第2話
正直に言って大丈夫とはいったものの、まだ少し頭がクラクラしていて人ごみの中を通り抜けてテントへ戻るのには不安があったからだ。
彼女は
夏フェス初心者の七海からすると随分とフェス慣れしているように見える彼女は短めにカットした栗色の髪を日差しに煌かせており、それはまるで彼女自身が内側から光っているようだった。
私も髪、切ってくればよかったかな。
七海の背中まで伸びた黒髪は頭の後ろで一つに括っているものの、彼女の髪をと比べるとそれはひどく重苦しく思えた。テントサイトへと向かう道すがら、話題に上ったのは先ほどのバンドのライブのことだった。七海が着ているTシャツを見て、彩夏が気さくに話かけてくる。
「七海さん、そのTシャツってもしかしてファイバンの10周年記念グッズ?」
「あ、そうなんです」
バンドのファンはファインバインのことを略して「ファイバン」と呼んでいた。その呼び方を知っており、グッズについても詳しいことから彩夏もバンドのファンであることが七海にも容易に察せられた。
「凄い、それネットで予約開始5分で完売したやつだよね」
「すっごい運よく取れて」
「いいなー、私ファンクラブ先行でも取れなかったのに」
「坂本さんは、その」
言いかけた七海の言葉を突き出した人差し指で遮って、朗らかに彩夏は答えた。
「彩夏でいいよ。私もう七海って勝手に呼んじゃってるし」
同じバンドのファン同士という事もあり、絶え間なく音楽がかき鳴らされているいくつもの演奏ステージの脇を抜けてテントサイトに到着するまでの間に話す途中でお互い同じ年齢で、共にライター仕事をしているということも分かり、二人はすっかり意気投合していた。
七海のテントまで戻ってくると、「なんか飲み物とか買ってくるよ」と言って有無を言わせず彩夏は物販コーナーまで駆け出していく。
ほどなくして戻ってきた彩夏は二人分の焼きそば、ビールにスポーツドリンクを両手いっぱいに抱えていた。
「いい匂いしてたから思わず焼きそばも買っちゃった」
彩夏は悪戯がバレた小悪魔のように舌を出して魅力的に笑う。二人でテント前に敷いたビニールシートに座るとおもむろに彩夏は缶ビールのプルトップを二つとも空けて、七海に差し出してくる。
「はい、ほんとはお酒は良くないかもだけど、せっかくだし一口くらいは飲んでよ。余ったら私飲むし」
七海はありがとう、と言って受け取り、二人で缶を付き合わせて乾杯する。ちびりと口を付けた瞬間、これまで感じたことのなかった感覚に七海は思わずつぶやいていた。
「え、うそ、ビール美味しい」
七海はそれまでビールの苦みがいまいち好きではなかったのだが、今飲んだビールはキュッとした喉ごしと後からついてくる苦みがとてつもなく美味だった。
彩夏はにっこりと微笑んでさも自慢げに言う。
「でしょ~?フェスで飲むビールは最高なんだよ!」
「ほんと、美味しいこれ」
七海は目を丸くしながらビールを喉に流し込んでいく。良く冷えたビールは火照った体に染み渡って心地良かった。見ると彩夏は一気にビールをあおると、さっそく焼きそばに手を伸ばしていた。紙製の使い捨て容器の蓋を開けると、レモンの爽やかな香りがふわりと広がり二人の鼻腔をくすぐる。地元特産のレモンをふんだんに使った塩レモン焼きそばは塩分が失われていた七海の身体にほどよく塩気を取り戻させる。
焼きそばを口いっぱいにほおばりながら、バンドのことや、好きな音楽について語り合う。
まるで音楽に初めて出会った頃に戻ったかのように二人は夢中でおしゃべりに興じていた。
気がつけば、夏の光はすっかり赤く染まり、高台にあるテントサイトから遠くを見渡せば太陽が島陰に沈もうとしている。遠くのステージで鳴り響く演奏音が海から吹き付けてくる涼しい潮風に飛び乗って、二人の元まで届いてきていた。
「あー、なんか最高だなぁ」
ちかちかと頭上に瞬き始めた一番星を見上げて彩夏がつぶやく。七海も同じように上を見上げてつぶやいた。
「そうだね、こんなとこに住めたら最高だね」
しばらくの沈黙ののち、彩夏がぽつりと七海に言う。
「ねえ、二人でさ、本当に住んじゃわない?ここに」
「ここって、この島に?」
「そう。お互いライターだしさ、ウェブ関係の仕事だったらここでもできると思うんだよね。せっかくならカフェとかもやりたいな。私、昨日島を見て回ったんだけどさ、そういうお店意外と少なくて、結構需要あると思うんだよね」
唐突な話ではあったが、それは七海にとってもとても魅力的な話に思えた。
今は東京で働いているけれど、それはよくよく考えてみるとなんとなく東京の大学に進学してそのままそこで就職をしたからであって、改めて考えてみるとただの惰性でいまの自分の居場所を決めてしまっていたように思えてくるのだった。
「……うん、それもいいかも」
旅の勢いかもしれない。今日初めてであった相手と、見知らぬ土地で住み始める?
それは突拍子もないことのように思えたけれども、心の奥をじっと覗き込むと途方もなくわくわくしている自分がいた。
七海は改めて彩夏の方に向きなおり、彼女の眼をまっすぐ見つめて改めて言う。
「うん、それいいと思う。やろうよ」
そういうと彩夏は今日一番の笑顔を浮かべてパン、と勢いよく両手を打ち合わせた。
「おっけ、決まり!じゃあたった今から私たちは『夏の同盟』だね」
「夏の同盟?」
「昔見た本に書いてあったフレーズ。なんだか気に入っていて、ずっと使いたかったの」
「いい響きだね。じゃあ、私たちは夏の同盟ってことで」
「よし、夏の同盟に改めて乾杯!」
彩夏は勢いよく告げると、ビール缶を差し出してくる。七海もとっくに空にしてしまっているビール缶を差し出して、勢いよく打ち付けた。
夏の夜に結成された同盟を見守るかのように空には高らかに月が上っており、遠くからは歓声と音楽が祝福するかのように伝わってきた。
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