第三話:原初の願い
そんな声が聞こえてきた頃には、わたしの人差し指は、その糸へ中程まで、触れていた。
中程。
つまり、人差し指の第一関節、その真ん中あたりまで、指がするりと、まるで触れていないと錯覚してしまうほど、滑らかに切れ、入ってしまったのだ。
その余りに滑らかな切れ味に、わたしはそこで、そこまで切れたところでようやく、指先に走る激痛に驚き、手を慌てて引く。その時には幸い、指が更に切れ、というか切り落とされることはなかったのだが。いや、それでいうなら、人差し指が真ん中から、指の腹側と、指の爪側とで、ぱっくりと裂けてしまった時点で、幸いなどではない。
慌ててその指を、左手で握り締め、わたしはその糸から数歩、後ずさりをする。そこへ、未だ右手を伸ばした状態で、奈野さんは、そこから動かず、しかしこちらをとても心配そうに見つめていた。
それこそ、先ほどの忠告も、奈野さんの声だった。
「っ……本当なら、魔物を払う様子も、見せてあげたかったんだけど……それどころじゃ、ないですもんね」
伸ばした右腕。それ以外で私の方へ向き直った彼女は、少し惜しそうにしてから、その伸ばした手のひら。それをぐっと握り込む。すると、一瞬にして、先ほどから、ボロボロの黒板を、フォークで引っ掻いたような、とても不快な音を立てていた人形。その五体が、バラバラに砕け散る。そして、瓦礫の落ちるような、何とも言えない音を最後に、いよいよ動きが止まったらしい。
今や、地面に転がるその残骸は、ぴくりとも動かない。まるで、初めから普通の人形としてそこにあったかのような様子で、こうなってしまえば不思議と、先ほどまでのおどろおどろしい感情は、一切憶えなかった。
そして、それを追うようにして、奈野さんの五指から伸びていた糸も、再び手を開くと同時に、ぱらぱらと細切れになっていく。それは夜風に吹かれ、一瞬弛み、空中に待ったかと思うと、そのまますぐに、見えなくなっていく。
そんな幻想的、としか形容のできない光景は、正しく魔法としかいうほかになく。あるいは、とても良くできた手品のようだった。
「綾瀬さんっ!」
と。
痛みに未だ、呻き声を押し殺しているわたしが言うのもなんだが、あまり夜中に発していいような声量ではないほどの大声をあげて、こちらへ駆け寄ってきた奈野さん。それを追うように、ミネットも、わたしの足元へと歩み寄る。だが、その足取りは、依然としてゆったりで、少なくとも奈野さんほど、わたしを心配しているような感じはしない。
むしろ、なんだ、その程度か。とでも言いたげに見えるくらいだ。
「ごっ、ごめんなさい、わたしのせいで……痛かったですよね……」
流石のわたしでも、こうして指がぱっくりと裂けた経験は無い。それに、当然、とても痛い。どのくらいの痛みか、説明することすらできないほど、とても痛い。しかし、それでもわたしは、この期に及んで、この子に格好つけようとでもしているのだろうか。本当は泣き出しそうな程の痛みを、背中に汗を滲ませながら、必死で表情を作って、押し殺す。
「い、いやあ、大丈夫だよ」
言いながら、わたしは目線を下に落とす。当然、握り込んだ指から、血がぼとぼとと、中途半端に開いた蛇口から水が流れるように、とめどなく、溢れ続けていた。
鼻を突く、血の匂い。鉄臭いそんな匂いが、余計に痛みを強く感じさせ。
なかった。
「……あれ?」
汗が引いていくのを感じる。
何せ、最早痛みは、微塵も感じていない。それに気付く頃には、その血も、何故か止まっていて。
全く痛くない指とは裏腹に、早まる呼吸を感じながら、わたしは恐る恐る手を開いて。
そこにあった指は、血にまみれてはいたが、すでに元通り、まるで何事もなかったかのように、曲げても伸ばしても、ただの何でもない、わたしの人差し指だった。
「う、うそ、確かに、切れたはずなのに……」
今度こそ、動揺の表情を隠せずに、わたしは思わず前へしゃがみ込み、申し訳なさそうな顔で、こちらを見つめている奈野さんに向き直る。
「そりゃあ、そうだよ」
ミネットの、そんな暢気な声が、隣から聴こえて、わたしは視線を下へと向けた。
そこに座ったミネットは、こちらを見上げている。そして、相変わらず、暢気な口調で喋る。
「何せ、さっきも言った通り、君は不死の魔法少女になったんだから」
それくらいの怪我、どうってことはないはずだ。そういって、猫らしく顔を洗う仕草を取った。
原初の願い。
人間なら誰しも、常に、本能のレベルで抱いている願い。例えば億万長者になりたいという願いは、一般人からしてみれば、ありふれた願いで、誰しもが抱くものと思うかもしれない。だが、それこそ実際に億万長者の人が、今更それを望まないように、願いというのは、人それぞれの価値観に基づいて、願う願わないが分かれている。そういう願いは、ミネットのようなものからすると、叶えやすいらしい。
だが。
わたしが願ったような、死にたくない。という願い。これは人間なら誰しも、平等に訪れる、死という存在の否定。こういった、本当に誰しもが、掛け値なく、願ってしまう願い。それを、原初の願いと、そういうらしい。
