第27話 熱
白い天井。視界の端には吊りカーテンとそのレール。柔らかい何かに寝かされていた。
わたしはどこにいるんだろう。起きあがろうと力を込める。だけど、身体に力が入らない。
意識がぼんやりして、身体全体が熱いような気がする。
「気がついたのね。よかった」
そう言って、加々美さんがわたしの顔を覗き込んできた。
「ここ、は…」
「保健室よ。あなた、急に倒れたのよ。みんな大慌てだった。すごい熱もあって…だから無理に起きちゃダメよ。今親御さんに連絡したから、お迎えに来てくれるわ」
「そっ…か…」
「津田君があなたをおんぶして、ここまで運んできたのよ」
「しん…津田君が…?」
その名前を聞くと、また痛みがやってくる。熱に浮かされた意識の中でも、記憶は鮮明だった。
「…やっぱり、津田君と何かあったのね」
「わかるの…?」
「分かるわよ。だって、普段あなた彼のこと名前で呼ぶじゃない。なのに今は他人行儀に君付け。側からあなた達の様子を見てたわたしとしては、違和感しかないわ」
「…わたしの、せい。わたしが悪いの」
「何があったかは今は聞かないであげる。病気の時は気が弱くなるから、今は考えない方がいい。熱が下がって、冷静になってから改めて考え直しなさい。ね?」
「…もうちょっと」
「…はいはい。分かったわ、親御さんが来るまで一緒に居てあげる。人生で初めてよ、授業サボるなんて」
「…ごめんなさい」
「謝ってばっかりね。そんなに悪い事したのかしら?」
わたしはうわ言の様に呟いた。彼と喧嘩した事、彼が受験に落ちた事、それがわたしのせいだって事、そして、もう友達じゃいられないと言われた事…。それを加々美さんは、一言も挟まずに聞いてくれた。手を握って、安心して、と語りかけるみたいに。
そして、話している間に段々と視界が途切れ途切れになり、また眠り込んでしまう。
夢は見なかった。
今度は見慣れた部屋の天井だった。温められたバターの様に、緩く溶けた頭で何とか考えを回す。
とはいえ、今この状況でやるべきなのは一つだけだった。
わたしはベッドから降りて、壁に手をついて歩きながら部屋を出た。服はいつの間にか着替えさせられていて、いつものパジャマになっている。そして、台所に着いて手近のコップを取って、そこになみなみと水を注いで飲み干した。清涼感と共に、多少冷静さが戻る。
「おう、起きたか」
「父さん」
「ビックリしたよ。いきなり学校で倒れたって聞いたから。やっぱり無理はしちゃいかんよ」
「ごめんなさい」
「インフルエンザかも知れんから、落ち着いたら病院行こう。とりあえず今日はゆっくり休むんだ」
「…うん」
そのままベッドに戻る。倒れてしまったのか。記憶は無いけど、顔にじんわりと残る痛みがそれを証明していた。
熱い。体が熱くて仕方がないのに、心の中は寂しさで冷たい。二つの反対のものが同居する不思議さの中で、わたしはまた泥の様な眠りに落ちた。
結局、病院での診断はインフルエンザだった。ただ幸いだったのは、重くなるタイプではないから比較的すぐに熱も引くだろうという事だった。
「受験なんかもあって、疲れが溜まっていたんでしょうね。免疫が戻れば、ワクチンも打ちましたしすぐに良くなりますよ」
「ありがとうございます」
身に覚えがありすぎて、後ろめたさを隠し切れない。あの時長い事雪の中に立っていた事、ご飯も食べず、眠りもしなかった事。それから心の状態の悪さ。元々の疲れも相まって、病気になって当然だった。
家に帰って、またベッドに寝転ぶ。熱はだいぶ引いて、今は三十七度少しと言ったところ。頭もだいぶ冷静さを取り戻していた。だけどわたしは一番大切な事からあえて目を背けていた。彼の事を考えない様にしていたのだ。
悲しみから明けて、わたしの心を満たしていたのはどこか諦めにも似た感情だった。どうにもなりっこない、彼とはもう元の関係には戻れない。
なのに、そう考える度に心のどこかが強く震えて納得するのを拒否する。
仕方がない。いやだ。どうするつもり?分からない。もう元には戻れないんだよ。そんな事ない。
感情は自問自答を繰り返す。同時に理性は冷静に原因の分析を続けていた。
実のところ、もうすでにわたしは結論らしきものにたどり着いてはいた。だけど、それがわたしにとっては余りにも馬鹿らしくて、あるいは驕りの様に思えて、結論として受け入れるべきか迷っていた。
とはいえ、どれだけ考えてもそれ以上の何かは出てこない。要はわたしは手詰まりになっていた。
唐突にチャイムが鳴った。誰だろうか。誰でもいいか、どうせ彼はもう二度とここには来てくれない。わざわざプリントを届けに来てくれた、優しい誰かなんだろう。
「アオイ、クラスの子がお見舞いに来てくれたよ」
応対していた父さんがドア越しに言った。
「そう」
でも興味は無い。誰が来たって別に良い。しばらくしてまたチャイムが鳴る。重い入り口のドアが開いた音がして、誰かが上がって来た。そしてコンコン、と二回ノック。
「どうぞ」
「入るわね」
また聞き覚えのある声だ。よく通る真っ直ぐな声。
「調子はどう?」
ビニール袋を下げた加々美さんが、わたしを見下ろしていた。
「わざわざ来てくれたんだ」
「流石に放って置けないわよ」
そう言って彼女はゴソゴソと袋の中から飲み物とゼリーを取り出す。
「よかったらどうぞ」
「…ありがとう」
オレンジゼリーとスプーンを一つずつもらう。よくよく考えれば、ずいぶんと甘いものを食べてなかった。
