第16話 君のおかげで

 夕食を終えて、わたし達はそれぞれ部屋に戻ることになる。この後はもう就寝まで何もやる事はない。

「うー…俺のプリンが…」

「あんな勝負言い出すからだ」

「ホント、男子って馬鹿」

 わたしは真太郎に将棋で勝ったお土産に、彼の食事に付いていたデザートを一部頂いた。プリンを半分ほど取られた時の彼の顔は本当に見もので、ほんの少し申し訳なく思っちゃうくらい。

「それで、これからどうすんだ?」

「もういい…へや…戻る…」

「わたし達もそうしましょうか」

「あ、えっと…」

 少し迷って、わたしは決めた。

「真太郎、ちょっと待って」

「ん?」

「こっち」

 わたしは彼の袖を引いて、二階から三階に続く、人通りの少ない方の階段に連れて行く。

「どうかしたの?」

「ちょっとだけ。君と話したくて」

 わたしが階段に座り込むと、彼も隣に座る。

「今日さ、楽しかった。色んなところ回って、今まで見た事ないものも見て。後、家以外のところに泊まるのも初めてで、すごくドキドキしてる」

「そっか。まあ、初めてならそうだよね。俺も、移動教室で初めて泊まる時はドキドキしたよ」

「ありがとう。それだけ言いたかった」

「ん?」

「わたしをここに連れて来てくれて、ありがとう。知らないものを見せてくれて、ありがとう。初めてをいっぱいくれて、ありがとう。わたしがここにいられるのは、全部君のおかげ」

「そう言われると、照れるというか…」

 彼は恥ずかしげに視線を左右に揺らす。しかし、ふと何かを思い立ったように、わたしに向き直った。

「その言葉は嬉しいけど、あともうちょっと取っておいて欲しかったかな」

「どういう事?」

「だって、まだ一日目の夜じゃない。確かに今日は楽しかったよ。だけど、明日はもっと楽しくなる。三日目だってそうだよ、それに見学だけじゃなくて、こうして宿で話したり、一緒に遊んだりもできる。これからもっと楽しくなるのに、ここでそんなこと言われちゃ…ええと、そう、フルコースの料理なのに、前菜でごちそうさまを言っちゃうようなものだよ」

「……」

「だから、その言葉は…旅行が終わって、一緒に帰ってからにして欲しいな」

「そうだね、分かった。…君がそう言ってくれて、もっと楽しみになった。明日も、色んな所見に行こう」

「うん。色々なところを回ろう。そのためにずっとコースを考えて来たんだからね」

 そう話していると、先生の声が向こうのほうから聞こえてくる。消灯時間が近いので、男子をそれぞれの部屋に追い立てている様だ。

「ごめん、そろそろ戻らなきゃ」

 わたしも立ち上がる。そして、階段を上がって部屋に行こうとした時、

「あ、あのさ!」

「ん?」

「…髪。普段よりも、ちょっと綺麗だね。つやっぽいっていうか…」

 気付いてくれた。その事がうれしくて、自然とまた頬が緩んでしまう。

「加々美さんが手伝ってくれたの」

「へぇ…ちょっと意外だな」

 彼がまた笑う。やっぱり、その笑みには本当に弱い。

「それじゃ、おやすみなさい」

「うん、おやすみ」

 お互いにあいさつして、部屋に戻る。今日はどんな夢が見られるかな。そんな思いを抱きつつ、わたしは部屋に戻った。


 部屋に入ると、加々美さんが早くも布団を敷いて待っていた。

「おかえりなさい」

「ごめんね、お布団手伝えなくて」

「別に。それじゃ、もう寝ましょう」

「え?もう寝ちゃうの?」

「消灯時間だもの。それに、わたしが恋バナみたいなオシャレな事、できないって知ってるでしょ?」

 そっけなく彼女は布団の中に潜り込んでしまう。まあ、わたしも今日は疲れたから、それでいいかな。そう思ってわたしも布団を被った。ふわふわでまだ少し冷たい布団。柔らかいシーツに体を沈めると、すぐに心地よい眠気が体を包む。

 だんだんとまぶたが重くなって…。

 眠れない。よく分からないが、不思議とわたしは眠れなかった。疲れているのは本当だし、眠気があるのも間違いない。にも関わらず、わたしの頭には色んな事が浮かんで、それに釣られて目も冴えてしまう。

 わたしの頭の上では、加々美さんがすうすうと寝息をたてている。ちょっと起き上がって見てみると、こちらに頭を向けて、ほとんど完全に寝入っているみたいだった。

 わたしは彼女を起こさない様に、もそもそと布団から出て、窓の脇に置かれた椅子に座った。

 時計は夜の十一時前で、消灯から一時間少し経ったことを示している。

 ほんの少しカーテンを開けて外を見ると、月明かりが山と、あたりの古い街並みを濃い青色の中に照らしていた。瓦屋根の連なる街と、その奥にポツリと見える、どこかのお寺の五重塔、そしてさらに奥には真っ黒な木を抱えた大きな山。

