第9話 君との約束

彼は黙って俯いている。わたしの不安を見透かしているのだろうか。少しして、彼が口を開いた。

「…何というか、君は勝手だね」

ほんの少しの非難が込められている。覚悟はしていた。だけど、彼から言われるとぐらりと心が揺れる。

「ごめんなさい」

「…まあでも、悪い気はしないかな。一緒に来て欲しいって君に言われるのは」

彼が薄く微笑む。

「それじゃあ…」

「だけどね、一つだけ。交換条件がある」

喜ぶのは少し早かった。今度は彼がわたしに求める番だった。わたしの目を見据えて、彼がまた口を開く。

「もし、この学校に受かるための勉強をするとしたら、今みたいに週一回か二回じゃとても足りないよ。もっと頻繁に会って、勉強教えてもらえないと難しい」

「それは…分かってる」

「だからさ…」

彼は言った。

「君も学校に来てよ。学校の自習室とかで、一緒に勉強しよ?」

その時、わたしは何を思っただろう。考えれば、迷う余地なんてどこにもない。わたしが学校に行けば、彼は一緒に来てくれる。その程度の事も出来ないで、彼に頼み事をするなどおこがましいにも程がある。

わかった。その一言でいい。なのに、わたしの口は動かなかった。

一瞬だけ彼の姿が歪む。学校、学校。その言葉はわたしの心の中にズブズブと入り込んだ。彼の顔がどろどろに溶けていく。周りの部屋も。真っ暗の中に飲まれる感覚。それ程までに、わたしのトラウマは深かった。

「…わ、わ…」

返事が出来ない。口の中が乾き切って、どこか掠れた声しか出ない。わたしは、わたしは…。

「ごめん」

何かの感触にびくりと一瞬体が跳ねる。何かと思ったら、彼の手が私の手を覆っていた。

「君がすごく辛い思いをしたのに、あんな気軽にいうべきじゃなかったね」

本当にごめん、と彼はもう一度心底悲しそうに頭を下げた。違うよ、君は悪くなんてないよ。そう言いたかった。

「今日はもう帰るよ。またの機会に、高校の事は話そ?」

行かないで。帰らないで欲しい。声は出ない。相変わらず、わたしは臆病だった。だけど、だけど…

「待って!」

体が動いた。彼の手を握って、直接引き止める。力は全然入らなかったけれど、彼を止めるには十分だった。

どうしたの?と気遣う視線。そこに向けて顔を上げる。そして、決然とわたしは告げた。

「わかった。わたし、行くよ。二学期の始業式から、学校に行く」

「本当に?本当に良いの?」

「勿論。二言は無いわ。だけど…」

このくらいで妥協しよう。そのつもりで、彼に言った。

「わたしと一緒に登下校して欲しい。まだ、一人じゃ怖いから…」

少し俯く。彼の顔を見るのが怖い。

「『アオイ』さん」

名前を呼ばれた。はっとして顔を上げると、彼が言った。

「勿論。君と一緒に行くつもりだったよ」

良かった。自然に言葉が溢れる。同じ気持ちだったことへの嬉しさで、胸が弾んだ。

二学期が始まった。わたしにとっては久しぶりの学校で…彼にとっても、大切な時間だ。

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