネは持っていないので、まだ少し時間はかかっちゃいますけど……丁度さっきも、綾瀬さんが来るまでの間に、頑張って治そうとはしてたんです。……治らなかったんですけど」
そういって、自分の傷に恐る恐る、手を近づけると、そのままわたしから傷を隠すようにした。その時、触れた一瞬、顔を顰めたのを見る辺り、まだ痛むらしい。
「でも本当、恥ずかしい……お見苦しいところ、見せちゃいましたね」
一応、パトロールしながらリジェネかけておくので、すぐに治るとは思うんですが……。そういって笑う奈野さん。しかしわたしは、とてもではないが、はいそうですか、と言えるような人間ではなかった。
とにかく、続きは歩きながら話を訊くことにして、わたしたちはパトロールを開始する。
「で、まだ答えて貰ってないんだけど」
有耶無耶にされないよう、わたしは夜の街を歩く、隣の奈野さんに視線をやる。
「その傷。……何があったの」
これでも、わたしは人並みに誰かを心配できるだけの優しさは持ち合わせているつもりだ。それこそ、奈野さんのような、礼儀正しく、恩人でもある人がこうして、怪我をしているともなれば、猶更。
とてもではないが、放っては置けない。
「……言わないと、駄目ですかね」
明らかに嫌そうな表情を浮かべる奈野さん。わたしは迷わず、首を縦に振った。
「だって、そういうってことは、少なくとも魔物相手に負わされたような怪我、って訳でもないんでしょ?」
「……まあ、そうですね。それこそ、魔物相手だったら、もっと酷いことになってるかもしれないです」
今だって十分酷い怪我を負っているのだが、わたしは口を閉じる。そして、次の言葉を待った。すると、奈野さんはそこでようやく、観念したのだろう。何度かそれでも迷うように、切り出し方を選ぶように口を開いては閉じてを繰り返し、ようやくぽつりぽつりと喋り始めてくれた。
「……お父さんと、お母さんが、仲良くなります様に。それが、わたしの願いだって、話したじゃないですか」
奈野さんは、真っすぐ前を見据えながら言う。わたしは首を縦に振った。
「その願いは、確かに叶ったんです。実際、三か月前、わたしがミネットに出会って、契約をした日から、お父さんとお母さんは、ほとんど喧嘩をすることがなくなりました。たまに喧嘩をすることはあっても、それはわたしが、願いに対して魔力を供給出来なかった時だけで、それ以外の時で、お父さんとお母さんが喧嘩をすることは、本当に無くなったんです」
聞けば、奈野さんが生まれてから、三か月前まで、家は常に、夫婦喧嘩が絶えない家庭だったらしい。そこに大した原因があるわけでもない。ただ単に、夫婦の仲が元から、あまり良くないというだけだったと、奈野さんは語る。
ただ仲が悪い。しかしこれほど、改善のしようがない原因も無かった。
「お父さんとお母さんは、きっと、お互いのことがあんまり好きじゃないんだな。なんて、わたしは子供の頃から、ずっと思ってました。まあ、それでもわたしのことは二人とも、それなりに考えてくれていて、別に昔から、こんな風にされた訳ではないですよ? むしろ、どちらもわたしがいるから、離婚せずにいたんだな、なんて思うくらいです」
子供がいるから別れられない。それはよく聞く家庭事情の一環だった。
そしてわたしは、聞き逃せない一言を耳にして、話を遮った。
「……今、昔からこうされてた訳じゃない、って言ったわね。……つまり」
わたしが視線を再び奈野さんに向けると、彼女は気不味そうに目を反らす。そして、観念したように口を開く。
「……はい、この怪我は、魔物なんかじゃないです」
お父さんに、されたんです。そういって、自嘲的な笑みを浮かべた。
「別に、毎日、こういうことをされてるわけじゃないですよ。それにそもそも、悪いのはわたしです。きっと、元々仲の悪いお父さんとお母さんが、わたしのせいで仲良くなった、仲良くせざるを得なくなったから、そのしわ寄せなのかな、なんてわたしは思ってるんです」
殴られた理由について、奈野さんは、それから語る。どうやら最近、こうして毎日、パトロールの為に夜な夜な出歩いていることが、お父さんの怒りを買ったのだと。勿論、奈野さん自身、勉強自体は得意ではないが、それでも頑張って、授業に支障を来さないように頑張っている。しかしそれでも、日中襲い来る眠気に関しては、どうしようもないらしい。学校でも、頻繁にあくびをしてしまったり、ついつい居眠りをしてしまいそうになって、こっくりこっくりしてしまったり。そして、それを心配した学校の先生が今日、家に電話をかけてきたのだという。
勿論、だからといって先生を責めることは出来ないだろう。本来、先生というのは、そうやって生徒の些細な変化であったり、ちょっとした機微に気付くのも仕事の一環であるし、それを家族に伝えるのもまた、同じく。
「担任の秋月先生――って先生がいるんですけど、心配されちゃって。でも、それを聴いたお父さん、それで怒っちゃって……。そこでこれまでだったら、わたしに怒るんじゃなくて、お母さんと喧嘩するのが、これまでの光景だったんですけど、最近は違うんです」
これまでなら、お前の教育方針が悪いんだ、とか、ちゃんと寝られるように家庭環境を整えるのは、お前の仕事だろう。とか。そういう、理不尽なことを、娘である奈野さんには言わない分、妻である奈野さんのお母さんに言っていたお父さん。しかし、そのお母さんとの喧嘩は出来ない。そうなると、その矛先は直接、奈野さんへ向くらしい。
「勿論、お父さんの言ってることが、何も間違っていないのはわたしも、良く分かってます。折角、高い学費を払ってもらって、学校へ行かせてもらってるわけですから。そんな状態で、居眠りなんてしてたら、そりゃあ怒られて当然だなって、わたしも思います。だから、せめてわたし、お父さんの言われることを、黙って聞いてたんです。けど……」
魔法のしわ寄せ。なのだろうか。奈野さんは、それから何度も、お父さんに殴られたという。
だからこの傷は。
魔物でも、不審者でも、何でもなくて。
他ならぬ肉親。父親によってつけられたものだと語った。
でも。
「でもいいんです」
話を締めくくった後、奈野さんは本当にそう思っているような、少なくとも嘘や欺瞞ではない口調で、わたしの方を見て微笑む。
「別にわたしのケガなんて、それこそ、半日もすれば治まるようなものですから。なんてったって、魔法の力があれば、別にこれくらい、どうってことないですし。……わたしにとって、一番嫌だなって思うのは、殴られることなんかじゃないんです」
お父さんとお母さんが、喧嘩をしている。それを見ている方が、よっぽど辛いから。だからこれで、いいんだって思うんですよ。
夜の街に、そんな奈野さんの、優しい声が吸い込まれていく。
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