狙われるお耳。サヨナラ日常──。
第1話 突っ伏寝を始めて、早十年──。
平年より少し早めの梅雨明けが発表された七月中旬──。
夏本番が始まり朝から暑さで滅入りそうになるも、俺は一番乗りで教室に到着した。
閉め切りの教室内はむせ返るように暑く、窓を開けて空気の入れ替えをする。
「……ふぅ」
俺はべつに日直でもないし委員長でもない。ましてや窓係でもない。
誰に言われたわけでもなく、一番最初に教室に着いたから仕方なくやっているだけだ。
……暑くて困るのは自分だからな。
それもこれもぜんぶ──。
前回の席替えで右隣と前の席が一軍女子様になってしまったのが原因だ。
しかもクラスを代表するトップカーストの二人。となれば、休み時間や朝のホームルーム前などはその席を中心に輪が広げられるわけで……。
かくいう俺は窓際最奥の席。
つまり、L字に挟まれている。
オセロでいうところの四隅に該当し、ここさえ押さえてしまえばゾーンが展開できる。人間の本能に語り掛けてくるような、取るべき場所。
そんな絶好の席が、空いているのであれば座るよね?
っていう話で……。普段通り10分前に登校して絶望に浸ったのは、つい先週の話。
──俺の席に、一軍女子様がお座りになられている……。
結論から言えば、その日俺は人生で初めて遅刻をした。
楽しそうにぺちゃくちゃと話す一軍女子様を前にして“退いて”のひとことが言えなかったんだ。
だからチャイムが鳴る時間ぎりぎりまでトイレの個室でやり過ごし、チャイムと同時に教室に戻った。
でも、こんな日に限ってまさかの担任遅刻。
話が盛り上がっている一軍女子様ともなれば、チャイムで良い子に席に着くわけもなく……。
担任教師の“出席取るぞー席につけー”が必要不可欠。
鳴り響くチャイムとともに、廊下から一軍女子様が座る自分の席を眺め絶望に浸った。……そして俺は、トイレの個室に戻った。
生まれて初めての遅刻は、便座の上だった──。
……と、まあ。そんなこんなで、俺は自分の居場所を守るために誰よりも早く教室に来ている。
遅刻するか否かを運に委ねるのは嫌だし、教室に入るたびに『どうか一軍女子様が俺の席に座っておりませんように』と、天任せにお祈りするのもキツイ。
だったら自分で掴み取る。簡単な話さ。
普段より一時間早く登校すればいいだけ!
…………うん。
“退いて”
そのたったひとことが言えない男。それが俺、
☆
とはいえ、朝のディフェンスにさえ成功してしまえば恐れることはない。
気の合う仲間に出会えなかった高校生活とは退屈なもので、休み時間は基本的に突っ伏寝で始まり突っ伏寝で終わる。
席を離れるのはトイレと移動教室くらいのものだ。
一軍女子様は連れションを好み帰りが遅い。
と、なれば。俺も同じタイミングで用を足せばいいだけ。
移動教室にしても懸念材料にはならない。
だらだら話しながら教室に戻る一軍女子様に対し、話し相手なんか居ない俺の帰りは比べるまでもなく速い。
朝さえクリアすれば普段と変わらぬ突っ伏寝ライフが送れるのだ!
イヤホンを装着して雑音をカット──。
音楽アプリを起動してヒーリングミュージックを選択。森のせせらぎ音を流す。
瞳を閉じて、自分ワールドを形成──。
「すぅぅぅぅ……──」
小学校中学校と突っ伏寝に耽ってきたからな。高校二年生ともなれば、耽ってきた期間は十年を超える。
もはや達人の域に到達していると言っても過言ではない。
俺クラスの突っ伏寝リストともなれば、嗜み方はお手の物──。
「でさー、彼氏がぜんぜん寝かしてくれなくて! 学校あるって言ってるのにお構いなしだよ?」
「なにそれうける。元気過ぎっしょ」
「笑いごとじゃないから! 超眠いんだから! やばいの!」
……うん。一軍女子様の声がよく響く。
こればかりは仕方がない。達人級の突っ伏寝リストだからこそ、リスクマネジメントは怠らない。
イヤホンからの音漏れで一軍女子様のお耳を煩わせるのは論外だし、授業開始のチャイムや号令に反応できなければ平穏な高校生活にヒビが入るかもしれない。
『そこで寝てるやつ起こしてくれー』なんて、気の利かない教師が言った日には確実に一軍女子様のお手を煩わせることになるのだから。
平穏な突っ伏寝ライフを送るのに大切なことは、人畜無害キャラに徹すること。
クラスメイトの意識が自分に向かぬよう、最善の注意を払ってこそ一流というもので、達人と言えるのだ。
ゆえに、イヤホンの音量は控えめの3で固定!