 物思いに沈みながら、わたしはその風景に見入っていた。

「眠れないの?」

 その声が、完全に沈み切る前に、わたしを引き戻した。

 加々美さんが、布団から半身を起こしてこちらを見ている。

「ごめんね、起こしちゃったかな」

「眠れなくても、布団からでちゃダメじゃない」

「ごめんなさい…」

 謝りながらも、わたしの視線は別のところを向いてしまう。意識と身体が離れる様な、奇妙な状態だった。

「…ねぇ、何を考えてるの?」

 その声は、耳もとで聞こえた。わたしの視線が、窓の外から部屋の中に移る。加々美さんは、布団から起き上がって、わたしのそばでささやいた後、正面の椅子に座ってこっちを見つめていた。

「考えてるって?」

 内心を見抜かれた動揺。きっと隠しても無駄なんだろうけど、それでもそうせずにはいられない。

「わかるわよ。目でわかる」

「目?」

「あなた、考え込む時に遠くを見るような目になるわ」

「遠くを?」

「そう。笑ってても、真面目な顔でも。目がきゅっとして、目の前が映ってても、そこじゃなくて遠いどこかを見通す様な。いつもは真太郎君と話した後、一人でいる時。後、この前図書室で椎崎君と話してた時。ほんの少しあなたの方を見たら、さっきと同じ目をしてた」

「そっか、わたしっていつもそういう目をしてたんだね」

「考えるのはいい事だけど、あなたはそれがとっても多いわ。一日に何回も、そうやって深く考え込んでる。流石に見慣れるし、気になりもするわ」

「……昔、昔に染み付いた癖みたいなもの。考えずにはいられなくって、ちょっとした事でも沈み込んでしまう」

「……」

「昔とは、考える事も理由もずいぶん変わったけど、癖そのものは抜けなかったみたいね」

「聞いてもいいかしら。その、癖がついた理由」

「…加々美さんさえ良ければ」

 彼女は大きく頷いた。そして、それきり黙ってわたしを見つめてくる。


「…まず、その原点というか、原因はわたしの抱えてる体質…まあ、病気と言っても差し支えないかな」

「…アルビノ、よね?」

「うん。正確には『先天性白皮症』って言うの」

「それで?」

「これを教えてくれた時にね、病院の先生がこう言ってた…『正常な人よりも、メラニンの量が非常に少ないのです』って。これが原点よ」

「えっと、つまり?」

「先生は、『正常な人よりも』って言った。つめり、わたしの身体は『正常』じゃないって事。それからなのよ。それが今のこの癖につながってる」

「……」

「先生の言葉は、わたしの中にあるものを生み出したの。一つ目は、さっきの『わたしは正常じゃない』っていう考え。そして、もう一つはある種病気にも見える様な、強い『正しさ、正常な事への憧れ』」

「憧れ?」

「…信じられないかもしれないけど、その頃のわたしは、今みたいに人嫌いでも、太陽が嫌いなわけでもなかった。むしろ、大好きでさえあった。眩しくて、ほとんど見えない視界の中に、たまに見える外で駆け回ってる子達。あるいは、父さんや母さんが見せてくれた、桜や雪、山や海の風景。それを見て、わたしは思ったの。『正常』になって、わたしも太陽の下で、実際にこれを見て見たい。駆け回って遊びたいって」

「それであなたは…」

「そう。日がな一日、この体質を治す方法ばかり考えていたわ。本物のお医者さんが読む様な分厚い本も、難しい論文も苦しくなかった。この先にあの夢見た世界があるんだって思えば。…これが、わたしの考え込む癖の原点。いつも考えてばかりだったから、それが当たり前になっちゃったのね」

「でも…」

「そう、届かなかった。ううん、元からそんな道なんてなかった。でもね、本当に辛かったのはそれだけじゃない。ウワサくらいは知ってるでしょ?わたしが学校に来なくなった理由」

「……」

「カーテンを開けられて、帽子を取られて。痛みと眩しさで苦しんでる時、わたしはずっと考えてた。『どうして、正常な子達がこんな事するんだろう』って。何度考えても分からなかった。わたしみたいにおかしくない、綺麗なものもたくさん見られて、わたしよりずっと幸せなはずの子達なのに」

「……」

「…小三の時。わたしが作っていた、身体の治し方のノート。あれがゴミ捨て場に捨てられてた。雨に濡れて、ボロボロになって。その時に、わたしの中で何かが切れた。泣きながらノートを抱えて、ずぶ濡れになって家に帰った。それで言ったのよ。『もう学校には行きたくない』って」

「……」

「家に引きこもって、考え続けた。どれだけ怖くても、憧れは捨て切れなかったから。でもね、やっぱり無理だった。新しい知識を学ぶたびに、現実はより強く迫ってくる。五年生の時、わたしは遂に『正常』になることを諦めた」

「その後は?」

「『正常』な身体になるのは無理だってわかった。でも、せめて心はそうある事もできる。…わたしの中で、『正常』は『正しさ』に。身体への執着は、心への関心に変わっていったわ」

「……」

「まあでも、その道は前に諦めた道と同じくらい…ううん、それよりももっと辛かった。だって、私は知らなかったもの。目指すべき『正しさ』が何なのか」

「知らなかった?」

「わたしの知っている世界は、綺麗なものがたくさんあって、その中で正常な人達が暮らしてる世界。…幸せなはずなのに、わたしを怖がって、嫌って、追い払おうとする不合理な世界。そんな世界が目指すべき正しいものだなんて、わたしは意地でも認められなかった」

「それから…」

「どこかにカギがある。そう信じて、わたしが頼ったのはまた本だった。きっと世界のどこかには、わたしと同じ様に正しさを求めて、そして、わたしの求める正しさにたどり着いた人が居るかもしれない。そう信じて。…その結果の一つが、あの作文よ」

「あれが?」

「…他人の考えを切り貼りして、自分の考えらしく仕立てて、それっぽく見せただけの粗悪品。見た目だけ取りつくろっても、中身は空っぽだった」

「そんな事…!」

「いいの。…結局わたしは、見つかることのない理想と、ずっとわたしを傷つけてきた現実の狭間で、答えのない問いを考え続けた。あの時染み付いた呪われた癖は、わたしに思考を止めることを許さなかった。どれだけ辛くても、痛くても。…いつの間にか、外の世界は、正常なら人達はわたしにとって、最も嫌いで、怖いものになってた。憧れは、強い劣等感に代わって、あの時の情熱は逃げられない無力感と、それでもすがりつきたい心に冷え切っていった。…ごめんね、だいぶ本筋から逸れちゃったみたいで」

「ううん。それよりも…本当にごめんなさい。今までわたしは、あなたに理不尽に怒って。それだけじゃないわ。あなたがその目をする時、そんなに苦しい思いをしてたなんて、全然分からなかったわ。許して欲しい…なんて、言える資格もないけど…」

 見れば、加々美さんの目には薄く涙さえ浮かんでいる。目にいっぱいに涙を溜めて、滲んだ視界からも、わたしを見つめようとしてくれている。

「…違うよ。加々美さん、むしろわたしは感謝しなきゃいけない。だって、みんなのおかげで、変われたんだから」

「変われた?」

「真太郎と会うまでのわたしは、ずっと内面で考え続けてた。答えの出ない疑問を、誰とも話さずに、自分のごく狭い世界の中だけで。でも、彼が連れ出してくれた。今まで怖くて仕方なかった世界が、ずっと楽しくて…また好きになるくらい。そこで初めて…ううん、久しぶりに『外に向けた』思考ができるようになった」

「外に向けて…」

「彼が好きなゲーム、食べ物、本…。後は、彼にもわかりやすく勉強を教えられるか、なんて…。わたしに対してじゃなくて、彼の為に考えられる様になった。そして、その度に世界は広がっていったわ」

「……」

「学校に来てからもそうよ。真太郎だけじゃない、椎崎君や、あなた。加々美さんと会って…こうしてお話しして、また深く考えて、その度に本で学ぶのとは違う、生きた新しいものが流れ込んできて…。だから、ありがとう。『わたしと出会ってくれて』。こうして、話してくれて。…今は考える事が楽しくてしょうがないの。真太郎が笑顔を見せてくれる度に、椎崎君が新しい事を教えてくれる度に…加々美さんが、意外な一面を見せてくれる度に。幸せで、温かい思考が溢れてくる。眠れずに起き上がって考えてたのも、明日はどんな楽しい事があるのかなって、堪え切れなかったから」

「べ、別に…そんな事…」

 照れた様に、加々美さんは視線を逸らす。

「今でも、『正しくありたい』とは思ってる。だけど、昔とは違う。『わたしは正しくないから、そうならなきゃいけない』じゃなくて、『わたしがそうしたい、そうなりたい』から考えてるの」

 最後に、加々美さんの手を握る。

「…だから、これからも…よろしく」

 ずいぶん締まらない最後のまとめだった。だけど、加々美さんはそう思わないでいてくれて、わたしの手を黙って握り返してくれる。それが嬉しかった。


 こんこん、というノックの音がわたし達を現実に引き戻した。ビクッとして、二人して戸の方を見る。恐らくは、先生が控えめに警告しているのだろう。

「そっか、もうこんな時間だ…」

「そ、そうね」

 わたし達は慌てていそいそと布団に戻った。

 また温かい布団に潜る。今度は素直に眠れそうだった。

「津深さん」

「ん?」

「…明日、またこうしてお話ししない?今度は布団の中で」

「もちろん」

 そしてわたし達は、心地よい眠りの中に落ちていった。

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