第28話 向き合って
それから数日、わたしは受験の前よりも遥かに緊張して過ごすことになった。見慣れたメモ用紙で『何時に行く』と真太郎からメッセージが届いた後からは特に。
熱は翌日に完全に下がって、もう月曜日には登校できることになった。ベッドから起きられる様になったわたしは、休みの暇を利用して準備に取り掛かった。ブラウスとスカートにアイロンをかけて、紐ネクタイを出す。髪も念入りに手入れして綺麗に見える様にした。ただ、結局のところこうした準備は表層に過ぎない。最も大切な心の準備を整えるのが、一番の難題だった。
でも、その日はやってくる。来ないで欲しいと思っても、待ち遠しいと思っても。
卒業式の前日。奇しくもその日は、わたしの誕生日だった。
三月の雪はもう溶け切って、桜のつぼみが膨らむ頃。花壇のツバキの香りがベランダまで時折届いてくる。
着替えて髪に櫛を入れて、鏡の前で紐ネクタイを締めた。もう泣かない、そう決意を込めて目を見開く。真っ青な目は、輝きを取り戻していた。
インターホンのチャイムが鳴る。来た。一歩一歩踏みしめながら、ドアの方へ歩く。覗き窓から見えたのは、くしゃくしゃの黒髪で、どこか不安げに視線を泳がせる、あの日の彼。迎えるわたしはあの日から大きく変わっているけれど。
「いらっしゃい」
「…お邪魔します」
少し距離の空いた挨拶。気まずげに真太郎は視線を外す。
「どうぞ入って」
わたし達はいつもの様に、わたしの部屋に入った。
ちゃぶ台を片付けた部屋の中で、二人向かい合って座る。会話は無い。どちらが先に口火を切るか、探り合っている様な雰囲気だった。
「あの、津深さん」
意外にも、先に動いたのは真太郎だった。
「何?」
「…本当にごめんなさい。受験の時、ひどい事たくさん言って、結果が悪かった時も、八つ当たりみたいに好き放題怒鳴って。君が勉強教えてくれて、励ましてくれたから、公立にも私立にも受かれたのに。本当にごめんなさい」
彼が頭を下げる。でも、そこじゃない。もしも君が無かったことにしてくれるなら、それじゃなくって…。
「…『わたしが』君に相応しくないって言ったことは、取り消してくれないんだね」
あえてわたしは主語を入れ替えた。意味合いは変わらないかも知れないけど、印象はかなり変わってくる。
「うん。事実、僕なんかじゃ君には釣り合わないよ。才能も魅力も溢れてて、優しくて…そんな君とじゃ釣り合うわけがない」
とはいえ、こんな小手先のことに引っかかるとは思ってなかった。彼はわたしを持ち上げながらも撤回や取り消しを拒む。だけど、
「…君と釣り合えるなら、どれだけ醜くても、どれだけ頭が悪くてもよかったのに…」
「え?」
「…何でもない。それで、どうしてそう思うの?」
「どうしてって…」
「勝手な思い込みかも知れないけど、夏の頃の君と、今の君は全く違う。あの時の底抜けの笑顔じゃない、嘘をついて、怖がってる顔。だから教えて、何がそんなに怖いのか。わたしに全部」
「……」
少しして、ぽつりぽつり真太郎が語り出す。
「…怖かった。君が遠くに行ってしまうのが」
「……」
「最初は確かに、単なる興味だった。でも、君と話して、遊んで、一緒にいる時間が長くなればなるほど、…その、えっと…君が好きになって行ったんだ。もっと君のことが知りたくて、もっと君に近づきたくて。だけど同時に、君にも僕のことを覚えておいて欲しい、って思う様にもなった。いずれ出来る、君の沢山の友達の中に埋もれて、忘れられるのが怖くなったんだ」
「…続けて」
「『君にも』特別に思われたい、って言ってもいいかも知れない。単なる友達、じゃなくて隣を歩く親友、みたいに。…だけど、それに簡単になれるわけがなかったんだ。君が学校に来始めて、椎崎や加々美さんと仲良くなって、それで修学旅行が終わってからは、見知らぬ人とも話せる様になって行った。クラスにもすっかり溶け込んで、人気者とまでは行ってないかも知れないけど、すごい人だっていわれてる。…怖さが背中まで来てたよ」
「……」
「その時に思ったんだ。『君に相応しい』事を自分の力で証明しようって。君と同じ学校に合格できたなら、きっと証明できるって。だから、あの約束にのめり込んだんだ」
「眠くなる程、痩せてしまう程に」
「そう。君には叱られたけど、ずっと夜まで問題をやってたんだ。塾や学校でもびっくりされたよ。本当にここまで力を伸ばすなんて、って。でも、もうその頃にはテストの結果で喜べる心なんて無くなってた。もっと高い点が欲しい、君に追いつくにはまだ足りないってそればっかり。…大馬鹿だったよ、自分で自分を追い詰めて。一月の終わり、学校と塾の先生にもお墨付きを貰った時の僕は、もうボロボロだった。君の合格と、あの時の楽しげな表情を追いかけて…。それで、いざ本番になった。前日は九時に寝て、体調も良かった。頭も澄み切って明瞭で…でもね、本番ってすごく怖いんだよ。試験用紙に向かって、問題を解き進めて、ふと集中を切らすと思い出すんだ。『これに全てがかかっている』、『落ちたら…』って。思い出すだけで、もうダメなんだ。周りが分からなくなって、自分がどこにいるかも分からなくなる。最後には、一人ぼっちになるんだ」
「…だから」
「そう。君に届かない、もう走れなかった。解く手が一度止まったらもう動かせないんだ。怖くて怖くて怖くて。結局、僕は自分で自分を追い込んで、全部を無駄にしちゃったんだよ。君の思いも僕の希望も。だから、当然なんだ。君の側にいる資格なんて、もう無くなったんだよ…」
そう口を閉じて、彼がうなだれる。全てを吐き出して、どこか清々しささえたたえて。でも、まだ終わってない。次はわたしのターンだ。
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