第4話
二人の打ち合わせ場所はリサーチも兼ねて都内のあちこちのカフェで行われていた。いつの間にか季節は吐き出した息が白く曇るくらいまでに歩みを進めており、今回の打ち合わせ場所に決めたカフェに向かう七海もマフラーを忘れたことに後悔の念を覚えていた。
今日のカフェはシンプルな内装で、2階はギャラリーも兼ねており、店内の壁にもアーティストの作品が展示してある。七海はこういったコンセプトも悪くないかもと思いながら、一足先にコートを脱いで店内で彩夏を待っていた。
珍しく待ち合わせ時間に遅れて到着した彩夏の表情は冴えなかった。不思議に思いながらも七海は準備してきた資料を取りだして話を始めようとするが、それを彩夏が遮って話を始めた。
「ねえ、やっぱりやめにしない」
「……は?」
彩夏が何を言っているのか、七海にはすぐには理解できなかった。それがこの計画を指していることに思い至って取り出した資料をいったん片付けると彩夏をまっすぐ見つめて尋ねる。
「……何があったの」
なにか理由があることは七海にも分かった。まだ短い付き合いではあるけれど、彩夏が気軽にそういうことを言う人間ではないことは七海も理解していた。彩夏は唇を一度ぎゅっと引き結んで俯いた後、覗き込むように七海を見ながら話しだす。
「結婚を前提に付き合ってくれって言われたの」
聞いた瞬間、流石に七海も動きが固まる。想像以上にプライベートな問題だった。
彩夏の反応を見ながらおそるおそる尋ねる。
「それってプロポーズじゃん。いったい誰に言われたの?」
彩夏にそんな相手がいるとは全く聞いていなかった。
「私の今のメインの仕事を担当してくれてる編集者の人なんだけど、でも奥さんがいる人なんだよね……」
「はあ!?」
思わず大きな声を上げてしまった七海に対して彩夏が慌てて静かに、と人差し指を自分の口に当てる。気持ちを落ち着かせるように七海は目の前にあるカモミールティーを一口含んだ。鼻に抜けるハーブの香りと共に小さく息をつく。
「……それで、彩夏はその人のことどう思っているのよ」
「いい人だとは思うけど、あくまで仕事上の付き合いで、そういう恋愛感情はないかな」
「じゃあ断るしかないじゃん」
「付き合ってくれたら、僕からもっと仕事を分けてあげられるよって言われてて」
「は?関係ないでしょそれ」
「うん。それは私もそう言ったの。そしたら『逆もしかりだけどね』って言われちゃって……」
七海は無意識に沸き立つ感情で震えそうになる手を押さえていた。
「それって脅迫みたいなもんなんじゃないの?彩夏がカフェやりたいって思ってるのもその人知ってるの」
「直接は話してないけど……たぶん人づてで聞いてるんじゃないかと思う。でも、正直に言ってそこからの仕事が私のライフラインなんだよね。
そこから切られるとたぶん収入激減すると思う」
「……それで、結局彩夏はどうしたいの」
「そりゃ七海と一緒にカフェをやりたいよ。やりたいけど、けど……」
彩夏はこらえきれずにテーブルの上で手をぎゅっと握りしめてぽろぽろと涙をこぼしていた。その姿を見つめて、奥歯を強く噛みしめながら七海は決意したように言う。
「……わかった。その人の連絡先教えて。私が話をつけるから」
「七海が?無茶だよ」
バン、と机をたたいて七海が叫ぶ。大きく揺らされたカップからカモミールティーが溢れ出していた。
「無茶なのは分かってるよ!でもこれはもう彩夏一人の話じゃないの。私たちは同盟なんでしょ!?これは私の問題でもあるの!」
他の客や店員が何事かと振り向くのも構わずに、七海は彩夏の眼を見つめて訴える。七海はテーブル越しに手を伸ばして震える彩夏の手を握りしめる。
「一緒に戦おうよ。私たちは夏の同盟なんだよ」
しっかりと重ねられた七海の手の上には、頬を伝い落ちる彩夏の涙が零れ落ちた。 窓の外にはまるでそれにつられたようにはらはらと今年最初の雪がちらつき始めていた。
事態は当然のことながら奇麗には収まらなかった。
直接相手とやりとりしても無駄だと判断した二人は、相手の上司である編集長への直談判を選択した。これを卑怯というならば、相手のやり口の方が遥かに卑怯だと思えた。
相手からの話はどうにか直接彩夏が断り、事態を伝えられた編集長は幸いにも良識ある人間で、その男を担当から外すことを承諾してくれた。トラブルを起こしたとみなされた男はその後すぐに別部署へと異動になった。しかし結局揉め事を嫌った次の編集担当者によって彩夏はその仕事からは外されることになった。男はクビにはなっておらず、彩夏だけが収入を絶たれたことになる。痛み分けにしては彩夏のダメージが大きい結果となっていた。
当面の収入を失った彩夏は新しい仕事を探さなければならず、その間は七海が主に開業準備を進めることになった。普段の仕事に加えて食品衛生管理者の資格取得や自治体への申請手続き、業者の手配などやるべきことは山のようにある。
元々それらの内容はどちらかというと七海の分担となっていたが、それに加えて苦手な交渉事も七海の負担となっていた。相手が男性だと無意識に気後れしてしまいそうになる自分をどうにか奮い立たせて交渉事に望むものの、どうしても彩夏のようにスムーズに事を進められておらず、そんな自分に対して七海の苛立ちは募るばかりだった。
一方で彩夏の次の仕事はなかなか決まらなかった。
プライベートの評判は最悪だったが、編集者としてはいたく有能な例の男は、どうやらあちこちで彩夏の悪評を言い立てているようだった。最初は乗り気な相手も、いざ仕事の話になるとどうにも歯切れが悪くなることが多く、一度彩夏が破談覚悟で相手を問い詰めたところ、男の手回しが発覚した。これまで必死になって積み上げてきたキャリアが、たった一人の悪意のせいで脆くも崩れ欠けていることを実感して、彩夏のプライドはすっかりずたずたになっていた。
それでも二人とも歯を食いしばって目の前の壁に立ち向かっていた。
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