第25話 最後

 三月十日。小雪の舞う寒い日だった。

 既に二校の結果は合格と分かっていて、わたしの心にはそれなりの余裕が出来ていた。だけど、真太郎は真逆の様で、わたしと一緒にエントランスを出た時には、早くもブルブルと震えていた。

 誰よりも早く結果を見たい、そう思ってわたし達はまだ薄暗い内から家を出て、高校を目指した。

 彼の両親とは合否が分かり次第連絡して、後で合流する、そういう話にして。

「………」

「………」

 わたし達の間に会話は無い。普段は明るくて、いつも自分から話しかけてくれる真太郎は、ただ前だけを見つめている。

 わたしは、そんな彼の顔を見て、何度も喉に出かかった言葉を飲み込んだ。

 高校が近づいてくるにつれて、わたしの方にも心配が芽生えてくる。

 大丈夫、大丈夫、大丈夫。もしもそれが出来たなら、わたしは何度だって叫んだと思う。わたしが教えて、彼が努力して、出来ないことなんて何も無い。そう信じ込んで、高校の門の前に立った。

「…それじゃ、行ってくる」

「うん」

 真太郎は薄く積もった雪を踏みながら、看板へ歩いていく。周りに人はまばらで、まだあまり来ていないみたいだった。

 日本庭園の桜の木が、空へ向けて大きく広げた枝から、わたしと彼を見下ろしている。

「本当に入れるかな?」

 どこか意地悪で、不気味なその枝が語りかけてくる様な気がした。

 よろよろ、よろよろと彼は歩いて行く。そして、ある看板の前で止まった。

 ドクン、ドクン。彼が看板を見つめているのを、わたしもまた見ていた。心臓が速くなって、身体がかっと熱くなる。一秒が一分にも感じられるくらいの時間。未来がどちらかへと転ぶ瞬間だった。

 そう、そこだった。わたしは今でも鮮明に思い出せる。あの時、看板から視線を外してわたしの方を見直した、彼の顔を。

 …空っぽだった。喜びでも、悲しみでも、悔しさでも、驚きでもない。蒼白になった真太郎の顔には、何も読み取れなかった。

 そして、彼がこちらへ歩いてくる。ざく、ざくとほんの少しの音を立てて。

 どうだった?とは聞けなかった。彼は何も言わずに私の側を通り過ぎる。ぼそり、と小さな言葉を残して。

「ごめん」

 彼の手から、するりと受験票がこぼれ落ちた。もう、それだけで充分だった。

 何も見なくても、何も聞かなくても。それは、一切の反論の余地を奪い去って、同時に未来も水の様に溶かしさってしまった。

 彼は後ろを振り返らずに、雪の中を走り出した。どこへ行くのかなんて分からずに、がむしゃらに。

「待って!」

 ようやく時間が動き出した。わたしも慌てて彼を追いかける。このまま終わりたくない、説明なんてとても出来ない。そんな思いに突き動かされて、わたしは彼を追いかけた。


 走り続けて、どのくらいになっただろう。わたし達は期せずして、同じ場所で歩みを止めた。

 高校の側の小さな公園。ブランコと鉄棒と砂場、それだけの公園。その公園の真ん中の、大きなカシの木の前で、真太郎は止まって息をついた。

 同時にわたしも走るのを止める。運動能力は相変わらず低くて、ぜいぜいと浅い息を何度も吐き出した。

「ねえ、どうしたの?いきなり走り出して、追いかけるのも大変じゃない」

 余裕がある様に装う。あくまでまだ軽口、そう思わせたかった。

「…見ないでよ」

「え?」

「俺のことを見ないでって言ったんだ」

「どうして?」

「そんなの、言わなくたってわかるじゃないか。君が持ってる、その紙切れのせいだ」

「…それが一体何の関係があるの?」

「出来なかったんだ。君が教えてくれたのに、必死で頑張ったのに。上手くいかなかった」

「でも、それは…」

「仕方ない、なんて言わないでよ。今俺は、みじめで仕方ないんだ。期待されても、約束しても上手くいかなくて。だから、そんなみじめな俺を君には見られたくないんだ」

「…そんな事無いよ。君はみじめなんかじゃないし、そう感じる必要もないよ。一生懸命頑張ったんじゃない」

 沈黙が流れる。でも、これだけなら良かった。彼が落ち着くまで待って、そしたら一緒に帰って、あったかいご飯でも一緒に食べよう。そう思えた。わたしの心を完全に砕いたのは、彼が唐突に放った次の一言だった。

