第3話
意気揚々と東京へ戻った二人を待ち受けていたのは、容赦のない灼熱に包まれた街と冷たい現実だった。
じりじりとアスファルトの焼ける臭いがする。ゆらゆらと視界が揺らめいているのは陽炎なのか、
夏の約束から既に二週間。七海は夢遊病者のようにふらふらとした足取りで都心のオフィス街を歩いていた。今日の仕事は記事執筆用のインタビューだったのだが、インタビュイーが曲者だった。
一代で地元の和菓子屋を行列の絶えない洋菓子店へとリニューアルした男性だったのだが、七海の質問を完全に無視してひたすら自分語りを続け、話があっちにいったりこっちにいったりする。七海がなんとか整理しようとして話を誘導すると途端に怒り出すような人物だった。これはあとで原稿もびっしり直しが来るかも……。そもそもこれから何度も録音を聞きなおさないといけないと思うと文字起こしの前から憂鬱だった。
七海の憂鬱はこれだけではない。通りがかった大型書店に入り、起業・副業コーナーを覗いてみる。ずらりとカフェ起業に関した書籍が並んでいた。
表紙には、「今日からあなたも人気カフェオーナー!」だの、「自分らしく素敵なお店で自由に働こう!」だのといった美辞麗句が躍っている。しかし手元のスマホでネットの体験談を漁ってみれば「飲食は覚悟せよ」のオンパレード。あくまでネット情報であり本当かどうかは分からないものの、あの日のわくわくもどこへやら、既に心が折れかけている七海がいた。
一方で彩夏の方は情熱も衰えることなく、メッセージアプリでこまめに進捗が送られてくる。行動派の彩夏は今週末には島の不動産を回る予定にしているらしい。
しかしここにきて二人のスタンスの違いが明らかになってきていた。
イメージ優先で話を進めようとする彩夏と、予算や事業計画といった実務路線で話を進めようとする七海で意見が分かれていた。どちらも間違ってはいないのだが、妙にお互い譲らないところがあり、週一の作戦会議は遅々として進まなかった。先走って一人で場所まで決めようとしている彩夏に、七海は少し苛立ちを感じていた。
(私たち、同盟なんじゃなかったっけ)
そして二人の間に横たわる最大の課題はやはりお金だった。
お互い一人暮らしのため独身とはいえそれなりに生活費もかかる。互いの貯金を合わせて開業資金はまかなえても、暫くの運転資金も必要になる。七海は既にいくつかカフェ開業を取り扱った本を手に入れて、ネットの情報も組み合わせながらざっと開業に必要な費用について挙げてみていた。
まず店舗となる建物の物件取得費、これは田舎だから都内でカフェをやることを考えればだいぶ抑えられると考えられるのでまだいい。次に内装工事費、これは物件にもよるが必須となる厨房機器には、業務用の冷蔵庫、製氷機、ガスコンロ、シンクなどがある。それらを一式揃えるだけでも相当の費用を覚悟しなければならない。そして食器・備品購入費、これはソファやテーブル、チェアなども含めてだが、カフェのイメージを決めるものなので慎重に選ぶ必要があり、中古で仕入れるにしても値段と品質を兼ね備えた品物を何軒も店を巡って探さなければならないことが予想された。
これだけでもざっと試算しても最低500~600万は必要になりそうだった。
二人の貯金を合わせてもぎりぎり足りないくらい。運転資金を考えるとさらに100万は必要だと七海には思えた。
次の作戦会議の時に、改めて算出した金額を七海は彩夏に伝える。
「……ざっと見積もっても、これだけお金が必要だと思うの」
「結構厳しいね。でも内装とかは自分たちでやればどうにかなるんじゃない?」
「私もちょっとそう思ったんだけどね。でもいざ自分でやろうとしてもただの素人だと出来も悪いし、時間もかかると思うんだよね。
そこはやっぱりプロに頼んだ方がいいんじゃないかな」
「うーん、じゃあそこの選定は七海に任せるよ。私の方は物件を探してきたからちょっと見てほしいんだけどさ」
そう言ってあっさりと七海に内装業者の選定作業を任せると、彩夏は下見してきた物件の写真をタブレットに表示させる。にこにこと楽しそうに物件探しと周囲の下見について語る彩夏。七海はその態度に違和感を覚えていた。
「……ねえ、思うんだけどさ、なんか楽しいとこだけ彩夏がやってない?」
明らかに棘を含んだ七海の言葉に彩夏も思わず色めき立つ。
「こっちも大変なんだよ、文句があるなら不動産屋さんとの交渉、七海がやる?」
そういった交渉事は七海の最も苦手とするところだったため、そう言われてしまえば七海には返す言葉がない。しかし場所の選定は重要なのだ。七海は口に広がる苦いものをぐっと飲み込んで、自分が思う条件を努めて冷静に彩夏に伝える。
「観光客のアクセスを考えると、バス停とか、公共交通機関から近いところがいいと思う。もしくはサイクルロードの近くとか。それと地元の人にも来てもらうなら移動手段は車だろうから、駐車場になるスペースが必要じゃない?」
「そっか、駐車場も必要か。それは盲点だった。ありがとね、気がついてなかった」
先ほどの気まずい雰囲気を即座に引っ込めて素直にこちらの言葉を聞き入れられるところは彩夏の良いところだった。七海はどうしても他人に遠慮してしまうところがあるので、これまでの仕事でも損な役割をいつの間にか押し付けられていることが多かった。
しかし今回の事をきっかけにして、七海は変わろうと決心していた。彩夏と七海はあくまで対等なパートナーなのだ。必要な事、言うべき事はたとえその場でぶつかるとしてもはっきりと伝える必要がある。少々夢見がちな彩夏に対してビジネスとして冷静に判断することが七海の役割だと感じていた。彩夏もそれが分かっているから、七海の意見について頭ごなしに否定することはしていなかった。
これならやっていけると思う。七海は手ごたえを感じていた。
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