そして、彼女は真面目な顔で話し始める。
「まあ、食べながらでいいんだけど。わたしが来た理由は言わなくても分かるわよね?」
「……真太郎の事?」
「そうよ。単なる小さい喧嘩かと思ったら、あんな大事だったなんてね。流石に見過ごせないわ」
「……」
「あの時保健室で、あなたぼんやりしながら言ってたじゃない。『わたしが悪いの』なんて。他にも受験のこととか色々。て事は薄々、というよりもうとっくに原因に気付いてるんじゃなくて?」
「…うん。だけど、分からない。わたしの考えてる事が正しいのか。今まで、人の心の中なんて考えた事ほとんどなかったから」
「…一応、わたしも原因についてあれこれ考えたわ。後、津田君本人とか椎崎君からも話聞いてね。そうね…もしあなたが不安なら、同時に言えばいいわ。同じ事を言ってれば、合ってるって事にしましょ?」
「分かった」
「それじゃ、行くわよ。せーの…」
「「怖かったから」」
「やっぱり、あなたも同じこと思ってたのね」
「違うと思ってた。こんな、傲慢で独りよがりで生意気な考え」
「ちなみに、何を彼は怖がってたのかしら?」
「わたしと離れる事。それから、多分…『わたしに必要とされなくなる』事、だと思う」
「百点満点よ。よくそこまで考えついたわね」
「…でも、何で?どうしてそんな風に思ったんだろう。わたしは…」
「いいわ。…ここからはわたしが話す。あなたにもちゃんと聞いて欲しいから。津田君が言っていた事、椎崎君に話してた事。まとめて全部話すわ」
そう前置きして、加々美さんは話し始めた。
「…津田君はずっと不安だったのよ。そう、『あなたに必要とされなくなる』事が。少し変わってると思うかしら。でも、そう思ってしまう人は沢山いるわ。わたしも、見た事があるもの」
「『君に届かない』って、あの問題用紙に書いてあった。一緒にいられない、それから…」
「…そうね、津深さん。その言葉は彼の心の全て。昔よりもずっと強く、しなやかに成長したあなたへの思いよ」
「……」
「最初は二学期始まった時からだったそうよ。あなたが学校に来て、わたしや椎崎君に会った頃。あなたは気付いてなかったかも知れないけど、わたしもびっくりするくらい、あなたはすぐにクラスに溶け込んだ。友達未満ではあるけど、修学旅行の頃には知らない人とも普通に話せる様になってたわね」
「…うん」
「…本来のあなたは社交的なのかも知れない。頭も良くて、人と触れ合う事を楽しめる。友達を作ろうとしなくたって、むしろ向こうから来てくれる。でもそれが津田君の不安をかき立てた。『いつか自分は、彼女の沢山の友達の中に埋もれて、忘れられてしまう』。あるいは、『単なるお情けで付き合ってもらえるだけ』になる。…あなたの力の嫉妬みたいなものもあったかと知れないわね」
「そんな事ない…!むしろ、わたしの方が怖かったくらいなのに…」
「でも、同じ結論になったって事は、あなたも思い当たる節はあるでしょう?」
確かに。時折彼が見せた寂しげな顔、受験の時の衝突。わたしの結論にの根拠は確かにあった。
「…それで、津田君は思ったの。『自分は彼女に相応しいと証明したい。忘れられたくない』ってね。だから、あなたとの約束、一緒の高校に行くっていう約束にのめり込んだ」
「……」
「ひたすら高く、あなたに追いつきたい。その思いで彼はずっと走り続けた。自分を追い込んで、体重が減ってしまうまで。あなたがどんどん成長していく様子を目の当たりにしながらね」
「やっぱり、わたしの…」
「でも、本番にはやっぱり魔物が棲んでた。実力が足りないわけじゃなかったのに、今まで努力してきたはずなのに。でも、あなたの隣にいなきゃという思いが、彼を壊してしまった」
震えるあの文字がフラッシュバックする。あれはやっぱり、抑えきれなくなった彼の心からの叫びだった。わたしは何を見ていたんだろう、何一つ見えていなかった。彼の苦しさも、彼の真摯な思いも。
「…まだ泣いちゃダメよ。泣かずに目の前を見つめ直して。…津深さん、あなたは今どうしたい?あなたの本当の想いを聞かせて」
「…一緒にいたいに決まってる。真太郎と、このままお別れなんて絶対にいや。勝手でも独りよがりでもいい、もう一度話したい。一緒にいたいって伝えたい。ごめんなさいって謝りたい、それでもって言いたいよ…!」
「…よく言えたわね」
優しく加々美さんがわたしの頭を撫でてくれた。涙でぼやけた視界を、拭って元に戻す。
「今週の日曜日。卒業式の前日、津田君がここに来るわ。今、椎崎君と説得してるところよ」
「え…?」
「『受験のお礼』と『ホワイトデー』を兼ねてって事でね。わたし達がもう一度、あなた達二人きりで顔を合わせて話すチャンスを作るわ」
「でも、来てくれるかな…」
「大丈夫よ。絶対に首を縦に振らせてみせるから。…わたしも、大事な友達二人が仲違いしたままでいるのは悲しいから」
「ありがとう。加々美さん」
「もし成功したら、四人でお祝いでもしましょう?それじゃ、またね」
彼女は規則正しい足音を響かせて帰って行った。
やる事は決まっている。熱は嘘の様に引いて、頭は完全に働きを取り戻した。
わたしの思いに、彼の思いに。全てに決着をつける。カラになったゼリーの容器を見ながら、わたしは誓った。
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