第4話 ゾクッ。ゾクゾクゾクゾクッ──!
俺は侮っていた。見えているつもりになって、なにも見えていなかった。
思えば、近所の床屋で散髪してもらうとき、締めのシャンプーで耳がこそばゆくなることが度々あった。
耳への攻撃を目的としない、なんてことないお爺さん店主のシャンプーで毎度のことブルっとしていた。
かたや経験豊富な男漁りに余念のない清楚系Fカップ様が明確な意思を持って耳を攻撃しようものなら、こそばゆい程度で済むわけがない。
始まる前から終わっていた。
挑んだ時点で負けていたんだ。
俺はもっと、大局的視点で物事を考えるべきだった──。
☆ ☆
おそらくそれは、鼻息だったのだと思う。
「……うぅ、ん。……はぁ」
意を決していざ実食。とはいかず、差瀬山さんの唇は俺の右耳を前にして立ち往生した。
食べたくないけど、食べなければならない。そんな葛藤を表しているようだった。
食べるとは即ち──。
フゥハムペロが互いに尊重し合い、対を成す所業。
それはハムりながらペロをして、呼吸とともにフゥをも兼ね備える。足し算ではなく掛け算。相乗効果を施すとんでもなくやばい耳への攻撃だ。
フゥ×ハム×ペロ=モグモグタベチャウ?
公衆の面前とも言える昼休みの教室内で至っていい行為ではない。にも関わらず、差瀬山さんは「いただきまぁーす」と言った。……いや、言ってしまった。
その後悔の念が、俺の右耳を目前にして立ち止まっているのだろう。ゴクリと冷ややかに飲む息は吐き出される際に鼻息と化す。
フゥハムペロですらない。ましてや実食前の鼻息で、俺の耳は屈してしまったんだ。
「……はぁ……う、うぅん……。ゴクリ。……んふぅー」
俺の耳を天へと
その瞬間、宇宙が見えた。
悍ましいほどの身震いする衝撃が走る。
耳だけが宇宙の彼方に飛んで逝ってしまうような、初めての感覚──。
ゾクッ。ゾクゾクゾクゾクッ──!
「ひぃやぁぁぁあっ……!」
それはもう、絶対不可避の撤退命令──。
臨戦態勢で挑んだ突っ伏寝は強制解除され、差瀬山さんの唇から離れるように緊急退避──。
結果、窓側の床へとすってんころりん。
すぐさま立ち上がろうとするも、腰が抜けて動けない。まるで生まれたての子鹿のように、窓側の壁を背に尻餅をついてしまう。
……やばい。まずい!
そんな状況を如実に表すように、昼休みでガヤガヤしていた教室内は静寂に包まれていた。
しかし、その静寂は笑い声で一掃される。
「あはは! なにそれうける! 突っ伏寝くんってば、まさかの! 耳が弱い感じだったか~! 超いらない情報過ぎてまじうけるぅー!」
気遣いもなければ、悪気もない。床に倒れ込む俺を見下ろしながら、お腹を抱えて笑う平常運転の軽井沢さん。
対して──。
「う、わぁ…………」
鼻息ひとつで俺をこのザマに追い込んだ張本人は二歩三歩、後ろへと距離を取るとドン引いたような表情を向けてきた。
体の震えを抑えるように腕を組む姿からは、しっかりとその両腕に絶賛成長中のFカップが乗っており、どちらに是非があるのかを明確に表していた。
──悪いのは、俺だ。
そう決定付けるように、クラス内の視線をも一同に浴びていた。
「(えっ、差瀬山さんなにかされたの?)」
「(事案発生しちゃった?)」
「(魔が差したってやつかな?)」
「(ていうか、あんな奴クラスに居たっけ?)」
「(前髪長くね? 根暗かよw 突っ伏寝とか好きそうw)」
「(あ~。あれはやりそうだわw)」
今まで積み重ねてきた平穏が、パラパラと崩れ落ちる。
……なんでだよ。
俺が何したって言うんだよ……。
こんなふうに辱められるようなこと、してないだろ……。毎日気を張って不手際のないようにしてきただろ……。
イヤホンの音量だって3以上にはしなかった。
勝手に俺の席に座ってても文句ひとつ言わなかった。
なのに、どうして……。
嘆いたところで、答えは出ていた。
悪いのは俺だ。この局面は避けられたはずなのに、尽く選択を誤った。
あまつさえ、鼻息ひとつで悲鳴をあげ床へと転がり落ちる始末だ。
これを不条理や理不尽だと思ってしまったのなら、明日の良き突っ伏寝は訪れない。
一流の突っ伏寝リストたる者、こんなところで挫けてはならない。
大丈夫。……大丈夫。
心は至って正常。俺はまだ、やれる!
だから──。
すぐさまリカバリー。
予め用意したプランの遂行に入る。
今ならまだ、間に合うはずだ。最優先にすべきは差瀬山さんの機嫌を取り戻すこと。
この際、他のクラスメイトたちはどうでもいい。
もとより俺に興味なんてないだろうし、夏休みを控えた今なら脅威に値しない。
しかし差瀬山さんがなぜドン引いているのかがわからない。でも間違いなく俺に対して嫌悪感を抱いているのは見てわかる。
それなら、先手必勝“ごめんなさい”を発動だ!
「お、驚かせてしまってすみません。なんだか耳がこそばゆくなっちゃって……。あ、あははぁ……」
俺が声を掛けると差瀬山さんはさらに一歩、距離を取るように後ろへと下がった。
すると、とんでもないことを口にした。
「いやぁ……。今のはちょっとキモいよね……」
なにを悪びれるわけでもなくストレートに放たれた言葉に、胸が抉られる。
それと同時に──。
心の中で、なにかが切れる音がした。
──プツンッ。
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