第5章 『憧れの人』

第1話 出逢い


 死にたいと思っていた。


 それは今でこそ、思春期特有の感情だったように思う。

 けれど、その時は本当に、本気で。消えてなくなりたいと思っていた。

 でも、それはもう、過去だから。

 あの時のことを懐かしみ、慈しめる。思い出したくないような記憶にならなかったのは、その仄暗い記憶の中に、確かな光があったから。






「そんなところにいると、危ないよ」


 線路の上に寝そべり、空を眺めていた。

 不意にかかったその声に、視線だけでその主を確認する。

 長く癖のある髪。髪も肌も色素が薄いのか、逆光に光って見えた。表情は影になってよくわからない。それでも背格好から同い年くらいに見える。その女は、平日の昼間にも関わらず、制服を着ていなかった。不良には見えない。


「……だから?」

「こっちにおいでよ。話をしよう?」

「……俺、別にアンタと話したいようなこと無いし」

「死にたいの?」


 不思議とその女の問い掛けは、静かな水面に生じた波紋のように心を脈打った。静か過ぎる声が、しっかりと澄んでいたからかもしれない。妙に、意志の籠る声だ。


「アンタには関係ない」

「声をかけた時点で、きっともう、関係無くは無くなっちゃったから。取り敢えず、今日死ぬのはやめてくれない?」


 空に戻していた視線をまた、その女へと向ける。女は眉毛を下げて、困り顔をしながら笑っていた。子供をあやす親のような顔だ。

……嫌いだ。

 そう、思った。まぁ、この世に好きな人間なんて一人も居ないけど。


「好奇心? 偽善者? それとも、マウント取ってるの?」

「ひねくれてるってことはよくわかったよ。取り敢えず、危ないから、こっちにおいで」

「アンタには関係ない」

「だーかーらぁー!」


 怒った顔をしたその女は、ツカツカと線路に入り込んで来たかと思うと、同じようにそこに寝そべった。

「………何やってんの……?」拍子抜けて、つい、訊いてしまった。「いやまぁ」なんて、女は笑う。


「実はちょっと、やってみたかったんだよね。線路に侵入するのも、寝そべってみるのも」

「……」

「このまま、電車が来たらさ。ローカルのニュース番組に取り上げられてさ、私達、恋人が心中したなんて世間からは思われて、そんな憶測が一人歩きするんだろうね」


 すぐ至近距離にあった顔が、こちらを向いて微笑む。死とはまるで真逆のところにあるような顔だ。そんな顔で、その女が言う。


「……馬鹿じゃねぇの」


 興が冷めて、起き上がる。線路から出ていく俺に、「やめてくれるんだ?」とかけて来た声は、特に挑発するような色を含んでなかった。


「アンタの為じゃないよ。死ぬつもりもないくせに、介入してくんなよ。お節介。偽善者。一番嫌いな人種」

「初対面なのに嫌われ過ぎてない? 私」


 少しも気分を害した風に見えない笑顔を浮かべて、その女は俺の後を着いてきた。

 どえらいドMなのかも。

 俺は思いっきり眉毛を寄せて不快感を丸出しに「着いて来るな」とはっきりと拒絶を示した。


「コンビニに行こうと思ってたんだよ。そしたら、君が居たの。元々、目的地はこっち」

「…………チッ」

「えっ? あっ?! 今、舌打ちしたの?!」


 だからなんだって言うのか。女は大袈裟に傷付いた顔をした。「演技臭いんだよ、アンタの顔」指摘してやると、女は目を丸めて、やがてクスクスと笑い始めた。ーーー頭大丈夫かよ、コイツ。


「ねぇ、お昼食べた? 良かったら、一緒に食べない? 出会いの記念に、奢るけど?」

「なんでアンタと昼食わなきゃいけないんだよ? なんの記念? 頭沸いてるのかよ。さっさとあっち行けよ」


 丁字路を真っ直ぐ、女は着いてきた。ここら辺の地理にはあまり詳しくはないが、確かコンビニはそこを左に曲がったはずだ。


「ファミマじゃなくて、LAWSONに行きたいんだよ。だから、道はこっち」

「はぁ? どうでもい」


 どうでもいいんですけど、と言いかけて、ぐぅっとお腹が鳴った。

 ピタリと二人で足を止め、しん、と静寂が訪れる。


「………っくく、」

「………笑うなよ……」

「腹、減ってんじゃん。食べよう?」


 にまっと笑われる。先程までとは違う、悪戯っこみたいな、ガキみたいな笑い方だ。「腹」と言う言い方にも違和感しか感じない。よくもまあ、そんなコロコロと表情を変えられる。本当に、同じ人間なのか?疑ってしまう。


「アンタと飯を食うのはヤダ」

「なんで?」

「胸糞悪いから」

「そんなに? 何か、気に触ることした?」

「第一印象から、全部だよ。ほっといてくれない?」

「ーーーとか、なんとか言ってる間に、コンビニに着きそうです~! まぁまぁ、じゃあ、一緒に食べなくてもいいからさ。取り敢えず、出会いの記念に、何か奢らせてよ? 損しないでしょ?」