「…でも、これで良かったのかも知れない」

「え?」

「だってさ、そう思わない?これでハッキリしたじゃん。俺は君に相応しくない、君と一緒に居ない方がいいって」

 ピシリ、と心にヒビが入った。声がうわずって、震え出す。

「何で、どういう事?」

「…やっぱり、そう言うよね。でも、君の為ならその方がずっと良いに決まってる。約束も守れない、頭も良くない。そんな足手まといなんて、君の人生には必要ない」

「何の話をしてるの?足手まといとか、そんな事一言も言ってないじゃない」

「君は、これからどんどん上に登って行く。俺なんか絶対に届かない高い所まで。そこには君に相応しくて、君と同じくらい頭が良くて、それから俺よりもずっと誠実で、いい友達が沢山いる。だから、俺なんかもう必要無いんだよ」

「答えになってない。わたしはそんな事一度たりとも思った事無いし、相応しいとかそうじゃないとか、そんな話をした覚えもない」

「でも、あの時君は笑ってた」

「あの時?」

「君が試験から帰って来た時。君は言ったじゃない。『本当に楽しかった』って。君を見た目じゃない、素敵な中身で評価してくれる人に出会えて、本当に幸せそうだった。その時分かった。もう君に俺は必要無いんだって。…だから、もういいじゃない。俺みたいなのに構う必要はもう無いんだぜ?」

「…さっきから何よ。わたしの質問には答えずに好き勝手ばっかり言って。試験に失敗して落ち込んでるのはわかるよ。だけど、さっきからあんまりじゃない。何よ、必要ないだの相応しくないだの。わたしの気持ちを勝手に決めないでよ」

「君だってそうじゃないか」

「……え?」

「俺が何を思っていようが、君は俺を見てくれやしなかった。ずっと前ばかり見てて、俺の方なんて振り返ろうともしてくれない。どれだけ、どれだけ俺が…!」

 ぐっ、と彼が言葉を噛んだ。そして、視線を地面に落とす。

「もう、いいだろ。もう君に俺なんて要らないんだよ。俺は、俺は自分の価値を証明出来なかったんだ!俺は失敗したんだよ!」

 彼は泣いていた。涙の雫が何度も落ちて、雪を溶かして穴を開ける。

 めちゃくちゃな言葉、めちゃくちゃな理屈をまくし立てて、何もかも使い果たした彼の最後の…もの言わぬ、声にならない言葉。

 混乱の中にいたわたしにとって、それが一つの真実だった。

「…もう、友達じゃいられない」

 その言葉が、わたしの心に致命的な打撃を与えた。焦点が合わなくなって、視界がぼやける。踏みしめた地面がぐらりと揺れて、立つのも難しくなってしまう。

「…さよなら。ありがとう、夢を見させてくれて」

 追いかけようとしたわたしの歩みは、強い吹雪に阻まれた。一瞬の風と雪。視線を外したその瞬間には、もう彼は手の届かない遠くへ行ってしまった。

 待って。その言葉は、口から出てくる事はなかった。

 わたしは一人ぼっちで、雪の中に立ち尽くしている。そして、ますます激しくなる吹雪が、わたしを完全に一人の中に沈めていった。


 それからの事は、よく覚えていない。気がつけばわたしは家にいて、あったかいベッドに潜り込んでいた。そこから這い出て鏡の前に立ってみると、ひどく泣き腫らした目をしたわたしが映った。

 後で聞いたら、わたしは泣きながら家に帰って来たらしい。彼の受験票を握りしめて、あちこち雪まみれにさせながら。

「もう、友達じゃいられない」

 それだけが何度も何度もこだましている。彼がどうしてそう思ったのかの理屈なんて、よく覚えていない。本当はもっと筋道立ったことを説明してくれていたのかも知れない。だけど、わたしの記憶にはさっきみたいな、めちゃくちゃで断片的なやりとりしか覚えられていなかった。

 砕けた心の破片をかき集めるのに必死で、わたしは他のことを考える余裕なんて、少しも無かった。

 彼に拒まれた。その事実を思い浮かべるだけで、わたしは立っている地面が、見ている景色が、音を立てて崩れて行く様に思えた。後には何も残らない、また一人ぼっちの真っ暗な世界。

 わたしは、必死でその境目にしがみついていた

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