平穏な日常とは、日々の積み重ねで獲得するもの。
たとえそれが、教室の隅で縮こまって突っ伏寝をすることであっても──。
☆
でも今日は、平穏な日常を大きく揺るがす事態に直面する。
昼休み。ぼっち飯を速攻で平らげ、普段と変わらぬ突っ伏寝ライフを満喫していると──。
「海岸線沿いを潮風にあたりながら駆け抜けてく感じ? 夕暮れと彼の背中が絶妙に良い雰囲気を醸し出して! やばいの! だから行こっ? ツーリングでダブルデート!」
「いや~。初対面でバイクの後ろに乗るとかハードル高過ぎでしょ~。要は抱きつくってことっしょ?」
「大丈夫大丈夫っ! 乗ってるうちにイイ男に思えてくるから! とにかくやばいの!」
本日の一軍女子様たちの会話は“バイクに乗っている男はイイ男なのか?”についてだった。
事の発端は前の席に座る
全体的に清楚な雰囲気を帯びつつも系統はギャルで、男子生徒からは絶大な人気を誇る。
しかし、口を開けば男の話が大半を占め、男漁りに余念がないタイプ。
それとは打って変わって、隣の席の
普段は巻き髪でTHEギャルオーラを撒き散らしているのだが、ここ最近は元気のないストレートヘア。
そんな軽井沢さんを新たな恋のステージへと強引にお誘いしているのが今の現状だ。
…………うん。
やたらと内情に詳しくなってしまった。
家族構成から経験人数、あの日の周期まで知っているのだから自分でも驚きだ。
べつに聞き耳を立てているわけではないが、聞こえてしまう以上は仕方あるまい……。
「どうせあんたの場合はこわ~いとか言って胸でも押し当ててるんでしょ? それで簡単に男を落とせるから手軽とかちょろいとか、まあそんなとこ?」
「し、失礼なっ! そんなことしないよ!」
「こんなもの押し当てられたら、男はたまったもんじゃないって~」
「ちょっ、も、揉まないで!」
「あれ? もしかしてまたでかくなった?」
「あー……うん。最近ブラのサイズ合わなくなってきたかも。少しキツくて……。って! なんでわかるの! 怖いから!」
「へぇ。じゃあこれがFだ?」
「だ、だから揉まないで!」
……このときばかりは、オスとしての本能が突っ伏寝に待ったをかける。
声のする方向的に窓側を向いているのは明白。
つまり、クラス内で正面から拝めるのは突っ伏寝リストの俺一人。
眠たい目を擦りながら「ふぁ~あ」と起きるのはどうだろうか。
否。ここで起きるは二流。
俺は達人級の突っ伏寝リストだ。小学校、中学校と長きに渡り培ってきたノウハウがある。
ここで耐えられぬ者に、明日の良き突っ伏寝は訪れない。
突っ伏寝とは一日にして成らず──。
と、ここいらで話が終わってくれれば良かったのだが、差瀬山さんのバイク推しは止まることを知らず、フルスロットルで加速していく。
その結果、思わぬ飛び火を受けることに──。
「でもさ、バイク乗ってれば誰でもいいってわけじゃないっしょ? たとえば、突っ伏寝くんが乗ってたらどうなのさ?」
「えー。あぁ、うん。どうだろう……」
時折、会話の中に突っ伏寝くんなる呼び名らしき言葉が出てくる。だいたいいつも話の小ネタとして小馬鹿にされるポジションなのだが……。
「ほら、無理っしょ?」
いったい誰のことなのかはさておき、
軽井沢さんの言い方からして、ただしイケメンに限るってやつだろう。
「待って。違うの。そうじゃないの!」
まあ、話の流れ的に面食いですって認めるようなものだからな。女子とは建前を重んじるのか、不思議と面食いであっても面食いであることを認めたがらない。今の差瀬山さんみたいに。
「じゃあもし仮に、突っ伏寝くんがバイクに乗ってたら抱きつけるんだ?」
「べ、べつに……。それくらいできるけど!」
「ふぅん。このFカップを突っ伏寝くんの背中にぐりぐり押し付けて、潮風に当たりながら汗と汗が絡み合っても平気なんだ? まじ?」
「ちょ、ちょっと! 言い方が卑猥だよ! 押し付けるわけじゃないもん。結果的に当たっちゃうだけだもん!」
そして──。
話はヒートアップしていき、とんでもないところに着地する。
「じゃあさっ、もし突っ伏寝くんがバイク乗りだったら二人でツーリングデートしてきてよ? 乗ってるうちにイイ男に見えてくるんでしょ? だったら余裕っしょ」
「べ、べつに余裕だけど?! でもわざわざ時間割いてまで行く理由がないからパス! ま、まあ余裕だけどね?」
あからさまに余裕がない様子が声だけでわかる。
よほど、突っ伏寝くんなる人物が生理的に受け付けないのだろう。
「そこまで言うなら賭けよっか?」
「賭けるってなにを?!」
「突っ伏寝くんがバイクに乗ってるかどうか。乗ってたら突っ伏寝くんと二人でツーリングデート。乗ってなかったらダブルデートの話、受けてあげる。どう?」
「う~ん……。ダブルデート来てくれるなら……。うん、わかった。その賭け乗る!」
な、なんでそういう話になるんだよ……。
ていうか突っ伏寝くんて誰だよ。だ、誰のことを言ってるんだよ……。
「突っ伏寝くん起きてー! バイク乗ってないよねー?」
「いや~、イヤホンして寝てるんだから名前呼んだくらいじゃ起きないっしょ?」
待てよ待てよ。本当に誰だよ……。居るならとっとと返事しろよ……突っ伏寝くん……起きてくれよ。頼むから……。
だってこれじゃ、まるで……。
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