 損は無い、と言う言葉に確かになと思ってしまう。結局、承諾してしまった。話してる間に目的のコンビニの看板が見えてきたせいもある。此処まで来たら、もう、どうにでもなれ。そう思ったし、もう昼だと言うことを意識したら腹減ってきた。ーーーこの女のせいだ。くそ高いもの奢らせたい。

 嫌がらせのように、あれもこれもとカゴに入れた。カツ丼、パスタ、おにぎり、惣菜、ペットボトル飲料、シュークリーム。

 ぴったりとくっつくように歩いていた女は、流石に目を丸めた。


「食うじゃん!」

「男ならこの量、普通だけど? 何? 奢るって嘘だった?」

「いーえ! 二言は無いよ! ふふ、嬉しくて」


 予想に反して、その女は本当に嬉しそうな顔をしてにこにこと笑った。何が嬉しいのか。気色悪い。

 女は同じカゴにシュークリームを一つ追加した。どうやら、その女のお昼ご飯らしい。……なんだよ、やっぱ、金無いんじゃん。

 カゴの中から乱暴にカツ丼とパスタを取り出した。


「え? どうしたの?」

「こんなに食えるわけ無いじゃん。馬鹿じゃね」

「そうなの?」


 きょとんと目を丸める女に、「あほくさ」と心の中で悪態付いてカツ丼とパスタを棚に戻す。「本当にこれだけでいいの?」と再度確認してくる女に、手を振るジェスチャーで「さっさとレジに行け」と合図した。

 コンビニを出ると、「はい、これ」と、コンビニの袋ごと渡される。自分のシュークリームにはシールを貼って貰っていた。


「……」


 お礼を言うべきだったのかもしれない。

 けれど俺は、引ったくるように袋を奪い取り、目の前の横断歩道を渡る。


「あ、待って!」


 信号が点滅していたが、女は赤に変わるギリギリで走って着いてきた。


「何?」

「良かったら、また会えないかな……?」

「はぁ? なんで?」


 露骨に怪訝な顔をしてみせたが、やはり、女は少しも怯まずに笑った。


「線路で空を見ている人に初めて会ったから。もう少し、君の話を聞いてみたくなった。……じゃ、ダメ?」

「……」


 女が首を傾げると、さらり、と髪の毛がそのか細い肩を撫でて落ちた。その上目遣いは、わざとなのだろうか。媚びてくる人間は好きになれない。


「君の感性に興味があるんだ」


 カンセイ?

 ……ああ、「感性」か。

 なんだそりゃ。それに俺は空を見ようと思って線路に寝そべっていたわけではない。知っているくせに。


「……なんで、死にたいと思ったの?」


 踏み込み過ぎだ。

 心のパーソナルスペースどころか、身体的なそれすら境界線が見えないのか、その女の豊満な胸が今にも俺の腕にぶつかりそうだった。

 結局、並んで歩く。「着いてくるな」「話が終わるまで」ーーーそんなやり取りを、もう何度もした。溜息を吐く。変なのに捕まってしまった……。今日は厄日だ。

 暦の上では夏らしいが、夏らしさを感じさせない気候でさえも鬱陶しく感じる。吹く風が肌を撫でるのですら、煩わしい。その、嫌みったらしく青い空でさえ。憎らしい。


「アンタに関係無いだろ。早くどっか行けよ。マジで。うざい」


 女を家に帰すつもりで、ぐるりと大回りをして元来た道に出た。


「……死ぬのは痛いよ。消えたいって言うのは、わかる気がする」

「そういうの、やめてくれない?」

「『そういうの』?」

「わかる、とか、簡単に言うの」


 実際。

 同い年くらいのその女が、平日に学校にも行かずに、健康体でうろちょろしていて。同属と思われたのかもしれない。女も、死にたいとか消えたいとか思っている部類の人間なのかもしれないーーーそうは見えない。ちょっとセンチメンタルに、そう思ってるのと、俺のこれを一緒にされては困る。

 線路の横を沿って歩く。俺の早歩きに、女は小走りに着いてくる。まるで、しつこい報道陣から逃げている犯罪者のような気分になる。


「だって、」


 女がまた不愉快なことを紡ぎかけた。


「煩い。しつこい。不愉快。黙れ。帰れ。関わるな」


 真っ直ぐ前だけを見て言い放つ。視界の端で女が、開いていた口を閉じたのがわかった。それなのに、屈強なメンタルを持っているのか疎いのか。女は直ぐにまた、たった今閉じたばかりの口を開いた。

 ひらりと俺の前に躍り出て、俺の顔面の、直ぐ前にまで顔を持ってくる。


「私が! 君とこれからも話をしたいと思ったの!」

「………」

「『友達』になれない? 私達」


 顔に似合わず、強引だ。


「………なれません」


 女を避けるように迂回して進む。「あっ、待ってよ!」女は慌てて着いてきた。


「私ね、ここら辺に住んでて。お昼時はうろちょろしてるんだ。良かったら、また会いに来てよ」

「………」

「線路の反対側の道に、土手があるのは知ってる? なかなか、のんびりしていて過ごしやすくてオススメ」

「………」


 その後の会話には、一切反応しなかった。けれど彼女は、出会ったその場所まで一人で色々と喋っていた。






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