「願いってのはね」
今や違和感すら感じないほど、完全に治癒してしまったわたしの人差し指を、未だ矯めつ眇めつ眺めていたわたしは、そんなミネットの言葉に顔を上げる。
「それを願う母数が多ければ多い程、そして、同時に願う人が多ければ多い程、その願いを叶えるために必要な、本人の素質もまた、多く求められるのさ。だから普通、こんな死にたくない、なんていう願いは、そうそう叶うものじゃないんだ」
言われてわたしは思い返す。そういえば、この願いが叶ったのは、君が初めて。そんなことを、ビルから落ちた後、目を覚ましたわたしを見て、そんなことを言っていたっけか。
「でも……」
わたしはそこで、あまりにも不思議に思っていたことを伝える。
「じゃあ、わたしには、魔法少女の素質が、あったってことなの?」
というかそもそも、魔法少女になった、そんな自覚すらしていないが。だが、こうして願いが聞き届けられ、現に魔法の力か何なのか、傷が少しすればこうして治癒してしまったところを思うに、そういうことなのだろう。
そう思って聞いてみたのだが、しかしミネットは、わたしの予想していたような反応は返してくれない。ただ、首を不思議そうに傾げただけだった。
「んー、それがぼくにも、良く分からないんだよね。そもそもの話として、ぼくたちが契約を結ぶ対象ってのは、君たち人間でいうところの中高生、それくらいの女の子限定だから。……だから、こうして契約が実際に成立したこと、それ自体がイレギュラーといっていい」
あくまで魔法、少女だからね。と、余計な一言を付け加えるミネット。
こいつ、いつか覚えてろよ。
去勢するぞこら。
「……ほんと、なんでなんだろうね」
素質があって、適正年齢を超えて、それでも契約が出来て。あまつさえ、原初の願いを叶えてしまうなんて。不思議そうにそういって、ミネットは、落ち着きなく、ベンチから軽く飛び降りた。
それからわたしは、平和を取り戻した深夜の公園で、これからのことについて、二人――一人と一匹と、話し合った。
とはいえ、本当にわたしはこの魔法少女、と呼ばれる存在について、無知も同然。折角、罠を張ってまで、奈野さんが捕まえてくれた魔物も、実物を前にして色々と教えてもらうより先に、止むを得ず壊してしまったから、実物を見ながらどうこう、とはいかない。
ということで。
奈野さんに了承を得て、わたしはいろいろなことを、理解できる範囲で、教えてもらった。
だがしかし、一つ誤算があるとすれば、あの戦いっぷりからして、てっきりベテランだと思っていた、奈野さん。しかし彼女も、あれほど強い魔法を使えていながら、契約よりわずか、まだ3ヶ月だということ。それゆえ、ミネットの注釈や訂正も加えられながら、色々と分からないことを聞いてみたのだった。
「まず、一番気になってることから、なんだけど。……その、なんでわたし、さっきあの気持ち悪い、人形だかなんだか分からないものに襲われたの?」
言ってわたしは、先刻、バラバラになって地面に落ちた、人形の残骸。それが散らばっていた場所を指差す。
とはいえ、今はもう、それはどこにもない。これもまた不思議な話なのだが、それこそ奈野さんが悪魔? と呼ばれるそれを退治した後、それに使っていた糸が、瞬く間に千切れ、きらきらと光りながら雲散霧消したように、その悪魔の残骸も、それからしばらくして、糸程一度に、というわけではないが、ゆっくりと、地面に混ざるようにして、さらさらと、砂の様な細かい粒子になって、消えて行った。
「ん、そういえば、その説明はしていなかったですね」
ハッとした様子で、奈野さんは申し訳なさそうに眉を下げる。
「まず、狙われる理由から説明していきたいと思うんですけど、そもそもわたしたち魔法少女は、当たり前ですけど、普通の人間とは違うわけじゃないですか」
そりゃそうだ。普通の人間が、全員こんな能力を秘めているわけがない。それを使えるのが、魔法少女なのだ。知らないけれど。
「いや、その認識で大丈夫です。で、さっき、魔力は何もしていなくても、徐々に減っていく、って話、したじゃないですか。その、減っていく魔力って、どうやらわたしたち、魔法少女の体内から、体外へ、蒸発するみたいにして、漏れ出てるから起こる現象、らしいんですよね」
その魔力に釣られて、どうしても魔物が、集まってくるみたいです。と、奈野さん。それに付け加えるように、今度は再び、その膝へ飛び乗ったミネットが喋り出す。
「その中でも特に、なりたての魔法少女ってのは、どうも新しく与えられた魔力の、揮発していく量が多いみたいでね。さっきの魔物は、それを嗅ぎつけて、君に襲い掛かってきた」
加えて。
「あの魔物を、さっきから君は随分と気味悪がってるみたいだけれど……。そもそも、君が自殺を考えて、ビルに入った時から、飛び降りて一度死ぬまでの間、ずっと君の周りに、あれが大量にへばり付いていたんだよ。気付かなかったのかい?」
そんな、すぐには理解できないことを、ミネットは口にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます