第15話 君には秘密の…
「それじゃ、今日の予定を確認するわ」
班を作った時に、ある種自然の流れとして班長の役割を引き受けたのは、やっぱり加々美さんだった。
「今から東大寺見た後、公園散策して、後興福寺の国宝館。大体ゆっくり回ればこのくらいで時間になるから、バスまで戻るわ」
「はーい」
流石、と言うべきか。やっぱり加々美さんは用意周到だった。迷わない様に地図をしっかり用意して、予定表は細かい時間まできっちり書いて作ってある。改めて感心させられた。
そうして行き先を回るのは、大体彼女の予想通りに進んでいった。
わたし達が大仏を見て興奮している時も、あるいは公園で鹿に追われている時も、加々美さんは冷静に予定表と時計を見比べていた。
折角だから鹿せんべいとか買わないの?と聞かれても、別にいい、の一言で済ませてしまう。
ただ一箇所。興福寺の国宝館で見た、あの大きい千手観音像の前では、うまく表現できないけどわたし達と同じ様な、興奮した顔をしていた。
どの辺りがツボに入ったのかはわからないけど、流石に聞くわけには行かないので、わたしだけの秘密。
そんなわけで、わたし達は見学を終えてバスに戻った。見学してる最中は特に感じなかった疲れが、どっしりとのしかかって来る。
「眠い…!」
「どう…かん…」
二人して危うく眠り込みかける。しかし、わたしは何とかして意識を上層へと引き戻した。
数時間前のあの恥ずかしさが、太い綱となってわたしの意識を繋ぎ止めてくれる。頭の後ろに残るあの感触、決して嫌じゃない。嫌じゃないのに、わたしはもう一度味わいたいと思えなかった。
が、残念ながら真太郎はそうした恥ずかしさを味わっていない。なので、眠気に対抗する事などとても出来なかった。
バスが走り出して少しした後、彼はしばらく瞬きを繰り返して抵抗していたが、やがてその間隔が長くなり…眠りに落ちた。
彼の身体から力が抜けて、すやすやと言う寝息が聞こえる。そして、彼の頭がわたしの肩にゆっくりと落ちてきた。肩の上に乗る彼の寝顔は、普段見るよりもずっと幼く見える。安心し切った寝顔、それを見ていると、その温度と相まってこっちまで気が緩んできてしまう。
そうして少し頬を緩めたところで、ようやくわたしは周りからの視線に気がついた。どこか微笑ましいものを見る様な、生温かい目線。かと言って彼の頭を退けるわけにもいかなくて、結局わたしは宿に着くまでひどくいたたまれない時間を過ごす羽目になった。
京都まで着いた頃には、秋ということもあってすっかり日が落ちてしまっていた。
「起きて、ほら!」
「ん、あ、おはよ…」
そののんびりした顔を見ると、少し腹が立って来る。こっちの気も知らないで、周りの目線をもっと気にして欲しい。
「ほら、津深さんが重たそうだろうがよ」
椎崎君が真太郎の背中を叩く。これで何とかしゃんとしたみたいで、彼は宿の方へと歩いて行った
バスを降りて、目の前の旅館に足を踏み入れる。手元には、バスから積み下ろした荷物を抱えて。運の良いことに、わたしは積み下ろしのところで自分のを引き当て、お陰でノンストップで自分の部屋まで行くことができた。
少し古いのだろうか、キシキシ言う階段を登って三階の隅の部屋を目指す。わたしと彼女にあてがわれた部屋は、他の部屋よりも小さめで、それこそ本当に二人三人用なのだそうだ。
引き戸を開けて部屋に入り、トイレや洗面所のある狭い廊下を抜けて、電灯をつける。光が多少眩しいけど、まあ許容範囲。
部屋の大部分は畳敷きで、真ん中に四角いちゃぶ台、入った左側には壁掛けのテレビ、右には浴衣が何セットか入っているクローゼット、そして後ろ側には布団の入っている大きな押し入れの襖がある。
窓からは保存された古い建物が並ぶ街と、山から登る月がうっすらと見えた。どうやら、あたりの部類みたい。わたしが荷物を置いて考えていると、部屋の扉が開いた。
「入るわよ」
荷物を抱えて入ってきた彼女。加々美さんは、相変わらずぶっきらぼうに言った。
加々美さんと部屋が同じになるのを知ったのは、ずいぶん前のことだけど、その時は結構驚いたのを覚えている。別に彼女と一緒になるのに驚いたわけじゃない。一番の驚きは、わたしと彼女の二人きりで部屋を一つもらえたことだ。
先生によると、学年の女子の人数の都合と、わたしの事情に多少配慮した結果らしい。元から五、六人で一部屋の編成にすると、二人三人の端数が出てしまい、それなら丁度というので、わたしと彼女が同じ部屋になったというわけだ。
「よろしく」
「ええ、こちらこそ」
加々美さんも同じ様にリュックと大きな旅行カバンを畳に置く。そしてカバンを開けて、中からお風呂で使うクシなんかのセットを出していた。やっぱり几帳面なのは家でも同じみたいで、彼女のカバンの中には、下着や着替えの類がきっちり丁寧に畳んで入れてある。
わたしもわたしで支度がある。後もう少しで入浴の時間が来てしまうから、急がなくてはいけない。
さて、案内板の表示に従って大浴場まで来てはみたけど、どうしたものか。一応手には肌用の薬と下着、それから着替え用の浴衣に髪のクシをまとめた袋、それからミニタオルとバスタオルを持ってきている。
だけど、わたしはそもそも大人数で大きなお風呂に入った経験なんて一度もない。銭湯にさえも行ったことがないのに、どうして勝手が分かるだろう。しかも、流石に事が事だから真太郎にも相談できない。この場ではある種本当に一人ぼっちだった。
仕方ない、覚悟を決めよう。入浴時間もそこまで長くないから、待っていたって仕方がない。わたしは息を吸って、女湯ののれんをくぐった。
大浴場の戸を開けて中に入ると、湯気と熱いお湯の匂いがして、頭が少しふらつく。目の前の大きな浴槽では、先に来た数人の女子がもう浸かっていて、お喋りに興じている。
ぺたぺたと足音を立てながら、浴場の端っこにあるシャワーブースへ移動した。多分浴槽に浸かっても問題は無いと思う。確かに家ではぬるま湯なのだけど、あくまでそれは念を入れてだから。でも、ああして喋っている子達の側に寄るのはまだ怖い。こうして旅行について来ることは出来たけれど、やっぱり自分から手を伸ばす事にはまだ強いためらいが抜けない。ぬるくしたお湯を桶に溜めて、顔を洗う。水面は、まだ怖がりな性格が抜けない女の子を映していた。
お風呂の空気にあてられて、少しぼんやりしていたのか、気がつくとクラスの女子はほとんど浴場に来ていて、すっかり辺りは賑やかさに満ちていた。
早く身体を洗って出よう。そう思って、わたしは近くにあったシャンプーを手に取った。そして、あらかじめ湿らせておいた髪の毛に馴染ませる。だけど、どうも上手く行かない。どこかで髪が絡まっているのか、上手いこと全体に広げられない。どうしようか、と戸惑っていた時、
「ちょっといい?」
明瞭な声が話しかけてきた。目をつぶっているから、誰かは直接見られない。だけど、聞き覚えのある声だった。
「加々美さん?どうかしたの?」
正直今は無理だ。後にして欲しい。そんな意味を込めて答えた。だけど、彼女の答えは予想外のものだった。
「長い髪に慣れてないみたいだから、洗うの手伝ってあげようと思ってね」
そう言って、近くの椅子を引き寄せて、わたしの後ろに座った。
「本当に?」
「だって見ていられないもの…一旦やり直したいから、シャンプー流すわね」
加々美さんは、シャワーをとって弱い水流でシャンプーを流し落としてくれた。
「一旦目を開けていいわ」
目を開けると、彼女が後ろに座ってわたしの髪の毛を整えてくれるのが、鏡越しに見える。
「まだ髪の毛伸ばし始めて時間経ってないんじゃない?」
「まあ確かに。五月ごろから伸ばして来てたから。それまでは男の子と殆ど変わらない感じだったかな」
「ふうん。だとしたら、あなた大分伸びるペースが早いみたいね。半年ちょっとでうなじ越えるまで髪が伸びるなんて、あんまり見ないわ」
「へえ。何というか、肌以外にも体質があるなんて知らなかった」
「今まではどんな風に洗ってたの?触った感じ、結構良い髪質に思えるけど」
「うーん、こう特に意識してなかったな。わしゃわしゃって昔はやってたけど…」
「良くないわね。やり方が荒かったら、髪の毛を傷めちゃうわ。折角元の髪質が良いんだから、きちんとケアした方がいいわね」
加々美さんは渋い顔をして見せる。
「じゃ、今日は手伝ってあげるから、自分でもきちんとやり方調べてね」
「うん、ありがとう」
優しい手つきで加々美さんはわたしの髪全体にシャンプーを広げて、手櫛を通していく。
「こうして見てみると、あなたって本当に細いのね」
「細い?そうかな。わたしには、加々美さんの方がスタイル良く見えるけど」
「ああ…いえ、そういう事じゃなくてね…」
何となく彼女の意図がわかった。多分、細いっていっても悪い意味なんだろう。まあ、一応ちゃんとご飯は食べてるから大丈夫なはずだけど…。
「シャンプー流すわね」
また軽くシャワーでシャンプーを流してくれる。これでお終いかな、と少し物足りなく思っていると、
「じゃ、次。トリートメントもするわね」
「え?そんなのもするの?」
「むしろ、今までしてこなかったのね…」
そういえば、確かに母さんから教わった事はなかった気がする。
「ところで、どうして髪を伸ばそうって思ったの?別に今時、ショートでも変な目で見られないわよ」
「うーん、母さんが綺麗なロングヘアだから…やっぱり、そっちの方が良く見えるのかなって」
「ああ、真太郎君ね」
「なんで!?」
唐突に彼の名前を出されて、驚きのあまり後ろを向いてしまう。
「ちょっと、まだ終わってないんだから。頭動かさないで」
「う、ごめんなさい…」
「まあでも、彼もそうだけど、あなたも大概なのね。お互い惚れ合ってるじゃない」
「違うよ、別にそんなんじゃ…」
言葉の終わりは急速に小さくなって、聞こえなくなってしまう。否定しようとしたのに、できない。そんなんじゃ「ない」。その明確な否定がどうしても口から出なかった。
「そ、あくまで友達ってわけね」
「まさか、加々美さんまでそんな事言い出すとは思ってなかった」
「別に。あっちで話してる子達くらい興味があるわけじゃないわ…それじゃ、流すわね」
トリートメントを流して、軽く頭を振る。目を開けると、髪は自分でやるのよりもずっと綺麗に見えた。
「いくらミディアムくらいでも、ちゃんとケアしなきゃダメよ?」
「はーい」
「ちなみに、湯船には入ってくの?」
「ううん。薬塗らなきゃだし、もう出る」
「そう。じゃ、ドライヤーもちゃんとかけなさいね」
そう言って加々美さんは、湯船の方に歩いて行く。その後ろ姿をわたしは、かなりの驚きと、素直な感謝と共に見つめていた。
浴場を出て、ロッカーから浴衣を出す。流石にそれだけというのはためらわれるから、下着の上に浴衣を着て、更に袖の長い羽織を着る。
その後鏡台の前に座って、まずは薬を塗る。服を着る前に塗った方が便利だとは思ったけど、流石に裸や下着のままで長い時間を過ごすのは気が引けた。
普段から外に晒す顔だとかに念入りに塗って、それが終わったら髪にドライヤーをかける。伸ばした髪の毛は前髪が肩下、後ろ髪がえりを越えて、それより少し長く伸びている。それをひっくるめて前に回して、軽く拭いた後、櫛を入れながら乾かす。真っ白な肌のところどころが、お風呂の熱で上気していて、桃色に火照っている。
いや、きっと熱だけじゃない。もっと違う何かのせいだ。そして、それが誰のせいなのか、まだ分からない程わたしは馬鹿じゃない。でも、それを口に出したり、思い浮かべたりすると、もう抑えきれなくなりそうで怖かった。
髪を乾かし終わって、羽織を引っかけると、戸を開けて中の女子が次々に出て来る。あんまり長風呂する人はいないみたいで、走行しているうちにほとんどみんな浴場から出て来た。
この時面白かったのは、女子によって髪の毛の対応がかなり違った事だった。もちろんドライヤーの台は結構みんな並んでいたけど、乾かすのも念入りにする人と、おざなりに済ませる人、そもそもショートだから普通に拭くだけで済ませる人。色々と居て、傍目で見ていても飽きない。
といっても、割とみんな早々と着替えを済ませて出て行ってしまう。時間にして十分か、それよりも短いだろう。もう脱衣所はわたし一人になっていた。
だけど、わたしは出て行くつもりはなかった。待っていたから。
ガラガラと音を立てて、また引き戸が開いた。
「待ってたの?」
ロッカーから浴衣を出して、下着と一緒に身につけながら、加々美さんは言った。
「長風呂なんだね」
「別に。委員長として、忘れ物とか、浴場の片付けとかをしてただけよ」
手早く服を着ると、彼女はドライヤーで髪を乾かして、手入れを始める。わたしよりもずっと長い黒髪が、風で美しくなびいた。
「で、どうして待ってたの?」
「ん?折角だし、もっとお話ししたくて」
「お人好しなのね。前にあんな態度とったのに」
そう言いながら、テキパキと手入れを終わらせる彼女。程なくして、いつもの通りヘアゴムで髪をまとめて、椅子から立ち上がった。
「まあ、わたしを待ってるのは勝手だけど、あなただけが待ってたとは思わない方がいいわね」
「?」
二人でのれんをくぐる。男湯と女湯の前には風呂上がりの休憩スペースみたいなものがあって、座るためのソファと低いテーブルが置いてある。その奥には畳敷きのもっとちゃんとした部屋があって、普段はお風呂上がりのおじさんやおばさん方で賑わっているらしい。
「お、やっと出て来たね」
聞き覚えのある声がソファの方から聞こえた。
見れば、そこには浴衣姿の真太郎と椎崎君が居て、その前にはマルとバツが並んだ紙が何枚も散乱している。
「長風呂なのかな、二人とも」
わたしはお風呂上がりなのを思い出して、途端に恥ずかしさが戻ってくる。浴衣をはだけさせてる感じはない、けれど、お風呂上がりの姿を見られるのは何故かとても恥ずかしい。わたしはほんの少し移動して加々美さんの影に隠れた。
それを察してか、彼女が怒った様子で返事をする。
「女子にお風呂の事を聞くなんて、良い度胸してるじゃない。それに、女湯の前で待ち伏せなんて、非常識にも程があるわ」
「ごめんなさい」
意に介さず笑う椎崎君とは対照的に、しょぼくれて頭を下げる真太郎。それを見てると、恥ずかしさよりも微笑ましさの方が勝って、あまり気にならなくなってしまう。
「二人して待ってて、やる事がマルバツゲームって…よっぽどひまだったのね」
「笑わないでよ。休憩所の方じゃわかりづらいと思ってここにしたのに」
「それにしたって…!」
「もう」
わたしは妙にそれがツボに入ってしまって、口を押さえてくすくす笑ってしまう。その様子に彼は、ついさっきのしおらしい態度はどこへやら、口を尖らせて抗議してくる。それを見てると、やっぱり安心だ。彼にしおらしいのは似合わないから。
「まあいっか。この後休憩室に付き合ってもらうからね」
「はーい」
加々美さんはえー、と言いたげな顔をしていたけど、まあいいや。わたしは彼女の手を引いて、無理矢理休憩室に連れて行った。
休憩室は一段高い畳敷きの部屋と、その前には卓球の台が置いてあって、浴衣姿の生徒や、普通の私服の生徒が男女問わず何人かのんびりと休んでいた。
「アオイさん、久々に勝負でもしようよ」
部屋に入ると、彼が笑って言い出した。なるほど、そのためにわたしをここへ連れて来たのか。見たところ、将棋のセットやトランプも何セットがあるみたいで、ゲームのネタには事欠かない。
「いいよ。何で勝負する?将棋?トランプ?まあ、わたしが勝つとは思うけどね」
旅行先と言う事もあって、気分が高揚していたのかも知れないし、あるいは単なる自信の発露なのかも。この時わたしは、旅行先でも真太郎と遊べる事が嬉しくて、どんなゲームを提示されても二つ返事で受けてしまうというくらい、心が熱くなっていた。
「よーし。普段は負けてるけど、今日は違うからね」
そう言って彼は手近の将棋盤を引いて来て、わたしの正面に座る。
「勝負だよ」
「望むところ」
椎崎君と加々美さんが、やれやれ、と言いたげに首を振る。確かに、馬鹿な真似なのは認める。だけども、それだからこそ楽しい。
結果として、わたしと彼との対局は、夕食の時間が来るまで続いた。結果は…まあ、彼のデザートが半分無くなる事になった。
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